「…なんや?けーたろー、さっきからウチの名前ばっかつぶやいてんで?」
カオラは景太郎を眺めながら、なぞなぞの答えでも思案するかのように小首を傾げた。
物干し台の真ん中で相対し、いざ勝負っ…と思った矢先、景太郎は勃起したペニスを赤裸々さらけ出してマスターベーションにふけっていったのであった。軽く中腰の体勢となり、右手でこさえた筒の中で勃起の具合を確かめるようにじっくりとペニスをしごく。
時折上擦った声でよがっては、何度もカオラの名を呼んで妄想の中に意識を溶け込ませてゆくのだが…その目を伏せたままの童顔はなんともいえず気持ちよさそうだ。無骨さを感じさせない線の綺麗なあごが微震すると、火照った吐息が冬空の下で白く舞う。
一方、対峙している素子はと言うと…居合い抜きの体勢をとったまま、両目を真ん丸にしてその淫猥な光景に見入っている。予想外の展開を前に思考が凍り付いてしまったのか、それとも男性器を…異性の自慰行為を目撃した衝撃によって軽い錯乱に見舞われているのか、ただただきょとんとなってまばたきを繰り返すのみだ。
また、当事者のみならずギャラリーの困惑ぶりも相当なものであった。皆一様に動揺を露わにしている。唯一カオラだけが平然としているくらいである。
「…センパイの…せっ、センパイの…あっ、おっ、おっきく…おっきくなって…」
「しのぶちゃんっ、だめっ…もう考えちゃだめっ…忘れなきゃだめえっ…!!」
なるに背後から目隠しされながらも、しのぶのまぶたの裏には赤裸々となった景太郎のペニスがまざまざと焼き付いているようであった。先程から壊れたレコードのように延々と独語を繰り返し、はふ、はふ、と熱く呼吸を震わせてきている。衝撃による動悸を落ち着かせるためか、両手はエプロンの上から左の胸を押さえたままだ。
以前目撃したものとは違い、景太郎のペニスは興奮で痛ましいほどにいきり立っていた。その誘因たる男の情欲は幼いしのぶであろうとも感じることができる。
それはある意味、メデューサの伝説に酷似しているといえよう。しのぶも景太郎の勃起しきりのペニスに気圧されてしまったのだ。羞恥と狼狽で純心の真ん中に風穴を開けられてしまったのだ。
そんな純真無垢な少女の心に、これ以上淫猥な光景を見せつけるわけにはいかない…。
なるはその思いでしのぶの視界を遮っていた。
寮生の中で最年少のしのぶに性的トラウマを残し、男性不信にしてしまっては彼女の両親にも申し訳が立たない。できることなら目だけでなく、耳も塞いでしまいたいくらいである。将来への禍根は少しでも残したくないのだ。だからこそ必死に叫び、上がり口にまで聞こえてくる景太郎のよがり声を紛らわせているのである。
それは同時に、なる自身の平静を保つための努力でもあった。
なるもまたきつく目を閉じ、顔までそむけて景太郎の淫行を見るまいとしている。しかし、少しでも油断すると理性はすぐさま好奇心にそそのかされ、ついついまぶたの隙間から異性の自慰行為を盗み見てしまうのだ。
なるとて年頃の女性であり、異性に対しても少なからず興味を抱くようになっている。燃えるような恋愛に憧れもすれば、セックスにまつわる単語ひとつで頬を染めたりもする。
今は怖いもの見たさという好奇心と、嫌悪感を携えた美徳が心中で丁々発止の決闘を繰り広げている真っ最中なのである。不慮の事故とはいえ、触ったり、ヒップの谷間にあてがわれた経験があるとすればなおさらであった。
また、みつねはといえば…彼女はさすがにギャラリーの中で最年長というだけあってそれなりに心理的余裕があり、なるのような葛藤に陥ることもなく、カオラ同様景太郎の淫行を見守っていた。
「…今度、ちょっとだけ…つまみ食いしてみよっかなぁ…。」
普段から人なつっこく細まっている両目を、どこか遠くを見つめるようにいっそう細め…景太郎の右手の中で悠然と伸び上がっているペニスを見つめる。
ほろ酔い程度にアルコールが回っていることもあるが、それでも左手でセーターの上からふくよかなバストを包み込んでいるのは少々ふしだらと言えよう。しのぶのように動悸を押さえるためのしぐさでないのは、中指の腹で乳首の辺りをしきりにいじっていることからも明らかだ。みつねの本能は火照る身体を慰めるため、意識とは裏腹に作用してきているのである。
そんなひなた荘の住人に見守られながら、景太郎はさらに妄想を繰り広げていった。乾いた唇を舌で潤わせ、なにかをついばむようにヒュクンと薄膜をうごめかせる…。
とん、とん、とん、とん、とん…
「♪るんるるん、るんるんるんる〜ん…るるるるん、る〜ん…」
包丁がまな板を打つ何気ない音も、ここまでテンポよく響けば楽器の演奏に相通ずるものが生じる。
野菜とともに軽快なリズムを刻んでいる小さな音楽家…前原しのぶは燕尾服代わりにオレンジ色のエプロン姿で、奏でるリズムに合わせてなにやらハミングしている。そのかわいらしい声には心から調理を楽しんでいる気持ちが混じっていて、聞く者の耳を和ませることだろう。
しのぶは巧みな手さばきで包丁を操り、ニンジンやゴボウ、レンコン、戻した乾燥椎茸をまな板の上でぶつ切りにしてゆく。包丁自身もよく手入れされているらしく、その様子はまるであらかじめ細工しておいた切れ目に吸い込まれていくように滑らかだ。米をとぐのに洗剤を使ったりするような大学生がいる昨今において、この中学二年生の少女の技量は卓越したものであるといえるだろう。中学生で包丁を扱うことができるというだけでも今日の日本では賞賛に値することなのかもしれない…。
