浦島、抜け!

Sex by Sex(3)

作者/大場愁一郎さん

 

 

 愛おしい…。
 右肩に熱い湿り気を覚えながら、景太郎は胸の奥に水琴窟の音が響き渡るごとく、そんな感情を抱いていた。
 客観的に見れば、その感情は実に安直で単純で、ともすれば身勝手にも思えるかも知れない。しかしこの安らいだ雰囲気にそう感じてしまうのは、思春期を迎えている男女であれば至極当前のことだ。別に錯覚でも思い上がりでもない。
「…落ち着けました?」
「ひくっ…もうちょっと、このまま…ひくっ…」
 泣き声が止んでからも、景太郎はただ黙ってみつねを抱き締めていたのだが…やがて頃合いを見計らって問いかけると、彼女は身を寄せたままそう言った。小さなしゃくりあげを聞き逃すことなく、景太郎は左手で彼女の背中を優しく撫でる。
 ささやかな労りではあったが、みつねはそれだけでもずいぶんと呼吸が楽になった。心ゆくまで泣きじゃくり、何度もしゃくり上げて疲弊しきった身に景太郎の気遣いはすこぶるありがたく…みつねは彼の抱擁を堪能するように寄り添いながら、ゆったりと肺腑の隅々へと酸素を送り込んでいった。
チチチ…チュ、チュ、チュ…
 冬晴れの日差しが差し込む窓辺から、雀の鳴き声が聞こえてくる。
 閑散としたロビーに穏やかな時の流れが戻ってきても、二人は密着を解こうとはしなかった。互いのぬくもり、鼓動、匂い、息遣い…それらすべてを逐一確かめているかのようなおとなしさで、しっかと抱き合ったまま物静かな一時を過ごしてゆく。
 もしここで腕を解いてしまったら、普段以上に寒さを覚えてしまいそうで…。
 もしここで腕を解いてしまったら、普段以上に寒さを覚えさせてしまいそうで…。
 だからこそ、景太郎もみつねもしばしの怠惰に酔いしれているのだ。時間を忘れ、言葉を忘れ、気取りもてらいも忘れて…疲弊しきった心に潤いを満たす。その瑞々しい感動は、まるで温泉に身を浸しているかのように熱く身体の芯へと伝わってきた。
 とはいえその感動は、互いを親友としてみていた二人には戸惑いを禁じ得ないものである。それでも今は、理性よりも本能が暖かな心地良さを欲していた。手放すことを潔しとしなかった。少しでも…一秒でも長く抱き合っていたいと切望していた。
 そんな本能からの欲求を無理に押し殺す必要など、もうどこにもない。とすれば求めるものに触れている今、あえてそれを手放すことは愚行以外のなにものでもないだろう。それができるとすれば、自分自身すらも欺き通せる希代の大嘘つきになれるに違いない。
「ふ…ふふっ…けーたろのくせに…」
 夢現で漏らす独語ほどの声音で、みつねは昨日景太郎に吐き捨てた言葉を繰り返した。
 しかしそうつぶやいておきながら両手を解こうとせず、むしろ甘えかかるようにすがりついているあたり、胸に抱いている想いは昨日までのものとはまるきり性質を異にしているようだ。景太郎も身じろぎひとつすることなく、みつねを抱き寄せたまま言葉の続きを待つ。
「けーたろのくせに…なんてええ抱かれ心地やねん…」
 やや早口でそうつぶやいた後で、みつねはようやく景太郎の肩口から顔を浮かせた。
 それでもすぐに面を上げることはなく、うつむいたまま片手でぐしぐし涙と鼻水を拭う。思い切り泣き声を聞かせてしまったとはいえ、さすがに泣き濡れてだらしない顔を見せてしまうのは抵抗があるのだ。
「…はは、あはは…あぁ…え、えらいとこ見せてもぉたなぁ…」
「キツネさん…」
 ひとしきり目元から鼻の下からを拭い、やがて納得できてから…みつねはおもむろに面を上げ、照れ隠し半分で笑いかけた。両の瞳は泣き腫らしてこそいるものの、火照った頬を緩めてしまえば柔和に細まり、持ち前の人なつっこさと愛くるしさを見せつけてくる。
 まるで低気圧の過ぎ去った午後のような清々しい笑顔に、景太郎は初恋の甘酸っぱさを思い出して見惚れてしまった。懐かしささえ覚えるような、愛嬌たっぷりのみつねの笑顔はまばゆいほどであったが…それでも視線をそらすことができない。
…キツネさんって、こんなにかわいかったっけ…?
