<<ラブひな>>

happiness on happiness (3)

作・大場愁一郎


 

 ボウリング大会は大いに盛り上がった。
 特に景太郎となるは昼食を賭けていたこともあり、ゲームは否が応にも白熱した。あまりの白熱ぶりにゲーム展開は非常にハイレベルなものとなり、息を呑んで成り行きを見守る客さえ現れたくらいだ。
 そんな周囲の注目とは裏腹に、景太郎となるは極めて無邪気にゲームを楽しんだ。
 ストライクラッシュに嬉々となったり。
 わずかにスペアを逃して悔しがったり。
 それこそ一投一投に一喜一憂しては、褒めたり小馬鹿にしたりと、まさに何気ない雰囲気の中で束の間の息抜きを満喫した。
 とはいえ、もちろん二人はむつみをないがしろにしていたわけではない。賭けの存在を教えるとむつみも喜んで乗ってきたから、三ゲーム目からしきりなおし、あらためて三つどもえの対決を始めた。
 ストライクゾーンめがけて、渾身の力で投げ込むパワーボウラーのなる。
 あくまで基本に忠実に、ナチュラルフックでストライクを狙っていく景太郎。
 そんな二人の勝負に、気ままな球転がしといったむつみが参加したことで、ゲームはまったく展開の読めない大混戦となった。
 熾烈なデッドヒートを繰り広げる景太郎となるの隙をつき、一見技術も何もないむつみがストライクラッシュでトップに躍り出たときには、他の客達からも歓声が上がったほどだ。ともすればパーフェクト達成かと、なるも景太郎も勝負を忘れてむつみに声援を送ったくらいである。
 ひたすら白熱するばかりでなく、それに合わせて和気藹々ぶりも増していった。真剣勝負でスコアを競いながらも、ゲーム展開やらテクニックについてなど、楽しいおしゃべりが絶えることはなかった。
 結局三人は、当初の予定の倍である六ゲームを楽しむこととなった。運動不足で鈍った身体には良い刺激になったし、ストレスで疲弊した心も十分な気分転換になった。年明けから二週間後に控えているセンター試験に向けて、今年最後の遊び納めという意味では、ローニンズ揃って有意義であったといえよう。
 ちなみに勝負はむつみが優勝、なるが準優勝、僅差で景太郎が最下位となった。三人とも相当の高アベレージであったのだが、ルールはルールであり、最下位となった景太郎が美少女二人に昼食をおごったのであった。

 有意義な一日を過ごしたとはいえ、慢性的に運動不足の身体は嘘をつかない。
 一夜明けた景太郎は、したたかな筋肉痛で目を覚ますこととなった。
 右の肩から腕からが鈍く痺れるように痛み、握力もほとんど無くなっている。夕べはじっくりと温泉に浸かり、汗とともに疲労感を洗い流したはずなのだが、酷使された右腕は一晩の休息を経てもなお悲鳴をあげ通しであった。
 おまけに今朝は寒気の影響で、ひなた市にも珍しく雪が積もったからたまらない。
 ひなた荘の温泉は一般の入浴客にも開放する時間があるので、階段の雪掃きをする必要があった。雪国のようにどっさりと積もるわけではないぶんまだましだが、それでも景太郎にしてみれば、朝から余計な管理人業務が増えたことになるわけだ。
 それが終わってから、あらためて玄関掃除に浴室掃除、ロビーや食堂といった館内各所の暖房準備など、通常の管理人業務をこなした。
 よりによって利き手が筋肉痛だから、普段ならどうということもない竹ぼうきやデッキブラシの扱いも困難を極めた。暖房の準備にしても、灯油タンクの持ち運びから給油に至るまで、どうしても左手ばかりに苦労をかけさせてしまう。そのために、なんだか左手の筋肉までもが不満を鳴らすように痛み始める始末だ。
「いて、いててて…ふぁあ、ちょっと昨日は張り切り過ぎちゃったなぁ…」
 英語のノートにペンを走らせていた景太郎は、やおらそう独語するなり、気怠そうにあくびしながら大きく伸びをした。天井に向けて伸ばした両腕を下ろすと、今度は左手で右腕を揉みほぐし始める。
 右手はひとまず、普通に筆記体の英文を記述できるくらいの握力を取り戻してきた。それでも筋肉はまだまだ熱を帯びていて、なにかしようとするたびにズキズキと痛む。
 ただでさえ日常生活にも支障をきたしているというのに、明日からは年の瀬を前にしたひなた荘館内一斉大掃除が待ちかまえている。それを思うとどうにも憂鬱であった。力無くペンを置けば、思わず溜息が漏れ出てしまう。
「あらあら、浦島くんったら。やっぱり運動不足なんですね。こうなったら毎月…いえ、毎週ボウリング大会を開くことにしませんか?」
「お金が持ちませんよっ!でも、むつみさんは筋肉痛とか、なってません?」
「ええ、むしろ調子が良いくらいなんですよ?聞いてください浦島くん、わたし、今日はまだ二回しか倒れてないんです!絶好調でしょ?」
「二回しかって…そ、それでもむつみさんにしては絶好調になるのかぁ…」
 疲労困憊といった景太郎に対して、むつみは見るからに快調である。
 黒目の美しい瞳はきらきらと輝いているし、おしゃべりするにしてもいつになく饒舌で活き活きとしている。にこにことした朗らか笑顔はいつものことであるが、今日の血色は特別良い。確かに彼女の言うとおり、体調は絶好調であるのだろう。
 実際むつみは虚弱体質であり、貧血を起こして昏倒することがしばしばある。また、沖縄出身ということもあってか寒さも苦手であり、最近ではすぐに風邪気味となって熱を出すようになった。おまけに便秘体質でもあるというのだから、たまの筋肉痛で泣き言を吐いている景太郎などかわいいものだといえよう。