もっとも、しのぶは幼少の頃から料理には慣れ親しんでいるため、これくらいの下ごしらえなどどうということもない作業である。ましてや親しくしている異性と一緒であれば、六人分の夕食の準備もまさに夢のようなひとときだ。
「これで野菜は終わり、っと。センパイ、お肉はどうですか?」
「うーん、だいたいこんな感じでいいかな?こんにゃくも切っておいたよ。」
「わあ、ありがとうございます!センパイ、ホントにお上手ですね!」
「いやいや、しのぶちゃんのを見よう見まねでやってみただけだよ。」
しのぶは調理に必要な野菜をすべてぶつ切りにし終えると、背後の調理台で鶏肉を切っていた景太郎に振り返った。背後というのも、この厨房には流し台兼調理台が合計三台あり、しのぶと景太郎はそれぞれで流し台を使用しているためである。
ここ、ひなた荘はもともと温泉旅館であったものを流用しているため、キッチンも物々しく厨房と呼ぶに相応しいだけの設備を有している。小規模女子寮となった今では、いずれも『業務用』の三文字が頭に着く換気扇や炊飯器、コンロにグリルも哀れなくらいに役不足だ。フル稼働することのなくなった厨房も、ともすれば往年の温泉旅館時代を懐かしんで涙しているかもしれない。
温泉旅館時代といえば、高級輪島塗とされる箸や器の数々も食器棚の奥に閉じこめられ、日の目を見なくなって久しい。とはいえ、今の住人は洗い物ひとつにしても過剰に気を使わなければならない食器など使用することはないから、これに関しては宝の持ち腐れということはないだろう。
閑話休題。振り向いたしのぶに問われると、景太郎はわずかにまな板の端を浮かせ、野菜と同じようにぶつ切りにした鶏肉とこんにゃくを指し示した。いずれもころんとした一口サイズに揃えられていて出来映えは十分だ。しのぶが感心するだけのことはある。
「でも…本当にいいんですか?センパイはお勉強なさっててもいいんですよ?夕食の準備ならわたし一人でできますから…」
「ううん、せっかく通りかかったんだもん、少しでもしのぶちゃんを手伝わせてよ。いい気分転換にもなるしね。」
「だったらいいんですけど…でも、やっぱり悪いです…。」
ここまで夕食の下ごしらえを手伝ってもらいながら、それでもしのぶは景太郎に気兼ねせずにはいられない。せっかくの好意ではあったが、景太郎には大学受験が目前に控えているということもあり、少しでも勉強していてほしいのが本音であった。
これは決して景太郎を信用していないというわけではない。しかし、今年こそはなんとしてでも彼に東大合格という悲願を達成してもらいたかった。そして、いつか教えてくれた『やってできないことはない』ということを証明してもらいたかった。
所詮他人事ではあるのだが、最近はそんな思いで胸がいっぱいになっている。床に就いてからも受験勉強に励む景太郎の姿を思い浮かべてしまい、なかなか寝付けないことだってあるくらいだ。眠れなくて寝返りを打ち、そのたびに想いを込めて景太郎の合格を祈るのは、もはやしのぶにとってのささやかな日課と化していた。
それくらい…しのぶは景太郎のことを慕っているのである。
自分より七つ年上の彼を応援する気持ちは少しずつ好意と混ざり合い、いつしか熱っぽい想いへと昇華してきている。もちろんその事実はしのぶ自身でも気付いており、気付いているからこそこうして同じ時間の共有にささやかな喜びを感じるのであった。仮に景太郎がすでに東大合格を果たしていたとしたら、きっと毎日のように夕食の準備を手伝ってもらっていることだろう。
「せっかくですけど、本当にあとはわたし一人でできますから…センパイはお部屋で休んでいてください。勉強だけじゃなくって、管理人さんのお仕事でも疲れてると思うし…」
「いいっていいって。二人でやったら早く終わるし、そのぶんしのぶちゃんも自由な時間が増えるでしょ?」
今の景太郎にはしのぶの気遣いを辞退できるだけの余裕があった。
ここ数日はだらけることなく夜遅くまで受験勉強に勤しんでおり、そのため自分自身に科しているノルマも順調に消化できている。予備校だって面倒くさがらずほとんど毎日通っているほどだ。
今日は帰宅した足でたまたま厨房の前を通りがかり、一生懸命夕食の下ごしらえをしているしのぶに気付いたのだが…これなんかはまさに、たまには息抜きしろという天からの啓示だと思っている。英単語や数式とにらめっこしている毎日にあって、料理なんかはうってつけの気分転換になるはずだ。
それになにより、景太郎は元来フェミニストである。女の子が独りぼっちで夕食の準備をしていて素通りできるような人間ではない。中学二年生と若いながらに親元を離れているしのぶのためなら格別の思い入れが湧いても仕方のないことだ。
「ね、しのぶちゃんの邪魔にならないよう頑張るからさ。どうか手伝わせてよ!」
「邪魔だなんて、そんな…ホントにありがとうございます。じゃあセンパイ、もう少しだけお願いしますね!」
気を遣ってくれるのは嬉しいけど、今はとにかくしのぶちゃんを手伝いたい…。
景太郎はそんな想いを柔らかな微笑にして、おどけ半分右手でガッツポーズをとってみせる。その無邪気さがしのぶの母性を微妙にくすぐったようで、彼女は景太郎の申し出を素直に受け入れることにした。深々と頭を下げてまで感謝の気持ちを表すが、この他人行儀が過ぎるほど礼儀正しいところもしのぶの魅力のひとつであろう。
しゅうっ…ボンッ!!
