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「おーい、モトコー!さっきからけーたろー、呼んでるでー!いつものざんがんけーんっで、ドカンと一発いてこましたれーっ!!」
ポテトチップス二袋をきれいにたいらげて食欲が満たされたのか、カオラは虚空に向かってパンチやらキックやらを繰り出しながら素子に声援を送った。
過剰にカロリーを摂取したぶん体力が有り余ってきたようで、声援にも普段以上の張りがある。冬晴れの昼下がりとはいえ寒空の下であることに変わりはないのだが、なんともまあ元気なものだ。
そんなカオラとは対称的に、しのぶはすっかりダウンしていた。
「も、モトコさんにも…モトコさんにも…」
通路でぐったりと仰向けになり、頬を真っ赤にしながらぐるぐる目を回している。
先程からなるに目と口を塞がれ、極力猥褻行為を目撃しないよう保護されていたのだが…獣じみたマスターベーションを繰り広げる景太郎はだらしないよがり声に混ざて素子の名前を連呼するため、しのぶは素子が景太郎に抱かれている光景を想像してしまったのである。
浦島センパイと、カオラが…わたしが…モトコさんが…
景太郎がよがりながら呼ばってきた三人の名前。それは妄想の中で抱いた少女の名前。
「はふ、は、はふ…う、んぅ…」
うぶでありながら思い込みの強いしのぶにとって、そのあまりにはしたない光景の三本立てはあまりに衝撃的なものであった。理性は純心が汚染されてしまう前に意識を断絶し、彼女を失神の深淵へと突き落とす。仮にこのまま想像をエスカレートさせていたとしたら、きっとしのぶは精神に重大な後遺症を残すことになっただろう。
しのぶを失神に追いやった張本人である景太郎はと言えば、物干し台で寝そべりながら夢中でペニスを慰めている真っ最中だ。立て続けての妄想もいよいよ大胆さを増してきたようで、興奮の証である逸り水もネットリと滲み出て右手の潤滑を手伝い始めた。
にちゅ、にちゅ、にちゅっ…
くるみ込むようにして亀頭全体に逸り水を塗りたくると、右手の筒はますます膣のイメージに近いものとなる。よほどの快感を得ているらしく、景太郎は片手で眼鏡を外すと、おとがいをそらしてつらそうに嘆息した。中性的な顔立ちは眼鏡を外すことによって一際幼さが増し、まるで髪をショートカットにまとめた女の子のようにも見える。そのぶん性毛の奥から隆々と勃起しているペニスが極めてアンバランスだ。
ジクジクと押し寄せてくる射精欲を堪えるため、景太郎は時折腰を浮かせるのだが…立て膝で緩やかに開脚しているため、そのしぐさはまるでペニスから陰嚢、そして肛門までをも誇示しているかのようである。
赤裸々にさらけ出された男の股間を真正面から見据える素子は、相変わらず愛刀止水を青眼に構えたままで微動だにしない。とはいえ、幾分引きつった表情は湯気が出そうなくらいに真っ赤である。どうやら景太郎の声は聞こえているのだろう。だらしない声音で繰り返し呼びかけられている意味にも薄々感づいているはずだ。
思うがままにマスターベーションを続ける景太郎。凍り付いたままの素子。
二人の状況を見守る他にないなるであったが、しのぶがへたりこんでしまってからは景太郎の様子ばかりを観察していた。情けない格好で性欲を露わにする景太郎が汚らわしくてならないものの、それでも逸り水にぬめってつやめくペニスから目が離せない。真っ赤に火照った顔を両手で覆いながらも、その指と指には大きく隙間が開いている。
「いや…も、もういやっ!あ、あいつ、さっきからナニを考えてんのよう…!!」
「なあ、なる…?」
「ひゃっ!き、きつね…なによっ?」
恥じらいと好奇心の狭間で息を詰まらせていたなるであったが、突然耳元で聞こえたみつねの声に驚き、ビクンと肩を跳ねさせた。振り返るとみつねはいつの間に近付いていたのか、背後から覆い被さってくるように身を寄せてきている。親しげになるの肩に両手を置くと、わざわざ耳元に唇を寄せて問いかけてきた。
「このペースやったらけーたろ…次にズリネタに使うんは、ウチかあんたってことになるわなぁ?」
「ひゃうっ…!と、突然ナニを言い出すのよっ!?」
熱く湿った吐息とともに、淫猥な質問が耳孔に吹き込まれると、なるは二の腕をゾクゾク鳥肌立たせて身じろぎした。その動きを制するよう、みつねはなるの肩に置いた両手を滑らせ、背後からきつく抱き締めてしまう。
張りのある豊満なバストをなるの背中に押しつけながら、みつねはくったり頭をもたげてなるの首筋に頬摺りしてきた。ほろ酔い気分の上に、発情しかけてもいるらしい。
「うううっ、お酒臭い〜!!ちょ、きつねっ!いい加減にしてよねっ!!」
「…ウチ、けーたろとなら付き合ぉてもええな…根は真面目やし、素顔はカワイイし…それに、あんなに立派なモン持っとるんやからな…」
「きっ、きつね〜っ!?そんな、ちょっ…と、とにかく離れてよおっ!!」
みつねの独語は何気ないものではあったが、それでもやけに熱っぽく、深刻とも呼べるほどの響きを伴ってなるの耳に届いた。普段なら鼻で笑って聞き流すところだが、女としての直感がたちまち胸騒ぎを起こし、なるはあからさまに取り乱してしまう。
そんな女の子二人のやり取りを景太郎は横目で眺めると、物欲しげに唇を開き…その面影を閉じこめるよう、再びまぶたを閉ざした。受験勉強に明け暮れている景太郎にとって、日曜日はさほどの意味合いを持たない。
