かわるシアワセ

02

作者/大場愁一郎さん

 

 あれから土曜日を挟んで、日曜日の夕方。
 アスカとシンジ、そしてファーストチルドレンと呼ばれる綾波レイの三人は、ネルフ本部内のとある一室、第弐拾番会議室に召集されていた。
 学校は休みであったが、ネルフ本部での仕事は無関係だ。エヴァンゲリオンのパイロットとはいえ、使徒襲来時以外にもやらねばならないことは山ほどある。
 たとえば、基礎トレーニングに始まって、シンクロ率のチェックや精神浸食テストなどの生体実験。攻撃兵器についての学習や、戦略戦術論の講義といったいわゆるお勉強と、その仕事内容はバラエティに富んでいる。パイロットだからといって、使徒襲来という出番さえ待っていればいいというわけではないのだ。
 実際、シンジはこのメニューについていくために必死であった。
 普段通っている学校での成績も決して優秀とはいえないのに、ネルフで学ばなければならない技能や知識は、平均的な中学生が身につけるには若干難易度が高いのである。中学校以外にもうひとつ学校が増えたようで、シンジは予習復習に四苦八苦といった毎日を送らざるを得なかった。
 一方アスカはというと、嬉々としてネルフでの訓練や講義を受けている。
 彼女の場合は、何をやらせても器用で要領が良く、そのうえ頭の回転も速い。天才少女と自称しているのは、決して伊達ではないのだ。
 なにより、アスカはシンジやレイと同じ中学校に通ってはいるが、国語以外の科目は今さら授業を受けるまでもなく習得済みである。そのぶん余裕もあるから、シンジとのアドバンテージは開く一方であった。
 そして、もう一人。綾波レイはというと、彼女は極めて平均的であった。
 学校での成績も、ネルフでの成績も、可もなく不可もなし。強いていえば中のやや上辺りといった、教える側に文句を言わせない結果を出しているのであった。
 こんな三人が一致協力して使徒に対抗し、人類の明日を守っているのが実状だ。
 エヴァンゲリオンの存在は、良い意味でも悪い意味でも有名である。しかし、パイロットが十四歳の子どもであることまで知っている人間は少ない。ネルフは国家特務機関であるから、それも当然のことではあるのだが。
 そんな特務機関の、まさに秘密基地といったネルフ本部内で。
 しかもさらに秘匿性を強調したいかのように、メインフロアーから遠く離れた小さな会議室で、その十四歳の少年少女は召集をかけた上官を待っていた。
「…ミサトさん、まだかな」
 開襟シャツにスラックス姿のシンジは、誰にともなくそう告げた。
 この六メートル、四メートル程度といった小さな会議室内は極めて殺風景であり、どこを眺め回すのにも飽きてしまったところだ。もちろん有線放送のようなBGMが聞こえているわけでもない。テレビがあるわけでもない。
 調度品も、安っぽい丸テーブルがひとつと、これまた安っぽい椅子が四つあるのみだ。他にあるものといえば館内インターフォンと、照明およびそのスイッチ、そして入り口の自動ドア、それだけである。
 あとは壁面にコンセントがふたつ備え付けられているが、こんなものまで数えてでもいないと退屈でしょうがないくらいの部屋であった。
「ホントよね。人を待たすにしても、限度ってものがあるわ」
 シンジと並び、右側に座っていたアスカが彼の言葉を受けて相槌を打った。
 学校指定の制服姿であるシンジやレイに対して、アスカだけはお気に入りのワンピース姿だ。その目にも鮮やかなレモンイエローと、肩から胸元からを露わにした美少女という組み合わせは、この殺風景な会議室に唯一の華となってまばゆさを放っている。
 今日は日曜だから、もちろん学校はお休みだ。
 それなのに、わざわざ制服という洒落っ気の無い格好になるつもりはアスカにはなかった。別にネルフ側からも指示されているわけではないのだから、アスカにしてみればシンジやレイの神経が疑わしくてならない。