「わわあっ!?」
景太郎からまな板ごと鶏肉とこんにゃくを受け取ったしのぶは、これまた業務用の大型コンロの元栓をひねり、厨房に常備してある百円ライターで着火した。バーナーはいかにも大火力らしく物々しい音を立て、それから何事もなかったかのように整然と青い炎を揃えるが…普段厨房に訪れることのない景太郎は思わず肝を冷やし、悲鳴をあげてしまう。
「ふふふっ、聞き慣れてないと、やっぱり驚きます?」
「うん…いやぁびっくりした、ガス爆発かと思ったよ…。まったく、なんて物騒なコンロなんだ。」
「そんなことないですよ。使い方さえキチンと守れば和食に洋食、中華やイタリアン、なんだってこなしてくれる万能コンロです…なぁんて偉そうに言ってますけど、わたしも初めは点火するの、怖かったんですけどね?ふふふっ、でもさっきのセンパイの声…!」
「もうっ、あんまり笑わないでよっ…!」
「あははっ!ごめんなさいっ!」
一見獰猛なコンロであるが、しのぶはとうの昔に彼を手懐けている。例えるならセントバーナードクラスの大型犬を飼っているようなものだ。景太郎はそんな大型犬に吠えかかられたようになり、ついつい悲鳴をあげてしまったのである。
飼い主たるしのぶとしては景太郎の驚き方がどうにもおかしく、悪いとは思いながらも笑みを浮かべずにはいられない。気恥ずかしさのあまりに憮然とすればするだけ、滑稽さがしのぶの心をくすぐってきた。景太郎の苦笑を見ないようにうつむき、左手で口許を押さえて必死に吹き出すのを堪える。
どうにかこうにか失笑の大波をやり過ごしてから、しのぶは何気ない手つきでバーナーの火勢を加減し、とりあえず鍋をコンロにかけた。スチール地剥き出しで飾り気ひとつ無い業務用の中鍋である。六人分を作り置きするため、鍋もそこそこ大型のものを使用しなければならない。
そのままある程度温まるのを待ってから、サラダ油とごま油を半々で垂らして馴染ませる。調理さじを使うことなく、あくまでしのぶの感覚勝負だ。とはいえその調理感覚は長年の経験から鋭く研ぎ澄まされているから心配など無用である。今まで彼女が用意してきた献立に誰からの不満も出ていないのは、決して偶然の積み重ねなどではない。
ごとごとごとっ…じぁーっ…
やがて野菜が鍋に放り込まれ、まんべんなく油が行き渡るように大型しゃもじで掻き回される。油の爆ぜる小気味よい音とともに香ばしい匂いが厨房に拡がり、食欲をそそられて胃液の分泌が盛んになるが…それはそれとして、景太郎は特に手伝えることがなくなってしまった。仕方がないとばかり、煮込みの見張り用と思しき丸椅子に腰を下ろす。
何とはなしに眺めると、台所仕事に精を出しているしのぶの後ろ姿はなかなか絵になるものだ。
厚手でゆったりめのトレーナーに、膝が隠れる清楚なスカート。その上にオレンジ色のエプロンを身に着けた姿は愛くるしいながらも、どこか頼もしい。
やっぱり家事の得意な女の子って、見てて安心できるよなぁ…。
鍋の中身を丁寧に炒め続けるしのぶを見つめながら、景太郎は心中でそう納得した。
男なら誰でもそうだと思うが、景太郎もまた家事の得意な女の子が好きであった。料理、裁縫、洗濯、そして育児…そういった家事全般に対して一生懸命になれる女性は尊敬してしまうし、憧れてしまう。早い話が景太郎の理想の女性像であるわけだ。
かといってそれは、そんな女性を娶ると夫として楽ができるから…というようなさもしい理由によるものではない。
何を置いても家庭のために身を粉にしてくれること…。それこそが景太郎の男心をくすぐるのである。とはいえ妻を家庭だけに束縛するつもりもない。景太郎とて家事が大好きだし、積極的に協力したいと思っている。共に築き、共に守り、共に暮らす…。家庭とはすべからくそうあるべきだ。
しのぶちゃんなら良妻賢母間違いなし…って、ちょっと気が早いよな…。
景太郎がいつになくハイテンションな妄想に苦笑したとき、しのぶはボブに揃えた黒髪を揺らして振り向いてきた。しっかり幼妻然としている微笑は暇を持て余す景太郎を労るようであり、冷え冷えとした厨房にありながらも小春日和のように優しい。
「ほらセンパイ…退屈しちゃうでしょ?お台所でじっとしてると冷えますし、それで風邪でも引いたら大事ですっ。」
「ううん、本当に大丈夫だってば。しのぶちゃんが料理してるとこ見てるだけでも…なんてゆうのかな、すごく女の子なんだなあって…俺、見てて飽きないし。」
「そ、そんな…そう言われると緊張しちゃいます…。」
景太郎を気遣わずにはいられないしのぶであったが、それでも景太郎から愛しげな眼差しを送られるとそれ以上言葉を見出せなくなってしまう。大きなしゃもじを胸の前に抱え、モジモジはにかんでうつむいてしまった。
景太郎と一緒にいて悪い気がするわけではない。今すぐ厨房から追い出したいわけでもない。むしろ景太郎には側にいてもらって、たわいもない雑談の相手でもしていてほしいくらいだ。
ただ、あらためて料理の準備を注視されるのかと思うと妙にやりづらくなるのである。褒められたいと思って気負いもするし、なにより照れくさい。
そんなしのぶに追い打ちをかけるよう、景太郎はいささかの悪気もなく微笑みかけてきた。適当な話題を振るつもりが、ついつい本音を口にしてしまう。
「えへへ…でもエプロン姿の女の子ってやっぱりいいよねえ。こうやって見てるとしのぶちゃん、良いお嫁さんになれるだろうなあ。いやいや、優しいお母さんになってるしのぶちゃんの姿だって目に浮かんでくるようだよ。」
「えっ、ええっ…!?お、およめさん…おかあさん…!?」
「うん…素敵な相手とかわいい子供、家族揃って仲良く料理を作ってそうな…そんな暖かい家庭を築くんじゃないかな。いや、しのぶちゃんならきっとそうなっちゃうよね!しのぶちゃんみたいなかわいい奥さんだと、ダンナだって積極的に家事を手伝いたくなるはずだよ。」
「あ、ふぁ…うううっ…」
かああっ…。
景太郎がなんの下心もなくそう言うと、しのぶは火にかけられたままの鍋も忘れて真っ赤になり、しゃもじの柄をニギニギともてあそび始めた。熱い動悸が耳元で聞こえてきて、幼い素顔は今にも火が出そうなくらい熱くなってくる。
