中学生日記
Cパート
「この世界は一度滅んだ」
面食らっている僕に父さんはいう。
「そして世界は編み直された。あの二人によって」
・・・・・・それから父さんと母さんが僕に話してくれたことは、僕の今までの価値観を、常識を、全て覆すものだった。
セカンドインパクトの真実。
特務機関ネルフ。
エヴァンゲリオン。
使徒。
アダム。
人類保管計画。
すべて冗談だと思いたかったが、それを語る父さんと母さんの表情は真剣だった。だから僕も受け止めるしかな
かった。
この話が事実であることを。
父さんと母さんは語る。
あの二人ーーーーシンジさんとアスカさんが、その残酷なまでの出来事の中でいかに互いを傷つけあったかを。
そして、その果てに起きた、歴史に記されることのないサードインパクト。
何よりショッキングだったのは、僕の両親はその時、二人とも死んだということだった。
「その時には、あたしのお腹の中にあなたがいたの」
母さんが真っ直ぐ僕を見つめていった。
「サードインパクトによって、全ての人類は一つの存在になったんだ」
「それが、素晴らしい世界なのかどうか、今ではわからない。でもとても心地よかったのを覚えている」
「でも、その世界の成立は、一人の人間の手にゆだねられた」
「それがシンジくんだ」
「でも、シンジくんは、今の世界を望んだ」
「傷つけ合っても、人を人と理解できる世界を」
「アスカのいる世界を」
「だから俺たちは、今、この世界に戻ってこれた」
父さんは最後にこう結んだ。
「・・・・・当事者であるあの二人もこのことは口にすることはないから、殆どが俺たちの推測だがな。恐らく正しいは
ずだ。
だから、覚えておいて欲しい。今、ここにおまえが存在するのは、あの二人のおかげだと。
そして、出来るなら、おまえの子供たちへと伝えてほしい。
けして吹聴しなくていい。ただ、覚えていてくれればいいんだ。
あの二人が今の世界を創った、アダムとイヴであったことを。
あの二人は、多分自分の子供たちへも語ることはないだろうから。
でも・・・・・そのことを誰も覚えていてくれないのは寂しいだろ?」
話を聞き終えた時、僕は泣いていた。
感動したわけではない。
悲しいわけでもない。
自分でもよく解らない混沌とした感情が、自分の中で渦を巻いていて、それが涙を搾り取っているかのようだった。
夜はとっくに明けていた。
自室に戻りベッドに横になる。
未だ信じられない思いが僕の中を駆けめぐっている。
あの二人が。
どうして?
疑問と感情が頭の中でぶつかっては弾ける。
神経が高ぶってとても眠れそうにないとおもったけど、母さん譲りの図太い神経のせいだろうか。様々な整理できな
い想いを抱えながらも、僕は眠りの谷へと転げ落ちて行った。
目を醒まして枕元の時計に目をやると、午後二時を大きく廻っていた。
自然に目が覚めたので睡眠は足りているのだろうが、頭が奇妙に思い。
頭を振りながらリビングへ行ってみると、テーブルの上に書き置きがあった。
『シンちゃんの家に行ってるわよ〜ん』
母さんは話が終わった後もまだ飲んでいたのに・・・・本当にタフだ。
僕はシャワーだけを浴びて身支度を整えると、碇家へと向かった。
何となく足が重い。碇家のドアの前でも、チャイムを押すのがためらわれた。
理由は、昨日、いや、今朝の話だ。
あんな話を聞いたあとで、素知らぬ顔を決め込むほどができるほど、僕は大人じゃない。
シンジさんを前にして表情が保てる自信がなかった。
・・・・立っていても事態が変わるわけでもない。
僕は意を決してボタンを押す。
昨日と同じようにシンジさんが迎えてくれた。
でも僕はシンジさんの顔からすぐ視線を逸らしてしまう。
シンジさんは僕の行為を別段いぶかしがるわけでもなく、僕を室内へと招き入れた。
「やあ、いらっしゃい。さ、上がって上がって」
なんとなく気まずさを抱えたままリビングへ向かうと、思いがけない顔ぶれが揃っていた。