 陶酔という薄桃色に霞みつつある意識で、景太郎はぼんやりと心中で自問する。
 いつの頃からか憧れていたみつねの笑顔を目の前にして、景太郎は高揚しきりであった。ドキ、ドキ、ドキ、と鼓動は速まり、それに同調するかのように呼吸も震えてくる。
 もし一目惚れという現象が実際に存在するのであれば、今の景太郎はきっとそれに近い心理状態にあるのだろう。みつねの笑顔など見慣れているはずなのに、なぜか今は魅惑されてならない。息をすることすらもはばかられるようで、景太郎は無意識下に息を止め、みつねに見取れ続けた。
「な、なんやねん…あ、あんまりジロジロ見んといて…恥ずかしいやんか…」
「え…あ、ご、ごめんなさいっ…」
「べ、別に謝らんでもええねんけどな…」
「あ、ああ…ご、ごめんなさい…」
「せ、せやから謝らんでもええゆうとるやんか…ふふっ…ふふふっ!」
「あ…ははっ、はははっ…!」
 それでも普段通りのたわいもないやりとりを交わしてしまえば、二人はすぐさま元の立ち位置に戻ることができる。しどろもどろになって詫び続ける景太郎を見て、みつねは気持ちよさそうに笑った。それにつられて景太郎も笑う。
 見慣れてはいるものの、そのぶん安らげる穏やかな表情に、二人の心の風通しはみるみるうちに良くなっていった。こうして抱き合っている状況は、今までからしてみればとうてい考えられないものではあったが…今はなぜかこのぬくもりが嬉しい。景太郎もみつねも、今では日常茶飯事となっているささやかなスキンシップの延長、というほどにしか感じられない。
「はぁ…でも、ホンマにスッキリした。身体の隅々まで気分爽快や」
「ははは、だったらよかった」
「ええもんなんやな、こうして安心して泣かせてもらえるっちゅうんは…。ガキみたいに大声あげて、涙から鼻水からで顔じゅうくしゃくしゃにして…まさかあんたにそんな姿見せてまうとは…それも抱き締めてもろてやで?ホンマ、信じられへん。なんでウチがけーたろに抱き締めてもろて、わんわん泣いたんかって」
「うん…」
「でも…でもな?めっちゃ嬉しかったんやで…?はじめは遊ばれとったショックのぶり返しと、あんたに泣くとこ見せてまうことの悔し泣きやったはずなんに…後の方はほとんど嬉し泣きになっとった。夢中で抱きついたりして…あ、アホみたいやんなぁ…」
 照れ隠しの思いもあるのだろう、景太郎を真っ直ぐに見つめたみつねは幾分早口となり、いつにも増す饒舌ぶりで胸の内を明かした。さすがに言葉の最後には照れくささを紛らわせることができなくなったようで、くすぐったそうに頬を緩めながら明後日の方向へ視線をそらしてしまう。景気づけのつもりであおっていたハイネケンも手伝ってきて、頬もほんのりと上気してきた。
 みつね自身でもわかるほどに意識は舞い上がっているのだが…それでも景太郎から離れようとしないのは、もはや彼の前で醜態を晒すことになんらの躊躇いも感じないからだ。
 気取ることなく、てらうことなく、そして飾ることなく…素直なままの自分をさらけ出すことに心地よさを覚えるようになってきているし、その素直なままの自分を受け入れてくれる景太郎に感動を覚えるようにもなっている。みつねの女心は、そんな景太郎と過ごす時間を一秒でも多く望んでしまうのである。
 とはいえ、それは決して浮気な想いなどではない。毎日のようにたわいもないやりとりを重ねるうちに芽生えた絆で、ささくれだった心は互いに安らぎを求め合うのだ。男と女であればこそその想いは深く、そして強い。
 そんなみつねの女心をそれとなく気取り、景太郎もみつねの身体を離そうとしない。言葉には出さない欲望を汲み合うまま、ゆったりと身を抱き寄せ合い…まるでゆりかごのような優しい一体感にいつまでも身を委ね続ける。
「な、けーたろ…今日はずっと一緒におって。せめてみんなが帰ってくるまで…お願いやから、一緒におって。独りにせんといて…頼むわ…」
「…いいですよ。今日はもうずっと一緒…テレビ観るのも、お昼ご飯食べるのも…」
「ふふっ、ほんなら風呂にも一緒に入ってくれるんかぁ?」
「えっ!?ちょ、それはさすがにまずいですよっ!確かに一緒とは言いましたけど…」
「ははは!冗談やって、冗談!はははははっ!」
「まったくもう…ふふっ…ふふふっ…!」
 そっと目を閉じ、諭すような声で景太郎がささやいたのも束の間、すぐにみつねは揶揄の一言を送り込む。今度は景太郎が顔を赤くする番であった。申し開きもままならず、あたふたとした口調で言葉を濁してしまう。
 真摯な口調から一転、楽しそうにおどけてみせるのはみつねの性格によるものだが…今はそんな性格がなにより貴重だといえよう。普段以上にぴったりとくっついていながらも、みつねがからかい、景太郎が狼狽えればもうそれだけでお互い普段通りの笑顔が浮かんでくる。
 たわいもない戯れが本当に気持ちよかった。もう一本ずつハイネケンを開ければ、それで胸中は美しく晴れ渡ることだろう。
「…さて、いつまでもこうしとっても拉致があかんわな…あんたの仕事の邪魔にもなるし」
「そうですね…ちょっと遅いけど、あらためて今日を始めましょうか」
「せやな…よーっしゃ、今日からまたキツネさん、エンジン全開で行くでーっ!」
「そうそう、その調子ですよ!思い切っていきましょう!」
 居心地のいい場所にいつまでも留まりたい気持ちはあるが、かといって一日中このまま過ごすわけにもいかないことを景太郎もみつねもわきまえている。理性も当然そのことを訴え続けていた。
 すがりついていた両手をゆるりとほどいたのはみつねが先であった。颯爽とした挙動でソファーから立ち上がると、大きく伸びをして自分自身に気合いを入れる。
 ブルンと両腕を回して早くも気力十分なみつねの後ろ姿に、景太郎も簡素ながらエールを送り、やがて自分もソファーから立ち上がった。
「…な、けーたろ…ひとつ聞いてもええか?」
「え…?」
 景太郎が立ち上がるタイミングを見計らってか否か、ふいにみつねは背中越しにポツリとそう言った。景太郎は彼女の背後に立つ格好で、わずかな沈黙も含めて続きを促す。