しのぶが家事全般が得意であるのは、彼女には幸せな家庭を持つという夢があるからだ。景太郎の憧れに似通ってはいるが、それよりもずっと直裁的な願望である。
もちろん中学二年生という身、まだまだ理想に基づく淡い憧憬ではあるが…いつかは素敵な男性と結婚して子供を設け、それこそひなた荘のようなのどかな環境で幸せに暮らしたいと胸に思い描いているのである。この想いは以前から強くしのぶの内に芽生えており、小学校中学年の頃に将来の夢を尋ねられ、周りが『保母さん』や『スチュワーデスさん』と答えている中、素直に『お嫁さん』と答えたこともあるくらいだ。
それほどまでにひたむきに抱いている憧れであったからこそ…図星を突かれたように言い当てられたことがたまらなく照れくさいのである。ましてや相手が想いを寄せている景太郎であるからなおのことだ。努めて考えないようにしてみても、自ずとまぶたの裏には景太郎と家庭を築いた光景が鮮明に拡がってきてしまう。
それによくよく考えれば、今こうして一緒に料理を作っている状況も極めてそれに近いものがあるではないか…。
ふとそれに思い至ったしのぶはますます頬を火照らせ、にわかに胸を占めてきたせつない痛みにきゅっと唇を噛み締めた。景太郎になにがしかの応答を返さなければと焦れば焦るだけ、この沈黙が気まずいものに思えてくる。
狼狽え、暴走しかけた想いがふいに口をついた。
「せ…センパイも、そう思って…」
「しのぶちゃん?あの…お鍋、大丈夫なの?」
「え?わ、わわわっ!!」
しのぶの心情を察することもなく、景太郎は香ばしさを通り越した強い臭いに気付いて声をかけた。熱に浮かされたしのぶもすぐさま我に返り、慌ててしゃもじで鍋の中身を引っかき回す。幸い野菜の一部が焦げ付こうとしただけであり、調理の進行には差し支えないようであった。
はふぅ…。
舞い上がった気持ちを落ち着かせようと深呼吸をひとつ、しのぶは野菜が適当に炒められたところで今度はこんにゃくを入れた。ごとごと掻き混ぜてさらに炒め、最後に鶏肉を入れる。これであとは乾燥椎茸の戻し汁を適量入れ、砂糖や醤油、みりんで煮詰めれば前原しのぶ特製、筑前煮の完成だ。
「う〜ん、やっぱり肉が入ると匂いも違うなぁ…ホントに美味しそうっ!後はもうしのぶちゃんの味付けを待つだけだね。」
「え、ええ…。」
「筑前煮…って言うんだっけ?食べるの初めてだけど、ごはんに合いそうだなあ…!」
「は、ははは…」
炒められた鶏肉から油が熔けだすと、厨房にはいよいよ芳しい匂いが立ちこめてくる。景太郎は丸椅子から立ち上がってしのぶの横から鍋を覗き込み、完成を心待ちにする欠食児童よろしく舌なめずりした。
ひなた荘では数日ごとのローテーションで女性陣が食事当番を受け持っているのだが、中でもしのぶの料理は見た目も味も抜群であり、しかもレパートリーが豊富であった。それでいて食材にはさほど費用をかけないのだからすごい。景太郎としてはただただ感心するほかになく、食欲のままにおかわりを要求することもしばしばである。
一方しのぶは期待に満ち満ちている景太郎に間近に立たれ、せっかく納まりかけた胸の高鳴りをぶり返していた。景太郎は決して背が高いほうではないが、それでも中学二年生の自分よりはずっと長身であり、その存在感だけでも胸はドキドキと早鐘を打ってしまう。鍋を覗き込んだ弾みで彼の顔が急接近したときは、思わず興奮で息が詰まったほどだ。
そのため受け答えも極めて言葉少なである。不自然だとは思うのだが、どうにも言葉が見つからない。過剰に景太郎を意識するあまり、言語中枢では語彙の検索が難航してしまうのだ。もどかしさで胸が苦しい。
とにかく料理に集中しよう…。美味しく作って、喜んでもらえたら嬉しいから…。
しのぶは心中で自分自身に言い聞かせると、ボウルに入った乾燥椎茸の戻し汁を取ろうとした。景太郎の前に身を乗り出すよう、流し台の奥へと手を伸ばす。
「よい、しょっ…」
「あ、これかい?言ってくれれば俺が…」
「あっ…!」
ぴとっ…。
暖かく、そして柔らかな感触。
しのぶが伸ばした右手と景太郎が伸ばした右手はそれぞれでボウルの端をつかみ…それぞれで重なり合った。しのぶの手の甲に景太郎が手の平をかぶせてしまった格好だ。
しかしそのささやかなランデヴーは一瞬だけで終わってしまう。景太郎もしのぶも恥じらうように手を引っ込め、気まずそうに見つめ合った。
「ごめんっ…」
「ごめんなさいっ…」
異口同音で先を争うように告げたが…それきり言葉は出てこなかった。思いがけないほどわずかな距離に相手の素顔があったため、緊張で息を飲んでしまったのである。
あれ…しのぶちゃんって、こんなにかわいかったっけ…?
景太郎の心中に、そんな新鮮なきらめきが通り過ぎる。頬はもちろん、耳たぶまで真っ赤に火照らせたしのぶに、景太郎は今まで感じたこともないほどのときめきを覚えていた。
実際、景太郎はしのぶのことを気に入っていた。真面目で、前向きで、いつでも一生懸命な彼女の姿には少なからず惹かれているところがある。年齢さえ近ければ恋人になりたいと願っていることだろう。
しかし、今こうして熱っぽく瞳を潤ませたしのぶを見つめていると…七歳という年齢差など無視してしまいたい衝動が沸々と湧いてくる。それくらい今のしのぶはかわいく、そして愛おしかった。
「しのぶちゃん…」
「あっ…」
ささやかな好意が、たちまち熱い愛欲に昇華する。
気付いたときには、景太郎はしのぶを呼びかけながらその肩に左手を置いていた。しのぶは怯えるよう、ビクン、と震えて声を漏らすものの…その手を振り払うこともできず、真っ直ぐに景太郎を見つめるのみである。不埒な予感でわななくあごに合わせ、うっすらと開いている唇は微震していた。
とにかく緊張がすごい。胸いっぱいに拡がる不安と期待、それと、どこか後ろめたいような衝動に身じろぎひとつできなくなっている。
このまま…このままだと、わたしとセンパイ…
にわかに勢いを増した好奇心はしのぶの貞節を押し殺し、彼女に行動を起こさせた。愛欲を勇気と信じ込み、景太郎の前で静かに目を伏せる。
「お願い…します…。」
しのぶは可憐な唇を震わせつつ、はっきりとそう告げた。照れくさくて何をお願いするのかまでは口にできず、そのまませつなくうずく薄膜を小さくつぐんでしまう。
