はじまるシアワセ

08

作者/大場愁一郎さん

 

 その小部屋は薄暗い上に狭く、空調が利いていてなお熱気がこもっていた。
 入って正面には、無数のモニターが納められたラックがある。室内に渦巻く熱気はこのモニター群によるものだ。あえて照明が消されているのは、これ以上熱源を増やしたくないためである。
 スイッチやダイヤルが所狭しと並んでいる操作卓には、様々なデータが記された報告書、いくつかの女性雑誌、ビールの空き缶といったものがひどく乱雑に置かれている。この部屋を使用している者の性分が窺えるが、実際この部屋で寝泊まりしてもいるわけだから仕方がないともいえよう。
 今もなお、この部屋の使用者は帰宅することもなくモニターを眺め続けている。リクライニングが可能な大型チェアーに腰掛け、操作卓に両肘をつきながら、じっとひとつのモニターに見入っていた。
 モニターはすべてに映像が表示されているが、動きのあるモニターはふたつ。
 ひとつはどこかのリビングのようであった。引っ越しでも始めるのか、制服姿の男達が調度品を運び出したり、壁紙をはがしたりと忙しそうに動き回っている。
 もうひとつのモニターには、先程のリビングとまったく同じような場所に、一人の少年と二人の少女が映っている。先程から監視され続けているモニターはこれであった。
 ふとその時、小部屋の自動ドアが開いた。ふわりと熱気が漏れ出てゆく代わりに、一人の女性が室内に入ってきて、大型チェアーの後ろからモニターを眺める。
「…こちらの子ども達は、本当に仲がいいわね」
「仲が良すぎて困るくらいよ。見てて飽きないわ」
 微笑ましげな感想に、監視を続けていた方も苦笑しつつ、両手を上げて大きく伸びをする。モニターに映っている少年達は、川の字に布団を並べて敷いている最中だ。どうやら少年が真ん中に寝ることになるらしい。
「片づけは…進んでないようね」
「そう?もうそろそろ元通りの会議室に戻りそうだけど?」
「あっちじゃなくて、こっちよ」
「あ、ああ…とりあえずあの子達が寝ちゃうまでは見てようかなって」
「のんきなものね。この部屋、明日のお昼までに元通りにできる?葛城三佐」
「心配しないでよ。昼夜が逆転してるからね、ちゃんと片づけておくわよ。カメラは少しずつ撤去していけばいいし」
 大型チェアーに腰掛けている葛城ミサトは、白衣姿の赤城リツコにそう告げると、あらためてモニターに視線を向けた。引っ越し作業をしていた部屋は、いつしか殺風景な会議室にその装いを戻されている。
 一方で少年達は床に就き、明かりを消してしまった。当然、モニターも真っ暗になってしまう。
 それに合わせてミサトが操作卓のスイッチをオンにすると、色合いが変わりはしたものの、再び少年達の姿がモニターに映し出された。音声までは拾い上げていないために聞こえることはないが、なにやら楽しげにおしゃべりしているのがわかる。
「…結局あたしの努力、なにもかも無駄になっちゃったのよね」
 ミサトはチェアーの背もたれをわずかに倒し、ゆったりと背中を預けながら苦笑半分でつぶやいた。リツコも部屋の壁に寄りかかり、白衣のポケットから煙草を取り出してくゆらせ始める。
「いいところまでは行ってたのにね。もしかしたら、最初からシンジ君とアスカをペアにしてた方がすんなり成功してたんじゃないかしら?」
「今思うとそうね。深読みしすぎと、欲張りすぎだったわ。まさかあそこから避妊を始めるなんて思ってもみなかった」
「アスカはエヴァのパイロットとしてもプライドが高いから、そこはあなたの読み違いね」
 ミサトは飲みかけの缶ビールを一口あおりながら、ふと操作卓のジョイスティックとボリュームを片手で器用に操作した。モニターの向こうで床に就いている二人の少女をそれぞれクローズアップし、映し出す。
 リツコは換気口へとたゆたってゆく紫煙ごしに、その顔を眺めた。ハニーブラウンの髪の少女も、水色に近い銀髪の少女も見慣れた顔ではあったが、その穏やかな表情は見たことがないものであった。
「結局、それからシンジ君は一度も?」