「よっ、ボン、久しぶりやな」
「トウジさん!お久しぶりです」
気さくに手を上げて挨拶してくれたのは、シンジさんの親友の鈴原トウジさんだった。
シンジさんとは学生の時分からのつき合いで、昔からよく碇家に出入りしていた。僕も小さい頃随分と遊んでもらっ
たものだ。実はケンカのやり方も教わったりしている。
でも、大学卒業と同時に就職の関係上、トウジさんは隣の街へと越してしまって、依然ほど頻繁なつき合いはなく
なっていた。
それでも一月に一度ほどの割合でシンジさんのところへ遊びにる。
年中入り浸っている加持家としては、必然的に顔を合わせることになるわけだ。
「こんにちは、サトシくん」
トウジさんの隣で微笑しているのは、奥さんのヒカリさんだ。その手には二歳くらいの子供がちょこんと抱かれてい
る。
鈴原家の長男、鈴原ソウくんだ。
「お久しぶりです。ソウくんおっきくなりましたね」
「ええ、誰に似たんだか、悪戯好きで暴れん坊、そのくせして人一倍甘えん坊で困るわ」
「なんや、そんなもん、おまえに似たに決まってるやろ」
それを聞いたアスカさんは笑いをかみ殺している。
前にアスカさんから聞いた話だと、鈴原夫妻は中学生の時からのつき合いで、互いに相思相愛のくせに、見ている
こっちがもどかしいぐらいじれったいカップルだったという。
だから結婚するのも踏ん切りがつかず、碇夫妻がなだめすかして発破をかけて、ようやく三年前に結婚と相成った
わけで。僕もその結婚式には招待されたし。
・・・・この二人の来訪は、今の僕にとってはなによりもありがたかった。おかげであの話を意識しないで済む。
「あら、おはよう」
時間にそぐわない挨拶をしながら、キッチンから母さんが出てくる。
「うん、おはよう・・・って母さん何やってんの?」
「何ってキッチンにいるんだから、料理してるに決まってるじゃない。・・・・・何よその顔は」
どうやら自分でも気づかないうちに渋い顔になっていたらしい。
「ああ、サトシくん、今日はバーベキューだから心配ないよ」
「あらシンちゃん、一体何の心配かしら?」
苦笑いを浮かべたまま返答に困っているシンジさんに、僕は援護射撃をする。
「あれ、父さんは?」
「ああ、炭を買いに行ったわよ」
母さんが顎をしゃくるほうを見ると、開け放たれたリビングの続きのベランダには、バーベキュー用のコンロが出し
てあった。
どうやらなかなか本格的なものになりそうだ。
時として来客とは、思いがけず続くこともある・・・・らしい。
父さんの買って来た炭で火をおこして、金網をしいて、そろそろ焼きはじめようとしたとき、玄関のチャイムがなっ
た。
ちょうど手が開いているのは僕一人だったので、僕が応対に出た。
「は〜いはいはい」
返事をしながら玄関を開ける。
「げ」
自然と口から出てしまった。
「なにが、げ、よ?」
そこにはケイが立っていた。僕の応対が気に入らなかったのか、ただでさえキツい目つきがますます鋭くなって
いる。
僕は、どーもこいつのこの視線が好きになれないのだ。もともと僕に限ったことではないらしく、あのキツイ目つき
さえ何とかなりゃ交際してもいい、とか抜かす命知らずな野郎を、僕は少なくとも五人以上知っている。
まあ、確かに、ぱっと見はそれほど悪くない、と思う。
「兄姉の家に遊びにくるのがそんなにおかしいかしら?」
「いえいえ。ただ前触れなしの襲来ですからな。ちょっとびっくり」
せいぜい皮肉混じりで気取って見せたが、ケイは鼻で笑うと僕を押しのけて上がり込んでしまった。
「あら、ケイ、いらっしゃい」
「はい義姉さん、差し入れ。母さんから。秘蔵のワインだって」
ケイはそう言って手に持っていた荷物をアスカさんに渡す。
「さんきゅ。あれ、リツコはこないの?」
「父さんと一緒に冬月先生のところへ行ったわ。年寄りは年寄り同士で飲むって」
・・・・少し説明をしたほうがいいだろう。実は碇家の内情とはちょっと複雑なのである。
