<<ラブひな>>

happiness on happiness (1)

作・大場愁一郎


 

「いったい、どないなってんねん…おーい、モトコー!けーたろー、さっきから隙だらけやないかー!もうズバーッと勝負決めにいけばええねん、やのになんでさっきから固まったままなんやー?」
 カオラは身振り手振りも元気良く素子に声援を送っていたのだが、彼女が先程から蛇に睨まれた蛙よろしく身じろぎひとつしないので、とうとう不満の思いを声音に混ぜ始めた。球審の不可解な判定に憮然とする監督さながらに胸の前で腕を組み、口元を尖らせているその姿は、自らの発明品が思い通りに動いてくれないときのそれとまったく同じだ。
 カオラに隙だらけと評された景太郎は、あどけなさの残る優面を物干し台の板敷きに擦り付けるようなよつんばいとなり、一心不乱でマスターベーションに没頭している真っ最中である。右手で包皮ごと幹をしごき、先端の鈴口からねっとりと逸り水を滴らせている姿は、おそらく深い挿入でのピストン運動をイメージしているのだろう。刀を構えた剣術使いの眼前でのこの淫行は、隙だらけとか無防備とかで評されるべきものではない。大胆不敵というか、泰然自若というか、あるいは厚顔無恥というか、ともかく常人の理解し得る精神構造をはるかに超越した振る舞いであった。
「あ、あいつ、きつねのことまで…もう信じらんないっ…!」
 それはもちろん、東大合格を目指して勉学に励んでいるなるの明晰な頭脳をもってしても同じことである。もはや景太郎はなるの心中で、理解不能かつ信頼不能にまで株を下げることとなってしまった。
 それでも、なるは景太郎と素子の様子をひたすらに見守らずにはいられなかった。もし万が一素子が平静を失い、本気で景太郎に斬りかかったら大事であるからだ。
 素子が構えている刀は正真正銘の真剣であるから、殺傷事件となる恐れは十分にある。それをどうにか傷害事件で抑え込むためにも、こうして見守る必要があるとなるは判断したのだ。
 なにより、カオラは事の成り行きを楽しんでしまっているし、しのぶは顔中を紅潮させて失神したままであるし、みつねは深酒で酩酊状態だし、事実上仲裁役はなる以外にいないのである。なるももちろんその意識はあったし、万一の場合にはいつでも飛び出せるように心の準備はしてあるつもりであった。
 その一方で、親しい異性のマスターベーションに興味がないわけでもない、というささやかな下心も、事の成り行きを見守る動機のひとつとなっていた。
 勃起しきりとなっているペニスは極めて醜怪であり、こうして視線が釘付けになっていてもその佇まいには慣れないが、景太郎の身体の一部だと思えばさほど不快にはならなかった。むしろ手荒にペニスをしごき立てて快感を欲張り、女々しい声でよがり鳴く姿がなんとも神秘的で、ついつい見入ってしまうのである。
 また、景太郎の妄想の相手が次々と変わってゆくことにも、なるは興味をそそられる。
 景太郎とは親しい間柄であるから、いわゆるオカズとして使われるのは良い意味でも悪い意味でも恥ずかしい。かといって、ひなた荘の住人で自分だけ無視されてしまうのは、女として純粋に面白くない。
 なるとしても驕るつもりはないが、カオラ、しのぶ、素子、みつね、と来たのだから、おそらく次は自分がオカズとして使われるのだと思っている。それでも彼女たち四人はそれぞれに女としての魅力がある一方で、自身は景太郎に冷たく当たったり、時には暴力をふるうことさえあるから、その予想が裏切られる可能性は十分考えられた。
使ってほしくないような、ほしいような…いや、積極的に使ってほしくはないけど…
 真っ赤に紅潮した顔面を両手で覆いつつも、指の隙間からしっかりと景太郎の痴態を見つめながら、なるは心中でそう独語した。女心は次第に混迷の色合いを深めてきて、やがて視界もやんわりと揺らいでくる。このままでいたら、足下で昏倒しているしのぶと同様、失神してしまいそうな気分であった。
「…あらあら、本当。なるさん、こんにちは」
「ひゃあっ!?む、むっ、むつみさんっ…!?」
 そんな矢先に、背後から思わぬのんびりとした挨拶が聞こえたので、なるは驚いた猫のようにビクンと肩を跳ねさせてしまう。