「…あんた、ウチに対して色々親身になってくれたやんか…慰めようとしたり、励まそうともしたり、メシまで用意してくれて…。それって、ひなた荘の管理人としてなんか?」
「…」
「それとも…ひとりの男としてなんか?」
 質問を区切るように、みつねは背後の景太郎をチラリと振り返り見た。
 ほっそりとした瞳には彼女ならではの愛嬌が備わってはいるものの、真剣そのものの輝きからは、その質問には少しの戯れも含まれていないことがはっきりと窺い知れる。
「…じゃあキツネさんが…」
「んっ…んぅ…」
 答えを急かすよう、じっと見つめていたみつねの視線と真っ向から対峙していた景太郎であったが…やがて返答を心に決めると、そっと両手を彼女の肩にかけた。丁寧な手つきで二、三度揉むと、みつねは心持ちうつむいて安息の鼻声を漏らす。
「…キツネさんが俺にすがりついてわんわん泣いたのは、ひなた荘の住人としてですか?それとも…ひとりの女としてですか?」
「あっ…」
 揶揄するかのような返答に、みつねは驚いたようにぱちくりとまばたきし…言葉を無くした。当の景太郎は真摯な表情のままみつねの肩に両手を置き、じっと彼女の反応を待つ。
 景太郎はみつねをからかっているわけでも、質問をはぐらかそうとしているわけでもなかった。それは景太郎が本心から知りたかったことなのだ。
 苦手意識が心中を占めていたはずのみつねに、なぜここまでひたむきに尽くすことができるのか…その理由に薄々気付き始めた今、景太郎は無粋なほどに彼女の心中を覗いてみたくなっている。それはまさに、思春期特有の不安と期待による衝動であった。
 そんな衝動の根元となっている想いを言葉に出してしまっても、今の自分たちにはなんの説得力も生じないであろうことは明白だ。出会った頃に比べればすっかり打ち解け、おしゃべりを交わし、酒を酌み交わし、何気ないスキンシップをも重ねるほどになったとはいえ…互いに異性としての魅力を感じ、それに惹かれ合うことがなかったことからも当然だろう。
 それでも、先ほどみつねを抱き締めたときに感じた物苦しいほどの愛おしさは、決して錯覚でも、空虚な妄想でもない。女性の柔らかみに触れた事への単純な悦びというわけでもない。
 もしその愛おしさが単なる思いこみであったとすれば、きっとこれほどまでに大胆不敵な態度には出られなかったはずだ。まるで引き留めるような力で肩に触れ、聞きようによっては挑発とも取れる野蛮な質問を投げかけるなど…かつての自分なら絶対にできない、と景太郎自身おののいているくらいである。
 危険極まりない行動に男としての本能もたぎるのか、鼓動が喉のすぐ下で響いてきた。肩に触れているだけでも、まるでセンター試験を受験しているときのような緊張感で呼吸が詰まってくる。目がくらみ、今にもその場でへたり込んでしまいそうだ。
「…なんや、けーたろのくせに…あんたも言うようになったなぁ…」
 おもむろにみつねは振り向くと、緊張しきりの景太郎を試すような目で小さく笑った。柔らかな口調には、揶揄とも降伏とも取れるような曖昧さが漂っている。
「でも、先に聞いたんはウチやで?あんたから先に答えや」
「キツネさんから先に教えてくださいよ…そうしたら、俺も答えるし」
「なんでそうなんねん、あんたが先や」
「キツネさんから教えてくださいっ」
 日頃からかわれている仕返しのつもりか、今回ばかりは景太郎も譲ろうとしない。
 これは別にヘソを曲げて意固地になっているわけではなかった。景太郎としては、あくまで普段通りの馴れ合いとして接しているつもりなのだ。みつねがどうしても答えてくれないのであればそれ以上追求はしないし、逆にこっちが問い詰められればすぐにでも心中を告白するつもりであった。
 しかし…そのやり取りはみつねの番になったところではたと止まり、しばし静寂がロビーに訪れた。みつねは口を閉ざし、どこか思い詰めた表情となってまぶたを閉ざす。
「…ほな、ウチの答えから教えたるっ」
 観念したかのような、覚悟を決めたかのような…そんな深刻な口調で告げると、みつねは両肩に乗せられていた景太郎の手を静かに払い、身体ごと彼に向き直った。胸を張るように背筋を伸ばし、どこか懐かしむように景太郎を見つめる。人なつっこい、愛嬌たっぷりの瞳はどこか眩しげで…ほっそり細まっていながらも、熱いきらめきが宿っていた。
すっ…
「えっ…」
 みつねが自然なしぐさで目を閉じ、美青年もかくやとばかりの優面を…しかし艶めかしいほどに秀麗な女の唇を無防備にして、景太郎は思わず声を上げた。胸の真ん中で、強烈に酸っぱいレモンキャンディーが炸裂したかのような錯覚に陥り、硬直して息を飲む。
 景太郎とて、みつねのしぐさが何を意味しているかぐらいわかる。恋人を持ったことは無くとも、思春期は立派に迎えているのだ。そこで芽生える衝動のひとつに接吻欲というものがあることも、身を以て経験済みである。キスという単語に何度胸をときめかせ、その胸をなだめようと何度溜息を吐いたことかしれない。
 そんな景太郎の前で…みつねは女としての瑞々しさに満ちた唇を差し出しているのだ。
 タバコが好きで、酒好きで、美味いモノ好きで…何よりおしゃべり大好きな口としてすっかり印象付けられてはいるが、こうして間近に差し出されてみると、意外と小振りであることがわかる。昨日の口紅を落とさないで寝たらしく、化粧としての輝きは失われているが…それでもその造型は男心を魅惑するに十分であり、ふっくらとした張りだけでも胸は高鳴らずにいられない。色っぽい、の他に言葉が思いつかなかった。
 実際景太郎はそのとおり、みつねの色香に見惚れて言葉もない。ただ彼女の真ん前で突っ立ち、あどけなさの残る童顔を紅潮させているのみである。
 そのこともみつねは予測の範囲内であったのか、目は伏せたままでそっと微笑んだ。
「もし、ひなた荘の管理人がひなばーちゃんやっても、はるかさんやっても…もちろん他の男やったとしても、ウチは泣きついてへんかった。あんたやったから愚痴聞いてもらいたなったんやし、泣きつかせてもらいたなったんやで…?ま、ハイネケン使ぉてな、その勢いにも任せて…やったけど。それとな、けーたろ?」
