「わあっ…ここなのね、こないだお姉様と来たところっ!」
目の前いっぱいに拡がるなだらかな緑に誘われ、スクルドは思わず駆け出していた。
お気に入りのパーカーにキュロットパンツ姿といった動きやすい格好である。躍動を遮るものはなにもない。両手を飛行機の主翼のように拡げ、元気いっぱいに高原の風を受けて走り…クルリとスピンターンして三人に手を振った。
森里屋敷で一騒動あった翌日。四人は、螢一とベルダンディーが先日訪れた高原牧場へとハイキングに出ていた。
朝早くから螢一が一方的に提案したことであったが、特に予定もなかった三人は拒否する理由もなく、二つ返事で小旅行を承諾したのである。
始発列車に間に合うように出発したおかげで、放牧場にはお昼過ぎに到着することができた。その間電車の乗り換えが二回、高原バスへの乗り換えが一回。
「とりあえずお昼にしましょう。あり合わせで作ったものばかりですけど…」
淡い色の麦わら帽子に若草色のワンピース姿のベルダンディーは適当な場所にレジャーシートを拡げ、螢一が持っていたバスケットを開けた。中から意外なほど多彩なメニューがたくさん取り出される。
アルミホイルに包まれたおにぎりだけでも梅干し、焼き鱒、焼き鱈子などのトッピングで、そのうえ海苔ととろろ昆布の二種類に分けられている。別のアルミホイルには醤油や味噌の焼きおにぎりまであった。形も丸から三角、俵形…それぞれの好みに応じてこしらえてあったりする。
おかずの詰め込まれたタッパーウェアーを開けると、中には卵焼き、ウインナー、ミニハンバーグに鶏の唐揚げ、ミニトマトに胡瓜やレタスなどの生野菜など。別に分けた入れ物にはたくあんやしばづけなどの漬け物まで用意してあった。
お弁当の他には水筒や果物が納められており、見慣れない小箱はアイスボックスで、中にはハーゲンダッツのミニカップが二つ入っていたりする。これはやっぱりスクルドのものらしい。にわか準備とはいえ、よくベルダンディーはここまで用意できたものだ。
「遊ぶのは腹ごしらえをしてからだね。今日は牛舎の方も見学させてもらおうよ。」
シンプルなラガーシャツにジーンズといった軽装の螢一は、レジャーシートに腰を下ろしながらベルダンディーの準備を手伝った。
一番大きなレジャーシートを用意してきたので、四人でごちそうを囲んでくつろげるほどのスペースができる予定だったのだが…思っていた以上にバスケットからごちそうが出てくる。本当にあり合わせなのだろうか。こんなに食材の買い置きがあったのか、と螢一は自分ながらに不思議に思った。
「ほらスクルド、お昼にするよーっ!戻っておいでーっ!」
遠く向こうまで駆けていったスクルドを呼びかけながら、ウルドも二人に倣ってレジャーシートに腰を下ろした。彼女はビスチェにデニムのベスト、カットジーンズという日焼けお構いなしといった格好だ。
ウルドは肩に掛けていたリュックを牧草の上に降ろし、どっかとあぐらを掻いてレザーキャップを取った。ちなみにリュックの中身はグローブとボールだ。
「ねえ螢一…なんでまた急にハイキング行こうなんていいだしたのさ?」
水筒を引き寄せて番茶を注ぎ、ずずず、とすすってからウルドは螢一に聞いた。
彼女は螢一が留守電相手に休暇の申請をしているところを見ている。
朝は準備に追われて慌ただしかったせいもあり、聞きそびれてしまったのだが…仕事を休んでまで行くともなればどうにも気になる。
「そうよ、なにも平日にムリヤリ行かなくたって、ちゃんとお休みの日に行けばいいのに。そうしたらお姉様のごちそうだってもっともっとバリエーションが増えてたんだよ?」