 目を丸くして振り返ると、そこには乙姫むつみが朗らかな笑顔を浮かべて佇んでいた。背後に歩み寄ってくる足音にさえ気付かなかったのは、それだけなるが景太郎の痴態に見入っていたからだ。別にむつみは抜き足差し足忍び足の達人というわけではない。むしろ、思わぬ障害物で派手に転ばなかったのが珍しいくらいである。
「あ、あの、むつみさん、どうしてここに…?」
「え?ああ…わたし、お風呂に入ろうと思って来たんですけど、下に誰もいないようでしたので…それで、なるさんや浦島くんは勉強中かなと思って上がって行ったら、ちょうどきつねさんが部屋に戻ってらっしゃって。それで、みなさんここに集まってるって教えてもらったものですから」
「え、あ、そういえば…」
 むつみがのんびりとした口調で語ったところで、なるはようやくその事実に気付いた。
 確かに、みつねの姿がここからはどこにも見当たらない。つい先程まで酔いにまかせて抱きついてきたり、酒臭い吐息とともに淫靡な独語を重ねていたはずなのだが、いつの間にか姿を消している。
酒に酔っている上に、いよいよ自身が妄想の相手となって、気分が悪くなったのだろうか。
 そんな懸念がこみ上げてきて、なるはまっすぐにむつみを見つめた。むつみの瞳は黒目がどこまでも澄んでいて、同性でありながらも惚れ惚れとするくらいに美しい。
「き、きつね、部屋に戻ってました?」
「ええ。なんだか真っ赤な顔して、おトイレでも我慢してるみたいに前を押さえてソワソワした様子でしたけど…」
「う、ううう…」
 見たままの様子を事も無げに語ったむつみの前で、なるはそれ以上の言葉が紡げなくなってしまった。みつねが部屋へ戻った理由が、何となくながら想像できたのだ。軽蔑とまではいかないが、どいつもこいつも、と呆れ返らずにはいられない。
「あら…?あらあらまあまあ、浦島くんったらどうしちゃったんですか?」
「え?いや、あの…これというのもちょっとした言葉の受け取り違いが原因なんです。その…抜けって、素子ちゃんに言われて…」
 むつみはようやく物干し台の真ん中で繰り広げられている景太郎の淫行に気付くと、ささやかな驚きで右手で口元を覆い隠しながらそう問いかけた。なるは呆れ返って脱力しながら、何ともやるせのない声音で事情を説明する。
 とはいえ、普通の精神構造ではあのような受け取り方はできないと、なるの理性は今なおこの現実をあるがまま受け入れられないでいた。どこかでまだ、これは受験勉強による欲求不満が原因の悪夢なんだ、と思い込みたい気持ちが存在している。
「…その素子さんは、どうして抜かないんですか?もっとも、女の子の場合はあまり抜くって表現はしないかと思いますけど…」
「…え?」
 景太郎の手荒なマスターベーションをまっすぐに見つめながら、むつみはぽつりとそうつぶやいた。なるはきょとんとなってまばたきひとつ、やがてマジマジとむつみの横顔を見つめてしまう。
 なるは一瞬むつみの質問の意味を量りかね、その意味が認識できると、今度はむつみの真意を探りにかかったのだ。
 どうして抜かないのか、とむつみは言うが、すでに素子は抜刀している。素子の愛刀、止水が見えていないということもないだろう。とすると、むつみは景太郎とよく似た性格であるから、と一抹の不安が胸中をよぎったのである。
「あ、もしかして浦島くんの様子を窺ってるんですか?浦島くんがこうくるなら、わたしはこうして…って」
「え、ちょっ…えっ…?む、むつみさん、何を言ってるんですか…?」
「…だって、抜けってことなんでしょ?どっちが先にイッちゃうか、あるいは気持ちよさそうに見えるか…そういうことで競ってるんじゃないんですか?」
「むっ、むつみさーんっ!?」
 なるの不安は見事に的中した。なるは苦笑しきりでむつみの両肩を激しく揺さぶるが、彼女はこの理不尽な振る舞いの意味がわからぬまま、頭をかくんかくんと揺らし続けるのみとなる。
 そんな二人のやり取りを横目で眺めながら、景太郎は接吻欲に焦れる唇に小さく舌なめずりをひとつ、なお荒々しくペニスをしごき立てていった。

 

 記念すべきファーストキスの相手は、できることなら意中の異性でありたい。
 思春期を迎えた男女であれば、大抵はそんな願望を抱いてしまうことだろう。
 浦島景太郎の場合は、残念ながらその願いは叶わなかった。思いも寄らなかった相手に、不意打ち同然で唇を奪われてしまったのだ。
「浦島くん…」
「あっ…ん、んっ…」
 先程から景太郎の右頬に、しきりに唇でじゃれついていた女は、ふと内緒話するかのように彼を呼びかけた。