「ん…?」
「…ここに来た頃のあんたのままやったらな、今朝もこうして声かけてへんかったよ。あんたもずいぶん男らしぃなったさかい…ふふっ…」
 照れくさそうに頬を緩めながら話して聞かせていたみつねであったが、その言葉の最後にはそっと目を開け、愛くるしさいっぱいで景太郎に笑いかけた。それはバカ話の興が乗ってきたときのそれとも、馬券予想が見事的中したときのそれとも違う…惜しみない情愛を込めた、女としての幸せに裏打ちされた笑みであった。
わ…キツネさん、すっごいかわいい…
 みつね自身はもちろん、どの女性からも見たことの無かった笑顔に景太郎が見惚れているのも束の間…みつねはすぐまた目を伏せ、もっぺん、とつぶやいて唇を差し出した。薄膜はその瞬間を待ち焦がれているのか、口紅の乗りを整えるようムニムニと動く。
「さ、けーたろ…次はあんたの番やで?ウチが答えたら、あんたも答えるんやろ?」
 軽く唇を準備運動させてから、みつねはいつものように楽しそうな微笑で景太郎に返答を促した。とはいえそれも一瞬だけであり、すぐにしおらしい顔となって景太郎を待つ。
 本音はすべて出し尽くした。景太郎からの答えがどうであろうと、後悔はしない。
 後悔する余地があるとすれば、ここまで来るのにアルコールの手助けを借りてしまったことぐらいであろうか。なかばやけっぱちのような気持ちもあったが、それでもみつねは人恋しさに耐えられなくなったのだ。たとえこの瞬間が、どうしようもないくらい景太郎を困惑させていたとしても…。
 しかし、みつねの焦燥は杞憂に過ぎなかった。
 景太郎には、いつまでもこうして見惚れてばかりいるつもりはなかったし…もちろんみつねの求めから逃れるという選択肢も用意していない。そんな選択肢を用意しているようなら、今のこの状況はあり得なかっただろう。
 景太郎には、とうに決めていた答えがあった。
 ずうっと前から言いたくて、言いたくて…しかし言葉にすれば、斬新な冗句と取られてしまいそうで言えなかった想い。言えないまま今まで来た気持ち。
 決して順調な展開で迎えたとはいえないが、それでも景太郎に迷いは無かった。なにぶん初めてであるから色々と戸惑い、緊張はするが…先程見せてくれた笑顔を落胆の表情にだけはしない。その想いを伝えることに対する不安も無かった。ダメで元々なのはわかっていることだ。
「じゃあ、キツネさん…オレは…」
 甘くささやきかけているのか、威圧しているのか…にわかには判別に困る声音でそう言うと、景太郎は再び両手でみつねの肩を抱き…
…こつん…ちゅっ…
 メガネが鼻筋に当たってから、ふっ…と現れて霧消した儚い感触。
 景太郎はみつねと唇を重ねた。否…遠慮がちに触れ合わせたのであった。
 ゆっくりと顔を上げた景太郎も、そおっと目を開いたみつねも…なんの身じろぎひとつせず、小さいキスを交わした相手を見つめた。真摯な表情の中、見つめ合う瞳は熱っぽく潤み、今にも気持ちが溢れ出そうなくらいだ。
 特に景太郎の場合、今のささやかなキスがファーストキスだったこともあって感動も一塩である。なんらかのアクシデントや、不意に奪われたといった事例を除けば、お互い合意の上で唇を重ねたのはこれが初めてなのだ。
 特別な感情を抱いている相手とキスを交わすことができた事実に、身体の芯から歓喜の震えが来そうなくらいである。胸はワクワクと逸り、どうにも抑えが効かない。このままみつねを強く抱き締め、叫びだしたいほどの衝動が激しく突き上げてくる。
 そんな感激しきりの景太郎とは裏腹に…みつねはどこか寂しげな目となり、少しだけ虫の居所が悪くなったことを表情で示した。
「なんやの、それ…?」
「えっ…あ、やっぱり…」
「やっぱりちゃうわ、あほっ!メガネくらい取りぃや!」
「あっ…」
 戸惑い、次いで力無く笑おうとした景太郎に構うことなく、みつねは彼の顔からメガネをひったくった。手早くつるを倒してテーブルに置くと、有無を言わさず景太郎の腰に両手を回し、ぎゅっと抱き寄せてしまう。事情のわからない景太郎は戸惑うばかりだ。
「き、キツネさん、あの…」
「…純情気取った中坊とちゃうやろ、あんたいくつや?」
「え、えと…二十二…」
「二十二やろ?もう未成年でもないねんで、うちら…。ええか?もっと年相応のキスでないと、あんたの答えはウチに伝わって来ぃへん。もっぺんや」
 景太郎に落ち着かせるいとまも与えず早口にまくしたてると、みつねは再び目を伏せてキスをせがんだ。怒っていることを明らかにするつもりか、ツン、と一度だけ口許をとがらせたりする。
 景太郎の方が幾分上背があるので、自ずとみつねの顔は上向き加減になるのだが…見るとその頬はほんのりと桜色に染まっていた。
 昨日の今日であるから、口紅がそうであったように顔もクレンジングされてはいないのだが…それでも元々化粧は薄目のみつねであるから、この紅潮はすっぴんそのものの火照りだといえる。それでありながらもこれだけ頬を染めているということは、よほど怒っているのか、でなければ景太郎同様、キスに感激しているということになる。
キツネさん、俺と…?いや、俺に…?
 心中によぎった疑念を晴らすべく、景太郎はみつねの顔を見た。すっかり見慣れているとはいえ、さすがにこれだけ間近で見たことはなかったから、その中性的なかわいらしさに思わず見入ってしまう。
 感情を豊かに表しはしたが、今はすべてをゆだねて不安の翳りもない閉ざされた瞳。
 その前でチラホラ下りている脱色された前髪。
 すっ…と滑らかな下降線を描く鼻筋。こじんまりとした鼻梁。
 薄れたファンデーションの向こうでほんのりと熱を帯びている頬。
 そして…なお真っ直ぐに捧げられている唇。
 そうなのだ。みつねはすべてを許したうえで、さらに確かな抱擁を求めているのだ。その動機はともあれ、みつねは今一人の女として景太郎に相対しているのだ。
「けーたろ…ウチは、あんたに慰めてほしいんや…あんたに優しくしてほしいんや…」