「じゃあ、この辺で一旦休憩にしましょうか。いまお茶とスイカを用意しますね」
 むつみは腕時計で時刻を確認すると、そう景太郎に告げて炬燵から立ち上がった。壁に掛けてあったエプロンをいそいそと身につけ、鼻歌混じりに流し台へと向かう。
「む、むつみさん、お茶だけでいいですよ?スイカまで頂いたらおなかがいっぱいに…」
「じゃあお茶はやめて、スイカだけにしましょうか。お茶も美味しいですけど、スイカはビタミンやミネラルが豊富で身体にいいんですよ?活性酸素も抑制してくれますから疲れ知らずになれますしね」
 慌てて景太郎が声をかけると、むつみはリビングの壁際にごろごろと置かれているスイカを流し台に抱え上げ、早速てきぱきと切り分け始めた。スイカはむつみの大好物であるから、朗らか笑顔はいつにもまして愛くるしさを増してくる。
 もちろん景太郎も、休憩の時には絶対にお茶がいいというわけではない。季節はずれの感は否めないものの、むつみが沖縄から持参した今帰人産のスイカは甘くて美味しいから、ここは家主である彼女の勧めに従うことにする。
 こうして一人炬燵に残されてしまうと、景太郎はどうにもすることがなくなり、なんとはなしに室内を見渡してみた。独りでは間が持たなくて、どうにも落ち着かない。
 今日の勉強会はむつみの部屋で開かれていた。ひなた荘から歩いてすぐのところにあるアパートの一室である。とはいえ、こうしてむつみの部屋まで来ていることにさしたる理由はない。ローニンズ三人で輪番制になっているだけだ。
 部屋の環境は誰の部屋でも似たようなものだが、一人の部屋に固定してしまうと移動が不公平になるし、お茶やお菓子の用意も都合が悪い。輪番制にすれば互いに移動し合うことにもなるし、移動しないで済む者がお茶やお菓子を用意すればいいということで、以前に三人で話し合って決めたのである。
 むつみの部屋は、彼女が引っ越してきて間もないとはいえ、至って質素なものだ。ロフト付き八畳のリビングは一人暮らしにぴったりではあるが、調度品らしい調度品は炬燵とストーブしかない。クロゼットや引き出しなどが見当たらないのは、きっとロフトの下の押入に収納してあるのだろう。
 そのほかに目に入るものといえば、屑籠、座布団、勉強道具、携帯電話、そしてたくさんのスイカくらいだ。正直言って華やかさに乏しい。むつみと同性であるひなた荘の住人達の部屋と比べてしまうと、なんとも地味に思えてしまう。ともすれば景太郎の部屋よりも殺風景かもしれない。
 窓の外の冬景色も色調を落としたまま、見るからに冷え冷えとしている。
 そんな寒い季節を忘れるくらい室内は暖かであったが、ぽつねんと一人きりでいてはさすがに退屈であった。部屋の作り自体は近代的で興味があったが、そのうち眺め回しているのにも飽きてくる。
 なにより、しつこく他人の部屋を眺め回すのは失礼であろう。
 今さらながらにそう自覚して反省すると、今度は景太郎は流し台に立つむつみに視線を向けた。
 この部屋の流し台は、玄関とリビングを結ぶ通路に設えられている。景太郎の座っている位置からは玄関ドアが丸見えであるから、むつみの姿も当然確認することができた。スイカを切り分けるのに合わせて、ゆったりとしたロール状にまとめている黒髪がのんびりと揺れていてなんとも微笑ましい。
こういうのって、やっぱりいいもんだなぁ…。
 景太郎はエプロン姿で流し台に立つむつみの姿に、すこぶる男心を和ませていた。受験勉強からの束の間の解放感も手伝って、彼女を見つめる眼差しはどこまでも穏やかになってゆく。
 景太郎の実家は老舗の和菓子屋を営んでいる。そこでは、祖父や父は一流の和菓子職人として浦島家を支えるぶん、祖母や母は家事に専念するという環境が自ずと確立されていた。また、いわゆる亭主関白というものも確固たる形で存在し、厳格な祖父や父の姿、それに対して恭順な祖母や母の姿を目の当たりにして景太郎も育ってきた。
 そのために景太郎も、女は家事に専念するのが自然であると信じて疑わない。
 そういった意味では、今のむつみはまさに景太郎にとっての理想像であった。景太郎の理想としている家庭的な姿が見事に彼女と重なり、淡い憧憬の想いすら抱いてしまう。
 女の社会進出を認めないというわけではないし、祖父や父のような亭主関白に憧れるわけでもない。生涯の伴侶と巡り会えたなら、家事も子育ても協力し合えるような家庭を築きたいと思っている。一方だけでなく、夫婦でともに築き上げてこその家庭だと思うのだ。
もし、むつみさんと結婚できたら…
 ふと、景太郎の脳裏に妄想がよぎる。それは自身が、むつみと夫婦として結ばれた光景であった。
 決してしっかり者とはいえない二人であるから、先行きが不安ではある。
 しかしそのぶんお互いに支え合い、絆は日毎に強くなることだろう。
 むつみも景太郎も、素直に他者の幸せを願うことができる人間だ。互いにその気持ちを忘れなければ、どんな苦境もフォローし合って切り抜け、誰よりも幸せな家庭を築き上げることができるはずだ。
 また、むつみは朗らかで思いやりに溢れる女性だから、良い母にもなれるだろう。
 景太郎も子供は好きだから、真剣に子育てに向き合える自信がある。もとよりむつみと一緒なら、父親になる不安も気負いも消失するほどに頼もしい。財力はさておいても、一人でも二人でも三人でも子供を育てていけると思う。
一人でも、二人でも、三人でも…。
 そこまで妄想を飛躍させたところで、景太郎は胸中の内圧が急激に高まるのを感じた。
