<<ラブひな>>

happiness on happiness (14)

作・大場愁一郎


 

「…え?」
 むつみはわずかに眉をひそめて苦笑しながら、ぽつりと景太郎に告げた。その何気なさはまるで、逆上がりができないんです、とでも告白したかのようだ。
 そのために景太郎もむつみの言葉の意味を量りかね、ぱちくりとまばたきしながら呆けたように彼女を見つめるのみとなってしまった。もちろんむつみの言葉は簡潔で端的でなおかつ明瞭であったのだが、そのぶん何か暗喩めいた意味合いでも含ませているのではと勘繰ってしまい、意識と思考が同調できなくなったのだ。 
「ですから、どれだけエッチしても妊娠できない身体なんです」
「え、ちょ…えっ?せ、生理は…」
「あ、生理はすごく不規則ですけど、一応ありますよ?でもね、卵子が受精しても、その受精卵が子宮内膜に着床できないようになっちゃったんです。うらしまくんも受胎のしくみは知ってますよね」
「し、知ってますけど…」
 むつみは苦笑半分のまま、いつもと変わらぬ穏やかな口調で自身の体質についてを語って聞かせた。それでも景太郎は相変わらず意識と思考の同調が取れず、事の重大性を漠然と感じながら、なんとも曖昧な相槌しか打つことができない。
 赤ちゃんができない。妊娠できない。受精卵が子宮内膜に着床できない。
 それなら膣内射精しても安心だ、と景太郎は思ったりしない。女であるむつみにとって、それはとてつもなく大きな問題なのでは、とほの暗い焦燥感に駆られてくる。もちろん、子供を産めなくなったむつみが問題だというわけではない。あくまで、むつみが子供を産めなくなった事実が問題だと思うのだ。
「で、でも…でも、それって、どうして…?」
 ようやくむつみの言葉の意味をきちんと把握できた景太郎は、それに続けて浮かんできた疑問を一瞬たりとも我慢できずに問いかけていた。
 むつみは初めからそうだったとは言わず、過去完了の形で説明したのだから、そうなった理由がなにがしかあるはずである。もちろん自分から望んでそうしてもらったというわけでもないのだろう。
 むつみのプライバシーに踏み込んでしまうということも承知の上で、景太郎は知りたかった。衝撃的な話題に対する好奇心からでは決してない。むつみから女としてのかけがえのない機能を奪うことになった経緯が、その事実だけでも納得できなかったのだ。膣内射精を遂げてしまった不安は、むつみを不妊の身とした境遇への憤りに変わりつつあった。
 そんな景太郎の動揺をよそに、むつみは横臥していた身体をゆっくりと仰向けた。そのまま左手で慎ましやかに乳房を覆い隠し、まっすぐに天井を見つめて小さく息を吐く。
「…それじゃあ、昔話から始めましょうか」
 そうつぶやくむつみの横顔を見つめたまま、景太郎は今までに経験のない類の濃密な緊張を覚え、ごくんと生唾をひとつ飲み込んだ。

 むつみの昔話は、彼女が高校二年生の夏休みを迎えた場面から始まった。
 これはむつみが景太郎に語ったことではないが、高校生の頃のむつみも、現在と同様に朗らかな笑顔が魅力的な女であった。豊満なプロポーションこそまだまだ発育途中であったが、気さくで温厚な性格のために、彼女を慕う者は老若男女の別なく多かった。
 特に同年代の男達の間では、むつみはかなりの好感度を集めていたものだ。あまりに美人過ぎることもなく、ずば抜けて成績優秀というわけでもなく、逆に少々おっちょこちょいなところが親しみやすかったのだろう。気軽に話しかけられる人当たりの良さもあって、むつみの周りにはいつでも友人が集まり、談笑が絶えることはなかった。
 そんな夏休みのある日、むつみは友人達からライブハウスへ誘われた。
 ライブハウスといっても、さほど大きくない島の町での話だ。その実体はといえば、日が沈んでから小さなライブ会場としての場を提供してくれる軽食喫茶のことである。島の若者達は、わざわざ格好を付けてそう呼んでいるだけのことであった。
 従って演目もロックばかりというわけではない。時にはフォークソング、時にはジャズやブルース、またある時には三線やウクレレで琉球音楽やハワイアンといった風にバラエティ豊かで、誰もが気軽に生演奏を楽しめる憩いの場であった。
 そんな島民の憩いの場であるライブハウスでも、夜になれば自ずとアルコール飲料の売れ行きが好調となる。従ってむつみの高校の校則でも入店禁止となってはいたが、真面目に校則を遵守している者は二割にも満たなかった。残りの八割のうち、音楽に興味のない者が三割程度であったから、結局過半数がライブハウスで生演奏を楽しんでいたのが現実である。もっとも、学校の側も厳しく対応したりはしなかったし、店側も学生には飲酒や喫煙を許さなかったから、事実上その校則は形骸化していたと言えるのだが。
 さて、当のむつみはといえば、実は二割の少数派に属していた。
 とはいえ、音楽が嫌いというわけではもちろんない。テレビなどで聞いて気に入った音楽はCDで購入していたし、ライブハウスでの生演奏にも興味はあった。ただやはり校則を破るのはいけないことだと思っていたし、なにより帰宅してからは幼い弟や妹の面倒を見なければならなかったからそれどころではなかったのだ。
 にもかかわらずライブハウスへ足を運ぶ気になったのは、友人がおごってくれると言ったスイカのスカッシュ、商品名スイカッシュに興味をそそられたからである。
 夕食の準備をしながら、むつみは両親に頼み込んで許可をもらい、喜び勇んでライブハウスへ向かった。スイカが大好きなむつみにしてみれば、その陳腐なネーミングも、当夜の演目もすっかり意識の外であった。一度でいいから、その未体験のソフトドリンクを味わってみたいという一心であったのだ。
 実際、スイカッシュは期待していた以上に美味しかった。口いっぱいにスイカの甘味が広がりながらも、炭酸の刺激が後味を残さずすっきりとした味わいを演出してくれるからゴクゴクと一息にでも飲んでしまえるのである。夢中でおかわりをオーダーして、友人達に苦笑されたくらいだ。
 その二杯目のスイカッシュに舌鼓を打ち始めたところで、ちょうどライブが始まった。
 当夜の出演者は四人編成のロックバンドであり、友人達は彼らの音楽が目当てであったから、そこで談笑は中断を余儀なくされた。むつみもせっかく演奏しているのに飲んでばかりいるのも悪いと思い、ひとまず友人達に倣って耳を傾けることにした。
 社会人とおぼしき彼らは、アマチュアとはいえ相当な演奏技術を身に付けていた。演奏だけでなく、パフォーマンスも堂に入っていたものである。元気いっぱいのドラムも、目立ちたがり屋のベースも、職人気質で寡黙なギターも、それぞれ十分プロとして通用するのではと思わせるだけの迫力でライブを盛り上げていった。
 中でも、時には優しく、時には熱っぽく歌い上げるボーカルがむつみの印象に残った。背が高くて凛々しい顔立ちといった見た目はもちろん、声質や声量も、テレビで見かけるミュージシャンに引けを取らないくらいに格好良く思えたのだ。
 特にむつみは、彼の歌う歌詞に心を惹かれていった。とうてい手の届かないような理想の物語ではなく、同じ高さの目線で見た恋愛への憧憬や夢への情熱、あるいは現代社会への皮肉といった新鮮で瑞々しい歌詞がむつみの琴線に響いたのである。それに加えてメロディーも親しみやすかったから、サビだけなら当夜の演奏だけで覚えてしまったほどだ。
 そしてむつみは友人達と同様、彼らの音楽が目当てでライブハウスへ足繁く通うようになっていった。一口で大好物となったスイカッシュも、何度目かのライブからは喉の渇きを癒すための単なる添え物になってしまった。

