はじまるシアワセ

07

作者/大場愁一郎さん

 

 日曜日も、昨日と変わることなく暑い日になった。
 四季というものが無くなり、常夏の国となった日本であるが、この第三新東京市は特別に暑いのではないか。
 シンジは階段の踊り場でふと足を止め、恨めしそうな目で太陽を見上げた。太陽は今日も真っ白に輝き、圧倒的なまでのエネルギーで地上を照りつけてきている。
 そのためにシンジの背中はじっとりと汗ばみ、開襟シャツの布地を透けさせていた。ぴったりと背中に貼り付いてくるから、不快なことこの上ない。
「暑…」
 シンジは右手の甲で額の汗を拭うと、快晴の上空を仰いでいた顔を力無く戻した。再び目の前の階段に視線を向け、きゅっと唇を噛み締める。
 目的のフロアーまでは、階段のステップをあと七つ。
 同居させてもらっているミサトのアパートは老朽化が著しいために、エレベーターは稼働していない。この暑さに参ってしまったかのように、一階で腰を落ち着けたまま、扉を半開きにして呆けている有様だ。
 とはいえ、今さらエレベーターを恨んだところでミサトの部屋まで瞬間移動できるはずもない。シンジは気力を振り絞って階段を駆け上がり、その勢いを殺さず、一気にミサトの部屋の前まで辿り着いた。
 たったこれだけでも息が上がり、脚が重くなる。シンジは膝に手を突いて上体を支え、ぜはぜはと肩で息をした。新しい生活習慣のおかげで手ぶらでこそあるが、この暑さと、昨日から今日にかけての疲労は若い身体にもひどく堪える。
 シンジはもう一度右手の甲で額の汗を拭ってから、アパートの簡素なドアを開いた。たちまち室内からはほのかな冷気が漂ってきたので、シンジはそれに誘われるようふらふらと足を踏み入れる。
「ただいまぁ…」
 ドアの閉まる音にかき消されそうな声であったが、それでも家人に聞こえはしたようで、部屋の奥から騒々しい足音が聞こえてきた。
 そしてその足音の主は、キッチンへと通ずるドアを開けて姿を現す。
「…ただいま、アスカ」
 シンジは勢い込んで現れた少女に、もう一度挨拶を重ねた。
 ルーズネックのTシャツに、ぴったりとしたスパッツ。
 背中まで伸びた、艶やかなハニーブラウンの髪。
 青く澄んだ瞳。
 そして、青空の下に咲く向日葵のようにまばゆい笑顔。
 彼女は紛れもなく惣流・アスカ・ラングレー。シンジと想いをひとつにした少女だ。
 たった一週間ぶりのことであるのに、そのどれもが懐かしく、そして格別に愛おしく感じられる。疲れなど吹き飛んでしまうくらい胸がワクワクと逸り、相好はたちまち緩んでいった。
「…おかえりなさい、シンジッ」
 アスカもシンジの元へ小走りに駆け寄るなり、一週間待ち焦がれていた挨拶を返した。気取りもてらいもない素直なままの笑顔を浮かべ、汗だくになっている恋人の素顔を見つめる。
「…その顔じゃ、ファーストとはちゃんとできたようね」
「えっ、か、顔でわかるのっ?」
「冗談よ。でも、今のあんたの狼狽えっぷりで、ちゃんとできたってわかったわ」
「う、ううう…」
 久しぶりの再会だというのに、アスカは相変わらず容赦がない。言葉巧みにまんまと乗せられ、シンジは赤くなってうつむいてしまう。
 とはいえ、アスカもシンジを小馬鹿にするつもりで揶揄したわけではない。大好きなシンジとの再会があまりに嬉しいから、ついついからかいたくなってしまったのだ。
 現に狼狽えたシンジを見て、嬉々としているアスカの美少女ぶりは一際輝きを放ち始めている。シンジには悪いと思うのだが、アスカにとっては、こうして彼をからかったりすることがストレス発散にもなっているのだ。もちろんからかってばかりでなく、もっともっと色々とおしゃべりしたくて気持ちが逸る。
「でもシンジ、あんた、なんかやたらと疲れてない?声に張りがないわよ?」
 冷房の利いているリビングに戻るなり、アスカは背後に振り返りながらそう切り出した。シンジは室内の快適さに安堵の息を吐きながら、少しだけ猫背気味になって苦笑する。
「ま、まあね…綾波の部屋を出てから、ずうっと走ってきたし」
「走って?この暑い中を?あんた、先週も確かそう言ってたわよね?ほら、いつものコンビニで会ったとき」
「ああ…だってあの時もそうだったけど、少しでも早くアスカに会いたかったしね。早く会えれば、そのぶん長く一緒にいられるし。一石二鳥だからさ」
「それでそんな汗だくに…あ、あんたってホントにバカねっ…」
 シンジの無邪気さにあてられて、今度はアスカが赤くなってうつむいてしまった。
 普段素直になれないアスカであるからこそ、素直なシンジの発言が羨ましく、そのぶん胸が焦れるように痛む。いつものようにシンジをなじりはするものの、その声音には気勢のかけらもない。
 シンジとしては、そんな照れて強がるアスカの姿にはもう慣れっこであるし、むしろ今では愛おしいとさえ感じるほどだ。涼しいリビングにありながらも頬を火照らせ、ぎこちなく視線を泳がせているアスカを見ていると、なんだかふいに抱き締めたくなってくる。
 とはいえアスカも、こうして不器用な姿を晒したままで終わるつもりはない。
 どうにかしてまた困惑させてやろうと思っているうちに、シンジはキッチンの冷蔵庫へ向かった。喉乾いたぁ、などと独語しながらペットボトル入りのスポーツドリンクを取り出し、そのまま流し台でグラスに注ぎ始める。
 アスカは少し意地の悪そうな笑みを浮かべると、そんなシンジの背後にそろりそろりと忍び寄り、不意打ち同然で彼の背中に寄り添った。汗に濡れたシャツも、驚いた弾みでグラスの外にスポーツドリンクをこぼしたシンジの狼狽も、一切気にしない。両手をシンジの肩にかけ、そっと首筋にキスしたりする。