 三人の子供を作るには、双子や三つ子を授からない限りは、少なくとも三回はむつみと夫婦の営みを重ねる必要がある。
 そんな生々しい計算が、理性を押し退けてまで脳裏に展開されてきた。良心の呵責に苛まれながらも、景太郎の視線はむつみの身体に釘付けとなってしまう。
 景太郎より一学年上となるむつみは、成熟した女のプロポーションをしっかりと備えている。乳房は極めて発育良好であり、ふんわりと暖かそうなセーター越しにでも豊満なふくよかさがわかるほどだ。
 また、尻も女としてのまろみを存分に帯びており、細身のパンツを履くまでもなく十分に色っぽい。健全な男子であれば、きつくその身を抱き締めるだけでも男心が猛々しく奮い立つことだろう。
 なにより景太郎は、むつみと交わすキスの甘美さを知り尽くしている。小振りで形の良い唇は瑞々しさに満ちており、唇どうしをたわませ合うどころか、そっと触れ合わせるだけでも夢心地を覚えることができる。友達としてでなく、恋人としてでなく、純然たる夫婦としてキスを交わせたら、きっとそれだけで永遠の愛情を誓えるに違いない。
「…浦島くん?ねえ、浦島くん?」
「え…あ、はっ、はいっ!?」
 そのむつみが呼びかけていることに気付き、景太郎は弾かれるような勢いで不埒な妄想の世界から我に返った。狼狽えてしどろもどろになりながらも、努めて平静を装いながら呼びかけに応じる。
「浦島くんはスイカにお塩、かけるほうでしたっけ」
「し、塩…あ、しっ、塩は別に…そのままいただきます」
「うんうん、スイカはそのまま食べるのが一番です」
 狼狽しきりの景太郎はむつみの質問の意味を一瞬測りかねたが、すぐに首を横に振り、彼女の申し出を辞退した。むつみは景太郎の狼狽に気付く風もなく、片手にしていた食卓塩のびんを流し台の片隅に戻して微笑む。
 スイカに限らず、甘いものにわずかな塩分を加えると、その甘味は一層引き立つものだ。
 しかし景太郎は、スイカに塩をふるのは好きではなかった。どうしても甘味より先に塩辛さを感じてしまうから、せっかくのスイカの味が台無しになるような気がするのだ。
 むつみもまた、スイカには塩をふらない方である。故郷でもスイカに塩をふる習慣はなかったし、その習慣自体必要がないくらい沖縄産のスイカは美味しいからだ。
 その美味しい沖縄スイカの中でも、自信を持って客に出せるものだけを選んできたつもりである。むつみにしてみれば、塩はいらないと言ってもらえた方が嬉しかった。
「はい、お待たせしました」
「わぁ、美味しそう…!」
「浦島くん、美味しそうじゃなくって、本当に美味しいんですよ?」
 やがてむつみは種出しのボウルとともに、金属のトレイに乗せたスイカをリビングに運び込んだ。
 片手でも食べやすい大きさに切り分けられたスイカは、思わず季節を忘れてしまうくらいに甘やかな芳香を漂わせている。季節はずれの感を抱いていた景太郎も、その匂いにつられて思わず唾を飲んだ。ついつい歓声まであげてしまうと、むつみは自分の座布団に腰を下ろしながらその歓声を訂正し、悪戯っぽくウインクまでしてみせる。
「じゃあ、さっそくいただきます」
「ええ、どうぞ」
 景太郎は居ても立ってもいられないといった風に、早速スイカを手に取った。
 スイカは手頃な大きさに切り分けられていながらも、ずっしりと重い。それもそのはずで、果肉は寸分の空きもなく瑞々しい果汁を満たしている。しかも皮が薄いから、ほぼ全体が果汁の塊といえた。
 果肉の色も完熟して真っ赤であり、種も黒々と光沢を放っている。皮の縞模様も鮮やかであるから、果物でありながらも力強い活気を感じてしまうほどだ。養分と日差しを存分に享受し、手間暇かけて丁寧に育てられた証である。
 なにより、この甘い香りが強烈に食欲を刺激してくる。まるで果汁がスイカの甘味を閉じ込めきれなくなり、盛大に飽和してきているかのようだ。今ではもう、リビング全体がスイカの匂いに満たされているほどである。
 景太郎は舌なめずりをひとつ、思い切りよくスイカにかぶりついた。シャクシャクとした繊維質な歯応えに続き、芳醇な甘味を含んだ果汁が口いっぱいに満ちてくる。
「うわあ、美味しい!!」
「ふふふ、よかった。遠慮なさらないで、どんどん召し上がってくださいね」
「はい、いただきますっ!」
 景太郎は満面の笑みを浮かべるなり、胸いっぱいの感動をそのままに叫んだ。むつみもスイカを頬張りながら、景太郎の飾り気ひとつ無い感想に表情をほころばせる。
 実際むつみの用意したスイカは、旬のものに比べても何らの引けを取らないくらい美味しかった。喉の渇きは癒えるし、身も心も疲れが和らぐようである。冬に食べるスイカがこんなに美味しいものなのかと、景太郎は目から鱗が落ちる思いであった。
 この素晴らしい食感と甘味の前では、とても一切れでは満足できない。
 景太郎はあっという間に最初の一切れを食べ終えると、一旦果汁でベトベトになった口の周りを右手の甲で拭い、あらためて二切れめにとりかかった。食べ盛りの子供さながらに大口を開け、ガブリガブリと噛みつくように頬張ると、再び幸せな気分が口いっぱいに広がってくる。相好はだらしないくらいに緩みっぱなしとなった。
 そんな極上のスイカに舌鼓を打ちながら、景太郎とむつみはしばし他愛もないおしゃべりに花を咲かせた。勉強に集中している間は必要以外のことを話さなかったぶん、解放感も手伝って、次から次へととりとめもなく話題が溢れてくる。
 昨日のボウリング大会の回想。
 ひなた市での生活について。
 今年一年間の雑感。
 迫ってきたセンター試験について。
