ラブひな

■浦島、抜け!■

-Mouth with Mouth(1)-

作・大場愁一郎さま


 

「あんや?ふぇーはおー、こんろわひのむのあまえ呼みはぃめふぁえぇ?」

 階段から物干し台に上がり込んだカオラはノンビリとあぐらをかき、口いっぱいにポテトチップスを頬張ったまま行儀悪くつぶやいた。

 心持ち身を乗り出して景太郎の淫行を見物しているのだが、それでも好奇心は食欲にかなりの制限を強いられるらしく…先程から右手とあご、舌の動きは休まることを知らない。右手は袋と口許をひっきりなしに往復してポテトチップスを運び、あごはモリモリと咀嚼を繰り返す。さも美味しそうに飲み込んでは、唇の周りから指先からをきれいに舐め回して、まるで伯方の塩の一粒すらも残らず食べ尽くすつもりのようだ。

 そんなカオラの健啖ぶりをよそに、景太郎と対峙したままの素子は硬直したまま相変わらず反応を示さない。

 否、示すことができないと言ったほうが正しいだろう。景太郎の公然猥褻を目の当たりにし、思考停止が続いたままなのだ。パニックに陥ることもできず、激昂することもできず、ただ冷たい風が素子のポニーテールを揺らして過ぎてゆく。

 なにしろ、景太郎は衆徒監視の状況にありながらも確実に高ぶりつつあるのだ。

 幾分上向いた童顔はほんのり火照り、媚びるように瞳を潤ませている。よく見ればあごはわなないていた。脱力をきたした両膝もいつの間にか板場の上にある。

 それでいながらも右手の動きはどんどんリズミカルとなり、しご、しご、しご、と乾いた音が風に乗って舞ってゆく。右手の筒から出たり入ったりしている粘膜質の先端はパンパンに漲り、はしたないくらい色鮮やかに充血している。その赤紫はまさに猛る情欲そのものの色だ。

「やだ…やだ、センパイ…まさかあたし…あ、あたしで、その…ま、マスター…」

「しのぶちゃん、ダメッ!もう何も考えちゃだめっ!!」

 景太郎の行動と呼び声からある推察をしてしまい、しのぶは戸惑い混じりの興奮で脱力をきたしていた。オレンジジュースを取り落とした板敷きの通路にへたりこむと、その推察を誰ともなく確認するようにつぶやく。もう身体中が熱くてならない。頬や耳たぶなどは今にも燃え上がりそうだ。

 急激に発熱したしのぶをかばうよう、なるは彼女を背後から目隠ししていたのだが、今度は左手で口許をも塞いでしまう。塞いだ手の平の中で、しのぶが声にできなかった単語を唇の動きで感じ取り…なるはやるせなくかぶりを振った。保護者を気取るわけでもないが、いたいけなしのぶに淫らな光景を認識させてしまったことが悔やまれるのだ。

 しかし、その悔しさの原因はそれだけではない。

 しのぶから音声以外の情報を遮断しておきながら、なる自身は景太郎の行為にすっかり瞳を奪われていた。もちろん羞恥心や不快感は残っているものの、性的好奇心が次第にそれらを上回ってきたのである。

 美意識は異性の自慰行為など見たくないと悲鳴を上げているのだが、その悲鳴を聞き流すごとく、ほのかな憧憬がなるの記憶に景太郎の姿を焼き付けてくるのだ。その心理は思春期の少年がスケッチされた女性器だけでも興奮してしまうのに似ている。なるはそんな心理状況もまた悔やまれてならないのであった。

「見たくないのに…聞きたくないのに…!!」

 そううめくわりに、なるの吐息は少しずつ発情の色を帯びてきていた。

 なる自身は気付いていないが、今の彼女の吐息は景太郎が繰り返している荒い吐息と同質のものである。しっとりと湿っぽく、油断すれば上擦り声が乗ってしまいそうなほどの甘ったるい吐息だ。