 むつみの回想が一段落したところで、景太郎は腕枕している左手でなんとなく彼女の前髪に触れた。汗で額に張り付いている前髪を指先で丁寧に退けると、むつみは嬉しそうに目を細め、小さく安堵の息を吐く。
「…そのボーカルって…もしかして、むつみさんの…」
「…ええ。初めて恋人としてお付き合いさせて頂いた方です」
「んぅ…」
 景太郎の躊躇いがちな問いかけが終わるより早く、むつみは丁寧にそう答えた。その答えは過去形でありながらも、たちまち景太郎の胸中には嫉妬の炎が揺らぎ始める。
「じゃあ、その人のこと…好きだったんですよね?」
 そんなこと聞くまでもないことだろ、とヤキモチ妬きの男心が悲鳴をあげていても、景太郎は何かに取り憑かれたかのように余計な問いかけを重ねてしまう。
 過去の男の話など、どんな形であれおもしろくないことはわかっている。男は基本的に独占欲の強い生き物であるから、現在その愛情を一身に注いでもらえる立場であっても、過去にそうされていた男がいると思うだけで嫉妬の虫を騒がせてしまうものなのだ。
 それでも過去の男のことが気になってしまうのは、景太郎にはまだ雄性としての自信が十分に備わっていないからである。愛おしい彼女を惹き付けておけるだけの確固たる自信が無いから、景太郎は過去の男の影にすら怯えてしまうのだ。むつみに身も心も許してもらってなおこうなのだから、景太郎の自信喪失は相当重傷であったと言えよう。
「…ええ、好きでした。大好きでした。この人に一生添い遂げたいって、心からそう思ってました。彼も、わたしの気持ちに応えてくれてましたからね」
「う、うううっ…」
 そんな景太郎の焦燥を空気で感じながらも、むつみは天井を見つめたまま、過去の感動をあえてつぶさに語った。そのために景太郎の嫉妬の炎は激しく燃え盛り、身体の芯から焦げ付かんばかりにまで火勢を強めてくる。
 せつなさあまって唇を噛み締めると、景太郎は独占欲のままに右手を伸ばし、バスタオルの上からむつみの腰を抱き寄せてしまった。腕枕している左手も、彼女の髪に指を埋めるようにして頭を抱き込んでゆく。こうしてむつみを抱き締めていないと落ち着かないくらい、景太郎の人恋しさは大きく大きく膨れ上がってきた。
 むつみも別段拒んだりせず、むしろ積極的な抱擁を歓迎するように、乳房を覆い隠していた左手で景太郎の右手に触れた。そのまま手首から手の甲からを優しく撫でながら、今度は右手で乳房を覆い隠し、またひとつ安堵の息を吐く。
「うらしまくん、しばらくこうして抱き締めていてください…。ここから先は、ちょっと湿っぽいお話になりますから…」
「う、うん…」
 むつみはちらりと視線だけを景太郎に向け、少し困ったような苦笑を浮かべてそうねだった。景太郎はむつみを抱く両手に一層の力を込めながら、緊張の面持ちでうなずく。
 それでむつみは再び天井に視線を向けたのだが、その黒目の美しい瞳はどこまでも澄み切っていて、感情を読み取ることはできなかった。

 むつみが六歳年上の彼と親しくなるまでには、さほどの時間も要しなかった。
 ちなみにむつみが彼と初めて言葉を交わしたのは、彼女が三度目のライブを観に行ったときのことである。アンコールを含めたすべての演奏が終わり、バンドのメンバーそれぞれが客席の適当なテーブルについて観客達と談笑を始めたのだが、たまたまむつみと友人達のテーブルに来たのが彼だったのだ。
 ライブハウスとはいえ、実体は喫茶店を間借りしている音楽好きな島民の憩いの場であるから、こうした光景は奇異なものではなかった。そもそも楽屋というものが存在しないうえに、基本的にワンマンライブであるから慌てて撤収する必要もなく、終演後は演奏者と観客が和気藹々と酒を酌み交わすという流れが自然であったのだ。
 ボーカルの彼は、頼もしい大人の男然とした外見とは裏腹に、実に明朗快活な性格の持ち主であった。むつみ自身が人見知りしないうえに人当たりが良く、彼も良い意味で精神年齢が幼かったから、相性は絶妙に一致したのだろう。さすがのむつみも初めは少々緊張気味であったのだが、お互いにスイカッシュが大好きという共通点を見付けるなり、たちまち二人の間から警戒心の壁は瓦解していった。
 その後もむつみは週に一度のライブへ毎回足を運び、彼も終演後には決まってむつみ達のテーブルについて、他愛もないおしゃべりを楽しむようになった。
 むつみの友人達は彼らの音楽自体に興味がある者であったり、あるいは他のメンバーが目当てだったりしたから、自ずと彼とのおしゃべりはむつみが中心となっていった。そのおかげもあって、二人の親密度はライブを経るごとに深まっていったのである。あまりに親しげにおしゃべりとスイカッシュを楽しんでいるので、そのうち友人達から好意を持ってからかわれるようにまでなったくらいだ。
 そんな親密さを恋人どうしという関係で具体化しようと持ちかけたのは、やはり年上の彼の方からである。ライブの打ち上げが終わってから、涼やかな潮風の吹く海辺へと誘われ、付き合って欲しいと言われたのだ。
 それはむつみにとって生まれて初めての経験であったが、不思議と戸惑いはなかった。ライブとおしゃべりを楽しんだ直後の高揚感も手伝い、むつみは素直に首を縦に振っていた。現在のキス好きな性格が備わったのも、すべてはこの夜からである。
 それからの二人は、ライブの夜以外でも毎日のように顔を合わせ、恋人どうしという親密さをどこまでもどこまでも深めていった。
 学校が終わってから待ち合わせて、おしゃべりしながらあてもなく街を歩いたり。
 休日には、地元から少し離れた浜辺へ泳ぎに行ったり。
 彼の部屋で二人きりを満喫しながら、音楽や将来の夢について語り合ったり。
 こうしてデートを重ねていれば、若い男女の事であるから、身体を求め合ってしまうのも自然の成り行きであろう。二人はお互いに求め合った。そして、それ以上に差し出し合って愛欲を満たしていった。
 年が明け、三学期が残り少なくなった頃にはもう、むつみは彼と生涯を添い遂げる覚悟を決めていた。プロ志向という明確な意志を持っている彼のためなら、どんな苦労が降りかかろうともかまわないと思えるほどに思慕の情を寄せていた。いつでも全力で愛情を注いでくれる彼に対して、一生をかけて尽くしたいと純粋に願えるようになっていた。
 そんな一途な想いの行き場は、むつみの妊娠が発覚してから唐突に消失した。
 彼は忽然と行方をくらましたのだ。