浪人生であるわけだから、言ってしまえば毎日が日曜日のようでもあり、来る日も来る日も勉強付けで月月火水木金金のようでもある。言ってしまえば本人の決めた過ごし方によってだいぶ差が生まれてくるのだ。
現住所でもあるひなた荘の管理人をやっているわけだから、休日を活かしてアルバイトに出る余裕もない。なにより日曜日だけ勤務、という都合のいいアルバイト先はそうそう無いだろう。
かといってデートに付き合ってくれるほど親しくしている女の子もいないし、男友達と遊びに出掛けるにしても懐には余裕がない。
「あ〜あ、たまの日曜日だってのに味気ないよなぁ…」
ロビーを改装したリビングで、景太郎はソファーに腰掛けたまま気怠く伸びをしてそうひとりごちた。のんびり時間をかけて眺めていた朝刊も、普段は目を通さないところまですっかり読み尽くしてしまい、とうにテーブルの上に戻してある。あとは適当に選局したテレビの放送をなんとなく眺めるくらいしかすることがない。
今朝の景太郎は、起き出して顔を洗い、朝食を取ってから…今日一日をどうやって過ごすべきか考えあぐねていた。
浪人生の本分である受験勉強は、ここ一週間それなりに根を詰めていたため、とりあえず今日一日くらいは休息日に当てたいと思っている。勉強に必死になるのもいいが、景太郎としてはできるだけ受験勉強に振り回されない生活を送りたいのだ。
これはべつに贅沢でそう思っているのではなく、すでにひなた荘の管理人としての業務で生活が振り回されているからである。少しでもストレスは溜めたくないのだ。
かといって見たいテレビがあるかといえばそうでもなく、読みたいマンガや小説、雑誌もこれといってない。一日中寝て過ごすのももったいないような気がする。
「…ひまだってのは贅沢な悩みだけど、本人にしてみればどうしようもないもんなぁ。しょうがない、映画でも観てこようか…」
少しでも日曜日を有意義に過ごしたい。
景太郎はその一心で出費を決めた。朝刊を再び摘み上げ、バサリバサリとめくって上映案内を探す。せつない憧憬に悩まされそうな恋愛ロマンス以外であれば、特にジャンルは問わないつもりだ。一人きりで行くのはなんとなく寂しいが、背に腹は代えられない。
そんな時、やけに威勢のいい関西弁が廊下の奥から聞こえてきた。
「おー!けーたろ、おったんかぁ!やぁ助かったわ!」
「あれ?もしかしてキツネさんも…って、その格好じゃデートですか?」
「んふふ、まぁそんなトコや」
小走りに廊下を駆けてきた関西弁の女は、キツネこと紺野みつねであった。
景太郎がそう見抜いたのも無理はなく、今朝のみつねは黒のジャケットにエンジのタートルネックセーター、黒のソフトジーンズといったお出かけスタイルである。左手にしたハンドバッグに至るまで、さすがにブランド名まではわからないがいずれも高級そうだ。ファッションに疎い景太郎でも、パッと見て素敵だと感じてしまう。
「なあ、けーたろ。あんたから見て、どっかヘンなトコない?」
「う〜ん…俺のセンスもたいしたことないけど、すごいきまってますよ。お化粧だって控えめで…って、これは俺の好みになっちゃうな」
「ほう?けーたろは化粧が控えめな女がタイプなんやな。おーけーおーけー、ウチならいつでもええねんで?ウチ、あんたに求められたら断る自信ないさかいな〜」
「ちょ、これからデート行くんでしょ!バカなこと言ってからかわないでください!」
「あはははは!別にからかってへんのに〜!」
よほど今日のデートが楽しみなのか、みつねは朝食の時からずっとこの調子でやたらとテンションが高い。ささやかに化粧の施された笑顔は普段以上に人なつっこく、からかわれた景太郎も思わず胸を高鳴らせてしまうくらいである。
みつねは景太郎よりもひとつ年下であるが、この底抜けに明るくてアクティブな性格は、内気で引っ込み思案な景太郎とは見事に正反対だ。ほぼ同じだけの人生を歩んできても、やはり経験してきた青春時代の差は大きいらしい。そのぶん精神年齢にもある程度のギャップが生じているようである。
実際、景太郎は人生経験豊富なみつねのことを妙に年上意識している。そのため日頃から彼女に対しては頭が上がらないし、普段の会話でもついつい丁寧語を使ってしまうのだ。これは決して彼女のことが苦手だからとか、敬遠しているからというわけではない。
だからこうして、デートを前にはしゃいでいるみつねの姿にもすこぶる好印象を抱いてしまう。彼女と一緒にデートできる相手が羨ましいくらいだ。
「と、いうわけで。留守番よろしぅな、管理人さん!ま、なんかお土産買ぉてくるさかい楽しみにしとり」
「ちぇっ、俺もこれから映画でも観に行こうと思ってたんだけどなぁ…」
「どうせ暇を持て余し取ったんやろ?留守番しとったほうがウチらからも頼りにされるし、お土産も買ぉてきたるで?ほらほら、もういいことづくめやんか〜!」
「はいはい、わかりましたよっ」
景太郎はしぶしぶを装いながらも、素直に留守番を引き受けることにした。というよりも、引き受けざるを得ないのである。
ひなた荘では、基本的に管理人である景太郎が留守番を引き受けることになってる。他に住人が残っていてくれれば景太郎も自由の身になれるのだが、生憎と今日はこの二人以外すでに出掛けているのであった。
素子やカオラは部活があるとかで学校へ行っている。昼食は適当に済ませるという話だから、恐らく夕方近くまで帰宅しないだろう。
景太郎と同じく浪人生であるなるも、今日はしのぶと一緒に女の子だけのお買い物、ということだ。こちらは夕食も済ませてくるという話だから部活組よりも帰りが遅くなる。
