著者からのお断り
本作品はあくまでフィクションであり、物語に登場する人物と著者とはまったくの別人であることをお断りしておきます。
りんろーん…。
ドアホンのボタンを押すと、いつもの聞き慣れた呼び鈴が小型スピーカーから、そして室内にも同じ音色でこだまするのが聞こえてくる。
ほどなくして小型スピーカーは、コツン、という小さなフックオンのノイズを鳴らし、応対に出た女性の声を玄関前に伝えた。
「はーい?」
「ただいまー。オレだよ、愁一郎。涼子?」
「おかえりー、今開けるよ。」
若干の間延びを含んだ、決して丁寧とは言えない応対にも構わず愁一郎はマイクとスピーカーを兼用しているドアホンに向かって帰宅の挨拶を告げた。それに重ねて、応対に出た女性を誰何する。
涼子、と問われて否定も肯定もせず、応対に出た女性は幾分声の調子を弾ませてからインターホンを置いたらしい。てす、てす、てす、という足音がドアの向こうに近寄ってきて、ガチャン、とカギを開けた。時間差もなくドアは内側から開く。
「や、おかえりぃ。」
「ただいま。お、ギター弾いてたんだ?」
「うん。お風呂張ってる間にちょっと、ね。」
ミストグレーのスーツとブリーフケースを小脇に抱えた彼…大場愁一郎を出迎えてくれたのは、彼と同居している女性のひとり、桐山涼子であった。パジャマと呼んでも差し支えないような厚手のスエット姿で、肩から一本のエレキギターを下げている。彼女の愛機であるギブソンのレスポール・カスタムだ。右手にピックを摘んでいることからも、つい今しがたまで弾いていたであろうことが窺える。
愁一郎は彼らが住居としているマンションの一室に入ると、後ろ手でカギを閉めて涼子の後に従った。別に廊下が狭すぎるというわけでもないのだが、身長百七十五センチの愁一郎と似たような背丈の涼子がギターを持っていることもあり、並んで歩くのはいくらなんでも無理があるためだ。
「…お風呂、もうだいぶ張ってんの?」
廊下を歩いてくる途中、浴室へのドアの向こうで景気のいい水音を聞き、愁一郎はリビングにつくなりそう尋ねた。壁に掛かっているファンシークロックを見ると、時刻はもう午後六時になろうとしている。
「いんや。帰ってきてからさっきまで昼寝してて…で、テレビ見ながらギター弾いてて、そろそろお風呂とご飯用意しなきゃ、と思って動き始めたとこ。」
三交代制で働いている涼子は、今日は夜勤明けでお昼前に帰宅してきたらしい。その上でなおかつ本日の食事当番も回ってきているのであるが、涼子は特別大慌てするでもなく愁一郎にそう答えた。
同居している他の友人達がまもなく帰宅するにしても、浴槽はそんなに大きなものではない。このマンションの給水力は一般家庭の水道と比べてなんら遜色無く、ものの二十分もあれば手頃な水位まで湯を満たすことができる。みんなが帰宅してから準備を始めたとしても、雑談でもしているあいだにすっかり入浴の用意は整うだろう。
食事に至ってはまだまだノンビリできると思っている。ご飯はすでに炊けているし、逆に今から準備を始めて完成させたとしても全員揃うまでに冷めてしまうのは目に見えているのだ。慌てる必要などどこにもない。
「ふうん、じゃあ一番風呂はいただきって時間に帰ってこれたな。」
「なに言ってんだよ、一番風呂はあたしだよっ!」
スーツとブリーフケースを傍らに置き、カーペット敷きの上に腰を下ろした愁一郎はネクタイを緩めながらそうおどけてみせた。そんな愁一郎の額に軽くデコピンを見舞うと、涼子は彼同様腰を下ろし、再びギターを構えてなにやら弾き始める。彼女の座布団の前に見慣れないスコアブックが広げてあることからも、さっそく御贔屓にしているアーティストの新譜を練習していたらしい。
大場愁一郎は某公立高校で教員を務めている二十五才だ。新学期が始まってから一ヶ月ほど経ち、二年生の担任にも少しずつ慣れてきたところだ。
それも明るく人当たりの良い性格、そしてなにより年齢の若さが幸いしているだろう。生徒からもそれなりに人気があり、また、信頼も得ていたりする。受け持ちである英語の授業は多少真剣さがこもりすぎるせいか、一部の生徒には煙たがられてもいたりするが…。
余談ではあるが、この二年生の担任というものはなかなかに大変であったりする。
生徒達は学校生活にもすっかり慣れてしまい、校内外ともどもで手を焼かせるようになる年頃なのだ。愁一郎にもそんな時代があったからよく覚えているし、そのぶん少々不安だったりもしている。
ましてや二年生といえば修学旅行があるのだ。今年はなんと沖縄へ行くらしい。打ち合わせも大変なら、いざ当日になったとしても物見遊山気分ではいられないはずだ。タダで旅行へ行ける、などと喜んでばかりもいられない