 そこまで聞かされたところで、景太郎は衝撃に目を見開いてむつみを見つめた。むつみは穏やかな面持ちのまま、相変わらず天井を見つめ続けている。
 もちろん天井にはドラマのシナリオらしいものなど書かれてはいない。むつみが語っているすべては、彼女の記憶野に生々しく刻み込まれた事実なのだろう。
 こんな不愉快極まりない話など、ピロートークに相応しいはずもないことは景太郎でもわかる。むつみとて、それは十分に感じている。あくまでむつみは、愛おしい景太郎に知っておいてほしくて、あえて語って聞かせているのだ。
「でも…じゃあ、その頃には、まだ…」
「ええ…。でも、弱り目に祟り目とか、泣きっ面に蜂って本当なんですよね」
 景太郎の愕然としたつぶやきに、むつみは気丈な笑みさえ浮かべて答える。
 むつみの腰を抱いている景太郎の右手は、不穏な予感でゾクゾクと震えを来していた。

 それまで仙界のようにのんびりとした時間の流れていた乙姫家は、一転市街戦のごとき混乱に巻き込まれ、慌ただしく時間が過ぎてゆくようになった。
 父は消息不明となった彼を目の前に引きずり出さんと、漁師仲間とも連携して、それこそ沖縄中をくまなく探して回り。
 母は母でパートや家事の傍ら、事情の解らない幼い子供達の世話をむつみのぶんまで受け持ち。
 残されたむつみは茫然自失となりそうな意識を懸命に保ちながら、どうにか家事の手伝いをこなすという毎日であった。学校はちょうど春休みであったが、将来を誓えるほどに想いを寄せていた彼という存在を失ってからは、新学期に臨める気持ちの余裕は微塵もなかった。
 自業自得と言われれば、確かにそうであろう。避妊は常に心がけてはいたのだが、そう求められて拒めるだけの意志が無かったのは明らかな落ち度である。お嫁さんになるまで待ってと言えるほど、むつみの精神も大人ではなかった。
 一方で、むつみの見込み違いもあったのだろう。
 妊娠の事実を報告したとき、彼は明らかに動揺していた。それでも当時のむつみの見立てでは、彼の動揺はそう深刻なものではないように思えたのだ。
 しかし、それは単なる贔屓目であり、ただそう思いたかっただけなのかもしれない。
 プロのミュージシャンとして生活費を稼げているわけでもない。
 入籍どころか、お互いの両親ともまだ会っていない。
 なにより、むつみはまだ高校を卒業していない。
 そういった事情の範囲内で動揺しているのだと、むつみは信じていた。信じたかった。むしろその場で堕胎を言いつけられたりしなかったのだから、不安になることなどないと心中で自身に言い聞かせていたくらいなのだ。
 それでも、彼はむつみの前から姿を消した。恐らく、朝一番の連絡船に乗って島を離れたのだろう。夜逃げ同然の失踪は、残されたバンドのメンバー達にも衝撃であった。彼は作詞作曲のほとんどを担っていたこともあり、新たなボーカリストを立てても活動は不可能として、バンドはそのまま解散となってしまった。
 そんな中で、明らかになったことが三つある。
 彼は沖縄出身ではなかったこと。
 沖縄県内で彼を見つけ出すことはできなかったこと。
 そして、彼はむつみもバンドも見捨てて行方をくらましたこと。
 結局彼は、彼に関わった者達の失意と、むつみに宿した小さな命だけを残して島から逃避したのであった。
 やがてむつみは事実をありのままに受け止め、彼の子供を産むことに決めた。彼に非はあれども、宿った命には何の罪もないからである。もとよりむつみ自身の子供であることに違いはないから、愛情を注いで育てていきたいという気持ちは反対意見を寄せ付けないほどに強固となっていた。
 そんなむつみの信念もあって、両親をはじめとして、事情を知っている島民も反対はしなかった。
 彼女の島では、島民全体がひとつの家族のように支え合うのが習わしであり、実に子供を産み育てやすい環境にある。乙姫家も子だくさん一家であるが、島ではそれ以上の大家族もそれなりに存在していた。そのため、子供の一人や二人はいつでもどうということはない、というのが島全体の雰囲気であるのだ。
 もちろん乙姫家も、周囲からの厚意を無償で受け取って当然と感じるほど傲慢ではないから、むつみの両親はそこかしこに頭を下げて回ったし、むつみも高校を中退して家計を助けるつもりでいた。自分の子供を養っていくためには、どんな過酷な仕事も厭わない覚悟であった。彼を失った悲しみに比べれば、子育ては周囲に手助けしてもらえるのだからつらいことなどないとさえ思っていた。
 そのために退学届を用意していた三月の終わり頃。むつみの妊娠が四ヶ月目を経過しようとしていた、ある日。
 むつみはいつものように、家で妹たちの面倒を見ていた。絵本を読んだり、ボール遊びをしたり、昼食を取らせ、昼寝のために寝かしつけてと、母の代理そのままに育児やら家事やらに奮闘していた。
 そうこうしていると、快晴の青空が一転にわかにかき曇り、激しい雨が降ってきた。
 むつみは慌てて洗濯物を取り込もうとしたのだが、その矢先、下腹部に強烈な痛みが走った。その痛みはよつんばいにすら身を起こしていられないほど強烈であり、むつみは秘部から出血を来たしながら昏倒してしまった。蓄積された心身の疲労のために、むつみは切迫流産に見舞われたのである。
 結局、仕事の休憩時間でたまたま家に立ち寄った母に発見されるまで、むつみは土砂降りの雨の中で三十分も倒れたままとなっていた。
 それから、手空きの漁師に船を出してもらうまで十分。
 船に揺られて、総合病院のある島まで三十分。
 港から総合病院まで二十分。
 倒れてから医師の診察を受けるまでに要した一時間半という時間は、小さな命にはあまりに長すぎた。おまけに雨で身体を冷やし続けてしまったこともあり、急がねば今度はむつみの命にまで影響が及ぶところまで事態は押し迫ってきた。
 医師がそう決定する他に無かった治療方針は、流産手術。医師は本州から離島へ赴任してきている青年医師であったが、今のむつみを診断するに、経験の差は無関係であった。
 むつみは痛みと悲しみの涙で顔中をくしゃくしゃにしながら、医師に身を委ねることにした。