そのうえでみつねはデートだというのだから、ともすれば今日は帰ってこないかも知れない。つまり景太郎は最低でも夕食時まで、このひなた荘に軟禁状態を強いられることになるのだ。これも管理人としての義務であるから、しょうがないといえばしょうがない。
「でもまぁ、せっかくのデートなんですからゆっくり楽しんできてください。その、もし今日は帰ってこないんでしたら、面倒でもちゃんと連絡してくださいよ?」
「わかっとるって。おおきにな」
管理人という立場から一言付け加える景太郎にも、みつねはしおらしく首肯して謝辞を述べる。デートを前にして、気持ちが普段以上に晴れやかになっているのだろう。その幸せいっぱいといった表情は純心無垢な女心の現れであった。
今朝のキツネさん、なんだか輝いてるなぁ…
景太郎はみつねの笑みに見惚れながら、ついつい失礼なことを感じてしまう。もしみつねが読心術の使い手であれば、景太郎は即座にヘッドロックのひとつもかけられていたことだろう。この程度のスキンシップなら、毎日元気いっぱいのスゥほどではないにしろ日常茶飯事だ。
「でもそうなると…俺はなにをして過ごそうかな…」
「何ゆうてんねん。あんたには生涯の友、受験勉強がおるやんか」
「そんなのさっさと縁を切りたいですよっ!それに今日は勉強しないって決めたんです。たまには気分転換しないと気が滅入っちゃいますからね」
「気分転換ねえ…せや!退屈しのぎにええもん見したる!ちょっと待っとり!!」
急遽留守番役になった当てつけではないのだが、何となく景太郎がそう口にすると…みつねはなにやら閃くものがあったのか、レーシングカーのホイルスピンよろしく靴下を滑らせ、今来た廊下を慌ただしく駆け戻っていった。ハンドバッグもソファーの上に放っていったほどである。
そのとき、ハンドバッグにつなげてあったキーホルダーが弾みでちぎれ落ちてしまった。みつねはそれに気付かず、廊下の奥の階段を駆け上がっていったのだが…景太郎はやれやれと溜息ひとつ、ちぎれたキーホルダーが転がり込んだソファーの下に手を伸ばす。
「…へえ、かわいいなぁ」
はたして右手がつかんだものは、デフォルメしたキタキツネのぬいぐるみであった。
大きさにして十センチほどのそれは、少し前に流行ったフェイクファーで大変手触りが良く、そのうえ愛嬌があって実にかわいらしい。しかも背中に小さなファスナーがついていて、小物入れにもなっているようだ。
さすがにプライバシーの問題もあるから開けて見るような真似はしないが、胴体をつまむと何やらカサカサ音がすることからも、みつねは一応ミニポーチとしても活用しているらしい。これで観光地名のひとつも書いたら、そのままドライブインなどで売っているお土産品に見えてしまうところが玉に瑕ではあるが。
「おーい、けーたろ!これこれ!これでも観とってや!」
景太郎が指先でぬいぐるみについた埃を払っているうち、みつねは一本のセルビデオを右手にして駆け戻ってきた。どうやらせめてもの暇つぶしのタネにと貸してくれるつもりらしい。
「なんですか、これ…ライブのビデオ?」
「うんうん!それがまためっちゃカッコええんや〜!!なるとかしのぶにも観せたんやけどな、やかましいだけやとか、ギャングみたいで怖いとか、ワケのわからん感想ばっか言いよんねん」
景太郎が受け取ったビデオテープのパッケージには、黒のスーツに身を固めたサングラスの男四人がイギリスの名車、ジャガーに乗り込んで映っていた。裏を返すと曲名と思しきクレジットが並んでいるところからも、どうやらこの四人組のライブビデオであるらしい。パッケージを見る限りでは、景太郎の第一印象もあまり芳しくはなかった。
「ええか?このビデオ、全部が全部見所なんやけど、特にギター!エッジ効かせてテレキャスターかき鳴らす姿は必見やで〜!!帰ってきたら感想聞かせてや?あ、もちろん遠慮せんと、なんべんでも繰り返して観てええで?」
「あ、は、はい…」
みつねはよほどこのバンドがお気に入りなのか、両手でギターを弾く真似までしながらやたら熱っぽく推してくる。しかも感想までねだってくることから、どうやら共感できる仲間を増やしたいらしい。なるとしのぶには受け入れてもらえず、ロックやポップス嫌いの素子やテクノフリークのカオラは問題外であろうから、残る可能性は景太郎にしかないのだ。
景太郎は聞いて気持ちのいい曲ならジャンルを問わない性格だし、なにより高校時代にはバンドでギターを弾いてみたいと思ったことだってある。だからこうしてライブビデオを貸してくれると言うのならいつでも大歓迎であった。感想をくれというのも、レンタル料を取られるよりはずっとましだ。
「これからデートなのに、なんだか気を遣わせちゃって…どうもすいません…」
「なんであんたが謝んねん。優先して出掛けさせてもろぉたり、感想くれ言うたり、本来はこっちが謝るべきやんか。ホンマ、感謝してるで?」
だから景太郎はついつい謝辞を述べてしまったのだが…みつねは年上を気取るような微笑をひとつ、片手で彼の頭をかいぐりした。やはりデートを前にしているためか、みつねはいつも以上に気を利かせてくれるし、なにより気味悪いほど素直である。景太郎としては少々調子が狂ってしまうものの、こんなみつねもなかなかに悪くない。むしろ新鮮で、照れくさくなってしまうほどである。
「っと、そろそろ行かな…って、あれ?あれっ!?アイツ、どこ行ってもぉたんや!?」
左手の腕時計で時間を確かめたみつねは、ソファーからハンドバッグを摘み上げるなり素っ頓狂な声をあげた。タバコも吸うし、深酒もするわりにみつねの声は張りがあって澄んでおり、よく通る。今の声なら三階にいてでも聞こえただろう。