 そんななるよりも早く、しかも強く発情をきたしているのがみつねであった。

「あっ…なんかあかんわ…あんなん見せつけられてもぉたら…って、いつまでヤリたい盛りのガキやねん、もうっ…!!」

 性感帯と認める部位がズキズキうずいてくるのにあわせ、胸もせつなく痛んでくる。みつねはそんな身体に苛立ちを覚えると、ヤケを起こすように左手の缶ビールをあおった。

ごくんっ、ごくんっ、ごくんっ、ごくんっ…ぷはぁ…けふっ…

 一息に飲み干してから左手の甲で口許を拭うと、なんだか唇までもが焦れったくなってくる。口紅のノリを整えるよう、上下の唇をムニムニたわませてみるが…一度火のついた情欲が、ちょっとやそっとで鎮火しないものであることくらい重々わかっていたはずだ。現にマルボロを摘んでいたはずの右手はセーターの上から乳房をわしづかみ、手荒に揉みしだいている。のセーターやブラごしにでも、乳首が固く屹立してくるのがわかった。高ぶりはもう抑えきれそうにない。

 そんな五人の心情を慮ることもなく、景太郎はさらに妄想をエスカレートさせていった。左手の指先で固い性毛をしゃりしゃり梳きつつ、仮想のヴァギナをくねらせるよう先端から幹からを右手で丹念に揉みこねる。

「ん、んんっ…」

 ふとベランダに響く男の苦悶。

 何か予想外の妄想に行き着いたのであろう、景太郎は鼻声で小さくよがると、困惑するように目を細めた。

 

 

 

 室内はいつになく冷え冷えとしていた。否、すみずみまで冷え切っていたと言っても過言では無かろう。

 確かに初春の夜明け前ともなれば、春の予感すらも遠のくほどに空気は冷え込む。とはいえ今朝の冷え込みは別格であった。

「ん…んんっ…なんだろ、やけに寒いな…」

 顔中が凍みてくるかのような肌寒さに、景太郎はふと目を覚ました。暖かな両手で頬を包み込み、まんべんなく摩擦してから枕元の目覚まし時計に視線を遣る。

 蛍光塗料でほのかに光る指針は五時を示していた。起きるにはまだまだ早いと思う。何しろこれだと三時間しか寝ていないことになるのだ。受験生にとって睡眠はなにより貴重な疲労回復源であるから、せめて七時くらいまではこのまま布団の中にこもっていたい。

…掃除は朝ごはんを食べてからにしよう…寒いからかな、すごく眠い…

 管理人としての日課を後回しにすることを決め、景太郎は大きなあくびをひとつ、冬眠に入るクマよろしく掛け布団の中へとすっぽり潜り込んでしまった。多少息苦しくはあるが、それでも寒いよりはましだ。暖房器具として石油ストーブがあるが、それはそれで安全上の問題から就寝時には点けないようにしている。もちろんコタツで眠るなどもってのほかだ。

「…確か今日は日曜日だよね…もう少しだけ寝かせて…おやすみなさぁい…」

 人肌で暖まっている布団の中は母の胎内に近い快適さがある。厳しい冷え込みから逃れてきた景太郎は、そのなんとも言えない心地よさに安堵しながら寝ぼけ半分で独語した。柔らかな敷き布団に頬摺りしつつ、掛け布団の下の毛布を手繰り寄せて身体を包み込ませてしまう。厚手のパジャマを着ていてなお、こうしてくるまると身体中すべてがヌクヌクと暖かくて居心地が良い。身体の芯から安らぐことができそうだ。このまま何もかも忘れ、心ゆくまで惰眠を貪ることができたらどんなにか幸せなことだろう。

…クマはいいよなぁ…

 クマの日頃の苦労も知らないくせに、景太郎はウトウトと眠りに落ちながらそんなことを考えたりする。が、そんな意識もやがてまどろみの深淵に溶け込んでゆき、吐息も次第に安息の寝息へと変わっていった。

ぎしっ…

 そんな矢先、安眠妨害そのもののタイミングで何者かが廊下をきしませた。

「景太郎、景太郎…おい景太郎、起きろ。」

 誰かが小声で呼びかけているような気がする。

 夢うつつの狭間で幻聴でも聞いているのかと、景太郎は返事を寄こすこともなくゴロリと寝返りを打つ。行儀悪くシーツに頬摺りして口許のよだれを拭うと、先程の呼び声を忘れるように再びムニャムニャとまどろみに就いていった。

