かわるシアワセ

09

作者/大場愁一郎さん

 

 アスカは朝に強い。どんなハードワークを夜遅くまでこなしていようとも、三時間も眠れれば爽快な気分で朝を迎えることができる。
 そのハードワークがシンジとの睦み合いであったなら、もう睡眠をとらなくても平気なくらいであった。シャワーのひとつさえ浴びられれば、もうその日一日をハイテンションで過ごすことができるほどだ。
 一方で、シンジは朝に弱い。しかも寝付きが悪い方であるから、最低でも日付が変わる前に床に就かないと快適な朝を迎えられないのだ。
 ハードワークをこなさずとも、少し夜更かししただけでも目覚めは悪い。特にアスカと睦み合った翌日などは、本当に身体が重かった。
 そんな二人が、仲良く連れだって朝の通学路を行く。
 制服姿のアスカは上り坂も何のその、スキップするような足取りの軽さだ。それに比べて、アスカより少し遅れて歩く開襟シャツ姿のシンジは、真夏の日差しにすら根を上げてしまいそうである。
「シンジ、だらしないわよっ?もっとしゃきっとしなさい、しゃきっと!」
 アスカは緩やかな坂道の途中で振り返ると、足取り重いシンジを一喝した。
 厳しい言葉をかけながらも、その笑顔は活気に満ち満ちて愛くるしく、美少女ぶりは普段以上に際立っている。腰に両手を当て、居丈高に胸を反らすしぐさからも生気は存分に発散されていて、ハニーブラウンの髪までもがツヤツヤと輝きを放って見えた。
「…アスカは疲れないからいいよね」
「あたしを化け物みたいに言わないでよ。あんたが虚弱体質なだけっ!」
「そうかもしれないけど、僕とアスカとじゃ運動量が違うと思わない?僕もう、腰から太ももからガクガクなんだよ?」
「男なんだから当然じゃない。それともあんた、女の子であるあたしに動けっていうの?うっわ、最低!骨の髄までスケベね、あんたって!」
 一方的にシンジをなじりながらも、アスカの嬉々とした笑顔は変わらない。しかもシンジが追いつくのを待ってから、やがて並んで歩き始める。
 歩調もシンジに合わせると、アスカは何気なく彼の右手を取ってつないだ。手のひらが汗ばんで暑いから、さすがに指を絡めるエッチつなぎにはしない。
 それでも、アスカと手をつないだおかげで、シンジも少し元気が湧いてきた。
 自分はアスカと違って、学校に向かっているわけではないから手ぶらなのだ。アスカは重い学生鞄を持っているのに、手ぶらの自分がくたびれていると、端から見られたら非常に格好悪く映るのではとも思う。
 シンジはありったけの男気と空元気を集めて背筋を伸ばすと、アスカをエスコートするように彼女よりほんの少しだけ先を歩いた。アスカは一瞬驚いたものの、小さく苦笑してそれに従う。
「そうそう。それくらいの元気出してかないと、またファーストとしりとりして過ごすことになるわよ?」
「そ、それを言わないでよ…不安なんだから」
「あんたが不安でどうするのよっ。どうせファーストは初めてなんだろうから、あんたが不安になってたらファーストだって不安になっちゃうじゃない。それともなぁに?もしかしてあんた、あたしに気兼ねしてるわけ?」
「気兼ねといえば…まぁ、少しは…」
「あんたバカぁ?ファーストとのセックスは命令、つまり仕事よ?それに、あたしはもうあんたを信じてるんだから…その信用を無駄にしないでよねっ」
 あっけらかんとしたアスカに対して、シンジは見る見るうちにうなだれて溜息を吐く。
 その重苦しい溜息を引きずってしまうかのように、たちまち歩みはアスカの方が先行してしまった。先程までの空元気はどこへやら、である。
 別にシンジは、レイとのセックスが嫌だというわけではない。
 アスカもこうしてエールを送ってくれるから、誰にも遠慮する必要はない。
 それでも、やはり一度セックスに失敗してしまうと、男心はひどくいじけてしまうものなのだ。その相手がどんな色気で迫ったとしても、男心は萎縮するばかりで高ぶろうとはしないのである。
 また勃起できなくて、変に真面目な綾波を失望させてしまうのでは。
 シンジもまた、男というナイーブ極まりない生き物である。彼を意気消沈させているのはセックスの疲れでもなく、向こう五日間の禁欲生活でもなく、ただただレイと相対したときの不安であった。しまいには学校に行きたくない子どものように、なんだか腹痛まできたしてくる。
 すっかりうつむきがちになったシンジを見かねて、アスカはやおら足を止めた。
 シンジが何事かと顔を上げると、アスカは学生鞄を放り捨て、突然彼の身体を真正面から抱き締めた。シンジは思わず呆然となったものの、そのぬくもりと抱かれ心地に反応して、すぐにアスカを抱き締め返す。