 とはいえ、今のこの時間が退屈であるという事実に関してはアスカも同感であった。
 彼女はミサトを待っている間、この会議室へ来る前にもらった館内略地図であれこれ折り紙細工を作って遊んでいた。しかしそのレパートリーも底を突き、今ではその略地図はしわくちゃになって、テーブルの上に放られている。
 あれこれおしゃべりもしていたのだが、シンジを挟んだ向こうにいるレイが気になり、二人きりの時ほど軽快に舌が回らなかった。そのもどかしさもあって、アスカの苛立ちは少しずつ色合いを深めてきている。
「あーあ、そろそろお腹も空いてきたし…そうだ!帰りにさ、なんか美味しいものでも食べて帰らない?今日はミサトも帰ってくるけど、どうせ出来合いで済ますのはいつものことなんだし!ねえシンジ、いいわよね!?」
「えっ、あ、う、うん…いいよ」
 やがてアスカは空腹感を元に、新たなおしゃべりの話題を持ち出した。嬉々としてシンジの右腕にすがりつき、彼の身体を揺さぶってせがむ。
 シンジはアスカの提案を快く了承しながらも、彼女からの人なつっこいスキンシップに困惑していた。もちろん、アスカからのスキンシップが鬱陶しいわけではない。すぐ横にいるレイが気になったのだ。
 しかしレイはこちらを見るでもなく、相変わらず黙々と文庫本を読み耽っていた。水色にも近い銀色のショートヘアーは微動だにせず、ただ赤い瞳だけが活字を追って小刻みに上下している。
 アスカやシンジから見れば、レイは普段から寡黙で、何を考えているのか捉えようのない少女であった。
 そんな彼女でも、人並みに退屈はする。退屈というよりも、ただ無意味に時間を過ごすくらいなら、という気持ちはあった。椅子に腰掛け、十分ほども待ってから、青いビニールの手提げバッグから文庫本を取り出し、今までこうして読み続けている。
 別にレイは、アスカやシンジとのコミュニケーションを遮断しているわけではない。
 もちろん、アスカもシンジもレイを無視しているわけではない。
 レイから積極的におしゃべりすることはないが、話題が振られれば、一応視線だけは向けて相槌を打つ。おしゃべりは授業で教わらない色んな情報が手に入るので、レイも嫌いではない。ただ、レイの方から話すことがないだけなのだ。
「どう?ファーストも。たまにはあたしたちに付き合いなさいよ」
 思わぬタイミングでシンジとくっついていられることが嬉しくて、アスカはレイにも親しげに声をかけた。シンジもその声に合わせてレイを見る。
「…予算はどのくらい」
 レイはやはり視線だけをアスカに向け、抑揚のない声でそう訪ねた。線の細い横顔は動くそぶりさえない。
 シンジの目には、レイもアスカに引けを取らないくらいの美少女として映っている。目鼻立ちは端正で、唇は慎ましやかで、全体的に可憐な雰囲気は、まさに大和撫子という言葉がぴったりだと時々考えたりもするくらいだ。
 しかし、その病弱そうな白い肌が彼女の生気を抑え込み、そのかわいらしさを控えめなものにしていた。重ねて、常日頃から無愛想そのものの口調であるから、クラスの男子はともかく、女子からも敬遠されがちになっているのが現状であった。
 とはいえ、アスカとシンジは同じチルドレンとしてほとんど毎日顔を合わせていることもあり、レイに対する忌避感は皆無であった。特にアスカは対抗意識を燃やしてもいるから、彼女の方から積極的にレイに絡んでゆくことが多い。
「予算は…まあ、千円ってところね」
「千円なら余裕があるわ。それで、何を食べに行くの」
 レイも当然お腹は空く。外食も、決して嫌いではない。
 レイは初めて、読み耽っていた文庫本を閉じた。それはアスカの提案に乗り気であることの現れであった。
「そうね、今からぶらっと行けるところとなると…やっぱり、妥当なところでラーメン屋かしら。ねえシンジ、どこか美味しいラーメン屋、知らない?」
