浦島、抜け!

Sex by Sex(2)

作者/大場愁一郎さん

 

 

 焦燥に包まれた景太郎の想いも虚しく、結局みつねはその日一日を自室に閉じこもって過ごしたようであった。夕食の時間になっても食堂には姿を見せず、食事当番であった景太郎が呼びに行っても返事はなく…他の住人に聞いても、そう言えば今日は姿を見ていない、との共通意見であった。
 そして日付が変わり、やがて東の空が白みはじめ、再びひなた荘の一日が始まる。
 いつものように洗面を済ませ、朝食を取り、外出して行く住人達。しかし今朝になっても、その中にみつねの顔は無かった。夕べ一晩かけても解消し切らなかった景太郎の煩悶は、当事者でなくともいや増したことがわかるだろう。
 もちろん他の住人達も一様に気遣ってはいたが、管理人にして唯一の男性である景太郎の苦悩は目に見えるほどに群を抜いていた。朝の挨拶にも爽快さは無く、危うげな作り笑顔すら時間とともに消失していったくらいだ。ここだけの話、朝食のメニューが何だったかすら覚えていなかったりする。
「はあ…」
 今朝だけでもう二桁を数える溜息を吐き、景太郎はロビーの二人がけソファーに腰を下ろした。脚を開き、ゆったりと背もたれに身体を預けてくつろぐ。
 めいめいに出掛けてゆく住人達を見送ってから、景太郎は浴場の雪かきと清掃に取りかかっていた。ストーブが煌々と焚かれているロビーは冷え切った身体を心地良く迎え入れ、古めかしいながらもすこぶる柔らかいベルベット張りのソファーは疲れ切った身体を優しく癒してくれる。束の間であるとはいえ、溜息に安堵の色が漂ったのはせめてもの救いであろう。
 景太郎は目を閉じ、その安堵感を少しでも多く欲張るようにソファーに預けた腰を前方へとずらしてゆく。浅く腰掛け、もう一度深く息を吐き出せば軽い眠気すら催してきた。前に出た両膝が正面のテーブルにつっかえるが、景太郎は朝刊にも、ワイドテレビのリモコンにも手を伸ばそうとしない。ただ凍えた手の平を温めようと、緩慢な動作ですりすりと擦り合わせるのみだ。
「…どうしよう…身も心も疲れ切ってるのに…」
 胸の真ん中に蓄積した弱音が独語となり、景太郎の唇を震わせる。報われない心が涙を流しているのだろう、まるであてつけるかのような口調ではあったが、その矛先には決して悪意など込められていない。
 ただ景太郎は疲弊しているのだ。ひたすらにみつねのことを思い続け、考え続け…その果てに消耗しきっているだけなのだ。
…キツネさんに会いたいな…
 景太郎は確かに疲弊している。疲弊しきっている。それでも景太郎はそう望んでしまうのであった。
 会って話がしたい。
 話だなんてお堅くなくてもいい、いつものようにおしゃべりがしたい。
 からかわれても、小馬鹿にされても構わないから…ひとつでも多く言葉を交わしたい…。
 そうすることが、きっとみつねの心の慰めになると景太郎は信じていた。最良の気分転換になるとまでは思わないが、少なくとも独りぼっちで悲嘆に暮れているよりは遙かにましに違いない。それだけは確信があった。
「でも…会ってくれなきゃ話になんないんだよな…」
 凍えて感覚の鈍っている両手を合わせ、口許に運んで息を吐きかけざまに…景太郎はもう一度独語する。そのまま顔面を覆ってしまうと、昨日の取り乱したみつねの姿がまぶたの裏側に蘇ってきた。
 頑なに心を閉ざし、独りぼっちを望んだみつね。
 憎悪の念に憑かれた形相となり、苛烈なまでの暴力を振るったみつね。
 しとどに涙を流し、心からの嗚咽を重ねていたみつね…。
 景太郎の自室はみつねの部屋と隣合わせということもあり、少しくらいの声であっても簡単に漏れ聞こえたりする。それでも夕方過ぎからはなんの物音もしなくなっていたことから、あれからみつねは泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
 その気遣いもあったから、夕べは無理に会おうとはしなかった。決して暴力に怯んだからではない。暴力で気分が晴れるのであれば、景太郎はいくらでも彼女の破壊的衝動を受け止める覚悟であった。
 ただ、みつねが独りぼっちを望む限りは強引な介入はタブーだという直感もあった。寂寥のつらさからはなんぴとたりとも逃れることはできないが、一方で一人きりを望んでみたくなる時もあるものだ。
 特に、親しくしている人間に涙を見せたくないという心理は、あながち理解しがたいものではないだろう。それは例えていうならば、いじめられて泣いている子どもが友人にかばわれたり慰められたりすると、ますます泣き止めなくなる理由のひとつに他ならない。
 そしてその理由は、昨日みつねが言い放った言葉が深く象徴している。
「…けーたろのくせに、だもんな…ははは、ちょっぴり悲しいよなぁ…」
 振るわれた拳以上にダメージを受けたみつねの言葉をつぶやき、ふと景太郎は苦笑した。雪かきの時から羽織ったままだったブルゾンを脱ぎ、無下にテーブルの上へと放る。それでもまだトレーナーとシャツを重ね着しているから寒いということはない。
 昨日吐きかけられた言葉はみつねのプライドの現れであったろうが、その言葉は逆に景太郎のプライドをも傷つけていた。景太郎とて一人の男である。ましてやみつねより年上であるから、なめられたという印象はどうにも甘んじがたい。
