<<ラブひな>>
happiness on happiness (2)
作・大場愁一郎
「え…えっ、えええっ!?」
女だけでの内緒話にならない声でむつみに問われて、情緒不安定になりかけていたなるだけでなく、憔悴しきりであった景太郎までもが驚きの声をあげた。むつみの指摘に二人揃って顔面を紅潮させ、視線だけでちらちらと互いの表情を盗み見る。
今では景太郎もなるも、ふとした弾みで互いの視線を意識してしまうほどの仲だ。
にもかかわらず、なるはこの手の質問が苦手であった。思春期の胸中は本心に対して素直になりきれず、どうしても返答に窮してしまうのである。答えはイエスかノーかの二択ではあったが、思い切って答えたとして、そのときの景太郎の反応が怖いという不安な気持ちもあった。
これは景太郎にしてみても同じであった。もし今同じ質問をされたとしたら、やはり答えることはできなかっただろう。素直に答えたときのなるの反応が怖かったし、なにより今はむつみとキスに耽っていた矢先だ。肯定すればなるから軽薄に見られてしまうし、否定すればますますなるとの心の距離が広がってしまう。
そんな絶体絶命の窮地に立っていることに気付き、景太郎はとにかく自分に同じ質問が振られないようにと、むつみからさりげなく視線を逸らした。なるもなるで返答できぬままにうつむき、時折視線だけで景太郎の様子を窺う以外にできなくなってしまう。炬燵を挟んで向かい合ってのその姿は、まるで初々しさでいっぱいのお見合いさながらである。
とはいえ本人達にしてみれば、幸せ気分どころか居心地悪さで呼吸も困難なくらいだ。穴があったら入りたいというよりも、どこか遠く、それこそ青空の生まれ故郷とでも言うようなところまで逃げ出したい気分であった。
「…まあ、それは置いとくとして」
「…え、ええっ?ちょ、むつみさあんっ!」
「な、なんなんですか!まったくもう、からかわないでくださいよっ!」
むつみが朗らかそのものの笑顔でつぶやくなり、なると景太郎はたちまち緊張感から解放され、崩れるような勢いで脱力した。景太郎もなるも安堵の息を吐きながら、苦笑しきりとなってむつみを責める。
とはいえ、極度の緊張から解放された反動もあり、二人の気持ちはずいぶんと楽になった。遠慮がちに視線を交わしても、胸中を満たしていた陰鬱なわだかまりはもはや感じられない。苦笑でこそあるものの、なるも景太郎もすっかり表情を和ませることができた。
もちろんむつみにそのつもりがあったわけではないのだが、おかげで気まずい空気は室内から一掃された。実際に空気を入れ替えれば、室内はより居心地の良さを取り戻すことだろう。部屋の隅に置かれているファンヒーターは、午前中からずっと室内を暖め通しであるのだ。
「…なるさんがそんなにイライラしてるのって、もしかして、便秘になっちゃったからじゃないですか?」
「なっ…な、なっ、何を言い出すんですか、急にっ!?」
安堵の息をついたのも束の間、なるはむつみの何気ない問いかけに、思わず悲鳴のような声をあげた。美少女の素顔はせっかく平静を取り戻しかけたというのに、動揺で両目はまん丸に見開かれ、顔中も火のつくような勢いで再び紅潮をきたしてくる。
ここでもなるは肯定も否定もしないが、その狼狽えぶりを見れば、誰の目にも答えは明らかだろう。景太郎も得心した表情となり、コクコクとうなずいたりする。
「だってだって、ちょっとトイレに…って言ったわりにはすごく時間がかかったでしょ?勉強してる間も、なんだかつらそうに身じろぎしてましたし」
「わ、わっ、わああっ!ちょ、むつみさんっ!景太郎もいるのに、そんな大きな声で言わないでくださいっ!!」
「わたし、よく効くお薬持ってるんですよ?わたしもよく便秘になっちゃうんですよね。なるさんさえよかったら、後で分けてあげましょうか…あ、今日のお勉強会はお開きなんですよね?だったら今すぐにでも取ってきて…」
「あっ、後でいいですっ!後でいいですから、ちょっと待って!!お願いむつみさん、今は景太郎と二人だけにしないでえっ…!!」
むつみは表情を曇らせてあれやこれやと気遣うものの、なるは羞恥紛れに苦笑しきりとなり、彼女を制しようと夢中であがく。それでもむつみはいそいそと席を立とうとするので、ついにはすがりついて彼女を引き留めようと躍起になった。
便秘は男女の別無く発症する体調不良のひとつだ。あまり長引けば重症に陥ることもあるが、食生活の偏りや運動不足が主な原因であるから、これを解消すればすぐに治る場合が多い。女子寮の管理人として日々多忙な景太郎はともかく、なるやむつみのように受験勉強漬けの毎日を送っていれば、便秘気味になるのはさして珍しいことでもなかった。
とはいえ、こうした悩み事はあまり大っぴらにしたくないものである。なるも同性のむつみにならいざ知らず、異性である景太郎に便秘であることを知られるのは恥ずかしくてならない。普段から明朗快活で、景太郎とは親しく接しているなるであっても、やはりうら若き乙女なのだ。
一方でむつみは意にも介さぬ風に便秘体質を公言しているが、彼女は常におおらかであっけらかんとしているから例外といえるだろう。これは彼女が慎み深い乙女心を持ち合わせていないというわけではなく、乙女心が物事を達観できるようになっているのだ。何であれ自分一人で悩みを抱え込んでいるよりも、誰彼無く打ち明けた方が解決も早まるし、なにより気が楽になることは身をもって体験してきているからだ。