 わずかにひそめられた異性の声音。
 ゾクゾクと鳥肌立つような頬のくすぐったさ。
 それら男としての情欲をかき立てられる要素に、景太郎は息詰まるほどの緊張感を覚えて身を強ばらせる。
 その女は、決してグラビアアイドルのような艶やかさに満ちている女ではない。
 日頃から親しくしている受験勉強仲間の乙姫むつみだからこそ、景太郎はその生々しさに戸惑いと興奮を覚えてしまうのだ。もしグラビアアイドルがこうして頬にキスしてくれたとしても、夢みたいだとはしゃいでしまうだけで、思い詰めたような興奮まで喚起することはないだろう。
 現に景太郎はむつみにじゃれつかれ、先程から興奮しきりとなっている。
 炬燵で暖を採り、寒さ対策で重ね着をしていることもあって、もう身体中から顔中からが熱くてならない。鏡を見るまでもなく、顔面は真っ赤に火照っていることだろう。
 鼻の頭には汗の粒が浮かんでいるし、胸の鼓動も高鳴って、すぐ耳元で動悸として聞こえている。もちろんペニスはたくましく勃起して、数週間ぶりの射精をせがむようにせつなく焦れどおしだ。
 こうなってしまうと、景太郎は了承や拒否はおろか、まともな応答すらできなくなってしまう。つい今しがたまで集中して受験勉強できていたのが、どこか遠い昔のようにさえ感じられるくらいだ。
 とはいえ景太郎は、これから先、自分がむつみによってどうされてしまうのか十分にわかっている。わかっていながら、彼はただただむつみに身を委ねてしまう。
 そういう事情からしてみれば、景太郎の態度は極めて曖昧といえよう。煮え切らない、とも表現できるかもしれない。
 それでもむつみは機嫌を損ねたりせず、むしろ好きなようにさせてもらえることが嬉しくて、再び景太郎の右頬に唇を寄せた。景太郎と同様炬燵で暖を採り、こちらはハイネックのセーターを着ていながらも、彼とは対照的に余裕たっぷりの表情である。
 あらためて炬燵の角に身を寄せ合って、ひとつ、ふたつ、みっつ、もっともっと。
 そのまま、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と弾むようなリズムで、むつみは景太郎の頬にいくつもいくつもキスを撃ってゆく。
 そのうちむつみは少しずつキスの位置を変えてゆき、ついには断りもなく、景太郎と唇どうしを重ね合わせてしまった。
 ここまでされても、景太郎は観念したように目を伏せるだけで、拒む素振りは一切見せない。むしろわずかに小首を傾げ、薄膜どうしの密着感を欲張ってしまうほどだ。もはや何の弁解のしようもなく、二人の合意の上でのキス成立である。
「ん…」
「んぅ…」
 キスが成立した途端、景太郎の鼻からもむつみの鼻からも、かわいらしく上擦った鼻声が漏れ出て甘やかな和音となった。その猫撫で声にも似た響きは、まさに二人がご満悦そのものの心地に至った証に他ならない。
 思春期を迎えた男女の唇は、たとえ暖房の利いた室内にあってもかさつくことなく、常に瑞々しい潤いに満ち満ちている。
 景太郎の唇も、むつみの唇も、まるでお互いにキスを待ち焦がれていたかのように、しっとりとした湿り気を帯びていた。そのため二人の薄膜は、まさに吸い付き合うような自然さで密着し、ふんわりとたわんで落ち着く。
 そのまま、一秒、二秒、三秒、そのまま、そのまま。
 二人は十秒を軽く超えて、唇どうしでの密着を維持し続けた。目を伏せて、呼吸を止めて、じっと、じいっとキスの心地良さに浸り続ける。
 こうして仲睦まじくキスを交わしてはいるものの、景太郎とむつみは永遠の愛を誓い合った夫婦ではないし、ましてや恋人どうしの関係ですらない。
 二人は三年目の浪人生活を送りながらも、念願の東京大学進学を一途に目指し、年の瀬迫る今もなお勉学に励んでいる受験勉強仲間だ。そういった共通意識からお互いに親近感を抱き合ってはいるが、それが思慕の情と直結しているというわけではない。
 にもかかわらず、睦み合う楽しさを覚えたばかりの恋人どうしのように振る舞っているのは、なによりむつみの性癖によるところが大きい。
 むつみはキスが大好きだ。親近感を抱いた相手とのキスは、男女の別無く夢心地を覚えることができるから、自らキス好きを公言してはばからないほどである。
 特に景太郎とのキスは、むつみにとって格別のものであった。
