つづくシアワセ

01

作者/大場愁一郎さん

 

 浴室掃除を終えてリビングに戻ったシンジは、まずその光景に言葉を失った。
「はぁい!おかえりなさい、シンジ!」
「あ、アスカ…」
 少女の嬉々とした声に迎えられながらも、シンジの意識はやがて焦燥の色合いを強めてゆく。その焦燥をすぐには言葉にできず、シンジは湿った髪をバスタオルで拭いながら、ただ少女の名をつぶやいた。
 アスカはリビングに自分の布団を敷き、その上にあぐらをかいて、ハニーブラウンの洗い髪にドライヤーを当てていた。
 その傍らには缶ビールがふたつ。ひとつは横倒しに転がっていることから、今はおそらく二本目を楽しんでいるのだろう。もちろん彼女は未成年だ。未成年も未成年、シンジもアスカも十四歳である。中学二年生だ。
「ミサトさんに怒られるよ?」
「怒られるわけないわよ。無造作に冷蔵庫に放り込んで、無造作に飲んで、無造作に捨ててるんだもん。一本や二本減ったところで絶対わかるはずないわ」
 Tシャツとハーフパンツ姿のシンジはフロアーに腰を下ろしつつ、苦笑半分でアスカを気遣った。しかしアスカはシンジの心配を気にするでもなく、余裕満面の表情で髪を乾かし続ける。
 時折飲みかけの二本目を口にし、心地良さそうに喉を鳴らす様は、二人の実質保護者であるミサトにもなんら見劣りしない。
「あんたもどう?冷蔵庫にまだまだ入ってるわよ?」
「僕はいいよ。ミサトさん、怒ると怖いし」
「なにをビクビクしてんのよ、子どもじゃあるまいし。あんたそれでも男?」
 アスカは右手にした缶ビールで冷蔵庫を指し、シンジに勧めた。しかしシンジは誘いに乗ることなく、首を横に振って理由付きで断る。それを聞いたアスカは彼を小馬鹿にするように目を細め、不敵なしぐさでもう一口ビールを飲んだ。
 アスカはシンジに対して、よくこういった物の言い方をする。挑発のようにも聞こえるその叱咤は、彼女の男性に対する理想に基づいた言葉だ。
 アスカにとって、男は頼もしい存在。多少のことでは狼狽えたりしない、心に余裕のある存在。例を挙げるとすれば、同じネルフに在籍する加持リョウジである。
 アスカの目から見て、大人の男である加持はまさに憧れの存在であった。そのため自分と同い年であるシンジはどうにも幼稚に映り、ついつい手厳しく当たってしまうのである。
 同じエヴァンゲリオンのパイロットであるぶん、他のクラスメイトよりはどうにかましであったが、それでも大差はない。やれ情けない、やれバカだと罵られるのは同じだ。
 だから今もアスカは、ミサトに叱られる事を恐れて缶ビールの一本も失敬できないシンジに呆れてしまうのである。
 缶ビールの一本くらいどうということがあろう。
 確かに母国ドイツでも十五歳未満での飲酒は禁じられているし、缶ビール一本であれ立派な窃盗だ。いけないことをしているという自覚はもちろんあるが、それでも社会悪として全人類から警戒されるほど大袈裟なことでもない。
 それにもし万一気付かれたとしても、
『だぁれ?あたしのビール勝手に飲んだのは?』
と睨み付けられる程度であろう。
 たとえば懲罰とばかり、そこのベランダから逆さ吊りにされ、泣いて謝るまで許してくれないというようなこともないはずだ。こちらもそれなりの子どもであるし、あちらもそれなりの大人である。
 睥睨の眼差しひとつが怖くて、風呂上がりの爽快な一杯を躊躇うような臆病風は、アスカの心には決して吹かない。それに比べて、いつでも臆病風がぴゅうぴゅうと吹きすさんでいるようなシンジは見ていて情けなくてならない。
 もどかしさによる不快感はあれど、一方でシンジに対してアドバンテージを有しているという自負によって、アスカの胸は空いている。むしろ適度なアルコールも手伝って、気分は爽快といえよう。
