つづくシアワセ

02

作者/大場愁一郎さん

 

 眠れない夜というのは、本当に嫌なものだ。
 これがまだ、明日に楽しいことが控えていて、それが待ち遠しくて眠れないのならまだいい。早く寝付かなきゃ、と思いながらも気持ちが高ぶっていられるだけましである。
 ところが、悩みを抱え込んだがために眠れないのは苦痛以外の何でもない。
 スイッチのように気持ちが切り替えられる人間であればいい。しかしシンジのように多感な世代にしてみれば、そう上手くもいかないのが現実だ。忘れようとしても、むしろ忘れようとすればするだけ、悩み事は繰り返し脳裏に巡ってくるのである。
 そのたびに胸は詰まり、よどんだ懊悩を吐き出さんと溜息が漏れる。そして、さほど暑くない夜だというのに背中が不快となり、寝返りをうってしまう。
 あとは延々と同じ作業を重ね、貴重な睡眠時間を浪費するだけとなるのだ。
 そしてまた、眠れないシンジの脳裏に今宵何十回目かの苦悶が現れた。
 嫌い。大っ嫌い。
 想像もできなかったくしゃくしゃの泣き顔で、アスカが言い放つ。
 自業自得だと言い聞かせても、この言葉は容赦なく胸に響いてくる。響くどころか何度も何度もくさびとなって表面を穿ち、粉々に打ち砕かんとしてくる。
 こんなときに、時間が戻ればいいと願うのはあまりに身勝手であろう。が、そんなどうしようもないことでも願わなければ、この悶々とした気分は紛れないのであった。
 どんな罵倒でも受け入れる。でも、せめて嫌われたくない。拒絶されたくない。
 こんな夜が、あと何時間続くのだろう。シンジはふと枕元の目覚まし時計を見た。
 淡く光るデジタル数字は午前一時を示していた。明日は休日であるから、起きるには早いどころか、これから床に就く時間であってもおかしくない頃合いである。シンジの口から、あらためてやるせない溜息が漏れ出た。
 その溜息が揺らしたわけでもないのだろうが、ふとミサトの部屋への引き戸が微かな音を立てた。シンジの視線は即座にそちらへ向く。
「アスカ…?」
 堪えようもなく、シンジは呼びかけたくてならなかったその名を口にした。なにがしかの返事が戻ってくるのを期待して、視線は闇の向こうのジェリコの壁を見つめる。
「…まだ起きてたの?」
 数秒ほどの間をおいて、そんな声が闇の向こうから返ってきた。いつもの張りのある声ではなく、憔悴したつぶやき声ではあったが、それは紛れもなくアスカのものだ。
「…眠れないんだ」
「…あたしもそう」
 やはり間をおいてシンジが答えると、アスカもまた間をおいて応じる。
 二人は慎重に言葉を選んでいた。
 闇の中で交わされる、互いに気を遣いながらの会話は、まるでコンピューターの情報メッセージを読んでいるかのように無機質である。しかし、その声自体は互いに聞きたくてならないものだったから、もどかしさはそれぞれの胸で濃密に渦巻いてくる。
 シンジは思わず布団から這い出て、手探りで引き戸に触れた。もちろん女の子が寝ている部屋であるから、いきなり開けたりはしない。すぐ近くにいることを伝えたくて、ただ体育座りの背中をそっと預ける。
 すると、引き戸の向こうからも同じ程度の反発力が加わってきた。シンジにはわからないが、アスカも同様に体育座りとなって引き戸に寄りかかったのである。
 二人のユニゾンはなお続く。一様に言葉を失ったのだ。
 眠れない状況を告げ合ったきり、あとは何ひとつ言葉が出てこない。話したい気持ちは山ほどあるというのに、何から話せばいいのか見当も付かなかった。
 たった引き戸一枚隔てたその向こうに話したい相手がいるというのに。
 地球の裏側はおろか、宇宙にいる相手ともその場で話のできる時代でありながら、この近距離で話ができないジレンマ。二人は闇の中で膝を抱えたまま、胸を苛むもどかしさをいつまでもいつまでも感じ続けた。
 もちろん、それで眠気が訪れるわけでもない。ただ単に気疲れする状況が夜明けまで持続するだけだろう。