「あ、アスカ…?」
「そんなに疲れてるの、走ってきたからってだけじゃないんでしょ?」
 グラスに注いだスポーツドリンクを飲むこともできず、シンジは緊張したようなぎこちない声で背後の少女を呼びかけた。すっかり肌に染みついているはずのアスカの感触が、今はなんだかやけに照れくさい。
 そんなシンジの反応に気を良くして、アスカは彼の耳元に唇を寄せると、内緒話のように声を潜めて問いかけた。悪巧みの雰囲気を敏感に感じ取り、シンジは油断するまいと、ひとつ小さく深呼吸する。
「…な、何が言いたいんだよ」
「…ファーストと、何回してきたの?」
「そ、そんな何回もしてないよ…」
「ふうん…ということは、少なくとも二回以上はしてきたわね。その口振りからすると」
「ま、またぁ…そういうのやめろよっ」
「失礼ね、別にあたしは誘導尋問なんてしてないじゃない」
 アスカの鋭い洞察に、シンジは耳まで真っ赤になって狼狽しきりとなる。油断するまいと深呼吸したのは何だったんだと心中でほぞを噛むが、もう遅い。肯定こそしていないが、これではまるわかりである。
「ほらシンジ、正直に教えなさいよっ。でないと明日にでもファーストから聞き出すわよ?何回したかだけじゃなくって、どんなことしたのかも、ぜんぶ…」
「わ、わかったよ、言うよっ!」
「そうそう、素直が一番。で…何回したの?二回?それともまさか、三回?」
「えっと…よ、四回…あ、四回っていっても昨日三回と、今朝…その、もう一回…」
 アスカに促されるまま返答したものの、シンジはつい余計なことまで口走ってしまった。一日で四回もこなしたのかと思われるのが恥ずかしかったからだ。
 しかしこれは逆にいえば、二日続けて、それも時間いっぱいまでセックスしていたことの告白にもなる。早くアスカに会いたくて走って帰ってきたのは紛れもない事実だが、これでは説得力がまるきり失せてしまう。
 弁解しようとして墓穴を掘ったことに気付き、シンジは狼狽しきりとなった素顔をすっかりうつむかせてしまった。また機嫌を悪くさせちゃうと、すっかり弱気になって唇を噛み締める。
「…まあ正直に教えてくれたんだから、怒らないけど」
 アスカは少しだけ早口にそう言うと、シンジの背後からグラスを奪い取り、ゴクゴクと威勢良く喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲み干した。空になったグラスを置く手にも必要以上の力がこもり、流し台はしたたかな音を立てる。
 アスカはあくまで怒らないというのであって、決して怒っていないわけではない。それこそ油断すれば、今にも嫉妬の虫が暴れて癇癪を起こしそうなのだ。
 もちろんシンジは一生懸命に命令をこなしてきただけだから、アスカが機嫌を損ねるのは道理に合わないことである。それでもやはり、想いを通わせ合った恋人が他の異性を何度も抱いてきたのかと思うと愉快なはずはない。ましてや相手は綾波レイなのだ。
「…でも、ちゃんとあたしの相手もしてくれるわよねっ?」
「も、もちろんっ…」
「あたしが今日と明日で、ファーストと同じだけ欲張っても応えてくれる?」
「ど、努力はするけど…」
「もう、男のくせに相変わらず頼りないわねえ」
 何気ない口調でシンジをなじりはするが、その頃にはもうアスカの表情は穏やかさを取り戻している。沸々とした怒りのエネルギーも、シンジを小馬鹿にすることでワクワクと胸躍るような活力となっていった。
 今日もまたシンジは、こうして帰ってきてくれた。どこまで命令意識があったかまでは探らないが、レイとのセックスに励みながらも、汗まみれになってまで走って帰ってきてくれた。
 なにより、いってきます、の約束を守ってくれたことが嬉しかった。
 おかえりなさい、と迎えられたことが嬉しかった。
 こうしてシンジがいてくれる。
 背後から寄り添っても、小馬鹿にしても、嫌がらないで側にいてくれる。
 幸せはどこへも消えたりせず、ちゃんと存在し続けているのだ。
「ね、シンジ…」
「うん…」
 アスカは少しだけ甘えんぼな声になってシンジを呼びかけた。肩にかけていた両手も、そっと下ろす。
 それでシンジは身体ごとアスカに向き直った。二人の身長はほとんど同じくらいであるから、向き直ったすぐ目の前にアスカのはにかんだ微笑が飛び込んでくる。
 愛しげに見つめ合ってしまえば、もう身体は本能のままに反応を示した。どちらからともなく両手を伸ばし、力強く抱き締め合う。
 アスカはシンジの腰を抱き寄せ、シンジはアスカの上体を抱き込み、しばし頬摺りして抱擁欲を満たした。胸が和むのに合わせて、甘い溜息が深々と漏れ出る。
「…やっぱり寂しかった?」
「ううん…そんなことない」
 シンジが問いかけると、アスカはその横顔にキスしながら気丈な口調で答える。
「あんたのこと信じてるから、寂しくはなかったけど…待ち遠しかったかな、あんたが帰ってくるのが。シンジが帰ってきたら何をしようかって、布団に入ったらそんなことばっかり考えてた」
「…じゃあ、早速できること、ある?」
「そうね…今すぐしてほしいことなら、あるにはあるけど」
 そう言うとアスカは頬摺りを止め、あらためて真正面からシンジを見つめた。シンジの素顔を見るだけでも、なんとなく嬉しくて相好が緩む。
 やがてアスカは静かに目を閉じ、心持ちおとがいを逸らして唇の無防備を極めた。その可憐な唇に思わぬ色気を感じて、シンジは引き込まれるように見惚れてしまう。