もっとも、そんなことを言っていては一年生の担任だって新入生を学業や雰囲気に慣れさせるために苦心しなければならないし、三年生の担任なら進路指導に骨を折らなければいけないのだからどのみち大変といえば大変だ。ともすれば二年生の担任が一番楽、と考える人もいるかもしれない…。
閑話休題。そんな刺激に満ちた教員生活を送りながら、家に帰れば五人の女性と共同生活を営んでいる。
辻ヶ谷みさき、里中雅美、倉敷由香、駒沢智秋、そしてこの桐山涼子の五人である。彼女達は皆、愁一郎と同じ高校を卒業した同級生だ。
桐山涼子は大学を卒業以来、大手警備保証会社に勤務している。
段位こそ有してはいないものの、それでも並外れた格闘技能を活かして三交代制のガードマンを志望していた。これは深夜労働が苦にならない事と収入がいいこと、それと警察官にも似た独特の制服が彼女にとって魅力的だったためだ。
余談ではあるが、愁一郎に負けないだけ背丈のある涼子がこの制服を身に纏うとけっこう様になったりする。幾分色黒で中性的な顔立ちも、彼女の凛々しさや迫力を見事に倍加させているようだ。
短くまとめているクセッ毛の髪を脱色し、両耳にピアスをいくつもくっつけはしているものの、明朗快活な性格は高校時代から少しも変わっていない。同性の同居人はもちろん異性である愁一郎にも区別なく親しく接している。人見知りしない開けっぴろげな性格は誰からも好感を持たれる彼女の長所のひとつだ。
♪ちゃらら、ちゃらららっ、ちゃっちゃー…
「愁一郎、今日は早いじゃん?なんかあったの?」
見慣れないスコアでありながらも涼子は巧みにフレットを押さえ、弦を弾いてゆく。さっそくイントロのギターリフをコピーしたらしい涼子は、スコアから視線を上げることなく愁一郎にそう尋ねた。普段なら愁一郎は六時を過ぎないと帰宅しない場合が多い。部活の顧問をしていたり、給料に繋がらない残業をしていたりと理由は様々だが、六時前に帰宅するというのはなかなか珍しいことなのだ。
「なんかあったってわけでもないけど…今日の食事当番、涼子だろ?手伝いたいなって、勤務時間終わったらソッコーで帰ってきたんだよ。」
「えっ…あ、そ、そうなんだ…ふぅん…」
♪ちゃらら、ちゃらららっ、ちゃ…ちゃ、ぴんっ…びんっ…
愁一郎の気取るでもない自然な口調に、涼子は思わず動揺をきたす。微かにソバカスの残る滑らかな頬は見る見るうちに赤く染まっていった。よくよく聞いていればピッキングからも先程までの流麗さが失われ、余計な弦まで弾いてしまっている。
愁一郎の言葉はささやかな言葉ではあったが、涼子の胸の奥に熱い波紋を広げるには十分であったようだ。熱い波紋は涼子の胸の中いっぱいにひろがり、大きな歓喜と小さな期待で鼓動を高鳴らせてゆく。
「あれ?どうしたんだよ、ミスが出てきたぜ?」
「うっ、うるさいなぁ…愁一郎がそんなこと言うから、あたし…」
「まったく、オレが手伝わないとどんな夕食になるかわかんねーからなぁ。」
「なんだぁ?そんな理由かよ!ちぇっ、期待して損したっ!」
「いて、いててっ!ごめんごめんっ!ごめんってば!!」
からかわれていたことに気付くと、涼子はあぐらをかいていた長い右脚を伸ばし、足の指で素早く愁一郎の頬をつねった。元陸上部で鍛え上げられた脚力は今でも衰えを知らないようで、愁一郎は涙を浮かべながら謝辞を繰り返す。
…せっかく集中してるのに、あんまり茶化したら悪いよな…。
反省すると同時にそう感じた愁一郎は、しばし黙って涼子のギターテクニックを眺めていることにした。涼子も再び姿勢を戻し、気を入れ直すように乾いた唇を小さく舐める。
♪…ちゃららっ、ちゃっちゃーらららちゃららら…
すっかり調子を取り戻した涼子の指裁きは見事なものであった。
涼子が演奏している曲は愁一郎自身も聞き覚えのある曲なのだが、初めて弾いているはずなのにもうCDのそれと同じように聞こえる。ましてやギターアンプを通さずにそこまで聞こえるということは、よほど的確に弦を押さえ、リズミカルに弾いていることの証明になるだろう。テンポだって決して遅いということはない。
愁一郎は以前、涼子が大学時代に陸上部の傍らでバンドを組んでおり、ライブハウスでも演奏していたという話を彼女自身から聞いている。また、自分達六人でささやかな酒宴を開いたときもコードで弾いてもらってカラオケ大会をやったことだってある。
それでも…こうしたバンドアレンジによる涼子のギター演奏をあらためて目の当たりにすると、感動もまたひとしおであった。
コードの時以上に早く、巧みに…まるで精密機械のように動き回る左手の指先。
まるでピックにまで視覚があるかのように、必要な弦を必要なだけ弾く右手の指先。
それは愁一郎にとって十分芸術と呼ぶに足るものであった。涼子のギターテクニックの素晴らしさを視覚的、聴覚的に実感してしまう。