「ちょ、やばいって、あれには…」
「あ、これでしょ?さっきキツネさんが放ったときにちぎれちゃいましたよ」
あるべきものがない、という風にみつねがバッグの周りからリビング全体を忙しなく見回し始めたので、景太郎はすぐさま心当たりのものを彼女に差し出した。よほど焦っていたようで、みつねはまるで母と巡り会えた迷子のように目を細める。
「それや、それそれ〜!なんや、ちぎれてもぉたんか。やっぱ安モンは弱っちいなぁ」
「安モンだなんて言ってますけど、大事なものなんでしょ?顔に書いてありますよ?」
「えへへ…ま、色んな意味で大事なモンやわな。おおきにな、重ね重ね」
「いえいえ、俺はただちぎれたのを拾っただけですよ」
手渡しながら景太郎が問いかけると、みつねは意味ありげに微笑みながら小さなぬいぐるみを両手に包み込んだ。恋人からもらったものなのかな…と、景太郎はみつねの喜びようから安直に推測したりする。
いずれにせよ、ここまでみつねに喜んでもらって景太郎も悪い気はしない。同時に、喜んでもらえたことが単純に嬉しかった。
「ほな、悪いけど留守番よろしゅうな。それとビデオの感想も楽しみにしてるで?」
「ええ、気を付けて」
みつねは気忙しげにブーツを履くと、右手をひとつ振ってひなた荘を飛び出ていった。景太郎はビデオテープを片手に、小さく右手を振って彼女を見送る。
外は穏やかな冬晴れであった。ブラウン管に映し出された映像は想像を絶するほど刺激的なものであった。
怒号のように吠え立てて歌う、しゃがれ声のヴォーカル。
剃刀のように鋭いブラッシングを披露する、長身痩躯のギタリスト。
的確にリズムをキープしながらも、激しく会場を煽るベーシスト。
必要最低限の機材数でバンド全体をリードしてゆくドラマー。
全席立ち見の会場を埋め尽くしたオーディエンス。繰り返し押し寄せるモッシュ。
割れんばかりにうなるスピーカー。ロック。そしてブルーズ。
「すごかった…ああもうっ、ホントにすごかった…!!」
終演の余韻で胸が空くのを覚えながら、景太郎は陶酔の面持ちで独語した。涙腺が感動に震える。興奮いまだ醒めやらぬ身体は、ストーブを焚いている部屋にあって汗びっしょりだ。満ち足りた溜息が先程から止まらない。
それほどまでに、みつねから借りたライブビデオは景太郎の感性を刺激してくれた。
午前中に一回、昼食の休憩を挟んでもう一回と都合二回も欲張ったのだが、その二回とも九十分という時間を感じさせないくらい引き込まれてしまった。二回目に至っては、一人きりで留守番しているのをいいことに、テレビのスピーカーが割れる直前までボリュームを上げてしまったくらいだ。
夢中で拳を振り上げ、ギターを弾く真似をして、早速覚えたサビを口ずさんだ果てに得た疲労はたまらなく心地良いものである。少々運動不足であった身体も久々にリフレッシュできた想いだ。
「はふぅ…ホントかっこいいよなあ!あんなの見せつけられると、俺もギターが欲しくなっちゃうよ…。まったく、キツネさんも受験生にこんなの見せるなんて反則だ!」
などと不満を言うものの、景太郎の表情は幸せそうに緩みっぱなしだ。ビデオを巻き戻しながら大の字に寝転がり、余韻に浸る。汗ばんだシャツの背中が冷たい。
カチンとビデオデッキが巻き戻し終了を知らせると、景太郎はデッキからテープを取り出してパッケージに納めた。早めに風呂に入って汗を流そうと、デッキからテレビから電源を切ってストーブも消す。
夕食まではたっぷり時間があるのだから、じっくりと汗を洗い流すことができるだろう。
それに自分以外は誰もいないのだから、カラオケ気分でライブのアンコールを決め込むのもいい。開放的な空間でゆったりと湯に浸かり、お気に入りの歌を歌うのは最高のリラックスを約束する贅を極めた手段だ。都会では絶対に考えられない極上のひとときをみすみす逃す手はない。
「飲ぉみい込んで、たぁめこんで〜、って…あれ?」
タオルとバスタオル、替えの下着を抱えて部屋を出るなり、景太郎は風呂場まで待てなくなってついつい覚えたばかりのフレーズを口ずさんでしまう。軽快なブギのメロディーに乗ったまではよかったが、自室を出てすぐ隣の部屋…つまりみつねの部屋の前まで来たところで違和感を覚え、足を止めた。みつねは今頃デートの最中であるはずなのに、彼女の部屋には蛍光灯が点けられているのだ。
点けっぱなしででかけちゃったのかな?もったいないなぁ…
ひなた荘の管理人である景太郎としては、ついつい電気代を懸念してしまうが…なにぶんここは女子寮であるために、よほどの事情がない限りは無断で開けることができない。もちろん立ち会いをお願いできる住人は全員出掛けたままだ。
「そんなわけないとは思うけど…キツネさん?キツネさん、帰ってきてるんですか?」
喜び勇んでデートにでかけたのだから、まさかこんな早い時間に帰宅しているはずもないとは思う。それでも念のため、景太郎は障子戸ごしにみつねを呼びかけてみた。そのまま数秒ほど待ってみたが、やはり返事はない。ライブビデオの大音量がわずかに聴覚を鈍らせているが、それでも辺りはしいんと静まり返ったままだ。
やはりみつねは蛍光灯を消すのも忘れるほど急いでいたのだろう。
仕方がない、という風に景太郎が小さく溜息を吐いた…その時であった。
「うっ、ううっ…ぐすっ、ぐすっ…ひぐっ、ううっ…」
「え…?」
立ち去ろうとした障子戸の向こうからすすり泣きが聞こえたような気がして、景太郎は踏み出した一歩を慌てて戻した。