「景太郎。おい景太郎、起きろっ。勝手に入って叩き起こすぞっ?」

「え…?」

 せっかくあともう少しで夢の中へ辿り着けるところだったのに、再び同じ調子で呼びかけてくる声が聞こえてきた。しかも語気が荒くなっていて、少々物騒なことまで宣言してきたりするではないか。

 さすがの景太郎もこればかりは幻聴ではないと思い、とりあえず顔だけ布団から出してみた。それでも両目のまぶたは睡魔に押さえつけられているかのように、開けようと頑張っても開けることができない。

「誰…?」

「私だ。はるかだよ。」

「はるかおばさんっ…?」

 誰何の返答を復唱したところで、景太郎はたちまちパッチリと目を覚ましてしまった。まったく予想外の来客に気が動転してしまい、先程まで閉じこもっていた掛け布団を跳ね飛ばして起き上がる。

 慌ただしく蛍光灯のひもスイッチを引っ張り、点灯管がパチパチ言っている間に障子戸を開くと…そこには景太郎の叔母、浦島はるかが佇んでおり、ゆっくり灯った明かりにその姿を晒した。地味目のショートヘアーに、どこか淡々とした表情。そして首の回りが柔らかな羽毛で覆われたブルゾンに、黒のジーンズ。まさに普段通りのはるか冬季限定スタイルである。

「おはよう。」

「お、おはようございます…。」

 心持ち眩しそうに目を細めているはるかと寝ぼけ眼が交差したところで、景太郎は慌てて頭を下げて慇懃に挨拶した。はるかもそれを見て、一目では判断しづらいほどの微笑を浮かべる。

 確かに、景太郎が動転するのも無理はない話であった。

 はるかはこのひなた荘に居住しているわけではないから、こうして景太郎の部屋に訪れることなど極めてまれなことなのだ。しかも時間が時間である。こんなまだ日も昇っていない朝早くから、いったい何の用事があるというのだろう。

 景太郎の頭の中はもうクエスチョンマークでいっぱいであった。もしかしたらこれもまた夢なのでは、とガリガリ強めに頭を掻いてみたりする。

「…お前じゃあ気付かんか。」

「え?なにが…ですか?」

 困惑しきりの景太郎を気遣うでもなく、はるかはさらに意味深な言葉をつぶやいてきた。これでまた景太郎の頭の中にはもうひとつクエスチョンマークが生まれてしまう。

 きょとんとなってしまった景太郎を後目に、はるかはジーンズの尻ポケットからショッポライトと愛用のジッポーを取り出すと、さっそく一服くゆらせ始めた。ジーンズは至る所が濡れていて、それらをポケットに戻そうとしても難儀しているのが妙に景太郎には気にかかる。

「ふぅ…まぁいいか。お前も暖かい格好、しかも濡れてもいいような格好で玄関まで来い。もっとも来る途中で事情はわかると思うが…とにかくわたしは先に行って待ってるぞ。」

「あ、はるかおばさん…」

 ささやかな気遣いで廊下側に煙と溜息を吐くと、はるかは一方的にそう告げて景太郎の自室を後にした。さっぱり事情のわからない景太郎が呼び止めようとしても、はるかは振り向くこともなく、常夜灯の灯るほの暗い廊下の向こうへ消えていってしまう。

 ひとり取り残された景太郎としては、もう言われたままに準備するほかないようであった。ここでぼけっと待っていても事態が変わるはずもないし、ましてやはるかは先に行って待っているという。あまり待たせては彼女の虫の居所が悪くなるのは自明の理だ。

「…しょうがないな、とりあえず布団を畳んで、暖かい格好…濡れてもいい格好…」

 景太郎は小さく溜息を吐きながら押入を開けると、名残を惜しむように毛布から布団からをしまい込んだ。そのまま押入下段に収納してあるクロゼットから洗い着のTシャツとトレーナー、履き込んでクタクタになってきた安物のジーンズを引っぱり出して慌ただしく着替える。