 景太郎がひとつの確信に身を奮わせかけたとき…みつねはキスをせがんだままの唇でそうつぶやいた。それまで微かに開いていた唇は、どこかせつない感覚に耐えるよう、きゅっ…と噛み締められてしまう。
 そんなみつねを目の当たりにして…景太郎の男心は理性による躊躇を振り切った。
「キツネさんっ…!」
「んっ…」
 景太郎は強い口調で名を呼び、肩に触れていた両手でみつねを力一杯に抱き締めると…
ちゅっ…
 今度は明らかに薄膜どうしがたわむほど、ぴったりと唇を重ね合わせた。先程のささやかなキスとは正反対の思いきりの良さに、思わずみつねも身を震わせたが…すぐに事態を把握すると景太郎同様強くすがりつき、キスに応じてゆく。
ちゅっ、ちゅむ、ちゅむっ…ちゅ、ちゅうっ…
 一瞬でのぼせてしまいそうなほどの高揚を覚えながらも、景太郎は衝動に任せてみつねとのキスを欲張っていった。閃光の真っ直中にあるような意識の中をもがくよう、身体は本能に駆られて動き…自ずと小首を傾げ、一番深く密着できる角度を探り当てて落ち着く。
 その上で景太郎は必死に吸い付き、絶対に離れまいと躍起になった。おまけに顔を突き出すようにしているため、次第に体勢がつらくなってくる。きつく抱き締めていて、なおかつ呼吸を止めたまま唇を押し当てているわけだからつらくならないはずもなく…きつく目をつむっている童顔はすっかり紅潮し、鼻の頭には汗の粒まで浮かび始める始末だ。
 こうやって客観的に見ると大変滑稽で、どうにも無様な姿であるが…これも景太郎の真摯さ、ひたむきさの現れである。ましてやこういった色事には不慣れ…もとい、まったくの未経験であるから気持ちが空回りしてしまうのも仕方がないといえよう。
「んっ、んーっ!んんーっ!ぷぁ、けーたろ、ちょっとタンマ!タンマ!」
 景太郎の苦労が伝わってきたのか、あるいは押し付けられっぱなしの唇が痛くなってきたのか、みつねは堪らずに待ったをかけた。顔を背けるようにして、少々強引が過ぎるキスを一方的に中断してしまう。
 そんなみつねの声としぐさで、無我夢中だった景太郎もたちまち我に返った。そして、きょとんとした顔でみつねを見つめてから、いったい自分がどんなキスをしていたのかに気付いて深く深く恥じ入る。真っ赤な顔をそのままにうなだれ、後悔極まれりというふうに唇を噛む。
「なんやねん…あんた、ウチと相撲取っとるつもりなんか?ぎゅーっと頭で押さえ付けてきよってからに、ウチはもう土俵際いっぱいいっぱいやったやないか!」
「ご、ごめんなさい…」
「…けーたろ、あんた…まさか、キスしたん今のが初めてやったんか?」
「…はい」
「なんや、やっぱりけーたろはけーたろなんか…って、えと、その…ごめん、堪忍や…。今言ぅてもぉたこと、謝るわ…ホンマ、堪忍…」
 いぶかるように問いつめたものの、景太郎の萎縮しきった姿が引っかかり…そしてみつねは彼のファーストキスの相手になってしまったことを知った。
 いかにモテない景太郎とて、女性ばかりのひなた荘の管理人である。それもここに来た当初ならともかく、最近はすっかり頼もしくなって株も上がっていることは、みつねはもちろん他のどの住人も認めていることだ。
 だからすでに他の住人となんらかの関係になっている、あるいはなったことがあるだろう…と、みつねは鷹をくくっていた。他の住人でなくとも、どこかでお似合いの恋人を見つけていておかしくない、と信じ込んでもいた。
 そのぶん真相を知ってしまうと、ついつい呆れて苦言を呈してしまいたくなったのである。しかしその言葉が彼をさらに萎縮させる凶器だということに気付くと、慌てて取り消して詫びを入れた。腰にすがりついていた両手も背中から抱くようにし、景太郎をどこにも行かせまいとする。
「…な、けーたろ…さっきみたいな強引なキスはな、それはそれで燃える場合もあんねんけど…今はウチもあんたに甘えさせてほしいねん。さっきみたいなキスやったら、ウチがあんたに甘える隙が無いやんか?」
「はい…」
「せやから…なんちゅうんかな、そんなに慌てんでもええねん。慌てるなんやらはもらいが少ない言うてな、のんびりとした気分でイチャイチャすれば、たっぷり気持ちようなれるんやで?エッチはもちろんやけど、キスも二人でするもんやろ?一人相撲なんは自己満足なだけや。オナニーと変わらへん」
 みつねはうなだれたままの景太郎の額に、こつん…と自らの額を当てて諭した。優しく語って聞かせる口調は母のそれにも似ている。景太郎に対する年下意識が、違った意味で発露しているのだ。
 みつねの穏やかな態度に安心してか、景太郎も恐縮したりはしない。しおらしく抱き合ったまま、いわばベテランである彼女のアドバイスに聞き入る。
 確かにみつねの言うとおりで、睦み合いに慌てる必要などどこにもない。慌てれば慌てるだけ、せっかくの機会は味気ないものになってしまう。ともすれば独り善がりに終始してしまい、後味の不味さを残すことにもなりかねないのだ。
 それに同じキス、同じセックスでも、数分で済ますのと数十分かけるのであれば、やはり長時間かけた方が気持ちいい時間も長いはずだ。もちろん必要以上に時間をかければだらけてしまうこともあるが、焦ることなく欲しいものを欲しいだけ手に入れられれば…それこそ納得行くまで欲望を満たすことができれば、それこそまさに最高の一時と呼べるのではないだろうか。
 もっとも、愛し合う者どうしにとって時間はそれほどの意味を成さない。その気になれば、それがどれほどの時間であれ、気が付けばあっという間に過ぎ去っているものだ。
 閑話休題。みつねは景太郎とくっつけていた額を離すと、今度は寄り添うようにして火照った左の頬どうしを摺り合わせた。
 男の肌でありながらも、景太郎の頬はスベスベとしていて心地良い。童顔がそのまま肌年齢に現れているように思えて、みつねは思わずかわいい鼻声でくすぐったそうに吹き出してしまった。
 それをごまかすつもりで、景太郎のあごの線に軽くキスすると…今度は景太郎がかわいい声をあげてしまう。同性が聞いたら失笑ものの、ある意味だらしない猫撫で声だ。景太郎自身も情けなくてならず、とほほとばかりに溜息を吐いた。