「ええ、一度も。最初からきちんと使ってるわ。アスカのことを大切に思ってるのはもちろん、レイともしてるから自制できるのね。ああ、これもやっぱり裏目に出てるなぁ」
「そういえば、あなたは妊娠してないでしょうね」
「ちゃんとお薬飲んでたから問題ないわよ」
「太るわよ」
「うっさいわねえ、もう止めてるわよっ」
 携帯灰皿に灰を落としつつ、リツコはミサトを揶揄した。その言葉に合わせたかのように、モニターの向こうの少年達も楽しげに笑う。
 それでミサトはついつい本気でふてくされてしまった。自らの目論見がことごとく裏目に出たこともあり、なにより睡眠不足による過労のせいもあって、どうにも気分が苛立ってしまう。それも今日までとは思いながらも、やはり逃した魚は大きいように思えて、無念でならない。
「アメリカ支部の子達のことは、まあわからないでもないからいいけど…問題はシンジくんよ。さっさとアスカを妊娠させなさいよねっ。かといってレイも妊娠させられないし。まったく、男のくせにだらしないんだからっ」
 ミサトは再びジョイスティックとボリュームを操作し、川の字の真ん中になっている少年の顔をクローズアップして八つ当たりした。
 屈託のない表情で談笑している姿を見ると、なんだか苛々しているのも馬鹿馬鹿しくなってくるから不思議だ。そのまま苛立ちとともに、缶ビールを一息に飲み干す。
 そんなミサトに苦笑しながら、リツコは携帯灰皿の中で煙草をもみ消した。
 いつまでもここで油を売っているわけにはいかない。まだまだ仕事はあるのだ。
「一挙両得どころか、二兎を追う者一兎をも得ずってところかしら?もっとも、あちらみたいなことにならなくてよかったじゃない。アスカはどうなるかと思ったこともあったけど。それにシンジ君だって、そんなに捨てたものじゃないわよ」
「…どうしてよ」
「え…」
 ふと、訪れる静寂。その間にも、秒単位の無意味な時間が物凄い早さで過ぎてゆく。
 ミサトのあまりにストレートな質問を食らい、リツコは一瞬返答に窮した。
「…だってほら、今は三人とも驚くくらいのシンクロ率をマークしてるでしょう?それはシンジ君が、二人の心の風通しを良くしてくれたからだと思うの。今の彼らなら、たとえば巨大隕石が落ちてきてもエヴァで受け止められるかも知れないわ」
 リツコは冗談を交えながら、生まれた静寂を埋めるような口調でミサトに語った。
 確かに、三人のシンクロ率はこの二ヶ月の間で、それまでの最高値をあっさりと更新してしまったのだ。しかもその見事な数値を平均して維持し続けているのだから、件の計画はそれなりの結果を残したといえるだろう。
「結果オーライ…って言ってくれる人がいるんなら、まだ救われるかな」
「あなたがくさることはないわ。少なくとも、私はあなたの努力に感謝してるわよ」
 リツコの言葉に、ミサトも心持ち表情を和ませる。肩から力が抜けると、穏やかな溜息が深々と漏れ出た。
 それを見届けて、リツコは自動ドアの前に立った。ドアが開いたところで振り返り、チェアーでささやかにくつろいでいるミサトを見つめる。
「じゃあ、片づけは頼んだわよ。どうしても大変なら、いつでも呼んで」
「うん。ありがと、リツコ」
 ミサトは右手をひらひらと振って、リツコに答えた。
 モニターの向こうでは少年達もしゃべり疲れたようで、それぞれ仲良く寄り添って眠りに就いていた。

 巨大なメスシリンダー。
 室内に入って目に付くのは、まずそれであった。正確にはメスシリンダーではないのだが、液体を満たした目盛り付きのガラス管を見れば、やはりそれにしか見えようがない。
 この部屋を管理しているリツコ自身、訪れるたびにそう思う。用意した本人でありながらも苦笑を禁じ得ないが、とはいえデザインを優先している余裕など、この区画の施設にはどこにもない。
 この部屋も照明が消されている。とはいえ、熱気がこもっているからではない。
 照明はあるのだが、今は夜だから点灯させていないのだ。外界の日の出に合わせて、太陽灯が自動的にメスシリンダーを照らすようになっているのである。
