はじまるシアワセ

01

作者/大場愁一郎さん

 

 この国には、もはや四季というものが存在していない。
 もちろん一年を三百六十五日として数えてはいるが、それはあくまで時間上でのことだ。たとえ何月であろうと、この国は一年を通して暑い。まさに常夏状態である。
 シンジもそんな環境には慣れていたはずなのだが、今日ばかりは愕然とした。
 暑い。本当に暑い。
 シンジはハンカチで額の汗を拭いつつ、困惑の面持ちで辺りを見回す。
 ここはレイの部屋の前だ。埃っぽい廊下には人気が無く、ただ蝉の声と、遠く工事現場の作業音が聞こえてくるのみである。先週のこの時間と、変わったところは何もない。
 実際、今日の最高気温も先週とほとんど変わりはなかった。それでもシンジが暑いと思ってしまうのは、この五日間の軟禁生活のためであった。
 空調が完備されたネルフ本部での生活は、若々しい身体から屋外の過酷な環境をあっけなく忘れ去らせてしまう。人間という生き物は、やはり楽を覚えたらどんどん鈍ってしまう生き物なのだ。
 用意されたスポーツジムで、体育の授業以上のハードトレーニングをこなしているから、体力や筋力まで落ちてしまうということはない。むしろ以前よりも筋肉質となり、微妙に男としてのたくましさを備えてきているほどだ。
 ところが、そうして備わった筋肉が熱を持つために、シンジは余計に暑く感じてしまうのである。もちろん、暑気に対する訓練なんぞはやっていない。
 勉強に運動に一生懸命になった後は、温かなシャワーを浴び、美味しい食事を取り、快適な部屋でぐっすりと眠る。
 そんな、見方によっては素晴らしく恵まれた環境で、シンジはこの五日間を過ごしてきたのだ。自由の身になったとはいえ、やはり暑さだけはつらかった。
 それでも、シンジはこの土曜日を待ち侘びていた。
 アスカと別れた月曜日から、夕べの夜まで。シンジはワクワクとした期待感に胸を逸らせながら、五日間の軟禁生活を送ってきた。
 そのぶん一日一日が楽しくて、勉強にも運動にも、ネルフの男性スタッフとのおしゃべりにも充実感を得ることができた。寂寥と緊張に苛まれ続けた先週とは大違いである。
 この五日間で、シンジが寂しさを募らせることは一度もなかった。
 もちろん、あの二枚の写真には毎日欠かさず朝晩の挨拶をしていた。しかしそれはあくまで、写真の中の少女たちに対するシンジの気持ちによるものだ。
 アスカには両想いになれた幸福感と、心からの愛情を込めて。
 レイには何気ない親しみと、それ以上に親しくなりたいという期待感を込めて。
 その期待感を現実のものにしたくて、今日のシンジはあれこれと頑張ってみた。
 すっかり親しくなったいつもの男性スタッフに中学校の近くまで送ってもらうと、シンジはすぐにレイのアパートへ向かわず、まずは商店街へ赴いた。
 そこでケーキをいくつかと、小さな花束、それを生けるフラワースタンドを買った。
 ケーキは、いつだったかアスカにおごらされた喫茶店のものだ。レイの嗜好はわからなかったが、それでも甘いものは嫌いではないだろう。
 そう信じつつ、イチゴショートとモンブラン、それと数種類の果物が贅沢に飾られたプリンセスシュークリームを二つずつ買い求めた。おやつか、あるいは夕食のデザートとして一緒に食べようと思ったのだ。
 小さな花束は、少し探して見つけたフラワーショップに飛び込んで購入した。
 これはレイに対するプレゼントというわけではなく、彼女の部屋にせめてもの飾り気を備えたかったのだ。殺風景な室内での唯一の彩りが、血の付着した包帯ではいくらなんでも悲しすぎる。もちろん、贈って喜んでもらえたらそれに越したことはない。
 ガーベラ、トルコキキョウ、キンギョソウなど、それぞれ名前までは分からなかったが、シンジは見た目にかわいいと思ったものを自分で選んで購入した。