 アスカはあぐらを解いて右の片膝を立てると、右手の缶ビールをふらふら揺らしながらシンジと相対した。
「そっかぁ。あんたみたいな情けない男と一緒だから、ミサトも安心して徹夜作業ができるってわけね」
「そんな見境無く女の子に手を出さない真人間だからこそ、ミサトさんも僕のことを信じてくれてるんだよっ」
 シンジも思春期を迎えている立派な男であるから、日頃からこうしてバカにされてはいるものの、それを甘んじて受けはしない。真っ向から反論しつつ、口をへの字に曲げる。
 とはいえ、口ではやはりアスカの方が一枚も二枚も上手だ。ドライヤーを止めてプラグを引き抜くと、そんな反論など聞こえませんとばかり、オーバージェスチャーで肩をすくめてみせる。
「もっともらしいこと言ってるけど、あんたキスのひとつもできないんじゃない?あ、どうせキスしたことないんだろうから、できるはずもないわよね?あはははは!」
「きっ、キスくらいしたことあるよっ!」
「まぁたまた、ムキになっちゃって!じゃあ相手は誰よ?言ってみなさいよ」
「そ、それは…」
 売り言葉に買い言葉。シンジは言い返してやるどころか、アスカの口車に乗せられて見事に墓穴を掘ってしまった。風呂上がりという事実以外の要素のために、まだまだあどけなさの残るシンジの顔は見る間に紅潮してゆく。
 同じように、風呂上がりという事実以外の要素で美少女の素顔を火照らせているアスカは、なお一層目を細めて残りのビールを一息に飲み干した。コトン、と音立てて空き缶を置き、四つん這いの体勢となってシンジに詰め寄る。ルーズネックのTシャツを着ているために、胸元はもちろん発育良好な乳房による谷間までシンジからははっきりと見えてしまうが、アスカはそれに気付かない。
「ほら、どうしたのよ。早く言いなさいよ。どうせ見栄張って嘘ついたんでしょ?」
「う、嘘なんかじゃないよっ!」
「だったら早く、ほらほら!」
 鬼の首を取ったかのような気勢で、アスカは睨め付けるようにシンジの困惑顔を覗き込む。
 その視線から逃れるためではなく、彼女の胸元を視界に入れないようシンジはあちこちに視線を泳がせていたのだが、やがて覚悟を決めた。なぜだか一瞬、胸が詰まる。
「…ミサトさん」
「え…?」
 うなだれたシンジのつぶやきに、一瞬遅れてアスカが問い直す。
 確かに、普段からシンジの声には元気が足りていない。が、今のつぶやきが聞き取れなかったわけではなかった。
 なぜ突然、質問とは無関係な解答をしたのだろう。
 それがアスカの第一印象であった。だから、問い直したときには薄ら笑いすら浮かんでいたのだ。取り乱してみっともない、あるいは適当に言い逃れようとしているのかと、哀れみの念すら抱いたのだ。
 しかし、それは何もかも思い違いであった。シンジは包み隠すことなく、事実を白状していたのだ。アスカはたちまち動揺し、黒煙が噴き上がるごとく激情が溢れてくる。
「ミサトって…うそ…」
「嘘じゃないっ…ミサトさんと…その…」
「ちょ、ちょっとあんたっ!!」
 震える声を誤魔化そうともせず、アスカはなおも我が耳を疑おうとあがいた。しかしシンジはうなだれたまま、やはり頼りのない声で同じ名前を告げる。
 そんなシンジの様子に、アスカは何かとてつもなく嫌な予感を覚え、彼の両肩をひっつかんで揺さぶった。
 シンジはそれでようやく顔を上げたが、先程の紅潮した様子はどこへやら、今では明らかな失意が陰りを落としている。真っ向から見つめるアスカとも、視線を合わせることができない。
「あんた…どこまで、ミサトと…」
「ど、どこまでって…」
「言いなさいよっ!!」
 歯切れの悪いシンジに、アスカは心からの苛立ちを込めて恫喝した。
 シンジは普段から歯切れは悪いが、さすがにここまで物怖じはしていない。ユニゾンを築き上げるために、日夜特訓までした仲だ。