そんな二人の乙女心について思慮を巡らせるより先に、今の景太郎は、とにかくなるの体調回復の一助を担いたい気持ちに突き動かされてしまう。怒らせてしまった引け目もあって、景太郎の男心はなんとかなるのためになりたいと躍起になった。
「…だ、だったらさ、成瀬川!明日、ボウリングにでもいかない?俺、おごるからさ!」
「え、ぼ、ボウリング?」
思わぬ景太郎からの申し出に、なるはむつみにすがりついていた身を元に戻し、きょとんとなって彼を見つめた。
なるは単語をおうむ返しにしてしまったが、もちろんそのスポーツを知らないわけではない。ボウリングはなるが何より得意としているスポーツである。なにせ、ボウリング小町という異名を取っていたほどの腕前の持ち主なのだ。もちろん現在でも、その技量は衰えを知らない。
そのためボウリングは、今のなるにとって運動不足解消とストレス発散に最適のスポーツであった。ストライクラッシュを決めたときの爽快感は、受験勉強続きで鈍磨した心身を心地良くリフレッシュしてくれることだろう。
それにボウリングは、景太郎もなるに引けを取らないほど腕が立つ。長い浪人生活の間でちょくちょくボウリングに通い、そこで培われた技術は今なお冴え渡っているから、なるとも互角にスコアを競い合うことができるのだ。一人黙々と腕を磨くのもいいが、やはり同レベルの仲間とスコアを競り合った方が白熱しておもしろいものである。
そう考えてしまうと、なるの若々しい気持ちはどうしてもウズウズと逸ってくる。
「そっかぁ…ボウリングかあ…」
「そうそう!運動不足解消と気分転換を兼ねてさ!ほら、ここんとこずうっと勉強ばっかだったろ?たまには運動しなきゃ頭も身体も鈍っちゃうし!」
「そうねえ、そのとおりよねえ…じゃあ、明日はボウリングの日にしよっか」
「やったあ!じゃあ決まりだね!」
体調不良を知られた恥じらいはどこへやら、ボウリングへの興味に駆られたおかげで、なるは極めて素直に景太郎の誘いを受けることができた。景太郎も過剰に舞い上がるでもなく、やはり素直に喜びを露わにする。
お互いに惹かれ合っているのは紛れもない事実であるから、こうして心の風通しを良くしてしまえば、景太郎もなるも自然と相好が緩んでしまう。先程まで遠慮がちな苦笑を交わしていた二人は、今やそれぞれの素直な笑顔に清々しいほどの爽快感を覚えていた。
居心地悪いほどに澱んでいた二人の間の雰囲気も、澄み切った夏空のようにどこまでもどこまでも晴れ渡ってゆく。余計な思いを巡らせない素直なやりとりに、景太郎もなるもすっかり気分が楽になった。それどころか遠足でも待ち侘びる子供のように心が逸り、なんだかこのままおしゃべりして過ごしたいような浮かれ気分にさえなってくる。
「…浦島くんとなるさんがデートに行かれるんでしたら、勉強会はお休みですね」
「で、デート!?」
二人のやりとりをにこにことした笑顔で見守ってから、むつみはどちらにともなくそう確認した。それで景太郎となるはたちまちまん丸に目を見開き、まったく意識の外にあったその単語を二人揃って復唱してしまう。
確かに先程のやりとりを思い返せば、景太郎がなるをデートに誘っている以外の何物でもない。むつみでなくとも、景太郎となるの二人だけで勝手に盛り上がり、むつみを置き去りにデートの約束を交わしたようにしか見えないだろう。
もちろんむつみは、誘ってもらえなかったことに当てつけて二人をからかったわけではない。むしろ景太郎となるの二人でデートに出掛けるのは大賛成であった。これは景太郎にキスでじゃれついたことへの罪滅ぼしのつもりではなく、端から見ても惹かれ合っている二人の仲を進展させたいお節介心からの思いだ。
「いや、あの、その…な、成瀬川、むつみさんも一緒にって…別にいいよね?」
「あ、あっ、当たり前でしょ!?わ、わたしは初めっからむつみさんも一緒のつもりでオーケーしたんだからねっ?あんたと二人きりで行くつもりなんか、これっぽっちもなかったんだからっ!!」
「そ、そんなに力一杯否定しなくてもいいじゃんかぁ…」
「あらあらあら…余計なこと聞いちゃいましたね」
景太郎となる、それぞれの反応を前に、むつみは苦笑しきりとなって自身の失言を悔いた。せっかくなるも自身の気持ちに素直になれていたのに、結局普段どおり、わざわざ景太郎と距離を開けるようなことを吐き捨ててしまう始末である。
景太郎もむつみに確認されるまでは、なると二人きりで出掛ける気持ちでいた。だからむつみの存在を忘れていたことに恐縮しきりとなっても、少々控えめな口調でなるの意見を伺ったりしたのだ。
とはいえ、なるにしてみればだめだと言うわけにはいかない。もしだめだと言えば、それは景太郎と二人きりで出掛けたいと言ってしまうようなものである。初めから三人で行くつもりであったと断言すれば、自身のプライドも守られることになるのだ。寂しげに肩を落とした景太郎の姿には少々胸が痛んだが、今までもこうしたやりとりはあったのだからと、心中で自身に言い聞かせて納得させる。
「じゃあ、よかったらわたしも混ぜてください。ローニンズ三人で楽しんできましょ?」
「も、もちろんですよっ!混ぜるもなにも、わたしは最初から三人で行くつもりだったんですからっ!三人で行きましょ、三人で!決まり決まり!」
「まあ、二人より三人の方が盛り上がりますからね。じゃあ明日は三人で気分転換の日、ということにしましょう」
むつみがそう切り出したことで、なるは安堵の笑みを浮かべながらさっさと明日の予定を決定してしまった。景太郎も両手に花の状態が不満というわけではないから、無理に食い下がったりはせず、なるの意向にそのまま同調する。