 ひなた荘に来た当時の自分であれば、今思い出しても我ながら情けない男だったと自嘲できるからわからなくもなかった。自尊心ばかりやたらと高く、そのくせ言動や行動が伴っていなかったあの頃の自分であれば、精神的にもずっと成熟しているみつねに軽んじられたとしても仕方はなかったろう。もしこの状況が当時であれば、きっとみつねに不快感すら与えるほど卑屈な態度をとっていたに違いない。
 それでも今は違う。今では管理人としての責務を少なくとも最低限以上に果たしているという自負があるし…一人の男として、後ろ暗いことは毛頭無いと断言できるほどの誇りすらも感じている。中傷や陰口に惑わされず、信念を貫き通せるだけの意志も身に着けたつもりであった。
…ったく、何をイライラしてんだよ、俺は…
 溜息を溜め込んでいるかのような胸の奥に、苦々しい悔しさが澱んでくる。舌の根本にネットリとしたカラメルがまとわりついてきたような気分だ。
 顔をしかめて舌をよじらせると、昨日したたかに殴られた左の頬がズキンと痛んだ。舌先が殴打の弾みで裂けた傷口に触れたのである。景太郎は夜泣きを始めた赤ん坊をあやすような優しさで、そおっとそおっと舌先で傷口をなだめつつ…左手でもその頬を撫でさすった。頬はまだ少し熱を帯びていて、ヒリヒリと痛い。
 そのとき、ふと何かの外力が景太郎の左手を退け…火照る頬に冷たいものを押し当ててきた。不意を打たれた景太郎の両肩は電気椅子の受刑者よろしくビクンと跳ねる。
「ひゃああっ!?な、な…あ…き、キツネさん…」
「へへへ…あ、あの…おはよ」
「お、おはようございます…」
 驚きのあまりに身をよじり、ソファーから転げ落ちそうになった景太郎は…振り向いた目と鼻の先に会いたいと願っていた女性が立っていたので、無意識下に彼女の名を呼んだ。緑色のビールびんを右手で差し出した格好のまま、名前を呼ばれたみつねはどこかはにかむように朝の挨拶を告げる。景太郎も同様に朝の挨拶を返すが、思いがけない再会の場面にきょとんとなった表情はまさに間抜け面そのものだ。
 昨日と同じ、エンジのタートルネックセーターに黒のソフトジーンズ姿で現れたみつねは何気ない足取りで景太郎の左側に腰を下ろすと、両手にしていた二本のビール瓶をガチャリとテーブルの上に置いた。緑色のびんに赤文字ラベルのビールは、みつねが常日頃愛飲しているハイネケンだ。特に予定のない日には朝昼晩の食事時のみならず、気の向いたときにいつでも自室の冷蔵庫から持ち出し、ラッパであおったりするほどの愛飲家である。
 ロビーででも、この二人がけソファーを横臥して独占し、真正面のワイドテレビを眺めながらグビグビやっていることもある。そのためテーブルの上には切り子の灰皿の横に、小さな栓抜きが常備してあった。
きゅぱっ…きゅぱっ…
 みつねはその栓抜きを右手に摘み、慣れた手つきで二本立て続けに王冠をひっぺがした。そしてまたびんを両手にして、右手にした方を景太郎へと差し出す。
「ほれ、一緒に飲も?」
「…あ、朝からビールですか?」
「い、今さら何ゆうてんねん…ウチの朝メシの、その…て、定番メニューやんか…」
「そ…そうですよね…」
 警戒心の漂う景太郎の問いかけに、意気高揚としていたみつねの表情が翳る。
 景太郎とて、みつねがしょっちゅうアルコールを口にすることくらい既知であったはずなのだ。朝食代わりであろうが迎え酒であろうが、朝っぱらからビールの一本や二本空けている姿など見慣れていたはずなのに…声にはささやかな畏怖と、淡い軽蔑すら混じってしまった。激しい後悔の念が落雷のように景太郎の芯を穿つ。
 覇気のないみつねの表情が、気付かぬ間に遠ざかっていた二人の距離を如実に物語っているような気がして…景太郎は慌てて緑色の瓶を受け取った。しかし受け取っておきながらも、両手は茶道よろしくびんを包み込み、その冷たさ、艶やかさ、重みを確かめるかのようにモジモジとしてしまう。
「…飲みたぁないんか?」
「いっ、いえ、飲みます、飲みますよ…」
「の、飲みたぁないんやったら無理せんときや?ウチ、両方飲むさかい…」
「い、いや…いただきます…」
 景太郎の躊躇う素振りが、みつねの表情になお一層の翳りを広げてゆく。
 戸惑い、狼狽えた景太郎がそう告げてビールを一口飲んだところで、彼はまたしても己の失態に気付いた。
 なぜいつものように、最初から「いただきます」と言えなかったのか。
 酒を振る舞ってくれるときのみつねは、謝辞よりもずっとこの言葉を喜んでくれる。
 食堂でも、景太郎の部屋でも、みつねの部屋でも…この何気ない言葉が笑顔のきっかけとなっていたのだ。そして、一口目を飲み込んだ後に漏らす満足の吐息が、和気あいあいとしたおしゃべりの口火を切らせてくれていたのだ。
 ところが今はどうだろう。一口を飲み終えた後の吐息には満足感など微塵もなく、重苦しい溜息が隠しようもなく漏れ出るのみであった。
 朝の一仕事を終えた後でもあり、本来であれば爽快極まりない瞬間であるはずなのに…後悔に次ぐ後悔の連続で息詰まるような思いだ。爽やかな冷たさも、軽やかな炭酸も、舌に染みる苦味も、ただただ苦痛でしかない。
「…おおきにな、けーたろ…」
「え…?」
 形の良い唇からびんを遠ざけ、一息置いてからみつねはおもむろな口振りでつぶやいた。自責の渦に深く深く飲み込まれそうになっていた景太郎は跳ねるような勢いで頭を上げ、みつねを見る。
 彼女もまた陰鬱な雰囲気に冒されているのか、呼びかけるようにしておきながらもその視線は緑色のびんに注がれたままであった。細まった瞳には普段通りの人なつっこさは無く、どこか思い詰めているような危うさすら漂っている。