 恋人に長い間会えないでいると、たいていは恋心余って、少なからず相手を美化して意識に留めてしまうものだ。
 それでもシンジには、現実のアスカは今まで以上にかわいらしく見えた。たった一週間会わなかっただけでも、すごく大人びて見える。
 せっかく素直なままに求愛してくれているというのに、なんだか舞い上がってしまって身体が言うことを聞かない。先程スポーツドリンクを飲み損ねたこともあり、喉もこれ以上ないほどカラカラに乾いてきた。しかもこんな時に限って、生唾が湧いてこないのだから困ったものである。
「ねえ、シンジぃ…」
「う、うんっ…」
 とうとうアスカも焦れてしまい、むずがるような声でシンジを急かした。シンジも意を決して大きく息を吸い込み、きつく目を閉じる。海にでも潜るかのような大袈裟さだ。
 そんな入念な準備とは裏腹に、二人の唇はあっさりと触れ合った。そのまま互いに小首を傾げ、お気に入りの角度となってぴったりと吸い付き合う。
 薄膜全体にキスの心地良さが染み込んでくると、シンジの身体を強ばらせていた過剰な緊張は、たちまち安堵感の中に溶けていった。肺腑に溜め込んだ息も、恍惚の溜息となって鼻から漏れ出る。あまりに気持ちいいものだから、シンジは鼻の奥から女の子のような声でうめき、アスカをきつく抱き締め直したほどだ。
 どんなに大人びて見えても、どんなにかわいく見えても、やっぱりシンジにとってアスカは大好きな女の子だ。薄膜ごしにそれを実感すると、あの舞い上がり様は何だったんだと思えるくらい気持ちが落ち着いてくる。
 いつも気が強くて、不敵で、偉そうでも。
 いつもからかってきて、小馬鹿にしてきて、手や足を出してきても。
 その実、寂しがり屋で、甘えんぼで、一途で、一生懸命だから。
 シンジはアスカが大好きなのだ。大好きだからこそ、キスにも自ずと優しさや慈しみがこもってゆく。もちろん、それはアスカも同様であった。
「んっ…んっ、んっ…んんっ…」
「んぅう…んぅ、ん、んぅ…」
 二人は心からの愛情を薄膜ごしに分かち合い、かわいい鼻声を漏らして悦に入る。お互いに愛おしさで胸がいっぱいになってきたから、唇どうしでのじゃれ合いも次第にねちっこさを増してゆく。
 ぴったりと吸い付き合っていたのが、やがてキツツキのように突っつき合い。
 突っつき合っていたのが、やがてバードキスでふんわりとついばみ合い。
 ついばみ合っていたのが、やがて舌まで伸ばしてじっくりと絡め合い。
 とうとう唾液を口移しで往復させて、仲良く分け合って飲み干した。
「…好き」
 五分以上もかけて濃厚なキスを楽しんだ果てに、アスカはすっかりしおらしくなって心情を吐露した。照れくささ極まったはにかみ顔では、鼻の頭に興奮の汗が浮かんでいる。
「僕も好きだよ、アスカ…」
「うん…嬉しい」
 シンジもまた照れくさそうに頬を染め、右手でアスカの髪を撫でながら告白を返した。
 アスカはシンジに寄り添ったまま、ご満悦といった表情で頬摺りして甘える。甘えながらなおもシンジの横顔にキスしたりするのは、唇がすっかり性感帯として機能し始めたためだ。
 とはいえ、このまま下着を汚してしまうほど発情するわけにはいかない。
 名残は惜しいながらも、アスカは懸命に気力を振り絞ってシンジから身を離した。一旦リビングに戻り、スパッツの上からハーフパンツを穿きつつシンジに振り返る。
「ね、シンジ…ちょっとコンビニ行かない?」
「コンビニ…ああ、アスカもお昼ごはんまだだったんだ。僕もお腹空いてるんだよね」
 シンジも膨らみ上がった股間をさりげなく両手で覆い隠しながら、わざとらしいような口調で応じた。
 実際時刻は正午を過ぎているし、お腹が空いてきてもおかしくない頃合いである。それにシンジは、朝食もレイに合わせて簡素なコンビニサラダひとつしか食べていないのだ。育ち盛りの十四歳にしてみれば、お腹が空かないはずもない。ましてやシンジは昨日から今日にかけて、相当なハードワークを重ねてきているのである。
 しかしハーフパンツを穿き終えたアスカはどこか不満そうに口をへの字に曲げると、ずかずかとシンジの眼前まで歩み寄り、真っ向からシンジを睨み付けた。シンジは思わずたじろぎ、一歩後ずさってしまう。
「あ、あの…な、なんか怒らせるようなこと言った?」
「お昼も大事だけど、もっと大事なもの買わなきゃいけないでしょっ!」
「大事なもの…な、なんだっけ」
「ホント気が利かないんだからっ!これよ、これっ!乙女に恥をかかせないでよね!」
 そうわめくなり、アスカは右手でOKサインを作り、シンジの目の前に突きつけた。シンジは意味がわからず一瞬きょとんとなったものの、すぐにアスカの言わんとしていることに気付いて表情を明るくする。
「そっか、ちゃんと避妊するんだもんね。でもミサトさんの部屋にまだいくつか…」
「あんたバカぁ!?なんで他の女と使ってたヤツをあたしが使わなきゃいけないのよっ!一緒に選んで買ってきたのでないと、絶対に使いたくないっ!!」
「そ、そんなものなの?でも、なんだかもったいないなぁ」
「これだからあんたはバカだって言うのよっ!ホントにもう、女心をわかろうとしないんだからっ!」
「あ、アスカッ!ちょ、ちょっと待ってよ!!」
 すっかりふてくされたアスカはシンジを無視して、エアコンの電源も切らずにさっさと玄関へと向かっていってしまう。
 シンジは足下に落ちていたリモコンでエアコンの電源を切るなり、慌ててアスカを追った。アスカは財布を持った様子がなかったから、結局自分がお昼ごはんからコンドームからを買わされるのかと、玄関へ向かう廊下で愕然となる。