「けーたろ…ウチとのキス、どうやった?タバコくさかったやろ」
「え、ええ…あ、で、でもちょっとだけですよ?タバコの味とか、ビールの味とか、口紅の味とか、色んな味が混ざってて…でも、すごく柔らかくって、あったかくって…その、いい気持ちで…素敵でした…」
「えへへ、ベタ褒めやんかぁ…。でも、それで夢中になってくれたんやろ?」
「う、うん…。それに、キスする前のキツネさんの顔…メチャクチャかわいかったから…」
「あははっ!それホンマかぁ?」
「ホントですよ…オレ、それ見たらすっごく抱き締めたくなって…キスしたくなって…」
 二人は抱き合ったまま、ささやき声でしばしおしゃべりを交わす。
 これは失意に暮れてしまいそうな景太郎を励まそうとしての、ささやかなみつねの計らいだ。ファーストキスを遂げてなお、緊張しきりとなっている彼の気分を優しく解きほぐすつもりでもある。
 気分転換のために、こうしてたわいもない時間を過ごすのも決して無駄ではない。男女の睦み合いは、すべからくこうあるべきなのだ。焦ったり、過度に緊張した状況では互いを解り合うことなど決してできない。リラックスした心理状態でこそ、身体の芯から芯へと想いが伝わり合うのである。
 みつねの思惑通り、景太郎は徐々に落ち着きと高揚を取り戻してきた。声に溌剌さが宿り、うなだれていた頭も再び持ち上がってくる。さすがに熱を帯びた吐息と、艶めかしいヒソヒソ声を左の耳に受けているため、ゾクゾクとしたせつない悪寒は禁じ得ないが。
「せやったら…もっぺんキスして…」
 二人の頭が上がり、自然と頬摺りが中断したところで、みつねはそっとキスを求めた。
 見つめ合った瞬間での求愛に、景太郎はまたもや表情を強張らせるが…みつねはそれを咎めることなく、慈しみに満ちた微笑で続ける。
「一緒に気持ちよぅなるつもりで試してみ?あんたはバカが付くほどのお人好し…いやいやいや、甘々なくらいに優しい男やからな。めっちゃキスのセンスあると思うで?」
「ほ、ホントですかぁ?」
「ウソとちゃうって…ほな、はじめはウチがリードしてみよか?」
「は、はい…」
 景太郎としては、みつねに乗せられてしまったような感が否めなかったが…それでも、心の内に彼女とキスしたい衝動が存在することは否定しない。
 みつねの扇情的な申し出に、景太郎は素直にうなづいていた。それを見たみつねは満足そうに目を細め、あらためて無防備な唇を景太郎に差し出す。
ちゅっ…
 鼻先どうしを衝突させたりしないよう意識しつつ、景太郎は少しだけ角度を付けて丁寧に唇を重ねた。ぴったりと薄膜どうしがくっつき、ふんわりたわむと…そこから新鮮な感動が光の奔流よろしく胸の奥へと降り注いでくる。
あああっ…すごい…キスって、こんなに気持ちいいものなんだぁ…
 これだけでも景太郎は夢見心地になることができた。
 間近で感じるみつねの匂い、ぬくもり、鼓動…。
 そして唇に感じる熱、味、柔らかみ…。
 そのすべてに思春期の情熱が励起され、心身が活性化してゆくような心地である。このままじっとしっているだけでも感動の涙が溢れてきそうだ。
 しかし、みつねのリードが始まるのはまだまだこれからである。みつねは景太郎の背中に回している両手をずらし、密着の度合いを高めるようもう少しだけ強くすがりついてから…
ちゅ、みっ…ちゅみっ、ちゅみっ、ちょむ…ちゅっ、ちゅうっ…
「んんんっ…!ん…んふ…んふぅ…んふぅ…」
 唇の先でついばむように何度も何度もじゃれつき、またくっついて…軽く吸い付く。
 景太郎はたまらずに上擦った鼻声を漏らし、そのまま鼻でせつなげに息継ぎを始めた。それだけみつねのじゃれつきが気持ちよかったのだ。たまらずにあごがゾクゾクと震えてくる。
 それでもみつねは容赦なく、次のステップへと景太郎を導いていった。
ぴちゅ…ちゅ、ぢゅっ…ちゅみ、ちょみ、ちょむ…ぷちゅ、ちゅっ…
 唇の隙間から微かに唾液を滲ませ、わざと音を立ててからついばみを繰り返し…小刻みなキスを連発しては、また唾液を漏らして吸い付く。
「んんっ!んんーっ…!!んっ…んふぅ…すふ、すふ、すふ…んふぅ…」
 甘美なキスに酔わされた景太郎はもう息を止めていられず、しきりに鼻で息継ぎしては陶酔の溜息を吐いた。あどけない童顔はすっかり真っ赤であり、鼻の頭なんかは汗でびっちょりである。あごの震えももちろん大きい。
 しかも…景太郎の過敏な反応はそれだけでは済まなかった。
むくっ…ぐっ、ぐんっ、ぐんっ…ずきん、ずきん、ずきん…
 景太郎も健康で健全な一青年である。柔らかな異性を抱き締め、唇に濃密な性感を覚え続けていると、ジーンズとトランクスの内側ではペニスがにわかに血流を増し…たくましく勃起をきたしてしまう。
 なまじっか受験勉強やら管理人としての業務やらで数週間ほど慰めていなかったぶん、その勃起の勢いたるや彼自身困惑するほどだ。若々しいペニスは下着の中、真っ直ぐに天を仰ぐよう長く、固く、太く勃起を極め…やがて忌々しいほどの疼きが潮騒のように繰り返してくる。
 ぴったりと抱き合っているだけに、この男としての高ぶりは間違いなくみつねに感じ取られてしまったことだろう。そう思うだけでも恥ずかしくてならない。ねちっこいキスと相俟って、本当に顔から火が出そうなくらいである。
 それでも、みつねを抱き締める景太郎の両腕にはなお一層の力がこもりつつあった。
 彼女のセーターをきつく握り締めている両手からは、たとえ何があっても放すまいという確固たる意志が見て取れるだろう。これには狂おしいほどの愛しさの他に、今にも両脚が脱力してへたりこんでしまいそうだから…という少々情けない理由もある。
「…なんや、もうテンパッてもぉたんか…?」
「だって…だって…」
「んふふ、そんなだらしない声、ウチに聞かせてもええんかぁ?」
「だ、だって…んうぅ…」
 薄膜どうしを触れ合わせたまま、熱く湿った吐息混じりにささやく二人。楽しそうにからかうみつねと、すっかり声を上擦らせた景太郎。