「夕べの夜食…あれ、あんたが作ってくれたヤツやろ?ホンマ、ごちそうさま…」
「あ、ああ…食べてくれたんですね、よかった…」
 みつねは相変わらずびんを見つめたまま、淡々とした口調で告げた。その横顔が微かにほころぶのを見て取って、景太郎の声にはようやく安堵の暖かみが加わる。
 昨日、何もかもを拒絶したみつねに対して…景太郎は就寝間際にもうひとつだけおせっかいを焼いた。あり合わせの材料でせめてもの夜食を作ったのだ。
 景太郎にしてみれば、それこそ余計な世話を焼いているのであり、メニューからしてもわざわざ礼を言われるほどのものではないと思っている。梅干し入りのおにぎりが二つと卵焼き、軽く塩をふって炒めたソーセージと、それとたくあんが二切れ。小学生でも容易く用意できそうなメニューであるから、ビールを振る舞ってまで礼を言われるとどうにも面映ゆくなってしまう。
 とはいえ、その照れくささは決して居心地の悪いものではない。みつねの横顔がわずかにほころんでいるのも、夕べの夜食が不味くはなかったことの…むしろ美味しかったことの証であろう。障子戸の向こうから呼びかけても返事が無かったため、やむなく廊下に置き去りにしたのだが、恐らく食べてはもらえないだろうと諦め半分でいたこともある。そのぶんみつねの微笑が雲間から覗いた陽光のように見えて、景太郎の表情も自ずと緩んだ。ストーブで温められているロビーの空気が、本来の軽さを取り戻したかのような気分であった。
「でも…キツネさん、よく俺が作ったってわかりましたね?」
「そりゃあわかるわ。だってあんたの作る卵焼き、メチャクチャ甘いんやもん」
「あ…ご、ごめんなさい、砂糖入れ過ぎちゃったかな…何やってんだろ、俺…」
「いや、そ、そんなつもりで言うたんとちゃうねんけど…」
 和んだ気持ちに任せ、景太郎は世間話代わりにと何気ない質問をぶつけてみた。みつねは今度こそ、その細まった瞳で景太郎を見つめながら揶揄するような口調で答える。
 しかしその返答は過敏になり過ぎている男心に無理があった。景太郎は自嘲しながら力無くうなだれてしまい、それを取り繕おうとしたみつねもまた、かけるべき言葉を見失ってしょんぼりとうつむく。再びロビーに沈黙が訪れ、空気が重みを増してくるのを二人は肌で感じていた。たまらなく居心地が悪い。
「…ごめんな」
「い、いえ、いいんです…こ、今度は上手く作るから…醤油を多めにして…」
「た、卵焼きとちゃうねん…昨日の…その、あんたにしたこと…」
「あ…」
 些細な会話のすれ違いを振り払うように、みつねは確とした声でそう告げると…上体ごと景太郎に向き直り、右手で彼の頬に触れた。ビールびんの結露に濡れ、微かに冷えた指先に左頬の火照りは熱いほどであり、みつねはいたたまれなくなって唇を噛み締める。
 景太郎がわずかに声を漏らしたのも、はじめはその指先の冷たさによる驚きゆえであった。そのなよやかな指がやがて四本揃って並び、慈しむように撫でてくるにつれ言葉は詰まり…代わりに心地良い吐息が唇の隙間から漏れ出る。
 景太郎はみつねの右手が繰り出す優しい愛撫と、目と鼻の先にある彼女の沈痛な面持ちに心を奪われていた。
 労るように撫でさすってくるみつねの右手が、昨日あれほどまでに苛烈な暴力を振るった右手と同じものなのか…。慈愛に満ちた眼差しを向けている瞳が、殺意すらこもった睥睨を射てきた瞳と同じものなのか…。
 そう思えば思うほど、景太郎はみつねの愛撫に、そして眼差しに浸ってゆくのであった。まどろむように瞳が細まってゆくのがわかる。猛獣のように凶暴なみつねと、聖母のように優しいみつね…それら今までに見たことの無いみつねの両極端な姿に、景太郎の心は激しく揺れ動いた。きゅううっ…と胸の内側が窮屈になってくる。
「めっちゃ腫れとるやんか…痛かったろ…」
「そんなことない…って言っても説得力ないですよね。正直、すごい痛かったです…」
「そっか…あかんなぁ。凶暴な性格、いつまでたっても治らへん…」
「…キツネさんって、そんなにおっかない人だったんですか?」
「ふふふ…今はもうちゃうと思とったんやけどなぁ…」
 見つめ合い、交錯した視線に景太郎もみつねも照れくさいほどのぬくもりを感じ取ると、お互い胸の奥から素直な言葉が紡ぎ出されてきた。その言葉達は自然な吐息のままに何気ないおしゃべりとなり…何気ないおしゃべりを交わせ、ば懐かしいと思えるほどの微笑が浮かんでくる。
 幼さの残る顔立ちの景太郎が柔和に微笑むと、ささやかに生じるえくぼも手伝って、実にかわいらしい印象を見た者に植え付ける。景太郎が他人に好かれやすいのは、このあどけない笑顔に寄るところも大きい。
 しかしそのまばゆいほどの微笑も、今は赤く腫れた左頬が著しくかわいらしさを損ねている。みつねは自嘲めいた苦笑を口の端に浮かべつつ、その頬を右手ですっぽり包み込んだ。五本の指と手の平は柔らかく、暖かく、そして優しく…景太郎はヒリヒリとした痛みを覚えながらも、くすぐったい笑みを抑えきれない。
「…昨日まで付き合っとった男、背も高かったしケンカも強かったし、それでいて仕事もようやってな、めっちゃカッコええヤツやったんやで」
 ひとしきり景太郎の頬を撫でると、みつねは再び身を戻してソファーの背もたれに身を預けた。ゆったりと腰掛けたままビールを一口飲み、回想するように目を閉じてそうつぶやく。