ふぅ…。
ギターソロの部分を弾き終わったところで涼子が一息ついたので、愁一郎は瞳を輝かせながら惜しみない拍手を贈った。スコアブックから顔を上げた涼子はそんな愁一郎をきょとんとして見つめ、心持ちはにかむように微笑む。
「いやぁ、すっげえな!ホント上手いよ!マジで感動した!」
「そんな大袈裟な…。あ、またなんかオチがあるんだろ、さっきみたいに!」
「違う違う、そんなんじゃないよ!オレ、マジで褒めてんだぜ!?バンドやってたって話だけど、今でも即プロで通用するんじゃねーか?」
「それは褒めすぎだよぉ。例えばプロのサポートやるにしても、一曲まるまる弾けるってのは当たり前だしね。それに、プロになるにはまだまだ練習しないと。もっともプロになるつもりもないけどね?あくまで趣味の範囲に留めときたいんだ。」
謙遜するものの、褒められればやはり悪い気はしない。涼子は愁一郎の賛辞を前に、ほんのり朱に染まった頬を左手で押さえながら照れくさそうに笑った。
実際、ギターを弾いて生計を立てていくつもりは彼女の内には存在しない。
本音を言うと、自分のギターテクニックがプロとしてどこまで通用するのか試してみたい気持ちはある。それでも、今の自分にはかけがえのないものが存在しているから…友人との、そして愁一郎との共同生活が存在しているから、あえてそうしないのだ。
愁一郎は涼子にとって大切な親友であり、そして憧れの異性でもある。彼に対して抱いている恋心は高校時代から大事にしているものなのだ。
叶わぬものとして、一度は彼を忘れてしまおうと考えたこともあったが…想いは色褪せることなく、思わぬ事態で再燃の機会に恵まれたのである。その機会こそが今の共同生活なのだ。
今諦めたら、もう後がない。どうせなら最後まで粘ってみたい。
そう望んだからこそ、彼女もまた友人とともに愁一郎との生活を選んだのだ。最終的に愁一郎が誰を選ぶのかはわからないが、それでも精一杯今を楽しみたい。恋敵でもある親友達との暮らしを思いきり満喫したい。
だからこそ、あくまでギターは趣味の範囲に留めておきたいのだ。そんな趣味の範囲のギターをみんなが楽しんで聞いてくれるのであれば、プロになどなる必要もないと割り切れてもいる。
「ふうん…。せっかくの才能なのに、もったいないような気もするけどなぁ。」
「ははは、ありがと!でもあくまで特技のひとつってことで置いとくんだ!」
涼子の想いについては以前から気が付いている愁一郎であったが、それでも彼女の才能を惜しまずにはいられない。
何事にも熱心に取り組む涼子の性格は、愁一郎が高校時代から抱いている彼女への憧れのひとつでもある。だからもし、今からプロに転向したとしても涼子ならきっとやっていけると…否、やっていけるどころか大成できると信じている。
しかし、プロともなれば音楽活動が生活の一部になるのはやむを得ないわけで、今のような郊外に暮らしていては綿密な打ち合わせや練習、ライブ活動にだって支障が出るのは目に見えている。中途半端にやってもいい結果が出ないのは何であれ同じだ。
かといって今の生活から涼子を切り離してしまうのも寂しい。それは愁一郎のみならず、他のみんなも同じだろう。本音を言えば、やはりずっと一緒にいてもらいたい。
そう思う反面、いつまでも女の子五人と生活を営んでいるわけにもいかないことは重々承知している。彼女達とてそろそろ結婚して、それなりの家庭を築いていたとしてもおかしくない年齢なのだ。
五人とも自分のことを慕っているからこそ、今の共同生活が成り立っていることもわかっている。だからこそ自分が早めに決断を下さなければ…一生添い遂げたい女性を決めなければ、他の四人がズルズルと年齢を重ねていくだけなのだ。
愁一郎自身としては、高校時代に付き合い始めた辻ヶ谷みさきが本命である。しかし全員から慕われているぶん、許されるものなら全員を慕い返したい。分け隔てなく区別もなく、愛情を注ぎたい。
現に今の生活にはなんの不満も抱いていない。むしろ満ち足りて幸せなくらいだ。
しかし自分はともかく、みんなはこの生活についてどう感じているのだろう。自分と同じだけ…同じだけとは言わないまでも、せめて楽しんでくれているのだろうか…。
「愁一郎、なぁ、愁一郎!」
「あ…あ、どした?」
「ボケーッとして…。そんなに聞き惚れた?」
「あ、ははは、ごめんごめん!なんかあった?」
ちょっとした考え事のつもりが、いつのまにかかなり深刻な苦悩にまで進展させてしまっていたらしい。呼ばれていることにも全然気付かなかった愁一郎が慌てて顔を上げると、涼子は肩に掛けていたギターをいつの間にか下ろしていた。
「愁一郎も弾いてみる?見た目ほど難しくないからさ。」