 照明が無くとも、室内はそれなりに明るかった。巨大なメスシリンダーはオレンジ色の液体を満たしているのだが、それ自身が暖かみのある明かりを放っているのだ。実際、数機の太陽灯以外に照明器具は存在していない。
 そのオレンジ色の液体の中には、一人の少女が漬け込まれていた。
 少女は一糸まとわぬ全裸体であり、ゆったりとした直立の姿勢でオレンジ色の液体の中に浮かんでいる。水色に近い銀髪の奥に二本の細いコードが潜り込んでいるが、それでぶら下げられているように見えなくもない。
「LCL濃度、純度、温度、異常なし…振動、異音、共に検知せず…」
 リツコはメスシリンダーの基部にあるデータロガーを覗き込み、その出力結果をログブックに記載してゆく。
 暖かみのあるオレンジ色に照らされながらも、その美貌はどこか冷たく、憂いが感じられた。微妙に帯びている翳りが、ひときわ彼女の美貌を損ねてもいる。
「…本当なら、四号機のパイロット候補まで揃うはずだったんだけど…まあ、あまり欲張ったら罰が当たるわよね。ただでさえもエヴァを独占できるんだから」
 記載を終えたリツコは顔を上げ、メスシリンダー内の少女に語りかけた。とはいえその言葉はあくまでリツコの独語の範囲であり、少女は眠っているかのように目を閉じたまま、身じろぎひとつしない。ともすれば永遠の眠りに就いているようにも見える。
「でも、十四年以上も参号機を起動しないでメンテナンスできるものかしら。もっともそれまでに最新機が登場するか、新たに優秀なチルドレンが発見されるか…あるいは、我々人類が死に絶えているか」
 リツコの独語はなお続く。
 それは近い将来への不安であり、遠い未来への不安でもあった。
 メスシリンダー内の少女を見つめる眼差しには、ささやかな期待感が込められてはいる。
 それでもやはり、リツコの表情は陰鬱なままであった。先程ミサトに見せたような、ささやかな笑顔すら浮かぶことがない。
 すべては、この施設のためである。
 この施設に訪れたときのリツコは、人としてのぬくもりすらも排除しきった、まさに冷酷なまでの科学者なのだ。楽しげに笑みを浮かべていられる精神的余裕はないし、もとより笑う気になどなれない。
「さて…じゃあ、また明日来るわね。明日には、ちゃんと今日のぶんの記憶を送ってあげるから。ゆっくり休んでなさい」
 少女に優しい言葉をかけながらも、リツコの表情は最後まで陰鬱なままであった。高純度のLCLに漬け込まれた少女から目を逸らすよう、無慈悲なまでの動作で踵を返す。
 そのとき、リツコの背後となったデータロガーが何かを検知し、微かな作動音を室内に響かせた。リツコは動ずる風もなく、再び向き直ってメスシリンダーを見つめる。
 メスシリンダー内の少女はわずかに微笑み、そっと両手を自らの下腹に当てていた。データロガーは、どうやらその微振動を検出したらしい。
「…何か、いい夢でも見てるのかしら」
 リツコは陰鬱を通り越した沈痛な面持ちとなり、もうひとつだけ独語した。

 何か、いい夢でも見ていたらしい。
 シンジは起き抜けのぼんやりとした意識の中、甘やかな名残で霞む記憶を回想してみた。それを阻むようたちまち濃密なまどろみが訪れて、シンジは大きくあくびをする。
 いい夢に限って、目覚めた瞬間に記憶から抜け落ちてしまうものである。シンジのささやかな努力も、やはり徒労に終わってしまった。シンジは小さな溜息をひとつ、寝返りを打とうと夜闇の中で身をよじる。
 ところが身体は両側から押さえ込まれているように、身動きひとつ取れない。
「…あ、そっか」
 まさか金縛りと戦慄したのも束の間、シンジは両側からのぬくもりと寝息に気付き、ほうと安堵の息を吐いた。シンジは二人の少女に挟まれる格好で眠っていたのだ。
 右の腕枕で眠っている少女はアスカ。惣流・アスカ・ラングレー。
 左の腕枕で眠っている少女はレイ。綾波レイ。
 ここはミサトのアパートであるから、本来であればアスカと二人きりの夜を過ごしているところだ。件の計画も無期限凍結となったのだから、レイと夜を共にすることもなくなったはずである。