 愚痴半分、景太郎に聞いてもらいたくてそうしたのだが…まだ心のどこかで未練が残っているのか、みつねは言葉の最後で小さく唇を噛み締めた。それに気付いた景太郎の胸に、どこか異質な物寂しさが漂う。
「…すごいな、そういうところはあやかりたいなぁ」
「ホンマやな。そんなとこだけ爪の垢煎じて、あんたに一升ほど飲ませてやりたいわ」
「わっ、悪かったですねえ!どうせ俺にはなんの取り柄もありませんよっ!」
「ああん、冗談や冗談!怒らんといてぇな…」
 ある程度の間を置いてから、景太郎は続きを促すように相づちを打ったが…みつねはその言葉を揶揄して笑った。徐々にいつもの調子を取り戻しつつあるみつねに安心しながらも、そうはっきり言われると景太郎としてもふてくされずにはいられない。みつねはそっぽを向いてビールをあおる景太郎に身を寄せ、彼の太ももに右手を置いてなだめにかかる。
 それは今さらどうということもない接触であり、たわいもないスキンシップではあるものの…なぜか景太郎はみつねのぬくもりを過剰に意識してしまった。酔った勢いで抱きつかれたり、頬にキスされたことだって何度もあるというのに…少しずつみつねの秘密を知りつつある今では、どうしようもなくみつねに女性を感じてしまう。性差を意識させない友達としての認識が揺らいできているような気がして、思わず反論の言葉も飲み込んでしまった。ビールの影響もあってか、やけに身体が熱い。
 そんな景太郎の様子に気付いた風でもなく、みつねは彼に並んで寄りかかったまま再び口を開いた。両手はそっとビールのびんを包み込み、腰の上で落ち着く。
「…ウチな、アイツのそんなトコを男らしいって感じて惹かれとったんや。今まで付き合うてきた男にも、ずうっとそんな性格求めてきたし…ちゅうのもな…」
 そこまで告げると、みつねはどこか思い詰めるように目を伏せた。寄り添っている景太郎に聞こえてしまうのも構わず、深い溜息を吐く。
 ゆっくりと憧憬を整理してからまぶたを開いたとき、みつねの素顔には想い出を懐かしむような、それでいながら自嘲するかのような苦笑いが浮かんでいた。くすっ、と頬を緩めてからビールを一口、言葉を続ける。
「…初めは瀬田のヤローやったんや」
 昨日もみつねは口にしていたが…瀬田という名前には景太郎も聞き覚えがあった。かつてはひなた荘の住人達と深く関わっていたこともある、若くして世界を旅して回る考古学者のことだ。
 とはいえ、景太郎はひとまずだんまりを決め込み…余計な相槌を控えておくことにした。それでも言葉の続きが…みつねの独白の続きが気になって仕方がない。ビールをちびりとあおってみては、意味もなく舌なめずりして時の経過を待つ。
「…でもあんにゃろ…ある日突然、一言も無しにおらんなって…。その時からウチ、変わっていったんや。きっとアイツの面影を探し回っとったんやろぉな。色んな男と付き合って、色んなコト経験して、色んなコト覚えて…ふふっ、昨日みたいに他人に迷惑もかけまくったしな。実際、誰も手が着けられんほど荒れとったし…」
「き、キツネさんが…?」
「ウソとちゃうで?ホンマにデタラメばっかやっとった。気に入らんことがあったらすぐにケンカして警察沙汰や。タバコも酒も、今とは比べモンにならんくらいやっとったしな。もちろん未成年、華の高校生時代にやで?信じられん女やろ?」
 言葉を区切ると、みつねは行儀悪くソファーに片膝を立てて景太郎を振り仰いだ。
 そんなしぐさも、反応を楽しみにしているような人なつっこい微笑も、すべて彼女なりの照れ隠しであることくらい景太郎でなくとも察することができるだろう。景太郎はなおも口を挟むことなく、愛らしく細まったみつねの瞳をただ真っ直ぐに見つめ返した。
…やっぱり…キツネさんは誰よりも寂しがり屋なひとだったんだ…
 景太郎は自身の洞察に確信を抱いていた。みつねは人一倍寂しがり屋で甘えんぼで、常に誰かに優しくしてもらっていないと落ち着けない性分だったのだ。
 実際、みつねは思春期を迎えてから今日まで、物苦しいほどの愛欲に翻弄されどおしの人生を送ってきている。
 思春期のさなかに瀬田と出会い、生まれて初めて恋の素晴らしさを覚えた。
 そして最初の恋を失い、心の中に生じるがらんどうへの不安を覚えた。
 そんな苦い初恋が、今のみつねの性格を決定したのであろう。思春期のみつねにとって、瀬田への恋はそれほど革命的な出来事だったのだ。
 高校生だった当時、みつねは瀬田が姿を消した寂しさをごまかすために何人もの男と恋愛を重ねてきた。付き合っては別れ、付き合っては別れ…しかも心の奥底では瀬田の代役を求めていたのだろう、少なくとも五つは年上の男とばかり付き合ってきたのだ。
 高校生のみつねより五つ以上も年上となると、どうしても相手は二十歳を過ぎた男性に限られてしまう。必然的に酒を覚え、タバコを覚え、賭事を覚え、セックスを覚え…次第に生活が荒んでいくとケンカも覚えた。ひなた荘の住人にもどれだけ迷惑をかけたか、枚挙にいとまがないくらいである。
 それでもどうにかこうにか高校を卒業した矢先、昨日まで付き合っていた男と出会うことができた。これが彼女にとって二度目の革命となったのだ。
 七つ年上であった彼は今までの恋愛経験はもちろん、瀬田の面影すら忘れさせてくれるほど優しく、楽しく、そして頼もしく…みつねは無我夢中で彼を愛した。彼もまたそれに応えてくれた。実際、彼と日々を過ごすうちに荒んだ生活も改まり、みつねは元の明るい女性に立ち直ることができたのである。