 いきなり真っ赤なバラを贈っても、アスカならともかく、レイはその鮮やかな色合いに戸惑うような気がする。なにより、真っ赤なバラとレイの組み合わせはどうにも思い浮かばない。
 そこでシンジは白い花を中心に選んでみた。フラワースタンドも同じ店で、やはり第一印象だけで選んだ。
 きっと、レイの部屋には花を生けるものなど無いし、あってもビーカーくらいであろう。それではさすがに花もかわいそうだ。
 あれやらこれやらとけっこうな出費ではあったが、それでもシンジは後悔していない。
 いくら仕事とはいえ、やはり子どもを作るのであれば、少しでも楽しくしたかった。ましてや相手は、日頃から親しくしているレイなのだ。セックスするという特別な任務をきっかけに、より親しくなれたら幸いだとも思う。
 もしかしたらこの気持ちも、ケーキも花束も、単に独りよがりなのかもしれない。
 レイはあくまで、受胎することだけを望んでいるのかもしれない。
 たとえそうだとしても、シンジはそれでよかった。
 これらの準備は、あくまで自己満足でやっていることだ。それでレイに対して何かを求めるわけではないし、迷惑なら迷惑でかまわなかった。
「でも…やっぱり、喜んでくれたらいいな…」
 シンジは本音で独語すると、ハンカチをスラックスのポケットにしまい、足元に置いていたそれらのプレゼントをあらためて両手にした。ケーキの箱を持った左手で、古びた鉄のドアをごんごんと叩く。呼び鈴は壊れているのだ。
 程なくして足音が聞こえてきて、ドアは内側から開かれた。
「おはよう、綾波っ」
「おはよう、碇くん…それは」
 ドアを開けて現れた制服姿のレイに、シンジは穏やかな笑顔で挨拶した。それでレイも無表情だった目をわずかに細め、同様に挨拶を返す。正午を過ぎていても、やはり二人の交わす挨拶は朝のものだ。
 ささやかな安堵感に目を細めたのも束の間、レイはきょとんとまばたきしつつ、シンジが手にしている品々を見て尋ねた。シンジは照れくさそうに相好を緩め、レイにまず花束を差し出す。
「えへへ、花を買ってきたんだ。よかったら受け取って」
「あ…ありがとう…」
「それと、こっちはケーキ。後で一緒に食べよ?あ、綾波は甘いもの平気?」
「う、うん…ケーキは時々食べる」
 両手で花束を受け取ったレイは、締まりかけたドアを慌てて身体で支えつつ、小声で謝辞を述べた。その可憐でかぐわしいプレゼントに見とれてしまい、白い頬がほんのりと朱に染まる。
 次いでシンジがケーキの箱を捧げ持ってみせると、レイはうなづきながらうつむいてしまい、気恥ずかしそうな声音でつぶやいた。
 花はきれいで、いい匂いだから好きだ。
 ケーキも甘くて、美味しいから好きだ。
 それでも、シンジにここまでしてもらう理由がわからなかった。
 シンジからのプレゼントが煩わしいというわけではない。素直に嬉しいとは思うものの、なによりシンジに迷惑をかけさせたような気がして、なんともいたたまれないのだ。
「碇くん、お金…」
「お金なんていらないよ。そんなつもりで買ってきたんじゃないんだし…それにケーキだって、全部綾波にあげるってわけじゃないんだから。僕も一緒に食べたいし。ね?」
「じゃあ…せめてお花と、花瓶のお金を」
「花だって、僕も一緒に眺めたいんだから。気にしないで受け取ってよ。受け取ってもらえたら僕も嬉しいな」
 そこまで言われては、レイも折れるしかない。
 自分がプレゼントを受け取ればシンジも嬉しいし、自分だってシンジにプレゼントをもらえば嬉しい。とすれば、もはや頑なに遠慮する必要は無いはずだ。そして、それが十分プレゼントをもらう理由になるだろう。
 それに、この花束も、そのケーキも、二人で一緒に楽しむためのもの。