 まさに昔話を読み聞かせているかのように穏やかなむつみに対して、もはや景太郎は吐息の震えを抑えきれなくなっていた。非業な運命に憤りと哀れみを覚え、涙腺までもが危なっかしく震えてくる。
 それでも、まだむつみが妊娠できない身体になった理由は聞かされていない。
 流産の手術は母胎に相当な負担をかけると聞いたことがあるが、かといってそれだけで不妊になると聞いたことはなかった。むつみも、決して元気な身体とは言えないまでも、こうしてしっかりと生きている。
「あ、あの、むつみさん…もうこれ以上は…」
「ううん…ちょっと長話になっちゃいましたけど、もう少しですから…。うらしまくんには、最後まで話しておきたいんです。その方がきっと、うらしまくんもわたしもすっきりできると思うから…ね、いいでしょ?」
「ん、んぅ…」
 不穏な予感が胸中で膨れ上がってきて、景太郎はむつみの昔語りを制しようとした。それでも、むつみ自身にそう言われては拒むわけにもいかない。
 景太郎は愛おしむようにむつみを抱き締め直すと、息詰まるほどの胸苦しさを少しでも晴らそうと小さく溜息を吐いた。

 むつみが麻酔による重苦しい眠りから覚めたときには、すでに病室のベッドの中であった。ベッドの周りには両親がおり、白衣姿の医師が二人いることも確認できた。
手術、もう終わったんだ。
つまり、もうお腹の中に赤ちゃんはいないんだ。
わたし、赤ちゃんを守れなかったんだ。
 そう認識してしまうと、再び涙腺が緩んでぽろぽろと涙が溢れ出した。痛みはすっかり落ち着いていたものの、悲しくて、寂しくて、惨めで、涙が止まらなくなってしまう。
 布団の中からもそもそと両手を出し、こめかみへと伝い落ちる涙を拭っていると、それで両親たちはむつみの覚醒に気付いた。ところが、何やら様子がおかしいのである。
 母はベッドで横たわっている自分にすがりつくなり、普段の朗らか笑顔からは想像もできないような声で泣き喚き始める。
 厳格な父も唇を噛み締め、両の拳をわななかせて必死に嗚咽を堪えている。
 診察してくれた青年医師は憔悴しきった面持ちで、深く深くうなだれている。
 もう一人の壮年医師は、青年医師の横で目を閉じたまま静かに佇んでいる。
 その光景はまるで、通夜の場面を見ているかのようであった。通夜でないにせよ、実はここは病院内の霊安室で、自分は魂となってこの光景を眺めているのでは、といったような雰囲気であった。
 そこでむつみはゴシゴシと涙を拭い、気力を振り絞って微笑みながら、大丈夫だよと声をかけた。母子ともに死んでしまったわけではないのだから、なにもそこまで陰鬱な空気を満たさなくても、と思ったのだ。
 そんなむつみの声を受けたのは、父でもなく母でもなく、憔悴しきりの顔を上げた青年医師であった。申し訳ありませんと叫ぶなり、最敬礼以上に深々と頭を下げる。続いて横の壮年医師も、彼に倣うように頭を下げた。
 その姿にむつみが困惑していると、ふと視界の端で、父が眼光鋭く二人の医師を睨み付けているのに気付いた。むつみの父は普段から厳格でおっかない存在であったが、病室内で感じた気配はまるで、今にも獲物に飛びかからんとしている野獣そのものであった。
 そしてむつみは、自分の身体がほぼ妊娠を期待できないものになってしまった事実を聞かされた。
 この総合病院の院長である壮年医師は、いくつかの事項を丁寧にむつみに説明した。
 流産手術の過程で不手際があり、子宮をひどく傷つけてしまったこと。
 排卵自体に問題はないが、受精卵の子宮内着床の可能性がほぼ失われてしまったこと。
 執刀した青年医師の医療ミスを認め、必要な賠償はすべて病院側が持つこと。
 ただ、そこから先のことははっきりと覚えていない。現在に至ってもなお思い出せないと言った方が正確であったろう。むつみの女心をこれ以上傷つけまいと、本能が記憶中枢を麻痺させてしまったのである。
 むつみは泣いた。これだけは確実に覚えている。シクシクとか、メソメソとかそういった泣き方ではなかったから、強く印象に残っているのだ。
 その宣告を受けた瞬間、むつみは氷のように冷たい手で心臓を握り潰されたような心地となった。むつみはたちまち狂気を発したように取り乱し、声を限りに泣き叫んだ。術後間もない身体というのに布団を蹴飛ばして暴れに暴れ、ベッドから転げ落ちてなお両手で床を叩いてわめき散らしたほどだ。
 こうして大声を出すことで、あるいはこうして痛みを感じることで、長い長い悪夢から覚めると思ったのである。そうでもしないと納得できなかった。いつまでも悪夢ばかりを見せられる理不尽さに耐えきれなかったのだ。
 とはいえ、結局むつみの錯乱はその夜だけであっさりと落ち着いてしまった。取り乱すだけの体力を使い果たしたことに加えて、記憶障害に伴う失語症に陥り、心は絶望によって完膚無きまでに打ちひしがれてしまったのだ。
 むつみが陥った症状は記憶障害であって、記憶喪失というわけではない。物事は今までどおりに認識できたし、入院患者という範囲内での日常生活もこなせたのだが、会話の仕方がきれいさっぱりと抜け落ちてしまったのである。相手の言葉は理解できるのだが、こちらから何かを伝えたくても、そのための言葉を紡ぎ出せなくなってしまったのだ。
 こうした事情もあり、むつみは術後の回復を迎えてから、今度は沖縄本島にある療養所へ預けられることとなった。地元の島にいては、様々な記憶が心の快復の妨げになると精神科医に診断されたのだ。
 とはいえ、むつみは独りぼっちで隔離されてしまったわけではない。地元の島から沖縄本島まではそれほど離れていないから、むつみの母は毎朝父の漁船で送ってもらい、夕方までむつみに付き添った。休日には一家総出で見舞ってくれることもあった。友人達も、頻繁にではないが会いに来てくれた。
 そして、毎日毎日色んな人から絵本を読んでもらい、それに合わせてむつみも発語の練習に励んだ。
 特に幼い妹たちはむつみに読み聞かせをしたがった。むつみが毎日のように読み聞かせていたぼろぼろの絵本をどっさりと持ってきて、むかしむかしあるところに、と先を争うように始めるのである。それがむつみは本当に嬉しくて、ぽろぽろと泣き出しては妹たちにたしなめられる始末であった。