それでも景太郎はしのぶの想いを察し、眼鏡を取って流し台の上に置いた。そのまま左手同様右手も彼女の肩に置き、生唾を飲み込んでから顔を近づけてゆく。
ちゅっ…。
お互い、緊張の真っ直中で迎えるファーストキス…。
薄膜どうしがぴったり密着すると、厨房では本来響くはずもない湿った音が二人の隙間から漏れ出た。めくるめくような興奮の中、景太郎もしのぶも呼吸を止めてひたすらキスの夢心地に浸る。
すごい…キスって、こんなに気持ちいいものだったんだ…。
声には出さないが、二人とも動悸を耳元で感じながら抱擁の悦びに打ち震える。
儚いほどに柔らかな感触、泣きたいほどの顔面の火照り、叫びたいほどの嬉しさ、照れくささ…。それら、両想いでこそ得られる感動は初々しい二人を恍惚とさせるに十分すぎるエッセンスである。十秒、二十秒、三十秒と密着を維持すればするだけ、身も心もとろけてしまいそうだ。
ぐつぐつぐつっ、ぐつぐつぐつっ…
時間を忘れてキスに酔いしれる二人にあてつけるよう、火にかけられたままの鍋は中身を煮立たせて激しく騒ぎ始めた。掻き混ぜられもせず、一分近くも抱擁に夢中になっていてはさすがの鍋とて嫉妬せずにはいられない。鍋だってかまってほしいのだ。
しのぶは思わずまぶたをパチクリさせて我に返るが、それでもなお唇を重ねたままガスの元栓を締めて無粋な鍋を黙らせようとした。もっともっとファーストキスの甘美さを満喫していたいのである。
慎重に左手を伸ばし、手探りでガス管をたどって…
思わず指先が煮え立つ鍋の底に触れた。
「熱いっ!!」
欲張った代償か、しのぶは薬指の先に鋭い痛みを感じ、悲鳴をあげてキスを中断した。痛みを振り払うようぶんぶん指先を振るが、それでも薬指は赤く腫れ上がって痛ましさをますばかりだ。放っておけばたちまち水膨れができてしまうだろう。
「しのぶちゃんっ!」
「あっ…」
ザーッ…
悲鳴としぐさで事情を察した景太郎はなんらの躊躇もなく、乱暴な力でしのぶの左手を流し台に引き寄せ、カランをひねって流水を浴びせた。初春の冷たい水が痛む指先を癒してゆくのを真剣な面持ちで見守る。
「痛いっ…ちょ、痛いです、センパイ…」
「もうちょっとガマンしてて…しっかり冷やしておかないとひどくなっちゃうから…」
「いえ、手首が…その…」
「え?あ、あっ!!ご、ゴメンッ!!」
しのぶの遠慮がちな声の意味を取り違えていた景太郎はすっかり狼狽え、きつく握り締めていた彼女の左手を慌てて解放した。無我夢中であったためによほどの力で握り締めていたのだろう、しのぶの手首は火傷しかけた指先に負けないだけ赤くなっている。これでは咄嗟の行動も本末転倒だ。
景太郎はガックリ肩を落とすと、流し台の脇にある冷凍庫から氷を一つかみ取り出し、しのぶの薬指を冷やすようにくるんであげた。それでも先程の失態が悔やまれてならず、やるせなさそうに溜息を漏らす。カランを締め忘れて流れるがままにしている水音すらも、どこか嘲笑めいて聞こえるほどに自責の念が大きい。
「ホントにゴメン…。あ〜あ、まったく何をやってんだろう…。」
「そんな、センパイは悪くないですよっ!後ろ手で元栓を閉めようとしたわたしのほうが悪いんですからっ!!」
「しのぶちゃん…」
「お願いですから気を落とさないで…自分を責めないでください…。わたしが悪いんですから…ねえ、センパイ…お願いですから…」
落ち込む景太郎を励ますよう、しのぶは右手でガスの元栓、次いでカランを締めながら声を震わせた。なんの非もないのに落胆する景太郎の姿が見ていられなくなったのだ。自分のミスがそうさせたのかと思うと、いたたまれなくなって涙ぐんでしまう。
ひくっ、ひぐっ…ぐすん…
しかし、泣くのを堪えようとすればするほど涙腺は危なっかしく震えてきた。このままでは景太郎を心配させてさらに気苦労をかけるだけだというのに、もう涙は止まってくれない。しゃくり上げた弾みに鼻まですすってしまうと、もうどうにも隠し立てできなくなってしまう。
「しのぶちゃん…」
「せんぱぁい…」
ぎゅっ…。
ごろん…と手の中から氷を手落とし、景太郎はしのぶを強く抱き締めた。華奢な肩から、小さな頭から押し抱くようにすると、しのぶも遠慮なく景太郎の胸にすがりついてくる。背中に両手を回し、セーターの胸元に顔を埋めてぐずぐずすすり泣いた。
泣いてもいいんだよ、と諭すような優しい手つきがたまらなく嬉しい。しのぶは景太郎に繰り返し背中を撫でられ、少しずつ落ち着きを取り戻していった。心地よさそうに微笑むと、幾分躊躇いながらも甘えるように胸元へ頬摺りしたりする。彼女なりの、せめてもの愛情の証だ。
「…センパイ、すごく素敵でした。」
「え?」
「火傷したわたしの手、力強く引っ張ってくれたとき…。それと、その時の真剣な顔…。わたし、キスしてるときよりもずうっと胸がドキドキして…」
「しのぶちゃん…」
景太郎に抱かれたまま夢見るような口調でつぶやき、しのぶは顔を上げた。先程まで泣いていた顔を見せるのは少々気恥ずかしかったが、景太郎を心配させた罪滅ぼしと思えばつらくはない。
むしろ、景太郎に見つめてもらいたかった。真っ直ぐに見つめてもらい、ファーストキスを交わしてから無限に湧き出てくる景太郎への愛情を伝えたかった。
背伸びをしているようにも思う。どこか後ろめたい気持ちもある。しかし理性はもはや愛欲を押しとどめていられそうになかった。今はとにかく景太郎が愛しい。
「センパイ…好きです…。わたし、浦島センパイが好きですっ…!」
想いは強く、そして純粋であるほど言葉に説得力を持たせることができる。
そう信じて…しのぶは告白した。打算も何もなく、まさに本能に突き動かされるままの告白であった。照れくささも恥じらいもなく、ただ胸のつかえが取れて安らいだ気分となる。痛いほどに募った想いがいっぺんに解き放たれた瞬間であった。
そんな彼女の言霊は景太郎の胸にゆっくりと染み渡り、暖かな相乗効果で彼を歓喜に震わせる。しのぶを抱き締める両手にも力がこもった。
「しのぶちゃん、嬉しいよ…。俺もしのぶちゃんのこと、ずうっと前から意識してた…。ひなた荘に来たときから、真面目でお淑やかな姿に憧れてた…。」