空耳かとも思ったが、障子戸に耳を近づけてそばだててみると…間違いなく室内から女性のすすり泣きが聞こえてくる。しかも廊下に立っているこちらに気付いているようで、懸命に声を殺そうともしているようだ。
たちまち景太郎は胸騒ぎを覚え、夢中で障子戸に右手をかけた。
「キツネさんっ!キツネさん、ゴメン!ちょっとだけ開けますよっ!?」
「あっ、開けたらあかんっ…!!」
景太郎がそう断って障子戸を開けるのと、室内から悲痛な叫びが聞こえるのとはほとんど同時であった。
「…キツネさん…」
「ぐすっ…あ、あかんて言うたやんかっ…うっ、うううっ…」
拡げられたままのファッション雑誌に、カタログ。
飲み干されたきりでほったらかしにされているハイネケンの空きびん。
無造作に転がっているバーボンのボトル。使い込まれて変色しかけたタンブラー。
脱いでそのまま放られたとおぼしきTシャツに、目のやり場に困る下着類。
そんな整頓の二文字とは無縁の部屋で、みつねはガラステーブルに突っ伏して泣いていた。障子戸を開け放たれた瞬間、ちらりと景太郎を見上げて非難したものの…この状況を目撃されたことに観念するよう、すぐさま両腕の中へ顔を埋めてしまう。今朝見かけた格好のままであることからも、帰宅してからずっとこうだった事が一目瞭然だ。
「…?」
入浴の用意を廊下に取り落とし、呆然としたまま室内へと踏み込んだ景太郎の第一歩になにやら違和感が伝わってくる。退けた右足の下から現れたものは、何やらフカフカとした小さな毛のカタマリであった。
「え…えっ、ええっ!?」
驚愕を押し殺すこともできず、景太郎はその柔らかな毛玉を摘み上げて息を飲む。
それは今朝見かけたキタキツネのぬいぐるみ…その頭部であった。あれだけ大切そうにしていたのに、みつねは無惨にも引きちぎって投げつけたのだろう。景太郎が振り返った先の障子戸には不自然な破れが生じていた。
自ずと景太郎は離ればなれにされた胴体を探してしまうが、それはさほどの苦労もなく、すぐに見つけ出すことができた。小物入れにもなっている胴体はガラステーブルの向こうで、どこか趣味の悪いシュール絵画よろしくぽつねんと転がっている。その思いもしなかった惨状を前に景太郎の声は震えた。
「きっ、キツネさんっ!これ…いったいどうしたんですかっ!あんなに大事そうにしてたのに、なんでこんな…こんなっ…」
「ふたまた…」
「えっ…」
「二股かけられとったんや…ウチは遊びやったんや…ナメられた話やで…」
みつねが漏らした沈痛なまでの涙声に、すべての事情が込められていた。慌てて彼女の側に駆け寄った景太郎も、その一言だけであらゆる言葉を詰まらせてしまう。たちまち悲壮感が胸を締め上げてきて、喉元までもが狂おしい圧迫感に苛まれてきた。
「こんなに惚れたん、瀬田のヤロー以来やのに…ずっと、ずうっと好きやったんに…なんでや…なんでやねん…信じられへん…」
みつねはガラステーブルに突っ伏したまま、胸苦しさを肺腑の底から吐き出すかのように独白した。やりきれない心情を吐露することによってさらに涙が溢れてくるのか、すっかり小さくなった背中をガクガク震わせながら嗚咽を繰り返す。理不尽な恋の終わりに怒りも心頭であるらしく、頭を抱え込むようにしている両手も拳を固めて打ち震えている。
景太郎にしてみれば、所詮他人事ではあるが…それでもみつねの深い悲しみがひしひしと胸に伝わってきて、たまらなくせつない。これは持って生まれたフェミニズムが否応なしに彼女の想いを汲み取ってしまうためだ。ましてや普段から親しくしているみつねのことであるから、お人好しとも呼べる景太郎にはなおのこと彼女の嘆きを見過ごせないのである。
それになにより、今朝見かけた歓喜に浮き足立ちそうなみつねの姿と、こうして悲嘆の底に沈み込んでいるみつねの姿とのギャップが景太郎のフェミニズムを熱く奮わせてくる。ほんの数時間前までみつねを幸せの絶頂に置いておきながら、身勝手ひとつで彼女のひたむきな恋心を踏みにじった男に対しても憤りを禁じ得ない。
女の子のひたむきな信頼を裏切ることは男として最低な行為であると、景太郎は常々思っている。想いを寄せて、恋に焦がれて、夢中で愛して…その果てに裏切られたときの衝撃たるや並々ならぬものがあるだろう。失恋とは傷心の度合いも別格であるに違いない。
傷ついたら痛いし、涙が出る。傷つけば傷つくだけ痛みも増すし、涙も後から後から溢れてくる。それは人間にとって当然の生理現象だ。
みつねがガラステーブルにぽたぽた滴らせている涙からも、彼女がいかに傷つき、痛みを覚えているかが窺えるだろう。その男を愛していたぶん心の傷は深く、痛みは強く、そして涙は悲しみ色に澱むのである。
景太郎自身、重い涙を流し続けるみつねの姿に例えようもない痛ましさを覚えていた。意気消沈し、悲嘆にくれるみつねの姿など一秒たりとも見ていたくない。たとえ誰かにおせっかいと言われようとも、みつねに声をかけたくなってしまう。
「キツネさん…あの、上手い言葉も無いけど、早めに気持ちを切り替えた方がいいですよ。そ、それにほら!もしかしたら何かの間違いかもしんないし…その、もしホントにそうだったとしたら早めに忘れた方がいいと思うし…とにかく気持ちを落ち着かせて、ね?」
景太郎は心からの労りを込め、諭すようにしてみつねを励ました。
決別を果たしたのであれば、もうこれ以上苦悶を抱え込んでいる必要などどこにもない。つらいことではあるが、あくまで前向きに考えることこそが失恋の唯一の特効薬なのだ。新しい恋を探そうとすることによって、新しい希望も生まれてくるのである。