 キスは気持ちを伝えたり、あるいは相手の気持ちを推し量るのに最適なスキンシップである。それは唇が、立派な性感帯のひとつとして数えられるほどに繊細で敏感な部位であることからもわかるだろう。
 景太郎は温和で優しく、性別や年齢を問わず親しみやすい性格の持ち主である。そんな性格が如実に反映されるから、景太郎とのキスはすこぶるつきで心地良いのだ。唇を重ねた途端に甘酸っぱいような感覚で胸がいっぱいになり、やがてその嬉し恥ずかしい気持ちが穏やかな安堵感に変わってゆくのである。
 その夢心地はまさに、唇どうしのキスならではの醍醐味ともいうべきものだ。これを感じたいがために、むつみはついつい親しい人間に、特に景太郎にキスをねだってしまうのである。
 一方で景太郎にしてみても、むつみとのキスは、他にたとえようがないくらいに素敵なものであった。
 性格で見ても、むつみは包容力たっぷりの純心の持ち主であり、彼女の生まれ故郷である沖縄の日差しのように明るく朗らかで、常に優しく慈しみに満ち溢れている。
 容姿で見ても、むつみは十分にかわいいと称される部類である。常に前向きな性格であるためにむつみはいつでも笑顔を絶やさないが、世の男はそれだけでも彼女に対して並々ならぬ好感を抱いてしまうことだろう。
 だから景太郎も、むつみに唇を奪われても悪い気はしないし、雄性として十分に興奮もする。事実から見れば、景太郎はむつみに自らの唇を奪わせているのだから、彼もまたキスの心地良さに、そしてキスできる悦びに抗しきれなくなっているわけだ。
 むつみの唇の繊細な柔らかみ。優しいぬくもり。
 ほのかに伝わってくるリップクリームの香味。
 ささやかに漂うコロンの甘い香り。
 その中に溶け込んでいる、むつみ固有の匂い。
 それらに誘発されて、こみ上げてくる嬉しさ。気恥ずかしさ。照れくささ。
 まさに渾然一体となったキスの要素に、景太郎の男心は深く満たされてしまう。
キスって、本当にいい気持ち…。
 景太郎はだらしないほどに惚けた意識の中で、ぼんやりとキスの感動を噛み締めた。無我夢中の恍惚感余って、ついつい陶酔の溜息を鼻から漏らしてしまう。
 深々と吐ききってから、景太郎はようやく自身の失態を恥じたが、時すでに遅し。景太郎の鼻息はたっぷりとむつみの頬をくすぐり、それで彼女はキスしたまま小さく吹き出してしまった。
 とはいえ、景太郎の溜息はいいきっかけとなった。むつみも景太郎に倣うよう、溜め込んでいた息を深々と鼻から吐き出し、そのまま控えめに息継ぎする。それで景太郎も遠慮なく息継ぎして、お互いに心持ちはにかんだ笑みを交わした。
「浦島くん…」
「むつみさん…」
 お互いの呼吸が整うのを待ってから、むつみは唇どうしを触れ合わせたまま、まるで口移しするかのように景太郎を呼びかけた。景太郎もむつみに倣って名前を呼び返し、しばしお互い、鼻先をツンツンと触れ合わせてじゃれ合う。
 そのうちむつみは金魚の口を真似るように唇をすぼめ、ぴったりと重ね合わせていた景太郎の唇を何度も何度も繰り返し割り開いた。景太郎もむつみのリードに合わせ、恐る恐るの丁寧さで唇遣いを真似てみる。
 すると、先程までの重ね合わせているだけのキスは、お互い代わりばんこで吸い付き合う情熱的なキスへと発展していった。
 むつみが吸い付いて、景太郎の唇を割り開き。
 今度は景太郎が吸い付いて、むつみの唇を割り開き。
 また今度はむつみが吸い付いて、景太郎の唇を割り開き。
「んっ、んっ、んっ…ん、んん…」
「んぅ、んぅ、んっ…んんんっ…」
 むつみも景太郎も、しきりに上擦った鼻声を漏らして悦に入る。淫らな韻律さえ帯びてきている二人の鼻声は、もはや荒ぶった鼻息となって互いの頬をくすぐっている始末だ。
 唇は男女に共通した、立派な性感帯のひとつである。じゃれ合うつもりで刺激していても、その心地良さを欲張り続けたら、やがては後戻りできないほどの発情期を迎えることとなる。
 現に不慣れな景太郎はもちろん、先に仕掛けてきたむつみさえ性的興奮に頬をほんのりと紅潮させてきた。普段は受験勉強に集中していてそれどころではないが、思春期を迎えている二人の心身は、鬱積している性欲が解放される瞬間を今か今かと待ちわびているのだ。
 そんな衝動が無意識下に発露して、寄り添っている身体を支えていた景太郎の右手とむつみの左手がおずおずと近づき、やがてどちらからともなくお互いの指を摘み合うようにじゃれつき始めた。