 そんな当時を懐かしむうちに思わず吹き出してしまい、むつみは恥じらい半分、ちらりと景太郎に視線を向けた。景太郎はもはやいたたまれない気持ちでいっぱいとなっており、危なっかしく震える涙腺もそのままに、そそくさと枕元へ視線を逸らしてしまう。
 むつみが辿ってきた運命の重みは、じっくりと睦み合って情が移っている景太郎にもずっしりとのしかかってきていた。だからここでむつみと見つめ合ってしまうと、思わずもらい泣きしてしまいそうで怖いのである。
「…でも、そのおかげで話もできるようになったんです。一年かかっちゃいましたけどね。結局療養所には一年お世話になって、それからあらためて高校を卒業したんです。両親が退学届を提出しないで、そのまま病気休学状態にしていたんですよ」
「あ、それでむつみさん、俺よりひとつ上なのに…」
 むつみの回想の言葉から、景太郎はもうひとつ事実を知って目を丸くした。
 むつみが自分より一歳年長でありながら、高校を卒業した年度が同じであることは以前に彼女から聞いていた。しかし、その事情までは聞かされていなかったし、あえて景太郎も聞こうとはしなかった。おっちょこちょいな性格に加えて、決して優秀とは言えない学力からも、成績不振のために現級留め置き、つまり留年したのだろうと思っていたのだ。
 ところが、事実は異なった。自身のあまりに失礼な憶測に、景太郎は心中で詫びの言葉を連呼する。自分はギリギリ留年しなかったんだから少しはマシだ、などと程度の低い安堵感を覚えていたのが、今となっては顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
「で、でも…元どおり話ができるようになるまで、一年もかかったんですか…」
「ちゃんとおしゃべりできるまでは、もう少しかかったんですけどね。でもお医者様は、たった一年でこれだけ快復できたのはすごいっておっしゃるんですよ?」
 一年という年月の重みに感嘆しきりとなる景太郎の前で、むつみは活き活きと声を弾ませ、実に誇らしげに語った。
 むつみにしてみれば、医師に感心されたことは素直に嬉しかった。自暴自棄になって塞ぎ込んだときもあったが、それでも前向きに頑張ってきたことが認められたようで、心の底から嬉しかったのだ。
 それにむつみは、言葉を取り戻せたのは自身の努力だけでなく、今まで自分のために絵本を読んでくれた肉親や友人達、そして療養所の職員のおかげだとも確信している。だから医師の感心の言葉は、自分を支えてくれた者すべてへの讃辞のようにも聞こえて、今なお貴重な感激として胸に留め続けているのだ。
「ただ、一般に流通している絵本って標準語で書かれてるじゃないですか。それに療養所の方も丁寧語でお話しされるから、地元の訛りはすっかり忘れちゃったんです」
「あ…そういえば…」
 寂しげな苦笑半分で語ったむつみの言葉で、景太郎は今さらながらその事実に気付いた。
 沖縄地方では、琉球語やウチナーグチと呼ばれる独特の方言や訛りが存在する。
 にもかかわらず、景太郎はむつみと知り合ってから今まで、彼女がそれを口にしたような覚えは一切無い。むつみは普段から誰に対しても丁寧語で接しているが、それは失語症にかかった影響でもあったのだ。
 忘れたとはいえ、むつみは地元訛りで話しかけられても、今でも十分に理解はできる。しかし自分が同じように話そうとしても、その必要な単語や言い回しが言語野からすんなりと選び出されてこないのだ。どもるという以前に話せなくなり、丁寧語の方が自然と口をついてしまうのである。
 こうして考えると、むつみは色んなものを失ってきているのではないか。
 景太郎はそう実感して、せつなく胸を詰まらせた。くすん、と小さくすすり上げれば、自ずとむつみを抱く手に力がこもってしまう。
 ただ一人だけと愛してきた男を失い。
 せっかく授かった子供を失い。
 子供を産める身体を失い。
 産まれ故郷の誇りともいえる訛りを失い。
 そして、途方もない時間を失い。
「なのに、どうして…」
「はい?」
「どうしてむつみさんは、いつもにこにこと笑っていられるんですかっ?そんな嫌な目にばかり遭ってきて、つらいとは思わなかったんですかっ?」
 景太郎はこみ上げた疑問を真摯な口調で問いかけ、今度はまっすぐにむつみを見つめた。その眼差しは少々涙目になっていたが、それでもいささかのてらいもなく、むつみからの答えを待ち続ける。
 景太郎自身がそれだけ過酷な境遇に晒されたとしたら、きっと絶望に打ちひしがれたまま塞ぎ込んで生きてきたことだろう。そうするだけの勇気もないが、ともすれば自ら命を絶とうとさえしたかもしれない。
 もちろん、自分自身とむつみとを比べることに何の意味もないことくらいはわかっている。それでも現在のように、にこにこと朗らかな笑みを絶やさずに生きられる理由が気になった。本来目的としていた不妊の理由についてはすでに教えてもらったが、その経緯を知ってしまったからこそ、現在でもなおこうして前向きに生きてゆけるむつみの勇気の源について教えてほしかったのだ。
「…つらかったですよ。本当の本当につらかった」
 むつみは目を伏せると、深く溜息を吐き出すようにそう言った。そこで一旦言葉を区切ったのだが、景太郎も急かしたりせず、じっとその身を抱き締めたままで続きを待つ。
「療養所に入ってしばらくは、一日中泣いてばかりいたんです。泣いて泣いて、泣き疲れて眠って、目が覚めたらまた泣いて…。もう死んでしまいたい、生きていてもいいことなんて何もない、なんてことばかり毎日毎日考えてました。そうしたらね」
「そうしたら…?」
「ある日、母が…ねえむつみ、笑うかどには福きたるって本当なのよ、なんて言い出したんです。人生には色んな事が起こるけど、どれもこれも人生を彩る貴重な経験なんだって思ってにこにこしていれば、必ずいいことに恵まれる…って」
 むつみは顔を横向けて景太郎を見つめると、その時の母の面影を思い返しながら丁寧に語って聞かせた。
 そう言うむつみの母も、さすがに初めのうちは愛娘の不遇に涙を流していた。