 それに、これはあり得ないことではあるが、シンジは決して後れをとるまいと常に意識しているライバルでもある。微かな物腰の違いでも、はっきりとわかるのだ。
 そして、その歯切れの悪さが何を意味しているか。
 考えたくもなかったが、アスカの意識はその解答を推察した。それゆえに声音は強まり、撫で肩をひっつかんだ両手には一際力がこもってゆくのである。
 シンジは観念したように目を伏せると、一度だけ唇を噛みしめてから口を開いた。
「…セックスも、してる」
「やめてっ!!」
 シンジの現在進行形での告白に、アスカの悲痛な叫びが重なる。
 その叫びは先程の要求と矛盾したものではあったが、決して冗談で言ったものではあった。イヤイヤとかぶりを振りながらうなだれてゆくアスカを見て、シンジは後悔の溜息を吐く。手にしたままのバスタオルがやけに重い。
「なんで…?まさか、あんたから…ってことはないわよね?」
 今度はアスカがうなだれたまま、やけに元気の足りない声で問いかける。
 シンジがミサトと関係を持っている事実は認めたくなかったが、その経緯には興味があった。否、興味なんてない。知りたくもない。この胸を苛む、どうしようもないほどの憤りをぶつける対象が見いだせるかどうか。それだけが今は知りたいのだ。
「ミサトさんから…アスカが来る、一月ほど前にね」
「あの女ぁ…ガサツで、テキトーで、イーカゲンってだけじゃなくって、とんでもないヘンタイだったのね」
「違うよっ!ミサトさんはそんな人じゃないっ!」
「はん、すっかりたぶらかされちゃって。あんな女、よく弁護する気になるわね」
「聞いてよアスカッ!ちゃんと事情があるんだっ!!」
 肩をつかんできていた両手をシンジが握り返し、それでアスカは顔を上げた。あるがまますべての事実を語ろうと、シンジはまっすぐにアスカの瞳を見つめる。
 アスカは忌々しげに顔をしかめてはいたが、それでも聞く耳は持ってくれるようであったので、シンジは落ち着いて経緯を語り始めた。

『第二世代育成計画』
と、あの夜ミサトは言った。
 現在エヴァンゲリオンのパイロットに従事できるのは、適性を持って選ばれた十四歳の少年少女である。その選抜は世界規模であり、特にネルフの支部が存在する関係各国では適格者の確保が重要課題となっているらしい。
 とはいえ、エヴァンゲリオンとの同調性は訓練で伸ばすことが極めて難しい。生まれ持った適性が無ければ、まずそこで不適と見なされてしまうのである。
 そこで、現在パイロットとして通用する少年少女をできるだけ早期に交配させ、子を産ませようという計画があるのだそうだ。適性を有する者どうしの子であれば、その適性が受け継がれる可能性は相当に高いらしい。
 即戦力となる少年少女を探し出すには、ダイヤの鉱脈や油田を探し当てるよりもはるかに経費と時間がかかる。
 それに引き替え、現在適格者として登録されている少年少女、いわゆるチルドレンどうしで子どもを作れば必要な時間は十四年で済むし、何より経費がゼロ。ただでさえもネルフの運営には天文学的な費用を必要とするだけに、このメリットは絶大な魅力となるのだ。
 そのために、とミサトは一旦言葉を区切った上で、自分とのセックスの練習を持ちかけたのだ。
 もちろん突然の話であるし、あくまで練習であるからと強制はしなかった。
 ただ、この計画は今後使徒と対抗していくうえで極めて有効であるから、採用は間違いないだろう、とミサトは語った。そうなったらいずれ、望む望まないに関わらず誰かとセックスすることになるからそのつもりでいてほしい、とも。

「…第二世代育成計画、ね。人権無視が当たり前のネルフなら、十分考えられる事だわ。でも、いくつか腑に落ちないところがあるんだけど」
「僕のわかることだったら答えるよ」