 シンジにそう言ってもらって、レイは気が楽になったし、同時に嬉しかった。単にプレゼントをもらった嬉しさ以上に、シンジと一緒という事実の方に嬉しさを覚えてしまう。
「ありがとう、碇くん」
「どういたしまして」
 レイはもう一度シンジに謝辞を述べ、あらためて受け取った花束に目を細めた。そんなレイの様子に、シンジは愛おしげに目を細める。ふと訪れた穏やかな雰囲気に、真夏の暑気も幾分和らいだような気がした。
「あ、ごめんなさい、いつまでも玄関先で…どうぞ」
「うん、お邪魔します…って、あれ?」
 甘やかな歓喜の気持ちに浸っていたレイであったが、ふと時間の流れの緩慢さに気付き、慌ててドアを大きく開けてシンジを招いた。シンジはそのドアをくぐって、思わぬ違和感を覚える。
 玄関に入っただけではあるが、なんだかやけに明るい。先週訪れたときには、レイのアパートはもっと薄暗くて埃っぽかったはずだ。
 その違和の理由は、まず足元にあった。
 あれだけ散乱していたダイレクトメールの束が、今は一枚も落ちていない。さらに、レイの部屋へと続く廊下は土足の足跡だらけであったはずだが、今日はその痕跡ひとつなくピカピカと光沢を放っている。
 その輝きに目を上げると、廊下の天井には真新しい蛍光電球が灯っていた。その優しい明かりは狭い廊下をいっぱいに照らし、暗がりをすべて追い払っている。
「ねえ綾波…掃除でもしたの?」
 まるで掃除とは無縁と決めてかかるような言いように、シンジは問いかけた後で後悔した。しかしレイは機嫌を損ねるでもなく、小さくうなづいてシンジを見つめる。
「これからは毎週、碇くんが来るから…」
「え、あ、あはは…なんだか気を使わせちゃったね。でも嬉しいよ、ありがとう」
「そんな…お礼を言われるほどのことでもないわ」
 シンジはレイの気遣いに照れながらも、素直に謝辞を述べた。表情も素直な気持ちのままに、自ずと優しい笑みとなる。
 レイはシンジの謝辞と笑顔にはにかみ、花束を抱いたままわずかにうつむいてしまった。
 丁寧に掃除したり、切れたままだった電球を交換したのは何かを期待してのことではないが、シンジに喜んでもらえるとやはり嬉しい。掃除した甲斐があったと思うし、これからもこまめに掃除しようという気にもなってくる。
「…あ、待って」
「え?」
 シンジがシューズを脱ぎ、靴下のまま廊下に上がろうとしたのに気付いて、レイは慌ててそれを制した。右足を廊下に下ろしかけたシンジは、足元に何かあったのかと廊下をマジマジと見つめる。
 廊下は埃っぽさのひとつもなく、丁寧に拭き掃除されてピカピカだ。別に踏んづけてどうにかなりそうなこともない。もし自分の部屋であれば、裸足で上がり込んでもかまわないくらいにきれいである。
 そんな美しい廊下をシンジが眺めていると、レイは玄関にしつらえてある収納型の下足箱から二足のスリッパを取り出し、それぞれ彼の足元に置いた。
 ひとつは淡い水色で、かわいいリボンのあしらわれたもの。
 もうひとつは淡い薄茶と暖かみのある焦げ茶で、市松模様がデザインされたもの。
「あ、綾波…なんで二つ…?」
「掃除はしたけど、それでも碇くんの靴下が汚れるといけないから…夕べ、スリッパを買いに行ったの。そうしたら、この二つが気に入って…二時間迷ったんだけど…」
「…それで決めあぐねて、両方買ってきちゃったの?」
「うん…碇くん専用のスリッパにするから、やっぱり本人に選んでもらいたくて…わたしも、碇くんが選んだものと同じものを使いたいし…」
 シンジの素朴な疑問に、レイは二足のスリッパを見つめたまま、まるで弁解するかのような口調で言った。そのまま気恥ずかしそうに頬を染めると、それらと色違いでお揃いのスリッパを下足箱から取り出し、おずおずと並べる。ちなみにリボンのスリッパは淡いピンク。市松模様のスリッパはマスタードとレモンの黄色調だ。