「…それではわたし、そろそろ戻りますね」
明日の予定が決まったところで、むつみは腕時計で時刻を確かめてからそう切り出した。見るからに暖かそうな向日葵色のショールを肩にかけ、ノートや参考書、ペンケースをまとめてトートバッグにしまい込む。
彼女はひなた荘の住人ではなく、近所のアパートで暮らしているから、戻るというのはそういう意味だ。ひなた荘からは正面の石段を下りていけばすぐである。雪でも積もれば面倒だが、普段であれば遠いと思うほどの距離ではない。
「なるさん、浦島くん、今日は本当にごめんなさい。せっかく集中して勉強できてたのに、わたしの勝手で中途半端になってしまって」
「え、あ、いや、俺は煮詰まったところだったから平気ですけど…でも、そんな…」
「わ、わたしも中途半端ってことはないですから、もう気にしないでください。ほらほらむつみさん、もう頭上げてくださいよっ」
「浦島くん…なるさん…」
トートバッグを両手で下げたむつみは、自身の身勝手をしおらしく詫び、二人の前で深々と頭を下げた。景太郎もなるも慌てて立ち上がり、むつみの側に寄って彼女の頭を上げさせる。
むつみとしては、せっかくの勉強会を中だるみで終わらせてしまったことに、やはり少なからぬ責任を感じてしまうのだ。
接吻欲を堪えきれない悪い癖は、むつみ自身でも辟易している。それが元で景太郎はもちろん、なるにまで迷惑をかけてしまったのだから、胸中はいたたまれないほどの罪悪感でいっぱいだった。素直に頭が下がるし、詫びの言葉も口をついて出る。
一方で景太郎やなるにしてみれば、そんなむつみの姿は少々大袈裟に思われた。
しっかりとキスを楽しんでしまった景太郎はともかく、なるとしてはむつみが景太郎とキスしていたことは素直に面白くない。不愉快だとさえ思えるくらいだ。
それでも、むつみを謝らせたいと思えるほどに不快ではなかったし、なにより謝らせる理由がなかった。だからあまり丁寧に謝られると、なる自身の決まりが悪くなってしまうのだ。同じ謝らせるのなら、きちんと拒めなかった景太郎を謝らせたい気分である。
「…それでは、どうもお邪魔しました。明日に備えて、今日はもう床に就くことにします。なるさん、浦島くん、今日は本当にごめんなさいね。おやすみなさい」
「ちょ、むつみさんっ!いくらなんでも早いでしょ!まだ三時回ったところですよっ?」
「…あらあら。そういえば、まだ晩御飯を頂いてませんでした」
「あはは、しっかりしてくださいよ、むつみさんっ!」
「うふふ、それでは晩御飯をしっかり食べてから休むことにしますね」
むつみは本気とも冗談とも取れるような勘違いを残し、普段通りの朗らか笑顔で会釈をひとつ、なるの部屋を後にした。そんなむつみの後ろ姿を見送ってから、なると景太郎は部屋に戻って一息つく。
ゆったりとした深めの呼吸が胸に心地良い。障子戸を開けたわずかな間でも、室内は程良く換気されたようだった。暑くて重苦しかった空気は、肌でもわかるほどに快適さを取り戻している。
「…あ、あのさ、景太郎?」
「な、なに?」
景太郎が指を組んだ両手を上げて大きく伸びをしていると、やおらなるは遠慮がちな口振りで彼を呼びかけた。その声質は先程までの元気の良いものとは正反対であり、景太郎は一瞬たじろいで応じる。
景太郎がたじろいだのは、なにもなるの声質の変化だけが理由ではない。
むつみも一緒にいたので意識していなかったが、なるとは彼女の匂いやぬくもりまで感じられそうなほど近くで寄り添い佇んでいた。その距離のために、景太郎はなるの声音に、いわゆる女らしさを強く感じてしまったのだ。
気兼ねなくおしゃべりしているときには意識することがないぶん、こういった何気ないきっかけひとつで、景太郎の男心は初恋のときめきを呼び戻してしまう。なるとはすっかり打ち解け合っているというのに、ひとたび異性を意識してしまうと、たちまち照れて舞い上がってしまう。これは恋愛経験の浅い男に見受けられる生理現象であるからどうしようもない。
景太郎は頬から耳たぶからが熱くなってくるのを感じながら、じっとなるの言葉を待った。まっすぐになるを見つめたままではあったが、本当は今すぐにでも視線を逸らしてしまいたいくらいに面映ゆい。
「あの、その…ありがと…」
「え…?」
「だ、だから…その、ボウリングに誘ってくれて…。むつみさんがいたから…それと、あんなことしてた矢先でもあったから、すぐにありがとうって言えなかったんだけど…それも、ごめんね」
「成瀬川…」
なるは恥じらうようにうなだれると、丁寧に丁寧に言葉を選びながら景太郎に謝辞を告げた。その思わぬしおらしさに、景太郎はぽつりと彼女の名をつぶやく。
景太郎に対して素直になれない意地っ張りな性格は、なる自身でも辟易としている。特に今日は体調不良で苛立っているのと、むつみに嫉妬し、そして景太郎にヤキモチを妬いたために、極めて大人げなく振る舞ってしまった。
そのぶん自責の念も、自己嫌悪の情も普段以上のものとなった。
もちろん、景太郎のことは疎ましくなど思っていない。
ひなた荘に来た当初の景太郎は、惰弱で卑屈で頼りない男であったから、当時はなるもあからさまに嫌悪していた。人見知りしやすい性格も手伝って、景太郎をひなた荘から追い出そうとあれこれ画策までしたほどだ。
しかし、今は違う。ひなた荘の住人達と共同生活を送る間に、景太郎の人柄はずいぶんと積極的で朗らかなものとなった。
なるにしてみても、同じ目標を持った受験生どうしという共通意識から始まり、そこから少しずつ親しみを覚えて現在に至っている。今では景太郎と時間や空間を共有するのが楽しいし、それらが日々の生活に欠かせない貴重なものだとも思えるくらいだ。
