ラブひな

■浦島、抜け!■

-Mouth with Mouth(2)-

作・大場愁一郎さま


 

カリカリ、カリカリ…しゅんしゅん、しゅんしゅん…

 今夜もまた、夕べに負けず劣らず静かな夜であった。雪解け水の滴る音もいまだ聞こえてくることなく、ただ室内には景太郎がノートにシャープペンを走らせる音、それとストーブに乗せられたケトルが繰り返して湯気を吹かせる音だけが響いている。

 今日はやけに時間の経つのが早い。玄関前、石段の雪かきに始まって露天風呂の雪かきと掃除、頼まれての物干し台の雪かき…その後に館内の掃除、諸帳簿の整理と、管理人としての仕事に追われまくったためにそう感じるのだろう。これだけひなた荘に関する雑務を数多くこなしたのは、ここに来てから今日が初めてだ。午後から時間を作り、少しだけ仮眠を取るつもりだったのだがそれもままならなかったほどである。

 そして夕食を終えてから…景太郎は今度は管理人から受験生へと立場を変え、残り少ない今日を過ごしている。管理人の仕事同様、受験勉強もつらく厳しい作業ではあるが、これこそが受験生である自分の本業だ。手を抜こうという気にはならない。夢を叶えるためには避けて通れぬ道である。

…くしゅんっ!くしゅんっ!くしゅんっ!!

「うううっ、今夜も寒いなぁ…。でもなんだろ、三回連続のくしゃみって、誰か良い噂でもしてんのかな?」

 トレーナーにセーターを重ね着して、その上から半纏を羽織り…すっかり冬ごもり状態の景太郎は大きなくしゃみを三連発、ぐずぐず鼻をすすりながら独語した。コタツの側に置いてあったティッシュペーパーを引き抜き、盛大に鼻をかむと微かな安堵感が胸に拡がる。鼻水のために鼻で息ができなくなってくると、せっかくの受験勉強も集中できなくなるものだ。

 景太郎はくしゃみ三連発を良い噂の知らせだと考えたが、古来からの謂われでは若干差異がある。本来であれば、くしゃみ一つは褒められた、くしゃみ二つはけなされた、くしゃみ三つは惚れられた、ということになるのだ。

 ちなみにくしゃみ四つで風邪を引いた証拠なのだが…実は今夜の景太郎は、あとくしゃみ四つを迎えるとグランドスラムなのである。野球にもサイクルヒットというものがあるように、まさにサイクルくしゃみに王手をかけているわけだ。とはいえサイクルヒットなら素晴らしいの一言に尽きるが、サイクルくしゃみでは風邪の前兆を予感させるだけで良いことなどひとつもない。

 本来ならさっさと布団にこもって休息を取るべきなのだが、三浪生でもある景太郎にしてみれば、少しくらいの風邪気味で受験勉強を休んでなどいられないのである。今年の受験で念願の東京大学に入学できなければ本当に後がないのだ。

 もちろんこの時期になって大慌ての一夜漬け、というわけではない。さすがに今まで勉強してきた下地は盤石であり、先日行われたセンター試験でも足切りを食らうことはなかった。ここだけの話、景太郎の学力は昨今の受験生よりもはるかに優れているのである。

 ともすれば現役の東大生よりも基礎学力の点では優秀であるかもしれない。景太郎も予備校生としての三年間をただやさぐれ、遊び呆けて過ごしてきたわけではないのだ。

 逆に、遊んでいる暇が無かったともいえるだろう。景太郎は受験生であると同時にひなた荘の管理人でもあるのだ。元来が温泉旅館であるこの建物の管理を一手に担いつつ、住人からの苦情や相談にも逐一応じなければならないのである。しかも住人全員が外出するときは管理人として留守番を引き受けなければならない。

 こうして日の出ている間は管理人として、そして日が沈んでからは受験生として毎日を過ごさなければならないから、実際遊びに出られる時間など極めて少ないのだ。確かに面白みの少ない日々ではあるが、ある意味受験に専念できる環境であったからこそ、高校生の頃には無謀とまで言われた東大受験にそれなりに太刀打ちできているのである。

ふう…。

 参考書とノートを見つめ、ひたすら活字ばかりを目で追っていたのだが…ふと疲労の重みのこもった溜息をひとつ、テーブルの端に置いておいた目覚まし時計を見る。メガネごしに疲れ目が見た時刻は午後九時。なんだかんだで二時間ほど受験勉強に専念していることになる。身体は自然と伸びをし、それから緩やかに両腕をぶるんぶるん回して肩の凝りをほぐそうとした。ついでに肩を叩いてみるが、半纏とセーターの上からではさほどの効果も得られない。

とんとん…。

「はぁい?」

「浦島、いいか…?」

「モトコちゃん?いいよ、どうぞー?」

「し、失礼する…。」

 そろそろ休憩がてらココアでも作ろうかと思ったとき、障子戸が控えめな力でノックされた。景太郎がそちらに顔を上げて応じると、障子戸の向こうからはノックと同じだけ控えめな声が戻ってくる。意外な夜更けの来客に景太郎が快活な声で応じると、素子は慌ただしく障子戸を開け、そそくさとその身を室内へと運び入れた。

 右手に小さな水筒を抱えた素子は、相変わらず木綿の筒袖に緋袴といった稽古着姿であり…室内に入るなり彼女らしからぬ行儀の悪さで、後ろ手で障子戸を締めたりする。小さな声といい忙しない挙動といい、まるでここに来たことが他の住人に知られたくないと言わんばかりのよそよそしさだ。

「…ど、どうだ…その、受験勉強は捗ってるか?」

「うん、それなりに集中できてるよ。そろそろ休憩しようかなって思ったところなんだ。あ、遠慮しないでコタツにあたって。」

「う、うむ…しかしそうか、休憩か…だったら丁度よかった…。」

「え…?」

 景太郎がコタツを勧めると、素子は彼の対面ではなく右手側に腰を下ろして正座し、そっとコタツ布団の中に膝を進めた。その膝の上で持参した水筒を大事そうに抱え、愛おしむような手つきですりすり撫でたりする。

 その水筒は保温の効く魔法瓶タイプのものであり、中身が何であるかまでは景太郎にも想像がつかない。陣中見舞いであることにどうやら間違いは無さそうだが、募った興味はついつい意地汚く言葉になってしまう。