 愕然となりながらも、ふとシンジは浮かんだ疑問を口にした。
「そういえばミサトさんはどうしたの?今日も仕事?」
「…まだ他の女の話なんかしたがるしっ」
「こ、これくらいはいいだろっ!?だ、だからちょっと待ってってば!」
 アスカは愛用の向日葵サンダルを履くと、なおもふてくされたままで先に出ていこうとする。
 シンジはシューズのひもを結びながら、必死になってアスカを呼び止めた。そこでようやくアスカもふてくされるのを止め、開いた玄関ドアを片手で押さえながらシンジに向き直る。
「ミサトは変則勤務になったんだって。しばらくは火曜日と木曜日が休みになるそうよ」
「…じゃあ、これからの日曜日はいつもアスカと二人きりなんだ」
「ま、まああんたが帰ってきてくれるんなら、そういうことになるわね」
 靴ひもを結び終えたシンジがアパートの通路に出たところで、アスカは少し照れたように視線を逸らしながらドアを閉めた。
 日曜日には、必ずシンジは帰ってきてくれると思ってはいた。それでもやはりシンジからそう言ってくれると安心できるし、素直に嬉しい。
 シンジを信じてはいるが、やはり独占欲を払拭するのは難しいことだ。
 アスカは心中でそう苦笑した。
「ね、ねえアスカ…暑いけど、手、つないでいかない?」
「えっ…だ、誰かに見られたらどうするのよっ?」
 そんな矢先にシンジがそう誘いかけてきたので、思わずアスカは真っ赤になって狼狽えてしまった。
 別に誰かに見られたところで気にはしないのだが、嬉しさ余ってなんとも気恥ずかしい。セックスの最中では何度も手をつないだりしてじゃれ合いはするが、こうして手をつないで出掛けるのは初めてであるから、やはり戸惑ってしまう。
 一方で、誘いかけたシンジも恥じらいを隠しきれずに真っ赤になっている。真っ赤になってはいるが、差し出した手を引っ込めるつもりは毛頭無かった。
「誰かに見られた方が、僕はラッキーかなって思うんだよね…。アスカとは、もうこんな関係なんだって自慢してまわりたいくらいなんだから…でもそんなことできるわけないから、せめて誰かに見られて、ね?」
「あ…あんたって、時々大胆よね。エヴァに乗ってるときもそうだし、今だって…」
「ほ、ほらアスカッ。いいから早く行こうよっ」
「え、あ、あっ…」
 なおも照れ隠し半分で言葉を並べようとするアスカの前に、シンジは思い切って右手を差し出した。その語気と向けられた手のひらにつられて、アスカも慌てて左手を差し出す。
 手と手が触れ合ってしまえば、もう恐れることは何もない。シンジの右手とアスカの左手は、暑気もお構いなしに指を絡めてエッチつなぎとなった。並んで立てば軽く腕を組んでいるようにもなるから、なんともいえず照れくさい。
 それでも、この照れくささが妙に心地良かった。部屋の中だけでなく、部屋の外でも恋人として振る舞える嬉しさに、二人は思わずはにかんだまま見つめ合ってしまう。
「…い、行こっか、アスカ」
「う、うんっ…」
 築き上げたユニゾンもまったく発揮できずに、二人はぎこちなく歩き出す。
 そのぶん繋いだ手も、寄り添う身体も密着度は増した。暑苦しいと思うより先に、気持ちが舞い上がってのぼせてしまいそうなくらいである。
 目的地は、歩いてすぐそこのコンビニ。室内着のままでも平気で行ける場所である。
 しかし初々しい二人にとっては、長い長いファーストデートになりそうであった。

 そんな生活が二ヶ月ほど続いた、ある日。
 チルドレンと呼ばれる少年少女三人は、ネルフ本部の一角にある殺風景を極めた小部屋に集合させられていた。二ヶ月前に件の計画を正式に聞かされた、あの第弐拾番会議室である。
 安っぽい丸テーブルに、いくつかの安っぽい椅子。それ以外は何もない地味な部屋。あの時となにひとつ変わっていない。偶然ではあるが、三人が着ている服装まで同じである。
「緊急事態以外で集まるなんて、初めてだよね」
「初めてはいいけど、もっとましな部屋にしてほしいものだわ。あたし、この部屋嫌い」
「でも、第八使徒発見のとき以来ね。こうして三人で集まるの」
 シンジを挟む形で、彼の右手にアスカ、左手にレイという並び順で椅子に腰掛け、めいめいに言葉を交わす。
 シンジは二人の少女に分け隔てなく視線を向けながら。
 アスカは不満そうに腕組みしながら。
 レイは文庫本を眺めながら、召集をかけた当人である葛城ミサトを待った。
 曜日でいえば今日は土曜日であるから、本来であればシンジがレイの部屋へ向かい、任務を遂行すべく一夜を共に過ごす日であった。つまり自宅待機であったレイと、休日であったアスカは、事情も解らぬまま突然ネルフ本部へ召集させられたわけである。
 シンジは帰り支度をしていた矢先に、この会議室へ向かうようにと言われた。
 それに続いてアスカとレイが訪れ、もう二十分が経とうとしている。そろそろおしゃべりの話題も尽きてきたし、予定の正午も過ぎたから、次第にお腹も空いてきた。アスカだけでなく、シンジまでもがソワソワとした焦燥感を覚え始める。
「…ミサトさん、今日も遅いね」
「どうせミサトのことだから、また道に迷ってんのよ。これくらい、一回来たら覚えてもいいようなものなのに。ファーストもそう思うでしょ…って、ちょっとあんた!なにシンジに寄りかかってんのよっ!?」
 アスカが話題を振りつつ視線を向けると、いつの間にかレイは文庫本を眺めたままシンジに寄り添っていた。二人は半袖の制服姿であるから、シンジの左腕とレイの右腕はぴっとりとくっついてしまっている。