 レイも、はじめはペアスリッパを買うつもりはなかった。スリッパでさえあればなんでもいいと思って、商店街の適当な靴屋に立ち寄ったのだ。
 ところが、そこの品揃えの豊富さを前にたちまち考えが変わってしまった。
 これだけの中から選べるのであれば、シンジに気に入ってもらえそうなものがいい。
 そんな気持ちで熟考二時間、この二種類のペアスリッパを購入したのだ。あえてペアスリッパにしたのは、やはりシンジと一緒なものを使いたいというささやかな自己満足のためである。
 こうして二つずつ用意されたペアスリッパに、シンジも思わず照れて赤くなった。わざわざスリッパを用意してもらっただけでも嬉しいのに、こうしてレイとお揃いのものを使うとなると、どうにも嬉し恥ずかしくなってしまう。
 時計でも、靴でも、服でも、誰かとお揃いのものを使うという経験がシンジにはなかった。格別に仲良くしているアスカとも、意識してそれを身につけたりしたことはない。
 そのぶん、シンジの男心は新鮮な感動を覚えてしまう。単に部屋の中でしか履かないスリッパではあったが、それでも部屋の中にいる間はずっとレイと一緒だ。そう思うだけでくすぐったいような笑みが浮かんでくる。
「ありがとう、綾波…じゃあ、こっちを使わせてもらうね」
 シンジは両方を見比べて考え込み、市松模様のスリッパに足を入れた。
 リボンのスリッパもかわいいといえばかわいいのだが、あまりにかわいすぎて恥ずかしかったのだ。誰に見られるというわけでもないのだが、歩くたびにかわいいリボンがぴょこんぴょこん揺れる様を思うと、やはり落ち着かない。
 選んだ理由はともかく、それでレイもシンジと同じ市松模様のスリッパを履いた。これでシンジがブラウン、レイがイエローと仲良くお揃いのスリッパである。選ばれなかったリボンのスリッパは、残念ながら再び下足箱に片付けられることになった。
「えへへ、綾波と一緒だね」
「うん、碇くんと一緒」
 お互いにスリッパを見せ合いながら、シンジもレイも満足そうに相好を緩めた。言葉で確かめ合うと、その嬉しさはますます二人の胸で増幅される。
 レイは以前と比べて、ずいぶんと表情が豊かになっていた。
 とはいえ、レイの感情表現は相変わらず微々たるものだ。実際に表情豊かにはなっているのだが、傍目には相変わらずの無愛想にしか映らないだろう。レイに苦手意識を持つことなく、常に親しく接しているシンジであるからこそ、彼女のささやかな表情を感じ取ることができるのだ。
 それにレイも、シンジだからこそ素直な気持ちをそのまま表情にできるのであった。
 シンジ以外のクラスメイトには胸もワクワクと逸らないし、そのぶん平静を保つことができる。結果として無愛想になってしまうのだが、レイはそれでも構わなかった。今までもそうだったのだから、無理をしてまで感情表現を大げさにする必要はない。
 そんなレイの表情を独り占めにしているシンジは、それに浮かれるでもなく、少し照れたようにして彼女を見た。
「綾波…今日はよろしくね」
「うん」
 お揃いのスリッパに嬉々としていたレイも、それで少しはにかんでうなづいた。

 美しく掃除されていたのは、玄関や廊下だけではなかった。
 生活感が希薄だったキッチンも、質素を極めたリビング兼寝室も、徹底的に水拭きが為されていた。あれだけ埃っぽくて、どこか消毒薬臭かったのが嘘のようである。
 カーテンや窓も大きく開かれて、窓の外からは陽光と涼風が清々しく入り込んできている。ベランダへと繋がっている窓もきちんと拭き掃除されていて、ガラスには曇りひとつ無かった。おかげで寝室に満ちていた陰気さと、澱んだ空気は微塵もない。なんとなく寝室全体が広くなったような感じさえするほどだ。