「モトコちゃん…その水筒、なに?」

「うむ…ちょっと生姜湯を作ってみたんだ。身体が暖まるぞ。休憩にするのなら…その、よかったら飲んでみて欲しい…。口に合えばよいのだが…」

「へえ、生姜湯かぁ…懐かしいなぁ。うん、遠慮なく頂くよ!」

「そ、そうか。じゃあ注いでやろう。」

 久しぶりに聞いた素朴な飲み物の名前だけで待ちきれなくなり、景太郎は口の中いっぱいに唾液を分泌してしまった。いつになくモジモジとして、どこか物怖じするような素子の姿にも気付くことなく屈託のない様子で無邪気にねだる。

 すると素子は表情を一転、まるで花開くように愛くるしい笑顔を浮かべ、水筒からコップを兼ねているキャップを外した。その手つきも妙に忙しなく、普段から冷静沈着な彼女にしてはどうにもらしくない。

とぽ、とぽ、とぽ…

 緩められた注ぎ口から柔らかな音を立て、薄茶色の生姜湯がコップに注がれてゆく。景太郎は湯気の立ち上るコップを受け取ると、ふうふう冷ましてから一口すすった。

「はぁ…美味しい…」

 息継ぎ混じり、無意識下で感想が口をつく。

 片栗粉でわずかにとろみがかった生姜湯は一口飲むだけでも暖かく、二口目にはもう身体中すみずみまで染み渡って温もりを届けてくれるようだ。それに生姜の爽やかな匂いと黒砂糖のコクのある甘味がなんとも懐かしく、そして嬉しい。口いっぱいに拡がった甘露のごとき感動で、景太郎は満面に人なつっこい笑みを浮かべてしまう。

「…どうだ?昔、姉上に作ってもらったのを真似してみたんだが…」

「うん、美味しいよ!いやあ、今日の疲れなんかいっぺんに吹っ飛んじゃいそうだ!」

「せ、世辞なら無用だぞ?なにしろ実際に作ったのは今日が初めてだから…」

「ううん、本当に美味しいよ!んく、んく…ふう。ね、もう一杯いいかな?」

「あ、ああ…」

 嬉々とした様子の景太郎を見ても、まだ素子は自分の作った生姜湯に自信が持てないのか、おずおずとした口調でそう問いかけてくる。少しうつむき加減のままであるから必然的に上目遣いになるのだが、その初々しいしぐさもまたかわいらしく、景太郎は一息に飲み干して存分に舌を喜ばせてからおかわりを所望した。素子は相変わらずうつむいたままではあるが、照れくさそうに素顔をほころばせて二杯目を注いでくれる。

 決して素直に体現したりはしないが、素子も景太郎に喜んでもらえて嬉しいのだ。照れてはいるものの、すっかりご機嫌なのだろう。微笑は不自然さもなく極めて和やかだ。

んく…んく…んく…ふぅ…

 味わえば味わうだけ、本当に美味しい。心持ち喉が渇いていることもあるが、本当に美味しいからついつい息継ぎもなく飲み干してしまう。この適度な甘味は今日一日の疲労感を根こそぎ融解させてくれるようだ。

 景太郎は注いでもらったばかりの二杯目もあっという間に飲み干すと、満足そうな笑みを浮かべて小さく舌なめずりした。腹の底から拡がってくる優しい温もりに、胸も安堵しきった溜息を吐かせてくる。

「美味しかった〜っ!モトコちゃん、ホントにありがとう!最高の差し入れだったよ!」

「礼にはおよばん…今朝のわがままにつきあってくれた、せめてもの気持ちだ…。私こそ、喜んでもらえて本当によかった。作ってみた甲斐があったというものだ。」

「今朝のって…ああ、雪下ろしかぁ。そんなの気にしなくてもいいのに…。あれも管理人の仕事のひとつだもん。洗濯物は干せないから誰も使わないだろうって鷹をくくってたんだからさ、ホントなら文句を言われてもいいくらいだよ。」

「いやいや、それこそ雪の日に使いたいという私こそわがままなんだ。にもかかわらずお主は最後まで付き合ってくれたじゃないか。本当に感謝している。」

「お、大袈裟だなぁ…」

 深々と頭を下げる素子に、景太郎はすっかり恐縮して妙に居心地が悪くなってしまった。これほどまでに礼儀正しく謝辞を述べられたら、先程告げた生姜湯の礼などあまりに粗末に思えてしまう。かりかり後頭部を掻きながら苦笑するほかにない。

 それでも素子がこれだけしおらしく謝意を表しているということは、それなりに景太郎の働きも彼女に認められているというなによりの証であろう。以前は何かにつけて不備を指摘され、頼りにならぬ、情けない、とこきおろされていたのに…今ではこうして頼られもするし、その結果に満足して謝辞も述べてもらえるようになっている。

 それはもちろん素子に限らず他の住人にも同じ事が言えるのだが、とりわけ素子は手厳しかったぶん、彼女に認められたということは景太郎にもそれなりに自信が身に付くことになった。成功で自信が身に付けば、自ずと次への意欲も湧いてくるものである。それに褒められれば誰だって嬉しいし、より良い結果を残そうと努力する原動力にもなる。

 そういった意味合いからしても、最近の景太郎は頼れる管理人としての軌道に上手く乗ってきているといえた。少しずつ信頼を厚くし、住人で唯一の男性でありながらも受け入れられているのは彼の真摯な性格の賜だ。

 実際、当初は景太郎のことを忌み嫌っていた素子にすら、今朝のように雪かきを手伝ってくれと言われたり、あるいは食事の準備を手助けして欲しいと言われたり…時には勉強を見て欲しいと言われたり、なにかと頼られるようになっている。ふとした弾みでドジをやらかしたときには相変わらず手厳しく叱責したりもするが、それでも以前のような軟弱者呼ばわりは激減していた。

 そうした心のゆとりが受験勉強にあてがわれ、管理人にあてがわれ、そして同じひなた荘の住人として…ひいては浦島景太郎というひとりの男としての自意識にあてがわれ、少しずつ日々の生活にも潤いが生じてきた。つまりは恋心を抱く余裕も胸の奥に生み出されてきたということであり…

「…でもな、浦島…浦島?おい浦島、どうした?」

「え?あ、ああ…ごめん、やっぱり疲れてるのかな?ちょっと考え事してたらぼーっとなっちゃって…」

 なにげなく素子を眺め、なにげなく考え事をしているうちにいつしか眠気を催し…ついつい視線が虚ろとなってしまった。生姜湯の安息効果と休憩の安堵感で、勉強に集中していた時の緊張感もほどよくほぐれたきたようだ。それに少々風邪気味であるのか、頭も少しぼうっとしている。もし素子の呼びかけがもう少し遅かったら、きっと今頃は彼女の目の前でこっくりこっくり舟をこぎ始めていたことだろう。