「すふ、すふ、すふ…ん、んんんっ…」
「ふぅ、ふぅ、ふぅ…ん、んぅう…」
 それに合わせて、繰り返し繰り返し唇をついばみ合っていた二人の吐息は、なお一層荒ぶりを増してゆく。上擦った鼻声もどこかもどかしげとなり、炬燵の角に寄せていた身体は接触欲にすら憑かれ、ぴったりと肩から二の腕からをくっつけてしまったほどだ。
 こうして夢中で睦み合う二人の愛欲が、さらに熱く燃え上がろうとした、その矢先。
 断りも何もなしに障子戸が開かれ、一人の若い女が現れた。
「ううう、寒かったぁ…って、ちょ、またあんた達っ!!」
「んんんっ…!な、成瀬川っ!!」
「んぁ…な、なるさん」
 それで二人は我に返り、現れた女の名をそれぞれで驚きの声にした。
 とはいえ、その驚き様は二人でまったく異なるものである。
 景太郎は驚きのあまりに肩をビクンと跳ねさせ、現れた成瀬川なるの射竦めるような眼差しに動揺しきりとなってしまう。その狼狽えぶりはまるで、雷鳴におののく子犬さながらだ。
 一方でむつみは普段通りの穏やかな物腰で、少々長めの用足しから戻ってきたなるにはにかみ半分で微笑みかけている。とはいえ不敵を気取っているわけでもないし、開き直っているわけでもない。景太郎とのキスシーンを目撃されて、素直に照れているだけだ。
 そんな二人の態度を気に留めることなく、なるは美少女の素顔を憤怒の形相に歪め、後ろ手で障子戸をぴしゃりと閉めた。そのヒステリックな音に景太郎はますます萎縮し、眼鏡の向こうの瞳を危なっかしく潤ませてしまう。
「あ、あっ、あの、成瀬川、これは…」
「今度の今度こそ言い訳無用っ!このドスケベッ!女の敵っ!」
「ひゃあっ!そ、そんなあっ!!」
 景太郎は慌てふためいて弁解しようとしたが、そんないとまは与えられない。
 なるは景太郎に飛びかかるなり、右腕で彼の首を抱き込むようにしながら、力任せにむつみの側から引き離した。その右腕を左手でロックしてチョークスリーパーを極めると、もろとも仰向けで折り重なるよう畳の上に寝そべってしまう。
 こうなってしまうと、もはや景太郎はお手上げであった。チョークスリーパーは寸分の緩み無く極まっているため、意識はビデオテープの高速再生で日が暮れてゆくようにするすると遠のいてゆく。
「な、成瀬川っ、苦しいっ…!ぎ、ギブアップ、ギブアップ!!」
「ごめんなさいはっ!?」
「ご、ごめんごめん!!ごめんなさいっ…!!」
「もうしないって、約束できるっ!?」
「も、もうしないっ!もう絶対しないから…ほ、ホントに落ちちゃうっ…!!」
 なるの叱りつけるような厳しい問いかけに、景太郎は必死の思いで答える。なるの柔らかみとぬくもりを背中に感じるものの、それに感激している余裕もないくらい血流と呼吸が阻害されているのだ。なんとしてでも上手く返答しなければ、チョークスリーパーの言葉どおり、まさに眠るように失神してしまうことだろう。
 なにより景太郎には、なるに対して後ろめたい気持ちがあった。だから彼女の一方的な言いつけにもいちいち疑問を抱いたりしない。
 なるは景太郎より三つ年下で、やはり東京大学進学を目指している受験勉強仲間だ。
 初対面の時からずっといさかいが絶えない二人ではあるが、同じ東大受験生という共通意識もあって、最近では勉強に遊びにとすっかり親しい間柄になってきた。それどころか、お互いに色恋とは無縁の生活を送ってきていただけに、それぞれで淡い憧憬めいた感情を持ちつつあるのが現状であった。
 だから経緯はどうあれ、別の女とキスしている場面をなるに目撃されては、景太郎も後ろめたさのあまりに良心の呵責に苛まれることとなる。ましてや相手は同じ受験勉強仲間のむつみであるから、なるとしても面白くない。恋人どうしの関係ではもちろんないのだが、景太郎もなるもお互いに異性を意識しているぶん、思春期の心はどうしても揺れ動いてしまうのであった。
 閑話休題。なるは景太郎の切羽詰まった返事にひとまず溜飲を下げ、ようやっと彼を戒めから解放した。景太郎は慌てて身を起こし、しきりに喉をさすって激しく咳き込む。
「浦島くん、大丈夫ですか?」
「えほっ、えほえほっ…は、はい…すみません、むつみさん…」
「…なるさん、そんなに浦島くんばかり責めないでください。元はといえばわたしが悪いんですから。私も謝ります。本当にごめんなさい」