ましてや二股をかけられ、あまつさえ遊び半分で相手されていたのであれば積極的に忘れようとすることも大切だ。その相手を信じようとするのは無駄以外の何でもない。恋心と願望を錯覚していては新しい恋を見つけ出すことも不可能であり、未練による苦悩も長引くだけである。
そんな想いを伝えるよう、景太郎はみつねの震える背中を右手でぽんぽん叩き、しゃくり上げが楽になるよう丁寧に背すじを撫でてやった。
ぱしっ…
「あっ…」
しかしみつねは落ち着きを取り戻すでもなく、それどころか憎々しげな目で景太郎を睨み付けると、抱擁を繰り返していた彼の手を左手の閃きひとつで振り払ってしまった。ガラステーブルから起こされた顔は悲嘆の涙に濡れそぼってはいるが、その表情には思わずたじろぐほどの殺気が漂っている。
「き、キツネさん…?」
「ホンマに上手い言葉やないな…気持ちを切り替えろ言われて、はいそうでっかと切り替えられるモンとちゃうやろっ!!スイッチじゃあるまいしっ!!」
「そ、そりゃそうだけど…でも…」
「はん、マトモに恋愛したこともない人間に慰められても腹立つだけや!うざったいさかいさっさと出て行き!!」
「そっ、そんな言い方ないでしょう?俺はキツネさんが心配で…」
バクッ…
それは一瞬に発動された、あまねく生物が本能に忍ばせている破壊の衝動。
烈火のごとく逆上したみつねはその場で膝立ちとなり、景太郎に反論を許すことなく問答無用で彼の横っ面を殴りつけた。とはいえその右手での殴打は戯れ半分で済むものではなく、激しい怒りに駆られた純然たる暴力であった。
しかもその動きはまるで人を殴り慣れているかのようであり、躊躇のかけらもない。一切の手加減も無く撃ち込まれた拳は景太郎のメガネを遠く弾き飛ばし、唇の隙間から鮮血を散らせる。
それは文字通りのクリーンヒットであった。軽い失神のため、呆然となった後から痛みが襲ってくる。それでもなお景太郎は激痛にうめくこともできず、何が起こったのかわからないといった茫然自失の状態のままだ。血の苦味でいっぱいの口の中では、どこか奥歯の噛み合わせがおかしい。
「けーたろのくせに、なにが心配やっ!!余計な同情なんてせんといて!!鬱陶しいだけや!!目障り耳障りやっ!!」
「…で、でも…いつも親しくしてるキツネさんのことだもん、心配するなって言う方が無理ですよ!!見ちゃったのならなおのこと、見過ごす事なんてできませんっ!!」
「やかましいわ、あほんだらっ!!カッコつけんなっ!!」
バコッ…
ようやく我に返った景太郎はひるむことなく膝立ちとなり、真摯な瞳でみつねを見つめ返した。
しかしそのあどけない童顔も、心からの気遣いも、精一杯の勇気も…なにもかも再び彼女の暴力の餌食となった。飢えた獣のように襲いかかった右の拳は、真っ赤に腫れてきた景太郎の左頬を繰り返して穿ち、決して頑強とはいえない彼の身体を容易く横倒しにしてしまう。
なんの容赦もない痛烈な殴打は、とうとう景太郎の感覚を麻痺させるに至った。カーペットの上に殴り倒され、頬の内側がザックリと裂けているにもかかわらず痛みが妙におぼろなのだ。口腔内から舌の根本へと拡がってゆく鮮血の苦味と、みつねが振るう苛烈極まりない暴力の衝撃だけがやたらと生々しい。
それでも景太郎は怯えて逃げ出すことなく、右手で口許を押さえながら身じろぎするように上体を起こした。口いっぱいに溜まった血をこぼしてみつねの部屋を汚したりしないよう、鉄っぽい苦味を堪えて懸命に飲み込む。その不味さと今さらながらの激痛で、涙が一粒頬を滑り落ちた。
はあっ、はあっ、はあっ…
暴力への恐怖を懸命に押し殺しながらゆっくり膝立ちになると、景太郎はまたしても真っ向からみつねの瞳を見つめた。気丈な視線どうしが交錯し、二人の荒ぶった呼吸もしっとりと同調して重なる。
「…キツネさん、無理してるでしょ…?」
「なっ、なにがやっ!?」
「キツネさんって、人を殴るの慣れてるみたいだけど…でもね、まだ本気で俺のこと殴ってない。殴りたくないのに、無理して俺を殴ってる」
「あ、あほさらせっ!!なんでそんなことがあんたにわかんねんっ!!」
「だってキツネさん、俺を殴るたびにどんどん寂しそうな顔になってくから…。本当に俺に出ていってほしいんなら、そんな顔にならないはずだよ…?」
「なっ…」
健気にも微笑みかけてきた景太郎に、みつねは思わず言葉を失ってしまう。
景太郎の指摘通り、みつねの瞳は溢れんばかりの涙で潤み、怒りの炎を危なっかしく揺らめかせていた。きっともう一殴りもすれば…あるいはこのまま突き放されてしまえば、すぐまた泣きだしてしまうに違いない。ようやく泣き止むことができたなのに、涙は再び堰を切ったように溢れ出てくることだろう。それも重く、冷たく、苦い最低最悪の涙が…。
みつね自身も、自ら窮地に進み入っていたことには気付いていた。
信じていた男に裏切られた悲しみ、怒り。同時に愛していた男を失った寂寥。
そんな悪夢のような不安に押し潰されるよう、ひたすら泣いていた。一見華やかではあるが、この独りぼっちの部屋の中で泣きじゃくっていたのだ。
独りぼっちで涙を流し、心の痛みを慰めようにも慰められるはずもなく…それどころかやがて小さな部屋の中には自分のすすり泣く声しか聞こえなくなり、孤独感を一層強める結果としていた。孤独感はさらなる不安を伴ってみつねの心に侵食してきたのである。