「え、そ、そこで僕に振るなよっ…えっと、えっと…どこかあったかな…」
「まったくもう…男のくせに、いざとなると頼りになんないわねぇ」
 レイが誘いに応じたのを確認し、次ぎにアスカはシンジに意見を求めた。
 とはいえ、突然美味いラーメン屋を聞かれたところで、準備もなしにシンジが答えられるはずもない。
 シンジは左手で頭をかきながら、まるで会議室内のどこかに適当な店名が書かれていないか探すかのように困惑の視線を泳がせた。もちろん、そんな都合の良い落書きなど書かれているはずもない。
 やがて返答に窮したシンジをつまらなそうな声でなじると、アスカは彼の右腕からも身を離し、腕組みして溜息を吐いた。
「ラーメン屋なら、知ってるところがあるけど」
「えっ!どこどこ!?どんなとこ!?」
 そんなやりとりを見かねたわけでもないが、やおらレイはつぶやいた。
 思いがけないレイの言葉に、アスカもシンジも彼女を注視する。アスカに至っては興味津々といった面もちで立ち上がり、レイの背後に回って肩に両手をかけたほどだ。
「学校から、少し歩いたところ。大通りから脇に入ったところにある、小さくて古びた店。無愛想なおじさんがひとりで切り盛りしてる」
「へえ、学校の近くにそんなお店があったんだ」
「話だけ聞くと、なかなか期待できそうね」
 淡々としたレイの解説に、シンジもアスカも期待に胸を膨らませて顔をほころばせた。それぞれで勝手なイメージ図を脳裏に描くと、それだけで唾液が分泌されてくる。悪くない空腹感は増すばかりだ。
「でも、ちょっと意外。あんたもラーメン食べに行ったりするんだ?」
「たまに」
「もしかして綾波、休みの日はけっこう食べ歩きとかしてるの?」
「いや。お小遣いに余裕があるときだけ」
 アスカもシンジも、ラーメン屋とは別の興味にも駆られてレイに質問してみた。別に皮肉ったり、小馬鹿にしているわけではない。純粋に、意外だったのだ。
 ちょこんとカウンター席に腰掛け、黙々とラーメンをすすり、極めて冷静に味を分析しているレイの姿。レイも美味しいときにはにっこりと目を細めたりするのかと、つい余計なことまで想像して、アスカもシンジもなんとなくおかしくなってしまう。
「ん、んんっ…で、ファーストのおすすめメニューは、なに?」
「…ザーメン」
「へえ、ザー…ざああっ!?」
 小さく咳払いして気を取り直し、アスカは横からレイの顔を覗き込んで尋ねた。
 そして、レイが無表情のまま告げた単語に、アスカだけでなくシンジまでもが大声をあげる。さすがのレイもわずかにたじろぎ、眼差しに怪訝の色を漂わせた。
「…どうかしたの」
「だ、だっ、だって…あ、綾波…」
「いっ、いきなり何を言い出すのよっ!!それ、なんの冗談っ!?」
「冗談なんかじゃないわ。おじさん自慢のメニューなの。かなり濃厚で、いつまでも舌に残るような味。店の壁にも、こってりでまったりのシヤワセな味って書いてある」
「あ、あっ、あんたねえっ!!」
 今度はきちんと二人に顔を向け、レイは普段よりハキハキとした口調で語って聞かせる。アスカに冗談かと言われて、もっと一生懸命に説明したくなったのだ。
 ひとり冷静なレイをよそに、シンジもアスカも顔面を紅潮させて狼狽える。シンジは恥ずかしそうにうつむいて上目遣いとなり、アスカは鼻の頭に汗まで浮かべて声を荒げた。美少女の素顔は恥じらいと困惑のために、なんとも複雑な表情となってくる。
 アスカの脳裏には、シンジとの睦み合いがビデオの早送りのように駆け巡っていた。それと同時に、レイに対する疑念や口惜しさが湧いてくる。
 この地味なファーストも、顔に浴びたり、口内に出してもらったりしているのか。
 自分でもまだ恥ずかしくてできないのに、飲んだりもしているのか。
 しかも、ラーメン屋の無愛想なおじさん相手に。
 狼狽しきりのアスカが淫猥な妄想を巡らした、そのとき。