「え、いいの?じゃあちょっと貸して!へへへ、オレもさっきから弾いてみたいなって思ってたんだよ!涼子ほどまでいかなくても、オレでもできるんじゃないかってさぁ。」
「言うねぇ。じゃあさっそく一曲弾いてもらおうかな?」
「い、いきなりは無理だよっ!基本くらいは教えてくれよな!」
涼子が片手で差し出したギターを愁一郎は慎重に受け取り、嬉々としながらストラップを肩に掛け、見よう見まねで構えてみる。余裕ありげに言ってのけたものの、あらためて左手でネックを、右手にピックを持つと不思議な緊張感が胸を占めてきた。
「そうそう、できるだけボディーを斜めにしないで…なるべくフレットを見ないで弾く方がいいんだけど、まぁ初めてだしいっかぁ…。で、ピックアップがふたつあるけど、その間で弾くようにすればいいよ。」
「な、なかなか難しそうだなぁ。それに…けっこう重いもんだね。」
「確かに重いほうだけど、苦になるほどでもないだろ?ギターなら大概これくらいの重さはあると思うよ?」
専門用語の連発に戸惑う愁一郎が重いと言うのも無理はなく、涼子が愛機としているレスポール・カスタムはエレキギターの歴史と同様、非常に重い。実際レスポールはエレキギターを語る上で切り離すことのできないメジャーモデルであり、ギター好きなら誰しも一度は目にしたことがあるほど有名だ。
涼子の愛機の色はホワイト。オールドモデルというわけではないが、バンドに夢中になっていた大学時代からの彼女の相棒だ。淑やかなカラーリングとは裏腹に、独特の骨太サウンドはもちろん健在である。
ピックガードに小さく『R.K』という彼女のイニシャルがカッティングシートで張り付けてあり、ストラップピンが着脱交換の容易なロック式に交換してある以外は一切改造を加えていない。
「じゃあとりあえず適当なコードを押さえてみよっか?えっと、じゃあ人差し指で二フレットの三弦、中指で四フレットの五弦、薬指で同じく四フレットの四弦を押さえてみて。」
「え、え、えと…こ、こんな感じか?」
言われるままに左手の指を広げ、ぎこちなく弦を押さえる愁一郎を見て涼子は的確に、しかし簡潔にアドバイスを与える。
「うん、そうそう。指が他の弦につかえないようにしないとダメだよ?で、五弦から下に、じゃーんって。」
♪じゃ〜ん…
「こんな感じか?」
「うん、バッチリ!じゃあ弦はそのままで、人差し指を一フレット、中指と薬指を二フレットに移動して、今度は六弦から下に、じゃーん。」
♪じゃ〜ん…
「…さっきから指が痛いんだけど…?」
「愁一郎、力入れすぎなんだよ。フレットと弦がくっついてればいいんだから、そんなガンコに押さえつけなくてもいいんだ。今のがFシャープマイナー7とEってコード。それをね…ちょっといい?」
「あ、ああ…。」
膝立ちになった涼子が愁一郎の背後に回り、そっと彼の右手を包み込む。愁一郎にFシャープマイナー7を押さえてもらい、そのまま右手を一定のリズムで動かした。
「次はE。そのまま横に滑らせてもいいから。」
「うん…。」
背中に涼子の胸の柔らかみを感じながらも、愁一郎は真剣な表情を崩さない。
とはいえここだけの話、涼子のバストは身長のわりにすこぶる控えめなサイズなのだ。
身長は高校時代からさらに伸びて百七十五センチに達している。実はこの数字は愁一郎よりも数ミリではあるが大きいということになるのだ。
しかし一方で胸のほうは幾ばくの成長も見せておらず、ようやく八十に達したというところなのだ。それでいてカップはAである。なだらかにカーブを描いて柔らかみが隆起しているという程度であり、肩が凝るとか冬場は冷えるとかの悩みとは無縁の人生を過ごしてきている。ひどい話、大学時代にライブハウスをまわっていて男と間違われたことはそれこそ数知れないのだ。もっとも、化粧やファッションにさほどの興味を示さなかったことも原因といえば原因になるのだろうが…。
閑話休題。そうこう弾いているうちに愁一郎もなんとなくメロディーラインがつかめてきて、まだまだ不器用ではあるが、それなりの曲らしく聞こえるようにはなってきた。その曲は愁一郎も何度となく聴いた曲の一部であった。
「あ、これ!イエモンの『This is for you』じゃん!」
「やっとわかった?ホントは十二弦のアコギでやってるんだけど…。リズムはそんな感じでいいから、あとは左手の動きをもう少し滑らかにしないとね。」
「そんな無茶なぁ。今弾き始めたばかりなんだから、その辺は大目に見てよ!」
「ははは!じゃあ…えっと、イエモンイエモン…っと、はい、スコア。」
人事だと思って簡単に言うと涼子は立ち上がり、カラーボックスから一冊のスコアブックを取り出して愁一郎に差し出した。丁寧にページまで開いてくれる。
このリビングには三人分の机が壁際に配置されており、涼子専用の机やカラーボックスもここに位置している。言ってしまえば、涼子専用の部屋というものは存在しないのだ。