 そんな景太郎を前に、素子は気遣わしげに表情を曇らせ、慈愛のこもった視線で彼を見つめる。

「大丈夫か。疲れているのなら早めに休むことも大切だぞ?」

「ありがとう、モトコちゃん。でも大丈夫だよ。美味しい生姜湯もご馳走になったことだし、まだまだ頑張れるって!」

「…私が今しがた言いかけたのはな、お主のそんな姿についてなんだ。」

「え…?」

 素子の柔らかな物腰が、ふいに真摯で毅然としたものへと変わる。

 背筋を伸ばした端座姿は相変わらずの凛々しさを保っているぶん、景太郎は突然叱責されたようになって胸をドキリとさせた。なまじっか抑揚のある丁寧な話し方であるぶん強く心に響いてくる。話も上の空にまどろみかけたのが彼女を怒らせたのかと、景太郎は気が気でならない。

「はるかさんから聞いたぞ。朝早くから玄関や石段の雪かきをやったそうじゃないか。」

「ああ…まあね。でもはるかさんに言われて気付いたことだし…。」

「それだけじゃない。露天風呂の雪かきもやって、それに湯の入れ替えや掃除までキチンと済ませたろう?」

「ははは、気付かれてるなぁ…。でも館内の掃除とかは後回しにしちゃったし…。」

「後回しにしたというだけで、さぼりも手抜きもしていないじゃないか。私はちゃんと見ているんだぞ?」

 景太郎は管理人としての仕事を顕示することなく、気恥ずかしそうに謙遜するのだが…それでも素子はひとつひとつ彼の働きを挙げ、真剣そのものといった瞳で彼を見つめた。その口調といい視線といい、まるで景太郎の仕事ぶりを叱責しているようではあるが、決してそうではない。口調も視線も、その端々から思いやりが溢れてきそうなくらいである。

「いいか、浦島…」

 心持ち苦笑してうつむいた景太郎を真っ直ぐに見守りながら、素子は幼子に言って聞かせるような確かな口調で切り出した。

「お主は管理人であると同時に受験生でもあるんだぞ?仕事に一生懸命なのもわかるが、少々頑張りすぎているのではないか?私だってお主が一仕事終えたばかりと知っていれば雪下ろしなど頼みはしなかった。浦島…お主、ちゃんと休息は取っているんだろうな?」

「うん、まあ…それなりにね。大丈夫だよ。」

「…お主のことだからな、休息を取っていないとは言わんだろう。でもいいか?休むべき時にはしっかり休むんだぞ?これだけは絶対だからな?わかったかっ?」

「わ、わかったよ…。気を使わせてごめん…それと、ありがとう…。」

 素子の言いつけは切実さに満ちたものであった。座布団の上でキチンと正座していたはずなのに、いつのまにか膝の前に両手を突き、景太郎の方へ身を乗り出すようにしてきている。これは彼女の思いやりがしぐさとなって現れたものだが、これには景太郎も気圧されるようにのけぞり、コクコクうなづくことしかできなくなってしまう。素直な謝辞もどことなく苦笑混じりだ。

 素子自身でも、ひなた荘の玄関前から石段にかけてを雪かきするなどかなりの労苦だと思う。それも朝早く叩き起こされてのことだとしたら、いかに管理人の仕事とはいえ気力は半減してしまうだろう。

 そんな重労働に続いて露天風呂の掃除を済ませたにもかかわらず、景太郎はしぶるそぶりもなく物干し台の雪かきを手伝ってくれたのだ。素子は夕食後にすべての事情を知ったのだが、この時ばかりはさすがにいたたまれなくなって胸の奥が締め付けられた。

 倍加した感謝の気持ちと、どこか景太郎を咎めたいような焦燥。そして、歓喜に優しくくるまれた憧憬…。

 これらの気持ちが素子の乙女心をいっぱいに満たし、ズキズキと苛んだのである。そのために今夜、素子は記憶の底からレシピを引きずり出して生姜湯を作ったのだ。その混然とした甘酸っぱい想いが彼女に作らせた、と言っても過言ではない。

 そしてまた、今夜の生姜湯は感謝の気持ちを形にしたものであり、そして景太郎に会うための口実でもあり…なにより憧憬を言葉にするためのきっかけでもあった。素子は乗り出していた身体をそそくさと戻し、再び背筋を伸ばした正座姿になると、わずかに上目遣いになって口を開く。

「でも…でもな、こうして一生懸命になっているお主の姿は見ていて清々しいぞ。毎日毎日、本当にお主には感謝している。」

「そ、そう?いやあ、俺も嬉しいよ!同じ事を毎日毎日繰り返してるだけだけど、それでも空回りはしてないんだなぁ。モトコちゃんにそう言ってもらえて安心したよ。」

「同じ事とはいえ、管理人の仕事は楽なものでは無かろう?私だけでなく住人全員がお主に感謝しているはずだ。本当にお主は頼もしくなった…ここに来た時は信じられないほどの軟弱者だったというのに…」

「い、今でも失敗しては怒られたりぶたれたりしてるじゃん。実際はそんなに変わってないって!ほら、きっとアレさ、俺もここの生活に慣れてきたから少しはマシになってきたってだけだよ!」

「ふふふ、せっかく褒めているんだから謙遜することはなかろう…。」

 決して居丈高な態度を取ることはないが、それでも褒められて悪い気はしないのだろう。景太郎は照れくさそうにガリガリ頭を掻きながら屈託無く笑う。

 まるであらゆる苦労を吹き飛ばすような…そんな無邪気な笑顔は景太郎のチャームポイントとも呼ぶべきものだ。あどけない笑顔は彼の純朴さを際立たせ、会う人すべてを和ませる不思議な力を持っている。景太郎が人から好かれるのは、その笑顔と常に前向きな性格によるところが大きい。