戻ってくるなり卵焼きをひとつつまみ食いして、スクルドも螢一を見た。ごちそうのバリエーションもさることながら、ベルダンディーのごちそうの準備をあまり手伝えなかったことが、実のところスクルドには不満らしい。
ベルダンディーも番茶を給仕しながら螢一を見つめた。言葉には出さないが、彼女もまた事情を知りたそうな顔をしている。
三女神の視線が集まったことを確認してから、螢一は気恥ずかしそうにあごを指先でカリカリしながら説明を始めた。
「いや…理由という理由はないんだ。なんとなく、といえばなんとなくなんだけど…。で、まあ今回あんなことがあったわけだろ?なんだかオレひとりが三人を掻き回しちゃったみたいでさ…」
「罪滅ぼし…ってヤツ?」
「もしかして…ウルドとあたしに気を使ってるつもりなの?」
ウルドとスクルドの目が皮肉っぽく笑っている。螢一は熱い番茶を一息に飲み干し、苦笑しながら弁明した。
「そ、そういうつもりは…まぁ、ちょっとあるかもね。でもさ、たまには家族で旅行してみたいなって思ったんだよ。四人一緒に楽しくって、なかなかないじゃないか。それに、思ったときに行かないとズルズル後回しになっちゃうモンだしね。たとえ仕事のある日であったとしても、オレはやっぱり家族の絆を大切にしたいから…」
「なぁにが家族の絆よ。ふふ、上手く逃げたわね。」
「キザなセリフ!お姉様の点数を稼ごうとしてもダメなんだからねっ!」
思ったままのセリフだったのだが、それでもウルドとスクルドには通用しないようだ。螢一は苦笑しきりで、ごめん、と頭を掻くしかなかった。
そう言いながらも…スクルドは螢一に寄りかかり、ひょい、と摘んだミニハンバーグを彼の口に押し込みながら微笑みかけてきた。普段と変わらぬ、真夏のひまわりのような明るい笑顔。澄んだ黒い瞳も爛々と輝いている。
「たまに…本当にたまぁになんだけど、そんな螢一、大好きだよ!」
「スクルド…」
ミニハンバーグをモグモグと飲み込み、つられ笑顔を浮かべた螢一は小さな女神の頭を抱え、愛おしむように撫でてあげた。くすぐったそうに目を細めるスクルド。
「こらスクルド!なにあんただけ螢一に媚びてんのよっ!ちょっと退きなさい!」
「あ、なにするのよウルドッ!!」
螢一の正面で成り行きを見守っていたウルドであったが、さすがにベタベタする二人に妬けたらしい。スクルドを突き飛ばすようにして、強引に二人の間に割って入る。
「わわっ、ちょ、ウルドッ!むねが、むね…むぐぐ…」
乳房の谷間に螢一の腕をむにゅ、と挟み込みながら、ひょい、と摘んだウインナーをくわえさせる。ウルドもまた、穏やかな微笑を浮かべて見せた。
「上手く逃げてるけど…家族っていい言葉。いかにもあなたらしい、良い言葉だわ。」
「ウルド…」
螢一はウインナーをモグモグと飲み込み、彼女の背中を抱きながら思わず見つめ合ってしまった。陶酔するように、ウルドの濃紫の瞳がきらめいている。求めるようにヒクン、と動いた唇がゆっくりと螢一に迫り…
「いい加減にしなさいよっ!この管理限定の色魔!」
「あたっ!なにするのよっ!お、おまけに今、なんてった!?」
「あら、聞こえなかった?この管理限定の色魔って言ったのよっ!」
もう少しで唇どうしが接触する、というところでウルドは背後から銀色の髪を引っ張られ、螢一から引き離された。
ぷう、と頬を膨らませているスクルドを睨み付け、ウルドは立ち上がってうなり声をあげる。スクルドも真っ直ぐにウルドを睨み返し、負けじとうなり声をあげた。
「言ったわねえ…!?」
「言ったが悪い…!?」