 ところが三人で昼食のラーメンを食べてからも、レイはシンジと離れたがらなかったのだ。シンジもその場で意を決するつもりだったのだが、レイの眼差しにも、アスカの眼差しにも負けてしまい、結局こうして三人で夜を過ごしているわけである。
 もちろん、アスカも今日一日だけという条件でレイを招いたのだ。気をよくして毎日のように泊まりに来られたら、シンジとの疑似蜜月生活を送ることができない。
 レイもそれで十分であった。学校やネルフ本部でもシンジと会う機会はあるだろうし、なにより日を改めて、シンジを自室へ招待すればいいだけのことだ。
 約束さえ取り付けられればすぐにお揃いのスリッパを用意するし、ミネラルウォーターも、食事のサラダも、避妊具も準備する。なにより部屋からキッチン、浴室に至るまで徹底的に掃除してシンジを歓迎するつもりであった。
 そんな二人の少女に腕枕したまま、シンジはそれぞれの寝顔に視線を向けた。夜闇の中で明かりはほとんどないから、どんな顔で眠っているのかは判別が付かない。ただ寝息の安らかさを聞いていれば、寝苦しい思いをしていないことは分かる。
 効きは決してよくないながらも、クーラーはかけっぱなし。
 三人の身体を覆っているものは、薄手のタオルケットが一枚。それでもぴったりと寄り添ってぬくもりを分かち合っているから、すこぶる快適であった。難をあげれば、自由に寝返りが打てないことくらいだ。
 実際、身体も適度な疲労を覚えていたから、三人とも寝付きはよかった。
 とはいえ、三人で淫らに耽ったというわけではない。
 帰宅してからは他愛もないおしゃべりに、だらだらとテレビ鑑賞、思い立ってテレビゲーム大会、あるいはペンペンを交えて夕食を楽しんだりと、あれこれ思いつくままに時間を過ごした。
 レイも他人の家へ遊びに行くのは初めてであったために、初めのうちは妙によそよそしくしていたものの、次第に雰囲気に馴染んでリラックスしてきた。テレビゲームも初体験であったがやたらと飲み込みが早く、アスカと激戦を繰り広げていた。
 アスカはアスカでレイの存在を気にしている様子ではあったが、やはりテレビゲームの激戦で気持ちが楽になったようだ。床に就く前にシャワーを浴びたのだが、アスカは強引にレイを誘い、一緒に汗を流しもしたくらいだ。
 こうして思い返してみれば、なんだかすごく楽しいひとときだった。
 シンジは穏やかに目を閉じ、ワクワクと胸が逸るような気分を呼び戻しながら小さく溜息を吐いた。きっとこんな気分だから、何かいい夢を見ることができたのだろう。
「ん、んぅ…シンジ?」
 その吐息が耳に障ったわけでもないが、ふとアスカが目を覚まし、小さく身じろぎした。シンジは右側に顔を向け、小声で気遣う。
「起こしちゃった?」
「ううん…なんとなく目が覚めたんだけど…そしたらシンジも起きてたのかなって」
「僕もさっき目が覚めて…寝返り打てなくて、どうしようかって思ってたとこなんだ」
「ははは、なんだか磔にされてるみたいね。でも、優柔不断な性格を悔い改めるにはちょうどいいかも。今夜一晩、そうやって反省してなさい」
「そ、そんなぁ」
 冷たく宣告はするものの、アスカはすぐに頭を上げて、シンジの右腕を解放した。シンジは中空で右腕を伸ばしたりねじったりして強張りを癒し、やがてやんわりと下ろす。
 シンジが小声でありがとうをささやくと、アスカは小声でどういたしましてを返し、代わりに左手を添わせてエッチつなぎをせがんできた。もちろんシンジは拒まない。シンジのほうからじゃれ付くように指を絡め、お互い穏やかに笑みを交わす。
「…なんだかんだで、やっぱり綾波とも仲がいいね」
「バーカ。寂しそうにしてたから、相手してあげただけよっ」
「テレビゲームは、いつの間にか相手にされてたって感じだったけど?」
「う、うるさいわねえっ、それでも五分五分よ、五分五分っ!!」
 シンジもアスカもエッチつなぎした手でじゃれ合いながら、揶揄したり、それに対して言い返したりと、仲睦まじくおしゃべりに耽った。
 これだけの至近距離にいながら、相手の顔も見えない夜闇に包まれていると、おしゃべりも自ずと弾むものだ。それ以外にできることもないから集中できるのである。