 このままでは埒があかないのは、優秀な頭脳を以てしなくてもわかる。
 だから行動力で勝るアスカから、一番手っ取り早い言葉をつぶやいた。
「シンジ…」
「なに…?」
 それでまずひとつ、二人は会話を成立させることができた。
 そしてつぎにアスカが口にした言葉は、いま彼女が一番望むことであった。何も考えず、ただ心情のままに言葉を紡ぐ。
「もう、しないで…」
「え…?」
「み、ミサトとは…もうしないでほしいのっ」
「う、うん…」
 アスカは口早にそう望みを告げたが、シンジはあっさりとそれを聞き入れる。
 今後はもうしない、と約束することで、別に今までの経験がリセットされるわけでもない。それでもシンジはそんな錯覚に陥り、心からの懺悔の想いとともにそう告げたのだ。
 一瞬ミサトのふてくされた表情がシンジの脳裏をよぎったが、ミサトから練習を強要したことは一度たりともない。情けない話、練習が目的なのかミサトの肉体に溺れてしまっていたのか、その判断がシンジには付かなかった。
 それでも、未練は無い。ミサトの豊満な肉体を失うより、アスカに本気で嫌われてしまうことの方が怖かった。
 ミサトとの練習は奇跡のような感動と安息を得ることができたが、きっとそれは仕事と恋心を混同した結果の、若さ故の錯覚だったのだろう。ミサトが知ったら、それこそ呆れて苦笑するに違いない。
「それと、もうひとつ…」
「うん…」
「…嫌いって言ったの、取り消す…。と、取り消させてくれるわよね?」
 シンジとある程度の話ができて、気持ちに弾みがついたアスカは立て続けて望みを口にした。それは彼女に不眠をもたらしていた一番の原因であった。
 嫌いと告げて、それで突き放してしまうのは容易い。しかしその一言は、ひとつの絆を断ち切ってしまうことになるのである。
 絆を作ることは、逆に難しいことだ。機会に恵まれなければ、なにより作り得ないことでもある。今まで独りで生きてきて、その機会をできるだけはね除けてきたアスカにはよくわかることだ。
 それだけに、わずかながらも心を通わせることのできる仲間ができたことは、アスカの人生十四年目にして初めて体験した感動であった。
 頼りない、情けないと小馬鹿にしながらも、彼とおしゃべりしたり、あるいは喧嘩して過ごす時間はかけがえのないものになってきた矢先のことである。激情に任せて嫌いと言ってしまったものの、本当は嫌いではない。微塵もそうは思っていない。
 ただ、あの瞬間はシンジのしたことが許せなかっただけなのだ。
 そんなアスカの望みを聞いて、シンジは思わず身を翻していた。引き戸の前で膝立ちとなり、両手の指を組み合わせて祈るようにうなだれる。
「取り消して…お願いだから、取り消してよ…アスカに嫌われたくないんだっ…」
「シンジ…?」
「たっ、確かに僕はダメな男だと思う。ミサトさんとのことだって、練習とかそんな意識無くなってて…だから、最低だとか、バカだとか言われるのはかまわないっ、でも…でも僕、アスカに嫌われたくないんだよっ!虫のいいこと言ってるけど、アスカに嫌われたら…アスカに嫌われたら、僕…」
 そこまでまくし立てて、シンジはやおら黙り込んだ。涙腺が危なっかしく震えて、想いを声にできなくなったのだ。格好悪いからと、精一杯唇を噛みしめて嗚咽を堪えているから話すに話せないのだが。
 シンジの独白は、まさに心情の吐露そのものであった。
 孤独の苦しみは身を以て知っている。一方で、多少の孤独には慣れているつもりだった。
 しかし、使徒に対抗する仲間としてここまで気持ちを通わせてしまうと、その拒絶は身を切られるよりつらく感じられた。この夜だけは、アスカと離ればなれになりたくないと心の底から切望したのであった。
「…なにをメソメソしてるのよっ。あんた、それでも男?」
 うなだれたシンジの頭上で、そんな声が聞こえた。
 そして、引き戸が内側から静かに開かれる。ふわりと少女の匂いが漂い、華奢な右手が手探りでシンジの髪に、そして頬に触れてきた。