さらに正確に言えば、愁一郎にしか専用の部屋はあてがわれていないのである。これは別に愁一郎がわがままを通したというわけではなく、五人の女性達の一致した意見によって、愁一郎には専用の寝室を、ということで決められたのだ。
「それ見ながら続きも弾いてみて。あたし、ちょっとお風呂の様子見てくる。」
「うん、戻ってくるまでにはもう少し弾けるようになってるかんな!」
「よぉし、楽しみにしてるよ!」
アコースティックギターのタブ譜を指し示すと、涼子は湯の張り具合を確認するために浴室へと向かった。その背中に頼もしい声を聞かせてから、愁一郎はあらためてギターを構える。少しでも集中するためにBGVであったテレビまで消してしまう。
「えっと…なんだ、イントロからずっと同じじゃん、簡単簡単…ん?Gシャープ?ここは人差し指で全部押さえないといけないのか?で…ここからCシャープマイナーってヤツか?指がずれてくれない…と思ったらFシャープ7!?ええい、こんなの弾けるかっ!!」
ブツブツ独り言をつぶやきながらスコアを睨み付ける愁一郎。が、それでも簡単に根をあげないのはたいした根性である。偉そうなことを言ってしまった手前、少しは涼子にカッコイイところを見せたいというプライドもあったりするのだ。愁一郎なりに負けじ魂は持ち合わせているのである。
とりあえず左手だけで何度もコードチェンジを試してみて、少し慣れたところでピッキングと合わせる。上手くいかなければまた左手だけで練習し、合わせてみて…。
五回ほどその行程を繰り返すと、指がまだ余計な弦に触れてしまって理想の音は出ないにせよ、それらしくは聞こえるようになってきた。努力はすればするだけ報われるのであり、愁一郎は確実に進歩している感触に胸を弾ませる。
「…ててて!うわぁ、まだまだ力が入ってんのかなぁ、弦の跡が…。」
とはいえ、たった今弾き始めたばかりの初心者という事実はどうあがこうとも覆すことはできない。左手の指は力任せに弦を押さえているため、クッキリと跡がついてしまっている。指先も痛く痺れて感覚が鈍い。
ふと廊下の方を見ると、まだ涼子は浴室で準備をしているようであった。恐らく湯は十分に満たされていたのだろう。今頃どの入浴剤にしようか、などと目移りしているに違いない。
今のうちに練習してもう少し滑らかに…できればフレットを見ないで弾けるようになろうと気合いを入れた…その矢先であった。
びぅんっ。
「うわあっ!?」
押さえ方がよほど悪かったのか、それとも弾く力の加え方が悪かったのか…ものの見事に三弦がブリッジの辺りから切れ、間の抜けた音とともに跳ね上がってペグからダラリと下がった。後には奇妙な隙間ができたネックが五本の弦を張りつめさせているのみである。
「あわわ…やっちまった!弦切っちまったようっ!どうしよう…」
愁一郎は顔面蒼白となり、背中をじっとり汗ばませて狼狽えた。切れた三弦をグイグイ引っ張ってなんとかしようとしてみるものの、チューニングが狂ったのとはわけが違う。切れてしまった弦は修復できないのだ。
ましてや涼子の場合、余分な弦はペグの辺りからニッパーで切り捨てられている。ペグにも二巻きほどしか巻かれておらず、ギターに関してはまるきり素人である愁一郎がどうにかできる状況ではない。絶体絶命のピンチに愁一郎は動揺しきりとなって狼狽える。
「うわぁ…マジでやばい!大事にしてたからなぁ、きっと怒られるぞぉ!あ、オマケに今夜は…涼子がオレの部屋で寝る日じゃなかったか、オイ?」
愁一郎達六人の間では、寝室の都合上という建前で四人がリビング、愁一郎ともう一人が彼の部屋で寝るということがルールになっている。もう一部屋あるにはあるのだが、そちらは二人分の机とクロゼット、書棚などが占領しており、布団を敷くだけの場所が確保できないのだ。
このルールもまた、愁一郎が知らない間に勝手に決められたルールであった。しかもキチンと順番まで決められており、仲良く平日で一回りできるようになっている。
それでいて土曜日は全員リビングで布団を並べて寝る、ということからも、寝室の都合上というのがいかに建前かがわかるだろう。ちなみに日曜日の夜にようやく、愁一郎は一人で寝ることが許されている。
とにかくその順番で行けば、今夜は確か涼子と一緒に寝る曜日だ。気まずい雰囲気を引きずったままで同じベッドに眠れるとは思えない。ここはせめてものお詫びで涼子にベッドを譲り、床で寝ることにしようか…。
「あらら。弦、切れちゃったんだ。」
「うわあっ!?りょ、りょ、涼子!ごめんっ!許して!!わざとじゃないんだっ!!」