 シンジはすっかり快適になったレイの部屋を眺め回してから、ひとまず花をフラワースタンドに生けた。とはいえ、そんなたいした作業ではない。フラワースタンドに水を入れ、ラッピングを解いた花を差すだけである。ひとまず事務机の上に飾ってしまえば、もうそれですることはなくなってしまった。
「碇くん、よかったらどうぞ。ベッドにでも座って」
「あ、ありがとう」
 レイはケーキを冷蔵庫にしまい、代わりにペットボトルを二本取り出して、一本をシンジに手渡した。ちょうど喉が渇いていたシンジはありがたくペットボトルを受け取り、促されるままベッドに腰掛ける。
 受け取った五百ミリのペットボトルは、やはりミネラルウォーターであった。遠慮無くキャップを開けたシンジはラッパ飲みで、半分ほどを一息に飲み干す。
 ただの水であってもよく冷えているから、この少々蒸し暑い室内ではとても美味しい。そのうえ喉が渇いていたから爽快感は倍増した。自ずと安堵の溜息が漏れ出る。
「碇くん、この間も美味しそうに飲んでた」
「え、そうだったかな」
 レイはシンジの左側に腰を下ろすと、自らもミネラルウォーターを一口飲み、ふと思い出したように彼を見つめてつぶやいた。シンジはとぼけたわけでもなく、右手にしているペットボトルを眺めて小首を傾げる。
 どうも先週の記憶で印象に残っているのは、仲良くしりとりをして遊んだことくらいである。それ以外は情けない記憶ばかりなので、あまり積極的に回想したくないのだ。
「水、好きなの」
「別に水だから好きってわけじゃなくって…ジュースだって飲むし、お茶だって…」
「ジュースやお茶の方がよかったかしら。この間も美味しそうに飲んでたし、水なら誰でも好き嫌いはないかなと思って用意したんだけど」
「そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ…水だって、よく冷えてると美味しいよ」
「じゃあ、これからもずっと水を用意するわ。なんだったら水道の湯冷ましで」
「そ、それはあんまり嬉しくないなあ…」
 二人は何気ない笑みを交わしながら、そうやっていくつかのおしゃべりを楽しんでゆく。この一週間の話題から、他愛もない話、難しい話、時々冗談なんかも交えつつ、シンジもレイも肩の力を抜いてくつろいでいった。
 シンジは決して話し上手でも、話題が豊富でもないが、おしゃべり自体は大好きだ。レイもシンジとであれば、人が違えたかのようにおしゃべり好きとなってしまう。もちろんマシンガントークとまではいかないが、のんびりとした言葉のキャッチボールであっても、とても楽しい。二人とも、胸の支えが取れる思いであった。
「…ねえ綾波、そろそろ裸になろっか」
 三十分ほどもおしゃべりを楽しんだところで、ふとシンジはベッドから立ち上がり、レイに誘いかけた。レイもそれに倣い、まっすぐにシンジを見つめる。
「セックス、できそうなの」
「うーん…まぁできるかどうかはともかく、とりあえず裸になろうよ。ちょっと暑くなってきちゃった」
「そうね…わたしも少し、汗かいてきてる」
 レイの部屋のエアコンは本格的に壊れているから、ミサトの部屋以上に暑い。シンジがそう言うと、レイも指先で制服の胸元を引っ張って小さく溜息を吐いた。
 そうなると話は早い。二人は背中を向け合い、それぞれでてきぱきと衣服を脱いだ。制服を脱ぎ、下着を脱ぎ、靴下を脱いでしまえば、それだけで二人は生まれたままの姿になってしまう。
「…普通のままね。まだセックスできそうにないみたい」
「え?あ、ああ…このままじゃまだダメだよね」
 再び並んでベッドに腰掛けてから、レイはシンジの股間に視線を落とし、少し残念そうな声でつぶやいた。確かにレイの言うとおりで、シンジのペニスは興奮の血潮を巡らせるでもなく平静を保ったままだ。
 これが勝手知ったるアスカであれば、ペニスはとっくのとうに勃起をきたしているところだろう。五日間の禁欲生活を送ってきているぶん、おしゃべりしている間にも愛欲は募って来たに違いない。もっとも、アスカとであればおしゃべりの前に再会のキスくらいは交わしているはずなのだが。
