ラブひな

■浦島、抜け!■

-Mouth with Mouth(3)-

作・大場愁一郎さま


 

 何処からか女性の呼び声が聞こえる。

 誰…?誰だい…?誰か俺を呼んだ…?

 呼び声は日頃から聞き慣れているものではあったが、暗闇の中でたゆたっている景太郎はその声の主を思い出すことができなかった。悲しみにくれるような響きが気にかかると、景太郎は聞き流すこともできずに誰何の声をあげる。二度、三度と繰り返し呼びかけてみたが、それでもその声は女性にまで届いていないのか、彼女はひたすら景太郎の名前を…否、彼の姓名を呼び続けるばかりだ。

 どうやらその女性は泣いているようであった。それも景太郎のために涙を流してくれているようなのだ。痛ましいほどの涕泣にはしかし、慈しみや思いやり、そして後悔の念が込められていて…景太郎は胸の真ん中を熱くしてしまう。

 次の瞬間には、景太郎は夢中で走り出していた。東西南北はもちろん、天地の別すら判然としない暗闇の中をとにかく必死で駆ける。身体はひどく重かったが、それでも泣きながら呼びかけを続ける彼女のために両脚を高く上げ続けた。

 一人にしておけない…。せめて抱き締めて、安心させてあげたい…。

 そんな衝動が胸に募り、焦燥感はいや増す。

 これは景太郎のどうしようもなくお人好しな性格がそうさせているのだが、それでも彼には彼女のために力になりたい理由があるような気がしてならなかった。それと同時に、誰よりも早く彼女のもとに駆けつけたいとも願っている。

 彼女が大切だから…。彼女を守りたいから…。彼女が好きだから…。

…こ、ちゃん…

 暗闇の中を疾駆しながら、景太郎は無我夢中で彼女の名前を呼んだ気がした。遠く聞こえてくる少女の泣き声に、意識が無条件で反応を返したのである。少女の正体はまだ判然としていないのに、なぜだか意識の底から彼女の名前が突いて出てきたのだ。

 早く会いたい…早く会いたいっ…早く会いたいっ…!

 胸苦しいほどの焦燥がこみ上げ、ぎゅっと息が詰まる。唇を噛み締めてその痛みに耐えつつ、なおも景太郎は重い身体にむちを打ち続けた。暗闇を掻き分けるように両腕を大きく振り、ひたすらに虚空を蹴る。

 だが次の瞬間、虚空は文字通りうつろとなって景太郎の身体を落下せしめた。突然引力に支配された身体はゾクリと悪寒を覚えるものの、慌ててもがいた両手は落とし穴の壁面に触れることすらなく…意識ごと真っ直ぐに漆黒の深淵へ吸い込まれてゆく。真正面から感じる空気抵抗が、景太郎の焦燥を不安に塗り替えてしまうまでには刹那ほどの時間も必要なかった。

…こちゃん…とこちゃんっ…モトコちゃんっ…!!

 声の元に辿り着けなかった無念さ。そして不本意さ…。

 その声を二度と聞くことができない寂寥。そして恐怖…。

 そんな感情に胸を締めつけられながら、景太郎は救いを求めて叫んでいた。不安に心を握りつぶされる断末魔の悲鳴は、誰よりも愛しい女性の名前となって景太郎の口をついたのである。それは深層意識が生涯の終わりを悟り、せめて想いだけでも現世に残さんとする悪あがきであった。

「浦島っ!浦島っ!!」

 落下の体感速度が増すにつれ、少女の悲痛な呼び声は大きく、そして生々しく聞こえてくる。まるで一緒に落下しながら耳元で呼びかけているかのようだ。

「モトコちゃんっ!モトコちゃんっ!!モトコちゃんっ…!!」

 景太郎は涙を散らしつつ、ひたすらその名を連呼し続けた。すぐ側で聞こえてくる声の主に…すぐ側で呼びかけてくる少女に届くよう、精一杯の叫び声で返事を寄こす。声がかれるどころか、喉が潰れることすらもいとわない。

「モトコちゃんっ!モトコちゃんっ!モトコちゃんっ…!!」

「浦島、しっかりしろっ!浦島っ、私はここだっ!うらしまあっ…!」

 

 

 

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…あ、うぐっ、うっ…あ…あ…」

「浦島…よかった、目が覚めたか…」

「あれ…?おれ…そっか、夢かぁ…はぁ、はぁ、はぁ…」

 ふと、涙で潤んだ視界に明かりが差し込んでくる。

 やがて認識し始める自室の見慣れた天井、見慣れた照明、見慣れた少女の顔…。それらひとつひとつが景太郎に悪夢からの覚醒を諭してくれた。

こくくん…

 タオルにくるまれた氷枕がそうつぶやくのを聞きつつ、景太郎はゆっくりと視線を巡らせてみる。だいぶ記憶が欠けてはいるが、いつのまにか眠っていたようだ。しかも誰が敷いたのか布団の中であり、掛け布団は厚手の毛布との二重掛けである。いかに大雪が積もったとはいえ、さすがにこれは大袈裟であろう。ストーブも焚かれているから暑くてならず、もうパジャマを着せられている身体中汗びっしょりだ。

「…悪い夢でも見ていたのか?」

「うん…って、あれ、モトコちゃん…?」

「ふふ、夕べに続いて邪魔している…。」

 景太郎があまりの暑さで掛け布団から両手を出し、ふと現実感を確かめるように目の前で手の平を閉じたり開いたりしてみると…側で端座していた少女がおずおずとした口調でそう問いかけてきた。何気なしに返事してから、景太郎はやおら彼女の存在に疑問を感じてまばたきをひとつ、きょとんとした目で見つめる。その視線にはにかむよう、素子は極めてささやかに会釈した。

「あれ、夕べは確か…でも、なんで…?なんでまだモトコちゃんが俺の部屋に…?」

「覚えて…いないのか…?」

「え?覚えてって…あ…そういえば、俺…」

 氷枕に頭を乗せたまま、景太郎は感じたままの疑問を口にした。それでも素子は事の顛末を教えてくれようとせず、逆に不安げに表情を曇らせて問い返してくる。景太郎は落ち着いて状況を整理し、こうして素子に寝顔を見守られるに至った経緯を探って…やがて夜闇に灯った微かな光明のような記憶の断片を見つけ出す。