狼狽しきるあまり、涼子が背後まで近寄っていたことに気付かなかった。思わぬタイミングで耳元へ吹き込まれた声に、愁一郎は慌てて立ち上がるとギターを構えたままで深々と頭を下げた。ナマケモノの腕のようにダラリと垂れ下がった三弦が床のカーペットに触れる。
「大事にしてたのに、オレ…おまけに高いんだろ、このギター?ホントごめん!許してくれるんならなんだってするから、お願い!許して!ごめんなさいっ!!」
「そんな、弦なんて切れるときは切れるんだから気にしないでよ。それに高いったって本体の値段だからさぁ。弦の一本や二本、安いのなら百円くらいでおつりがくるんだし。ほらほら、もう頭上げて…なんかあたしが悪いことしたみたいになってくるよぉ。」
「あれ?弦って…そんな値段なの?」
「そりゃそうだよ。いわばただの針金だもん。ぜーんぜん気にしないで!」
済まなそうな上目遣いで見上げてくる愁一郎の肩を、涼子はいつも通りの屈託ない笑みでぽんぽん叩いてやった。ギターの弦が切れたくらいでいちいち大騒ぎするくらいなら、誰もギタリストに憧れたりなどしないだろう。
むろん気にしてくれるのは嬉しいし、ギターに対して抱いている物質的価値観が違うのも理解できるが…そこまで慇懃に詫びられるとこっちまで胸が痛くなってしまう。
ギターを弾かせたがために、愁一郎に余計な心労をかけてしまった…。
そんな罪の意識が小さな胸の奥に渦巻き始めるのだ。だから少しでも愁一郎を元気づけようと、努めて笑顔を浮かべて励ましたくなってしまう。
そんな努力もどうにか結実したようで、愁一郎は心底胸を撫で下ろしたような表情で頭を上げた。申し訳なさそうに肩からストラップを外し、ギターを涼子に手渡す。
「ホントごめんな。三弦なんだけど、いくらくらいなんだ?数百円でいいんなら今すぐ渡すよ。」
「三弦?わぁ…よりによって三弦が切れたんだ…。」
「え?さ、三弦がどうかしたのか?もしかして…やばいのか?」
愁一郎の言葉に鋭く反応した涼子は慌ててネックを見つめ、三弦が物の見事に切れていることを確認してから感慨深げに溜息を吐いた。表情にはたちまち微かな陰りがさし、瞳にはどこか不安のような色が漂い始める。
涼子の激変に慌てて愁一郎は問いかけたが、彼女は我に返ったように愁一郎を見つめると、心配させまいという風に微笑を浮かべた。すっぴんの唇が優しくカーブを描く。
「ううん、ホント心配しないで。弦は安いモノだし、すぐに交換できるし…。ただね、三弦ってのがちょっと…あたし、変なジンクスがあるんだ…。」
「ジンクス?」
「うん。ホント、変な話なんだけどね。」
あくまで愁一郎を不安がらせまい、と軽い口調を崩さない涼子。切れた三弦をペグから外して丸く束ね、燃えないゴミのゴミ箱に放ってからギターをリビングの隅にあるスタンドに立てかける。
「あたしがレスポールを買ったのは大学入ってすぐで…今までに三弦が切れたことってのは三回あるんだ。三弦ってのは太くてさ、四、五、六弦並みに切れにくい弦なんだよ。」
「うむむ…てことはオレって、もしかして器用なのかな?」
「あはは、そういった意味じゃあすごい器用だよね!」
とすん、と座布団の上に再びあぐらをかき、涼子は両耳からひとつひとつピアスを外しながら説明を始めた。愁一郎も彼女に倣い、正面に腰を下ろす。動揺した気分が落ち着いてきて、ついついいつもの調子でおどけてみせたりしたが…それでも涼子は気を悪くするでもなく調子を合わせてくれた。
「でね…。三弦が切れた時ってのは…必ずあたし、大泣きしちゃうんだよな。なんかの偶然が重なるんだと思うけど、その三回とも大泣きしてるんだ。」
「三弦が切れたら大泣きすることになっちゃう、ねぇ…。」
「しかもそのうち二回ってのが…」
「ん?」
言葉を止めた涼子を愁一郎は急かそうとせず、ただ黙って続きを待つ。ピアスを全部外し、銀色のネックチェーンも外した涼子が…先程までの軽妙さとは打って変わり、はにかむように頬を染めてうつむいてしまったからだ。
それは心の奥にしまってある、どこか甘酸っぱい記憶を引き出そうかどうしようか逡巡しているときの女性のしぐさであった。特定の人間に対するせつない秘密をあるがままにさらけ出そうとしている女の子の素顔である。
しかし、時間はそのまましばしの沈黙を刻んで流れ去ってしまう。
結局そのまま涼子は話すのを止め、アクセサリーを自分の机の上に置いてからおもむろに立ち上がった。愁一郎に背を向けたままガリガリとクセッ毛の頭を掻き…気怠そうに伸びをしてからスエットのズボンを上げたりする。
「どぉしたんだよ?二回ってのが…なに?」
「え?うぅん…」
沈黙に耐えきれなくなった愁一郎は、とうとう涼子を見上げて続きを促した。話したそうなそぶりであるのならいざ知らず、意味深なところであからさまに話を中断されてはどうにも気になってしまう。