「お待たせーっ!いやあゴメンゴメン、ちょっち道に迷っちゃってねえ」
「み、ミサト…」
「ミサトさん…」
 アスカの背後になっていた自動ドアが開き、書類ファイルを小脇に抱えたミサトが照れ笑いしながら入ってきた。それで二人は我に返り、アスカはそそくさと自分の席に戻る。
 二人とも、まだ顔が熱い。レイはレイで、文庫本を手提げバッグに片づけると、何事もなかったかのような顔でミサトを見つめた。
「ん?シンジくんもアスカもなんかあったの?顔、赤いけど」
「べ、別に…」
「な、なんでもないわよっ」
「そ?ならいいけど…じゃあ遅くなったけど、早速始めましょうか」
 普段通り赤いジャケットにタイトスカート姿のミサトは、三人と相対するように着席するなり、会議の遅れを繕おうと忙しなく書類ファイルを開いた。
「シンジくんには前に話したと思うけど…レイとアスカには初めて話すことになるわね。アスカはちょっち嫌な気分になるかと思うけど」
「なに?減給だったらイヤよ?」
「あはは、減給じゃないけどね…『第二世代育成計画』と、その決定について」
 ミサトは苦笑半分、三人の前に開かれた書類ファイルを差し出した。アスカとシンジは、揃って小さく生唾を飲む。いよいよその時が来たのであった。
「これは」
「うん。ちょっと面倒な話しになるけど、よく聞いて、そして理解してほしいの。特に、レイとアスカにはね」
 初耳であったレイの質問を受け、ミサトは三人それぞれを公平に見つめながら、確たる声音で告げた。シンジの視線が思わずアスカに向かう。
 ミサトは第二世代育成計画の内容と意義、そしてその採決が昨日行われ、可決されたことを三人に語った。その冷静な物腰は、この計画がいかに重要であるか、この計画にネルフがいかに期待を寄せているかが窺えるものであった。
 しかし反面、アスカやレイと同じ女性である立場から、このチルドレンの人権をまるきり無視した計画には憤りを隠せないようでもあった。具体的な内容をアスカに、そしてレイに語って聞かせるときには、その表情は非常に厳しいものになっていた。
 もしかしたらその表情は、同じ女性でありながらもアスカやレイを納得させようとしているミサト自身に向けられていたのかもしれない。シンジはその顔を眺めていただけであるから、ミサトの心境まではわからなかった。
「…こんなこと、頼むわね、なんてあっさり言えることじゃないのはわかってる。でも、理解してほしいの。大げさでなく、本当に人類の未来がかかっていることなんだから」
「どうせ、あたしたちが何を言っても取り消しなんてことはありえないんでしょ?」
「まあね。だから、お願い。あたしからもお願いするわ。この通り」
 アスカが腕組みし、あえてふてくされた声で言うと、ミサトは三人の子どもたちの前で深く頭を下げた。事情をすでに知り、抜け駆けをたくらんでいるアスカはそれでなんとなく気まずくなり、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向く。
 レイはというと、相変わらずの無表情のまま行儀良く座っているだけであったが、やおら右手で挙手して発言を求めた。顔を上げたミサトは視線を向け、小さくうなづく。
「誰に計画を実行させるかは、決定したんですか」
 その質問は、三人それぞれが一番気になっていたことだ。しかしアスカもシンジも、その答えを聞くのが怖くて声に出せなかったのだ。
 もし、意中の人間以外の誰かと言われたら、どうなるのだろう。
 どうなるもこうなるもない。決定した相手と性交し、子どもを作らなければならない。
 計画の意味するところは、どこまで議論を交わしたところでそれだけだ。アスカはこみ上げてきた不安に、思わず唇を噛み締めた。シンジも気遣わしげにアスカを見つめる。
「…じゃあ、そっちの発表もしましょうか」
「…決まってるのね?」