 その手つきには、先程の声にも負けない優しさがあった。シンジは左手を伸ばし、そっと彼女の右手に添える。アスカの手の甲は指にも優しく、極めてすべらかだった。
「なんだ、泣いてたんじゃなかったの?」
「…男だからね」
「涙声のくせにっ」
「アスカだって」
 懐かしげに言い争う声音は、お互い言い訳しようもないほどの涙声になっている。
 それでも、気恥ずかしさは無かった。夜闇のおかげで、半ベソのみっともない顔が見えないことも幸いしているのだろう。
 シンジはゆっくりと立ち上がり、暗闇でおぼろげにも見えないアスカと相対する。それも、驚くほどの近距離でだ。二人の身長はほぼ同じであるから、もう吐息すら意識しなくても耳に届いてしまう。敏感な唇に感じることもできるかもしれない。
「…一緒に、いていい?」
「う、うん…」
 控えめなアスカの問いかけと、一瞬たじろぐシンジの承諾。
 微かな声ではあったものの、思いがけない近距離での会話であったため、二人はまるで直接口移しされたかのような錯覚を覚えた。二人、思わず頬が染まる。
 その高揚感に任せて、アスカは目の前のシンジに思い切りよくしがみついた。シンジもアスカの背中に両手を伸ばし、確かな力で背中を抱き寄せる。
 思わず、二人の口から恍惚の吐息が漏れた。お互い、この夜闇が真昼の太陽の白さで染め抜かれたような幻覚さえ見る。
 それくらい、抱擁の心地は素晴らしかった。アスカはシンジの肩から首からを撫でながら夢中で抱きつき、シンジもアスカの背中を丁寧に撫でさすりながら、力強く抱き締める。
「シンジ…シンジ、シンジッ…」
「アスカ…アスカ、アスカッ…」
 人恋しさに任せて抱き合い、何度も何度も頬摺りしながら、二人は甘えた声で互いを連呼した。
 その名を口にするだけで、あれだけ重苦しかった胸が嘘であったかのように軽くなってくる。かわりに開放感、安息感、そして爽快感が体内に広がってきて、おのずとはにかんだ笑みまで浮かんできた。
「いい気持ち…いい気持ち…」
「うん…うん…」
 アスカは夢心地そのものといった愛くるしい声でつぶやくと、頬摺りしながらシンジの耳元やあごの線、そして頬に口づけた。思わぬくすぐったさに相好を崩しながら、シンジはぽんぽんとアスカの背中を叩いて同意する。
 それでも、アスカのじゃれつきは止む様子がない。いつまでもいつまでも、まるで別人のように甘えかかって頬摺りし、その往復ごとに小さな唇を押し当てるのだ。
 しかもその薄膜は接触するだけでなく、健気に甘噛みするよう丁寧に丁寧にキスを撃ってくる。淡いさえずりすら混じっている穏やかな吐息もあって、本当に良い夢でも見ながら寝惚けているかのようだ。
「アスカ…もう、くすぐったいよ…」
「あんっ…ちょ、やだっ…!や、やめ…ん、んふっ、んっ…く、くすぐったぁい…!」
 やがて、シンジも反撃に出る。
 抱き寄せている両手で、アスカの脇腹の上辺り、ちょうどあばらをまさぐるようにくすぐりながら、シンジは彼女がしてくるのと同じように頬摺りとキスを混ぜてみた。
 温かですべらかなアスカの頬に、そっと吸い付いては頬摺りし、吸い付いては頬摺りしを繰り返しながら、指の先でしきりにあばらをなぞる。Tシャツ一枚隔てているだけであるから、指による刺激はほとんど緩衝されることなくアスカに届く。
 するとアスカはたちまち声を上擦らせ、しきりに身をよじってイヤイヤした。先ほどまでの頬摺りキスもおろそかになってしまい、じゃれつかれるくすぐったさに翻弄されてあっけなく身悶えする。
 さすがにこのまま続けては、アスカもご機嫌斜めになるだろう。
 シンジはそう気取り、ひとまず両手でのくすぐり攻撃を終えた。ついでに頬摺りをゆったりとしたものにし、そのぶん頬に口づけている時間を長くする。
 それでアスカも安心したのか、一息ついてからシンジに負けまいと頬摺りキスを再開した。シンジの動きに合わせて大きく頬摺りし、火照った吐息を漏らして睦み合いの悦びに浸る。