そのままキスしてしまいそうなほど顔を近づけ、今にも取っ組み合いの大ゲンカが勃発しそうな雰囲気が色濃く漂う。螢一はなんとか二人をなだめようと、まあまあ、と二人の間に割って入って説得を試みた。
「二人ともケンカはやせよ。バスの中じゃあんなに仲良くしてたじゃないか。」
「な、仲良くなんてしてないわよっ!!」
「うわわぁ…っ!」
乗り合いバスの最後尾のベンチシートを占拠し、ウルドとスクルドが『茶摘み』や『あっちむいてホイ』などのミニゲームで大はしゃぎしていたことを螢一は引き合いに出したのだが…どうにも逆効果であったらしく、二人は瞬間湯沸かし器よろしく、ボッと顔じゅう真っ赤になって異口同音に怒鳴りつけてきた。
「姉さん…スクルド…」
「ハッ…!?」
一瞬でウルドとスクルドの表情が引きつる。
困惑してオタオタする螢一の向こうで…黙ってやり取りを見ていたベルダンディーが押し殺したような低い声でつぶやいたのだ。
怒っている。というよりも、すねている…。
ベルダンディーには、せっかくの家族旅行で悶着を起こそうとしている二人が悲しくもあったが、なにより二人が螢一とイチャイチャするのがおもしろくないのである。
睨むような瞳にはしっかり涙が潤んでいた。眉根にしわを寄せ、唇をきゅっと噛み締めて…今にも焼けたヤキモチが破裂しそうな危険を孕んでいる。
「あ…あっ、ねえスクルド?まだお腹減ってないでしょ?ちょっと向こうでキャッチボールでもしてこない?」
「そ、そ、そうね!お姉様、螢一、ちょっと行ってきまーすっ!」
怒らせたベルダンディーの怖さは先日の件もあって十分わきまえている。強引に笑顔を浮かべて顔を見合わせると、ウルドとスクルドは手にグローブとボールを携え、大急ぎで向こうに走り去っていった。
「ふう…。わ、ベルダンディー…お、怒ってる…?」
「えっ?あ、わ、わたし…そんな顔してましたか?」
安堵の息を吐いて振り向いた螢一の声に、ベルダンディーは片手で口元を押さえ、ぽっと頬を染めた。
「ヤキモチ焼いてるって、顔に書いてあったよ。」
「あ…やだ、わたし…すごい嫉妬深くなってる…」
自分の抱いていた感情に気付いたのか、ベルダンディーは恥じ入るようにうつむいた。螢一は彼女の横に寄り添い、元気づけるように肩を抱いてあげる。
「いいんだってば。それだけオレのこと、想ってくれてるってことじゃないか。」
「ごめんなさい…。」
ベルダンディーは安らぐように螢一へと寄りかかった。今の一瞬でせつなさが募ったのか、そっと唇までせがんでくる。
ウルドとスクルドがかなりの遠方でキャッチボールを始めていることを横目で確認してから、螢一は彼女の唇に自らのそれを重ねた。
甘えただけのキスは短く、そっと吸い付き合うだけで…。ベルダンディーは満足の息を吐きながら唇を離した。ごめんなさい、ともう一度謝る。
「あの実…リバティー・ベルなんですけど…」
「ん…?」
ふいに語り始めたベルダンディーに、螢一は急かすことなく言葉の続きを待った。
「人を愛する歓びを教えてくれる…そんな実なんじゃないかなって思うんです。姉さんは試してみたらしいですけど…独りぼっちでずうっとあんな状態に陥っていたんだとしたら、寂しくて、虚しくて…胸が張り裂けるほどつらかったろうと思います。」
「なるほどね。だから…人を好きになってしまうように働きかける。一欠片の好意を何倍にでも増幅して、ともすれば愛情にまで昇華させてしまう…。」
「強制的に欲情させたとしても、ですけどね。」
「なるほど…。気持ちよくなるだけの実じゃないんだ。一人で飲んだりしちゃいけないものなんだね。ずっとオナニーの虚しさを無理強いされるようなものだもんな。」