 濡れてもいい格好という条件付きだから、暖かければそれ以外には気遣う必要はないのだろう。明らかに睡眠不足ではあるものの、寝起きで明晰となっている頭はこれからなにがしかの作業が待っているものと予想していた。

 あとはメガネをかけ、愛用のフード付きコートを羽織り、これで準備完了だ。再びひもスイッチを引っ張って明かりを消し、まだまだ夜の暗がりに満ちている廊下に出てから後ろ手で障子戸を閉める。

ぶるるっ…

「ううっ、寒い…。トイレに行ってからのほうがいいな…でもなんでこんなに冷え込んでるんだ?」

 廊下にはこれだけ着込んでなお震えが来るほどの寒気が満ちていた。毎日欠かさぬ雑巾掛けの賜でツヤツヤに光る廊下も、今はそれが仇となって大理石のようにひんやりしている。吐く息も見事なくらいに真っ白だ。

 景太郎は準備のひとつとして、とりあえずトイレに向かおうとして…そこであることに気付いた。常夜灯に照らされたガラス窓は暗がりを背景に自分の顔を映しだしているのだが、そのガラスのはめ込まれた桟の外側に、なにやら真っ白な綿埃のようなものがびっしり付着しているのだ。それも窓という窓の桟全部に…。

「これ…まさか、これって…」

 ふと足を止めた景太郎は子供の頃に置き去りにしてきた興奮、それと最近になって身に着いてしまった煩悶とに駆られ、慌てて窓の捻り締めを開け始めた。真鍮でできたツマミを回しきり、引き抜き倒してから手荒に窓を開ける。

ふぁうっ…

「わっ…わあ…」

 やにわに吹き込んでくる凍えた風。そして真っ白な冬の名残。

 窓の外に顔を突き出した景太郎は感嘆の声を最後に、言葉を失った。

 いまだ眠りに就いている温泉街は見事なまでに雪で覆い尽くされていたのだ。夜明け前であるために白銀の世界とまではいかないが、この神聖なまでの静寂に耳を澄ませていれば、まるでこのひなた市全体が長い冬眠に就いたようである。

「景太郎ーっ。」

 聞き慣れた呼び声に視線を落とすと、玄関からの明かりを受けたはるかが右手にスコップを持ってこちらを見上げていた。柔らかそうな処女雪の真ん中に佇んだまま、二本目とおぼしきショッポライトをくゆらしつつ人の悪い笑みを浮かべる。これから始まるであろう重労働を前にしながら、景太郎の初々しい反応がすこぶる楽しいらしい。

「見たからにはもう逃がさんぞ?久々の大豪雪、二人だけで思いっきり堪能しようじゃないか。こんな贅沢な一日の始まりなんて滅多に経験できんぞ?」

「は、ははは…」

 開き直りにも似たはるかの冗句も、今の景太郎を心の底から笑わせることができない。

 しかも隠しようもない睡眠不足の疲労がたちまち溢れ返ってきて、景太郎は一瞬目の前が真っ暗になったくらいであった。

 

 

 

「はあぁ〜…やっと終わった…疲れた…マジで疲れたぁ…」

 フラフラとした足取りでロビーにたどり着いた景太郎はテーブルの上にコートを放ると、背後から倒れ込むようにしてソファーに腰掛けた。まだなんの暖房も作動させていないというのに暑くてならない。メガネを取り、手の平で顔面の汗を拭う。

 結局あれから景太郎は当初の予想通り、はるかと一緒にひなた荘玄関前の雪かきに精を出したのであった。玄関前とはいえ、旅館の最盛期には石段から玄関へ至る石畳を挟んで女中が整列し、客を出迎えていたほどのものであるからその広さたるやかなりのものがある。

 とはいえ、今回雪を退けたのはその石畳と通りへと繋がる石段のみだ。それでも石段は急な上に長く、景太郎は何度バランスを崩して転げ落ちたことか知れない。みっしりと降り積もった新雪がクッションとなって怪我こそしなかったが、ジーンズはすっかりびしょびしょである。