また、景太郎は管理人としての肉体労働や責任感から、心身両面での頼もしさも備えてきていた。わずかながらに背は伸びてたくましさも増しているし、あどけなさの残る童顔こそ相変わらずではあるが、瞳は活気に満ちて輝きを放っている。これらの変化は、怠惰な毎日を送っていた以前と違って、充実した毎日を送れている証に他ならない。
そんな景太郎の姿に、なるは時として乙女心がときめくほどの好感を抱くことさえある。親しい間柄からの贔屓目もあろうが、それでも見直す思いで感心する場面は多々あった。
面倒見の良い管理人であり、気が置けない友人であり、そして一生懸命な受験仲間である、浦島景太郎という三つ年上の青年。
彼とはもっともっと仲良くなりたいと思うし、ずっとずっと仲良しでいたいとも思う。
だからこそ嫌われたくないし、嫌な女でもいたくない。
根が寂しがり屋であるぶん、なるは必死であった。強がりたい気持ちも、照れくさくて逃げ出したい気持ちも抑え込み、誠心誠意で景太郎に想いを伝えようとする。
そんななるの前で、景太郎はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、成瀬川は悪くないよ。俺の方こそごめん…」
「景太郎…」
「悪いこと…ってゆうか、いけないことしちゃったって気持ちはあるんだ。成瀬川が怒る必要も、謝る必要もなかったのに…だから…だから、ごめん!成瀬川っ!嫌な気持ちにさせちゃって、ホントにごめん!」
「え、ちょ、景太郎っ!なにもそこまで…あ、頭上げてよっ!」
すっかりしおらしくなったなるに倣うよう、景太郎も真摯な口調で詫びの言葉を重ねた。深々と頭を下げ、拝むように合掌までして許しを請う。
その平身低頭ぶりになるも思わず慌ててしまうが、景太郎は沈痛な面持ちで唇を噛み締めたまま、ひたすらに頭を下げ続ける。
今にして思えば、自分はむつみのおねだりに負けたのではなく、キスという甘美な行為の誘惑に負けたのではないか。
それがむつみでなくとも、例えばなる以外のひなた荘の住人であっても、あっさりとキスの要求に応じていたのではないか。
そんな自責の念と罪悪感に打ちひしがれ、景太郎もまた後悔しきりとなっていた。
景太郎はなるに対して、格別な憧れを抱いている。頭脳明晰で頼もしい受験仲間というだけでなく、ひとりの異性として、純粋に思慕の情を寄せているのだ。
それこそ出会った当初のなるは、せっかくの美少女ぶりも台無しに、毎日敵意を剥き出しにしていた。やることなすことすべてに難癖を付けられ、些細なことで罵詈雑言を吐きかけられ、勉強を教えてもらおうにも徹底して無視されたほどである。
そのために景太郎も、怒りんぼで意地悪で無慈悲ななるのことを敬遠していた。尊敬するくらいに勉強もできるし、惚れ惚れするくらいにかわいいし、なにより同じ東大を目指す同志であったが、絶対に馬が合うことはないだろうと諦観していた。
それでも、管理人と住人という割り切った関係を経て、受験仲間という共通意識をお互いに持ち始めてからは心境が変わり始めた。それまでは見えなかった成瀬川なるというひとりの少女の全体像に気付き、少しずつ惹かれてゆくようになったのだ。
なるは生真面目かつ純粋であるぶん、自身の感情に流されやすく、同時に他者の感情にも影響を受けやすい性格の持ち主であった。怒りんぼで意地悪で無慈悲であったのも、すべては景太郎の不甲斐なさに苛立っていたからである。
そのぶん女子寮の管理人として、そして三浪で後のない受験生として一生懸命に努力しているうちに、なるとの距離は驚くほど近くなった。
今では他愛もないおしゃべりに付き合って、自然なままに笑ってくれる。
一緒に勉強しているときは、嫌味半分で愚痴りながらも親身になって教えてくれる。
不満なときには眼光鋭く睨み付け、真剣に怒るだけでなく、時には叱ってもくれる。
落ち込んだときには、あの手この手で励まそうと躍起にさえなってくれる。
そんななるのひたむきな優しさが、今では景太郎の活力源であった。なると一緒にいれば元気になれるし、勇気も湧いてくる。彼女の前ではだらしない男でいたくないという、忘れかけていた雄性としてのプライドさえも奮い立ってくるほどだ。
それほどまでに慕っていながら、別の異性に唇を許してしまった。しかも今日が三度目である。
なるとは恋人どうしの関係ではなく、あくまで片思いの状態だ。それでも浮気を働いた罪悪感は大きく、そのたびに良心の呵責に苛まれてきた。
もちろん今回も例外ではない。むつみも非礼を詫びて取りなしてくれたために、なるもそれほど憤慨してはいないが、景太郎はいたたまれない気持ちでいっぱいであった。自身の軽薄な振る舞いでなるを戸惑わせた事実が悔やまれてならない。
虫がいいとは思うものの、やはりなるに嫌われたくない。
軽蔑されるのは当然としても、絶交まで宣言されたくない。
どこまでも自分勝手ではあったが、景太郎は胸苦しいほどの焦燥感を覚えながら、ひたすらにそう切望していた。どれだけ促されようとも、下げた頭を上げる気になれない。いつでも表情豊かななるの顔を直視できる勇気がなかった。
「ねえ景太郎、もういいから…もう怒ってないから頭上げてよ、お願い…」
「成瀬川…」
「ね、本当に…本当にもう怒ってないから…。景太郎の気持ち、わかったから…」
いつまでもうなだれ続ける景太郎に困り果て、なるは寂しげな声音でそう哀願した。恐縮しきりで小さくなっている景太郎の肩に両手をかけ、不安に怯える幼子を安心させるよう、優しく説得したりもする。