…穏やかな幸せに包まれながら、いつかは彼と結ばれたい…
 そんな、ひなた荘の住人の前では絶対に口にしない憧れすら抱いていたほどだ。
 しかし、そんな恋も…まるで、ワクワクするほど膨らみ続けたシャボン玉が思いがけないタイミングで弾けたようにあっけなく終わってしまった。
 寂しがり屋であるぶん、誰にも負けないくらい一途に尽くしてきたというのに…その男はまるでチューインガムよろしく、みつねが一心に注いできた愛情を延々と噛み捨てていたのだ。虚飾の愛情を差し出し、許されざる背信行為でみつねの乙女心を慰みものにしていたのだ。
 みつねの心痛たるや、瀬田が姿を消したとき以上のものであろう。それくらいは景太郎でも十分汲み取ることができる。
「…ウチ…もうこんなんいやや…」
 にわかに表情を潜め、うつむいて…みつねが吐き出した言葉がそれであった。その声には日頃の溌剌とした気配はなく、意気も覇気も失った心からの弱音となっていた。少しでも油断すれば、飲みかけのビールを床に取り落としかねない儚ささえ漂っている。
「なんで…なんでウチがこんな目に遭わなあかんねん…。ウチ、なんか悪いことでもしとったか?確かにまっとうな生活は送ってきとらんし、今でも送っとらんと思う。せやけど…せやけど、なんで今までで一番好きになった男に…あんのクソッタレがっ…今頃はあの女と入院でもしとるんやろーけど、まだ腹の虫がおさまらへん…めっちゃムカつくわ…」
「にゅ、入院って…」
「ちょうど鉢合わせしてな…まずヤツをガラスの灰皿…そこのテーブルの上にあるのと同じくらいのヤツや。それで三、四回ガツーンとやってから…ははは、女は無関係やって思ぉてたんやけど、あんまりナメた口利きよったさかいボコボコにしてもた…ちっ…」
 苛立つような早口でまくしたてる言葉は、みつね自身も気付いていない愚痴。そして、赤い糸の伝説を唾棄せんとする呪詛。
 少しでも雰囲気を和らげようと、景太郎の相槌におどけを交えながら答えてはみたが…微かに上擦り、揺らぐ声はもはや抑えようがなかった。剣呑な話題に自嘲や怖気はあれど、和みようなどあるはずもない。
 うつむいたままのみつねは忌々しげに舌打ちひとつ、微かに肩を震わせ始めた。右手はいつしかビールのびんを強く握りしめ、ともすれば握り砕いてしまいそうな気配を伴ってわなないてくる。
 もはやみつねはボロボロであった。
 人寂しさと人恋しさに任せ、景太郎を捕まえて愚痴の聞き役をさせたまではよかったものの、それはかえって失恋の痛手を…そして忌々しい過去の記憶を思い出す結果となってしまった。自業自得となじられようとも、悲劇のヒロインぶっていると嘲笑されようとも、今はただ自身が惨めでならない。
「はあぁっ…はあぁっ…くそっ…くっ…はぁ、はぁ…はあぁっ…」
 その場所はやはり、心の在処なのだろう。みつねは胸の真ん中に耐え難いほどの疼痛を覚えていた。ジクジクと痛むたび、肺腑の底からは繰り返して嗚咽感が込み上げてくる。
 陰鬱な気分をごまかすため、懸命に溜息を重ねるみつねであったが…ふと、そんな彼女の左肩に小さなぬくもりが宿った。
 おそるおそるのような小さなぬくもりは、やがて意を決したように大きくなり、そして少しずつ外圧を加え…
…ぎゅっ
「あっ…」
「…大丈夫。大丈夫ですよ、キツネさん…」
 じっとみつねの言葉を噛み締めていた景太郎は、持ち合わせている男気のすべてに触発され…彼女の肩を強く抱き寄せた。そのままセーターごしの二の腕を繰り返し繰り返し丁寧に撫で、意気消沈して萎縮しきったみつねを暖めようとする。
「キツネさんなら大丈夫ですっ。泣いちゃうくらい人を好きになれるんですから、その気持ちを捧げてもらえたなら誰だって嬉しいだろうし…な、なによりキツネさんは面倒見がいいひとだし、きっと尽くすタイプだろうから男が放っておきませんよ…た、たぶん…」
 慎重に言葉を選びはしたが、景太郎の発言は実に根拠のないものになってしまった。そのため頼もしい力でみつねを抱き寄せているにもかかわらず、やや紅潮ぎみの童顔は明後日の方角を向いていたりする。これでは説得力のかけらもない。
 それでも、悲嘆に暮れるみつねの肩を抱き寄せたのは、決して下心あってのことではなかった。やましい気持ちに駆られてのことではなかった。
 純粋に男として…たとえ慣れないことであったとしても、強く抱き寄せてぬくもりを分け与えることこそが特効薬であると感じ取ったからだ。もしそうできない者がいたとしたら、そいつはただの腑抜けであろう。無難な言葉を駆使し、うわべだけの馴れ合いでその場をやり過ごそうとする弱虫に違いない。
「だ、だからっ…んぐっ、んぐっ、んぐっ…ぷぁ…げ、元気を出してくださいよっ!いつまでもクヨクヨしてるなんて、キツネさんらしくないですよっ!い、いつもの調子で俺をバカにしてくださいよっ!景太郎のくせにって…!!」
「…」
「いや…だから、その…」
 飲みかけのビールを一息に飲み干し、それを気付け代わりとして、景太郎は精一杯の想いを抱き寄せたままのみつねにぶつけた。しかしほろ酔い状態で気分も高揚していたためか、想いをこめたつもりのエールは無理と、無茶と、無責任と、そしてささやかな自虐を内包したでたらめ言葉になってしまう。