 それぞれ心理的な余裕には大きく差があったが、興奮の度合いにはさほどの差も無いのが事実であった。今やみつねですら頬を染め、セーターの中の柔肌をしっとりと汗ばませている。ビールを飲んでおり、強く抱き合ってキスしていることもあって、身体中がポカポカ熱くてならない。発情のフェロモンが汗に混じってくるのも時間の問題であろう。
「な…今度はあんたがウチに…お願い…」
「ん…んう…」
 そんなみつねが熱っぽく潤んだ目を伏せ、求愛を口移しすると…景太郎はのぼせてしまいそうな夢心地の中で小さくうなづいた。すぅ、と鼻で息を吸い込み、止める。
ちょ、ぷ…ちゅみ、ちゅみっ…ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ…ぷちゅっ…
「んっ…んん…んぅ…」
 小刻みな水音に混じり、とうとうみつねも鼻声でさえずり始めた。立派な性感帯である唇が、景太郎とのキスで発情の準備を整えてきたのだ。焦れる気持ちが胸の真ん中に生まれ、モジモジと身体を擦り寄せてしまう。
 景太郎のキスはすこぶる丁寧なものであった。
 まずみつねの唇を割り開くように甘噛みし…躊躇いがちに唾液を滲ませて潤わせながら、上唇と下唇それぞれを愛でるようについばんでゆく。ぷりん、とした弾力を確かめるよう、そしてみつねの反応を伺うよう、念入りに念入りにじゃれついていった。
 その優しい愛撫が気に入ってか、みつねはぴっちり閉ざしていた唇をやんわりと開いていった。そこで景太郎は一旦ついばみをやめ、密着の面積を稼ぐようなしっかりとしたキスを連発する。くっついては離れ、くっついては離れするたびにささやかな水音がロビーに響き、二人の薄膜の間で唾液が糸を引くようになってきた。先に発情しきった唇どうしが、一秒も離れたくない…と駄々をこね始めているのである。
 そこで景太郎は、互いの薄膜がすっかり濡れそぼった頃を見計らい…ぷっちゅりとキスしたままで小首を傾げ直した。ちょうど重なる角度が九十度ずれた格好になる。
 そこでなおモジモジと薄膜をにじらせ、納得いく具合を確かめているうちに…
「ん、んふぅ…」
 みつねも我慢が続かなくなり、鼻から照れくさそうに息を吐いた。頬にかかる熱い鼻息は思った以上にくすぐったく、景太郎もついつい鼻息を漏らしてしまう。
 二人仲良く呼吸を整え、しばし身じろぎせずに薄膜どうしの密着感を堪能してから…
ちょみっ、ちょむっ、ちょむっ…ちゅ、ちゅっ…ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ…
 今度は二人いっぺんにじゃれ合い始めた。グッピーのケンカか、小鳥の挨拶か…互いに欲張るようついばみ合い、吸い付き合って接吻欲を満たしてゆく。
 唇は男女の別を問わず立派な性感帯であるから、なんの気取りもてらいもなくキスできる心地よさはマスターベーションでの高ぶりすらゆうに凌ぐ。睦み合いの経験が無い景太郎も、良くも悪くも百戦錬磨のみつねも…もう午睡の夢もかくやとばかりの心地良さにすっかり魅惑されてしまう。互いに刺激し合う唇が、胸いっぱいの幸福感で甘やかにとろけてしまいそうだ。
ぬみっ…
「んっ…ちゅ…んん…」
「すぅ、すぅ…ん…ちゅ、ぷちゅ…こは、ぷ…んちゅ…」
 その充足感をさらに欲張ろうと…みつねは夢中で景太郎の唇の隙間に舌を忍ばせた。一瞬驚いて声を漏らした景太郎であったが、すぐにみつねを真似て舌を送り返す。これで二人は唇だけでなく、舌をも絡め合うディープキスを満喫してゆくことになる。
ぬみゅ、ぬりゅ、ぐみゅ…ちゅ、ぷぢゅっ…
 やんちゃなみつねの舌と、はにかみ屋な景太郎の舌は意外と相性が合うらしく…すぐに仲良くなってスキンシップを重ね始めた。
ぬみゅ、ぬりゅっ、ぬりゅっ…ぐねぐね、ごねごね…
 ざらざらな舌の腹どうしを擦り合わせ、そのまま左右に絡め合ったり…。
ぬみっ、ぬみっ、ぬっ…ぷは、ぷぢゅっ…ちゅっ…ぬみ、ぬみゅ、みゅっ…
 ぐるぐると追いかけっこをして、息継ぎしてはまた追いかけて…。
ぬんっ、ぬんっ、ぬんっ…ぬみっ…ぬり、ぬりりっ…れるれるっ…
 突っつき合って決闘ごっこ、それに疲れたら歯茎や口蓋をくすぐって…。
 そんなみつねのリードに合わせ、景太郎も安心しきって濃厚な口づけを堪能してゆく。
 とりあえずみつねが繰り出してきたテクニックを真似るだけではあるが、それでも彼女はくすぐったそうに身じろぎし、時には満足そうな鼻息を漏らしてよがった。そうして少しずつみつねのお気に入りを見つけていくだけでも、景太郎の胸はワクワクと逸る。
それにしても…舌って、こんなに柔らかかったんだぁ…すっごい、いい気持ち…
 忙しなく鼻で呼吸しながら、景太郎は舌が柔軟に絡まり合う感触に浸っていた。うっすら開いた目はすっかり潤み、ウットリと惚けたようになっている。ぱちぱちとまばたきすれば、たちまち感動の結晶が頬を伝い落ちてしまいそうだ。
 それだけみつねとのディープキスは気持ちよかった。景太郎は恍惚となった意識の中で、なんとなくオーラルセックスという単語を思い出したりするほどである。
 ディープキスとオーラルセックスではまったく意味が違うが、それでも舌でセックスしているような快感が繊細な唇、そして舌いっぱいに拡がってくる。実際舌がのたうち、くねりあってもつれる動きは交尾と呼んで差し支えのないものだろう。
 また、ディープキスで混ざり合った生ぬるい唾液は、発情しかけた二人に媚薬のような効果をもたらすことになる。
 とろみがかった唾液の中で舌を絡め合わせると、普通に口づける以上に互いの味が…それこそ朝食の味、ココアの味、タバコの味、ビールの味、口紅の味、そしてもちろん唾液そのものの味が際立ち、はしたない行為に耽っているという実感がいや増すのだ。その不埒な興奮は男女の別無く作用し、二人に彼らにフェロモンの分泌を促してゆく。