まずシンジさんのお母さんは、シンジさんが子供の頃亡くなっている。(最も昨日の話だと、エヴァに取り込まれるという事故だったらしい)
そしてシンジさんのお父さんは、シンジさんが十四歳の頃再婚した。(これも昨日の話だと、サードインパクト後らしい)
その結婚相手というのは、僕の両親と親友だったという赤木リツコ博士で、その翌年に、僕と同じ年に産まれた
のがケイ、というわけだ。
つまり、ケイとシンジさんは異母兄妹で、シンジさんと結婚したアスカさんはケイの義理の姉というわけである。
ともかく、こんな交友関係もあって、碇家と加持家のつき合いは、僕が小さいころからすこぶる頻繁だった。
母さんがいうには『身内固め』とかいうらしい。
「父さんも相変わらずかい?」
エプロンをしたままシンジさんが訊ねる。
「そりゃあもう。兄さんたちも遊びに来てよ。あれで結構、マモルたちがくるの楽しみにしてるんだから」
「ケイちゃんもすっかり奇麗になったわねえ。来る度に見違えるわ」
「ほんまや。がっこでもモテモテやろ?」
「そんなことないですよ〜」
鈴原夫妻の挨拶に続く賞賛に、ケイはころころと笑って答えている。
まったく猫かぶりやがって。
僕がぶちぶちやってると、また玄関のチャイムがなった。
一番玄関に近い位置にいたのがまたしても僕なわけで、再び応対に出る。
「はい」
ドアを開けると、そこにはほっそりとした女の人が立っていた。
膝のすり切れたジーンズに白いシャツをまとい、背中にはナップザックを背負っている。
色素の薄い青い髪の頭にはバンダナを巻いていた。
そして何より印象的な赤い瞳が僕を見つめている。
「・・・レイさん!?」
「ただいま」
レイさんはそう言って薄く笑うと・・・・・糸の切れた操り人形みたいに僕の上に覆い被さって来た。
「わ!!」
僕は慌てて受け止めたが、あまり背の高くない僕の顔のところに、丁度レイさんの胸がのし掛かってくる。
細い外見と裏腹に心地よい弾力を感じて、僕は赤面し、パニックにおちいってしまった。
ど、どうしよう?
気道確保?心臓マッサージ?違う違う!
結局数秒の間を置いて、僕は助けを呼んでいた。
その声にわらわらとみんなが出てくる。
「レイ!?」
みんな驚きの言葉を口にしながら、どうにかレイさんをリビングへと運び横にする。
「どうしたの!しっかりしなさい!」
レイさんのほっぺたを叩くアスカさんの顔色が変わっている。
白い頬が赤くなるくらい叩かれて、ようやくレイさんは薄く目を開けると、唇をかすかに動かした。
みんな静かになる。
レイさんは言葉を紡ごうとして上手くいかないらしく、何度か唇を動かして、ようやく声になった言葉が、静まり返った
リビングに流れた。
「・・・・・・お腹すいた・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
肉と野菜の焼ける香ばしい香りがベランダからリビングへと流れてくる。
「・・・・よく食べるわねぇ」
ビール片手に母さんがいう。
確かにレイさんの食べっぷりは見事だった。
決してがっついてるわけでもない。むろん大きく口を開けるわけでもなく、淡々と、しずしずと食べ物を口に運んで
いる。それなのに目前の皿が次々と空になっていく。しかも野菜ばかり。
レイさんがぽつりぽつりと語るところによると、日本に帰ってくる交通費で手持ちのお金を全て使い切ってしまった
という。当然ご飯を食べるお金もない。でも食べなくても動けるうちに動こうと、徒歩とヒッチハイクを重ねて帰ってき
たわけだが、ここに着いた途端、気がぬけたのか、急に動けなくなってしまったらしい。
「全く、あんたわねぇ、鈍感すぎるのよ!そんなにお腹すいてるのに動き回って!」
口で悪態をつきながらも、アスカさんは皿にせっせと焼き上がった野菜をのせてあげている。
・・・・この二人の関係は昔どうだったのだろう?