 本当の意味でのピロートークとは違うが、やはり枕を並べて寝そべりながらのおしゃべりはやはり楽しい。セックスを終えた後でなくとも、無邪気なままに気持ちが通い合うのがわかる。
「…ファーストが嫌いってわけじゃないのよ?ただ、負けたくないだけ」
 しばしおしゃべりを楽しんでから、ふとアスカは抑揚を落とし、どこか言い訳するような口調でつぶやいた。シンジは彼女の方を向いたまま、じっと言葉の続きを待つ。
「勉強でも、テレビゲームでも負けたくない。エヴァのパイロットとしても負けたくない。なにより、シンジのことが好きって気持ちは絶対負けたくないのっ」
「アスカ…」
「誰に対しても、何であろうとも負けないって自信はあるわ。でも…ファーストって一途な上に一生懸命じゃない。エヴァのことでも、今日のテレビゲームでも、絶対に格好つけたりしない。なんでって思えるくらい、みっともないとこ見せながらも努力するでしょ?なんかそういうとこ…最近のシンジみたいだから、やっぱり意識しちゃうのよね。自信あるはずなのに、対抗意識燃やしちゃう」
 そこまで一息に独白して、アスカは小さく笑った。レイに対する気持ちを伝えるつもりが、いつの間にか弱音を吐いていることに気付き、苦笑を禁じ得なくなったのだ。
 レイに後れをとるなどとは、出会った頃は微塵も思っていなかった。
 それが最近では、後れをとりたくないと思うようになってきた。もちろんこれからも後れをとるつもりなど無いから、レイを侮ることもなくなってきた。
 そうして意識すればするほど、アスカの青い瞳には等身大のレイの姿が映るようになってきた。今まで見過ごしていた部分も、はっきりと見えてきたのだ。
 寡黙な性格の奥に潜む、頑固なくらいに一途な想い。
 怜悧でありながらも、常にそうあるために泥臭いほど一生懸命になれる心根。
 そして、日を追うごとに明確となってきたシンジへの好意。
 アスカは初めからなんでもできてしまう天才気質であるから、額に汗して努力するということはない。いわば、一生懸命になることに慣れていないのだ。
 そのぶんレイの姿はナンセンスだと思うものの、同時に脅威にも感じていた。脅威といえば大袈裟ではあるが、そのひたむきな姿勢に明らかな焦燥感を覚えてしまう。
 ましてやレイは、気取りもてらいもなくシンジへの好意を露わにする。ささやかな雑談の中でシンジの話題が出ると、レイは淡々としていた表情をたちまち憧憬で和ませるのだ。声も大きくなり、心持ち早口にもなったりするほどである。
「ねえシンジ…あたしのこと、好き?」
 やおらアスカはエッチつなぎの手に力を込め、思い詰めたような声でそう問いかけた。
 どんなに信じていたとしても、時として乙女心は焦燥に駆られ、そう確かめたくなるものだ。想い人からの言霊を感じて、さざめく気持ちをなだめたくなるのである。
「…もちろん好きだよ、アスカ」
 シンジもエッチつなぎしている手を強く握り返すと、前髪ごしに額をくっつけてアスカに答えた。真心を込めた告白のために、抱擁欲から接吻欲からが胸をせつなく焦がしてくるが、すぐ側にレイがいるからと懸命に堪える。額をくっつけたのは、せめてものスキンシップを欲張ったためだ。
 そんなシンジの反応に、アスカは安堵の溜息を吐いた。すりすりと額を擦り付け、しきりにシンジと鼻先を触れ合わせる。
 アスカもまた接吻欲に唇を疼かせているのだが、やはりレイがいるから我慢せざるを得ない。焦れる女心に、胸は張り裂けそうであった。
「…ファーストよりも…って、聞いてもいい?」
 やおらアスカは声を潜め、シンジにささやいた。鼻先を触れ合わせたままでの問いかけに、シンジも思わぬ緊張感で生唾を飲み込む。
「…こ、答えなきゃ、ダメ?」
「このままキスしちゃったら…答えちゃうでしょ」
「だ、ダメだよっ…キスしちゃったら…あ、アスカ、ダメだってば…」
 アスカのひそひそ声が熱く湿った吐息となり、唇のすぐ側まで近づいてきた。