 濃厚なフェロモンをたっぷりと含んだうえで、じっくりと攪拌された唾液を嚥下しようものなら、景太郎はもちろんみつねですらたちまち発情期を迎えてしまうことだろう。もっとも、景太郎はよだれを垂らしたみっともない姿をみつねに見せまいと意識していたため、すでにたっぷりと味わってしまっているが…。
 そんなめくるめくほどの快感と興奮は唇や舌から脊髄を通り、景太郎が有するもうひとつの性感帯へリンクして…その過敏さに対して何らの慈悲も無く疼かせてゆく。
ずきん、ずきん、ずきん、ずきん…じくん、じくん、じくん…
 今までに経験したことのない大きな快感を羨んでか、勃起しきりのペニスも今まで以上に疼き、景太郎を困惑させてきた。
 小刻みな脈動とともに疼きを繰り返しながらも、それまではどうにか大人しくしていたペニスであったが…やがてその根本から強い情欲の証を送り出してきた。せつなさを濃縮したかのような熱い雫は、ペニスの中央で膨れ上がっている太いパイプをゆっくりとせり上がり、やがて…
「んっ…」
 その瞬間を迎え、景太郎はディープキスしたまま気恥ずかしそうに鳴いた。今までに経験がないほどの恥じらいを覚えて耳まで赤くなり、やるせなく溜息を吐く。
 景太郎は放蕩を極めたキスに冒され、とうとう濡れてしまったのだ。
 ツヤツヤのパンパンに膨張した亀頭の先、小さな鈴口からネットリとしたカウパー氏線液が小刻みに滲み出てくる。これに関しては堪えようにも堪えられるものではなく、景太郎はなすすべなく下着を濡らしいった。精製したての逸り水は綿の布地を素通り、じわり、じわりと淫猥な染みを拡げてゆく。
 このまま直接ペニスに刺激を受ければ、無様に暴発してしまうかもしれない…。
 そんな不安に駆られた景太郎はたちまち心理的な余裕を失い、せっかく馴染んできた舌使いを途端にぎこちなくさせた。そしてこれ以上みつねの下腹と触れ合わないよう、そろりそろりと引け腰になる。
「んふぅ…んぅ…んんぅ…」
 切羽詰まった景太郎とは正反対に、みつねは本当に気持ちよさそうな鼻声をあげている。
 景太郎と交わす情熱的な抱擁に夢中になっているのか、みつねは静かに目を伏せたまま、積極的にディープキスを堪能してゆく。少し弱気になってきた景太郎の舌に追いすがるよう大胆に絡めかかり、ごしごし擦り合わせては絶妙な柔らかみに浸った。
 唇も決してくっついているだけではない。口づける角度をやや大きく取り、はぐはぐと噛みつくようなしぐさで瑞々しい唇をたわませてゆく。その様はまるで、母乳を欲張る乳飲み子のようだ。敏感な性感帯への絶え間ない刺激にみつねはすっかり頬を染め、すふすふと鼻息を漏らして高ぶりを強めてゆく。
 実際彼女の性欲は、今や景太郎のそれに負けないほどボルテージが上がってきていた。この時点でいえば、マスターベーションを覚えたばかりの小中学生男子以上であるかもしれない。抱き締められている身体は早くも過敏となり、唇以外の他の性感帯までもがいやらしくウズウズしてきているが…これはどうも景太郎のキスの上手さが原因であるようなのだ。
 何もかもが初体験であるとはいえ、景太郎は実に飲み込みが早い。
 唇の動きも舌使いも、見よう見まねで試すのは初めのうちだけで、次第に応用を利かせてくるのである。決して単調に留まることはなく…印象で言えば、どうすれば一緒に気持ちよくなれるかを常に模索し続けているようなのだ。
 それもあってか…憎らしいことに、弱点を見つけ出すのもすごく上手い。
 キスにしても、唇をついばむ強さはもちろん、じっとくっついてほしくなってもすぐにそれを感じ取ってくれるのである。舌使いも丁寧で、絡め具合も申し分なく…なによりフェイントで口蓋をなめられると、みつねはたちまち声を押し殺せなくなってしまう。
思った通りや…コイツ、めっちゃキス上手い…優しいし、それでいてスケベやし…
 ぽおっ…と陶酔した意識の中、みつねはそう景太郎を評価する。
 リードしてやると言ったものの、いつの間にやら身を委ねてリードしてもらっているような気になってきていた。正確にはリード云々は関係なく、二人一緒に高め合っているのだが…みつね自身としては、もはや気怠さの中で景太郎に身を委ねてしまっているような心地なのだ。口の周りがよだれでべちょべちょなのも構わず、彼の腕に抱かれたまま濃厚な口づけに酔い続ける。このまま一日中、ずっと…とさえ思えるほどだ。
くちゅ…ぐみゅ、ぬりゅ…ちゅ、むちゅ…ご、くん…ぷ、はぁ…
「はぁ、はぁ、はぁ…な、けーたろ…」
「はぁ、はぁ…なんですか…?」
 心ゆくまで攪拌し、温め合った唾液を仲良く分け合って飲み込み…ようやく二人は長い長いキスを終えた。呼びかけるみつねも、応じる景太郎も、等しく興奮で息遣いが荒い。
 ストーブの火勢を強めたわけでもないのに、やたらとポカポカ暖かいのは互いのフェロモンに脳の髄まで冒されたからであろう。真っ直ぐに見つめ合う潤みを増した眼差しは、まさに強い愛欲に駆られた雄と雌のものである。
 二人は紛れもなく発情期を迎えていた。もう後戻りなどできないし、したくない。
「…ウチの部屋、行こ…」
 照れてわずかにうつむき、反応を伺うような上目遣いになって…みつねは言った。
 景太郎は現在までに、みつねからこれとまったく同じセリフで部屋に誘われたことが何度となくある。たとえば食後の雑談がてら一緒に酒を飲もうとか、借りてきたビデオを見ながら一緒に酒を飲もうとか、とにかく退屈だから一緒に酒を飲もうとか…。
 しかし、今のみつねが望んでいるものはそういうものではない。その潤んだ瞳も、鼻の頭に浮かんだ汗も、火照った頬も、濡れた唇も…酒に付き合ってくれる景太郎ではなく、純粋に男としての景太郎を望んでいるのだ。他の男なら用はない。とにかく景太郎に一緒にいてほしいのだ。
 そんなみつねの女心を汲み…景太郎は躊躇無く、しっかとうなづいた。
 みつねの求めが何より嬉しかったので、無意識下にもう一度だけキスしたのだが…それは彼の男としての成長と胸を張って言えるだろう。

つづく。

 

 


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(updete 2003/07/15)