 やはり相手がレイだと、そう易々と気持ちは切り替わらない。おしゃべりして打ち解け合ったとはいえ、それですんなり発情の対象にできるほどシンジの神経は図太くなかった。なにより、先週の失敗は今なお微妙に引きずっている。
 それでも、シンジは慌てなかった。レイの一言にも傷つくことなく、何気ない苦笑を浮かべて応じた。
 今日はひとまず、性交を目標としない。
 日曜日にアスカと別れ、ネルフ本部へと向かう車内で、シンジはそう決心していた。
 はじめからセックスを追い求めてしまうから、身も心も焦ってしまうのだ。先週の自分がまさにその通りで、性的興奮ばかりを追い求めてレイを置き去りにしてしまい、結局失敗に終わってしまった。
 あの日アスカにも言われたことだが、とにかく自分の気持ちのままで優しく接すれば、きっと上手くいく。シンジはそう確信していた。お互いに優しさや労り、それと少しの好奇心と勇気を持ち寄れば、自ずと至高の睦み合いに辿り着けるはずなのだ。
 なにより、セックスとは単に膣内で射精し、女性を身ごもらせるというだけの行為をいうのではない。
 これはミサトにも教えられたことだし、アスカと重ねてきた経験からもそう断言できた。セックスとは、お互いに身も心も気持ちよくなれるスキンシップのことをいうのだ。
 だから、シンジはこの五日間、ずっとひとつのことだけを考えていた。
 今日はレイと、思いきりイチャイチャして過ごす。性交は、そのおまけでいい。花束やケーキといったプレゼントも、その考えの中のひとつであった。
 とはいえ、自分だけがイチャイチャしたいという願望を持っていても意味はない。できればレイにも、そのイチャイチャとしたじゃれ合いに親しんでもらいたいのだ。
 もちろん、好きでもなんでもない人間とはイチャイチャなどできるはずもない。
 しかしシンジは、レイとならそんな関係になれると信じていた。
 先週、このベッドで楽しんだ他愛もない一時は、決して友達どうしでは生み出せない甘やかなものであった。極めていたいけな一時ではあったが、そこには本当の恋人どうしのような仲睦まじさがあったのだ。
 あの仲睦まじさがあれば、きっとセックスは楽しいものにできる。
 もちろん世の中にはセックスが嫌いな人もいるだろうが、レイとのセックスは命令なのだ。どうせやらなければならないのであれば、少しでも楽しいものにしたい。
 シンジは深呼吸をひとつ、気持ちを落ち着けてからレイを見た。それにあわせて、レイもうつむいていた顔を上げてシンジを見つめ返す。
「ねえ綾波…綾波はこうして僕と裸で一緒にいるの、どう思う?」
「嫌じゃない。碇くんと一緒にいると楽しいし、なんだか落ち着く感じ。裸でも、ひとりでいるよりはずっといい感じ」
「じゃあ、僕とセックスしなきゃならないって状況については、どう思う?」
「命令だから、抵抗感はないわ。それに、碇くんとなら…理由はわからないけど、きっと上手く任務を果たせそうな気がする」
 シンジは子どもを諭すような優しい口調で、レイに質問を重ねた。レイは気取りもてらいもなくハキハキと答え、素直なままの心情を語りもする。
 もちろん、シンジに気を使っているわけではない。シンジと一緒にいられる大義名分ができて、その嬉しさでついつい饒舌となってしまうのだ。
 実質、件の命令は二人きりで過ごす時間を設けろといっているようなものだから、レイにしてみれば大歓迎である。セックスすることに関しても、命令を別にしたところでシンジとであればそれほど嫌悪感はなかった。
「えへへ、そこまで言ってもらえると照れくさいな…。だったら今日セックスできると、その綾波の言ういい感じ、もっともっと大きくなると思うんだけど」