 そこでシンジは枕の上でイヤイヤとかぶりを振り、情けない声で狼狽えた。触れ合う鼻先はもちろん、エッチつなぎの手もじっとりと汗ばんでゆくのがわかる。
 件の計画は凍結されたとはいえ、今まで通り五日間の禁欲生活を送ってきたことに変わりはない。ペニスは下着どころか、ゆったりめのバミューダパンツすら押し上げんばかりにたくましく勃起してくる。すぐ横にレイがいるとはいえ、若々しいペニスにせがまれては、どこまでアスカの誘惑に耐えられるかわからない。
 なにより、この状況をレイに気付かれるだけでも相当に気まずい。シンジはたちまち狼狽しきりとなり、今さらながらに呼吸を止めて物音を掻き消そうとあがいた。
「さっきも一緒にシャワー入って確認したけど…スタイルなら、あたしの方が圧倒的に勝ってるんだから…」
「わ、あ、アスカッ…!」
「シンジは気付いてないかもしんないけど…シンジとエッチするようになってから、バストもヒップもすっごく成長してきてるのよ?今がまさに育ち盛りって感じなの」
 アスカはなおも挑発するよう、身体を横臥させてシンジに寄りかかり、彼の二の腕に乳房の柔らかみを押しつけた。
 直接ではないにしても、薄いTシャツ一枚隔てただけであるから、その質量感を湛えた柔らかみは如実に伝わってくる。シンジはその感触と、アスカの艶めかしい声音に、思わず彼女の抱き心地を思い出してしまった。
 確かに初めて身体を重ねた頃に比べて、アスカの胸はずいぶんとふくよかになったし、腰回りもまろみを帯びて扇情的になったと思う。動物性タンパク質を摂らないレイの発育が緩やかであるぶん、確かにプロポーションでのアドバンテージはアスカにあるだろう。
 シンジは毎週二人とセックスしているから、その違いは見たり触れたりするまでもなく、回想するだけでも明らかであった。
「ねえシンジ、キスしてる間に答えて…あたしとファーストと、どっちが好きか…」
「あ、アスカ、ホントにダメだってば…せ、せめて明日まで、明日まで待って…」
 アスカは右手でシンジの頬に触れると、少し鼻にかかったむずがり声でねだった。そのしぐさも声音も、まさに求愛行動のそれである。
 そんなアスカのかわいい声は、もう口移しされているかのようにシンジには感じられた。
 シンジは理性と愛欲の板挟みとなり、半ベソの上擦り声となってアスカを制する。制しながらも顔を逸らさないのは、五日間の禁欲生活のために、理性よりわずかに愛欲が勝っているためだ。
 欲しい気持ちを薄膜ごしにひとつにしようと、二人の愛欲が募りきった、そのとき。
「…惣流さん、碇くんが困ってる」
「ひゃっ…!?」
「あ、あっ、綾波っ…!?」
 やおら第三者の声が室内に響いて、アスカもシンジも顔中を真っ赤にして狼狽えた。
 二人の唇が触れ合う寸前で声をかけたのは、誰あろうレイである。夜闇の中で状況こそわからないが、やりとりから判断して、またアスカがシンジを困らせていると思ったのだ。
「か、感じ悪いわねえっ、盗み聞きしてたなんて!」
「盗み聞きじゃないわ。声をかけようと思ってたんだけど、割り込む隙が無かっただけ」
 アスカは慌てて身体を戻し、憮然として吐き捨てるものの、レイは意にも介さず反論した。その声音は普段と同じで淡々としたものではあるが、微妙に早口となっている。
「あ、綾波…あの、も、もしかして、ずっと起きてたの?」
「ずっとじゃないけど。碇くんが、磔にされてるみたいって言われた辺りから」
「そ、それじゃあずっとと変わらないじゃないっ!」
 シンジの問いかけにも、やはりレイは繕ったりすることなく素直に答える。それでおずおずと頭を上げ、シンジの左腕を解放させた。磔状態と言われてからずっと、いたたまれない気持ちでいっぱいだったのである。
 そんなレイの気持ちを余所に、アスカはすっかり狼狽えてしまった。
 その辺りから聞かれていたのであれば、レイに対する気持ちも、シンジへの求愛も何もかも聞かれていたことになる。
 さすがのアスカもこの事実には憔悴しきりとなり、両手で胸の真ん中を押さえて溜息を吐いた。気まずいというよりも照れくさくて、穴があったら入りたい気分である。
「…碇くんは、惣流さんのことが好きなのね」