 半ベソであえぐ景太郎の背中を左手で撫でさすりながら、むつみはなるに頭を下げて丁寧に詫びた。これにはなるも気まずそうに視線を逸らし、手持ちぶさたとなった左手の指先でかりかりとあごを掻いたりする。
「た、確かに、むつみさんも気を付けてくださいっ。その、コイツってホントにスケベだから、ほっぺだけのつもりがついつい唇どうしでのキスにまで至っちゃうんでしょうし」
「や、やっぱり俺が悪いのかよぅ…」
 なるはあくまで景太郎に罪を着せながら座布団に腰を下ろし、ストッキングに包まれた両脚を炬燵に潜らせた。正面の景太郎が眼鏡をかけ直しながらぼやくものの、なるは聞こえない素振りで聞き流す。
「…わたし、なるさんに疎外感を与えてしまったんですね」
「…えっ?そ、疎外感?」
 そんな二人のやりとりを見て、ふとむつみはうつむき気味となってそうつぶやいた。
 これには聞こえない素振りを装っていたなるも思わずマジマジとむつみを見つめ、素っ頓狂な声で聞き返してしまう。どこをどう解釈したらそういった単語が出てきたのか、まったく理解できなかったのだ。
「ええ、本当にごめんなさい。我々ローニンズは、いつでも仲良く協力し合って東大合格を目指してるんですものね。今度からは浦島くんばかりでなく、なるさんにも平等に分け隔てなくキスできるように努力しますから。あ、せっかくですから今すぐにでも…」
「え、ちょ…わ、わたしが怒ってるのはそういうことじゃなくって!!」
 むつみが悲壮感すら漂わせた上目遣いとなって申し出てきたところで、なるは苦笑半分、ブルブルと大きくかぶりを振った。むつみはきょとんとなってまばたきひとつ、景太郎もようやく呼吸を落ち着けて、揃ってなるを見つめる。
「あ、あのねえ!わたしが言いたいのは、わたしの部屋でイチャイチャしないでってこと!さっきまで集中して勉強できてたのに、キスしてるところなんて見ちゃったら気が散ってしょうがないじゃない!それに、今日で三回目よ!?三回目っ!!」
「う…」
「んぅ…」
 なるは声も身振りも大きく、そして先程目撃した光景に怒りと恥じらいを呼び戻して顔を赤くしながら、不埒な二人の受験勉強仲間に言い聞かせた。これには景太郎はもちろん、思い違いで恐縮していたむつみまでもがうつむいて萎縮してしまう。
 なるの言うとおりで、ここはひなた荘三階の三○四号室。つまり、彼女が女子寮ひなた荘で借りている私室だ。
 今日はなるの部屋に受験勉強仲間三人、通称ローニンズが集合し、勉強会を開いていたのである。朝方から開始して昼食を挟み、やがて三時の休憩時間になろうかというところでなるが用足しに立ち、そこで残された二人がイチャイチャとじゃれ合い始めたというのがすべての経緯だ。
 とはいえ、景太郎もむつみも、当初はじゃれ合うつもりなど毛頭無かった。
 なるが席を立ってからも、景太郎は参考書とにらめっこしつつ、複雑な数式の展開に取り組んでいたのである。むつみと二人きりになったからといって、彼女に色目を使ったりしたわけでは断じてない。
 一方でむつみは英訳練習に一段落ついたところで、なんとはなしに景太郎に視線を移してしまった。一息ついたところで、ついつい余所見してしまったのだ。
 何事であっても、一生懸命になっている人間の姿というものは素敵に映るものである。
 普段から恋愛というものに憧れる素振りがないむつみであっても、思春期を迎えた立派な女だ。異性の何気ないしぐさや振る舞いに胸をときめかせたところで、不自然だと指摘される謂われは何もない。
 ましてやむつみは、景太郎に対して一方ならず好意を抱いている。
 とはいえそれは、思春期を迎えた女心からの好意ではない。あくまで両親や兄弟姉妹、あるいは親しい友人に対して抱く親近感の延長線上にある感情だ。相手によって分け隔てすることのない、むつみの真心からの好意である。
 その上でむつみは、景太郎が相手だとどうしても母性がくすぐられてしまう。
 景太郎とむつみとは、趣味や嗜好、性格や行動パターンと不思議なくらいに共通点が多い。似たもの同士はそりが合わないともいうが、男と女という決定的な違いが幸いして、むつみは景太郎に並々ならぬ親近感を覚えてしまうのだ。
 容姿で見ても、景太郎の面立ちはあどけなさを残しているぶん愛嬌があり、異性の好感を得るに十分である。もちろんむつみも、景太郎の気取りのない笑顔は大好きであった。それ故に子犬や子猫、あるいは無邪気に微笑む赤ん坊を前にしたときのように、愛おしさあまって頬摺りしたくなるような衝動に突き動かされるのである。