そこで初めて昨日の話を思い出す。
レイさんは普通の人間ではなかったということを。
でも、今僕たちの前でご飯を食べているレイさんは、やっぱりレイさんであるわけで・・・・・・・・つまり僕たちの大事な
家族の一員だ。
昨日の父さんの台詞も今なら解るような気がする。
「彼女は自分の時を埋め直そうとしている」
だからレイさんは世界中を旅して、色々なことを経験しようとしているのだろう。
「ほら、サトシ、肉焼けたぞ」
考え事をしていた僕に父さんが串ごと肉を差し出す。
「うん・・・ありがと」
父さんはそんな僕の態度を察したらしく、手招きした。
「どうした?まあ、あんな話を聞かされたあとは心中穏やかじゃないだろうが」
僕はこくりとうなずく。
「あの話を聞いて、誰か嫌いにでもなったか?」
僕は激しく首を振る。そんなわけあるはずはない。いくら昔なにがあっても、僕の知っている大好きな人たちを嫌い
になるなんて出来ない。
「なら、それでいい。おまえも必要以上に考えるな。
ただ覚えていればいいんだ。・・・・・・まあ、教えた手前無責任だがな」
僕はまたうなずく。でも・・・・何かが心の中に引っかかっている。
僕は肉をかじりなが視線を滑らす。なぜかアスカさんの横顔に視線が吸い寄せられてしまった。
その奇麗な横顔を眺めていると、何か心の中で形になろうとしている。それは・・・。
「はい、サトシ」
「うわっ」
不意に視界一杯にケイが出てきたので、思わず声をあげのけ反ってしまう。
「なによー、人を化け物みたいに」
ケイはジュースの入ったコップを僕に差し出したままむくれて見せる。
「いや、急に出てくるからさー」
「ふん、何を見てたんだか」
「・・・・?おい・・・」
それってどういう、と続くはずだったが、ケイのやつは僕に背を向けると父さんと話を始めていた。
「おじさまはヨーロッパへ行ってらしたんですって?」
「ああ、あっちの国を三つばかり転々とね」
「いいなー、あたしも行ってみたい」
お、おじさま・・・。まあいつものことだが、おぞましさでジンマシンがでそうだ。
僕は首筋をなでつけると、焼き上がった肉と野菜を持ってマモルやアヤノちゃんのほうに歩み寄る。
そのまま皆が食事をしながら思い思いの雑談に突入していった。
日が暮れても宴会(?)は続く。食べるものはまだたっぷりあったが、みな食べるのには飽きて、今はもっぱら飲ん
でいる。さすがに未成年はジュースだけど。
あ、レイさんは食べるだけ食べるとリビングの床にうずくまって寝入ってしまい、飲んではいない。もっともあの人
がアルコールを口にしているのを見たことはないけど。
母さんはもう何本ビールを飲んだのか見当もつかない。ここまでくるとさすがに身体が心配だが、完全に出来上
がっている母さんを止めることは誰にも出来ない。
「サ〜ト〜シ〜、ビールがないわよ〜ん」
空き缶片手に振り向いた母さんの目は予想通りすわっていた。
「あ、僕が買いにいってきますよ」
僕が返事するより早く、シンジさんがエプロンをとって立ち上がったが、その身体にアスカさんがしなだれかかった。
「シンジ〜?れんれんろんでらいへほ!」
アスカさんも相当酔ってるらしくろれつが回っていない。
アスカさんはやおらワインを口に含むとシンジさんにキスをした。
「なっ、アスカ・・・」
そのまま二人とももつれながらテーブルのむこう側に倒れ込んでしまった。どうやら口移しでワインを飲ませている
らしく、テーブルからはみ出したシンジさんの手足がケイレンしている。
それを見てトウジさんと母さんはやんやと囃し立て、父さんは振り向くと僕に「頼むよ」とばかりにウインクして見せ
た。
「はいはい、わかりましたよ」
僕は溜め息をついて、何故かそそくさとリビングを後にする。
玄関に向かおうとする僕の手を誰かがそっとつかんだ。
「アヤノちゃん・・・・?」
さきほどまでソウくんと遊んでいたはずだが。
「・・・・一緒に行くの?」
僕の問いかけにアヤノちゃんはコクンとうなずく。
「おれも行くぜ。アイス喰いたい」
マモルもやって来る。
「じゃ、みんなで行くか」
思いもかけず大所帯となって僕らは玄関を出た。
マンションを出たところで後ろから声がした。