 それにしても信じられないほどの豪雪だ。雪の少ない地方で暮らしてきた景太郎だけに、これだけの大雪を生で見たのはこれが初めてであった。

 確かに夕べはしとしとと冷たい雨が降ってはいたが、それがまさか一夜にしてひなた市を雪で覆い尽くしてしまうとは、景太郎にしてみれば悪い冗談のようである。とはいえ、はるかに言わせてみれば夕べの天気図さえ見ていれば十分予想されることだったという。景太郎よりずっと頼もしい手さばきで雪をかきつつ、小学生でもこうなることがわかっただろうな、などと揶揄したほどだ。

 それになにより、雪かきがこれほどまでの重労働だとは思ってもみなかった。スコップの柄をしっかり握り締め、見た目以上に重い雪をすくっては投げて、すくっては投げて…もう全身がだるくてならない。握力もかなり失われているようだ。景太郎はグッタリとソファーに背中を預けたまま、呆然とした目で両手を見つめる。はるかがくれた軍手を付けていたとはいえ、一生懸命にやった証か、それとも余計な力が入っていたためか…両手はすっかりマメだらけだ。

「雪国の人は大変だろうなぁ…こんな重労働を毎年やんなきゃいけないんだもんなぁ…」

 痛々しいマメを見つめながら、景太郎は疲労困憊といった溜息を吐く。

 それだけ初めての雪かきはつらかった。途中で根を上げ、スコップを放り出そうと思ったことも一度や二度ではすまない。

 それでも、これも管理人の仕事のひとつだと思えば奮起することができた。住人のため、そして雪見風呂目当ての客のためにと頑張ることができた。

 なにより、その疲労に見合うだけの達成感、満足感を得られたことは景太郎にとって大きなプラスであり、彼を精神的に成長させる重要な因子となる。それに、クタクタになったところでご馳走してもらったはるか特製コーヒーの味も格別美味しく感じられた。

 その、やればできるという自信と、特別美味しく感じたコーヒーの味は景太郎の使命感をさらにたぎらせたのであった。景太郎は、ご苦労様でした、とはるかと別れてからも管理人の使命を忘れなかったのである。否、正確には思い出したといったほうがふさわしいかもしれない。

 一時間半に渡って雪かきした景太郎であったが、それでもスコップを片付けようとはせず、今度はそのまま露天風呂の方へと向かったのだ。

 もちろん露天風呂に雪が積もるはずはないのだが、それでもかなり激しく吹雪いたのだろう。足を運んでみると洗い場は見事に雪で覆い尽くされていた。鏡にも見事に雪が貼り付き、何度も溶けかけては吹き付けたのか、バリバリに凍り付いていたほどである。

 朝食まではまだ幾ばくかの時間もあるし、早起きしたついでにとばかり、景太郎は露天風呂の掃除も済ませることにしたのであった。一旦源泉のバルブを締め、フィルターへ循環させるポンプも停止させて湯を流してしまう。もちろんただ垂れ流すだけではもったいないので、とりあえず雪を溶かすために桶で汲んでは洗い場の雪にぶちまけて回った。極端な冷え込みも一晩だけであったのか、日が昇る頃にはもう鈍色をした分厚い雨雲は遠く彼方へ過ぎ去っていたので、再び凍結することはないはずだ。

 それからいつものように岩の浴槽から洗い場にかけてをデッキブラシで洗い流し、あらためて源泉を供給してから椅子や桶、すのこをたわしで磨いてゆく。毎朝の日課で慣れているとはいえ、思いきり雪かきをした後だけに今日の作業は少々こたえた。

 正直言って、もうなにもする気力が残っていない。ソファーから起き上がるのも億劫なくらいであった。

「はぁ…さすがにもうダメだ…。掃除は朝ご飯を食べて、一休みしてからにさせてもらおう…」

 ぐう、と腹の虫が不平を鳴らしている。確かに疲労感は心地の良いものではあったが、それでも体力と比例することは絶対にありえない。

 景太郎は自分自身を慰めるつもりでそうつぶやき、ソファーの背もたれに寄りかかったままウトウトとし始めた。結局夕べは三時間ほどしか眠っていないのだから無理もない。スルスルとまどろみに落ちてゆく。