 いつにない大声で言い放っておいてから、景太郎はみつねのきょとんとしたまなざしに気付き…たちまち羞恥極まって深くうなだれた。まさに自爆である。アルコールの力も借りて、思い切り助走を付けたはずの気持ちは見事に空回りしてしまい、もう気まずいことこのうえない。こっそりとした手つきで空になったビールのびんをテーブルに置いたのだが、そのときにもいつもの癖である意味のない謝辞が口をついて出そうになったほどだ。
「け、結局ね、オレが言いたいのは…」
 景太郎は抱き寄せたままのみつねの肩に少々強引な力を加え、先ほどのしきり直しよろしく言葉を続けた。頬を火照らせ、鼻の頭に汗まで浮かべている景太郎に抱かれてみつねは身じろぎひとつしない。じっと彼の真摯な横顔を見守る。
「キツネさんの気が済むんなら…も、もちろんできる範囲でだけど、俺はなんだってするよ?愚痴の相手になれってんなら一晩中だって付き合うっ。酒をおごれってんなら…さ、さっきも言ったけど、可能な限りごちそうするっ。あと、えっと…さ、サンドバッグになれってんなら好きなだけぶってかまわないから…ほら、俺って打たれ強いし!」
「けーたろ…」
「だからっ…ね、頑張って気持ち、変えましょうよ!俺でよかったら…いや、俺、キツネさんの力になりたいからっ!!」
「あんた…」
「そ、外は雪でいっぱいだけどさ、まだ朝も早いでしょ!?今日一日使えば色んなコトできるじゃないですか!オレもここんとこ勉強続きだったしさ、一緒になんか気分転換しましょう!なんだって付き合いますから!ねっ?ねっ!?」
 弾むような口調で一気に言い終える頃には、景太郎は真っ直ぐにみつねを見つめていた。本心をあるがままぶちまけられたことが清々しく、メガネの奥の瞳は自信に満ちた輝きを放っている。
 酔いに任せた開き直り…という意識も無いわけではないが、かえってその爽快感が気取りもてらいもきれいに払拭していた。胸に漲ってくるワクワクとした高揚感がなんとも心地良い。
 これでもう少しだけアルコールが回っていたら、このままみつねの手を取って雪の積もった中庭に飛び出して行くところだ。嫌がるところを無理矢理雪合戦に付き合わせ、ヘトヘトになるまでバカを楽しめば…きっといくらかは気が晴れると思う。いくらかは表情が柔らかくなると思う。いくらかは声に張りが出てくると思う。
すっ…
 そんな景太郎の申し出を遮るように、みつねは抱き寄せていた彼の左手を右手でそっと押し返した。好意を辞退することに詫びるような、どこかいたたまれない微笑を景太郎に向けつつ力無くつぶやく。
「もう、ええねん…」
 みつねがつぶやいた言葉は、極めてシンプルなものであった。極めてシンプルなものであったからこそ、ロビーの閑散とした時間が矢庭に際だつ。
 その声音はすべてをあきらめるような、すべてを終わらせるような絶望感に満ちていた。表情こそ確かに微笑をかたどってはいたが、その一言がもう取り返しの付けようがない絶望に裏打ちされていることは景太郎にもわかる。景太郎はザワザワとした胸騒ぎを覚えながら、みつねの言葉の続きを待った。
「思えばひなばーさんにも、はるかさんにも、なるにも腹一杯迷惑かけてきたし…本気で惚れ込んだ男には裏切られるし…で、昨日はあんたにまで嫌な思いさせてしもぉた。今やって管理人の仕事と関係ないことで気ぃ使わせとる。せやから…」
「キツネさん…」
「…せやから、ウチはもうここを出る。ひなた荘を出ることにする」
「なっ…」
 そう言うとみつねは残りのビールを一息にあおり、うなだれながら深く溜息を吐いた。景太郎の方へはチラリとも視線を向けず、ただ黙って緑の瓶の飲み口を見つめ続けるのみである。
 みつねの唐突な言葉を受けて、景太郎もさすがに平静を保ってはいられなかった。眼鏡の奥の瞳を見開き、声も詰まらせる。みつねの言葉の意味を胸の奥で反芻すると、真剣な表情はむしろ沈痛なものへと色が変わってゆく。
「ちょうどええタイミングやからな、今日、明日の間に荷物まとめるわ。晩にでも退寮手続きするさかい…」
「ちょ、な、何を言い出すんですかっ、キツネさん!変な冗談は…」
「冗談なんかやないっ…これ以上ここにおっても惨めになるだけや…。ホンマやったら、あんたにももう合わせる顔なんてあらへんのに…」
 早々に退寮の話を進めようとするみつねに景太郎は狼狽えるものの、彼女は考えを翻そうとはしない。
 これは一晩部屋に引きこもった果てに辿り着いた、みつねなりのけじめなのだ。ひなた荘での様々な記憶を丸ごと捨て去り、どこか違う土地で自適に暮らす青写真は、泣き濡れた瞳の奥で薄ぼんやりと焼き上がっているのである。
 それは住人にかけた迷惑、そして管理人に追わせた心労からの逃避ともいえるだろう。しかしそう後ろ指を指されようとも、みつねはこれ以上、このひなた荘にいることが耐えられなくなってきたのだ。思いのまま好き勝手に振る舞い、それでなおかつ平然と居座っていられるほど面の皮は厚くないつもりだし…なにより景太郎の顔を見てしまうと、どうしても昨日まで付き合っていた男の記憶が蘇ってきて心がささくれ立つのである。
 みつね自身、昨日の景太郎に対する暴挙はひなた荘へ来て以来最悪のトラブルだと実感していた。まさにこれこそが彼女にひなた荘退寮を決意させたきっかけなのだ。
 だからこそ…この退寮を最後の好き勝手にするつもりだし、ぜひそうさせてほしいのであった。