「ところで今、何時…?」

「ああ、起きずともよい。横になっていろ…。今ちょうど正午を回ったところだ。」

 身をよじって上体を起こそうとした景太郎であったが、気遣わしげに素子が制して時刻を教えてくれる。が、その教えてもらった時刻は景太郎が予想していたものと大きくかけ離れたものであった。

「正午って…俺…」

「夕べからずうっと眠ったままだったんだ。もっとも、病院に担ぎ込んで注射を打ってもらうまではそれなりに意識があったようだが…」

「病院…そっか、思い出した…俺、タクシーで…モトコちゃんと病院に…」

「あ、ああ…。」

 そこで景太郎は言葉を区切り、どこか確かめるような視線で素子を見つめた。そんな景太郎の視線を受けた素子は気恥ずかしそうに唇を噛み、矢庭に頬を染めてそっぽを向いてしまう。

 薄ぼんやりとではあるが、確かに景太郎は夕べの記憶を呼び戻してきていた。

 急激な発熱で意識が朦朧となり、素子に振り払われて倒れ込んでから…気付いたときにはいつのまにやらコートを羽織り、素子と二人でタクシーに揺られていた。

 ロードノイズ以外は物音ひとつ無い車内で、素子は景太郎の左腕にすがりついたままひたすら身を震わせていた。同じようにコートを羽織りながらも、まるで厳寒に耐えるように…そして不安におののくように声を殺して泣いていたのだ。

 その間、景太郎は彼女を安心させるために二言三言つぶやいたような覚えがあるが、そのいずれも今となっては覚えがない。とにかく素子を落ち着かせようと、事情がわからないなりにも言葉が口をついたのだろう。素子はそのいずれにも首を縦に振るだけであり、なにひとつ答えてくれなかったことが薄暗い車内にあっても印象深い。

 タクシーに揺られているうちに再び眠りに就いたらしく、次に気付いたときには温泉街の外れにある診療所で診察を受けているところであった。担当してくれた医師はおじいちゃんと呼ばれてさしつかえのない高齢ではあったが、それでも手つきは熟練を極めており、聴診器の冷たい抱擁は必要最低限で済ませてくれたのが嬉しかった。

 堪えようもない寒気とボンヤリとした意識で診断の結果にうなづきはしたものの、付き添ってくれていた素子の方が医師の言葉を理解していたに違いない。油断をすればすぐまた意識を失いそうになり、何度も素子に支えられる始末であったから…きっと生返事を繰り返していただけだと思う。その後で別室に導かれ、小さな注射を一本打ってもらったのだが…その痛みは今なお右腕に残っていて忘却を許してくれない。

 あとは処方してもらった飲み薬を受け取りながら、医師や看護婦に平身低頭、

『夜分突然に申し訳ありませんでした』

をひたすら繰り返している素子の姿が脳裏に焼き付いている。素子にばかりペコペコさせているのも悪い気がしたので自分も頭を下げてみたが、不思議と言葉は出せなかった。ただなにやらうめきながら前のめりに倒れかけたところを、またしても素子に支えられる始末だったように記憶している。

 そして、覚えているのはそこまでであった。恐らくまたタクシーでひなた荘まで帰ってきて、着替えも手伝ってもらってから寝かしつけられたのだと思うが…きっと起きていたとしても寝ぼけ眼であったのだろう。診療所を後にしてからは、こうして目が覚めるまで何ひとつ記憶にない。心身の疲労と解熱剤のおかげで、今の今まで深い眠りに就いていたようだ。

 そのわりに不安な夢など見てしまったものだから、寝覚めはすこぶる悪かったりする。身体中が暑くて汗だくだし、それに喉がカラカラだった。爽快感はどこにもない。せめて冷たいものでも飲んで気分をほぐしたいところである。

「モトコちゃん、ちょっと水飲んでくる…喉が渇いて…」

「ああっ、だっ、だから横になっていろっ。ちゃんと用意してあるから…なにがいい?」

「んぅ…なんかポカリスエットみたいなやつ、あるかな…?」

「うむ、ちょっと待ってろ…確かあったな…」

 汗で額に貼り付く前髪をかき上げながら景太郎が所望すると、素子は部屋の隅に置いてあったクーラーボックスに這い寄り、中から冷たそうに濡れたポカリスエットを一缶取り出した。タオルで水滴を拭ってからプルタブを起こし、丁寧に手渡してくれる。

んく、んく、んく、んく…

 ゆっくりと上体を起こした景太郎は謝辞を告げることも忘れ、受け取ったポカリスエットを喉を鳴らして一息に飲み干した。優しい甘味と冷涼さは格別の喉ごしをもたらし、景太郎の火照った身体をほどよく和ませる。陶酔の溜息が出るほど美味しかった。二、三度深い呼吸を繰り返すと、先程までの鬱々とした気分はたちまち晴れ渡ってくる。

「おいしかったぁ…ありがとう、モトコちゃん。」

「礼にはおよばん…。ほれ浦島、起き上がっているのなら半纏を羽織れ。汗だくなら冷えるぞ。後で身体も拭いてやるからもう少し我慢していてくれ。」

「あ…うん…。ありがとう、重ね重ねごめんね、面倒かけて…。」

「気にするな。それよりどうだ、気分は…まだ熱っぽいか?ちょっと体温を測ってみろ。」

「う、うん…」

 景太郎が溌剌とした笑顔で忘れていた謝辞を告げると、素子は布団の上にかけられていた半纏を手に取り、かいがいしく着せてきてくれた。気を使わせていることがどうにも落ち着かなく、景太郎は半纏に袖を通しながらすまなそうに詫びる。

 それでも素子は少しも不満の色を見せず、なおも気遣わしげに景太郎の顔を覗き込み、右手で額に触れながら電子体温計を差し出してくれるほどだ。誠心誠意で看病してくれる素子に戸惑いながらも、景太郎は差し出されたまま体温計をわきの下に潜らせる。