男女の別無く、あまねく人間が忌避しようとする孤独という名の目に見えぬ不安…。それはまさに虚毒と当てて差し支えのない猛毒であった。本能と同時に心をも持ち合わせる人間としては、決して受け入れてはならない有害物質なのだ。
その害悪は、思いやりや労り、優しさにすら拒絶反応を示させるほどみつねの心を蝕み、何の罪もない景太郎までひどく傷つけてしまう。
自分自身でもわかっているのにどうすることもできない…そんなやりきれない悪循環がみつねを深くうつむかせていった。もう自分がどうしていいのか、どうしたいのかもわからなかった。
ただ、この苦悶から逃れられる方法はすでに判明済みだ。傷ついた乙女心を苛んでくる孤独はもう、撤退寸前にまで追いやられている。ただ一言だけ口にできれば…ただ指先ひとつだけ触れられれば…たったそれだけで孤独は振り払われるのだ。
それでもみつねにはもう、その孤独にとどめを刺すだけの勇気を奮うことができなかった。取り乱していながらも失態にほぞを噛む情念は、そうすることを潔しとしなかった。
いわれのない暴力にも怯むことのない、景太郎のひたむきな気持ちはたまらなく嬉しかったが…いざそれにすがってしまうと、何かが狂い始めるような気がしてならない。まるでこのひなた荘から自分の居場所が無くなってしまうような、そんな杞憂すら胸に拡がって彼女を苦悶させる。
「…と、とにかく今は出てって…頼むわ、はよう…はよう出てって、なぁ…」
「キツネさん…」
みつねはポツリとつぶやくなり、ガクンと脱力してその場にへたりこんだ。
カーペットの上であひる座りとなり、深くうなだれて肩を震わせる姿はまさに己の所行を悔いる罪人のそれであった。その姿があまりに痛ましくて、景太郎はなおのこと言葉を詰まらせてしまう。
出ていけ、とは確かにみつねの要望だ。そうすることはあまりに容易い。きびすを返して廊下に駆け出し、障子戸を閉ざせばそれだけで彼女の望みは叶えられるだろう。
それでも、景太郎はみつねの言葉を聞き入れようとしなかった。ただ小声で呼びかけたまま、同じようなあひる座りに身を起こして彼女を見守る。
目の前でつらい涙に震えている人がいるのであれば、老若男女を問うことなく、その涙を受け止めてあげたい…。そして、自分ができうる範囲で精一杯支えになりたい…。
景太郎はいついかなる状況でも、そう願わずにはいられない性分の持ち主だ。高校時代に友人から、保育士こそお前の転職だとからかわれたことがあるくらい彼の優しさは大きい。もちろんその友人も悪意があってそう言ったわけではない。
その聖母もかくやとばかりの慈愛の気持ちは、景太郎が人間である限りは十分弱点になりうる危険を孕んでいる。場合によっては疎まれることもあろう。目の前のみつねもそう感じていることは、目に見えて、耳に聞こえて明らかだ。
それでも景太郎は行き場のない涙の重さ、冷たさ、そして痛みを知っている。同時に、その涙を受け止めてもらえる安堵、ぬくもり、歓喜をも知っている。
だからこそ、みつねの澱んだ涙を受け止める相手になりたかった。もうこれ以上みつねの胸を痛めさせたくなかった。
傲慢極まりない、ただの独善だと嘲笑を浴びせられようとも景太郎はそう願わずにいられない。同じ人間であるのだから、抱くことのできる感情は寄せ合って歓びを増したり、あるいは分け合って悲しみを減らしたりできるはずなのだ。
ましてや相手は気心の知れたみつねである。今まで交わしてきた朝夕の挨拶、励ましや応援、慰めの言葉、たわいもない揶揄や冗句、おしゃべりの数々…そのどれにも精一杯の感情を込めてきたし、込められてもきた。今やお互い、同じひなた荘で暮らす住人として以上の絆すら認識している。酌み交わす酒の美味さがなによりの証拠だ。
そんな彼女の力になれないはずがない。これは確信であった。仮に立場が逆であったとしても、面倒見のいいみつねは景太郎を放ってはおかないだろう。
しかし…今回ばかりは事態が容易ではなかった。たとえ二人に親友としての絆があったとしても、みつねはついつい態度を頑なにしてしまう。いつものようにからかって、たわいもない嘘をつく…そういった次元とは異なる領域で彼女の心はひねくれていった。声はみるみるうちに危なっかしい震えを帯びてくる。
「はようっ…は、はよう出て行きやっ…後生やから、今はひとりにしといてっ…」
「…だめだよ、やっぱりキツネさんをひとりぼっちになんてしておけないっ!」
「…やっ、やかましいっ!このおせっかい!出てけっ!!出てけえっ…!!」
「わっ!わわっ!ちょ、危ないって!キツネさん!キツネさんっ…!!」
景太郎が懇願を承知せずにいると、やがてみつねは激しくかぶりを振って泣き叫び、手当たり次第に座布団からクッションからを投げつけてきた。景太郎も初めは両手で身をかばって耐えていたのだが、そのうちみつねがハイネケンの空きびんからガラスの灰皿から、しまいにはバーボンのボトルまで盲滅法に投げつけてきたので、たまらずに廊下へ這い出てしまう。
ばきっ…ごこんっ、ごろん、ごろんごろん…
引っ掻くような手つきでピシャリと障子戸を閉めた途端、室内からは追い打ちとばかりにタンブラーが障子戸を突き破ってきた。耳のすぐ横をかすめていったことに戦慄する景太郎の目の前で、凶器と化したタンブラーはヒステリックな音とともに壁にぶつかり、廊下の上に転がる。
しかしそれを最後に、辺りは再び冬の昼下がりの静けさを取り戻してしまう。みつねの声も止み、耳を澄ませば彼女の荒ぶった息遣いが微かに聞こえてくるのみとなった。張りつめていた緊張感がやんわりと解けてゆくのがわかる。
はあぁ…