 アスカは忌々しげな表情を解くことなく、どこか視線を落としながら感想を口にした。シンジは彼女の面持ちを見つめたまま、抑揚のない口調で応じる。
「わざわざセックスしなくても、体外受精して代理母に産んでもらえばいいじゃない?」
「それはミサトさんも付け加えてたよ。チルドレンの母胎で育たないと意味がないって」
「じゃあ、セックスの練習にはどんな意味があるわけ?それこそ体外受精してチルドレンの胎内に納めればいいんじゃない。ちゃんと着床できれば、そこで赤ちゃんは育つでしょ?」
「受精卵を余計な器具に触れさせたくないんだって。僕たちの適性もものすごく小さな確率から成り立ってるんだから、自然なセックスで妊娠しないと意味が無くなるらしいよ」
「ふうん…まあ、わからないでもないけどね」
 いくつかの質疑応答を重ねてから、アスカはようやくシンジの肩から両手を離し、膝立ちの姿勢で腰に両手を当てた。開放されたシンジも小さく息をつき、なんとなくバスタオルを四つ折りにする。
「…でも、もうひとつだけわからないことがあるの」
「なに?」
 見下ろしながらなおもアスカが言うので、シンジは何気なく顔を上げて応じた。
 つぎの瞬間。シンジの顔は強烈な衝撃とともに、思い切りよく横向きにされた。したたかに殴打された、とわかったのは左の頬に激痛を知覚してからだ。
「あ、アスカ…?」
 急激に痛みが広がってくる頬を左手で押さえ、シンジは呆然となって少女を見た。
 アスカはその美少女然とした素顔を激怒に歪め、口惜しそうに唇を噛みしめていた。暴行の凶器となった右の拳は、いまだその火勢を衰えさせずに微震している。
「わからないのはね、あんたがなんでセックスの練習に応じたかってことよっ!!」
「そ、それは…」
「あんた言ったわよね!?練習なんだから強制じゃなかったって!なのにホイホイと応じるなんて…このスケベッ!ヘンタイッ!最低っ!」
 アスカは厳しい口調でシンジをなじる。それに対してシンジは反論することができず、すっかり狼狽えて視線をそらしさえする。それはどこからどうみても、後ろめたさゆえのしぐさであった。
 確かにあの夜、ミサトは強制しないと言った。
 シンジくんさえよければ、あたしはいつだって練習オッケェだからね、と缶ビール片手にピースサインを送ってきたことさえはっきりと覚えている。
 ではなぜ、その夜にいきなり練習を望んだのか。
 なぜ普段通りミサトにおやすみなさいを告げて、さっさと自室に戻らなかったのか。
 風呂上がりだったから、というのは理由にならないだろう。キャミソール姿のミサトが色っぽかったから、というのも理由にはなるまい。風呂上がりの彼女は、いつだってキャミソールにカットジーンズなどという露出度の高い格好をしているからだ。
 結局は、アスカになじられるとおりのことだったのだろう。思春期の好奇心に、つまりは若々しい性欲に抗えなかったからに違いない。
 同性のクラスメイトと違って、そういうことを露わにするのは恥ずかしいから決して表に出しはしないが、シンジもひとりの健全な男子だ。人並みに性欲は持ち合わせているし、セックスに憧れてマスターベーションだってしている。
 すべてはスケベで、ヘンタイで、最低なシンジ自身の性格が理由なのだ。
 第二世代育成計画だなんて、そんな漠然とした話を真剣に考え抜いた結果ではない。
 単に、セックスしてみたかった。それだけだ。
 理由は簡単だった。しかし、それを聞いたアスカの胸中は極めて複雑だった。
「もう信じられないっ!あっ、あたしだってしたことないのに、生意気なのよっ!!」
「そ、そんなこと言ったって…」
「うるさいうるさいうるさいっ!!ああもう気持ち悪い、セックスできるんなら誰とだってしちゃうのね、あんたって!相手がミサトでもよかったんだ!きっとあんたならファーストとだってやっちゃうんでしょ!」