「早めの注射が効いたみたいで寒気はもうないけど…久々にたっぷり寝たからかな、ちょっとまだ身体がだるいかな…。それと、お腹が減ってる…。」

「ははは、だったらちょうどよかった。おかゆを用意してみたんだ…。私の手製だから味は保証せんが、薬を飲む前にはなにか食べておかんとまずいしな…。」

「え、モトコちゃんのおかゆ!?わあ、早く食べたいっ!」

「待て待て、体温を測ってからだ。あと五分ほど待て。」

 素子が指し示すとおり、ストーブの上には小さな土鍋がフタの隙間からほこほこ湯気を噴き出している。ストーブの中心からずれていることからも、ある程度調理してきたものを保温させているらしい。

 空腹感で嗅覚も敏感になっている景太郎はたちまち生唾が溢れてくるのを感じ、思わず土鍋の方に伸び上がってしまった。はにかむように頬を染めた素子が慌てて制してきたので、景太郎は自身の意地汚さを苦笑する。その無邪気な笑顔は素子の心労を心持ちやわらげたようで、彼女はその清楚な素顔をささやかにほころばせる。

「さっき見た夢ってのはね、モトコちゃんと離ればなれになる夢だったんだ。」

「えっ…?」

 五分ほどのお預けを食ったこともあり、景太郎は側でじっと端座している素子を見つめながらそう話を切りだした。素子は筒袖に緋袴といった彼女なりの普段着姿ではあったが、よくよく見ると目元にはくまができ、髪もわずかに乱れている。恐らくつきっきりで看病してくれていたのだろう。だからこそ景太郎は、あえて悪夢の内容を語って聞かせるつもりになったのだ。

「俺、真っ暗なところにひとりぼっちでさ…。そのうちどこからかモトコちゃんの泣き声が聞こえてきて…必死に俺を呼んでるような気がして、俺、夢中で走り出したんだ。どうしてもモトコちゃんに会いたい、離ればなれでいたくないって…。」

「浦島…」

「でも、やっぱり悪い夢ってのは上手くいかないもんなんだよね…。俺、真っ暗闇を走ってるうちに落とし穴に落ちちゃったんだ。そうしたらもう、怖くて、寂しくて…それにモトコちゃんの所に辿り着けなかったのが悔しくて、悲しくて…俺も夢の中で泣いたんだ。このままずうっとモトコちゃんと離ればなれになるなんて耐えられなかったから…」

「そうだったのか…そんな夢を…」

「ホントに夢でよかったって思ってる。目が覚めてモトコちゃんの顔がわかったとき、心の底からほっとしたよ…って、格好悪いなぁ…また涙が出てきた…」

 悪夢によるストレスはまだ体内に蓄積されていたようであり、夢から覚めていてなおぽろぽろと涙が溢れてきた。景太郎は照れ笑いしながらぐしぐしと両手で涙を拭う。それでも素子の顔を見てしまうのは、こうして愛しい女性が側にいる事実を確かめたいからだ。

 素子も真剣な面持ちで景太郎の話に聞き入っていたが、彼の涙を見た途端に胸の奥が締めつけられるような痛みを感じ、きゅっと唇を噛み締めた。景太郎が見た悪夢の内容に不安を覚え、素子もまた真っ直ぐに景太郎を見つめ返す。離ればなれになりたくないのは素子とて同じなのだ。

 ひとまず景太郎の回想は終わったが、これ以上話が続くようなら無理にでも止めさせるつもりだった。夕べから心労続きであるのに、もうこれ以上不安に心を引っ掻き回されたくはない。

「でもモトコちゃん…夕べの告白は…夢なんかじゃないんだよね…?」

「うん…」

「キスしたのも…幻なんかじゃないんだよね…?」

「うん…」

 景太郎は確実な安堵を求めるよう、心持ち素子の方に身を乗り出しながらそう問いかけた。本来であれば恥ずかしくて問いかけることなどできないような内容だが、あれだけ不安な夢を見たぶん怯えきった心はすがる思いで夕べの光景を再確認させるのである。

 その問いかけに、素子は景太郎以上に顔面を紅潮させながらもひとつひとつ首肯してくれた。そのため夕べ覚えた感触がぶり返してきたのか、素子はリップクリームを伸ばすようなしぐさで唇をモジモジさせる。

 決して言葉には出さないが、強い接吻欲が胸に募ってきていた。いま景太郎に口づけを求められたとしたら、きっと拒むことはできないだろう。焦燥と美意識のせめぎ合いにせつなく胸は痛む。

「モトコちゃん…キスしてもいい…?あんな悪い夢、今すぐ忘れたいっ…」

「なっ…あっ、甘えるなっ…!病人は病人らしく、おとなしく寝てろっ…。」

 そんな素子の苦悩を見透かしたかのように、景太郎は甘えかかるような口調でキスをせがんできた。その声はだらしないとたしなめられてしかるべきものであったが、素子はただ目を見開いて真っ赤になり、しどろもどろで拒絶するのみである。もちろんその言葉は本心ではなく、まだどこか愛欲をふしだらな思いと見なしてしまう潔癖性が残っているからだ。

 しかし景太郎は素子の拒絶を遮るよう彼女の眼前に顔を突き出すと、そのまま布団から這い出て膝立ちとなり、恥じらう素顔を見つめた。愛情のこもった視線を痛いほどに感じて素子が押し黙るのを見計らい、景太郎は両手で彼女の顔を上向かせる。左手は髪を撫でながらうなじの辺りを…右手は火照った頬を撫でながらあごを支えて逃れられなくした。それで素子は観念してしまい、しおらしく瞳を閉じる。

「寝たらまた悪い夢見ちゃうから…ね、今度は良い夢が見られるように…お願い…」

「だっ、だめ、息がかかる…あ、だめだと、言うに…」

ちゅっ…。

 拒む声に女の艶めきを感じ、景太郎は安心して唇を重ねた。昨日覚えたお気に入りの角度でくっつきあうと、素子も一瞬ぴくんと身体を震わせてキスに応じてくる。それどころか、すがりつくような手つきで背中に両手を回してきた。景太郎も逆らうことなく身を寄せ、代わりに右手であごから首筋、耳の裏にかけてをそっと撫でてみる。