「え、あ、う…うん…僕はアスカが好き。大好きだよ」
 レイは図らずも耳にした告白を確認するように、シンジに問いかけた。
 シンジは一瞬言葉を詰まらせかけたが、別に隠し立てするようなことでもないからと、あらためて宣言する。
「…惣流さんは、碇くんのことが好きなの」
「えっ…ま、まぁ…うん…好き…」
 次ぎにレイは、シンジを挟んだ向こうに寝ているアスカにも問いかけた。
 アスカは心の準備ができていなかっただけに一瞬驚いたものの、しおらしく気持ちを言葉にする。なんだか、本人に直接告白する以上に照れくさい。
「…わたしも、碇くんが好き。惣流さんのことも好き」
 はにかんで身体中を熱くしているシンジとアスカをよそに、レイは誰にともなくそう告げた。夜闇の中でいくつもいくつも重ねられる告白に、シンジもアスカも真摯な面持ちとなる。
 暮らし慣れたリビングが、まるでどこか別の場所のようにさえ感じられてきた。
「碇くんは優しくしてくれるし、甘えさせてくれるから好き。惣流さんはいつでも声をかけてきてくれて、わたしの知らないことをたくさん教えてくれるから好き。だから、今日は本当に楽しかった。すごく素敵な思い出ができた」
「お、思い出だなんて、ファーストも大袈裟ね。お別れ会じゃないんだから」
「…そうね、ごめんなさい。あんまり嬉しいから、ついしゃべりすぎてしまうの」
 レイの独白に羞恥極まって、アスカはついつい揶揄を入れてしまった。レイもそれには反論することなく、心持ち声を抑えて詫びる。
 実際、シンジはいつだって優しく、そして親しく接してくれる。セックスのときには好きなだけ甘えさせてもくれる。側にいるだけで嬉しくなれるシンジのことが、レイは大好きであった。
 アスカは勉強に雑学、遊びにセックスにと、自分の知らないことをおしゃべりの話題として積極的に教えてくれる。ときには高慢で、シンジをからかったりするところは気になるものの、それを差し引いても、レイはアスカのことも大好きなのだ。
「…碇くんや惣流さんと、本当の好きどうしになれたらいいのに。ううん、せめて、好きどうしくらいに仲良くなれたらいいのに」
「綾波…」
 レイのつぶやきは、いつだったかにも聞いたことのあるものであった。シンジはその微かな記憶が胸の奥で淡く拡がってくるのを感じて、夜闇の中のレイを見つめる。
 シンジからは見えないが、レイはアスカ同様、仰向けに寝そべっていた。借りたクッションに頭を預けたまま、もどかしい想いに満ちた胸から深々と溜息を吐く。心が安らげば、つい甘えてわがままばかり言ってしまう自分に呆れてもいた。
「…さっきも言ったけど、あたしはファーストのこと…まぁ、嫌いじゃないわよ?」
「惣流さん…」
「時々訳知り顔で、なんだか気に入らないときもあるけど…そこそこ戦力になるし、シンジと一緒でからかい甲斐があるから、いてくれた方があたしも嬉しいかな」
 レイほど直接的ではないにせよ、アスカもはにかみ半分でそう告げた。
 きっと夜闇の中だから、どうにかここまで素直になれたのだと思う。面と向かってでは、きっと恥ずかしくて言えなかっただろう。
 アスカは平静を取り戻そうと、そう自己分析したりする。件の計画も凍結となり、一方でシンジとは両想いになれているのだから、レイに対する敵対心もすっかり影を潜めてしまった。なにより、先程一緒に入ったシャワーでのからかい甲斐は、シンジにも引けを取らないくらいであったのだ。
「で…あんたはどうなのよ、ファーストのこと」
「え、えっ!?」
 自分だけ気恥ずかしい思いをしているのは、どうにも癪に障る。
 アスカはシンジに肘で合図を送り、彼にも心情を語らせようとした。
 思わぬタイミングで話を振られて、シンジは夜闇の中でレイとアスカを交互に見つめる。もちろん二人の顔は見えないが、視線だけはくすぐったいほどに感じられた。
「…い、言っても怒らない?」
「なぁに?あたしが怒るようなこと言うつもりなの?」
「そ、そうじゃないけど…」
「碇くん、教えて。碇くんがわたしのことをどう思ってるのか、気になるわ」
「…わ、わかったよ、言うよ」