「ああっ…じゃあわたしたち、両想いなんですよね…!ああっ、どうしよう…やだ、すごい嬉しい…どうしよう、どうしようっ…!」
しのぶは景太郎の腕の中で小さく打ち震えると、再び両目を涙で潤ませ、愛くるしい微笑を嬉し泣きに揺らめかせた。初恋の成就による感動があまりに大きかったため、思わず狼狽えてしまう。もう身体中が熱くてならない。今にものぼせてしまいそうだ。
それはもちろん景太郎も同じである。予想もしなかった相手と…自分にはもったいないくらい素敵な相手と両想いになれた事実は今すぐその辺を転げ回りたいくらいに嬉しい。しかもそんな少女とファーストキスを交わし合ったなど、果報もいいところだ。
ぎゅうっ…。
この幸福感を絶対に逃したくない…。ただひたすらそう願い、景太郎はしのぶの身体を強く強く抱き締め続ける。
「しのぶちゃん…もう一回、キスしよう…?」
「お、お願いします…今度はもっとゆっくり…い、いっぱい、キス…」
感極まる前に、景太郎はしのぶの耳元でそうささやきかけた。味気ない青春時代を一からやり直すよう、思春期のような接吻欲を呼び戻して飾り気無く求める。
しのぶにしてみれば、ちょうど今こそが思春期花盛りといった年頃だ。愛しい景太郎からの誘いかけに声を上擦らせ、いても立ってもいられないように抱擁をねだる。ファーストキスは麻薬のような余韻を唇に残したようで、一秒でも早く、一秒でも長くくっついていないと焦れったくてならない。
ちゅっ…。
眩しげに細めた瞳で見つめ合うなり、そっと目を伏せて唇を重ね合わせる。
それで愛欲はいよいよ燃えさかり、若い二人を少しずつ汗ばませていった。興奮の汗は雄と雌のフェロモンを濃厚にたゆたわせ、互いに発情期を迎えさせる。呼吸を止めていてなおその影響を回避することはできない。男女のメカニズムは確実に機能を始める。
ちゅむっ…ちむ、ちゅむっ…かみっ、かみっ…ちょむっ、ちゅむっ…
景太郎もしのぶも積極的に唇をたわませ、恋人どうしのキスに溺れていった。胸いっぱいに募った焦燥をなだめるよう、右に左に小首を傾げて角度を確かめ、じゃれるようについばみ合う。唾液で潤った薄膜が擦れるだけでも気持ちいいというのに、こうして弾力を分かち合うと恍惚のあまりに失神してしまいそうだ。
もちろん昼日中から濃厚なキスを交わしていることに対し、二人とも少なからず恥じらいを抱いてはいるが…身体の芯から発散される暖かな輝きに逆らうこともできず、しつこいと思えるほどに互いを求めてしまう。
その輝きはまるで太陽であった。キスを覚えた瞬間、胸の奥には無限に愛欲を放つ恒星が産まれたに違いない。その若々しいまばゆさは自分ながらに目が眩みそうである。
かぷ、あぷっ…もぐ、もぐっ、ちゅぷ…ちゅうっ…
ひとしきり小刻みに噛み合わせた後、今度は深い角度を付けてからぴっちりと塞ぎ、軽く吸い付く。そのまま抱き合って身じろぎひとつせず、じっくりと密着感を堪能し…そして、口内に満ちてきた唾液を嚥下した。二人の喉は仲良く、ごくんっ…と鳴る。
ん…すふ、すふ、すふ…すぅ、すぅ、すぅ…
やがて景太郎から、次いでしのぶが鼻で息継ぎし、今度は唇の角度を百八十度入れ替えて再び柔らかみを実感する。二人ともすっかりキスに魅入られたようで、先程からずっと押し黙ったままだ。
いわゆるヤリたいサカリの景太郎はともかく、慎み深いしのぶですら貪欲に抱擁を求め続ける始末である。とにかくキスが心地よくてならない。好奇心にも後押しされ、二人とも先程ファーストキスを交わしたばかりであるにもかかわらず…お互い果敢にキスのバリエーションを模索してゆく。
ちゅぴ…ちゅぴ、ちゅぴ、ちゅっ、ちゅっ…ちゅぴっ…
景太郎は深い密着状態から徐々に唇をすぼめてゆき、しのぶのそれをゆっくりとついばんでから離した。ぷりん、と弾ませては再びついばみ、離してはまたついばみ…まるでしのぶを焦らすように繰り返す。少し意地悪しただけですぐさま泣き出しそうなしのぶの、その可憐な唇を…右から、左から、正面から、それこそ縦横無尽にいじめ抜く。愛欲の中で、軽い嗜虐の快感が目覚めていた。
「ん…ううんっ…んうんっ…やん、もっとゆっくり…んっ…」
真上から一方的に奪われるだけのキスに焦れてきたのか、しのぶは鼻にかかった不満の声をあげた。弾力を秘めるにはまだまだ発育途上の胸の奥にもせつない痛みが満ちてきたのだろう、唇の隙間からは不規則な吐息も漏れ出て景太郎の鼻面を湿らせる。
それでも景太郎は意地悪を止めようとせず、今度は両手でしのぶの頬を包み込みながら不埒を続行した。きめ細かでスベスベしている柔肌をゆっくり撫で回し、その驚くほどの熱量を手の平いっぱいに感じながら執拗に少女の唇をいじめ続ける。
ちむっ…ちゅむっ…ちぴっ、ちゅぴっ…ムニムニ…ちゅちゅっ…
「んあんっ…んっ、んんーっ!すふ、すふ、すふ…」
真横から噛み割るように開いたり…
上唇と下唇を交互についばんでめくったり…
そっと触れたままでじりじり薄膜を擦ったり…
ぴっちり吸い付き合ったかと思ったら、すぐさま強引に引き離したり…
そんな意地悪なキスの果てに、しのぶはいてもたってもいられなくなってしまった。景太郎の背中にぎゅっと指を立てて胸を押しつけると、せつなげにうめきながら焦れた唇を噛み締めてしまう。とすんとすん腰をぶつけてまでむずがったりすることからも、どうやら意地悪の度が過ぎたらしい。
ちゅぱっ…。
「んあっ…はあ、はあ、はあ…うっ、んう…」
「ごめんね、しのぶちゃん…」
「…センパイのいじわる…。」
二人の長い長いキスはようやく第一幕を終えた。静閑としている厨房に濡れた音が響く。
そこでようやく二人はまぶたを開いたのだが、いじめ抜かれたしのぶはすっかり瞳をウルウルさせていて、今にも涙を頬の稜線に伝わせんとしている。そのあまりの愛くるしさに嘆息しながら景太郎が謝っても、しのぶはそっぽを向いてふてくされるのみだ。怒ってるんですからねっ、とばかりに口をへの字に曲げ、わずかに頬を膨らませてもいる。
「ホントにごめん…。しのぶちゃんがあんまりかわいかったから…俺、つい意地悪したくなっちゃったんだ…。」
「んう…センパイばかり好きなようにして、ずるいです…。わたしにも…好きなようにさせてください…」