「…おお浦島、おはよう。ここにいたのか。」

「んん…?も、モトコちゃん…おはよう…」

 そんな景太郎の安眠は再び妨げられた。凛とした声が廊下の向こうから聞こえてきたので、景太郎は寝ぼけ眼を擦りながらそちらに視線を向ける。

 景太郎の反応に間違いはなく、ロビーに現れたのは青山素子であった。

 彼女は京都の山中に古くから伝わる退魔師の家系の出であり、ストイックなまでに剣の道を追求している…聞こえは悪いが風変わりな少女である。大和撫子然とした素顔は大人びた気品に満ちており、背中へ流れる黒髪に至るまで清楚で麗しい。それでいて長身でスタイルもよく、モデルとしても通用しそうな身体の持ち主だ。実際、景太郎よりも数センチばかり背が高い。

 日曜日のこの時間帯であれば、普段なら朝食前の素振りのために筒袖、緋袴といった古風な稽古着を着用しているはずなのだが…今朝はどういうわけかジャージ姿で、しかも片手にコートを用意していたりする。

「ん?浦島、お主…朝からどこか出掛けてきたのか?」

「ん…まぁね、管理人としてのお仕事。」

「そうか、お勤めご苦労。」

 テーブルの上に放られているコートを見るなり、素子はソファーで休息を取っていた景太郎に問いかけた。景太郎は仕事の内容を子細に説明するのも恩着せがましいかと思い、あいまいに答えておく。それでも素子は満足なのか、微かに口許をほころばせて彼をねぎらった。

 とはいうものの、彼女を知らない人にしてみればその物言いはひどくぶっきらぼうで、つっけんどんだと思われるかもしれない。しかしこれが普段通りの素子なのだ。景太郎に対してねぎらいの言葉をかけたりするあたり、今日はまだ愛想がいい方である。

 今でこそこうして何気なく言葉を交わしているが、景太郎がひなた荘の管理人として決まった頃とは、二人の関係は天と地ほどの差もあろう。当時素子は四つ年上である彼のことをひどく疎み、他の住人の誰よりも警戒していたものだ。

 入居者の平均年齢が二十歳未満の女子寮に、ほぼ同年代の男性が管理人としてやってきたら…当然誰しも警戒心は抱くだろう。それでも素子には景太郎の性格がよほど気にくわなかったようで、ことあるごとに彼のことをやれ腑抜けだ、やれ軟弱者だと罵っていたのである。これはもちろん景太郎の性格にもそれなりの問題があったからだが、それでも幼い頃から異性と接する機会が少なかった素子にとっては、彼女なりの理想の男性像と大きくかけ離れていた景太郎は人間のクズ以外の何ものでもなかったのだ。

 とはいえ、景太郎も管理人としての自覚に目覚めてきて、少しずつ住人の信頼を得られてきているし…素子も毎日顔を合わせているわけだから、景太郎に対してはそれなりに男慣れもしてきているようである。今はお互い、それぞれの長所を積極的に見つめるようにしているために仲が険悪ということはない。

「モトコちゃんこそコート持って…下のコンビニでも行くの?」

 景太郎ももたれかかったソファーの背もたれから身を起こし、素子の姿を眺めてからそう尋ねてみた。下のコンビニ、とはひなた荘の石段を下りて少し歩いたところにあるコンビニとは名ばかりの雑貨屋のことだ。得てしてひなた温泉の土産品で経営をやりくりしているような身である。

 それはともかくとして、いま素子が身に着けている服装はいずれも彼女が通学している女子校指定のものだ。ジャージはデザインも簡素で名前入り、コートも飾り気のない紺色のものなのだが…流行りのファッションに無頓着な素子はなんとこの格好で出掛けることがあるのだから驚きだ。もちろん彼女とて余所行きは何着か所有しているが、近所の商店街くらいならば平気でこの格好で出歩いたりする。これではせっかくの素子の美少女ぶりもなりを潜めてしまいそうなものだ。