 ともあれ、単に余所見していたはずのむつみは、いつしか景太郎に見惚れてしまっていた。身も心も燃え上がるような一目惚れというわけではないが、それでもむつみは確実に女としてのときめきを覚えてしまったのだ。
 そのときめきは本当にささやかなものではあったが、むつみの純粋な想いはどこまでも大きく、そして温かく膨らんでいった。それはたちまちむつみの胸の真ん中をいっぱいに満たし、どうしようもないほどの人恋しさで呼吸を詰まらせたのである。
もっともっと、彼と一緒でいたい。時間的にも。距離的にも。
 そんなもどかしい衝動に、やがてむつみの唇はせつなく疼き始めた。
 瑞々しいむつみの唇は、その上品な形とは裏腹に、下品なくらいの接吻欲でウズウズと焦れてしまう。理性もその焦燥感には抗えず、あっさりと欲望に屈服することとなった。
 あとは承前の通りである。むつみは炬燵の角に身を寄せると、わずかにその身を乗り出し、景太郎の横顔に唇を押し当てたのだ。
 勉強の邪魔をしたくはなかったのだが、一度キスしてしまうと、もう歯止めは利かない。戸惑う景太郎におねだりして、彼のすべらかな頬に唇をじゃれつかせて接吻欲をなだめようとしたのである。
 一方で景太郎は勉強に集中していたため、予想外のむつみのじゃれつきに驚き戸惑い、慌てて制しようとした。これは紛れもない事実である。
 ここがなるの部屋だということもわかっていたし、なにより景太郎はなるに想いを寄せている。もしこんな場面をなるに目撃されたら、誤解されてますます嫌われてしまうであろうことは明白だったからだ。
 それでも、むつみのおねだりには逆らえなかった。普段の彼女らしからぬわがままな声音に、景太郎の男心はたちまち腑抜けとなってしまったのである。頬にだけならいいか、と何の根拠もなく判断すると、景太郎はそのまま束の間の果報に身を委ねてしまったのだ。
 それでも、景太郎はその束の間の果報を味わいすぎてしまった。頬に感じる唇の柔らかみを同じ唇で感じてみたいと、さらなる果報を望んでしまったのだ。
 積極的に求めたわけではないが、それでも景太郎は未必の故意同然で、その望みを叶えることができた。思う存分にむつみとキスを楽しみ、夢心地に浸ることができた。
 しかし同時に、想い人から軽蔑の眼差しを送られることにもなった。しかも今回が三回目である。もうしない、と約束しながらの三回目だから申し開きのしようもない。景太郎としてはもう後悔してもしきれず、ただひたすら自責の念に駆られるばかりである。
「ま、まあこの間も言ったけど、私の部屋でさえなければ別にいいんだけどね?景太郎とむつみさんがどれだけイチャイチャしてようと」
「…あ、な、成瀬川!ちょっと待ってよ!さっきの数式の展開、戻ってきたら教えてもらおうと思ってたんだからっ!」
 なるはうつむいたままの二人に視線を向けもせず、早口にそう言い捨てるなり、広げたままだった数学の参考書からノートからを片づけ始めた。すねたようにとがらせた口元は、まさに仏頂面そのものである。せっかくの美少女ぶりも台無しだ。
 そんななるを見て、景太郎は慌てて自らのノートをひっつかんで彼女に指し示した。そこにはむつみとじゃれ合う前まで懸命に取り組んでいた数式が、まさに見開き二ページに渡って展開されている。
 なるは一応景太郎のノートに視線だけを向けたものの、その数式展開はあくまで練習での走り書き文字だ。ぱっと見ではどこまで展開されているのか、そもそもきちんと展開されているのかどうかすら怪しい。それに乱雑な文字ばかりでは、どうしても検算するのが億劫になってしまう。
 なにより今のなるにとっては、景太郎が勉強そっちのけでむつみとじゃれ合っていたという印象が強すぎた。普段通りの心境なら多少の骨は折ってやろうかという気にもなるのだが、今はどうしてもその気になれない。むしろ冷たく突き放してしまいたい気分だ。
「ふんっだ!今日はもう勉強する気なんて無くなっちゃったわよっ!あんたとむつみさんだけで勉強すれば?キスでも何でも!」
「ううう、だからさっきから謝ってるじゃんかぁ!ねえ成瀬川、本当にゴメン!ごめんなさいっ!この通りっ!!」
「ああうるさいっ!もう知らない知らないっ!」
 なるはふてくされた口調を改めもせず、景太郎がどれだけ恐縮しきりになってもまったく取り付く島がない。きつく目を閉じ、徹底的に無視を決め込む始末だ。