 東大に対する想い。
 景太郎もむつみも種出し用のボウルに口元を寄せ、器用に種を吐き出しながら、心ゆくまでスイカとおしゃべりを満喫した。受験勉強で凝り固まっていた身体も気持ちも、それですっかり解きほぐされてしまう。
「…どうせなら、なるさんもいればよかったんですけどね」
「え?あ、ああ…そうですね」
 むつみは早くも五切れめとなるスイカを手に取ると、その瑞々しい果肉に視線を落とし、何とも残念そうにつぶやいた。景太郎も食べかけのスイカを眺め、彼女に同意する。
 二人の言葉通り、今朝の勉強会になるの姿はなかった。
 とはいえ、昨日のボウリングで疲れ果てて寝込んでいるわけではない。もちろん景太郎やむつみが今日の勉強会を秘密にしているわけでもない。今日のなるはひなた荘の住人である一人の少女と先約があり、市街へ出掛けているのだ。
 約束の中身までは、むつみはもちろん景太郎も知らない。昨日の帰り道で聞いてはみたものの、女の子だけの秘密の買い物、ということで教えてもらえなかったのだ。むつみも深く追求はしなかったから、結局解らないままで今に至っている。
 センター試験に向けて勉強も大詰めを迎える時期ではあるが、なるは景太郎やむつみよりもはるかに地力があるから、こうして勉強会が二連休になってもさほど問題はないのだろう。なによりなるは今日の食事当番でもあったから、どのみち出掛けるついでではあったのかもしれない。
「昨日のボウリング大会が楽しかったから、なるさん一人いないだけでも寂しく感じちゃいます。あ、でも、浦島くんと二人きりが退屈だってわけじゃないですよ?」
「え、ええ…でも確かに、成瀬川がいないと…なんだろ、静かですよね」
「うふふっ。浦島くんはいつもなるさんと一緒だから、物足りないんでしょ?」
「い、いや、そ、そういうわけじゃあないですけど…」
 二人のおしゃべりの話題は、今度は勉強会を欠席しているなるへと移っていった。
 確かに景太郎も、今朝方出掛けてゆくなるを見送ったときにはどことない寂しさを覚えたものだ。帰るのは夕方頃になるという話だから、それまでなると会えないのかと思うと、今日の勉強会も億劫に感じたほどである。
 ところがどうだろう。よくよく思い返してみれば、今の今までその寂しさを忘れていたような気がする。億劫に感じていた勉強も、だらけることなく集中して取り組めている。
 その理由は、景太郎のすぐ目の前にあった。景太郎はしばし食を止め、なんとはなしに目の前のむつみを見つめてしまう。
 むつみは満面の笑みを浮かべ、早くも五切れめとなるスイカにかぶりついている真っ最中であった。その嬉々とした表情からは、彼女がいかにスイカ好きであるかが一目瞭然であり、なんともいえず微笑ましい。こうして見つめているだけでも、スイカの美味しさや彼女の幸福感が伝わって来るかのようだ。
 そんなむつみであったが、口元をすぼめてボウルに種を吐き出しているところで景太郎の視線に気付き、今さらながらにはにかんで目を細めた。とはいえ、なるがよくするように、照れくささに任せて小突いたりはしない。極力景太郎の眼差しを意識しないように努めながら、再びスイカを頬張り始める。
 そこで景太郎はついつい悪戯心を発揮して、じっとむつみの姿を見つめ続けることにした。これにはさすがのむつみも羞恥しきりとなり、小さくイヤイヤすると、おどけ半分でスイカの向こうに顔を隠したりする。もちろん食べかけのスイカで顔を隠せるはずもなく、照れくさそうな苦笑は景太郎から丸見えだ。
 そんな愛嬌たっぷりのしぐさに、景太郎の男心は存分にくすぐられてしまう。意地悪するように見つめ続けていたのが、いつしかむつみの愛くるしさに見惚れていた。思春期の胸は、たちまちワクワクとした高揚感に満ちてくる。
「な、なんですか、浦島くん…もう、そんなに見つめないでください、怒りますよ?」
「…怒ってみてくださいよ」
「…めっ」
「う…ぷ、くくっ…!」
「あぁん!浦島くんのいじわる!いじわるいじわるっ!」
 むつみは彼女なりに精一杯おっかない顔をしてみせたのだが、それは結果として景太郎を怯ませることにはならなかった。それどころか吹き出すのを懸命に堪え始めるので、むつみもとうとう彼の肩をつかみ、激しく揺さぶって怒りを露わにする。
 それでも、この照れくささが嬉しい。このくすぐったさが心地良い。
 景太郎もむつみも、そんなささやかな幸福感を共有してとびきりの笑みを交わした。今はもうどこまでも、互いの笑顔が嬉しい。そのぶん自然と笑みがこぼれるから、二人を包み始めた暖かな雰囲気はたちまち際限が無くなってしまった。
 実際景太郎にしてみれば、こうしてむつみと二人で過ごす時間は決して悪いものではなかった。否、なると二人で過ごす時間とは違った意味で良いものであった。
 むつみはなると対照的に、景太郎でも間延びしてしまうほどに穏やかな性格の持ち主である。そのために彼女と接していると、日常のしがらみを忘れ去ってしまうような解放感に浸ることができた。気兼ねもいらず、気疲れも覚えない居心地の良さは、日溜まりの中でのうたたねにもまったく引けを取らない。
 しかもむつみは面倒見が良く、相手に気を遣わせることなく、代わりに自分があれこれ甲斐甲斐しく気を遣うタイプだ。掃除や洗濯、裁縫や料理といった家事全般が大好きで、しかも得意という一面もある。これは持ち前の面倒見の良い性格もさることながら、幼い弟や妹が大勢いるおかげで家事を手伝う必要があったからだ。