「浦島…わたしは、そんなお主が嫌いじゃない…。いや、むしろ…好きだ…」

「え…?」

「わたしは…お、お主のことが好きだっ…」

 和やかな雰囲気に忍ばせた、不意打ち同然の素子の告白。しかしそれは、彼女が今まで振り絞ったことがないほどの勇気を必要とした大切な言葉。

 景太郎の笑顔に言いようもない好感を覚えた瞬間、素子は生まれて初めての告白を言葉にしていた。その燃え尽きる前の線香花火のような小さな声を聞き取ることができなかったのか、あるいは理解できなかったのか…景太郎がきょとんとした母音で聞き直すと、素子はもう一度だけ告白を繰り返し、いてもたってもいられなくなってうなだれてしまう。

 もはや顔面から火が出るような思いだった。きつく目を閉じ、唇も噛み締めて羞恥に耐える。本当に穴があったら入りたい。今すぐにでもこの場から逃げ去りたいくらいだ。

 確かに素子が口にした言葉は、場の雰囲気からは予想もできない、極めて不器用なものであった。気ばかり逸る思春期の少年にありがちな、独り善がりにも似た感情任せの言葉であった。

 しかし、この言葉は男性不信の彼女が十七年かかってようやくたどりついた言葉であることも事実である。言葉になるまでに十七年の歳月を要した想いには下心の欠片など微塵も存在しない。素子が言霊に託したその感情は彼女の純心そのものの発露でもあるのだ。

 とにかく、素子は景太郎のことが好きなのである。そして、それだけなのだ。あとにはなにもない。否、あとはどうすればいいのかわからない。

 これには幼い頃から異性と接することが少なく、そのうえ物心着いてからはますます異性から遠ざかるような生活を送ってきたことが影響しているだろう。異性への接触欲はもちろん、甘えたいとか優しくされたいという衝動すら気の迷いとして断ち切ってきたのだ。ストイックと呼べるほどの一途さは異性を慕う方向ではなく、剣の道の追求にのみ向けられてきたのである。

 だがこうした日々を送るうち、景太郎がひなた荘の管理人として自分の前に前に現れた。ひとつ屋根の下、共同生活を送らざるを得ないようになったときの素子の警戒心は人一倍強く、そのぶん何かにつけては景太郎を叱責し、ののしり、なじってきたのである。

 それでも景太郎の向上心は素子の予想をはるかに上回るものであり、ドジや失敗を繰り返しながらも彼は確実に住人の信頼を集めるようになってきていた。そして気付けば素子自身も景太郎を頼り、信頼を寄せるようになっていたのだ。食事の席やロビーでくつろいでいるときにも、景太郎と楽しく談笑する回数と時間は確実に増えてきている。

 あれだけ嫌悪していた異性に…つまりは景太郎に好感を覚えるようになっている自分に気付いたとき、素子は胸の奥で何かが生まれたのを感じた。それはどこか焦れるように落ち着かない感情であり、得てして一人でいるとき…特に床に就いてからおもむろにぶり返してくる少々迷惑な感情であった。その感情のせいで物憂げな溜息と寝返りを繰り返し、睡眠時間を磨り減らしたこともしばしばである。

 その迷惑な感情が恋だと確信したのは、つい先日のバレンタインデーのことだ。

 例年通り、ひなた荘の住人のひとりとして義理チョコを渡そうと思ったまでは普通だが、今年に限ってはそれすらも慎重に吟味したくなってきたのである。そのためわざわざ電車を乗り継ぎ、ひなた市から遠く離れた繁華街まで見繕いに行ったほどなのだ。それも相当奮発して、である。

 とにかく、景太郎の喜ぶ顔が見たい一心だった。しかもその情熱的な衝動はその日以来ずっと続いている。そのうえ質の悪いことに、今まで考えることすら躊躇われたはしたない欲求までもが胸の奥で渦巻くようになってきていた。

 浦島の笑顔が見たい…。

 浦島と少しでも長く一緒にいたい…。

 浦島と手を繋いでみたい…。

 浦島と…口づけてみたい…。

 そう望む新たな自分と、不純だと突っぱねる今までの自分とが激しくせめぎ合い…せつなさで胸は焦がれた。何度も何度も寝返りを打ち、枕を涙で濡らして眠れなくなった夜は果たしていくつ過ごしてきたのだろう。

 今日こうして告白を決意するまでにどれだけの葛藤、そして苦悩があったのかは本人以外に理解しうることができない。それだけ胸は恋心でいっぱいだった。せめて言葉にして出さないと、胸が張り裂けてしまいそうだったのだ。

 申し開きもできないが、その想いは非常に視野の狭いものではある。ひなた荘という限られたテリトリーの中で育まれた純粋培養の恋だ。

 それでも当事者にしてみれば、その時に抱いた恋こそが唯一無二の想いであり、『もしなになにだったら』という仮定は絶対に成立し得ないのである。素子にとっては、この景太郎を慕う気持ちこそが最高にして絶対の感情なのだ。

 そんな恋心で胸を焦がし、まるで別人のようにしおらしくなっている素子を見て景太郎はようやくすべての事情を察することができた。恋は確かに人を変えるのである。

 失礼な言い方ではあるが、あまりにらしくない素子の姿ではあるものの、そのかわいらしさは初々しさを伴って別格の輝きを放っている。側で眺めているだけでも自然と笑みが浮かんできた。にわかに胸の中の愛しさが色を増す。

「俺だって…そんなモトコちゃんは嫌いじゃない、むしろ好きだよ…?」

「かっ、からかうなっ!口真似などしおってからに…!!」

「でも、ホントだよ…?」

「な…」

 先程の告白を真似された素子は耳まで真っ赤にして激昂しかけたが、景太郎に身を乗り出すようにして瞳を覗き込まれると、たちまち言葉を詰まらせて狼狽えてしまう。ホントだよ、という一言には冗句の気配が微塵も感じられなかったからだ。

 やがて景太郎の熱っぽい視線に耐えきれなくなると、素子はまるで気圧されでもしたかのように自分の方から顔を背けてしまう。これも今までありえなかったことだ。

「モトコちゃん…」

「わっ!な、なんだ急にっ…!?」

「嬉しいよ、モトコちゃんに告白されて…。」

「う…」

 景太郎はやおらコタツから抜け出ると、膝立ちのまま素子の背後に回り、その肩に両手をかけた。予想もしなかった感触に素子も緊張で声を上擦らせるが、景太郎が穏やかな口調で感動を口にすると再び押し黙ってうつむいてしまう。

もみ、もみ、もみ…

 景太郎はそのまま丁寧な手つきで肩を揉んできた。それでも素子は拒むでもなく、さらにその肩を差し出すようにうつむいて無防備なまでに身を委ねる。的確に肩の凝りがほぐれてくるのを感じ、ついつい安息の溜息が漏れたりするほどだ。