「そ、そりゃあ…その計画が実行されて、命令があったら…」
「そういうこと聞いてるんじゃないわよっ!!このバカッ!!」
 リビングに少女の絶叫が響きわたる。アスカの激情がとうとう爆発したのだ。
 シンジのしどろもどろの返事に呆れ果てると、アスカは敷き布団を踏みつけるように立ち上がり、間髪を入れることなく彼の顔面を足裏で蹴り付けた。まさに格闘映画のワンシーンを自らの鼻面に受け、シンジはあぐらをかいた姿勢のまま背中からひっくり返る。
 その勢いで後頭部までフロアーにぶつけ、シンジは軽く頭を振ってから身を起こした。鼻っ柱が半端でなく痛い。右手の甲で拭うと、やはり鼻血が出ている。
 軟骨が砕けてまではいないようだが、あまりに痛くて涙まで出てきた。使徒との戦闘でも激痛を覚えることはあるが、それでも泣いたことまでない。
 むしろこの涙は、重苦しい胸の痛みで溢れてきているようだった。今すぐにでもごめんと言ってしまいたくなるような、正体不明の焦燥が涙となって目元を潤ませてきているのである。
 そんなシンジの瞳に映ったアスカは、いまや激情の塊と化していた。
 ルーズネックのTシャツとスパッツという姿で仁王立ちし、先程までの怒り顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。紅潮した頬にこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、両の拳をわななかせ、微かな嗚咽すら漏らして吐息を震わせていた。
「あ、アスカ…」
「嫌い…」
「えっ…」
「嫌いっ!大っ嫌い!このバカシンジ、あんたなんか大っ嫌いよっ!!」
 その言葉は、巧みに日本語を操るアスカにしてみれば意外なくらいに単純な言葉。
 しかし、そのぶん重みは格別であった。シンジは今宵最高の一撃を鬱々たる胸の真ん中にくらい、思わず言葉を失う。
 そんなシンジにはもはや一瞥もくれず、アスカはミサトの部屋へと繋がる引き戸を勢い良く開けた。端にぶつかり、反動で若干戻ってきたくらいだが、よく引き戸がはずれなかったものである。
 そして、今度は砂でもかき集めるような手つきで敷き布団や枕、タオルケットをまとめて抱きかかえると、一言も発することなくミサトの部屋へと入っていった。そのまま器用に右脚で引き戸を閉めると、リビングには何事もなかったかのように静寂が訪れる。
「…最低だ…ホントに最低だ、僕って…」
 アスカ言うところのジェリコの壁を見つめたまま、シンジはポツリと自責する。
 シンジは友達ができることにも慣れていないぶん、人に嫌われることには余計慣れていない。最近になってようやく友達ができることの喜びを覚えたばかりなのに、この結果はあまりに酷といえた。
 とはいえ、この事態を招いたのが自業自得であることは、シンジ自身も痛いくらいにわかっている。きっとこの涙は、その痛みによるものでもあるのだろう。
 だからこそ、シンジは泣きやむ術を見いだせないでいるのだ。どうすれば、どうやればこの事態を納得して受け入れられるのかわからないのだ。
 ふしだらだと罵られるのはかまわない。罵られて当然のことを自分はしたし、してきているのだから。
 それでも、嫌われたくはなかった。やっと親しくなれて、繕うことなくおしゃべりできるようになったというのに。もう以前のように独りぼっちには戻りたくなかった。
 所詮わがままに過ぎないが、孤独と付き合っていけるほどシンジはまだ大人ではない。子どものままの涙が、後から後から溢れてくる。
「うっ、ううううっ…」
 うつむいたシンジの口から嗚咽が漏れる。
 今すぐ引き戸の向こうからアスカが飛び出てきて、
「あんた、それでも男!?」