「セックスにはそんな作用もあるの」
「うん。セックスできたら、僕と綾波…きっと、もっともっと仲良くなれると思う。僕は綾波と、もっともっと仲良くなれればいいなあって思うけど…綾波は?」
「わたしも碇くんと、もっともっと仲良くなりたい。仲良くなれるんだったら…いっぱい、いっぱいセックスしたい…。それに、いっぱいセックスしたら、妊娠の確率も高まるし…」
 レイの気持ちを確かめるための問答は、いつしか甘い睦言に変わっていた。
 その居心地の良い雰囲気にシンジもついつい浸ってしまい、レイの顔がすぐ目の前まで迫っていたことに気付かなかった。ふと我に返ったシンジは、視界いっぱいに映っていた美少女の素顔に思わず息を飲む。いつの間にか互いに上体を向け、まっすぐに見つめ合っていたらしい。
 意外にあどけない、赤い瞳。
 慎ましやかながらも、真っ直ぐに線の通った鼻。
 アスカよりもなおうっすらとしていて、小振りな唇。
 ささやかな期待と歓喜で、わずかに血色を良くしている頬。
 薄い水色に近い、シルバーブロンドのショートヘアー。
 それらが絶妙なバランスで、レイを一人の美少女として構成していた。
 日頃から無愛想であるから気付きにくいが、こうしてあらためて見ると、レイは本当にかわいい。微妙に残る幼さが男心をくすぐり、保護欲とも呼ぶべき衝動を喚起してくる。
 普段からレイを敬遠しているクラスの男子も、もし彼女に優しく微笑みかけられたとしたら、きっとその愛くるしさにたちまち見惚れてしまうことだろう。
 そう思うシンジでさえ、レイの美少女ぶりにドキドキと胸を高鳴らしているほどなのだ。アスカという素敵な恋人がいるにもかかわらず、レイに対しても胸苦しいほどの愛おしさがこみ上げてくる。シンジも男という極めてナイーブな生き物であるから、こればかりはどうしようもない。
 ましてやレイとは普段から親しくしており、先週も泊まりがけで親密さを深め合った仲なのだ。無邪気になつかれ、熱っぽい眼差しで求愛されては、十四歳で思春期真っ盛りの男心はどうしても逸ってしまう。
「綾波っ…」
「あっ…」
 シンジは独占欲にも似た衝動のままに左手を伸ばし、レイの背中を抱き寄せた。レイは一瞬身を強ばらせたものの、すぐにしおらしく身を任せ、ぴっとりとシンジに寄り添う。
 レイもシンジへの想いを言葉にするのに夢中で、彼と間近で見つめ合っていたことに気付かなかった。たまたま我に返った矢先に、こうして強く抱き寄せられたものだから少々たじろいだのだ。
 それでも、レイはシンジに対して警戒心を抱いたりはしなかった。むしろこうして抱き寄せてもらったことで、伽藍堂であった心中には、ますます彼に対する好意が募ってくる。
 いつでも、どこでも、どんなときでも、優しくて思いやりに満ちている言葉。
 全体的にあどけなさの残る素顔。そのぶん朗らかな笑顔。
 程良く引き締まり、少したくましくもなった身体。
 今はまだ小さいままの、不思議な触り心地のペニス。
 まさにシンジのすべてに、不思議なくらいに惹かれていった。ずっとこのまま一緒にいたいような、わがままな気持ちすら湧いてくるほどだ。
 そのうち寄り添っている二人の鼻から、ゆったりと安堵の溜息が漏れ出た。
 それを合図のように、シンジは心持ちうつむいているレイの頭に優しく頬摺りする。
「…シャンプー、いい匂い」
「ん…うん…」
 シンジはあごから頬からをレイの頭に擦り寄せ、夢見るような声音でつぶやいた。レイはシンジの愛撫を受けるがままとなり、くすぐったそうな困り顔でうなづく。
 レイの銀髪は、アスカに比べると少々固めであった。さらさらと流れて頬摺りを受け流すことなく、しっかりとした音を立てて擦れ合ってくる。