「んっ、んんっ…」

「んん…んっ…」

 指先が数センチほど柔肌をなぞっただけで、素子は過敏に反応して身じろぎし、かわいい鼻声を漏らした。景太郎はすっかり気をよくし、さらにキスをねちっこくしてゆく。

ちゅっ…ちゅぱっ、ちゅっ…ちゅぱ、ちゅむっ…

 軽く吸い付いて薄膜どうしをたわませると、そのまま頭を持ち上げて引き離し、すぐまた甘噛みする。そして、また引き離しては吸い付き、引き離しては吸い付き…それこそあらゆる角度からあらゆる強さで唇を重ね合った。ぷりんぷりんと弾み、少しずつ熱を帯びてくるのがお互いすごく嬉しい。

 夢中でキスを味わうにつれ、景太郎だけでなく素子もまたその魅力に惹かれていった。初めはやはり血気盛んな男子である景太郎が果敢にリードし、試行錯誤を重ねていたのだが…そのうち素子もみょぐみょぐと甘噛みを真似てくる。

 しかしその動きは快感を貪るためのものではなく、景太郎が動いてからそれに合わせて反応するという追従型だ。あくまで自分の快感は二の次であり、なにより景太郎が気持ちよくなれるように考えながら重なる角度を変え、ついばみ、吸い付くのである。とはいえそれはひとつひとつ計算してのことではなく、経験の積み重ねによる無意識の動きなのだからすごい。

 熟練の剣士には、一度見せた剣技は二度と通用することはないというが…素子もまたその優れた記憶力、応用力を駆使しているのであった。まさに天賦の才能である。キスしているはずの景太郎が、ふと気付くとキスされているような心地になるくらいであるから驚きだ。わずかな変化に関わらず、まるで素子がぐっと積極的になってくれたような気がして景太郎としては過剰に興奮せざるを得ない。

わあっ…モトコちゃん、ホントにキス、上手いっ…

 景太郎は心中で嬉しい泣き言を漏らす。

 情けない話ではあるが、景太郎は夕べに続き…今日もまたキスで勃起をきたした。素子が巧みに応じてくれるたび、ペニスは汗ばんだパジャマの中で背伸びするよう、ぐんっ、ぐんっ、とたくましく漲ってゆく。このままだと本当にキスだけで絶頂に達してしまいそうだ。

ちゅぱっ…

 ペニスの根本に不穏な気配が渦巻くのを感じ、景太郎は慌ててキスを終えた。引き剥がすように頭を上げると、わずかに密封状態になっていた二人の唇は瑞々しく弾んで唾液の粒を散らせる。ぼおっ…と見つめ合えば、すぐさまはにかみに覆われたぎこちない笑みがお互い浮かんできた。元来二人とも内気な性格であるから、なかなか全力で愛欲をぶつけ合うまでには至らない。

「はあっ、はあっ、はあっ…ありがとう、モトコちゃん…。最高だったよ…。」

「む、むう…もうこれで悪夢にうなされることはないな?」

「うん、絶対大丈夫だよっ!でも、また熱が出てきそうだ…モトコちゃん、めちゃくちゃキスが上手いんだもん…」

「ばっ、バカモノッ!今度ぶり返しても、もう看病などせんからなっ!!」

 恍惚とした表情で目を細めているのは二人とも同じであるが、性的興奮はキスを持ちかけてきた景太郎の方が傍目にも大きく、呼吸の乱れもひどかった。声も上擦りぎみであるから、いかに素子のキスが巧みであるかが窺えるだろう。

 それでも布団の上にへたりこんだ景太郎が惚れ惚れと独語すると、素子は羞恥に狼狽えながらそっぽを向いてしまった。さすがにこればかりは褒められても恥ずかしい。淫乱に思われたような気がして、ついつい声を荒げてしまう。

ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ、ぴーっ…

 ふと景太郎のわきの下から独特のビープ音が鳴り響いた。電子体温計の計測終了の合図である。さっそくパジャマの襟元から取り出し、二人してゲージを覗き込む。

 ゲージにはデジタル数字で36.2度と、元気に走っている人間を抽象的に現したマークが点滅していた。言うまでもなく平熱である。早めの処方が功を奏したようであり、景太郎の熱は見事に下がっていた。景太郎と素子は視線を合わせると、二人揃って安堵の息を吐く。

「よかったぁ…。これもモトコちゃんのおかげだね。ホントにありがとう。」

「礼には及ばんが…浦島、これはお主が無理をしすぎた結果だぞ?お主は十分に管理人としての務めは果たしているんだから、もう少し生活にゆとりを持つべきだ。頼むからもう心配させないでくれ…。これで入試が受けられなかったらどうするんだ。」

「うん…これからは気を付けるよ。心配させちゃってごめんね、モトコちゃん…」

「うらしま…そっ、そうだ!そろそろ昼食にしよう!熱が下がったからとはいえ油断してはいかん。食事をとって薬を飲んで、今日一日ゆっくり休め。」

「う、うん…」

 慈愛に満ちた表情で懇願する素子の肩に片手を置くと、景太郎は真っ直ぐに彼女を見つめ、もう一度だけ詫びた。そのまま愛しげに目を細めて唇を寄せてきたので、素子はつられてそれに応じようとしたが…ふと我に返ると慌てて立ち上がり、早口にまくし立てながらストーブへと向かう。機先を制された景太郎はその後ろ姿を残念そうに眺めるしかない。

 ストーブの側にはすでにお盆とスプーンが用意してある。素子はストーブの前でつま先立ちに正座すると、クーラーボックスの上のタオルを利用して土鍋をお盆の上に移した。フタを開けるとたちまち真っ白な湯気と香ばしい匂いが立ち上り、景太郎の腹の虫をグウと鳴かせる。耳ざとく気付いた素子は振り返り、もう少し待て、と微笑みかけてきた。

 やがて素子はお盆を持って再び景太郎の側に腰を下ろしたが、今度はクーラーボックスの中から卵をひとつ取り出し、不慣れな手つきで殻を割っておかゆの中に投じた。思わず殻の欠片も落としてしまい、スプーンで拾ったりするのはご愛敬であろう。しまった、という風に狼狽えた面持ちになるところも実に初々しい。