肩を落としてやるせない溜息をひとつ、景太郎は痛む頬を左手で撫でながらゆっくりと立ち上がった。殴り倒された弾みでしたたかに打ち付けたのか、なんだか腰まで痛い。思わずよろけてしまったりする。
…俺なんかが慰めに入っても、鬱陶しいだけか…
所詮友情では愛情の支えにならないことを痛感し、景太郎は失意の中でうなだれる。
一途に慕っていた男に裏切られるという最低最悪の出来事だけに、バイトでのヘマとか、競馬予想の失敗を慰めるようにはいかない。確かにみつねの言うとおり、恋愛経験のない人間が出しゃばったところでどうにかできそうな場面ではなかった。なんとも言えない後味の悪さだけが胸に残り、溜息ばかりを繰り返してしまう。
景太郎は廊下に取り落とされたままであったタオルやバスタオル、真新しい下着を力無く拾い上げると、とりあえず浴室へと向かうことにした。汗を洗い流したところで胸苦しさが解消されるとは思えないが、それでもみつねの部屋の前にいたところで事態が好転するとも思えない。気が気ではならず、心残りも多分にあるが、ここはみつねが望むように一人にしておくことにした。
晩ごはんの時に出てきたら…ううん、後でもう一度声をかけてみよう…。
そう考えながら、一階へと下りる廊下の角を曲がった…ちょうどその時。
「…うっ、うぐっ…あっ、あああんっ!わああああっ…!!うぐっ、うっ、うううっ…!」
再び聞こえてきたみつねの泣き声が、落雷のごとき勢いで胸に突き刺さってきた。景太郎はたまらずに足を止め、唇を噛み締める。きつく閉ざしたまぶたからは、悲嘆にくれる彼女を前に無力でしかなかったことへの悔し涙がぽろぽろ溢れ出てきた。
「キツネさんっ…キツネさん、キツネさんっ…キツネさんっ…!」
自責という名の鋭いナイフで身を切られるような心地に、景太郎はすがるような思いでその名をつぶやいた。焦燥が身体中の血管を巡り、今すぐみつねの元に戻りたい衝動に駆られるが…ここでまた戻っても、いたずらに彼女を困惑させるだけとの不安がのしかかってきて足が動かない。
…情けない…情けないっ…情けないっ…!
景太郎は心中で自分自身を罵倒すると、けたたましいほどの勢いで一段跳ばしに階段を駆け下りた。苛立ちを力任せに踏み潰すような足取りは、経年とともに磨き込まれて気品を増しつつある階段や廊下にしたたかな悲鳴をあげさせる。
せつなかった。今まで抱いてきたどんな感情よりも、ずっと、ずうっとせつなかった。
ましてや部屋を後にしてから聞こえてきた泣き声には、初めのものとは明らかに別の悲哀が重なっていたものだからなおのこと胸は痛む。置き去りにしたことが、必ずしも彼女のためだったのかと後悔の念もひとしおだ。
やっぱり戻りたい…戻って、キツネさんを抱き締めたい…
階段を駆け下りてなお、景太郎はそんな想いを募らせて階上を振り仰ぐ。
それでもそうすることはあまりに軽薄であるような気がするし、思い上がりも甚だしいように感じる。いかに親友と認め合えるほどの絆を育んでいようとも、やはり自分達は男と女なのだ。
それに、そうされたとしてみつねは喜ぶだろうか。不安に揺れる心を落ち着かせることができるだろうか。自分の胸につらい涙を託してくれるだろうか。
「けーたろのくせに…だもんな…」
浴びせられた言葉がどうしても蘇ってきて、思わず独語となる。
景太郎には、みつねは強い女性であるというイメージがあった。そんじょそこらの男よりもずっと前向きで明るく、行動的で、バイタリティに満ち満ちていて、困難や逆境すらも楽しみに変えて青春を謳歌する…そんな女性だという実感があった。
だからこそあの時、みつねの口からあんな言葉が出てきたのだと思う。きっと他人の助けを借りたくないという彼女なりのプライドが現れたのだろう。
…それに、俺に慰められたってことで傷ついたのかもしれない…。
なんとなく抱き締めていたバスタオルに顔を埋め、景太郎はまた溜息を吐いた。力になるどころか、力すら必要とされないと思うと自分自身が不甲斐なくてならない。ひなた荘の管理人生活にも慣れてきて、少し親しくなったことが友情を暖めたものだと錯覚していたような気にすらなってくる。
でも、それならどうしてここまで胸が焦がれるのだろう。上辺だけの関係なら…管理人と住人というだけの関係であるのなら、どうしてここまで気にかかってしまうのだろう。
もちろん管理人として、住人の健康状態や心理状態は当然気になる。個人個人の生活が保障されるアパートやマンションと違い、ひなた荘は共同生活を前提とした寮なのだ。同じ屋根の下、より良い生活環境を目指して協力し合う者の一人として、やはり景太郎も仲間の不調を見逃すことなどできない。
だとしても…いわれのない暴力まで振るわれては、捨て台詞のひとつも吐いて見捨てることだってできるはずだ。親友どうしの関係にあろうが、その振る舞いにふてくされたとしても、おせっかいまで咎められることはないだろう。
じゃあ、なんで…こんなに悔しいんだろう…
じゃあ、なんで…こんなに寂しいんだろう…
じゃあ、なんで…こんなにせつないんだろう…
「キツネさん…」
指を食い込ませるようにしながらバスタオルを押し抱き、景太郎は溜息の中でその名をつぶやく。
焦れる胸に沸き上がったいくつかの疑問の答えこそ、その呼べば吐息も火照るような響きであった。しかし今はただ胸が締め付けられて、その響きすらもひたすらせつなかった。つづく。
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(updete 2003/07/15)