と、いつものように小馬鹿にしてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いた弾みで漏れた嗚咽でもあった。しかし、ジェリコの壁は開かない。その向こうからは、なんの物音も聞こえてこない。
「うううううっ…!ふううううっ…!」
 シンジはバスタオルに顔を埋め、うなるように泣いた。
 冷えたバスタオルに、涙はやけに温かく感じられた。

 シンジとのユニゾンとは無関係であろうが、アスカも一人泣いていた。
 明かりも点けず、放り捨てた敷き布団に腹這いですがりつき、タオルケットに顔を埋めて泣きじゃくる。しかし、嗚咽は絶対に漏らさない。痛みに耐えるよう、必死に唇を噛みしめてそれを堰き止め続ける。
 ここでまだ泣いていることをシンジに伝えてしまうのは、なんとしてでも避けたい。
 シンジはもちろん、ファーストチルドレンである綾波レイよりも常にリードしていたいという負けず嫌いな性格が彼女にそうさせるのだ。
 この有様をシンジに勘付かれ、慰めの言葉をかけられようものならどうだろう。
 そう思うだけで、唇を噛みしめる力が倍加した。両手もタオルケットを精一杯の力で握りしめ、今にも引きちぎらんばかりに震えている。
 許せなかった。何もかもが許せなかった。
 いつもぼんやりとしているバカシンジが、自分より先にキスも、セックスも経験しているなんて。しかもミサトを相手に。
 裏切られた気持ちだった。自分だけ除け者にされ、こっそり先を越されたようで、悔しくて悔しくてしょうがない。頭の中には、なぜ、という言葉だけが猛スピードでループしている。
 そんな憤りは、当然シンジに向けられる。
 普段から同年代の男はあさましくて下劣な生き物だと思っているアスカだが、今夜はあらためてその事実を痛感した。
 男は機会さえ与えられれば、いとも簡単にセックスしてしまう汚らわしい存在なのだ。情欲ひとつ制御することのできない、愚かな野獣なのだ。
 シンジを信じていたわけではないが、少なくともそんなことをするような性格でもないと思っていただけに、なおのことアスカはショックなのだ。
「ホント、最低…汚い…汚いよ、バカシンジ…」
 溜息混じりに、アスカはささやく。
 とはいえ、その声音は駄々をこねる子どものものであった。タオルケットに泣き顔を埋めたまま、イヤイヤとかぶりを振ればなおも涙が溢れてくる。
 嫌だった。
 シンジといるのが。シンジと話すのが。シンジを見るのが。シンジに触れるのが。
 とにかくシンジに関するすべての事が、今はたまらなく嫌だった。息を合わせ、ユニゾンを築き上げてともに使徒を倒したあのシンジが、どうしようもなく汚らわしく感じる。
 あの爽快な瞬間が、もうはるか遠い昔のことのようだ。懐かしいと同時に、恋しい。
「…嫌いになれない…嫌いになりたくない…」
 やはり溜息混じりのささやきは、せつなく胸を詰まらせている後悔の念。
 激情のまま一方的に宣言して、この暗い部屋に飛び込んだものの、自分は何か取り返しの付かないことをしてしまったのではなかろうか。
 なにより、シンジがどこで誰と何をしようが自分は無関係のはずではないか。
 シンジがどこで誰と何をしようと、常に自分が優勢であり続けるのではなかったか。
 なのに、この苛立ちは何なのだろう。この焦燥は何なのだろう。
 確かに、シンジのことが嫌だと思う。
 でも、シンジのことが嫌いではない。
 では、嫌いではないということは、どういうことなのか。
「…バカシンジ」
 アスカはひとつだけしゃくり上げると、ささやかな呪詛の言葉を吐いた。すっかり泣き疲れ、身じろぎするようにタオルケットにくるまる。
 その顔は、まだどこかふてくされていた。

 つづく。

 


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(updete 2004/02/03)