 それでもむつみが療養所に入ってからは、いつでもにこにこと朗らかな笑顔を絶やさなかった。むつみが泣きじゃくっていても、捨て鉢気味に食事をはね除けても、泣き疲れて眠っていても、娘の命だけでもここにある幸せに感謝しながら微笑み続けていたのだ。
 同時に、どうにかしてむつみを笑わせようとあの手この手を尽くした。手作りのスイカ料理を持ってきたり、大袈裟なくらい感情豊かに絵本を読んだり、手を繋いで童歌を歌ったりと、母としての愛情を一身に注いで娘の心を癒そうと努めたのである。
「…わたしも親不孝な娘でね、そんな気休めなんて、って無視してたんです。でも、母の言ってることは本当でした。何かのきっかけで吹き出しちゃったら、それだけですごく気持ちが楽になって…そうしたら少しずつ笑えるようになって、いいことも次から次へと起こるようになってきたんです」
「ほ、本当に…?」
「ええ、本当です」
 むつみは再び景太郎と向き合うように横臥すると、さっそく母の教えを実践してみせるかのように、普段通りの朗らか笑顔を浮かべた。もちろんそれはその場で繕われた笑顔などではなく、むつみが体験してきた喜びがそのまま現れたものだ。
 笑うかどには福きたる、ということわざは、まったくの文字通りに捉えてしまうと少々誤解が生じるかもしれない。笑顔は誰もが有している最高の宝物ではあるのだが、意味もなく四六時中にこにことしているのも奇妙だといえよう。つまりこのことわざはむつみの母が言ったとおりで、いつも前向きな考え方を持ち、どんな困難も人生における財産のひとつとして笑い飛ばせる気持ちでいれば、自ずと吉事が舞い込むということなのだ。
 それに、いつでも笑顔の絶えない者に対しては、たとえ初対面であってもずいぶんと話しかけやすいものである。逆に、始終陰気な顔をしている者に対しては、きっと誰もが警戒心を抱いてしまうことだろう。これだけでも幸運の転がり込んでくる機会の差は比べものにならない。いいことなんか何もないとクヨクヨしているよりも、何かいいことないかなあとワクワクしていたほうが、はるかに恵まれた結果が訪れるのである。
「たとえば…そうですね、ご飯が美味しくなりましたし、寝付きが良くなりました。同時に目覚めも良くなりましたしね」
「け、けっこうささやかなことですね」
「うふふっ…でも、それきり死にたいなんて思わなくなったんですよ?メソメソと泣いてばかりでしたけど、あれから今まで泣いた覚えもありませんし。もしかしたらその頃に一生ぶんの涙を流しちゃったから、もうほとんど残ってないのかもしれませんね」
 景太郎はむつみが嬉々として語った事例に思わず拍子抜けしたが、それでも食事や睡眠は毎日の生活に欠かせないものであるから、こうした心境の変化はかなりの快復と言えるのである。むつみが付け加えたとおり、一日一日を快適に過ごせるようになれば、いつまでも塞ぎ込んでいるのがもったいなく思えるようにもなるのだ。
「そのうち、母との絵本の読み合いが楽しくなってきましたし、妹たちや父までもが絵本を読んでくれるようになりました。友達もお見舞いに来てくれるようになりましたし、おしゃべりはできなかったけど、いっぱい笑い合えるようになりました。お医者様が驚くほど快復も早まりましたし、高校に戻ってからも新しい友達ができましたし…それに…」
 むつみは温泉に浸かっているような安らかさで目を伏せたまま、心で受け取った吉事のひとつひとつを景太郎に語って聞かせ、やがて一旦言葉を区切った。それと同時に、景太郎の右手に添えていた左手をおずおずと彼の背中へ伸ばし、ふくよかな裸身をぴっとりと寄り添わせて甘えかかる。
 それに合わせて景太郎も右手でむつみを抱き寄せると、彼女は喜色満面といった笑みを浮かべ、深く深く安堵の溜息を吐いた。高揚による頬の火照りは、普段から貧血気味のむつみを健康的で愛くるしく彩っているが、こんなことすらも彼女にしてみれば吉事のひとつに属するのかもしれない。
「…それに、うらしまくんやなるさんとも出会えました」
「あっ…」
 そのとびきり愛くるしい笑顔で、むつみは気取りもてらいもなくそう言った。景太郎はたちまち照れて舞い上がり、むつみに負けないだけ頬を紅潮させてしまう。
「東大を目指して何度も失敗してきましたけど、めげずに頑張ってきたから、うらしまくんやなるさんとも巡り会えたんだと思うんです。これもやっぱり、いつでも笑顔を絶やさないように生きてきたからこその、神様からのご褒美だと思うんです」
「むつみさん…」
「エッチしたばかりってこともあるかもしれませんけど…わたしはいま、幸せです。今まで色んなことがありましたけど、今日ここにこうしていられて、本当の本当に幸せです。だから…これからもずっと、笑顔が一番で頑張っていこうと思えるんです」
 むつみはいつもと変わらぬ優しい口調で心境を語り終えると、そこでようやく自身の饒舌ぶりに気付き、気恥ずかしそうに苦笑した。ありきたりで平凡な人生観をやたらと偉そうに語ってしまったようで、まさに穴があったら入りたい気分になってくる。
「え、えっと…まあ長い話になりましたけど、そういうわけですから心配しないでください。だから、うらしまくんさえよければ、またこうして気分転換…」
「ぐす、ぐすっ…」
「…うらしまくん?」
「う、ううっ…ううううっ…」
「あら、あらあらあら…ちょ、どうしちゃったんですか?ねえ、うらしまくんっ」
 そんなむつみの前で、景太郎はにわかに感極まってしまった。ぐっと唇を噛み締めても堪えようがなく、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまう。
 そのまま景太郎は力任せにむつみを抱き締め、なんとも頼りない声音で嗚咽を始めた。これにはむつみも戸惑いしきりとなり、両目をぱちくりさせて慌てる。何か景太郎の気に障ることでも言ったかと気が気でなくなり、呼びかける口調にも緊張感がこもったほどだ。
 景太郎はむつみが歩んできた人生に、そしてその中で悟った彼女なりの生き方に、激しく心を揺さぶられたのであった。景太郎は生来の純朴な性格に加えて、感傷的な情緒に敏感でもあるから、こうした動揺は自ずと露わになるのである。
 過去のむつみの薄幸さも。不憫さも。不遇さも。