なるとしては、ヤキモチを妬いて大人げなく振る舞った自分の方にこそ非があると感じている。景太郎からむつみにキスを求めることはないだろうし、同時に景太郎がむつみのおねだりを断りきれるほど毅然とした態度をとれるとも思わないからだ。
そのぶんここまで慇懃に詫びられては、かえって気の毒に思えてしまう。先程のむつみの言葉ではないが、景太郎が謝れば謝るほど、なる自身の罪の意識も深まる心地であった。
そんななるの沈み気分を声から感じ取り、やがて景太郎は遠慮がちに姿勢を戻した。
背すじはぴんと伸びながらも、まだ少し気後れして胸までは張れない。顔もうつむき半分であるから、視線は自ずと様子を窺うような上目遣いになってしまう。
「…成瀬川、本当にごめん。後悔してるし、反省してる」
「もういいってば。わたしこそごめん」
お互いもう一度だけ詫びの言葉を交わせば、それでようやく二人の気持ちは普段通りの穏やかさを取り戻した。気兼ねのいらない居心地の良さに景太郎もなるも目を細め、くすぐったそうに笑声を交わす。
詫びの言葉というものは、自身を一定以上の悪にしないための、都合のいい自己弁護だと言う人がいる。罪悪感を紛らわすための、気持ちの免罪符だと言う人もいる。
彼らに言わせれば、今こうして詫びの言葉を重ね合うなると景太郎の関係は、単なる馴れ合いに過ぎないのだろう。茶番だと吐き捨てる者さえいるかもしれない。
それでも人は、心からの罪の意識があれば謝罪の衝動に駆られるものだ。
人は過ちを犯してしまう生き物である。だからこそ罪の意識に苛まれるし、そのぶん許しを請いたくなる。故意犯ならそのようなことはありえないが、心の底からの贖罪の気持ちがあれば、詫びの言葉にはしっかりと言霊がこもるのである。
そしてまた、その言霊を感じたとき、人は許しを与えたくなる。
許しを与えず、延々と恨みを抱いていては、いつかは自分自身の恨みに押し潰されることになる。素直に許しを請い、また素直にそれを与える関係でいられれば、人と人との絆は自ずと深まるのだ。喧嘩して、仲直りして、それで今まで以上に仲良くなる子供がいい例であろう。
なると景太郎は思春期を迎えていることもあり、はにかんでおどけてしまったりもするが、こういった関係でいられることは素直に嬉しかった。
「…ねえ景太郎、一緒に指切りしない?」
「指切り?」
「うん。わたしは…なんて言うのかな、これからはもう少し景太郎に対して素直になる」
なるはそう言うと、景太郎の胸元へ右手の小指を差し出した。
なるの小指はほっそりとしていて、爪も清潔に切り揃えてあり、まさに可憐という言葉がぴったりである。いつもポカポカと殴ってくる、あの凶暴な右手の一部であるとはにわかに信じがたいくらいだ。
それに、受験勉強に一生懸命であるから、マニキュアやネイルアートといったおしゃれも施されていない。その自然なままでの美しさに、景太郎は生まれて初めて雪を見た子どもさながらに見とれてしまう。
「あ…じゃ、じゃあ俺はどうしよう、もう絶対キスしないって約束しよっか」
「絶対って…それじゃあ彼女ができてもキスできないってことになっちゃうわよ?」
「そ、そっか、じゃあ…むつみさんとキスしないって、指切りすればいいのかな」
「だ、誰とじゃなくて、ひとまずわたしの部屋ではしないってことにすればいいでしょ?」
「あっ、そ、そっか、そうだよね」
初々しい恋人どうしが痴話喧嘩を始めたかのように、景太郎もなるも頬を染め、しばしぎこちないやりとりを重ねた。痴話喧嘩というよりも、物怖じ気味の景太郎が、しっかり者のなるの尻に敷かれているといった構図である。
そんな二人ではあるものの、右手の小指どうしをそっと絡めてしまえば、それで元通りの仲良しに戻ってしまった。物怖じ気味だった景太郎も、しっかり者だったなるも一様に照れくさそうな笑みを浮かべ、郷愁を漂わせるような懐かしいフレーズを口ずさむ。
「ゆぅびきりげんまん」
「うそついたらはりせんぼん、のぉますっ」
「ゆびきったっ」
室内にささやかなハーモニーを響かせて、二人は指を切った。
その指切りは約束を強要するためのものではなく、互いに約束を守るためのものであるから気負いはない。互いに思いやりを持ち寄り、自発的に誓いを立てるわけだから、むしろ頼もしかった。なんだかそれだけで絆が強まった思いさえする。
「ふふふっ…なんだかすっきりした!」
なるは気分爽快といった風に大きく伸びをひとつ、景太郎に笑いかけた。
安心しきって無防備を極めた笑顔は、なるの美少女ぶりが存分に発揮されていて実にかわいい。大抵の男なら、このとびきりの笑顔ひとつで見惚れてしまうことだろう。
とはいえ、この笑顔は景太郎だけのものと言っても過言ではないものだ。少なくとも現時点では、この笑顔が景太郎以外の誰かのものになることはないだろう。異性に縁のない景太郎にしてみれば、まさに奇跡のような果報である。
その愛くるしい笑顔につられて、景太郎も自然なままの笑みを取り戻すことができた。何の気取りもなく笑みを交わせば、二人の胸中は際限なく和んでゆく。
それは互いに理解し合い、許し合えた瞬間でもあった。
心の底から仲直りできた瞬間というものは、すごく嬉しくて、どこか照れくさくて、しかしとびきりの居心地の良さを感じるものだ。男女の関係であればなおさらである。
恋人どうしや夫婦という間柄でこそないが、景太郎もなるも、そのなんとも面映ゆい気分の中で幸福感を噛み締めていた。