「そんな怖い顔しないでよ…。最初の一組は、意外なくらいすんなりと決まったわ。もっとも、その一組だけで後はまだ決まってないんだけどね」
 覚悟を決めたようなミサトに、アスカはそっぽを向いたまま横目で問いかけた。その眼差しはアスカが思う以上に鋭いものになっており、ミサトはやはり苦笑半分でつぶやく。
 やがてアスカだけでなく、シンジも、そしてレイもミサトに注目した。小さな会議室内の空気はにわかに緊張感を増し、しばし居心地の悪い静寂が四人を包む。
「最初の一組の、男の子は…シンジくん。あなたよ」
「ぼ、僕…」
 ミサトが真摯な面持ちで告げると、シンジはあらためて緊張に表情を強ばらせた。それにあわせてアスカはシンジを見つめ、レイもちらりと視線を向ける。
 世界中でも、チルドレンと呼ばれる適格者はそう多くはいない。そのぶん選ばれる確立はそれなりにあるとは思っていたし、あらかじめ聞かされていたから、シンジも心積もりはできていたはずだった。なによりミサトと、そしてアスカとセックスを経験しているから、緊張することもないと思っていた。
 しかし、実際にこうして名指しされると気持ちは複雑となった。使命感でプレッシャーを受けるわけでもないが、胸が重い。手のひらまでじんわりと汗ばんでくる。
 なにより、会ったこともない女の子とセックスしなければならなくなるという可能性にこそ、シンジは緊張を覚えるのであった。
 共通の話題が無いどころか、言葉も通じないかもしれない相手となんて、実際にセックスできるものなのだろうか。
 それはもちろん、外国の女性が出演しているアダルトビデオを見れば、おそらくは興奮するだろう。しかしそれは、あくまでビデオの中の光景だからだ。実際にセックスするのはシンジではなく、スタッフである男優だからだ。話はまったく別である。
 そんな不安すら胸を占めてきたので、いつしかシンジはアスカを見つめていた。まさに、アスカに救済の術を求めるかのように。
「…大丈夫」
 そう答えたのはミサトではなく、アスカであった。
 彼女はシンジの瞳をまっすぐに見つめ返しながら答えた。確信に満ちた微笑すら浮かべて、そっとうなづく。
 シンジが選ばれたのなら、その相手は間違いなく自分だ。
 アスカはそう信じて疑わなかった。
 自分たちは見事なユニゾンを築き上げ、いつまでもいつまでも一緒にいたいと思えるくらいの仲になっている。身も心も相性はぴったりなのだ。これで第三者が選ばれることがあれば、それは絶対に嘘だ。
 そう強く思っているからこその、アスカの言葉であった。
 しかし、現実は冷たかった。
「女の子は…レイ、あなたよ」
「嘘…」
 ミサトの言葉に声を漏らしたのはアスカであった。
 その瞳は予告もなく世界中から独りぼっちにされたかのように呆然となり、凛とした輝きはたちまち不安げに揺らぎ始める。先程まで血色良く火照っていた顔も、見る間に蒼白となっていった。
 指名されたレイはというと、まるで聞こえていないかのような佇まいで無表情を保っていた。もちろん、自分が何に指名されたのかは十分にわかっている。
 だからといって、何だというのだろう。
 レイには、この不思議と張りつめている空気の意味がわからなかった。
「…こんなときに嘘ついてどうなるのよ、ほら」
 ミサトはようやく表情を和らげ、アスカの前で書類ファイルを何枚かめくった。
 そして現れたクリアポケットには、明らかにシンジとレイの名前が記載されていた。ネルフ本部碇指令他、各国ネルフ支部長のサイン付きという物々しさである。
「いやあホント助かったわぁ。これでシンジくんの相手が余所の国の女の子だったらどうしようかと思ってたんだけど、レイとはすっごい偶然で生体パターンが一致するんだって。あたしも最初聞いたときは嘘だと思ったくらいで…」
「そういうことを言ってるんじゃないのっ!!」