 実際素子は、これくらいのスキンシップなら馴れ馴れしいとも感じなくなっている。それだけ景太郎に親近感を覚えているし、なにより彼のことを深く信頼しているのだ。景太郎の男としての好奇心にだけ気を取られ、異常なまでに警戒を示していたのはもう昔の話である。今はもう肩を揉んでくる指先からでも、景太郎の深い優しさを感じられるようになっていた。

「…ここに来た頃はね、俺…正直言うと、モトコちゃんのこと嫌いだったんだ。」

「ふふ…そうだろうな…」

「あれ?気付いてた?」

「気付かずとも、そう思うだろう。一番口うるさかったのはわたしだからな。」

 素子が肩揉みに馴染んで落ち着いてきたところを見計らい、景太郎はあえて告白したての彼女にとってきつい言葉を選んだ。それでも景太郎に悪意がないことを感じ取っているのか、素子は気持ちよさそうに肩揉みされたまま小さく苦笑するのみである。

 景太郎がいぶかるように耳元で問いかけると、さすがにそれはくすぐったいのか肩をすくめながら恥ずかしそうに表情を緩めた。とはいえそれは彼女なりの敏感な反応に過ぎず、景太郎を忌避する行動では決してない。

「確かにね、やれ軟弱者だ、やれ情けないって、こっちのミスもあったりするのに問答無用で叱りつけてくるんだもん。刀を突きつけてまで男らしくしろ、なんてさ。簡単に言うけどさあ!って感じだったよ。」

「仕方なかろう…ここに来た当時のお主は本当に見ていられなかったからな…。ひとつ屋根の下で暮らしていると思うだけでも虫酸が走っていたくらいだ。」

「へへへ、その時はまだ自分の立場が解ってなかったんだろうなぁ。でもね、いつからだろ…俺にだってプライドがあるからね。バカにされてばかりじゃないぞ、受験だって管理人だって、やればできるんだってところを見せてやろうって…。で、今に至ってるんだけど、どうかな…?俺、ちゃんとできてるでしょ…?」

「あっ、や…う、浦島…」

ぎゅっ…

 首筋から肩にかけてをまんべんなく揉みほぐしてから…景太郎は甘えるようにそう問いかけ、そっと寄り添うように彼女を背後から抱き締めた。胸元で交差してくる両腕に肩を抱き寄せられると、素子も思わず狼狽えて景太郎の腕に触れてくる。胸を触られるのかと思ったのだ。

 ついつい身を強張らせたりした自意識過剰に苦笑すると、素子は抱き寄せてくれる景太郎の両腕に触れながら静かに目を伏せ、背中に感じる彼のぬくもりに浸った。穏やかな安堵感に心も和み、先程告白したときの不安も失せてゆく。その優しい抱擁は素子自身も望んでいたものであったため、なんらの抵抗も示さない。

「…ちょっと軽薄かな?イヤなら言ってよ?」

「馬鹿者…それくらい気配で感じ取ってくれ…。」

 愛しさに任せた抱擁ではあったが、さすがに景太郎も調子に乗っているような気がしてついついそう尋ねてしまった。彼らしい気遣いではあるのだが、今の雰囲気でいえば無粋以外の何ものでもない。あの慎み深かった素子も眉をひそめて不満を鳴らしたりするくらいだ。

「へへへ、じゃあもう少しだけ…」

「あ、こらっ…ちょ、調子に乗るなっ!」

「はははははっ!」

 それで景太郎はおどけ半分、今度は美しい黒髪に頬摺りしてきたものだから素子は思わず声を荒げてしまった。まだ入浴を済ませていないことを思い出したためである。景太郎も無邪気に笑って止めたので、それ以上は糾弾しない。

「さっきも言ったが…お主は立派に管理人をこなしていると思う。それに、管理人としてでなくともお主には色々と世話になっているしな。剣の修行なり、勉強なり…。そうでなければ…もし以前のお主のままだったとしたら、私もこんな気持ちになどなっていないだろう。」

「モトコちゃんに認められたら…男としても合格だって思っていいよね?」

「なんだ、自信がないのか?しょうがないな、神鳴流の猛特訓でまだまだ鍛えてやる必要がありそうだな。」

「そ、そんなあ!」

「ふふふっ…!」

 今度は素子が景太郎の言葉の揚げ足を取る。あえて淡々とした口調で宣告してみせると、景太郎はそれだけでひどく狼狽えるので素子としても胸が空いた。いつもどおりの景太郎であることを確認して微笑ましくもなる。気持ちいいほどの笑みが、はしゃいだ胸の奥から自然と溢れてきて心地良い。

 こうした些細なやりとりだけでも、忘れかけていた童心を思い出せるようであった。景太郎に気を許すことができるようになってから拡がってきた心の間口が、それで一層風通し良くなった思いである。

「ところで浦島…お主はどうなんだ?お主は私のこと、どう思っているんだ…?」

「え、さ、さっき言ったじゃん…」

「口真似なんかじゃなくて…ちゃんとした言葉で教えてくれ…なあ、浦島…」

「う、うううっ…なんかいざとなると照れるなぁ…」

 あらためて考えてみると、景太郎は素子の言葉を真似ただけであり、あとは彼女の告白に対して感動しているだけである。ふと素子は、声や感触はあれども表情の見えない景太郎にそこはかとない不安を覚え、背後に振り返ってまでそうせがんできた。

 思わぬ至近距離で視線が合ったため、景太郎は幼さの残る優面を赤くして照れているが…素子としてはやはりきちんと確かめておきたかった。言葉を真似られての告白など、からかわれたものだとばかり思いこんだために少しも印象に残っていない。

 確かに言葉で聞くまでもなく、こうして触れ合っているだけでも景太郎の気持ちは嬉し泣きにむせいでしまいそうなほど心に伝わってくる。数ある武術の中でも剣道は特に相手の気を読むことが重要であるため、その道に秀でている素子としてはそれくらいの読心術など造作もないことなのだ。

 それでもやはり、景太郎にも想いを言霊にこめてもらいたかった。恋に燃えるひとりの女として、はっきりと景太郎の気持ちを確認しておきたかったのだ。単なる好意と思慕の情は明らかに性質が異なるものである。