 所詮老婆心に過ぎないが、せっかく地がかわいいのだからもう少しファッションにも意識してみてはどうか…と景太郎は常々思っている。せっかくの青春時代を剣道だけで過ごしてしまうというのは、やはり他人事ながら惜しまれてならない。

「いや、そうではない…実は…実はな?お主に頼み事があって…さっきまでちょっと探していたんだ…。」

「頼み事?」

 そんな景太郎の老婆心ではあったが、とりあえず素子は出掛けるつもりではないようだ。ジャージ姿の胸の前でコートを抱きながら、そう遠慮がちに告げて次第に声を潜めてゆく。頼み事とあっては、生まれついてのフェミニストである景太郎には断る理由などどこにも存在しない。

「頼み事?俺でできることなら何だってするよ。遠慮なく言ってよ。」

「そうか…?ならば頼みたいのだが…物干し台の雪下ろしを手伝ってほしいんだ。」

「物干し台…雪下ろし…まっ、またぁ!?」

「どうした?」

「いや、な、なんでもないけど…」

 頼もしげに言った矢先ではあったが、疲れをぶり返させるような素子の依頼に景太郎はついつい本音を口にしてしまう。怪訝そうな口調の景太郎に素子がきょとんとして問い返してくるが、ここは見栄を切ってしまっただけに後には退けない。憂鬱な気持ちを押し殺して顔を上げる。

「でも、なんで?洗濯物ならモトコちゃんも自分の部屋で乾かしたりしてるでしょ?」

「それはそうなんだが…その、剣の稽古をしたいんだ…。昨日は第二土曜で学校も休みだったし、しかも雨が降り続いていただろう。勝手な話ではあるが、一日素振りをしないだけでも身体が落ち着かなくなるんだ。頼む浦島、一緒に雪下ろしを手伝ってくれ!」

 そう一気にまくし立てると、素子はいつになく切羽詰まった表情で深々と頭を下げた。マラソンの選手が日頃のジョギングを欠かすと落ち着かなくなるのと同様、素子もまた一日一度は竹刀を振るわずにはいられない体質になっているらしい。

 景太郎としてはもう全身の筋肉が疲れ果ててヘトヘトではあったが、これだけ素子がしおらしくなっているというのに事情を説明して断るのはどうにも忍びないような気がした。日常から片時も剣道を切り離さない素子のことだ、きっと一日稽古を欠かしただけでもその焦燥たるや並々ならぬものがあるだろう。真面目で一途な性格もあり、それだけで欲求不満やストレスを溜め込みかねない。

 なにより自分はひなた荘の管理人ではないか。ひなた荘で生活する者に対しては、やはり極力面倒を見て少しでも快適な寮生活を提供したいと思う。それにこれだけ疲れているのだから、あともう少し雪かきをしても同じだろう。物干し台なら端から雪を落とすだけでいいのだから比較的楽なはずだ。楽なはずだと信じたい。

「…わかったよ、じゃあ雪下ろししよう。そっか、もう雪下ろしするつもりで準備してたんだね、その格好。」

「うむ…ま、まあ作業着代わりというわけだ。しかし助かった、先程も見てきたんだが、私一人では少々骨が折れそうだったのでな。」

「そ、そんなに積もってるの…?」

「きっと板敷きから凍り付いているんだろう。上がり口からすでに雪の壁で行き止まり状態だったからな。あれはひどかった。思わず立ち尽くしてしまったほどだ。」

「う、うぐぅ…」

 覚悟を決めたはずが、素子の言葉を聞くとどうにも気が重くなってくる。

 それでも景太郎は唇を噛み締めると、心中で自分自身に叱咤激励、コートをひっつかんでソファーから立ち上がった。時刻はちょうど七時を過ぎたところである。休み無く作業を続ければ一時間ほどで終わるだろう。その後でいただく朝食も、きっとずば抜けて美味しいに違いない。

 景太郎はとりあえず素子を先に向かわせ、自分は先程まで使っていたスコップを取りに再び物置に向かうことにした。

 顔こそ決して笑えることはないが、その足はもうすでに情けないほど笑っていた。

 

 

 

つづく。

 

 


(update 00/12/28)