 待たされる苛立ちと、空腹感による苛立ち、そしてささやかなヤキモチのために、アスカは相乗的に気が立ってしまった。そのためにアスカは椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり、行儀悪くレイを指さして怒鳴りつけたのだ。
 しかし、その声に怯えて身を縮こまらせたのはシンジの方であった。レイは悪びれる風でもなく落ち着き払い、文庫本からちらりと視線を上げてアスカを見つめる。
「寄りかかってないわ。くっついてるだけ」
「それが鬱陶しくしてるんじゃない!ねえシンジ、シンジだって迷惑でしょっ!?」
「碇くん。わたし、迷惑かけた」
「え、えっ!?」
 外敵を射竦める猛犬のような眼差しと、飼い主に叱られた子犬のような眼差しに挟まれ、シンジは二人を交互に見ながらたじろいだ。アスカの青い瞳も、レイの赤い瞳も、シンジの答えに期待を抱いて微動だにしない。
「あ、あっ、あのっ…くっついてるなって思うけど、迷惑だってことは…別に…」
「シンジも、なにファーストを甘やかしてんのよっ!!」
「わああっ…!」
 歯切れの悪い口振りでつぶやくシンジに、アスカは恋人としてのもどかしさに耐えかねてしまう。
 やおらシンジの胸ぐらを引っつかむと、アスカは力任せに揺さぶってわめいた。シンジは台風に翻弄されるような心地で悲鳴をあげる。
 第八使徒との戦闘の際になお一層想いを募らせたぶん、独占欲も大きくなっている。
 もちろんシンジの気持ちを信じてはいるが、目の前で他の女性に優しくされてはやはりおもしろくない。ましてや堂々と夜を共にできるレイが相手であるからなおさらだった。
 そんなレイが、ふと読み耽っていた文庫本をテーブルに置いて立ち上がった。先程の叱られた子犬のような眼差しはどこへやら、表情から毅然となってアスカを睨み付ける。
「碇くんは迷惑だって言ってないのに、どうして惣流さんが怒るの」
「えっ…だ、だって、それは…」
 心持ち早口となっているレイの問いかけに、アスカも思わず返答に窮してしまう。
 シンジとあたしは恋人どうしなんだもの、と宣言すれば、それで済むことだ。シンジも否定はしないだろうし、レイも嫉妬という感情を理解しているのであれば、それで一応は怒る理由を納得するはずだ。
 しかし、アスカは言葉にできなかった。レイに気圧されているわけでもないが、なんだか喉の奥が詰まったようになり、想いを言葉にすることができない。
 先程まで責め立ててはいたものの、今はシンジに救いを求めるよう狼狽えた視線を向けてしまう。シンジに都合よく依存しているのを痛感して、なんだか泣けてきそうな心地だ。もっと素直にならなきゃと、ひたむきな恋心を信じて自身を鼓舞する。
 シンジも交互に二人を見つめていたのだが、ここは自分がはっきりと理由を告げるべきだと覚悟を決めた。ここでもオタオタとしていては、アスカだけでなくレイにまで男のくせにとなじられるような気がしたのだ。
 そんな二人よりも、レイはもっと冷静で、もっと自分に素直であった。アスカとシンジを順に見つめ、何のためらいもなく想いを口にする。
「わたしは碇くんが…」
「綾波、僕とアスカは…」
「だってシンジはあたしの…」
 三人が同時に想いを告白しようとした、ちょうどそのとき。
「お待たせーっ!いやあゴメンゴメン、ちょっち道に迷っちゃってねえ」
 会議室の自動ドアが開き、いつもの赤いジャケットを羽織ったミサトが苦笑半分で現れた。それで我に返った三人は、行き場を失った熱情のためにたちまち顔中を真っ赤にする。
 それに、思い詰めていたために気付かなかったが、この場面は端から見れば痴話喧嘩そのものではないか。
 シンジもアスカもレイも、照れくさいやら気まずいやらで狼狽しきりとなった。シンジは開襟シャツを整え、アスカは倒れた椅子を起こして座り直し、レイはそそくさと文庫本を手提げバッグに戻して咳払いなんかしたりする。
「…どったの?三人とも」
「な、なんでもないです」
「なんでもないわよっ」
「別に、なんでも」
「ふうん?まあいいけど」
 ミサトは怪訝な面持ちで三人を眺めはしたが、誰一人として事情を語ろうとしないので詮索はしなかった。片手にしていたクリアファイルをテーブルの上に置くと、三人の正面に回り、椅子に腰を下ろすこともなく突然話を切り出す。
「今日集まってもらったのは、ひとつだけ連絡することがあったからなんだけど」
「なぁに?連絡ひとつで、わざわざあたし達を呼び出したわけ?」
「ちゃんとそれなりの理由はあるわよ。手短に済ますから」
 先程の苛立ちがいまだに収まらず、アスカは腕組みしたままで不満を鳴らした。ミサトは苦笑する他になく、右手だけでアスカを拝むように詫びる。
「じゃあもう決定事項だけ伝えるわ。第二世代育成計画のことなんだけど…本日マルキュウマルマルをもって計画のすべてを無期限凍結。以上よ」
 ミサトはそう告げると、持参したクリアファイルを開き、一枚の書類を三人に提示した。それは碇指令が署名した、第二世代育成計画の指令書である。そこにはミサトが言った内容が、ただぽつねんと書いてあるのみであった。
 三人は目をまん丸に見開いたまま、言葉も出せなかった。紙切れ一枚で無茶を命じたり、取り消したりするネルフのやり方に呆れたわけではない。もちろん腹立たしい気持ちはあるにはあるが、その突拍子のなさに驚き、なんの反応もできないのである。
「シンジくんには色々と不便をかけたわね。今日からは二ヶ月前の生活に戻ってもらうわ。レイも今までご苦労様。アスカも余計な心労をかけちゃったわね。みんな、本当にごめんなさい」