 現在のむつみの無邪気さも。健気さも。潔さも。
 そのどれもが愛おしかった。愛おしいぶん、守りたかった。自分ができることはちっぽけであろうが、それでもむつみを支え、そして慈しみたかった。
「むつみさん、つらかったでしょ…ううん、つらかったですよね…。つらくなかったなんてこと、ありませんよねっ…」
「…つらかったです。本当につらかったですけど、でももう過ぎたことです。今が幸せだから、もう気にしてません」
「むつみさん…俺なら…俺なら、絶対にむつみさんを悲しませたりしなかったのにっ…うっ、ううううっ…!」
「うふふっ…ありがとう、うらしまくん…。ね、もう大丈夫ですから…ほら、笑うかどには福きたる、なんですよ?スマイル、スマイル」
 狂おしいほどの保護欲に駆り立てられるまま、景太郎はきつくむつみを抱き締め続けた。むつみの理不尽な過去に対する苛立ちと、幸せだと断言できる現在への歓喜が男心の中で混濁し、一向に嗚咽を収められない。
 そんな景太郎の涙声から彼の動揺の経緯を悟り、むつみはしおらしく抱擁に身を委ね続けた。左手で景太郎の背中を撫でさすりながら、いつまでも泣きじゃくる姿をおどけ混じりにたしなめたりもする。
 そうこうしながら、結局景太郎は五分ほども泣きじゃくり、ようやっと落ち着きを取り戻した。たっぷりと涙を流したために気分は爽快であったが、むつみの前で大泣きした気恥ずかしさでなんとも居心地が悪い。
 むつみも景太郎の恥じらいを汲み、視線を合わさぬようにうつむき気味となって抱擁のぬくもりを堪能していた。思い出したように左足のつま先で景太郎の右足にじゃれつくと、彼もやんわりと応じてきたので、それで小さく安堵の笑みを浮かべる。
 そのまましばし、足の指どうしをモジモジと組み合わせてみたり。
 甲からすねからをすりすりと擦り寄せ合ってみたり。
 お互いに上から下からと脚を絡め、ふくらはぎどうしでぬくもりを分かち合ったり。
「…ねえ、むつみさん」
「はい…?」
 こうしてのんびりとスキンシップに浸るうちに、ふと景太郎はむつみを呼びかけた。その声音からは湿っぽさがきれいに失せていたので、むつみは呼びかけに応じて顔を上げる。
 泣き腫らした瞳にはまだ少し潤みが残っているものの、景太郎の面持ちはすっかり穏やかさを取り戻していた。若干はにかんで目を細めたりはするものの、むつみから視線を逸らしたりはしない。胸に満ちた愛おしさのまま、まっすぐにむつみを見つめ続ける。
「…好きです。好きです、むつみさんっ」
「んぅ…」
 景太郎は足でのじゃれつきを止めると、あらためて想いを告白した。景太郎の胸中は様々な想いが錯綜して混迷を極めていたのだが、それらの感触や温度を何よりも素直な言葉でまとめた結果が、この告白であったのだ。
 それでも、むつみはわずかに表情を曇らせ、やがて困惑するようにうつむいてしまった。景太郎の告白は純粋であるぶんしっかりと言霊がこもっていたのだが、そのためにむつみの女心は戸惑いを禁じ得なくなるのである。
「…うらしまくんは、なるさんのことが好きなんでしょ?さっき、わたしに教えてくれたじゃないですか…」
「確かにそう言いましたけど…でも、もう成瀬川じゃだめなんですっ。むつみさんでないとだめなんですっ!俺、もうむつみさんのことしか意識できませんっ!」
「…うらしまくんは、わたしとエッチしたから情が移ってるだけです。その場の気分だけで告白しちゃうなんて…そんなの、だめです」
「…むつみさんは俺の気持ち、いい加減だって思うんですか?むつみさんは俺のこと、信用できないって言うんですか?」
「そんなわけじゃ…そんなわけじゃ、ないですけど…」
 うつむいたままのむつみは景太郎に視線を向けようともせず、彼らしからぬ熱烈な説得にひたすら抗い続ける。
 むつみにしてみても、景太郎に好きだと言われれば素直に嬉しい。付き合ってほしいと言われたら、二つ返事で承諾できるくらいに心も開いている。特にこうして身体を重ねた今では、油断すれば恋人どうしの気分になってはしゃいでしまうほどだ。
 それでも、景太郎となるの関係を思えば、やはりそうはできなかった。
 普段から喧嘩ばかりしていながらも、景太郎となるはお互いに異性として意識し合っていることが明らかだから、その仲はすこぶる良好と言える。受験仲間とか友達どうしという以上の絆も、端で見ていて微笑ましくなるくらいに感じられるくらいなのだ。
 そんな中へ割って入っては、ローニンズという三人の関係がぎこちないものになることは明白である。そのためにむつみは、今日の睦み合いがあくまで気分転換の手段のひとつだということを繰り返し強調してきたのだ。
 それになにより、むつみには景太郎をその気にさせるわけにはいかない重大な理由があった。
「それに…わたしみたいな赤ちゃんも産めない女なんて、好きになっちゃだめです」
「そんなこと、関係ありませんっ!過去にどんな事情があったとしても、むつみさんはむつみさんじゃないですかっ!とにかく俺は、乙姫むつみって人のことが好きになっちゃったんです!いつでも、どんなときでも側にいたいって…側にいさせてほしいって、そう思っちゃうんですっ!!」
「うらしまくん…」
 むつみはその理由も口にしたが、景太郎は自身の想いを押し殺そうとはしなかった。それどころか、卑屈なむつみの言葉に憤って声を荒げ、きつくその身を抱き締めて想いを受け取らせようと躍起になる。
 童貞卒業に合わせて回復してきた雄性としての自信によって、景太郎は今までにないくらい強引になっていた。もちろん元々の気性が穏やかなぶん、意識の片隅では自身の荒々しい態度に困惑しきりとなっているのだが、もうむつみへの愛おしさは抑えようがない。
 今までつらい思いばかりしてきたぶん、今度は自分が彼女の支えになりたい。
 これからも笑顔を絶やさないのなら、これからは自分がその源になりたい。
 見方によってはお節介とも取れるこの想いこそ、思慕の情そのものであった。永久に、かつ無償で守り、慈しみ、愛おしみたいと願う衝動こそ、愛情そのものであった。
 そして、そのひたむきな想いは、今まさに乙姫むつみという一人の女だけに向いてしまった。景太郎の男心は、もはやむつみ以外の異性を意識できなくなってしまったのだ。