「まだ足りないんだ?じゃあ欲張りなしのぶちゃんは…どんなキスが好きなの?」
「よ、欲張りなんかじゃ…もう、いじわるばっかり…。わたし、もっとじっくりくっついていたいんです…何度もされたら焦れったくて…だから、もう一回…」
駄々をこねるようにすねてみせるしのぶであったが、景太郎にあごのラインから耳の裏、うなじにかけてを指先でなぞってもらうと、幾分機嫌を直して顔を上げてきた。時折くすぐったそうに身をよじるものの、しおらしく彼の愛撫を受け入れてアンコールをせがむ。
詫びておきながらもあえて意地悪な言葉を選ぶ景太郎であったが、それでもしのぶは彼に寄り添ったまま、じっと目を閉じて抱擁を待った。よほどキスが気に入ったと見える。小刻みに連発されるキスよりもねちっこいくらい密着を維持し続けるキスの方が好きだという辺り、しのぶは相当な甘えんぼであるらしい。
ちゅっ…。
「んっ…んう…ん…」
安心しきったように差し出されているしのぶの素顔を見つめてから、景太郎はもう一度唇を重ねた。しのぶの期待に応えるよう、今度は両手をショートボブのうなじの方に進め、小さな頭を支えるように優しく包み込む。真っ直ぐに口づけてからじりじりと角度を付け、ほとんど直交するくらいになってから、ぁぷっ…と唇で噛みつき合った。そおっと吸い付いてぴったり密着すると、今度はしのぶも満足そうに喉を鳴らす。
何度もたわませ合ってわかったのだが、しのぶの唇はすこぶる小振りで肉厚が薄く、柔らかく…可憐という言葉が相応しいものであった。そのぶん景太郎としては濃厚なキスを捧げていじめ抜きたい衝動に駆られてしまうのである。かわいさ余って憎さ百倍という心境だ。
そんな悪ガキ然とした衝動は理性を持ってしても耐え難く…景太郎は身長差を活かしてついつい唇を引き離してしまう。
ちゅ、ぱっ…。
「あん、いや、もっとキスしていたい…センパイ、もっとっ…もっとキスさせてっ…!」
「わわっ、ゴメンゴメン…じゃあ今度こそ、ずうっと…」
密着が解かれた途端にしのぶは半ベソをかき、くんっ、くんっ、と背伸びを繰り返してまで景太郎にキスをねだった。しのぶの予想以上の困惑ぶりに景太郎もいささか狼狽え、あらためて口づけしなおす。
ちゅむっ…。
弾力の向こうに前歯を感じるくらいの強い口づけ…。二人は密着する表面積を稼いだまま呼吸を止め…まるで寄り添って眠るような長いキスにふけってゆく。
「ん…んんっ…」
いい気持ち…。
しのぶは満足そうに喉を鳴らす。
唇の柔らかみ、うなじに手の平の熱、胸板ごしに伝わる鼓動…それら景太郎の何もかもがしのぶにとっての充足感となり、心は和んでいった。おねだりに応じて真上からぴっちり塞いでもらうと、その唇からは彼の愛情が温かなシャワーとなって降り注いでくるようだ。まるでぬるめの風呂か、二度寝の羽毛布団のように優しい。身体中に愛撫されているような心地で脊髄ごと歓喜するよう、背すじがゾクゾクする。
ぎゅうっ…。
その狂おしい悪寒を紛らわせようと、しのぶはより強く景太郎の身体にしがみついていった。両手で景太郎のセーターを握り締めつつ、精一杯の力で抱きつく。着衣の上からでもそれなりの弾力を秘めた男の身体を感じることができた。厚い胸板、固い腹筋、そして…男性固有の部位。
やだっ…ここって、センパイの…センパイのっ…
景太郎のそれはすでに興奮のさなかにあるらしく、ジーンズの前をたくましく膨らませていた。恐らく真上を向いているのだろう、寄り添えば寄り添うだけしのぶの腹部にグイグイ押しつけられてくる。しかも小刻みにぴくんぴくん震えているではないか。その脈打つような動きは密着しているしのぶに逐一伝わってくる。
景太郎とて心身ともに健康な一青年だ。性的興奮を覚えればそれなりの反応を示してしまうのは仕方のないことである。
しかし頭ではそう思えても、純情なしのぶとしては狼狽せずにいられない。羞恥に耐えるようきつく目を閉じると、呼吸を止めていることもあり、顔面はたちまち湯気が出そうなほどに紅潮してくる。どきん、どきん、どきん、と耳鳴りも怖いほどに響いてきた。
ごくんっ…。
景太郎と口づけたまま生唾を飲み込んでしまうと、彼と抱き合っていること、彼とファーストキスを交わしたこと、彼の興奮した性器と接触していること…そんな状況がひとつひとつ羞恥の炎に油を注いできた。小さな耳たぶまで真っ赤になると、しのぶの和んだ気持ちはすっかり困惑の怒濤と化し…彼女の細い身体をブルブルさざめかせる。深い角度でキスしたままあごをわななかせると、胸の中でヒューズが切れたように足元から脱力をきたした。
「ん…んんんっ…すふ、すふ、すふ…ん、んう…」
「ちゅちゅっ…ん、ん…」
もう立っていられそうにない。しのぶは景太郎にすがりついたままゆったりと寄りかかり、つらそうに鼻で息継ぎしてしまう。鼻息を聞かせてしまうことだけでもたまらなく恥ずかしい。
その小さな呼吸を頬に感じ、景太郎はしのぶの頭を支えていた両手のうち、まず右手だけをゆっくり下降させていった。頬同様火照った首筋をなぞり、肩口から二の腕を撫で、そして背中に到達するとしのぶは腕の中でぶるるっ…と身震いする。自ら望んだ長いキスを続けるうち、少女の身体はすっかり敏感になってしまったらしい。
そんなしのぶの興奮をなだめるよう、景太郎は彼女の背中をゆっくりゆっくり撫でさすってやった。
背骨に手の平を添わせ、上から優しく撫で下ろすのだが…これは体毛を有する哺乳類に共通したセオリーだ。体毛は必ず上から下に向かって生えているため、犬であれ猫であれ頭の方から撫で下ろしてやると大変落ち着くのである。
もちろん人間も同じであり、現にしのぶも景太郎の愛撫で少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。とはいえ下肢の脱力はどうすることもできないようで、心持ち閉じぎみの膝はガクガクし通しだ。
しゅるっ…しゅく、しくっ…ふぁさっ…
丁寧に背中を撫でていた右手はおもむろにエプロンの帯を摘み、一息に解いてしまう。そのまま指先で緩めると、景太郎は二人の隙間から引き抜くようにしてエプロンを脱がせてしまった。衣擦れを残しながら足元に放ると、しのぶの柔らかな身体はより生々しく感じられるようになる。エプロンはそこそこ厚手であったため、この差は大きい。