 とはいえ、むつみはのんびり屋な上に虚弱体質であるから、結果として周りに気を遣わせてしまうことが多い。それでも、むつみも景太郎同様に人当たりが良いから忌避されることはなかった。景太郎やなる以外のひなた荘の住人からも、素直な好感を抱かれているくらいである。
 そんなむつみだからこそ、景太郎は男として甘えたくなってしまう。
 そして、むつみは望むとおりに甘えさせてくれる。
 景太郎とむつみが受験勉強仲間として付き合い始めてからは、まだ日は浅い。それでも景太郎の男心は、むつみが醸し出すまろやかな雰囲気に、確実に惹かれつつあった。
 もちろん、景太郎が一途に想いを寄せている女は成瀬川なるただ一人のつもりだ。
 大袈裟と笑われるかもしれないが、景太郎にしてみれば、なるはまさに天使である。いつでも元気溌剌として健康美に輝き、毎日が怠惰であった自分に様々な刺激を与えてくれる夢のような女だ。
 こうしてなるを天使とするならば、一方でむつみは聖母であった。多少のことでは動じることなく、常に穏和で慈愛に満ち、無窮の癒しと安らぎを周囲に与えてくれる。異性に縁の無かった景太郎にしてみれば、まさに奇蹟のような女であった。
おっちょこちょいで、虚弱体質で、スイカが大好きな聖母様…。
 景太郎はむつみを眺めたまま、彼女に抱いた聖母というイメージにいくつかの現状を重ね合わせ、しみじみと感慨に浸る。
 聖母というにはあまりに庶民的で人間くさくはあったが、そのぶん親近感は覚えやすかった。神々しさに圧され、見つめることさえはばかられるというようなことはない。景太郎がその気になれば、そのふくよかな身体を抱き締めて唇を重ねることさえできるだろう。
 なぜなら目の前の愛くるしい聖母は、スイカに負けないくらいキスが大好きなのだ。
 そして景太郎は、その聖母にキスをせがまれる至上の果報者なのだ。
 少しくらいの不埒であっても、むつみは他愛もない戯れとして受け入れてくれることだろう。ぎゅっと抱き締めれば、嬉々としてそれ以上の力で抱き締め返してさえくれるかもしれない。
 そんなかわいい聖母と、誰にも邪魔されることなく二人きりで。
 ストーブと炬燵の用意された部屋は暖かく、ウトウトと眠気を催すほどに快適で。
 炬燵の上には、笑みがこぼれるほどに美味しいスイカがたくさんで。
なんか、いいなぁ…まさに極楽って感じ…
 自らの果報をあらためて実感し、景太郎は充足感に満ち満ちた安堵の溜息を深々と吐き出した。想い人こそこの場にはいないが、これ以上高望みしては罰が当たりそうな気がする。こうしてむつみの笑顔を眺めていられるだけでも十分だと思えるくらい、今は満ち足りた気分であった。ふと気付けば、時間の流れは驚くほどに穏やかである。
「これで筋肉痛がなければなぁ…」
「え?」
「えっ…あ、えっ?」
 きょとんとなって問いかけてきたむつみに、景太郎も思わずきょとんとなり、おうむ返しに問い返してしまう。
 そのまま二人は不思議そうに見つめ合っていたのだが、やがて景太郎は事情を悟り、見る見るうちに顔面を紅潮させた。すっかり平穏となっていた心もたちまち動揺しきりとなり、視線はむつみの眼差しから逃れようと、忙しなくあちこちへと動いて回る。
 景太郎は思わず、素直な心境を独語としてつぶやいたのであった。もちろんむつみに愚痴をこぼしたかったわけではないし、ましてや当てつけたかったわけでもない。むつみと過ごすひとときにリラックスし過ぎて、つい気持ちが緩んでしまったのだ。
 起き抜けの頃から比べれば、騙し騙しながらも右腕を使い続けてきたために、痛みはだいぶ楽になってきていた。痛みそのものに慣れてきてもいるのだろう。
 それでも普段通りに右腕を使おうとすると、筋肉はたちまち悲鳴をあげてしまう。なまじっか極楽そのものの環境下にあるぶん、その痛みは一際強烈に感じられた。気が緩んだ弾みで弱音を吐いたとしても、誰も彼を責めることなどできないだろう。
「そうだ。ねえ浦島くん、マッサージしてあげましょうか」
「えっ!?そっ、そんな、悪いですよ!俺、そんなつもりで言ったんじゃないんですっ!全然問題無いんですから…」
「遠慮しないでください。わたし、マッサージには自信があるんですよ?ほら、右手を貸してください」
「だ、だから、平気ですってばぁ…」
 むつみは布巾で口元と両手を拭うと、景太郎の承諾も得ぬままに彼の右腕をとり、そっと炬燵の上に置いた。こうなってしまうと、もはや景太郎としては恐縮する他にない。失言に後悔しきりであったが、ここは素直に身を任せることにする。
 そんな景太郎の後悔に気付くでもなく、むつみは嬉々としながら彼の右手に両手を添えた。そのまま肉付きを確かめるよう丁寧に撫でさすり、やがて前腕からゆっくりと揉みほぐし始める。
「あっ…ん、んぅう…」
「…気持ちいいでしょ」
「は、はい…んぁ、ああっ…い、いい気持ち…」
 むつみがマッサージを始めるなり、恐縮しきりであった景太郎はたちまち表情を和らげ、鼻にかかったかわいい声を漏らした。むつみの問いかけにも、まるで催眠術にでもかけられたかのようにしおらしく答える。
 自信があると言うだけあって、むつみのマッサージは微に入り細を穿つ、実に巧みなものであった。その手つきはまるで筋肉痛の病巣すべてを見抜いているかのようであり、一切のお世辞抜きに心地良い。景太郎はたちまちむつみのマッサージに酔いしれてしまい、甘ったるい安堵の溜息を吐きどおしとなってしまう。
 こうして景太郎が満足してくれれば、むつみとしても腕の奮いようがあるというものであった。むつみは幸せいっぱいといった風に目を細めて景太郎を見つめながら、一生懸命に彼の右腕を介抱してゆく。