「あ、あの、なぜ急に」
 ミサトが帽子を取って頭を下げると、珍しくレイから挙手して説明を求めた。
 シンジとアスカは、思わずミサトより先にレイに注視してしまう。レイが報告や命令に対して疑問を挟んだり、事情説明を求めたりすることがあまりに珍しいからだ。
 ミサトまでもが一瞬きょとんとなってレイを見つめたが、やおら沈痛な面持ちとなり、あらためてチルドレン三人を見つめた。
 そして、溜息混じりと呼ぶに相応しいやるせなさとともに、こうつぶやいた。
「アメリカの第二支部で、計画の該当者に死者が出たのよ。そこのチルドレンは全員登録抹消。大人の身勝手が過ぎたんだわ」

 特務機関ネルフは日本に本部を置き、その他の関係各国に支部を設けている。
 その関係各国の中でも、アメリカは第一支部と第二支部の二つを擁しており、総合的な規模でいえばネルフ本部をも凌いでいる現状だ。実際、アメリカ本国からも相当な国家予算が支部のために割り振られており、エヴァンゲリオン参号機と四号機の建造が進められていれば、エヴァンゲリオンの量産化計画までもが立てられているほどである。
 そこの第二支部にも、日本と同様三人のチルドレンが所属していた。構成は男子が二人と、女子が一人。状況次第ではネルフ本部へ転属することになっているし、建造中のエヴァ参号機と四号機が完成したら、そちらのパイロットにも就けるよう訓練されていた。
 そんな三人にも、今回の第二世代育成計画に基づく命令が下された。時間的にいえば、シンジ達に命令が下されてから、おおよそ一ヶ月後のことになる。
 男子二人をそれぞれAおよびB、女子をCと呼ぶことにしよう。
 もちろん彼らも十四歳で、思春期の真っ盛りである。アメリカ国内から探し出された彼らにはそれぞれ面識は無かったそうだが、やはり同じ境遇の者どうしが同じ施設で、同じ時間を過ごしていれば恋心も芽生えるというものである。出会って間もなく、AとCは初々しいながらも恋人どうしとなった。Bもそれを妬んだりはせず、むしろ祝福していた。実際に、彼らの関係は極めて良好であったのだ。
 しかし、件の計画が発表されるやいなや、その関係は急変することとなる。
 計画によって選出されたのはBとCであり、Aとの該当者はフランス支部の女子だという。しかもフランス支部にはチルドレンがその女子一人しかいないからと、Aのフランス支部への転属も決定されてしまった。
 Bは二人の気持ちを考えると命令に従えず、Cは嘆きの深淵に閉じこもり、Aは行方をくらますなど、支部のスタッフは相当に困惑したらしい。
 そして、事件は起こった。
 やはりあちらでも土曜日が命令遂行の日であり、BがCの部屋にいるところへ突然Aが姿を現した。
 心配しきりであったBが駆け寄るなり、Aは隠し持っていたナタをBに振り下ろして斬殺。原形を留めぬほどに死体を切り刻んでから、今度は取り乱して泣き喚くCに襲いかかったところで、駆けつけたスタッフがAを射殺。
 Cは右腕の肘から先を失いながらも一命は取り留めたが、事情聴取すら困難を極めるほどに精神を病み、そのまま登録を抹消されてしまった。
 もともとアメリカ第一支部は研究開発がメインであったからチルドレンを登録しておらず、これでネルフのアメリカ支部はチルドレンをすべて失ったことになる。時間と費用をかけずにチルドレンを用意するはずの計画が、逆に時間と費用をかけて育成したチルドレンを失う結果となったわけだ。
 それとこれは余談になるし、今回の事件とは無関係と信じたいところではあるが、AとC、そしてBとでは肌の色も違っていたという。

 知りうる限りの事情を説明したところで、ミサトは日本のチルドレン三人に対して、深々と頭を下げた。
 許してほしいと申し出ることさえも大人の身勝手であるから、あえてそうは言わない。今までどおり、否、今まで以上にエヴァのパイロットとしての職務を尽くしてほしいと。
「あれって大人の開き直りなんだろうけど…でもあそこまで言われると、なんか大人になんかなりたくないって思っちゃうなぁ」
 すっかり顔馴染みとなった男性スタッフに中学校の近くまで送ってもらい、その車が遠く見えなくなったところで、シンジは誰にともなくそうつぶやいた。
 四日ぶりの外の世界は、相変わらず猛暑が続いていた。エアコン漬けの生活を送っていたために、シンジは早速根を上げてしまいそうになる。
 ミサトからの報告が終わってしまえば、もうネルフ本部に留まる必要はなかったので、三人とも車で送ってもらったところだ。
 しかし会議室を出てからも、車に乗り込んでからも、三人の間には一切会話がなかったので、久しぶりに発せられたシンジの声の調子は妙におかしかった。それでもどうにか声を出せたことで、重苦しい胸の支えが取れたように穏やかな気分となる。
「でも、誰も子どものままではいられないわ。だから、そういう大人にならなければいいの。ならないように気をつけていればいいの」
 手提げバッグを片手にしたレイがシンジの左側に並んで歩き、そうつぶやく。
 淡々とした口調ながらも真っ直ぐにシンジを見つめているのは、単に意見を述べただけでなく、彼に期待を寄せているためだ。優しいシンジなら、自らの意見を一方的に押し付けて平然としているような大人にはならないと信じているためでもある。
 もちろん今回の件で、大人の一人である碇指令が嫌いになったというわけではない。
 それでも碇指令に負けないだけ、シンジの存在が心中で大きくなったのは事実だ。些細なことであれば、今なら碇指令よりもシンジに味方してしまうような気さえする。