 ともかく、落とした卵をスプーンで掻き混ぜたら素子特製おかゆは完成だ。お米から作ったおかゆは味噌で味付けされており、それに鶏肉、ネギ、ニンジンといった具が驚くほど細かく刻まれて使われている。これは包丁を手にした素子のくせであり、ついつい材料を切りすぎてしまうのだ。これはこれで消化に良さそうだが、ここまで見事に刻まれていると離乳食に見えなくもない。

「よし、これでいいな…さあ、できたぞ。」

「わあ…すっごい美味しそう!じゃあ遠慮なく…って、あれ?お茶碗は無いの?」

「え?あ、そうか…忘れていた…スプーンしか持ってきていないな…。せ、せっかくだから…私が食べさせてやろうか…?」

「え、いいのっ?やったあ!モトコちゃんに食べさせてもらえるなんて夢みたいっ!こんな日が来るとは…ああ、神様仏様、ありがとうっ!!」

「こっ、今回限りだからなっ!」

 調理に専念するあまり、土鍋からよそうためのお玉や茶碗の用意を忘れていた。しかし素子はこの失敗を活かし、もう少しだけ景太郎のために世話を焼くことにする。人間、恋をするとどこまでもひたむきになれるものだ。純粋なままに一途な性格の素子だからなおのことである。

 そんな思いもしない申し出に景太郎は合掌してまで感動するが、素子は頬を染めながらピシャリと断りを入れておく。そこまで大袈裟に感動されてはやはり照れくさい。照れくさそうに視線を逸らしつつ、ひたすらスプーンでおかゆを掻き回し続ける。

「じゃあ、いいか?いくぞ…?」

「う、うん…」

「ふう…ふう…ふう…ほれ、あーん…」

「あーん…」

 熱々のおかゆをひとさじすくうと、素子は口許をすぼめて二、三度息を吹きかけ、適当に冷ましてから景太郎の口許に運んだ。お決まりといってもいいような素子の言いつけどおり、景太郎はえさをねだるツバメの赤ちゃんのように大きく口を開ける。まるで子供に戻ったようであり、嬉しさの中に照れくささが混在してきてどうにも気恥ずかしい。

ひぁぐっ…

「あちっ!あち、あち、あち〜っ!?」

「わわっ!あっ、熱かったかっ?まだ冷めてなかったかっ?」

 一口頬張った景太郎であったが、突然目を見開くと大きく舌を出し、涙目になってあえいだ。みるみるうちに赤くなってくる舌先を見て、素子は今にも泣きだしそうな声で景太郎を気遣う。すぐそこのクーラーボックスには氷もジュースもあるというのに、動転するあまりに気が利かない。景太郎に意識を奪われているため、普段通りの冷静さはきれいさっぱり喪失しているのだ。

「ああっ、ああっ…だ、大丈夫かっ?大丈夫かっ、うらしまぁ…!!」

「だ、大丈夫だけど…熱かったぁ…スプーンの裏でヤケドしたみたい…」

「はっ…そ、そうか、金属だから熱が…」

 スプーンを握り締めたままオタオタ狼狽えるだけの素子に、景太郎は片手を突き出して制しながら気丈に笑いかけた。金属性スプーンの熱伝導率の高さに素子は今さらながら気付き、ガックリと肩を落として失意にくれる。

 本来であれば陶製かプラスチックのスプーンやレンゲを用意すべきであるのに、調理に気を取られるばかりでそこまで思い至らなかった。いてて、と口蓋を舐めながら舌の火傷を慰めている景太郎を見て、ようやくクーラーボックスの存在も思い出す。素子は深くうなだれたまま、心底口惜しそうに声を震わせた。

「くそう…わたしはだめだっ、何をやっても空回りだっ…!慣れないことをしようとして、お主に迷惑までかけて…情けないっ…!!」

「そ、そんな…気を落とさないでよ、モトコちゃん!こんなちっちゃなミスくらい、おかゆの味でいくらでもフォローが効くよ!うん、ホントに美味しい!うんうん!」

「うっ、うううっ…」

 自責してフルフルとかぶりを振る素子を前に、景太郎は努めて明るい声で彼女を励ました。素子の手からスプーンを取り、あらためて二口目を頬張る。火傷した舌先はヒリヒリ痛むものの、それでもおかゆへの賛辞は決して世辞なんかではない。その証拠に景太郎は嬉々とした笑顔でおかゆを平らげてゆく。具が細かいから咀嚼の必要も少なく、食のペースも自ずと早くなってしまう。

「…今といい、夕べといい…浦島、本当にすまない…。」

「夕べって…モトコちゃんが謝るようなこと、なんかあったっけ…?」

「ほ、ほら…キスしてから、お主がもたれかかってきて…それで私…勘違いして…」

 素子は肩を落としたまま、なおも深く頭を下げて景太郎に詫びた。その言葉の中でふと疑問を感じ、景太郎はおかゆをパクつきながら何気ない口調で問いかける。

 自信喪失甚だしいのか、素子は機嫌を窺うような上目遣いとなり、消え入りそうなほどの小声で言葉の意味を説明した。それで景太郎もすぐに夕べの顛末を思い出し、なるほどと心中で納得する。

 とはいえ、夕べの事故は素子に非難されてしかるべきだと景太郎は思っている。熱で意識が朦朧となったからではあるが、女性の立場で考えるとどれだけ不安であったかは計り知れない。キスを交わしたことイコール身体を許すことではないのだ。それくらい、人間として最低限の道徳観念さえ身に付いていれば誰でも想像できることである。

「だって…夕べのはモトコちゃんだってビックリしたんだろうし…俺だって、熱があるようなら最初のキスですぐに離れればよかったんだからさ。あんまり嬉しいからって馴れ馴れしくしちゃった俺の方が悪いんだよ。」

「私はな…五歳のとき、乱暴されそうになったことがあるんだ。」

「え…」

 躊躇いを振り切って切り出した素子の言葉に、景太郎は思わず食の手を止めてしまった。まるで意識の流れが一瞬堰き止められでもしたかのようになり、きょとんとした瞳で素子を見つめる。