涼子が背を向けたまま振り返ると、二人の視線は絶妙に交錯した。愁一郎は彼女を見上げ、涼子は彼を見下ろし…そしてなんとなく言葉を濁してしまう。
「…涼子ぉ。ホントは弦切ったこと、怒ってんだろ?」
「そんなんじゃないよぉ…今はジンクスの話で…」
「じゃあ教えてよ、続き。」
「だから、そのぉ…」
愁一郎の方向を変えた問いかけにはすぐさま返事を寄こしてくる。しかし、やはり話の続きを促すと言葉が滑らかに出てこない様子だ。明らかに何かに戸惑い、あるいは躊躇している。こちらに向き直ってさえくれないというのはどうにもおかしい。
「りょ、お、こっ!」
「え、やっ、しゅ…!?」
さすがに焦れた愁一郎はしなやかに立ち上がると、多少強引かとも思ったが彼女の肩をつかんで無理矢理にこちらを向かせた。涼子は驚きの声を上げて身を強張らせるが、愁一郎に見つめられた途端に頬を真っ赤にしてそっぽを向いてしまう。
愁一郎はそのまま涼子の肩を押し、机の上に腰掛けさせて…そのまま壁に背中をつけさせた。軽く開かれた長い脚の間に腰を進めると、さすがに涼子は愁一郎の表情を窺わずにはいられなくなってしまう。
「え…ちょ…ホント?」
「なにがホント、なんだよ?」
「いや、だから…そのぅ…ここで?」
「いくらなんでもそんなことしないよ…な、涼子…言いにくいことなの?」
「あ、や…」
こつん。
愁一郎の右手が涼子の肩から離れ、彼女の前髪を額から退ける。そのまま愁一郎は顔を近づけ、自らも左手で前髪を退けると、紅潮して困惑しかけている涼子と額を合わせた。途端に涼子は小さな悲鳴をあげ、ビクッと身体中に緊張を走らせる。
涼子のスラリとした身体は…スエットごしにでも熱くなっているのが感じられた。前髪を退けていた右手を滑らせて頬を包み込むと、その紅潮がかなりのものであることが確かめられる。額はわずかに汗ばんでもいるようであった。
「これなら顔、見えないだろ?教えて、続き…。」
「こ、こんな体勢で…教えられるわけ、ない、じゃない…?」
「さっきだって教えてくれなかったじゃん。早くしないと涼子、もっともっと汗かいちゃうんじゃねーか?フェロモン、いっぱい出そうだぜ?」
「やだっ…あたし、そんな…」
フェロモンという単語で過敏に反応し、涼子は嫌がるようにして身をよじる。愁一郎に密着されていることもあいまって、今や頬だけではなく首筋に至るまでがほんのり赤らんできていた。
このまま身体中が汗ばむまでこうされていたら…部屋いっぱいに女性としての匂いが拡がってしまうだろう。愛しい男性について考え、戸惑っている矢先にその男性に密着されては、まだ明るいうちにもかかわらず発情してしまいかねない。ともすればこの過剰な興奮状態にショーツまで濡らしてしまうような予感がする。
自分の発散したフェロモンは自分自身では気にならないが、同性の親友達は鋭く感づくことだろう。ましてやこのまま愁一郎と交わってしまったとして、その現場を目撃されたとしたら…白眼視されてしまうことは火を見るよりも明らかだ。
「待って、頼むから愁一郎…ちょっと退いて、話すからぁ…!」
「ホント?」
「ホントホント!話すってば…!だから頼むよ、みんなにバレるぅ…!」
「わかったよ…。」
愁一郎は意地悪く時間をかけながら、壁に両手をつくようにして涼子から離れた。それでも額どうしを引き離しただけに過ぎず、腰は涼子の脚の間に入ったままだ。少しでも腰を突き出せば男性の膨らみと女性の膨らみが柔らかく触れ合うほどの距離に、相変わらず二人はいるのである。
涼子はそんな股間にピリピリと意識が張りつめていくのを感じながら、せつなげな上目遣いで愁一郎を見つめた。顔中が熱くてならないことから、鏡を見るまでもなく真っ赤になっているであろうことがたやすく想像できる。
それは先程までの愁一郎による意地悪のせいでもあり…。
これから告げようとしている内容の大胆さのせいでもあり…。
そして、ジンクスのせいでもあり…。
様々な感情、そして想いが涼子の心を掻き乱し、体熱を、胸の内圧を上昇させているのだ。唯一の救いは、対峙している愁一郎もまた同様に頬を染めていることであろう。
彼もまた自分自身がとった大胆な振る舞いに興奮しているに違いない。そして、彼のセックスシンボルを猛々しく奮い立たせているに違いない。
ごく、と喉を鳴らして最後の生唾を飲むと、涼子はとうとう白状する覚悟を決めた。
「三回大泣きしたんだけど…そのうち二つは、愁一郎がらみなんだよ?」
「オレ…?」
「…愁一郎がらみ、なんて言うとあてつけっぽく取られるかなって思ったから黙ってたんだけど…。ね、ここから先の話は…お風呂で話したいな?」
「あ…?」
とつとつとした涼子の独白を真っ直ぐな瞳で聞いていた愁一郎であったが、最後の言葉の意味を一瞬で理解し損ない、両目をパチクリさせて問い返した。