 椅子の背もたれに寄りかかり、すっかりくだけた口調となってミサトが言うと、アスカは矢庭に立ち上がって叫んだ。毅然とした表情ではあるが、その瞳はささいなきっかけで泣き出してしまいそうなくらいに揺らいでいる。
「え、えっと…なんでアスカが怒るわけ?選ばれたのはレイなのよ?」
「わかってるわよ、それはっ!」
「あんたは今回、該当者がいなかったの。ヴァージン守れてよかったじゃない。あんたが怒ること、今はとりあえずないと思うんだけど」
「そ、それは…で、でもその選出ってホントに正確なの!?誰が選んだ訳!?生体パターンが一致とかいって、まさか適当に選んだんじゃないでしょうね!?」
 アスカは声を大きくして食い下がり、選出結果を認めまいと矢継ぎ早に質問を重ねる。
 そんなアスカにおどけ半分で対応していたミサトも、次第にその表情を怪訝なものにしていった。
「…ウチの遺伝子工学研究部と生体理学研究部がメインで、あとはもう本部支部総力あげての徹底調査および研究の結果よ。いいアスカ?誰も遊びでやってるわけじゃないの。愚痴っぽく聞こえちゃうかもしんないけどね、これのおかげであたしの仕事もドカーッと増えちゃってんのよっ!?」
「うっ…」
 ミサトは憤然とした口調で言い放ち、アスカの駄々をねじ伏せた。
 確かに、ミサトの徹夜作業が増えてきていることはアスカもよく知っている。その日を待ち侘びてさえいたくらいだから、今月の何日が徹夜の日か、ミサト以上に把握しているくらいだ。
 それを思えば、この計画も思いつき半分などでやっているわけではなさそうだった。
 ネルフの人間は、藁にもすがるような思いでこの計画に賭けているのだろう。世界中の知恵と技術を集結し、真剣に適格者たる子どもを作らせようとしているのだ。
 その果てに出た結果がこれなのだ。このうえでさらに、アスカがシンジ以外の見知らぬ誰かと、と指名されなかっただけましであろう。
 もしそう言われていたとしたら、自我を保っていられたかどうか。
 アスカには、その自信がなかった。そして、何の反論もできなくなってしまう。力無く椅子に座り込み、愕然とうつむいて唇を噛んだ。
 納得できない激怒の気持ちは、今や口惜しさを携えた悲嘆に変わりつつあった。シンジとは、誰よりも相性ぴったりであると信じていただけに、その衝撃も大きい。
「…愚痴っぽくじゃなくって、愚痴だったわね。ごめん、アスカ…あんたも突然こんな話聞かされて、ピリピリしてたんだろうしね」
 アスカの情緒不安定の理由を勘違いしたように、ミサトはひとこと詫びた。
 その声にアスカはうつむいたまま首を横に振るが、別に勘違いを指摘したわけではない。単にそっとしておいてほしかったのだ。
 ミサトも小さく溜息を吐いてから、再び背もたれに背中を預けた。豊満なバストの下でゆったりと腕を組み、顔を上げているシンジとレイを見つめる。
「シンジくんとレイは、何か聞きたいことある?」
「あ、あの、いいですか?」
 アスカほどではないにせよ、シンジも動揺を隠しきれない。喉が渇いたかのように言葉を詰まらせながら、シンジは控えめに挙手した。ミサトは視線を向けて促す。
「その計画通りにやって、綾波に赤ちゃんができたら…そのときエヴァの操縦は…」
「問題はそこなのよね。あたしもどうしようか悩んでるとこ」
 シンジの素朴な質問は、ミサトを深くうつむかせた。力のない答えを返しつつ、ミサトはもう一度溜息を吐く。
 ちょうどそのとき。
 今まで無表情を保っていたレイが驚いたように息をのみ、わずかにうつむいた。
 一方でアスカは半ベソになりかけた顔を上げ、にわかに思い詰めた表情となる。
「…代わりがいるから…?」
「…代わりがいない…?」
「え…?」
 ミサトに気を取られていたシンジは、二人が何をつぶやいたのか聞き取ることはできなかった。きょろきょろと左右の少女を見つめても、聞き逃した答えは当然繰り返してもらえない。
 そのうち、ミサトも顔を上げて気丈に微笑んでみせた。そそくさと書類ファイルを閉じると、会議は終了とばかりに椅子から立ち上がる。