 とはいえ、なるも自分が随分と大人げない態度を取っているということは十分わかっている。我を忘れるほどに憤慨しているわけではない。もし仮にそうなら、とうに景太郎の横っ面を引っぱたき、当てもないままに部屋から飛び出しているところだ。
 むつみがキス好きで、気に入った相手には誰彼無くねだることくらいわかっている。
 景太郎が依頼を断ることのできないお人好しな性格だということもわかっている。
 それでもなお片意地を張り、景太郎に冷たく当たるのは、やはりヤキモチを妬いているからだ。誰にでも優しくて、ねだられたらキスにだって応じてしまう景太郎に不満を抱いているからだ。
 景太郎とは将来を誓い合った関係ではないし、告白を交わして両想いを確かめ合った仲でもない。だから景太郎が誰と恋愛関係になったところで、なるにはまったくの無関係であるはずだ。
 にもかかわらず、ここまで嫉妬の虫を大暴れさせてしまうのは、少なからず景太郎のことを異性として意識しているからに他ならない。
 なるにとって、景太郎は初めて親しい友人となった異性である。出会った頃の印象こそ最悪ではあったが、同じ女子寮の住人として、同じ東大受験生として、そして同じ思春期の男女として日々を送るうちに、今では格別の思い入れを有している。
 そのぶん景太郎が自分以外の異性と親しくしていると、自分たちの心の距離が開いていくような気がして落ち着かないのだ。ちょうど弟や妹が生まれて、そのために母親を取られてしまうような不安に苛まれる兄や姉の気持ちに似ているだろう。それはあくまで思い込みであり、子供じみたわがままでもあるが、なにぶんなるはこの歳になるまで異性の友人を持ったことがないのだから仕方がない。
 特にむつみは、なるが景太郎と親しくなってから現れた同年代の女だ。むつみのほうがなるより若干年長ではあるが、先程のたとえでいえば妹が生まれたのと同じ心境である。それで景太郎と仲良くしていては、なるとしてはやはり落ち着かない。
 それでいてむつみはなるから見ても美人だし、スタイルもいいし、性格も思いやりに溢れていて、素直に素敵な人だと感じている。しかも景太郎とは驚くほどに気が合うし、同時に彼の良き理解者でもある。なるとしてはむつみの長所ばかりが気になって、焦りは募る一方なのだ。
 そんな焦燥を感じていながらも、なるは景太郎と恋人どうしになりたいとまでは思えない。それは嫌悪感からではなく、純粋に気恥ずかしくて、そんな状況を想像することすらできないからだ。
 とはいえ、気が置けない親友どうしとしてなら、ずっと付き合っていたいと思う。それはなるの、極めて素直な心根であった。景太郎とは気が置けない友人どうしでいたいし、いさせてほしいと思っている。一緒に東大受験も合格したいし、大学へ行ってからも気兼ねなく付き合える関係でいられたらとさえ思っている。
 そう思っていながら、なるは照れくさくて口に出せなかったし、同時にその願いは誰にも知られたくなかった。だからこそ、景太郎がむつみとキスしていることに苛立ちを覚えても、その理由まで説明することができないのだ。できることといえば、その苛立ちに任せて心にもないことを吐き捨てるくらいである。
 素直になりきれない子供じみた性格は、こんな場面で大いに損をすることもわかっている。それでも自分から折れるだけの潔さがない。ちっぽけなプライドを捨て去るだけの勇気もない。
 そんな自分自身が情けなくて、なるは景太郎からそっぽを向きながら、なんだか泣きたい気分にすらなってきた。
「まあまあ、なるさんもそんなに怒らないで…あ、わたし、わかっちゃいました!」
 むつみは先程から交互になると景太郎の様子を窺っていたのだが、恐る恐る仲裁に入ろうとしたところで、やおらぺちんと両手を合わせて嬉々とした声を響かせた。まるでごちそうを前にして、いただきますの挨拶でもしたかのようなしぐさに、景太郎もなるも揃ってむつみを見る。
 むつみはにっこりと相好を緩めると、なるにだけ視線を向け、そっと左手で口元を覆い隠した。その様子はまるで、女だけで内緒話を楽しもうとしているかのようである。
「…なるさんって、浦島くんのことが好きなんでしょ」

 

つづく。

 

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