そんな愁一郎の頬を右手で包み込み、涼子は感触を確かめるようゆっくり上下に撫でる。潤みかけた瞳は変わらぬきらめきを有してはいたが、声からは普段ほどの快活さが損なわれている。吐息のひとつひとつも深く、ゆっくりで…すこぶる熱い。
涼子は横目で盗み見るようにファンシークロックを確かめた。七時の賑やかしい電子メロディを奏でるまでは、まだ三十分近く時間がある。
「お風呂、冷めちゃうからさ…。一緒に入っちゃえば早いだろ?ついでにそこで話もしちゃえば、一石二鳥で時間の節約…。みんなが帰って来ないうちに、なぁ…?」
「涼子…でもさ、もしかしたら…一人ずつ入るよりも長引いちまうかもしんないぜ?」
「う、んんっ…え?どぉして…?」
「本来浴室ですべきじゃないこと…されちゃうかもしんないから。」
わざとらしい口調で、不似合いなほど理屈っぽい御託を並べてみせる涼子。そんな彼女をからかうように、愁一郎は愛しげな微笑を浮かべつつうなじへと右手を忍ばせた。すっかり敏感になっているらしく、うっとりと目を細めながら問い返してくる涼子にも愁一郎はからかうつもりで、あえて受動態の言葉を選ぶ。
「されるって…なんだよぉ…。人聞きが悪いなぁ…。」
「したいんじゃないのかよ?いつもらしくズバッと言ってほしいな。」
「あたし…ジンクスの話は、したいな。」
「ふぅん、話だけでいいの?」
「…とにかくお風呂行ってから。そこで、決めてもらう。」
今度は涼子が受動態で言い返す。その頃にはもう、互いの吐息が頬にかかるくらいまで唇どうしが近寄っていた。愁一郎が涼子からの応酬に苦笑すると、二人は阿吽のタイミングで目を閉じる。
視界が真っ暗になったあとで認識できるものは、互いの呼吸音、心音、体温、匂い、そして…後戻りできないほどの情欲。
ちゅっ…。
若干角度を付け、二人の頭が動いたのも同時であった。まるで磁石のように、ある距離まで近付いたところで二人の唇も吸い付きあった。二人のキスは熱く、甘く、強く…吸い付き合ってなお音を立ててしまいそうなほどにきつく密着している。
ちゅ、ちゅっ…ちゅむ、ちむっ…むちゅ…
愁一郎は涼子の…涼子は愁一郎の耳を塞ぐようにして頭を押さえている。こうすると外界からの音が血流音と心音で隔離されてしまい、不思議な高揚感をもたらすのだ。
おまけに呼吸を止めているわけであるから心拍数もわずかに減っている。苦しさにも似たせつなさは一層の体内ドラッグ分泌を促し…二人の男と女をどんどん興奮の高みに舞い上がらせていった。
ちゅうっ、ちゅううっ…ちゅっ、ぱ…。
最後の最後まできつく吸い付きながら、愁一郎のほうから唇を引き剥がす。媚びるような涼子の瞳に漂う物足りない気持ちもわからないではないが、いつまでもこうしているわけにはいかない。欲情するだけしておいて、家族揃って夕食の時間になってしまっては欲求不満が溜まることこの上ないのだ。
夜はベッドをともに…あくまで就寝スペースの都合上ともにできるとはいえ、それまでお預けになるのはごめんであった。残念な気持ちは…もっともっと間断なく口づけていたい気持ちは愁一郎だって変わらない。
「愁一郎…」
「ほら、涼子。キスが目当てじゃないんだろ?風呂で話の続き、聞かせてよ。」
「あ、そっか…。ごめん、キス…久しぶりだったから…」
キスの心地にすっかり目的を忘れていたようで、涼子は右手で口許を押さえて泣き出しかねないほどに恥じらった。
そんな涼子の手を取って机から降り立たせながら、愁一郎はそっと彼女を抱き寄せて耳元に唇を寄せる。背丈が似たようなものだから、うつむくことなくささやきかけることができるのだ。
「今夜は貸し切りみたいなもんだからな、飽きるまでキスしようぜ?」
「ふぁ…んん、うん…。」
そんなささやきかけひとつでもゾクゾクするらしく、涼子は細身の身体をモジモジさせながら愁一郎のシャツのボタンに手をかけた。ぷち、ぷち、とひとつひとつ丁寧に外してゆき、襟元に右手を滑り込ませて肩をはだけさせる。
「キスだけじゃ…イヤって言ったら幻滅する?」
「幻滅もなにも、エッチじゃなきゃ涼子じゃないよ。」
「…な、なんだよそれはぁっ!!」
「いてっ!」
右のかかとで愁一郎の左足をドスンと踏みつける涼子。顔をしかめて痛がる隙に両腕から逃れ、微笑ましげに舌を出してみせる。そのままクロゼットの引き出しから真新しいショーツを取り出すと、愁一郎を待つでもなくさっさと浴室へと向かった。
「先に入ってるからね。一番風呂は、やっぱりあたしがいただきーっ!」
「好きにしろっ!あーいてぇ…。」
「ふんっ、自業自得だよっ!」
転がるように座り込み、愁一郎は踏みつけられた辺りを涙目で撫でさする。そんな彼を労るでもなく、涼子はニコニコ顔でリビングから出ていった。
つづく。
(つづく)
(update 99/05/14)