「んっ…!」
着衣を一枚脱がされたことで、しのぶは怯えるようにピクンと肩を跳ねさせたが…景太郎はお構いなしといった様子で彼女の身体を強く抱き寄せた。すり足で足元を確かめつつ、先程まで鶏肉やこんにゃくを切っていた調理台へとしのぶを導く。
散らかっていた包丁やまな板、スチロール容器やビニール、キスの時に外したメガネなども片手で流し台の上にゴトゴト落とし、ふきんを滑らせて調理台の上を無造作に片付ける。必要にして十分なスペースを作り出してから、景太郎は抱き寄せたしのぶの腰を調理台の端に押しつけた。
ぐんっ、ぐんっ…と合図するように腰を突き出すと、しのぶも意図を悟ってか、唇が離れないように気を付けながらちょこんと調理台の上に腰掛ける。これで視線の高さはわずかに逆転してしまった。
「んっ、んっ…んっ…」
「ん?ふふふ、んん…」
「んんっ!ひう、ひうんっ…!!」
ちょむっ、ちょむっ…ちゅむ…かみっ、かみっ…
しのぶは景太郎の頭を両手で抱え込むと、キスの角度を入れ替え、西瓜でも食べるようなしぐさで吸い付いてきた。甘えるような声でうめきつつ、一生懸命景太郎の唇を貪る。
景太郎もそのくすぐったさと愛らしさで微笑ましくなり、指先でしのぶの髪を退けてから真っ赤に火照る耳をもてあそんだ。中指の先で耳の裏をくすぐり、耳孔から耳たぶにかけての産毛を愛でるように撫でると、しのぶは甘ったるいよがり声を鼻の奥から聞かせてしまう。ガクガクッとあごが震える辺り、耳もしのぶのウイークポイントであるようだ。
ちゅぱっ…
「んあ、ふぁあ…はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…」
「しのぶちゃん、気持ちよかったよ…。キスだけで、すっごい興奮しちゃう…。」
「わ、わたし、もうだめ…幸せ過ぎて、胸が張り裂けそう…」
じんわり染み出ていた唾液を唇どうしの隙間で弾ませ、しのぶはよがり声を殺しきれなくなってキスを終えた。実に五分にも渡った長い長いキスはしのぶにも景太郎にも分け隔てなく極上の興奮を喚起させ、二人を発情期の頂点へと誘う。浮き足立ってしまいそうなほどの甘美な余韻に浸りつつ、それぞれ頬摺りしながら感動を分かち合った。恥じらいを覚えながらも荒ぶった呼吸を隠すことができない。
「しのぶちゃん…キスと俺と、どっちが好き…?」
「あん…変な質問しないでください…どっちも…どっちも好きです…」
「どっちもじゃだめ、どっちか答えてよ…しのぶちゃん…」
「やん、せ、センパイ…センパイのほうが好き…センパイの方が好きですっ…!」
「えへへ、嬉しいな…じゃあお礼にキスしてあげる…」
「ん、んうっ…んっ…」
ちゅっ…ちゅっ、ちゅっ…ちょぴ、ちょぷっ…
頬摺りしながら睦言を交わし、二人は再び唇を慰め始めた。
景太郎もしのぶも唇をすぼめるようにしてそっと突き出し、グッピーのケンカよろしくイチャイチャと突っつき合う。そのまま少しずつ唇を開いてゆくと、濡れる音はさらにボリュームを増して厨房に響いた。互いの唾液が少しずつ舌に染み込んできて、若い二人はめくるめくような興奮で一際愛欲を燃え上がらせてしまう。
お互い、唇の相性は驚くほどピッタリだと感じていた。その気になれば、このまま一日中でもキスを楽しんでいられると思う。それくらい景太郎はしのぶに…しのぶは景太郎にキスしたかったし、キスしてもらいたかった。キスさえしていれば時間も忘れることができるし、言葉も何もいらなくなるだろう。
まるで口唇期の幼子であるが、あきらかにそれと異なるのは二人とも唇が性感帯として成長を遂げていることだ。執拗に吸い付き、ついばんで性感帯どうしを刺激し合う間に愛欲は身体中を狂おしく反応させている。景太郎はもちろんペニスを勃起させているし、幼いしのぶでさえ太ももの付け根をズキン、ズキン、と繰り返してうずかせるようになっていた。
しかしマスターベーションすら未経験であるしのぶにとって、女の悦びはまだ痺れるような暖かさ程度でしかない。身体中が敏感になってきていることも、それは景太郎への過剰な意識によるものと判断している。太ももの付け根がうずくのも、景太郎とのキスで照れくさくなっているためのむずがゆさのひとつだと信じていた。話で聞いたり、本で見たりしたような淫らな気持ちになってきているとは思いたくない。しのぶの貞節は頑なに発情を認めようとしないのである。
違うもん…わたしは違うもん…キスくらいで、エッチな気持ちになったりしない…
景太郎とキスを交わしながら、しのぶは焦れる心中にそう言い聞かせる。
キスくらい特別な行為でも何でもないではないか。欧米ではキスなど挨拶の一種であるのだから、そのたびに淫らな気持ちになっていては生活していけないだろう。それに日本人にしてみても、大胆にも人前でキスしたりするカップルだっているのだ。現代ではもはやキスなど珍しいことではないはずだ。
もちろん友人の中にもすでに経験している者がいると思う。実際カップルになっている友人だっているのだ。彼らならともすればセックスだって経験しているかも知れない。そう、セックスだって…
「け、けいけん…してるかもしんないし…」
「え?何を?」
「あ…なっ、なんでもありませんっ…」
キスに没頭するあまり、考え事が口をついて出てしまった。やにわにキスを中断された景太郎がきょとんとして尋ねてきたので、しのぶは慌てて独語を紛らわす。一瞬とんでもない妄想が脳裏をよぎったが、思い出すのも恥ずかしい。必死にかぶりを振って意識の外に追いやる。
そんなしのぶの錯乱を気に留めることなく、景太郎は左手で彼女の肩を抱きつつ、その身を調理台の上に横たわらせた。膝から下は調理台の端からゆったりと垂れさせる。まるで手術を臨む医師と患者のような位置関係であるが、それでもしのぶは怯えることもなく、うっとりと潤んだ瞳で景太郎を見上げるのみである。
「寒くない?」
「は、はい、ちっとも…でもセンパイ…こっ、これからなにを…」
「…もっとエッチなキス、してみよっか?」
つづく。
(update 00/06/11)