 必死に取りなそうとする景太郎の声を遮るよう、みつねは幾分早口につぶやいたが…その顔は厭世の想いと、惨めな自分自身への嘲りで引きつっている。やけっぱち半分に歪んだ微笑のようにも見えるのは、陰鬱な場の雰囲気を笑い飛ばし、景太郎に有無を言わせぬよう悪あがきしているからだ。
 彼女の活力源たるアルコールも、この寒々とした二人きりのロビーではひたすらに意気消沈を招く毒薬以外のなにものにもならなかった。みつねは自嘲半分、決意を揺るぎないものにしようとさらに言葉を続ける。
「…こんなだめな女、もうずうっと独りぼっちでおったらええねん。そうすれば誰にも迷惑かけへんし、嫌な思いもせんで済む。ウチにはきっと、それが一番なんや…」
 真冬の曇り空を思わせるような溜息とともにつぶやくと、みつねは空になったハイネケンのビンをテーブルの上に置いた。コトン、とわざとらしく音立てて置いたのは、これが結論であることを景太郎に強く印象づけさせるためでもあり…自分自身にそう宣告して納得させるためでもある。
 だが、静まりかえったロビーにひとつだけ鼻をすする音まで響かせたのはやや誤算であったのだろう。みつねは気まずそうに視線を泳がせ、右手で鼻の下を擦った。
「…違うんでしょ?」
「え…?」
 景太郎の言葉の意味を理解できず、みつねは思わずうつむいていた顔を上げる。
 景太郎は極めて寂しげに見える儚い笑みを浮かべ、みつねを見つめていた。
 とはいえ、その表情は嘆きや怒りの感情で醜く歪んでいるわけではない。大きな慈愛の想いに満ちた、どこまでも優しい顔だった。ソファーに腰掛けたまま背筋を伸ばし、きちんと上体をみつねの方に向けているところからも、彼の想いにはひとかけらの疑念すら無いことがわかるだろう。今の景太郎は文字通り、誠心誠意でみつねに対峙しているのであった。
「…そんなこと言うために、ビール持ってきたわけじゃないんでしょ?」
「うぅ…」
「…せっかくのビールに悪いですよ。いつも俺達、美味しいお酒飲んできたじゃないですか。キツネさんは自棄酒なんてしないのが信条だったはずでしょう?」
「…」
ふわっ…
 穏やかながらも頼もしい口調で景太郎に諭され、みつねは無言のままコクンとうなづいた。そのままふらりと倒れ込むよう景太郎に寄りかかり、身を委ねてしまう。うつむいた顔をトレーナーに預けると、左手は人肌のぬくもりを探るよう景太郎の右脚に触れる。
「ウチ…ウチな、あんたにお礼言うつもりやってん…。慰めてもろたり、励ましてもろたり…晩飯やって用意してもろて、メチャクチャ嬉しかったさかい…」
「お礼はさっき聞きましたよ。別に俺、そんなたいしたことしたわけじゃないです」
「それと…それと、あんたに謝らなあかんかったから…。せっかくあんたが気ぃ使ぉてくれとったんに、ウチはあんたにひどいこと言うて…ひどいことしてっ…」
「…それだってもう謝ったでしょ?俺はもう気にしてませんから…」
 一言一言弁解でもするかのような口調でつぶやきながら、みつねは顔を埋めた景太郎の胸の中でどんどん萎縮していった。上擦った声は危なっかしく揺らぎ、小さくなった肩や背中は雷鳴に怯える子犬のようにブルブルと震えてきている。その様子は己の犯した罪の深さに恐れおののき、狼狽を極めた子どものようであった。
 そんなみつねを追いつめることも、あるいはおどけて受け流すこともせず…景太郎はただまっすぐにみつねの想いを受け止めていった。素直な言葉のひとつひとつにしっかりとうなづき、身体で気持ちを伝えようとする。
「…そのあとでな?軽ぅくビールでもあおって、愚痴やら恨み言やらの相手してもらおうと思ぉとったんや…で、最後に…」
「…最後に?」
「あんた…あんたの側で泣かせてもらいたかったんや…独りぼっちはもういややから…」
 おどけるよう若干早口になったのも束の間…みつねはとうとう本音を口にし、声を涙で濡らした。景太郎の太ももに添えた左手に力がこもり、デニムの生地をそっと引っ掻く。
 そのデニム地にポタリと雫が一粒落ちると、みつねは頬摺りするよう、なお一層強く景太郎の胸に顔を預けた。もはや吐息も不規則に震え、嗚咽が混じってきている。
ぎゅうっ…
 そんなみつねを…景太郎は無我夢中の力で、強く強く抱き寄せた。茶髪の頭に鼻先を埋め、小さくなった背中丸ごとゆったりと抱き込む。セーター越しの背中を撫でさするように確かめれば、その両手にはなお一層の力がこもっていった。
 その景太郎らしからぬ大胆な振る舞いは、みつねの求めるぬくもりごと想いを伝えようとする心からの抱擁であった。
 景太郎もまたひとりの男であるから、大切な女性を支えたいという衝動は男としての本能のひとつとして当然持ち合わせている。野獣の気高さと優しさと、少しばかりの遠慮の無さを兼ね備えたその衝動は…ひとたび発露してしまえば、世界を独り占めできそうな気になるほどの高揚を覚えさせてくれるものだ。たとえ景太郎のように、普段から平和主義で、博愛主義な男であったとしても…。
 だからこそ、景太郎はみつねを…想い続けて止むことのできない女性を抱き締めたのだ。胸焦がれるほどのせつない溜息に急かされるまま、理性が本能にねじ伏せられたのだ。
 ただひたすらに愛おしい…。
 そう思える女を抱き締められない男はただの臆病者だ。心の枷をすべて解き放ち、一切をさらけ出そうとしている女のための場所を用意できない男はただの軟弱者だ。
 そんな男になるつもりは景太郎になかった。少なくともみつねの前ではそうなりたくなかった。男心が胸の真ん中で熱く奮える。
「ごめんね、キツネさん…」