「五人くらいの若いハイカーだった…。私はその時、大人達から離れた場所で素振りをしていたんだが…やつらはだいぶ酒が入っていたのだろう。下卑た声をあげながら私に飛びかかってきて…あっ、姉上が駆けつけてくれなかったらっ…うっ、うううっ…」

「モトコちゃん、もうやめろっ!思い出しちゃだめだっ!」

 すべてを告白するための回想は、素子の癒えかけていた心の傷を再び切り開く結果となった。声を震わせながら両手で顔面を覆うのを見て、景太郎は強い口調で素子を制する。つらい回想などさせたくなかったし、なにより強く言い聞かせることで安心させる意味合いもあった。

 それで素子は泣き止むことができたが…頑なに首を横に振ると、真っ直ぐに顔を上げて景太郎を見つめてくる。涙で潤んだ瞳は真摯そのものの輝きを湛えていて美しい。

「浦島…すまないが、手を繋いでくれるか…?」

「うん…」

「助かる…これで安心できるから…先程の続き…。お主には言っておきたいんだ…夕べの言い訳も兼ねて…」

 素子の懇願を聞き入れ、景太郎はスプーンをお盆に置いてから右手を差し出す。素子はその右手を両手で包み込むようにすると、わずかに表情を和ませてからそう前置きし、忌まわしい記憶を呼び戻していった。

 京都の山中で人知れず受け継がれてきた神鳴流剣術。

 その後継者として幼い素子も必死に竹刀を振るい、剣の稽古に汗を流す日々を送っていた。そのとき素子は五歳。彼女の生まれ育った剣術道場は人里離れた山奥にあり、そのため保育所や幼稚園に通うこともなく、辺りの野山以外は世界を知ることなく暮らしてきたのである。

 その日は穏やかな小春日和であった。

 爽やかに晴れ渡った青空を見て、元気いっぱいでやんちゃ盛りの素子が屋内での稽古に我慢していられるはずもなく…竹刀を一本携えてこっそりと道場を抜け出たのである。屋外へは先日も道場の者達に連れていってもらったばかりなのだが、その時見た季節を彩る美しい草花、野原を吹き抜けるそよ風、それらがあまりに待ち遠しくなっていたのだ。

 ほとんど舗装すらされていない野道を走り、森を駆け抜け…そしてたどり着いた広々とした野原。開放感に浸りながらひとしきり草花を眺め回し、十分に目の保養を行ってから素子は素振りを始めたのだが…そこへリュックを下げた青年五人組が現れた。

 大学生と思しき彼らは春の陽気に浮かれて酒をあおっていたのだろう、筒袖に袴姿で竹刀を振るう素子を見つけるなり目つきをおかしくして彼女に近付いてきた。初めは素子も丁寧におじぎをし、お互い挨拶を交わしたのだが…やがて彼らは先を争うようにして素子の頭を撫でてきたのである。そこまではまだ素子もくすぐったそうにはにかみ笑いを浮かべていたのだが、やがて一人の男が強引に抱きつき、筒袖を引きむしりにかかってきた。

 さすがの素子も異常な気配に気付いて逃亡を図ったのだが、肉体の修練を積んでいるとはいえ子供の足と大人の足の差は大きい。巧みに回り込まれて追いつめられると、彼らは素子の両手両脚を力任せに押さえこみ、筒袖や袴、下着に至るまでをズタズタに引きちぎってしまった。否応なしに生まれたままの姿にされた素子は血相を変えて泣きわめき、必死になって助けを求めたのだが…男どもは無慈悲にも拳を振るい、少女の頬や腹を殴打して抗拒不能に陥らせたのであった。

 男どもが剥き出しにした欲望は獣のそれ同然であり、所行は不埒を極めていた。

 わずかなまろみすら帯びていない乳房や尻を手荒に揉みしだき…

 二人がかりで両脚をこじ開け、産毛すら生えていない真央を下卑た目で眺め回し…

 かえでのように小さな両手に勃起したペニスをつかませ…

 そして、とうとう口や裂け目まで陵辱しようとしたその時…絶望で虚ろとなった素子の瞳に羅刹もかくやとばかりの殺気に満ちた女の影が映ったのであった。

 男どもの断末魔の悲鳴に続き、なにか生暖かい雫が身体中にびちゃびちゃ降り注いできたところで幼い意識は失神を余儀なくし…気付いたときには自室の布団の中で眠っていた。布団の側で端座していた姉の深刻な面持ちまで、今なお色褪せることなく素子の記憶野に焼き付いている…。

ふう…。

 胸苦しさを吐き出すような溜息が素子の口から漏れ出る。それが独白のピリオドであった。素子は時々声を震わせて言葉を詰まらせたりしたが、そのたびに景太郎の右手を握り締めて懸命に勇気を振り絞り、独白を遂げたのであった。

「…それからなんだ、私が男を信用できなくなったのは…。だから夕べもあの日を思い出してしまって、怖くなって、つい…。亀が苦手になったのも…そ、その時が原因で…に、似てるだろう?亀と、その…」

「わ、わかるわかるっ!わかるからもういいよっ!でも、そんなことがあったんだ…。」

「京都からここへ出てきたのは社会勉強の他に、異性に慣れるためでもあるんだ…。今はこれでもマシになったんだが、向こうでの男嫌いは本当にひどかったんだぞ…?あの日以来猛特訓の毎日を強いたおかげで、気に障る男がいると学校の内外問わずその場でめった打ち…。それぞれで事情があるから補導こそされなかったが、我ながら問題児だった…。」

「こ、怖いなぁ…。そのちっちゃい頃と全然イメージが違うじゃん…。」

「これが私なりの自衛策だったんだ、仕方なかろう…」

 素子は両手で景太郎の右手を握ったまま、郷里である京都にいた頃の姿をポツリポツリと語る。景太郎の相槌に小さく苦笑し、時には照れてふてくされるうちに心の傷をえぐった不快感もほぐれてきたのだろう。声と表情には再び柔らかみが蘇ってきた。