「しっかし、仲間を殺しちゃうなんてねえ。そもそも男のくせに嫉妬して暴走しちゃうなんて、情けないったらありゃしない」
 アスカも後れを取るまいとシンジの右側に並び、やはり淡々とした口調でつぶやく。
 アスカはレイと違ってシンジを見つめていないが、それは事件の当事者である男子をひたすらに軽蔑しているためだ。シンジもアスカから見れば情けない男の部類に入れられてしまうのだが、つまらなそうに吐き捨ててしまいたいほどの間抜けとまではいかない。からかい甲斐があるぶん、圧倒的なアドバンテージがあるといっていいくらいだ。
「…今回の計画で、アメリカ支部では大変なことになっちゃったよね」
 並んで歩く道すがら、三人は交差点の横断歩道で信号待ちに遭い、足を止めた。
 そこでシンジは何とはなしに快晴の青空を見上げ、誰にともなくそう切り出した。アスカもレイもシンジを見つめ、静かに言葉の続きを待つ。
「だから…今回の計画は、大人達から見れば大失敗だったろうって思うんだ。でも…あくまで僕個人はね、結果的に命令されてよかったって思うんだ」
「…それってどういう意味よっ!何を言い出すかと思ったら、このスケベッ!!」
「いてててっ!そ、そういう意味じゃないって!最後まで聞いてよ、アスカッ…!」
「乱暴はだめ」
 やおらアスカはシンジを睨み付けると、右腕でヘッドロックをかけ、左手でゴツゴツと拳骨の雨霰を降らせた。シンジは両手で懸命に防御しながら、悲鳴のような声で弁解する。
 今までこういう場面では他人のふりを決め込んでいたレイも、二人を引き離そうと割って入った。商店街通りはまだ先なので人目こそ気にならないが、シンジに対するアスカの暴力が許せないのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ…結果的にって言ってるだろ、もう」
「はぁ、はぁ、はぁ…じゃあ結果的にって、どういうことよ」
 たっぷりと余計な汗をかいてから、ようやく二人の身体は引き離された。すっかり息を荒げたシンジとアスカに、レイも小さく溜息を吐く。
「あんな命令が下されたからこそ、僕はアスカとも仲良くなれたし、綾波とも仲良くなれたって思うんだ。それまでは二人のことをエヴァのパイロット仲間ってくらいでしか意識してなかったけど、今はずっと親しく感じてる。いつか使徒との戦いが終わって、エヴァに乗る必要がなくなったとしても…ずっと、ずうっと親しい関係でいられるような気もするんだ」
「シンジ…」
「碇くん…」
 少しはにかんだようなシンジの言葉に、アスカも、そしてレイも一様に聞き入って真摯な面持ちとなった。
 確かに、アスカは実感している。
 あの計画が無かったとしたら、自分はシンジに対して想いを伝えることができなかったであろう。あの夜、ミサトとの話を聞かされて取り乱すことがなければ、きっと自身の想いを気の迷いとして処理していたはずだ。
 それにこれは偶然であろうが、計画が実行に移されはしたものの、シンジとペアで選出されなかったことも自分達には良い結果に繋がったように思う。
 アメリカ支部のチルドレンのように自暴自棄にならず、ひたすらシンジを信じ続けたからこそ両想いにもなれたのだ。仲良くなったというよりは、絆が強まったといった方がアスカの実感は強い。
 レイもまた、実感している。
 あの計画が無かったとしたら、ここまでシンジとの距離は縮まらなかっただろう。それどころか、シンジとの距離を縮めたいとも思わなかったに違いない。
 シンジと一緒に選出されたからこそ、おしゃべりの楽しさも覚えられたし、スキンシップによる安らぎも覚えられたし、セックスによって想いを通わせ合う心地良さも覚えられた。そのためにシンジとの距離が縮まり、彼に対する好意も日に日に増幅していったのだ。
 それに伴い、毎日の生活に充実感を得られるようになってきた。
 週末にはまたシンジに会える。シンジと思うがままに時間を過ごせる。
 そんな期待感を胸に、行動も言動も活き活きとなった。積極性と呼ぶべきものも身に付いたように思える。単に生きているだけの毎日が、生きることが楽しいと思える毎日に変わってきたのも、すべてはシンジとの仲が親密になったためだと断言できた。
「ははは…でもそれって、僕の一方的な思いこみかもしんないけどね」
「ううん、そんなことない。碇くんとわたし、すごく仲良くなれた」
「あ、あたしだって、あんたとは親しくなれたって思ってるわよっ?」
「えへへ…ありがとう。嬉しいけど、なんだか照れくさいなぁ」
 照れて謙遜するシンジに、レイは極めて穏やかな表情で首を横に振った。アスカはさりげなくシンジの右手をとり、彼の想いに同意する。
 それでシンジはすっかりはにかんでしまい、くすぐったそうに目を細めた。
 その幸せいっぱいといった表情は、若々しい男心が二人の美少女に慕われる果報を持て余したことによるものである。信号が青になり、横断歩道を渡る足取りも、なんだかフワフワと浮つきそうで落ち着かない。
「あ…」
 横断歩道を渡ったところで、ふとレイが声を上げた。何事かとシンジとアスカが視線を向けると、レイは三歩ほど離れた場所で、寂しそうに立ち尽くしている。
「どうしたの、綾波?」
「…碇くん、今日は部屋に来ないの」
「あ…」
 レイのつぶやきを聞いて、今度はシンジが声を上げた。
 今日は土曜日。今までならレイの部屋へ行き、命令通りにセックスに励む日である。