気が置けない友達どうしでいられることは、素直に幸せだと思う。何をするにしても気疲れしない間柄だから、ずっと一緒にいても楽しいし、逆に一緒にいないと物足りない。口にこそ出さないが、お互いに相性はぴったりだと確信しているくらいなのだ。
「えへへ…な、なんか指切りっていいなぁ…。俺、女の子と指切りしたことってあったかなぁ?もしかしたら今のが初めてだったかも」
「え、そうなの?いつだったか言ってた約束の女の子とは指切りしてないの?一緒に東大行こうって」
「あ…ど、どうかなぁ…約束したのははっきり覚えてるけど、指切りはしたかなぁ」
指切りの余韻にはにかむ景太郎を見つめながら、ふとなるは胸中に浮かび上がった疑問を彼にぶつけた。
異性に縁のない青春を送ってきた景太郎ではあるが、幼少の頃には、このひなた荘で仲良くしていた少女がいた。なるもその話は聞いていたから、先程の景太郎の初々しい感想に素朴な疑問を抱いてしまったのだ。一緒に東大を目指そうと約束したらしいから、その時に指切りくらいはしていてもおかしくないと思うのである。
そんななるの問いかけに、景太郎は遠い記憶を辿ってみたものの、記憶の中の少女と指切りをしたような覚えはなかった。
もっとも、すごく幼い頃の話だから、指切りくらいでは印象に残らなくても不思議ではないような気もする。指切りはしていたとしても、約束自体の方がはるかに印象が強くて、単に忘れているだけなのかもしれない。
だから景太郎としては、左手の指先でかりかりと頬を掻きながら曖昧に答えるしかなかった。答えをうやむやにするつもりなどは毛頭ない。
「…でもさ、成瀬川…」
「ん…?」
「あのとき、指切りしてたとしても…今はあらためて、成瀬川と指切りしたいな。その、一緒に東大行こうって」
「景太郎…」
「…俺、行きたいよ。成瀬川と一緒に東大行きたいっ!」
ふと景太郎はまっすぐになるを見つめると、あどけなさの残る素顔を真摯そのものに引き締めてそう宣言した。その声には、ひたむきな想いが確かな言霊となってこもる。
景太郎はなると指切りを交わして、燃えるような恋心を呼び戻していた。
むつみとのキスに酔いしれはしたものの、景太郎が片想いに想い抜いているのはなるただ一人である。想い人と他愛もなくおしゃべりを交わし、仲睦まじくじゃれ合ってしまえば、もう他の女性の面影が脳裏をよぎることはない。眼鏡ごしに映って見える一人の少女のことだけが、ただひたすらに愛しくなってしまうのだ。
そんな景太郎の言霊は、なるの乙女心を熱く熱く奮わせた。そのためになるは景太郎に見つめられたまま、見る見るうちに美少女の素顔を紅潮させてしまう。
指切りを交わした矢先での大胆な宣言に、なるの胸中はたちまち甘酸っぱいような照れくささでいっぱいとなった。もう嬉しいやら恥ずかしいやらで、視線はあららこちらと忙しなく逃げ回ってしまう。景太郎と見つめ合うどころか、眼差しを浴び続けることさえもつらい。
「そ、そりゃあわたしだって…わたしだって、そう思ってるけど?あ、あんたと一緒に…その、東大行けたらいいなって…せ、せっかくなんだし…」
なるは景太郎から視線を逸らしたまま、羞恥しきりといった火照り顔で素直な心根を吐露してゆく。
そうすることが景太郎への誠意であり、そして義務でもあると、なるの乙女心は一生懸命になっていた。その熱意は不安すら呼び起こす焦燥感となり、なるの胸はせつなく詰まりどおしとなってゆく。
その一生懸命さとは裏腹に、なるのわずかに上擦った声は次第に頼りないものとなり、ついには吐息の中でのささやき声になってしまった。今よりほんのわずかでも立ち位置が離れていたら、その声はきっとファンヒーターの作動音にかき消されていたことだろう。
そんななるの、普段の元気溌剌とした姿からは想像もできないしおらしさに、景太郎は目くるめくほどの興奮を覚えてしまった。そのうえ想いを同じくしていた事実が嬉しくてならず、思わず涙腺が緩みかけ、危なっかしい笑みに合わせて吐息が震える。
「成瀬川っ…」
「え、あっ…」
「嬉しいよ…嬉しいよ、成瀬川っ…」
「あ…ん、んぅ…」
景太郎は夢中で歓喜の想いをささやくなり、両手でぐいとなるの肩を抱き寄せた。なるは一瞬身を強ばらせたものの、今にも嬉し泣きしそうな景太郎の素顔に息を呑み、ふらりと半歩進み出て身を寄せる。
二人は熱っぽい眼差しで見つめ合うなり、それぞれに抱いている親しさをいっぺんに愛しさにまで昇華させた。思春期の胸は恋の悦びに満ち、たちまちドキドキと動悸をきたす。
しっとりと潤んだ瞳。
鼻の頭に浮かんだ汗。
そして、真っ赤に上気した物欲しげな素顔。
景太郎もなるも、期待と興奮をいっぱいに募らせてお互いに見惚れ合った。うっとりと陶酔の面持ちに目を細めると、たちまち唇がせつなく焦れてくる。
やがて、熱っぽく見つめ合う二人の間で、空気の流れがぴたりと止まった。なるも景太郎も、暗黙のタイミングで息を止めたのだ。
「景太郎…」
求愛の呼びかけは、なるが先であった。
甘えんぼな上擦り声でその名を呼び、寝入るような安らかさで目を伏せる。そのまま心持ち唇をすぼめると、可憐な薄膜の無防備を極めてしまった。
むつみへの嫉妬から起因する対抗意識。
キスに対する好奇心。
景太郎に対する独占欲。接触欲。そして、接吻欲。
それらの濃密な思いがなるの胸の奥で綯い交ぜとなり、乙女心は後戻りできないくらいに大胆不敵となった。意識にも淡い桃色の霞がかかってきて、見慣れている景太郎の童顔にも、まさに身も心も焦がれんばかりの愛おしさを感じてしまう。
もう、キスくらいならしちゃってもいいよね…キスくらいなら…キスくらいなら…