 やがて景太郎を見つめる素子の瞳に少しずつ潤みが増してきた。これだけ間近に抱き寄せられているというのに、胸は焦燥感でズキズキ痛む。景太郎の気持ちを言葉にしてほしいがために、なんだかもう一度告白してしまいそうな気さえする。

「浦島、頼むから…なあ浦島、うらしまぁ…」

「…俺も、モトコちゃんのことが好きだよ。」

 そのせつなげに揺れる少女の瞳にあてられてしまい、とうとう景太郎は観念して想いを言葉にした。多分にはにかんだ早口ではあったが、それでも真っ赤な火照り顔を素子から逸らそうとしない。逆にこうして告白することによって抱いていた愛しさが増したのだろう、景太郎は素子を抱き締めている両手にさらなる力を込め、言葉を続けた。

「俺もモトコちゃんには感謝してる。いつでも俺のことを見ててくれるから、俺もこれだけ頑張れるんだからね。初めは怒ってばかりでおっかなかったけど、今はそれだけじゃない。ちゃんと励ましてもくれる。今夜だってわざわざ生姜湯を差し入れてくれたし…。きっと出会った頃のモトコちゃんなら、それくらい管理人として当たり前だ、とか言ってそのまんまじゃないかな?」

「うらしま…」

「それに…俺もモトコちゃんには憧れてるところ、いっぱいあるんだ。一途で、真面目で…純粋なぶん自分の感情に素直で、そんな裏表のない所なんかすごく好き。」

「あ、ううっ…」

「なにより…こうやって好きになってもらったのが信じられないくらい、モトコちゃんってかわいいしさぁ…。背も高くてスタイルいいし、髪も長くてきれいだし…」

 告白の勢いに任せ、景太郎は思いの丈を一気にまくしたてたが…ふと素子の泣き出しそうな瞳に気付いて言葉を失ってしまう。一瞬失言があったかとほぞを噛んだのだが、どうやらそうではないことがその表情から汲み取ることができた。

 今や素子は美少女の面いっぱいに歓喜を満たし、溢れこぼしてしまいそうになっていたのだ。目元は笑顔を浮かべそうになっているのだが、嬉し泣きを堪えて唇を噛み締めているものだから、なんともいえずいじましい表情になっている。最近になって素子は笑顔も怒り顔もてらうことなく見せてくれるようになってきたのだが、この表情ばかりはさすがに今まで一度も見たことがなかった。

 いつも毅然としていて、凛々しくて、ちょっとカタブツで…そんなイメージを根底から覆すような素子の少女性の顕現。思えばあれだけ無慈悲で無愛想だった素子が、今はもうしおらしく腕の中に抱かれ、その愛情に戸惑うよう瞳を潤ませている。同じ屋根の下で暮らしてきた景太郎としては、素子の少女としての変貌ぶりにも心惹かれずにはいられなかった。見つめれば見つめるだけ愛しさが募ってくる。

 景太郎もまた…いま胸に抱いている愛情を信じたかった。もう迷う余地など無い。素子のことが好きで、心から好きで…どうしようもないから胸が奮える。

「モトコちゃん…俺、本当にモトコちゃんのことが好きだよ。胸を張って言えるっ。」

「ほ、本当にいいのか…?私は背も高いし、オシャレもできないし、家事だって決して得意じゃない、剣道一筋の女だぞ…?そんな女でも…好きだと言ってくれるのか…?」

「そんなモトコちゃんだからこそ、好きになったんだよ…。俺、モトコちゃんでなきゃ絶対イヤだっ…!」

「ああっ…だめだ…こんなときに泣くことしかできないなんて…わたし…わたしっ…」

 見惚れたような熱い眼差しを素子に送りつつ、景太郎は頑なな声でもう一度告白した。その言霊は確実に少女の恋心へ届いたのだろう、素子はたちまち感極まり、一生懸命我慢していた涙を、ぽろろっ…と頬の上にこぼす。くしゃっと素顔を崩し、危なっかしく声を震わせて号泣への秒読みを開始した。

「モトコちゃんっ…」

「あっ、んんっ…!」

ちゅっ…。

 そんな素子の泣き顔を見てしまう前に…景太郎は肩越しに彼女の唇を奪った。

 わずかに角度を付けて深くくっつきあうと、景太郎は抱き寄せていた右手で素子の横顔を押さえ、羞恥ぐらいでは逃れられないようにしてしまう。素子は突然の出来事に身体をさざめかせたが、事態の認識ができてくるとしおらしく身を任せてきた。景太郎の存在を確かめるよう、抱き寄せたままである彼の左腕をそっと上から押さえ込む。

ちゅ、ちゅむっ…

 お互いキスは初めてなのだが、それでも愛しさは不慣れな二人を貪欲にするらしい。景太郎も素子も一番心地良い角度を模索するようモジモジ小首を傾げ、不器用な甘噛みを繰り返して吸い付き合う。呼吸も止めたままであるため、ただでさえも興奮で乱打している心臓は今にも破裂しそうだ。二人の顔はもう気恥ずかしさを通り越して赤くなってくる。色白な素子に至っては、細い首筋から筒袖の襟元で覗いている鎖骨の辺りまで見事に真っ赤だ。

 それでも唇の驚くほどの柔らかみ、そして薄膜を介してひとつになったかのような愛情の共有感は想像以上に素晴らしかった。積極的に模索を続け、そしてお気に入りの角度を見つけ出すと…景太郎も素子も思わず鼻声でよがってしまう。

気持ちいい…キスって、こんなに気持ちいいものだったんだぁ…

 景太郎は素子を両腕で束縛したまま、じっくりとファーストキスの感動に浸っていた。

 素子の唇が有する儚げな感触はもちろんのこと、その過敏となった薄膜から身体中へと拡がってくる沸き立つような歓喜が直接快感となり、中枢を刺激してくる。照れくささも恥ずかしさも、すべて興奮の血潮となって景太郎を夢見心地にさせてきた。

 胸の中はもう熱い感動でいっぱいである。今にも心の堰が融解し、トロトロ溢れてきそうな感じだ。堪えきれなくなったが最後、その感動はだらしないよがり声となって唇の隙間から漏れ出るに違いない。

 それに素子もまた初めてのキスに夢中になっているためか、興奮の発汗と同時にむせるほどの女臭さをも発散してきている。それは十七年目にしてようやく溶けだした素子のフェロモンであった。景太郎はこそこそ隠れるように鼻で息継ぎしたのだが、思わずその淫靡な匂いを吸い込んでしまい、たちまち過剰なまでの興奮をきたしてしまう。