 それでもレイは日頃から洗髪を欠かさないから、脂っぽいべとつきは微塵もなかった。シャンプーの匂いからも先週のじゃれ合いを思い出し、シンジはすっかりご満悦といった風に目を細める。
「…綾波は今、僕とセックスしなきゃいけないって…そう思ってない?」
「うん」
「でも、それじゃあきっと、素敵なセックスにはならないよ。僕も綾波も、自分からセックスしたいって思えるようにならなきゃね。そう思えるようになったら…きっと僕たち、今よりずうっと仲良くなってるんじゃないかな」
「…そう思えるようになるかしら。碇くんとは、もっともっと仲良くなりたいのに」
「だったら、絶対大丈夫だよ」
 シンジは不安げなレイを安心させるよう、確かな口調でそう保証した。不安げにさせたことを詫びるよう、そのままそっと髪にキスする。
 それに気付いたレイは小さく身を震わせ、言葉もなくコクコクとうなづいた。シンジに汗臭さを感じさせてしまったような気がして、何とも居心地が悪い。
 シンジも慌てたようなレイのしぐさに、すぐさま髪へのキスを終えた。気恥ずかしげな上目遣いで見つめてくるレイに優しく微笑むと、左手で彼女の首筋に触れ、そこから撫でるようにして左の肩を抱く。それで二人は元通り、ベッドに並んで座る格好となった。
「じゃあさ、綾波…ちょっと手、つないでみよっか。左手を貸して」
「え…う、うん…」
 やおらシンジはそう言うと、へその高さでレイに右手を差し出した。レイは言われるまま左手を伸ばし、一瞬考えてから、おずおずと手のひらを重ねる。右手どうしならすんなり握手できるのに、と疑問に思ったのだ。
「左手でいいの」
「うん。僕の右手と、綾波の左手を…ほら」
「あ…」
 シンジは右手で彼女の差し出した左手を撫でてから、やがて小指どうしから順番に組み合わせて手をつないだ。そのままお互い優しく握り合えば、いわゆるエッチつなぎの完成である。
 指を組み合わせてしっかりとつながり合い、レイは思わず吐息混じりに感嘆の声を漏らした。思いがけない手のつなぎ方に、新鮮な驚きを覚えたのだ。
「…これでもう僕と綾波の手、仲良しになれたよね」
「うん…碇くんとわたしの手…仲良しになれた」
 肩を抱いたまま、シンジは子どもをあやすような声音でエッチつなぎの様子をたとえた。レイはエッチつなぎしている自らの手に見入りながら、いたいけな感動を覚えてわずかに声を弾ませる。
 レイの純心は、初めてのエッチつなぎにすっかり嬉々となった。
 指を絡められた瞬間はくすぐったいだけだったが、そっと握り合ってしまえば、たちまちなんともいえない安堵感が胸いっぱいに拡がってきた。今ではそのくすぐったさも、伝わり合う手のひらのぬくもりと混ざり合って実に心地良い。
 優しく肩を抱かれていることもあり、レイの気持ちはどこまでも安らいだ。じっとシンジの右手を握り返しているだけでも、吐息は少しずつ安息の溜息になってゆく。
 シンジもレイを抱き寄せながらエッチつなぎして、ささやかに男心を満たしていた。
 無機質な印象を受けるレイであっても、やはり人間だ。背中も、肩も、そして手のひらも、嬉しくなるほどに温かい。柔らかい二の腕はひんやりとしているが、それでも肌はきめ細かでスベスベであり、いわゆる女らしさを存分に感じてしまう。
 エッチつなぎの印象も、ミサトやアスカとはまた別であった。
 活発な彼女たちと違って、レイの細い指にこもる力は極めて慎ましやかだ。おずおずと寄り添うように指を絡められると、レイの可憐さが一層際立って感じられる。
 先週もこうして裸で寄り添いはしたが、ここまで男心は逸らなかった。
 あきらかに、先週とは違う。
 シンジは熱い期待感を胸に満たし、エッチつなぎの右手にさらなる力を込めた。

つづく。


 


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(updete 2004/06/25)