今やなるの心中には、自身を説き伏せるような独語が延々と繰り返されていた。もう少し乙女心に余裕があれば、そっと景太郎の胸に寄り添ってすがりつき、その身を預けていたことだろう。
今まさに、なるは全幅の信頼を寄せて景太郎に唇を捧げていた。
その時の女の顔というものは、見違えるほどにかわいく映るものだ。それが想いを寄せている相手であればなおさらである。
景太郎の男心もなるの求愛行動に熱く熱く奮い立ち、一目惚れにも匹敵する壮大な感動を呼び起こしていた。このまま思い切りなるを抱き締め、心ゆくまでキスと頬摺りを堪能したいくらいに愛おしさがこみ上げてくる。
「成瀬川…」
景太郎もまた鼻にかかった上擦り声で呼びかけに応じると、求愛するなるの素顔を意識に焼き付けてから、自らもそっと目を閉じた。
キスにはもう慣れているから、勝手に困ることはない。薄膜どうしが確実に密着できるようわずかに小首を傾げると、決して乱暴にしないよう理性を全稼働させ、慎重に慎重に唇を寄せてゆく。
とうとう、キスしちゃうんだ…。
なるも景太郎も指切りの約束をすっかり忘れ、思いをひとつにして感慨に耽る。
異性とのキスが未経験のなるはもちろん、慣れているはずの景太郎さえも、すぐ耳元に早鐘さながらの動悸を覚えてしまう。なるの肩をつかんでいる両手には期待と興奮、そして不安のために驚くほどの力がこもり、凍えるかのようにぶるぶると震え始める。
そんな二人の唇が、互いのぬくもりを感じ取れるほどにまで近づいた、そのとき。
室内を暖め続けていたファンヒーターが、ぴー、ぴー、と無機質な警告音を発した。景太郎もなるも驚きのあまりに肩を跳ね上げ、ばね仕掛けのような俊敏さでそちらを見る。
緊張に引きつった形相の二人の前で、ファンヒーターは五度ほど警告音を繰り返し、それきり落ち着いた。しばらくそのままで見守るものの、ファンヒーターには何の変化も生じない。今までと変わることなく温風を送り続けるのみである。
「…な、なに?」
「え、あ…と、灯油…灯油がやがて切れちゃうって合図…」
「な、なんだよもう…ひ、人騒がせなんだからあ!」
「ほ、本当!心臓に悪いわよね、このファンヒーター!」
そこまで言葉を交わしてから、景太郎となるはようやく胸を撫で下ろした。極度の緊張状態から解放されたために、安堵の息が実に心地良い。二人とも指切りの約束を忘れていたことは棚に上げ、何の罪もないファンヒーターを責めながら苦笑しきりとなる。
しかし、その苦笑も長くは続かなかった。状況を再認識するなり、二人はたちまちいたたまれないほどの気まずさを覚え、深々とうつむいてしまう。
今の今まで寄り添うほどであった立ち位置も、互いに遠慮し合うようなぎこちなさで離れてしまった。今はもう顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。実際に顔から耳からが火照ってならず、喉もからからに渇いていた。
それどころか、こうして間近で佇み、互いの存在感を覚えているだけでも無意味に気後れしてくる。何かおしゃべりでもして気分を紛らわせたいところであったが、気の利いた言葉はなにひとつ口をついて出てこない。
「あ、あのさ、成瀬川…」
「な、なに…?」
景太郎はとにかく頭を上げると、何の後先も考えずになるを呼びかけた。年上で、なおかつ男であるというささやかな自尊心が奮い立ったのだ。
「あ、明日の話だけどさ…楽しみだね」
「え?」
「そ、その、ボウリング…行ってくれるんだろ?」
「えっ?あ、ああ…う、うん、行くけど…」
景太郎の切り出した話題は突拍子のないものではあったが、それでも二人はどうにかこうにかおしゃべりらしい会話を交わすことができた。とはいえ景太郎もなるも照れくさそうに頬を染めたままであり、居心地の悪さはさほども払拭されない。
話題を用意した景太郎は、なるの思いがけない表情を前に、大いに照れていた。
景太郎の方がわずかに上背があるぶん、なるにうつむいたまま視線を向けられると、自ずと上目遣いで見つめられる格好になる。そのどこか物怖じしているような表情は、潤んだ瞳や真っ赤に火照った頬と相まって実にかわいい。もちろん普段の元気溌剌としている姿にも好感が持てるが、こうした可憐な一面を見てしまっても、男心は否応なく奮い立ってしまうものだ。
たちまち景太郎はなるを見つめていられなくなり、そそくさと視線をあさっての方角に向けてしまう。人差し指で頬を掻いたり、鼻先に浮かんだ汗を拭ったりと、やたらと忙しなくもなった。
なるはなるで、景太郎は先程の続きを切り出してくるものと思い込んでいたために、息詰まるほどの緊張感に身を強ばらせていたところであった。
すっかり唇を捧げるつもりになっていたが、先程の数秒間の光景は、思い出すだけでも逃げ出したくなるくらいに照れくさい。意識はわずかながらに取り乱しているため、景太郎の問いかけにも、ついあやふやな答えを返してしまった。
もちろん、明日のボウリングは楽しみで、待ち遠しいとも思っている。億劫だとか憂鬱だとかは少しも感じていない。語尾の歯切れが悪くなったのは、素直になれない乙女心がまたしても意地を張ってしまったからだ。
「…久しぶりのボウリングだけど、成瀬川には負けないからなっ」
「な、何言ってんのよ、それはこっちのセリフ!景太郎にだけは負けないんだからっ!そうね…トータルスコアが少なかった方がお昼おごりってことでどう?」
「言ったなあ?じゃあ…その、もう一回指切りしようよっ!」
「ま、また指切り?ふふっ、いいわよ、何回でも指切りしてあげる!」