 そのうちアスカの方から頬摺りを遠慮がちにしてゆくと、二人は代わるがわる頬にキスするようになった。アスカがキスして、シンジがキスして、またアスカがキスして、またシンジがキスして。二人時間のたつのも忘れて、耳元といわず耳たぶや、あごの線から首筋、頬にもまんべんなく唇を押し当ててゆく。相手の不意を狙い、予想以上の反応に微笑んでと、まるでゲームのように楽しい。
 そんなキスの応酬も、少しずつ変化を示してきた。
 ひとしきりシンジの横顔にキスを撃ちまくったアスカは、やがてその唇を極めてきわどい部位に押し当てるようになった。少しずつ、少しずつ、少女の唇は少年の唇へと近づいてゆく。
「アスカ…」
「…いいでしょ?」
 次のキスは、本当のキスになる。
 そう悟ったシンジは小さく生唾を飲み、慌てて少女の名を呼んだ。しかしアスカは意に介する風もなく、板チョコレートを半分ねだるかのような声音でそうつぶやく。
 シンジにそれを断る理由などどこにもなかった。
「んっ…」
「ん…」
 夜闇の中、二人の鼻にかかった声が甘く溶け合う。
 アスカはシンジと唇を重ね合わせた。シンジはそれを優しく受け入れ、小首を傾げて二人の密着を強める。
 敏感な薄膜がふんわりたわむと、アスカはたちまち息を止めていられなくなった。
「んぅ、んぅ、んぅ…んふっ…」
 震える細いあごは緊張の証。
 鼻の頭に浮かぶ汗の粒は興奮の証。
 そして、かわいい鼻声と鼻息は恍惚の証。
 アスカはシンジとのキスに、身も心も酔いしれていた。きつく抱き締め合いながらの、まさに恋人どうしのような口づけである。もう身体の芯からとろけてきそうなくらいに心地良い。
 しかし、経験したこともない強烈な緊張と興奮、そして恍惚はアスカにとって相当な過負荷となる。意識には霞がかかり、頭がぼうっとしてきた。なんだか今にものぼせてしまいそうなくらいだ。
 油断したら惚けたままくずおれてしまいそうなので、アスカは必死でシンジの身体にしがみつき、決して彼から離れまいとあがいた。このままずっとキスしていたくて、無我夢中であごを動かし、むさぼるような動きで唇をたわませる。
「んふ、んふ、んふっ…んんぅ、ん、んぅ…」
「ん…ふ…んぅ、ん…」
 我を忘れて鼻息も荒くし、時折かわいい鼻声でむずがるアスカをシンジはしっかりと抱き締め続けた。
 いかにもアスカらしい積極的なキスであったが、それはシンジとて望むところであった。彼女が欲張れば欲張るほど、それに負けないだけ自らも唇をたわませてゆく。
 重なる角度を付けて、丹念に甘噛みし合ったり。
 互いに唇をすぼめ、リズミカルにその弾力を楽しんだり。
 淫らな音を立ててしまうくらいに吸い付き合ったり。
 嬉し泣きしそうなほど、アスカと交わすキスは素敵だった。興奮に鼓動は高鳴り、ペニスも痛いくらいに勃起して隆々と反り返ってくる。これは男の生理現象であるから、誰にも責めることなどできない問題だ。
 ともかく、興奮で活性化した身体中が酸素を欲してくるから、あっけなく息が続かなくなってしまう。鼻息を吹きかけてしまうのが照れくさかったが、さすがに我慢の限界であった。
 やむなくおずおずとした調子で吹きかけると、やはり顔中が熱くなってしまう。困惑したような鼻声は、快感の他にそれが原因だ。
「ん、ぷ、ぷぁ…」
「んぁ、やぁ…んぅう…」
 三分を超えようかという長い長いキスは、シンジが口で息継ぎしようとあえいだ弾みであっけなく幕を閉じた。アスカは一瞬むずがったが、それ以上の不満は漏らさず、そっとうつむいて息をつく。
 こつん、と二人の額が合わさり、その下で二人の吐息が繰り返し混ざり合った。Tシャツの胸元が熱く、微かに湿り気を帯びてくる。
「…なによ、もっと感動しなさいよっ」
「え…?」
「あ、あたしの…ファーストキスだったんだからっ…」
 すっかり上擦った声で告げて、アスカは押し黙った。
 シンジはあらためて生唾を飲み込み、ついつい舌なめずりして少女のファーストキスの名残を確かめる。