ベルダンディーの推察に相槌を打ちながら、螢一も彼女の意見に同意した。『リバティー・ベル』という、効果に似合わない素敵な名前が付けられた由来もなんとなく想像できるような気がする。
「ありがとう、ベルダンディー…。」
「え…?」
螢一はベルダンディーの身体を真っ直ぐに抱き締めた。ふいに高原の涼風が吹き抜け、彼女のグレイの髪が揺れる。
「あの実を飲んでくれたから…オレ、ベルダンディーのすべてがわかった。君の想いも、なにもかもすべて…。だから、本当にありがとう。もう絶対に離さない…!」
「螢一さん…!」
ベルダンディーも弾かれたように螢一を抱き締め、二人して歓喜の抱擁を交わし合った。たちまち嬉し涙が一筋、頬を伝う。
ちゅっ…。
涙もそのままに目を閉じ…強く唇を重ねた。
先程とは意味合いが違う、長い長いキス。
愛しさの奔流が胸の内側から噴き上がり、唇の薄膜を通過して互いの内に溶け合うと、心の絆は一層強く結びつく心地であった。
「…ねえ、さすがにお腹、ぺっこぺこなんだけど…?」
「仲は認めてあげないでもないけど、あんまり見せつけないでほしいなあっ。」
突然耳に入ってきた声に螢一もベルダンディーもあからさまに驚いた顔で、耳まで真っ赤になって振り向いた。
目の前には程良く汗の粒を浮かべたウルドとスクルドが立っていた。よっぽど投げ込んできたのか、ウルドはデニムのベストを脱いでしまっている。スクルドは現場を目撃してしまったせいもあってか、紅潮した顔をぷい、とそらしている。
「あ、あの…ごめん…。」
「ごめんなさい…。」
ぱっと身体を離し、申し訳なさそうな上目遣いで螢一とベルダンディーはウルドとスクルドに頭を下げた。家族旅行と言っておきながら、すっかり二人だけの世界に浸ってしまったことが恥ずかしくてならない。
ウルドとスクルドは顔を見合わせて苦笑したが…それきり文句を言うでもなく、レジャーシートに腰を下ろしてそれぞれにごちそうを手に取った。
「じゃれあうのは帰ってからゆっくりどうぞ、とにかくお昼お昼…ん、いい塩加減!」
「あはっ!一汗かいた後のお弁当は格別!!さ、お姉様も螢一も食べよ食べよ!」
ごちそうの味を飾らない笑顔で感想にし、健啖然としてパクつき始めるウルドとスクルド。そんな二人に螢一とベルダンディーも顔を見合わせ、くすっと笑った。
螢一もベルダンディーも…ウルドもスクルドも、笑顔が嬉しい。
すっかりありふれてしまった日常の中で埋もれてしまっていたが、普段通りのなにげない笑顔が、お互い、こんなにまでかけがえのないものと思えるようになっている…。
なんだかんだ言っても、家族としての共同体を四人が四人とも必要としている証拠であった。
螢一とベルダンディーの絆は特別強まったが…四人家族としての絆は堅固なままで何一つ変わっていない。
だから…きっとこれからも、四人の間では誰もよそよそしく振る舞う必要はないのだ。
あらためて実感した幸福に、自然と四人は和やかさを増してゆく。
「じゃあベルダンディー、いただきまぁす…って、スクルド!卵焼きばかり食べるなよ!」
「べーっだ!お姉様のごちそう、誰がどれだけ食べようが勝手でしょ!」
「はぐはぐはぐ…ベルダンディー、焼きおにぎりもうひとつ頂戴。」
「ふふっ…姉さんたら、もっとゆっくり食べないと胃に悪いわよ?」
四人の楽しげな笑声が高原のそよ風に乗り、丘陵に流れる。
不思議な力で引きつけ合う四人に…空は澄み切って青かった。
雨雲を追い越した彼らの心と同様、澄み切って青かった。
(おわり)
(98/11/6update)