「まあそっちはあたしたちで考えるから、シンジくんとレイは計画の方に専念してちょうだい。シンジくんは早速で悪いんだけど、今日から金曜日までの六日間、ネルフ本部内で生活してもらうわ。ちょっとした軟禁状態になるけど」
「えっ!?ど、どういうことですか、それっ!?」
 まったく予想もしていなかった宣告に、シンジは目を丸くして驚く。
 それを聞いたアスカもたちまち怪訝な表情となり、慌ててその不穏な話に混ざった。
 ただでさえもショックな話を聞かされたばかりだというのに、ネルフ本部内で軟禁生活ということは、この六日間シンジの顔を見ることすらもできないのか。
 ミサトに非はないと思いながらも、アスカはついつい彼女を睨み付けてしまう。ミサトはその突き刺すような眼差しをあえて無視し、まっすぐシンジだけを見た。
「簡単にいうとね、シンジくんに禁欲してもらおうってこと。まあシンジくんはあたしやアスカと一緒に生活してるから、それくらいの禁欲は慣れてると思うけど」
「そ、そりゃあまあ…でも、軟禁かぁ…イヤだなぁ」
「もちろん、学校には毎週課題を提出するという条件で許可はもらってあるわ。シンジくんの授業を担当するスタッフも学校の先生から引継は受けてるし…それに軟禁とはいえ、生活環境はこっちの方が快適かも。ただ…」
「ただ…って、まだ何かあるんですか?」
 一旦言葉を区切ったミサトに、シンジは不安そうな眼差しを向ける。アスカは相変わらず用心深そうに、厳しい視線をミサトに送ったままだ。
「ただ、ね。緊急時以外には女性に会えなくなるの。あたしも含めてね。シンジくんの生活区画は他と隔離された単独フロアーで、専属の男性スタッフがシンジくんの身の回りの世話をすることになってるの」
「…なんでまた?」
「そりゃあ…六日間女の子に会えないで、六日目に会える女の子がレイってことにしたいわけよ。そのほうが、シンジくんの男心も久々に会えた生の女の子にドキドキするんじゃない?」
「最低っ!!」
 そう叫んだのはアスカであった。ミサトに悪意があったわけではないのだが、その言い方がたまらなく不愉快だったのだ。
 それも当然であろう。自分はシンジに六日も会えない。しかしシンジが六日後に会える女性はレイなのだ。しかも、二人は子どもを作るために会うのだ。
 この不愉快な気持ちは、レイに対する嫉妬であった。それと同時に、シンジに対する不安でもあった。
 シンジがレイとセックスして、彼女に対しても優しい言葉を投げかけたりするのかと思うと、正直おもしろくない。なにより気が気でならない。
 優しい言葉でなく、親しげなおしゃべりであっても同様だ。アスカの胸の真ん中には、たちまち焦燥の想いが濃密に立ちこめてくる。いくら命令とはいえ、納得できない。
「ちょっとシンジ、あんたは…あんたは、それでいいのっ…?」
「アスカ…」
 アスカはシンジをまっすぐに見つめ、悲痛な声で聞いた。
 その青く澄んだ瞳は、真夏のビーチを思わせるような活気に満ちた光で輝いていない。代わりにせつない潤みが、真冬の海峡のように危なっかしく揺らめいている。
 そんなアスカの眼差しから逃れることなく、シンジもまっすぐに彼女を見つめ返した。
 しかしその名前を口にしてしまうと、途端に表情には困惑の色が漂い、それ以上言葉が出なくなってしまう。どんな言葉をかければ、またいつものように微笑んでくれるのか見当がつかなかった。
 そして。
 シンジは身を削がれるような想いで、心の奥で見つかった唯一の言葉を口にした。
「ごめん…」
「…やっぱり、あんたはバカね。バカシンジのまんま」
 アスカはありったけの元気を振り絞り、シンジをなじった。しゃくりあげたくなるのを懸命に堪えつつ、彼の詫びを一笑に付す。