 マシュマロよりもふんわりと柔らかい弾力。
 興奮の丈が飛び火しそうなほどのぬくもり。
 健気な鼻息、一生懸命なすがりつき、無我夢中でのさえずり。
 そのすべてが、アスカにとって初めてのキスだったとは。そして、そのキスを捧げてもらったのがこの自分だとは。
「…嬉しい…ホントに嬉しいよ、アスカッ…!」
「し、シンジ…」
 シンジはアスカに頬摺りしながら、陶酔の溜息とともに感想を告げた。
 その声音は微妙に涙混じりではあったが、決して悲痛な響きはなかった。むしろ雨雲の隙間から太陽が覗いたような、そんな晴れやかさに弾んでさえいる。耳元で聞かされたアスカも、思わずはにかんで言葉に詰まったほどだ。
「ね、アスカ…僕、上手くできた?アスカと、ちゃんとキスできた?」
「…あ、あんたバカ?そんなこと、答えられないわよ…」
「そんなぁ。ね、少しでいいから教えてよ。気になるんだよ」
「し、しつこいわね…へ、ヘッタクソだった!たぶん…その、ずっと覚えてると思う…」
「ちぇっ。でも…ずっと覚えててもらえるんなら、嬉しいかな」
「ほっ、ホントにバカね!忘れたくても忘れられないって意味よっ!」
 恋人のようなキスを交わしてしまったら、今度はおしゃべりまで恋人のように仲睦まじいものになってしまった。
 二人は特にそれを意識することなく、抱き合ったまま無邪気に笑みを交わす。ずっと前からこんな関係でいたかのような気軽さが、たったキスひとつで生まれたのだ。じゃれつく頬摺りも、もはや何気ないスキンシップのひとつでしかない。
「…嫌だったの。悔しかったの」
 ひとしきりおしゃべりを交わしてから、アスカは先程のようにシンジと額をくっつけて切り出した。シンジは先を急かすでもなく、小さく首肯して続きを待つ。
「あんたの身体に、ミサトの匂いが染みついてるって思ったら…もういてもたってもいられなくなって、それで…キス、しちゃったんだけど…」
「うん…」
 ぐい、ぐい、と小刻みにシンジの頭を押し返しながら、アスカは小声で独白する。シンジはなされるがまま、じっとそれを聞き続ける。
 アスカは独白しながら、ファーストキスの興奮が収まりつつある気持ちを整理し、ぼんやりと思い返していた。
 シンジからあの話を聞かされたとき、彼に対して嫌悪の情を抱いたのも、そもそもはこれが原因だったのではないだろうか。
 確かに、あっさりとミサトに練習を依頼したシンジのことは情けない男だと思った。優柔不断で頼りないくせに、こういうことだけは積極的なシンジに不快感を覚えもした。
 キスやセックスに対して後れをとったことも原因のひとつではあろう。
 勉強でも、運動でも、エヴァンゲリオンの操縦でも、雑学でも。何であれアスカは負けたくなかった。勝ち続けることで、誰からも必要とされる人間になりたかったからだ。
 なのに極東の、これといった特徴のない地味な男が自分の知らない世界を知っているなんて。それも自分に黙って、抜け駆け同然でだ。平静でいられるわけがない。
 それでも、本当に嫌だったのは。
 泣き出して、取り乱して、嫌いだとまで言い放った理由は、シンジが女性を抱いていたという事実。シンジが女性に抱かれていたという事実だった。
「任務の練習なんだから、あんたが誰としようと勝手だってわかるのに…そんな汚らわしいことに興味なんて持てるはずなかったのに…それでも、あんたが誰かとしてたなんて嫌なのっ!たとえあたしと知り合う前のことでも嫌なのっ!!その人のことが好きで、そうしてたんならまだ許せるけど…それなのに…それなのにっ…!」
「アスカ…」
「はぁ…あたし、バカみたい…バカみたいだよぅ…」
 アスカは軽い情緒不安定に陥っていた。
 シンジに気持ちを伝えたくて。しかし、うまく言葉にできなくて。
 その果てに、自分が苛立っているもっとも的確な理由が嫉妬であることに気付き、アスカは溜息とともに自責した。くすん、とひとつだけしゃくりあげ、シンジの右肩に頭をもたげる。シンジは意識することなく、アスカの背中をゆっくりと撫でさすっていた。