むくっ…ぐぐっ…ぐんっ、ぐんっ…

「んっ!んんっ…!!」

「ん…ん、んっ…んっ…」

 キスしたままでの勃起は、もはや忌避し得るものではなかった。即座に剛直を極めたペニスはジーンズの中、ぐんっ…ぐんっ…と伸び上がるようにして窮屈さを訴えかけてくる。羞恥しきりとなった景太郎が困惑の声を漏らすと、素子も堪えるのを諦めたらしく、か細い鼻声でよがってきた。

わ…モトコちゃん、すっごいエッチな声…モトコちゃんもこんな声、出せるんだぁ…

 その頼りないさえずりがかわいらしく、景太郎はますます勃起を促されてしまう。逸る愛欲も膨らむばかりだ。受験勉強に勤しむあまり、ついつい数週間に渡る禁欲生活を送ってきたことが妙に悔やまれる。目を閉じていてなお、興奮のボルテージは目眩がするほどに高まってきた。

 そんな興奮と狼狽の板挟みになっている景太郎とは裏腹に、素子は待ち焦がれていたファーストキスを実におとなしく堪能している。性に関しても慎ましやかである素子は、たとえじっくりと時間をかけたキスを交わしていても、景太郎のように激しく愛欲を燃焼させることはない。

嬉しい…嬉しい、嬉しいっ…!浦島と…こうなれて…

 ただ歓喜の気持ちだけが胸の奥で鐘の音のように響きわたり、彼女の心を穏やかにさせる。涙腺は弛んだままであり、嬉し涙はいくつもいくつも頬を伝い落ちてゆくが…不思議と気分は爽快であった。不意打ち同然に唇を奪われ、強引に顔を押さえられてはいるが、それでも嫌悪感は微塵も湧いてこない。むしろそうされて嬉しかった。女性としての自分に引け目を感じていたぶん、その強引なキスで思慕の情はますます強まってくる。

 キスという行為に二人が辿り着けただけでも、素子は天にも昇らん気持ちでいっぱいだった。キスは男女が恋人どうしになるための契約と意識していたこともあり、長い間胸を痛めてきた片思いが成就した思いで感涙は一向に止まってくれない。今まで以上に景太郎と親密になれると思うだけで若い胸は踊った。優しくされることに慣れていなかったぶん、素子の女としての本能は景太郎にさらなる愛情を求めてゆく。

ちゅっ…ちゅっ、ちゅっ…

「ん…んっ、んっ…」

「んんっ…んっ!んっく…ん、んっ…」

 甘やかな感触を満喫する二人の唇は溶け合ったかのように離れることを知らない。それどころか微かに濡れる音を立てて吸い付き合い、ますます密着感を増しつつある。景太郎も素子もじっと目を伏せ、互いに耳鳴りを感じながら心ゆくまで愛欲を慰めていった。

んくっ…ちゅっ、ちゅっ…ちゅっ…

 溜まった唾液を飲み込んで喉をならし、夢中でよがりながらも積極的に口づけてくるのは素子の方だ。背後を振り返るような窮屈な体勢を強いられてはいるものの、キスの心地良さに魅惑されてしまった今となっては少しも苦にならない。

 お気に入りの角度でくっついたまま、あぐ…あぐ…と甘噛みして素子が欲張ると、景太郎はさらに強く素子を抱きかかえ、ぴっちゅりと唇を塞ぎ込む。唇の隙間では、もう二人の唾液が生ぬるく混ざり合っていた。さすがに舌を絡め合うまでは至らないが、男女のフェロモンが反応し合って精製された強力な媚薬を味わうだけでも二人はのぼせてしまいそうになる。ストーブを焚いているせいもあるが、もう暑くてならなかった。耳鳴りが何かの警告音のようにドキンドキン響いてくる。

「ん、んんっ…すふぅ…すふ、すふ、すふ…」

「んっ…すぅ、すぅ、すぅ、すぅ…」

 先に息が持たなくなった景太郎から鼻で恍惚の溜息を漏らし、キスしたまま忙しなく息継ぎする。素子もそれを頬に感じて息継ぎするが、鼻息を感じさせてしまうのが恥ずかしいのかすこぶる控えめだ。剣道で身体を鍛えているためか肺活量もそれなりにあるようで、景太郎ほどはつらそうにしていない。

ちゅ、ぱっ…

「あぁんっ…んぅ…はふ、はふ、はふ、はふ…」

「はあ、はあ、はあ、はあ…」

 さすがに息苦しくなってまでキスを堪能しているわけにもいかず、景太郎は唇を突き出すようにして長い長いキスを終えた。物足りなさそうに鳴いた素子の唇から長いキスの名残が糸を引いて伝うと、二人とも思う存分外気を肺腑へと取り入れる。お互いファーストキスの余韻が脳髄にまで染み込んだのだろう、唾液で潤った唇をムニムニしつつ、見つめ合う瞳には愛しさが砂時計の砂のように降り募ってきた。正直、相手さえよければアンコールをねだろうと景太郎も素子も思っていたりする。

 それほどまでにファーストキスは気持ちよかった。二人とも慌ただしかった深呼吸が、いつしか陶酔の溜息の連続になっている。うっとりとしたまま熱い吐息を漏らすと、もうそれだけで胸が焦れったい。息継ぎ無しで、ずうっと…それこそ一晩中でもキスしていたい願望は若い二人それぞれに芽生えていた。

「うらしまぁ…」

「モトコちゃん…」

「あ、こらぁ…もう、くすぐったいぞ…!」

 もはやお互い、名前を呼びかける声すら猫撫で声になっている。景太郎は抱え込んでいた素子の顔を解放すると、彼女の背後からもたれかかるようにして頬摺りをねだった。素子は不平を言いながらも愛らしく微笑み、ゆったりとそれに応じる。

すりすり…すりすり…

 火照った頬どうしが熱い。

 素子の肌は色白できめ細かく、にきびのひとつもないのだが…景太郎もまた彼女に負けないだけの美肌の持ち主である。汗ばんでいながらも二人の隙間には抵抗感が少なく、肌触りは格別であった。景太郎はもちろん、素子も頬摺りの柔らかなくすぐったさに酔いしれてゆく。