 ぎゅっ、ぎゅっ、と両手で握り混むように前腕を揉みほぐして。
 巻簾で海苔巻きの形を整えるよう、指先で前腕のあちこちをつまんで回って。
 かと思うと、今度は上腕部を両手で包み込み、力こぶを優しく揉みさすって。
 肘も掌の中で丁寧に丁寧に揉み転がして、筋肉の付け根の張りを和らげて。
 また、脱力していた手の平を取ると、五本の指を分け隔て無く握り締めて。
 親指と人差し指の間を念入りに指圧して。
「…浦島くんの腕って、けっこうがっちりしてるんですね」
「え?そ、そうですか…?」
 むつみはマッサージに専念しながら、ふとそんな感想を口にした。その思いがけない言葉に、景太郎はウトウトとまどろみかけていた両目をぱちくりさせて応じる。
「こう言ったら怒られるかもしれませんけど、もうちょっと華奢で細いかと思ってました。でも、思ってた以上に筋肉質で、力こぶだってしっかりあるし。やっぱり男の子なんだなぁって、今さらながら実感してます」
「あ…な、なんか照れくさいなぁ…そんな風に言われたの、初めてだから…」
「うふふっ」
 むつみの賛辞に、景太郎はほんのりと頬を染めてはにかむ。
 雄性としての自尊心をくすぐられて、気分を害する男はいない。
 特に景太郎は慢性的に雄性としての自信を喪失気味であるぶん、その面映ゆさは一際であった。なにより、こうして異性に男らしさを認識してもらえたことは物心付いてから初めてであり、もう嬉しくて嬉しくてしょうがない。
 とはいえ、もちろんむつみの賛辞は気を利かせた世辞などではない。景太郎の腕に触れてみた、その感想をおしゃべりの話題として何気なく口にしただけである。
 昨日のボウリングで酷使されて筋肉が張っているということもあるが、それでもがっちりとした手応えからは十分に男らしさを感じてしまう。また、見た目で華奢なイメージを抱いていたぶん、その意外性もむつみの感慨を深いものにしていた。
「…浦島くんは迷惑だって思うかもしれませんけど」
「ん?」
 今度はむつみはマッサージの手を止め、景太郎の右腕に視線を落としたままぽつりとつぶやいた。景太郎はずいぶんと緩和された筋肉痛に表情を和ませつつ、むつみの横顔を見つめて言葉の続きを待つ。
「わたし、こうして浦島くんと一緒にいると、すっごく気持ちが安らぐんです。ほら、癒し系とか和み系って、最近よく聞くでしょ?わたしにとって浦島くんはそんなタイプなんですよね。気持ちが楽になるってゆうか、元気が湧いてくるってゆうか」
「む、むつみさん…」
 むつみは照れくさそうに目を細めながら、蕩々と心中の想いを吐露した。その気取りもてらいもない素直な独白に男心が舞い上がり、景太郎は火が出てんばかりに顔面を紅潮させてしまう。
 むつみの抱いている感情は、景太郎がむつみに対して抱いているものとまったく同じであった。景太郎が過剰に舞い上がったのは、その偶然の一致に思わず両想いの状態を意識してしまったからである。むつみは想いを寄せている女ではないが、それでも思春期のときめきにせつなく胸は痛み、吐息も狂おしく詰まってきた。
 一般に、似たものどうしは互いに相容れないといわれる。それでも景太郎とむつみのように穏やかな性格の持ち主どうしであれば、むしろ互いに惹かれ合うことの方が多い。
 お人好しで。思いやりがあって。少々頼りないながらも一生懸命で。
 そんな性格の持ち主であるからこそ、二人は時間や空間を共にするのが心地良いと思えるのだ。気苦労の絶えない浪人生活を送っているぶん、互いに心暖まるような癒しや和みを感じてしまえば、それを求めて惹かれ合ってゆくのは自然なことであった。
「もちろん、なるさんと一緒にいても楽しいし、元気は湧いてきます。でも…やっぱりね、違うんですよ。なるさんと浦島くんじゃ」
「ど、どういう風に…?」
「全然違いますよ。なるさんはわたしと同じ女ですけど、浦島くんは男でしょ…?」
「あ、あっ…」
 そう控えめにつぶやくなり、むつみはマッサージに励んでいた左手で景太郎の右腕にすがりつくようにし、そのまま手の平を重ねて指を組み合わせた。思いがけないむつみの行動に景太郎は驚きで両目を見開き、上擦った声をあげてたじろぐ。
「なるさんは親切で、本当にいい人です。でも…こうして甘えて、弱音を吐いてしまいたくなるのは浦島くんです。やっぱりわたしも女ですから、男の人に甘えたくなる…」
「む、むっ、むつみさんっ…」
 むつみはいわゆるエッチ繋ぎのまま、両手で景太郎の右手を包み込み、愛おしむように撫でながら独白を続ける。景太郎はエッチ繋ぎの照れくささと、手の甲を撫でられるくすぐったさに、もはや目くるめく思いであった。もちろんむつみに悪意があるわけではないから、彼女は穏やかな笑みを浮かべたままで、景太郎の困惑には気付く様子がない。
 むつみにとって景太郎は、ひなた市で生活を始めてから初めて親しくなった男だ。
 景太郎やなるとはそれ以前から旧知ではあったが、やはりこうして同じ土地で暮らすようになってからは格段に親しくなることができた。もちろん東大受験仲間ということで意気投合したということもあったが、それを別にしても、やはり浦島景太郎という一人の男には強く惹かれるところがあった。
 とはいえ、こうして巡り会った男が景太郎でなかったとしたら、きっとむつみもこれほどまでに親しみを覚えることはなかっただろう。あくまでその男が景太郎であったからこそ、むつみは彼に心を許せるようになったのである。