「な、なんであんたが謝んねんっ…」
「だて、一晩つらい思いさせちゃったから…。昨日、何度殴られても逃げ出すべきじゃなかった。最初から無理にでもこうしてればよかったのに…本当にごめんなさい。俺、やっぱり弱い男だよね…ごめん…ごめんね、キツネさんっ…」
 みつねの涙声に、景太郎はせつない胸騒ぎを覚え…いたたまれないほどの溜息とともにそううめいた。本能のまま、繰り返し彼女の名を呼び、そして詫びる。
 ひたむきなまでの想いはさらなる腕力となり、景太郎になお強くみつねを抱き締めさせた。震える指でセーターをひっつかむように抱き締めながら、そのまま静かに目を閉じ…この先のすべてをみつねに委ねてしまう。このありったけの腕力が景太郎の気持ちのすべてであったからだ。
 そんな景太郎の前で…みつねは一切の気取りもてらいも放棄した。至上の安息を望む心は彼女の吐息を…そして涙腺を狂おしく震わせる。
「うっ、うううっ…うわあああああっ!!あああああああっ…!!」
 一転にわかにかき曇り、叩き付けるような豪雨が訪れたように…みつねは泣き出した。
 上体を支えていた右手で景太郎のトレーナーの裾をつかみ、その手にありったけの力を込め、声を限りに泣く。ロビーはおろか、ひなた荘本館全域へと悲痛に響くその泣き声は昨日よりもずっと盛大で、遠慮無く…あらゆる憂いを涙とともに流し切らんとしているかのようであった。
「キツネさん、いいよ…今ならもう好きなだけ泣けるでしょ…?俺はずっとこうしてる。キツネさんが嫌だって言うまで…ずっと、ずうっとこうしてるっ…」
「あううっ、うぐっ、ううっ…ふぁ、ふぁあああああっ…!!あああああっ…!!」
 景太郎が優しくささやきかけながら、左手でセーターごしの背中を撫でさすると…みつねはしばし息継ぎした後で再びしゃくり上げ、あらためて正面からすがりついてきた。景太郎の背中に両手をまわし、右の肩口へ顔を埋めるようにすがりついてわんわんと泣きじゃくる。
 二人ともソファーに腰かけたままではあったが、いつしか上体は互いを求めるよう真っ直ぐに抱き合う格好となった。
 女性としての膨らみを押しつけてしまうのも厭わぬようで、みつねが景太郎にすがりついている力は彼に負けないだけ…むしろ圧倒的なほどのものであった。
 その力のわりに、みつねの身体は驚くほどに小さい。グラマラスな外見とは裏腹に、抱き心地は意外なくらい華奢なのだ。すっぽり包み込むように抱き締めて、景太郎は初めてそれに気付いた。
 声を上げて泣きじゃくり、打ち震えていることも多分に影響してはいるのだろうが…今のみつねはあまりに儚げで、どうしようもなく保護欲が掻き立てられてしまう。景太郎は心持ちうつむくと、右手で抱き寄せているみつねの頭にそっと頬摺りした。意識が理性をそっちのけに、積極的なスキンシップを望んでいるのである。
 スキンシップは子どもをあやす手段として大変有効なものであるが、これはなにも子どもだけにいえる話ではない。心身ともに成長を遂げていても、例えば手をつないだり、抱き合ったり、頬摺りしたり、あるいはキスしたり…それだけでさざめく心はなだめられ、心地よい安息感を得ることができるのだ。それはまさに潜在意識レベルでの欲求であり、制御しようとすれば相当な精神力を必要とするのである。
 そういった意味では、今の景太郎にはそれだけの精神的余裕はなかった。吐息も火照らんばかりの愛おしさに胸中が占拠されている今、景太郎の右手はらしくもない大胆さでみつねの髪に触れる。そのまま後頭部からうなじにかけてを繰り返し繰り返し撫で下ろすが…手の平に込められた慈しみからも、それはもはや愛撫と呼んで差し支えのないものであった。
「キツネさん…キツネさん…キツネさんっ…」
「あううっ!ううっ、ううう…ううううう…ふぅううう…!」
 景太郎にはもちろん悪気など無いのだが…耳元で名前を呼ばれながら頭を撫でられ、みつねは照れくささと嬉しさをない交ぜにしてしまった。イヤイヤしながらむずがるものの、結局はその心地よさを受け入れてしまう。じっと抱擁に身を委ねたまま、先ほどより少しだけ声のトーンを落として嗚咽にむせいだ。
 すがりついている両手は景太郎の肩胛骨の辺りをまさぐり、さらにさらに密着の度合いを高めてゆく。今までこのひなた荘で、常に余裕ありげに振る舞ってきたみつねではあったが…その裏では弱音を許してもらえる場所を求めていたのだ。涙を受け止めてもらえる場所を求めていたのだ。
 すがりついて泣きじゃくるみつねと、抱き寄せて涙を受け止め続ける景太郎。
 こうしてぴったりと身体を合わせている二人は、互いのぬくもりの中から少しずつ安堵を見いだしていった。とくん、とくん、とくん…と規則的な心音まで同調してくると、暖かな一体感も増幅されて、やがて幸福感が胸中に広がってくる。鬱々たる心の澱みも洗い清められてゆく心地であった。肌に触れる空気すらも、先ほどまでの緊張感はどこへやら、どことなくまろやかに感じられる。
 そんな柔らかな雰囲気に浸り、どちらからともなく甘やかな溜息を漏らす頃には…もうみつねの沈痛なすすり泣きは止んでいた。むしろきつく抱き締め合い、甘えるように髪を触れ合わせることが妙にくすぐったく、お互い表情もやんわりと和んでくる。

つづく。

 

 


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(updete 2003/07/15)