 もちろん、シンジには端から答えなど期待していなかった。計画は命令であり、逆らうことは絶対に許されない。シンジでなくとも返答に窮しただろう。だからシンジの選び出した言葉は、あながち不適とはいえないものだった。
 それでも、その言葉はあまりにシンジらしかった。
 厳しい口調でわがままをたしなめてくれたなら諦めもついたのに、これではますますシンジから離れられなくなってしまう。
 先程、三人で談笑していた時間は極めてわずかなものであった。それでも腕にすがりついたりと、何気ないスキンシップ程度はできた。睦み合うとまではいかなくとも、いつものようにシンジを小馬鹿にして、笑い合えるくらいは余裕でできた。
 今はもう、その数分ほど前のわずかな時間がたまらなく懐かしい。
 ぎこちない笑みが崩れ落ちる前に、アスカはシンジからそっぽを向いてうつむいた。小さな肩は小刻みに震え、手入れの行き届いているハニーブラウンの髪も、今はどこかくすんで見える。
 そんなアスカの姿を見てしまい、シンジもいたたまれなくなって顔をそむけた。
 つまらない言葉しかかけられない自分と、この滅茶苦茶な計画に対して、心中で思いつく限りの呪詛の言葉を吐く。もう本当に泣いてしまいたかった。
「…レイ。あなたは普段通りに過ごしていて。土曜日の正午にシンジくんをあなたの部屋まで送らせるから、土曜日はそれまで部屋で待機してなさい」
「はい」
 アスカとシンジを無視したまま、ミサトはレイにもいくつか指示を与える。
 ずうっと一緒、というミサトの声が聞こえたとき、アスカは思わず嗚咽の声を漏らしてしまった。しかしレイの素直な返事にかき消され、その弱々しい上擦り声は誰にも聞かれることはなかった。
「で…シンジくん?」
「あ、は、はいっ」
「監視なんて絶対にしないから、土曜日、日曜日はできるだけ頑張ってね。もっとも、二日間休みなくってわけにはいかないから、基本的には自由なんだけど」
「は、はい…」
「それで…月曜日からは、またここで生活してもらうわね。ちゃんと迎えは用意するわ。レイが妊娠するまでは不便をかけちゃうけど、この生活で我慢して」
「わかりました…」
 ミサトの事務的な指示も、シンジの憔悴したような返事も、どこか遠くに聞こえる。
 アスカはもはや、右手で口を塞がなければ嗚咽を抑えられなくなっていた。涙も一粒、二粒、と頬を伝い、フロアーに落ちている。小さな肩も、繰り返し襲ってくるしゃくり上げのためにしきりに震えていた。
「以上で連絡は終わり。レイは帰っていいわよ。シンジくんは今スタッフを呼ぶから、彼についていって。それと…アスカにもひとつ」
「な、なに…?」
 ふとミサトはアスカにも声をかけた。アスカはそっぽを向いてうつむいたままではあったが、それでもありったけの元気を振り絞り、どうにかこうにか応じる。
「…あんたも今日はもう帰っていいわよ。きっと疲れが出ちゃったんじゃないかな、あんたってけっこう無理するし。明日はまた元気な顔を見せて。できるでしょ?」
「うん…」
「それと…あたしたちはもう戻るけど、あんたしばらくここで休んでく?今日一日借りてあるから、昼寝でもしていきなさい。防音は完璧だから、寝息ひとつ漏れないわよ?」
「…そ、そうするっ」
 アスカは震える声をごまかしごまかし、おどけ混じりのミサトの提案を受け入れた。
 それを見届けたミサトはシンジとレイを促し、会議室を出た。気密ハッチばりの自動ドアは滑らかに閉まり、狭い室内にはアスカ一人がぽつんと残される。
 静寂が室内に満ちたところで、アスカは身体中から緊張を解いた。
「ひくっ…うっ、うわあああああっ!ああああああっ…!!」
 アスカは机に平伏し、美少女の素顔をくしゃくしゃにして泣いた。
 せっかくつかんだ幸せを瞬く間に失い、声を限りに泣きじゃくった。

つづく。

 


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(updete 2004/03/06)