「はあ、はあ、はあ…あ、うらしまぁ…いい気持ち…」

「モトコちゃん…モトコ、ちゃん…」

 素子が心地よさそうに目を細めてうわごとのようによがると、景太郎はささやきかけるような儚い声で彼女を連呼した。じゃれ合うようだった頬摺りもやがて感触を確かめるよう緩慢となり、お互いの吐息もせつなく湿って不快指数を増してゆく。

あ、んぁ…や、なに…いや…こんな…こんなぁ…

 キスから頬摺りからのめくるめくような抱擁にあてられ、さすがの素子も少しずつ愛欲を募らせてきた。今まではしたないと決めつけてきた衝動がにわかに胸を占めてくる。唇から胸、そして太ももの付け根、女の真央までもがズキズキうずいてくる始末であるが…性に関して奥手であった素子は、まだそれらの部位が性感帯であるということにも気付いていない。

ちゅっ…

「ひいいっ…!!」

 そんな素子にまたしても不意を打つよう、景太郎はカクンと頭を落として彼女の首筋に唇を押し当てた。二の腕に鳥肌の立つようなくすぐったさに、素子はたまらずおとがいを反らして鳴く。半分ベソの顔で景太郎を睨み付けはするが、普段通りの迫力はどこにもない。今の素子は不穏な予感に怯えるただの少女だ。

「うっ、浦島っ、だめっ!これ以上はだめだあっ…!せっ、せめて心の準備をっ…」

「はあ、はあ、はあ…」

ふにゅっ…

 素子が上擦った声で拒むいとまもなく、荒ぶった呼吸だけを繰り返す景太郎は抱き締めていた両手を滑らせるようにし、なんの断りもなく彼女の乳房に触れた。その不埒はサラシや筒袖の上からではあったが、それでも発育の良い素子の乳房は景太郎の手の平の中で柔らかくたわみ、確かな弾力を伝えてしまう。

ぞくっ…

 その瞬間、素子の視界は暗転し…思い出したくもなかった幼い頃の記憶がまざまざと蘇ってきた。

 汚臭そのものともいえる酒臭さ、汗臭さ。

 筒袖や袴の破けるヒステリックな音。

 恐怖から逃げまどう果てに転んですりむいた痛み。

 身体中が引きちぎられるかのような、暴力でしかない愛撫。

 そして眼前に何本も突きつけられた、亀の頭のような異形のもの。

 それらパニックに陥りかねない怖気がにわかに湧き起こり、素子に…無力な幼少の頃の素子ではなく、確たる力を身に着けた素子に怒りの衝動を発動させる。

「ひっ…!!いっ、いやああっ!!」

ドカッ…!!

 その瞬間、素子は泣きじゃくるような悲鳴をあげつつ立ち上がり、肘で突き倒すようにして景太郎の身体を振り払った。ちょうどみぞおちの辺りに直撃を食らったものの、景太郎は苦痛の叫びを残すこともなく畳の上に転がる。それでも素子はいささかの気遣いもなく、ただ憤然として景太郎を睨み据えた。

 裏切られた思いであった。激昂と失望感で、両手の拳がブルブルと震える。

 キッと目尻を釣り上げた睥睨の眼差しは相変わらず涙で濡れているが、先程まで見せていた慈愛の色はすっかり消え失せていた。まさに鬼神のごとき両目には怖気を覚えるほどの殺気が烈火の炎となって宿っている。

「浦島っ!貴様、見損なったぞっ!!わっ、私の言葉も聞かず煩悩に支配されるとはっ!この不埒者っ!一時でも気を許したのが間違いだった!!腑抜けでもやはり、貴様もあいつらと同じ男なんだなっ!!」

「はあっ、はあっ、はあっ…モトコちゃん、ごめん…」

「謝って済むことではないっ!!もう貴様とは金輪際絶交だっ!!顔も見たくないっ!!私の気持ちを踏みにじって…貴様だけは信じられると思えてきたのにっ…!!」

「はあっ、はあっ、はあっ…」

 真夜中ということはもう念頭にないのか、素子は毅然とした声で徹底的に景太郎を非難した。ここで竹刀を手にしていたら、きっと問答無用でめった打ちにしていたことだろう。否、愛刀『止水』を手にしていたなら殺傷事件にまで発展していたかもしれない。

 それほどまでに素子は猛々しい怒りの衝動に駆られていた。ぐったり畳の上でうずくまる景太郎の声にも耳を貸そうとしない。泣き叫ぶようにして絶交を宣告すると、行き場を失った恋心はたちまち重い涙となって溢れてきた。うつむいた顔を両手で覆い、絶望に打ちひしがれてすすり泣きを始める。

…くしゅんっ!くしゅんっ!くしゅんっ…くしゅんっっ!!

「え…?」

 平静を失った素子の耳であったが、その苦しげなくしゃみ四連発だけはやけに生々しく意識にまで響いてきた。幼子の泣き声のような響きに顔面を覆っていた両手を下ろすと、涙で潤んだ視界にはつらそうに口許を押さえて喘いでいる景太郎の姿が飛び込んでくる。

 メガネをはじき飛ばされた童顔はキスを終えたときのまま涙目であり、頬も真っ赤であった。しかも小さく縮こまっている身体は、まるで凍えてでもいるかのようにブルブル震えてその身を抱え込んでいる。ほどなくするとあごまで震えだし、ガチガチと奥歯まで鳴り始めたではないか。素子は慌てて景太郎の側にしゃがみ込むと、右手の甲を彼の額に当ててみた。

「…す、すごい熱じゃないかっ!!浦島、お主どうしてっ…!?」

「はあっ、はあっ、はあぁっ…き、キスしてた時は…まだ、暑かったんだけどなぁ…。でも、それでのぼせて一気に来ちゃったみたい…寒い…寒いよぉ…」

「ばっ、バカモノッ!!風邪ぎみならそう言えっ!こじらせたらどうするんだっ!!うらしまっ、おい、しっかりしてくれっ!うらしまあっ!!」

 狼狽しきったあごがひとりでにわななき、素子は声のボリュームを増す。憔悴に上擦った自分自身の声は不安を膨れ上がらせるに十分な材料であった。

 その不安に押し潰され、取り乱した素子は横たわる景太郎の肩を揺すりながら嗚咽を始める。声を限りに泣きじゃくれば泣きじゃくるだけ、景太郎への様々な想いが混濁した涙は滂沱たる勢いで溢れてきた。

 そんな素子の泣き声をひなた荘の住人が聞きつけるまでには、そう多くの時間を必要としなかった。

 

 

 

つづく。

 

 


(update 00/12/28)