とはいえ、上手くおしゃべりのきっかけさえつかめれば、二人の間にはたちまち普段通りの何気ない雰囲気が蘇ってくる。意識しすぎて言葉を選ぶ必要もないし、軽口を叩き合うのに遠慮する必要もない。それどころか、再び右手の小指を差し出し合って指切りさえできた。
「ゆぅびきりげんまん」
「うそついたらはりせんぼん、のぉますっ」
「ゆびきったっ!」
再び室内に、必罰の詠唱がハーモニーとなって響く。そしてその詠唱を終えるのに合わせて小指と小指を引き離せば、これで負けた方が勝った方に昼食をおごるという、なんともいたいけな約束の成立である。
それでお互い、まっすぐに見つめ合って笑みを交わすことができた。
まだ少し照れくささは残っているが、気後れするほどのものではない。むしろ幸せな気分であった。確かな親愛の情を寄せ合っている二人だから、少しくらいの照れくささは幸福感の糧にできるのである。
「…さ、て、と。ちょっと早いけど、今日はもうお風呂入っちゃおっかな」
やおらなるは独語すると、今なお火照る頬を揃えた指の腹でぺちぺちと叩いた。
確かに普段の入浴時間にはまだ早いが、今日はやたらと汗をかいてしまった。暖かい室内にあって、身体はほこほこと蒸し暑いくらいであるから、自分では分からないが汗くさいかもしれない。間近に景太郎がいるぶん、必要以上に気になってしまう。
「じゃあ、俺もそろそろ部屋に戻るね」
「え…あ、ご、ごめん、なんかわたし追い返すみたいに…」
「そ、そんなことないよ。俺もちょっと疲れたから横になりたいなって思ってたし」
「そ、そう?」
景太郎も一旦炬燵の側に戻り、持参した勉強道具を片付けにかかった。なるは自身の言葉不足に慌てるものの、景太郎は意にも介することなく笑みを返す。
なるが胸を撫で下ろすのを確認してから、景太郎は勉強道具を小脇に抱え込み、ふすま続きとなっている隣室へ移動した。
この部屋にはるの本棚やクロゼットがあるのだが、景太郎はそれらに目的があって入り込んだわけではない。この部屋の床板には踏み抜かれたような大穴があり、そこから階下の自室へ戻ることができるのだ。上がってくるのは大変だが、下りるときには廊下や階段を使うことなく、一瞬で戻ることができるのである。
余談になるが、その大穴は何かと便利だからというなるの要望で、今のところ修繕の予定はない。大きな一枚板と古いアニメのぬいぐるみを乗せて覆い隠してあるから目立つこともないし、危なくもない。プライベートも一応は守られているのが現状だ。
「じゃあね、また後で」
「うん…あ、景太郎、今日はその…ありがと」
「ううん、俺こそ勉強助かっちゃった。ありがとう」
しゃがみ込んでぬいぐるみと板を退けてから、景太郎はなるにしばしのいとまを告げた。なるはわざわざ見送りに来て、はにかみながらもあらためて礼を言う。
景太郎も照れながら礼を返すと、やがてひらりと大穴から飛び降りた。一旦置き去りにした勉強道具をなるから受け取り、どちらからともなく手を振り合う。
何気ない挨拶代わりではあるものの、こうして手を振るのが寂しい。
ずっと会えなくなるわけではないのに、離ればなれになるのが忍びない。
できればこのまま、ずっと一緒にいて他愛もなくおしゃべりしていたい。
当たり前の謝辞を素直に交わせる今だからこそ、景太郎はもちろん、なるも想いを同じくしていた。だからこそ先程も言葉不足に慌てたのだし、こうして名残を惜しむよういつまでも見送ってしまうのである。
「…またね、景太郎」
「うん…またね、成瀬川」
最後にもう一度だけ言葉を交わしてから、なるは大穴を元通りに覆い隠した。どこかやるせないような気持ちを切り替えようと、大きく深呼吸をひとつして立ち上がる。
立ち上がりはしたものの、なるは足下のぬいぐるみをなんとなく持ち上げ、そのまま強く押し抱いた。ぬいぐるみは年季の入ったものではあるが、こまめに手入れをしているから肌触りの良さは今なお格別であり、抱き心地もすこぶる良い。
「景太郎…」
なるは甘えんぼな声音で名を呼びながら、ゆったりとぬいぐるみに頬摺りした。ぬいぐるみを代用するしかない臆病さと行為の虚しさに溜息が出るが、胸いっぱいの抱擁欲には逆らえない。力を込めて抱き締め、思いのままに頬を擦り寄せてせつない衝動を慰める。
もっと素直になりたい。
むつみに負けないだけ、素直に求めたい。
おしゃべりだって、抱擁だって、キスだって、なんでもかんでも。
そうしないと、むつみに景太郎を取られてしまう。
そんな切実な思いを胸に、なるはぬいぐるみに抱擁を重ね続ける。
自身の気持ちに素直になるのは照れくさいことだが、同時に大切なことでもある。その認識は、最近では受験勉強と同じくらい身に付いてきていた。
それでも、景太郎の前ではどうしても意地を張ってしまう。むつみも一緒にいればなおらさであった。大人げなく振る舞っているのはわかるのだが、その場ではどうしようもない。天の邪鬼でかわいげのない性格には、なる自身もほとほと呆れ果てているのである。
「…明日のボウリングは、とにかく楽しもう。せっかく誘ってくれたんだもんね」
なるはぬいぐるみを両手で捧げ持ち、少し声を大きめに独語した。目の前のぬいぐるみではなく、自分自身に言い聞かせるつもりの宣言に、普段通りの暖かい笑みが戻ってくる。
楽しく過ごしていられる間は、きっと普段より素直でいられる。
素直でいられたら、今よりもう少し仲良くなれる。
それは都合のよい希望的観測であったかもしれない。
それでも、なるの乙女心は期待にワクワクと逸るのであった。つづく。