 その理由は景太郎の優しい人柄に好感が持てるからとか、あどけなさの残る顔立ちがそれなりに好みであるからとか、様々な要因が考えられよう。
 しかしなにより、むつみは景太郎に古くからの友人であるかのような懐かしさを覚え、それに引き寄せられてしまうのであった。他愛もなくおしゃべりしたり、何気なく笑顔を交わしたり、こうして手をつないでも、その懐かしさの正体が記憶の底で見え隠れする。
 記憶が判然としないのはもどかしいが、それでも景太郎と過ごす時間が楽しいことに変わりはない。これでもっともっと親密にスキンシップを重ねられれば最高だった。
「浦島くんの手って、すごくスベスベしてて女の手みたい…。指もほっそりしてるし、わたしの手よりもずっときれい…」
「ん、んぅ…」
 むつみはすっかり陶酔の面持ちとなり、感心しきりとなった景太郎の右手を優しく優しく撫でさすり続ける。その手つきはもはやマッサージではなく、愛撫そのものであった。
 おかげで困惑気味であった景太郎も、やがてうっとりと目を細めてむつみからのスキンシップに浸ってしまう。エッチ繋ぎの照れくささとぬくもり、そして手の甲を撫でられるくすぐったさがあまりに心地良くて、相槌もついつい生返事となった。
 女であるむつみが感心しきりとなるとおり、実際に景太郎の手は端正な部類に入るだろう。肌はすべらかでかさつきひとつないし、ひなた荘に来るまでは力仕事と無縁であっただけに、指にも無骨さがない。爪も几帳面に切り揃えているから、ぱっと見でも美しい手をしていることがわかるはずだ。
 むつみは自身の手と比べて卑下するが、彼女の手も決して捨てたものではない。沖縄出身でありながらも肌は白くて透けるようであり、手触りも実にきめ細かである。
 それになにより、男の景太郎と比べると、やはり女であるむつみの指はもっともっと細くてたおやかであった。手首の太さも歴然としている。こうしてエッチ繋ぎでじゃれついていると、その違いはまさに一目瞭然だ。
「む、むつみさんの手だって、きれいじゃないですか…」
「ふふっ…そうですか?」
 そのうち景太郎も恐る恐るの手つきで左手を伸ばし、やがて控えめにむつみの左手に触れた。エッチ繋ぎしてじゃれついてくるむつみに強く異性を意識してしまい、思春期の男心が接触欲をこみ上げさせてきたのだ。
 それでもむつみは拒むどころか、驚く素振りすら見せなかった。むしろ触れられるなり嬉々として相好を緩め、正座したまま景太郎に擦り寄ってきたほどである。
 そのために二人は、炬燵の一辺に仲良く並んで暖を採っている格好となった。しかも仲睦まじく腕を組み、ぴったりと寄り添う体勢になったものだから、景太郎の二の腕にはおのずとむつみの胸が押しつけられる格好となる。
 その豊満な感触に舞い上がりながらも、やがて景太郎はむつみの左手をゆっくりと撫で始めた。努めて意識しているから、衝動のままに欲張ったりはしない。あくまで手の平のぬくもりを伝えるよう、丁寧に丁寧に手の甲を撫でさする。ちょうどむつみからのスキンシップをお返しする要領だ。
 それにしても、むつみの肌は実に手触りが良い。
 景太郎はむつみの手を撫でながら、感動しきりとなって溜息を漏らす。こうして堂々と異性の肌に触れるのは物心付いて初めてであるから、その感動はまさにひとしおであった。たったこれだけのスキンシップでも男心は夢心地となり、ドキドキと胸を逸らせてくる。
 冬は空気の乾燥する季節であるから、肌はどうしても荒れやすくなるものだ。特に手は頻繁に動かす上に水仕事にも晒される部位であるから、肌が弱いとたちまちかさつき、場合によってはひびやあかぎれを起こすことにもなる。
 しかしむつみの手は潤いに満ちて瑞々しく、どこまでもスベスベとしている。虚弱体質でありながらも肌は比較的強いようで、撫で心地は惚れ惚れするほどに素晴らしかった。
 また、根本的な事情として、男と女では肌の作りが別物だという事実も存在する。
 実際、男の肌に比べて女の肌は明らかにきめが細かく、しっとりとした艶を帯びやすくなっている。同じ色気といっても、男女でその性質が異なるのはそこからも来ているのだ。
 景太郎の手も確かに美しい部類ではあるが、やはりむつみには敵わない。こうしてエッチ繋ぎしながら撫でていると、時間の流れを忘れてしまいそうになる。むつみさえ許してくれるのであれば、このまま日が暮れるまででも撫でさせてもらいたいくらいであった。
「むつみさんの手って、すっごく上品な感じがします…。なんていうのかな、箱入り娘ってゆうか、深窓の令嬢ってゆうか…」
「あらあら、浦島くんったら。そんなに持ち上げてもダメですよ?わたしってドジでおっちょこちょいだから、手なんか怪我だらけの傷だらけなのに。浦島くんのほうがずっときれいじゃないですか」
「そっ、そんなことないですよっ、むつみさんの手はホントにきれいで触り心地いいし…そ、それに…怪我して傷だらけなら、労ってあげたいかな…なんて」
「ふふふ、嬉しい。だったらわたしも浦島くんの手を労ってあげますね。ひなた荘の管理人も、決して楽じゃないでしょうし」
 そんないたいけな睦言を交わしながら、二人は少しずつ、やがて思うがままに手先指先でのスキンシップを重ねてゆく。
 何度も何度もエッチ繋ぎの指を組み直しては、強く握り締めてみたり。
 約束を交わすわけでもなく小指を絡め、戯れ半分でだらだらと指切りしたり。
 中指の先をすべらせて、手の平や手の甲、指の間をくすぐったり。
 ふと思い付いて指相撲を始めてみたり。