 二人の視線と言葉に急かされて、シンジはようやく心を決めた。
 胸に手を当てて深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。それでも照れくささで顔は火照ったままだが、何か答えなければ、このまま時間は凍り付いてしまうことだろう。
「え、えっと…僕はアスカのことが好きで、それで、その…綾波のことも好きなんだ…。わ、わがままだと思うけど、僕は二人とも大好きなんだよっ!」
 愛だ恋だを別にして、大切にしたい女性はと考えると、やはりアスカもレイも同じだけ大切にしたい。誰かのために一生懸命になりたいと願うのが好意であるならば、その誰かは、きっと複数であっても問題ないはずだ。
 開き直る気分でシンジが言い放った、まさにそのとき。
 突然リビングの照明が点灯し、シンジはそのまばゆさに目を細めた。
 何事かと辺りを見回せば、いつの間に起き上がったのか、アスカが照明の壁スイッチをオンにしていた。Tシャツにスパッツといった寝間着姿のアスカは、してやったりといった意地の悪い笑みを浮かべ、シンジにピースサインまで送ったりする。
 一方で、レイもまた正座崩れのあひる座りに身を起こし、シンジの寝姿を見つめていた。シンジから借りたシャツに下着のみといった格好のレイは、まさに感無量といった風に相好を緩めている。赤い瞳は感涙に潤み、蛍光灯の明かりをきらきらと揺らめかせていた。
「世界一の果報者はどんな顔してるのかと思ったら、なんてだらしない顔してんのよっ」
「…碇くん、耳まで真っ赤」
 アスカもレイも、それぞれでシンジの顔を眺めながら感想を口にした。
 揶揄混じりの感想ではあるものの、声音には悪意の欠片もない。むしろこの状況に嬉々としていることが、第三者にでもわかるくらいであった。
 シンジは視線だけで二人の美少女を交互に見つめていたのだが、やがて羞恥極まると、半ベソの眼差しでアスカを睨み付ける。
「…あ、あっ、アスカーッ!!」
「きゃああんっ!やだ、ちょ、抱きつかないでよっ!暑苦しいじゃないっ!」
「そ、惣流さん、ずるい」
「だったらファーストもしてもらえば?ほら、シンジ!」
「え、あっ…ひ、ひゃうっ!い、碇くん、だめ、くすぐったい…!」
 シンジは飛び起きるなり、アスカにくすぐり攻撃をしかけて。
 アスカは喜色満面ではしゃぎながら、くすぐり攻撃に身悶えして。
 レイはアスカに羽交い締めにされ、為す術もなくくすぐり攻撃に晒されて。
 やがてアスカとレイは左右からシンジの腕にすがりつき、そのまま再び布団の上に寝転がった。先を争うように身体を擦り寄せ、先程のくすぐり攻撃の仕返しを始める。
 シンジは激しく身じろぎしては悶え泣き、涙ながらに降参を願い出た。それで二人の美少女も満足してか、ゆったりとシンジに寄り添ったまま荒ぶった息を整える。
「…すっごい幸せ」
「そうね…幸せすぎて、なんだか夢みたい…」
「…こんなに幸せを感じて、いいのかしら」
 三人はそれぞれで額に汗を浮かべながら、格別なひとときの余韻に酔いしれた。効きがよくないながらも、クーラーから吹き下りてくる涼風が汗ばんだ身体に心地良い。
 どうせ明日は学校も仕事も休みだ。使徒が攻めて来ない限りは、このままのんびりと昼過ぎまで眠りこけていられるだろう。
 レイまでもがそんな怠惰な気分になってしまうと、眠気に逆らえる者は誰一人としていなくなった。ささやかな疲労感と、胸いっぱいの幸福感は、男女の別無く夢心地でのまどろみをもたらしてくれる。
 もう明かりも、クーラーもつけたまま。
 かといってタオルケット一枚すらかけることなく、寄り添って分かち合うぬくもりだけで最低限の暖を得て眠る。
 世界で一番幸せな三人は、こうしてとびきりの贅沢を尽くしたまま、とびきり贅沢な眠りに就いた。
 夢の中でもずっと、とびきり贅沢な幸福感を分かち合いたくて。

おわり。


 


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(updete 2004/06/25)