 景太郎はそれを見て胸を撫で下ろすと、ふと包み込まれていた右手を翻して素子の左手に触れた。いぶかるように視線を上げた素子であったが、その右手が優しく左手に寄り添い、丁寧に指を絡めて繋がってくるとたちまち頬を染めて照れる。

 俗にいうエッチつなぎであるが、その組み合わされた指からの暖かな感触、嬉しさ、安らぎ、はにかみは不安でささくれだった心を優しく癒してくれる。その心地良いぬくもりが素子の白ルの頬をほんのりと上気させるのであった。

「モトコちゃん…俺の手はこうやってモトコちゃんと手を繋ぐことができる。」

「うらしま…」

「それに…ふう、ふう、ふう…ほら、あ〜ん…」

「あ、あ〜ん…ひぁぐ、んむ、んむ、んむ…ん…?」

「ね?こうやっておかゆだって食べさせてあげられる。」

 景太郎は空いている左手でおかゆをひとさじすくうと、先程素子がしてくれたように口許で丁寧に冷まし、彼女の口に運んだ。されるがまま素直に頬張る素子を見て、景太郎は普段と変わらない無邪気な微笑を浮かべる。ぎゅっと右手にも力を込め、エッチつなぎしている素子の左手を頼もしく握り締めた。

「いいかい?俺の手はいつだってモトコちゃんの味方だよ。怖い目になんて絶対合わせない。頼りないって思われるかもしんないけど、いつだってモトコちゃんを守ってあげる。」

「うらしま…うらしま、お主…」

「ちょっと気取ってるけど…モトコちゃんを大切にしたいって気持ちは本物だよ?これが俺のモトコちゃんに対する気持ち。ありきたりな言葉だけど、俺、モトコちゃんと両想いになれて本当に嬉しいよ。」

「うっ…うっ、ううっ…」

 素子はもう、そこまで聞き届けるのが限界だった。

 優しくされることに慣れてない素子は景太郎からの愛情を持て余し、感極まってまた涙を溢れさせた。エッチつなぎになっている左手は絶対に放すまいとばかり、景太郎の右手を強く握り返す。

 幸せだった。幸せすぎた。身体中が幸福感で活性化されているかのように暖かい。こうして愛しい男の側にいて、しかも固く手を繋いでもらえる現実が最高に嬉しかった。

は、初恋…私の初恋が、浦島で…本当によかった…

 素子は心中で幸福感を噛み締めているが…それでも初めはやはり、景太郎もまた忌み嫌うべき異性でしかなかった。

 そのうち、その前向きで真摯な姿勢を認めるようになってきた。思いがけず道を示してくれたりして信頼を深めてもきた。

 やがてその信頼は本物になり、そして憧れになり…初めての恋を自覚した。

 もっと仲良くなりたい…もっと親密になりたい…

 手を繋いでみたい…口づけしてもらいたい…

 そんなたわいもない憧憬を抱き、初恋のせつなさに胸を焦がした。

 そして今、その初恋は見事に成就し…素子の一途さは浦島景太郎という男に生涯をかけるほどの思慕の情を生み出してくるのであった。光の奔流のようにまばゆく迸る愛情は素子の気負いも焦燥も、何もかもを暖かく癒してくれる。嬉し涙はもう止まらない。

「モトコちゃん、泣かないでよぉ…泣かれると、どうすればいいのかわかんなくなる…」

「すまない…すまない、うらしま…本当にすまないっ…」

 困惑した景太郎は苦笑を浮かべながら素子をあやすのだが、彼女はとびきりの笑顔を涙でくしゃくしゃにしながら頭を下げ、ひたすら謝辞を繰り返すのみである。もう言葉だけでは取りなすいとまを与えてくれないらしい。

 それを気取った景太郎はおかゆの土鍋が乗ったお盆を左手で退けると、素子の肩を指先で突っついて合図を送った。泣き顔を上げた素子はしばしきょとんと景太郎を見つめていたのだが、彼の首肯で意図を察するなり、そそくさと胸元に寄り添って顔を預けてくる。

ぎゅっ…。

 そんな素子を包み込むようにして左肩を抱き寄せると、景太郎は彼女が納得できるまで泣かせてやることに決めた。嬉し涙なら好きなだけ流した方が心も晴れるものである。それに、いっぱい甘えてくれた方が景太郎としても男心が満たされて気持ちいい。

「ぐずっ、ぐずっ…ひくっ、うっ、うぐっ…ふぅ、ふぅ、ふぅ…」

「すっきりした?」

「ああ…。でも、おかゆ…冷めてしまって…。これでは看病に来た意味が無いな。」

「ううん、気にしないで。おかゆ、ごちそうさまでした。残ったやつはとっといて夕御飯のときに頂くよ。」

 ひとしきり泣いて落ち着いたのか、あるいは泣き疲れたのか…とりあえず泣き止んだ素子は景太郎の胸から顔を上げ、並んで寄り添ったまま小さく苦笑した。苦笑ではあるものの、泣き腫らした笑顔は想いが充足しきったようで実に愛くるしい。

 そんな素子の頭を左手で抱き込むと、景太郎はこみ上げる愛しさに任せてくしゃくしゃとかいぐりした。甘えることにも慣れていない素子は気恥ずかしそうに唇を噛み締めつつ、うっとりと目を細めて抱擁に浸る。

 とはいえ、いつまでもこうして甘えていては景太郎の休養の妨げになる。そう感じた素子は名残を惜しみながらも抱擁から抜け出て、再び景太郎の前でキチンと正座した。あらためて景太郎と向かい合うと、なぜだか平素の口調を心がけるのが気恥ずかしく…素子は甘えんぼになりかけていた心を落ち着かせるためにひとつだけ咳払いする。

「こ、コホン…じゃあそろそろ薬を飲んで、もう一眠りしておけ。熱が下がったとはいえ、病み上がりは休むのが一番だ。」

「…休むっていえば…モトコちゃん、今日は月曜日じゃなかったっけ?」

「ん?あ、ああ…確かに月曜日だが…」

「確かにって…モトコちゃん、学校はどうしたんだよっ!?」

 いかに病み上がりであるとはいえ、曜日の意味合いまで忘失するほどの高熱に見舞われていたわけではない。景太郎は素子の言葉からふとひとつの疑念を抱き、その違和感に気付いた途端ついつい声を大きくして彼女を問いただした。

 素子も一人の女子高生であり、今は三学期の真っ最中である。冬休みはとっくのとうに終わっているし、春休みはまだまだ先の話だ。卒業生というわけでもないから準備休暇ということもあり得ない。昨日は日曜だったからいいものの、月曜である今日の正午過ぎに素子がひなた荘にいるということはどう考えてもおかしかった。

まさか、看病するためにわざわざ学校を休んじゃったの…?