 人差し指で反則したからと、デコピンの要領で手の甲を弾いたり。
 ひとしきりじゃれ合ってからは、二人は再び腕を組んで寄り添い、エッチ繋ぎでしっかりと指を絡め合った。空いている手もおずおずと伸ばし、互いの手の甲や手首に触れて、そのすべらかな手触りを心ゆくまで楽しむ。
 思春期を迎えている男女が手を繋ぐのは、得てして友達どうしから恋人どうしへと関係が進展したときだ。手や指は身体の中でも敏感で繊細な部位であるから、手を繋いで接触欲を満たすと、自ずと恋に燃える胸も満たされるのである。
 景太郎とむつみは恋人どうしという間柄ではないが、それでもこうしてじゃれ合うのはお互い悪くなかった。むしろ楽しいと思うし、幸せだとも思う。その証拠に、寄り添い合う二人からは安らぎに満ちた笑みが絶えない。
 慣れない異性との接触に緊張していた景太郎も、今やすっかりご満悦といった様子である。先程までは手を繋ぐのも照れくさくてならなかったのに、今ではイチャイチャとじゃれ合うのが楽しくてならない。
 寄り添われる感触やぬくもりにも舞い上がったりすることなく、むしろ深い安堵を覚えられるようになった。むつみの柔らかみやぬくもりを感じるだけで、なんともいえないくらい幸せな気分になってしまう。
 このままむつみを抱き締め、思いのままに頬摺りしてみたい。
 そんな大胆な憧れを抱いてしまうくらい、景太郎はむつみと織りなす仮初めの恋人気分に酔いしれていた。一途な想いを抱いていたはずの異性の面影も、今は身も心もとろけるような居心地の良さの中で霞んでしまっている。
「浦島くん…」
「はい?え…あ、あっ…」
 そんな矢先、やおらむつみは猫撫での甘え声で景太郎を呼びかけ、しきりにじゃれついていた右手の動きをぴたりと止めた。景太郎が呼びかけに応じる間もなく、その悪戯好きな右手は彼の眼前へと伸び、するりと眼鏡を奪い取ってしまう。眼鏡のブリッジを摘んで引き抜く手つきは慣れたものであり、景太郎にしてみても何度か経験のあるものであったから、それについてはさほど驚いたり慌てたりはしない。
 しかしその何気ない悪戯ひとつで、景太郎は再び身体中を緊張で強ばらせることとなった。異性とのじゃれ合いにも慣れ、ささやかな日溜まりよろしく和んでいた男心も、一転動揺の黒雲でかき曇ってくる。
「ね、浦島くん…」
「んぁ…う、ううう…」
 むつみは眼鏡を炬燵の上に置くと、景太郎の緊張をよそに、返す手で彼の頬を優しく包み込んだ。同時にエッチ繋ぎしていた左手もするりと解き、今度は景太郎の背後から肩を抱き込んでしまう。
 そのまま少しだけ力を込めると、それでむつみは横から景太郎にすがりつく格好となった。今やむつみは表情も、しぐさも、声音も、なにもかもが甘えんぼとなってしまい、この上ないくらいに愛くるしい。これは紛れもなく、むつみが景太郎に女心を許しきった証であった。
 そんなむつみに甘えかかられながらも、景太郎は今までとは裏腹に呼びかけに応じようとしない。それどころか困惑に思い詰めた表情となり、心持ち唇を噛み締めてそっぽを向いてしまう。
このままだと、またむつみさんとキスしちゃう…。
 今まで経験してきたむつみとのやりとりから、景太郎はそう予感していた。そのために困惑しているのである。端から見れば、実に羨ましい状況であるにもかかわらずだ。
 もちろん景太郎もキスが嫌いというわけではない。むしろキスの心地良さは男心に深く染み入っており、病みつきになりそうなくらいである。
 それでもむつみとのキスを躊躇うのは、想いを寄せている少女が胸の奥にいるからだ。
 甘やかな恋人気分に浮かれて失念していたが、今では景太郎の脳裏に、ふくれっ面をしたなるの姿が鮮明に映し出されている。せっかくの美少女ぶりも台無しの表情はヤキモチを妬いているようにも見えるし、軽薄な態度を軽蔑しているようにも見える。
 とはいえ、景太郎となるは恋人どうしという間柄ではない。脳裏に現れたなるの表情も、あくまで景太郎の思い込みに過ぎない。
 それでもそう思い込んでしまうほど、景太郎は良心の呵責に苛まれるのであった。先日も同じ状況で怒らせているだけに、これ以上なるに対して後ろ暗い秘め事を重ねたくないのである。
 好きな人を怒らせたくない。悲しませたくない。
 そして、好きな人に嫌われたくない。
 こうした気持ちは、誰もが持ち合わせていて当然のものだ。
 景太郎もむつみとじゃれ合う楽しさに浸りはしたが、やはりそれ以上親密な関係は望むことができなかった。一途に想い続けているなるの姿を思い出した今、こうしてむつみに甘えかかられていることすらも心苦しい。どうしようもないほどのいたたまれなさに、景太郎は心中でなるに詫びの言葉を重ね始めたほどだ。
 とはいえむつみの立場を考えれば、そんな景太郎の心情は非常に身勝手だといえるだろう。ひとしきり睦み合っておきながら、慕っている相手がいるからと突っぱねてしまうなど身勝手以外のなにものでもない。
 実際むつみは、今や景太郎に対して格別の愛おしさを抱いていた。この想いは普段から抱いている好感に、胸いっぱいの愛欲が溶け込んで圧倒的に増幅されたものである。
 むつみの女としての愛欲は、もはや接触欲に留まらず、唇をせつなく焦らせるほどの接吻欲まで喚起させていた。なまじっかむつみはキス好きな性癖の持ち主であるから、もはや理性による歯止めは利かない。景太郎のつれない態度にも関わらず、夢中で彼に抱きついてキスをねだってしまう。

つづく。

 

お名前  mail

 ご意見・ご感想などありましたらどうぞ。

もどる