 夕べの再現であるかのような抱擁を交わしてから、アスカはシンジの耳元に吐息でささやいた。
「…そうそう、その気持ちが大事よ?ファーストにも、優しくしてあげれば大丈夫」
「綾波にも、優しく…」
「…もうファーストにしか中出しできないからって、あたしより優しくしないでよっ?」
「そっ、そんなこと言われるとやりにくいじゃないかぁ…!」
「ふふふっ、冗談冗談!でも、元気になったじゃない」
 普段通りのやりとりができたのを確認して、アスカは抱擁の腕を解いた。照れたシンジは少しだけ顔色を良くし、アスカの学生鞄を拾い上げる。
 確かに、レイに対してはセックスしようと焦るばかりで、優しく接していなかったような気がする。精神的な面をおろそかにして、肉体的な面ばかりを追求していたような気がする。
 しかしそれは、セックスとは呼べないのではないか。セックスとは、身も心も楽しくなれるものを言うのではないか。それこそ、夕べの自分たちのように。
 ふとシンジは思い至って、にわかに表情を明るくした。陰鬱だった胸が、突然ワクワクと逸ってくる。
「そっか…そうだよね…」
「な、なに?何を一人で納得してんのよ」
 学生鞄を手渡そうともせず、なにやら独語を始めたシンジに、アスカは怪訝な顔つきとなって問いかけた。シンジは活気に満ちた笑みを浮かべると、アスカの学生鞄を手にしたまま、今度は自ら彼女に抱きついた。
「ありがとう、アスカッ!」
「えっ!?ど、どういうことよっ…!?」
 突然抱き締められたアスカが青い瞳を白黒させながら問いかけた、そのとき。
 先程まで二人が上ってきていた坂道を一台の乗用車が走ってきて、ふいにクラクションを鳴らしてきた。シンジもアスカも慌てて身を離し、赤くなってそっぽを向き合う。
 その乗用車はネルフの公用車であった。運転席では、土曜日の朝にシンジをレイのアパートまで送ってくれた、あの男性スタッフがハンドルを握っている。
 公用車が二人の側でハザードランプを点滅させて停車すると、男性スタッフは爽やかな笑みとともに下り出てきた。
「おはよう、碇くん。惣流さん」
「お、おはようございます」
「おはようございます」
 男性スタッフの歯切れの良い挨拶に、シンジもアスカも礼儀正しく挨拶を返す。
 この坂道をまっすぐに行けば、二人が通っている中学校があった。その途中のT字路で、シンジはこの男性スタッフと合流することになっていたのだ。アスカとやりとりしていたために、いつの間にか時間になっていたのだろう。
「碇くん、今日からまた不便をかけるけど、よろしく頼むよ。惣流さん、せっかくだから中学校まで送ろうか?」
「いえ、結構です…」
「そうか。じゃあ碇くん、助手席は開いてるから」
「あ、はい…」
 男性スタッフはてきぱきと必要なことだけ告げると、さっさと運転席に戻ってしまう。
 ともかく、またしばらく離ればなれになる時間が来た。心の準備ができていなかっただけに、思わずアスカもシンジも寂しげな眼差しで見つめ合う。
 予定では、そのT字路でもう少しおしゃべりして、人目さえなければ別れのキスでも交わしてその時を待つつもりであった。そのぶん色々と心残りで、お互いどんな言葉をかければいいのか思いつかない。
「アスカ、鞄」
「あ、ありがとう…ね、シンジ」
「ん?」
 シンジから学生鞄を受け取って、ふとアスカは彼を呼んだ。シンジは名残を惜しむようにアスカを見つめながら、穏やかに応じる。
 アスカはせつなく詰まった胸の中から、思いついた言葉を夢中で口にした。
「…行ってらっしゃい」
「…行って来ます」
 その言葉は、あまりにありふれた挨拶。
 だけど、今の二人にとってはなにより嬉しい再会の約束。
 アスカもシンジも幸せそうに微笑むと、それで自然に手を振ることができた。
 やがて、シンジを乗せた公用車はスムーズに走り出し、坂道の向こうへ消えてしまう。一人歩道に残されたアスカは、学生鞄を持ったまま大きく伸びをした。
「行って来ます…ふふっ、行って来ます…かぁ…」
 シンジが返した言葉を復唱するだけで、どこまでも胸が和む。
 アスカは幸せいっぱいの溜息を吐くと、大きく息を吸い込んで気分転換、ちらりと腕時計を見た。一時間目の始業時間まで、あと十分。
「よぉし、今週は思い切って行くわよ、アスカッ!」
 清々しい声で気合いを入れると、アスカは自信に満ちあふれた笑みを浮かべ、残りの坂道を猛然と駆けだした。
 その足取りはワクワクと逸る胸に急かされ、どこまでも活き活きとしていた。

つづく。

 


 ご意見・ご感想はこちらまで

(updete 2004/03/06)