 とはいえ、その命令も計画の凍結とともに取り消されたわけだから、もう二人がセックスする必要はどこにもないはずだった。
 それでもレイは、シンジを恋しがらずにはいられなかった。
 毎週欠かさずセックスを楽しんできたために、もう身も心もシンジになついてしまっている。今さら独りぼっちの夜の繰り返しに戻るなど、今のレイにはとても耐えられないことであった。
 そんな寂しがり屋で甘えんぼな気持ちが、レイに声を上げさせたのだ。
 このまま真っ直ぐ行けばミサトのアパート方向であるし、レイのアパートへはここで左折して行かなければならない。シンジがそのままアスカと一緒に帰ってしまいそうになったので、レイはついつい呼び止めてしまったのである。
 とはいえ、そんなレイの気持ちにアスカが共感できるはずもない。
 アスカはたちまち不満そうに口元をとがらせると、シンジを背後に隠すようにしてレイの前に立った。先程の会議室同様、青い瞳と赤い瞳が真っ向から眼差しをぶつけ合う。
「ちょっと、あんた何を聞いてたのよ。あの計画は終わったんだから、もうシンジとセックスしなくていいのよ?」
「…セックスしなくても、碇くんと一緒に過ごしたいの」
「ダメよ、そんなの!シンジはあたしと一緒に帰るんだからっ!」
「どうして惣流さんが決めつけるの」
「き、決めつけてるわけじゃないわっ!だってシンジは、あたしと一緒にミサトの部屋で暮らしてるんだもんっ!」
 アスカは声を大きくして、レイは少しだけ早口となって、お互いに譲ろうとしない。さすがのシンジもこのままではまずいと、二人の間に割って入る。
「ちょ、ちょっとアスカも綾波も落ち着いて…」
「シンジッ!今日は真っ直ぐに帰るのよねっ!?」
「碇くん、今日も来てくれるんでしょ」
「え、あ…そ、その…」
 割って入ったまではよかったが、火花を散らさんばかりに睨み合っていた赤い瞳と青い瞳が一斉に向けられて、シンジはたちまち射竦められてしまった。どちらに味方することもできず、返答に窮してしまう。
 そうなってしまうと、今度は二人の憤りまでもが煮え切らないシンジに向けられることになる。美少女二人による期待と苛立ちの眼差しのために、シンジの背中には不快な汗がじっとりと滲んできた。横断歩道を渡る前後で、天国と地獄を見る思いである。
 まさにシンジが絶体絶命の窮地に陥った、そのとき。
 やおら美少女二人のお腹が、三秒ほどもくぐもった音を立てた。シンジを取り合う以前に、腹の虫が威勢よく不満を鳴らしたのである。
 それでたちまちアスカもレイも頬を染め、片手でお腹を押さえながら気まずそうに視線を泳がせた。シンジはすかさず、ぽんとひとつ手を叩く。
「そっ、そういえばお腹空いたよね!どこかお昼食べに行こうよ、ね、ねっ!?」
 わざとらしいくらいに元気良く誘いかけるシンジに、アスカもレイもひとまず休戦状態に入ることに決めた。腹が減っては戦はできぬ、である。
 アスカは腕組みして、レイは心持ちうつむいて、どこへ行こうかとしばし思いを巡らせた。シンジはそんな二人を緊張の中で見つめながら、安堵に胸を撫で下ろす。
 大袈裟に思われるかもしれないが、本当に生きた心地がしなかった。予定よりも遅れてきたミサトに、今だけは心から感謝したい気分である。
「…あ、ちょっとファースト。あんたいつだったか、ザーメン出してくれるラーメン屋があるって言ってたわよね」
 ふとアスカが意識の片隅から妙な記憶を探し出し、怪訝な面持ちでレイに尋ねた。レイは一瞬きょとんとなったものの、すぐにその店を思い出して小さくうなづく。
「ええ。ここからならそう遠くないけど」
「よぉし!じゃあそこにしよう!そこに決まり!僕おごるよ!」
「ちょ、ちょっと、シンジ!押さないでよっ!!」
「い、碇くん、そっちじゃなくて、あっち」
 レイの言葉を聞くなり、シンジは美少女二人の背中を押して歩き出した。アスカとレイは戸惑いしきりとなるが、やがて仕方ないという風にささやかな苦笑を浮かべる。
 一時的な逃避に過ぎないが、食事の間に気持ちを決めればいい。
 シンジはそう腹をくくっていた。

 レイの教えてくれたラーメン屋は、聞いていたとおりで目立たない佇まいであった。
「…でも綾波。店のおじさん、全然無愛想じゃなかったような…」
「…よく考えたら、男の人には愛想がいい感じ。わたしのときは、本当に無愛想」
「愛想がいいってゆうか…あのおじさん、なんだか気味悪くない?シンジがザーメン三つって言った途端、ありがとうございますぅ、なんてさ。一回注文を聞き直したのも、なんだかすごくわざとらしく感じたんだけど」
 三人がそうこうおしゃべりしている間に、店主がどんぶりを運んできた。そのときもシンジには丁寧に、アスカとレイにはどこかぞんざいに置いていった。思わず三人で見合ったくらいだから、決して気のせいなんかではない。
「で…これがザーメンなのね」
「そう。碇くん、わたしのチャーシューあげる」
「あ、ありがと…でも綾波、お肉も食べるようにしなきゃだめだよ」
「とかいって、どうせファーストも、シンジのお肉なら喜んで口にしてるんでしょ?」
「…」
「あ、アスカッ!」
 三人揃っての食事も、なかなかに楽しく、美味しいものだ。おしゃべりが弾めば箸も弾む。三人とも、スープに至るまでしっかりとたいらげることができた。
 結局ザーメンとは、ザーサイがどっさりと盛られた味噌ラーメンのことであった。

つづく。


 


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(updete 2004/06/25)