 景太郎はそう推察したが、今の素子ならなんの躊躇も無く学校より看病を選ぶことだろう。嬉しくてありがたい反面、申し訳のない気持ちが苛立ちを募らせてきて彼に声を大きくさせたのだ。

 そんな怒声にも似た問いかけに、さすがの素子も気後れして萎縮するように声を小さくした。前髪を揺らしてうつむき、上目遣いになって言い訳する。

「だ、大丈夫だ…学校にはちゃんと連絡してある。ズル休みなんかではない…」

「なんて連絡したんだよっ?」

「そ、その…風邪で休む、と…」

「風邪でって…もう、確かにそう言えば間違いじゃないかもしんないけどさぁ…」

 自分でもその行動は納得のいくものではないのだろう、些細な屁理屈を白状した素子は景太郎からの叱責を怖れてさらに深くうつむき、押し黙った。景太郎も素子の気持ちが分からないでもないから、胸のわだかまりに苦味を覚えて唇を噛み締める。行き場の無くなった苛立ちでガリガリ乱暴に頭を掻くと、やるせない溜息まで漏れ出てきた。

「だ、だって…熱を出しているお主をひとりで放っておくわけにもいかんだろう?スゥやしのぶは学校だし、なる先輩も予備校へ行くと言っておられた。キツネさんはアルバイトだし、はるかさんだって茶店の仕事もあるからつきっきりというわけにはいかないし…」

「…悪い娘だ。モトコちゃんっていつの間にこんな悪い娘になったの?」

「わっ、私は悪いことをしたとは思って…わ、わっ…」

ぎゅうっ…。

 うつむいたまま、ひなた荘がほとんど空っぽになる状況を説明した素子であったが…景太郎が淡々とした口調で非難してきたので、やっきになって顔を上げた。切実な想いが否定されたような気がしてついつい憤りを覚えたのだが、その怒り顔は突然景太郎の胸に抱き寄せられてしまった。やおら膝立ちになった景太郎に力強く抱き締められたため、気が動転した素子は反論の言葉も消失させてしまう。景太郎のぬくもりにはそれだけの鎮静作用があるのだ。胸が和んで溜息まで気持ちいい。

「…でも、ありがとう。側にモトコちゃんがいてくれたから、俺もすごく安心できたし…なにより助かった。本当にありがとう。」

「ああ…れ、礼には及ばんが…」

「あ、あのさ、昨日の雪下ろしを手伝ったことが原因だって思わないでよ?モトコちゃんって、なんでも自分の責任だって背負い込んじゃうところがあるから…。いいかい、これだけは約束だよ?」

「…うん。」

 景太郎に抱き寄せられた素子は彼の言いつけを聞くと、嬉しそうに頬を緩めてうなづいた。そのまま両手を伸ばし、抱擁をせがむようにして景太郎の背中にすがりついてゆく。

 景太郎もしおらしい素子に目を細め、繰り返し彼女の頭を撫でた。頭頂からうなじにかけて、その美しい黒髪を愛撫するよう右手で優しく撫で下ろすたびに愛しさがいや増してゆくようだ。

 お互い膝立ちと正座ではあるが、初めて抱き合った感触は純粋に嬉しかった。恥ずかしいほどの甘えんぼになってしまいそうで照れくさいが、愛しい相手の胸は甘えてもいい場所なのだからそれもまた仕方のないことだ。

「浦島、そろそろ休め…。薬、飲まないと…」

「俺…薬より効果のあるやつ、知ってるんだけど…」

「え…う、うらしま…お主、まさか…」

 ゆったりと頭を上げた素子と目が合うと、景太郎はどこか気恥ずかしそうにしながらそうつぶやき…右手で彼女の頬を包み込んできた。火照った頬から耳たぶからを撫でられた途端、素子は景太郎が不慣れな求愛をしていることに気付いて顔を赤らめる。

「きっ、キスは…さっきもうしたじゃないか…そんな、何回も欲張ったらダメだ…」

「ううん、モトコちゃんのキスは…きっと何よりの特効薬だと思うよ?だから…ねえ…」

「だ、ダメだと言ったらダメだ…ゆ、夕べみたいにぶり返したらどうするんだ…」

「大丈夫…モトコちゃんが唇から元気を注ぎ込んでくれたらいいんだよ…」

「こっ、こら…だめ…だめだと、言ってる…」

 切羽詰まった拒否の声をあげながらも、素子は近付いてきた景太郎の瞳に吸い込まれるよう静かに目を閉じ…清楚な素顔をあるがまま差し出した。まるで汚されることすらも厭わないとばかりに無防備を極める。

 素子の愛欲はまだ線香花火のようにささやかではあるが、それでも鋼のように堅固だった理性を容易く融解することができるのだ。もちろんキスがやみつきになってきていることもあろう。顔を上向かせたまま、じっと景太郎からのキスを待っていた素子であったが、その可憐な唇は一時も待っていられないとばかり、ヒュクン…と虚空をついばむ。

 もちろん待ちきれなくなっているのは景太郎も同じであった。彼もまた素子の無防備さに見惚れつつ、愛欲をいっぱいに募らせたところで目を閉じる。もはや唇は目標を定める必要もなく、息づかいと体熱だけでもランデヴーを臨むことができるようになっていた。

ちゅっ…。

「んんーっ…!」

 本日二度目の密着も、それはそれは優しく、柔らかく…素子はついつい興奮の鼻息にかわいいよがり声を乗せてしまった。その恥じらいに耐えるよう、景太郎の背中に回した両手が彼の半纏を強く握り締める。

 

 

 

つづく。

 

 


(update 00/12/28)