「…もっと、もっとキスしたい…ううん、キスだけじゃない、もっと、もっと色んなことだって…」
 再び半ベソの声となり、アスカは擦りつけるような力でシンジに頬摺りを始める。
「それで…あんたの身体中から、ミサトの匂いを消し去りたいっ…!」
「アスカ…んぁ、ん、んんっ…ん、んぅ…」
 シンジの頬に微かな湿り気を残し、アスカはあらためてシンジの唇を奪った。ファーストキスの時にシンジがしたように、わずかに小首を傾げて密着を強め、夢中で吸い付く。
 シンジも慌てたのは一瞬であり、すぐさまアスカの劇場を唇で受け止めた。左手で背中、右手で腰を抱き寄せるようにし、より深くアスカとの一体感を増そうとする。その抱擁に満足して、アスカはすふすふと鼻息を漏らした。
「んぁ、や、もっとぉ…」
「だいじょうぶ、一緒に…ね?」
「ん…」
 薄膜どうしの密着が緩んでゆくのを感じて、アスカは顔を突き出すようにしながら鼻にかかった声でむずがった。
 シンジは唇を触れ合わせたまま、まさに口移しするかのようにアスカをなだめる。事情はまだよくわからなかったが、アスカはひとまずそれを聞き入れた。
 まずシンジの唇は、聞き分けの良いアスカの唇全体を愛でるよう、角度をつけて丁寧についばんだ。柔らかく口づけながら、そのまま小さな唇を割り開く具合である。
 やがてそのついばみは上唇、下唇、上唇、そして思い出したように割り開いて、と巧みな愛撫になっていった。
 小鳥がじゃれ合うようなこのキスは、シンジが初めての練習の時にミサトから教わったものだ。それ以来、大のお気に入りとなっている。しかも、好きこそ物の上手なりけれというやつで、今ではミサトに褒められるほど上達している。
「ひゃんっ…んぁ、んっ…んぁ、んんっ…!」
 とはいえ、つい今し方ファーストキスを遂げたアスカには少々刺激が強すぎた。
 実際、唇は男女の別なく生まれ持った性感帯である。しかし、性感帯というものはどの部位であれ、ある程度の刺激を受け続けないと単に過敏な場所のままでいることになる。
 アスカもシンジにバードキスを施され、とにかくくすぐったくてしょうがなかった。それと同時にたまらなく照れくさい。もう顔面はおろか耳まで熱くなってくる。
 それでも、やはりアスカはアスカだ。シンジからのキスが幾分収まるのを見計らい、今度はアスカの方からシンジにバードキスを返してゆく。勇気を振り絞れば、たちまちその天才ぶりが露わになった。
「んぁっ…ん、んふっ…ん、んんっ…!」
 見よう見まねで、だけど心からの想いを込めて、アスカはシンジの唇をついばんだ。
 上唇、下唇、割開いて、今度はぷっちゅりと密着してから、また上唇。
 まるで唇どうしのスキンシップを図るようにキスを重ねると、シンジもたまらずにだらしない鼻声を漏らした。あごはもちろん、肩から両手にかけてもゾクゾクと震える。もうTシャツの下は興奮による発汗のためにびっしょりだ。
「あ、アスカ…」
「ん…んふふっ…」
 シンジの声音には、ありありと降参の意志が感じられた。アスカは心持ち胸が空くのを覚え、愛くるしく微笑んでバードキスを緩める。
 一旦高ぶりを抑えようと、二人はぴったりと口づけながら、鼻で息をついた。鼻先が触れ合って、二人の汗が混じる。鼻息が頬をくすぐるのと、なにより胸いっぱいの幸福感で、アスカもシンジも表情は緩みっぱなしだ。
「…ね、シンジ」
「うん…?」
 二分ほども密着を堪能してから。
 湿り気を残しながらおもむろに唇を離して、やおらアスカが切り出した。シンジは唇をモジモジさせて、キスの余韻を楽しみながら応じる。
「…例の計画、実行されるんなら…あたし…初めては、あんたとなら…いいかな…」

 つづく。

 


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(updete 2004/02/03)