「…むつみさん」
「あっ…ん、んぅ…」
 景太郎はむつみと前髪ごしに額をくっつけるなり、グイグイと擦り付けるようにして強引に顔を上げさせた。そのまま右手で頬を包み込み、戸惑いしきりのむつみをまっすぐに見つめる。
 その視線を見つめ返すこともできず、むつみはなんとも居心地の悪そうな面持ちで枕を眺めた。もちろん、景太郎のらしからぬ強引さが不快というわけではない。素直に景太郎の想いを受け止められないもどかしさが、彼女からいつもの朗らか笑顔を奪っているのである。
「ね、むつみさん…」
「は、はい…?」
「…キスしていい?」
「あっ…」
 景太郎は先程の強引さを詫びるよう右手でむつみの頬を撫でながら、ありったけの愛おしさを込めて求愛した。その求愛はいつもの景太郎然とした遠慮がちな問いかけではあったものの、それでもむつみは大いに恥じらって言葉を失ってしまう。
 なまじっか右手で頬を包み込まれているぶん、顔の火照りから恥じらいをあるがまま伝えてしまったようで、もう身体中が汗びっしょりになりそうなくらいに照れくさくなってくる。キスなど手を繋ぐよりも何気ないスキンシップになっているというのに、こうして景太郎に求められて動揺を隠しきれない。
 愛おしい男に告白され、唇を求められる嬉し恥ずかしい気持ち。
 大切な友人を置き去りに告白を受け、唇を許してしまいそうな後ろめたい気持ち。
 それらのせめぎ合いに苛まれながらも、やはりむつみとて女である。愛おしい景太郎の求めを真っ向から断れるほど、彼にも、そして自分自身にも無慈悲にはなれなかった。
「…告白は、お受けできませんけど…」
「…それでも構いません。今は、それでも…」
 頑なに思慕の情を固辞したまま、やがてむつみは戸惑いしきりの身体からやんわりと緊張を解いた。景太郎は自身の焦りと強引さに内心で恥じ入りながら、なおも未練を残すようにそうつぶやき、あらためて両手でむつみの裸身を抱き寄せる。
 むつみは景太郎の抱擁に身を委ねると、わずかに彼と見つめ合い、やがて目を伏せて唇の無防備を極めた。その瞬間、脳裏になるの寂しげな面影がよぎり、むつみは心中で詫びの言葉をつぶやく。
「…好きです、むつみさんっ」
「んっ…ん、んぅ…」
 その詫びの言葉を掻き消すように、景太郎は思慕の情を優しく口移しした。むつみはキスがもたらす安堵感にたちまち酔いしれ、甘ったるい鼻声混じりの溜息を漏らしながら景太郎にすがりついてゆく。
 そのまま密着キスで、五秒、十秒、二十秒。
 陶酔の溜息で息継ぎしてから、今度はバードキスで、五秒、十秒、二十秒。
 狂おしいほどの接吻欲に急かされるまま、深く深く舌を絡めて、五秒、十秒、二十秒。
「ん、んふ…んぅ…好き…好き、好きです…好きです、むつみさんっ…」
「んっ…んぅ、んぅう…だ、だめ…んっ…本気になっちゃ、だめっ…」
 景太郎はうわごとのように告白を繰り返しながら、ねちっこくキスを重ねて。
 むつみは上擦り声で告白を拒みながらも、そのねちっこいキスに応じて。
 想いは相容れないながらも、二人の唇は恋人どうしや新婚夫婦にも負けないくらい、熱く熱く愛欲を分かち合えるようになっていた。唇を重ねれば重ねるほどに愛おしさは募り、せつなく胸が詰まる。ひとまず二人の欲しがりな気持ちだけは、確かな絆となって互いを結び付けていた。
「ん、んんっ…ぷぁ…じゃあ、本気にならないから…もう無理に告白しないから…」
「はぁ、はぁ、はぁ…んぅ?」
 景太郎は一旦キスを終えると、再びむつみと前髪ごしに額をくっつけ、忙しなく息継ぎしながらそう切り出した。むつみはキスの余韻と、熱っぽい告白からの開放感で安堵の息を吐きながら小首を傾げる。
 景太郎としてはやはり想いを受け止めて欲しいところなのだが、いつまでも強引な告白を重ねてむつみを困らせ続けるのも本意ではなかった。それにむつみは嫌悪故に告白を拒んでいるわけではないのだから、ひとまずの安堵感を胸に、精一杯気持ちを抑えて聞き分けを持ったのである。
 それに加えてもうひとつ、景太郎はこれ以上むつみを困らせ続けるわけにはいかない事態に見舞われていた。
「だから、その…このままもう一回、気分転換って…ダメですか?」
「え…?」
「だ、だから、その…や、やっぱダメですよね…?」
「…あ、あらあら…うふっ、んふふっ…」
 景太郎は照れくさそうな早口でそう申し出ると、極めて遠慮がちにそう申し出た。むつみは下腹をグイグイと圧迫してきているペニスの存在に今さらながら気付き、そこで景太郎の気まずそうな言葉の意味を悟る。
 景太郎は接吻欲と独占欲、そして純然たる愛欲の中でむつみと存分にキスを交わし、再び雄性としての発情をきたしたのだ。童貞を卒業したペニスは二度目の射精疲れをすっかり癒し、長く、固く、太くそそり立って新たなセックスをせがんできていた。
 逸り水こそまだ滲んではいないが、亀頭もツヤツヤのパンパンに膨れ上がり、その剣呑な形を際立たせている。むつみの柔肌に押し付けられたままでも、ぐんっ、ぐんっ、と漲りを繰り返す様子は、まさにたくましいの一言に尽きる。
「そうですね…あと、もう一回だけならそんなに遅くはならないでしょうし。明日からのお勉強に差し支えないように、もう一回、思いっきり発散しましょうか」
「むつみさん…」
「うん…うらしまくん…」
 むつみはちらりと目覚まし時計に視線を向けてから、ようやく普段通りの朗らか笑顔を浮かべて快諾した。景太郎が嬉し恥ずかしい笑みを押し殺せもせず名前を呼ぶと、むつみもはにかみいっぱいに目を細めて名前を呼び返す。
 そして、二人はあらためて唇を重ねた。ちゅぴ、ちゅぴ、とバードキスでついばみ合えば、それでお互いにくすぐったい笑みが収まらなくなってしまう。
 窓の外の冬景色は色調を落としたまま、相変わらず冷え冷えとしている。
 そんな寒い季節を忘れるくらい、二人で築いた愛の巣はどこまでもどこまでも幸せな常夏状態が続くのであった。

つづく。

 

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