「ちょっとまってよ〜あたしも帰るって〜」
見ると息を切らしながらケイが駆けてくる。
「何よ、アヤノったら。無言であたしにソウくんを押しつけていなくなって」
ケイににらまれて、アヤノちゃんは僕の影に隠れる。・・・・・この子も意外とちゃっかりしてるんだなあ。
「まだいたらいいだろ?」
僕が笑いながらいうと、予想どおりかみついてくる。
「冗談でしょ。あれ以上兄さんと義姉さんにあてられちゃ、たまったもんじゃないわ」
そういうケイの顔は息切れ意外の理由で赤くなっているようだった。
「ソウくんは?」
「ヒカリさんに返したわよ。全く、いつの間にかマモルまでいなくなっているし」
「いちいち断らなくてもいーだろー」
手を頭の後ろに組んでなにげなくいったマモルだったが、ケイににらまれて首をすくめる。
「あのね、あたしだって年頃の乙女なんだから、暗い夜道を一人で帰らせる気?でかけるなら声かけてくれたってい
いじゃない」
誰が乙女だ、誰が。
「んじゃ、じーちゃん家のほうのコンビニ行こうぜ。あ、アイスおごってくれない?お・ば・ちゃ・ん」
よせばいいのにそういったマモルは、ケイに盛大にどつかれた。
月を見上げながら夜道を歩く。
どういうわけか僕の右手はアヤノちゃんに引かれ、左側にはケイが歩いている。
マモルはケイのうしろを頭をさすりながらぶつぶつとついてくる。
「・・・あんたも見る目と理想だけは高いわね」
ふとケイが口にする。
「なんのことだよ?」
ケイは僕を見た。気のせいだと思うけどなんだか寂しそうな表情をしていた。
「義姉さんのことよ」
僕は足を止める。
「おやすみ」
僕に口を開く暇を与えず、ケイは見を翻していた。
すぐに曲がり角を曲がり、ケイの姿は見えなくなる。
「サトシにいちゃん・・・?」
アヤノちゃんの声も僕の耳に届いていなかった。
僕は否応なく悟らされていた。
アスカさんに対する僕の心。
そしてあの感情の呼び名にも。
嫉妬。
そう嫉妬だ。
僕は・・・・・・・・アスカさんに恋をしている。
それは六歳の時に潰えたわけではなかったのだ。そのままずっと僕の中に眠っていて、今頃になって目を醒まし
たのだ。
僕は月明かりのもとしばらくその場に立ちすくんだ。
気がつくとビールのケース片手に家路を歩んでいた。
「どうしたんだよサトシ。ぼーっとしてさ」
ソフトクリームを舐めながらマモルが聞いてきたが、僕は上の空で返事するだけだ。
自分でも気づいていない、いや気づかないふりをしていたことを他人に指摘されるのは、とてもショックなことだっ
た。
そして思い至る。
なぜ昨日の話を聞いた時、僕は泣いたのか。
疎外感。
いや、ちょっと違う。
なんといったらいいのだろう。
その時にアスカさんと出会えなかった無念。
あの二人の過ごした時間に対する羨望。
そして全てが過去の出来事であるという事実。
・・・・そうか。
あの時、僕はなんの感情に揺さぶられて涙を流していたのか。
それは敗北感だ。シンジさんに対する。
話を聞き終えた僕は、無意識に、あの二人の間には何人も立ち入れないものがあることを、僕が全てをかけても越
えられない壁があることを感じたのだ。
でも、もしアスカさんが十四歳の時に、そばにいるのが僕だったら?
僕は頭を振ってその空想を−−−−いや、妄想を追い払う。
僕の中で『渚の少年』の一文がありありとよみがえった。
人は本当に必要な時にその力を持っていることは少ない。相応しい年齢でいられることもない。
僕は足を止め星空を見上げる。
僕の手を握っているアヤノちゃんが心配そうに見上げてきたようだが、顔を降ろすことはできなかった。
降ろせば涙がこぼれてしまうだろう。
しばらくそうしていて、僕は結論を下す。
完敗だ。
正直に告白しよう。
僕はシンジさんとアスカさんはベストカップルだと思っていたけど、心の奥底ではシンジさんに対する妬みがあったこ
とを。
アスカさん比べれば、シンジさんは美男子というわけでもない。
男のくせになよなよして見える。
家事とか裁縫が得意でおよそ男らしくない。
・・・・・つまるところ、アスカさんは、こんな男らしくないの人どこに惹かれたのだろう、ということだ。
でも昨日の話が確かなら、シンジさんは完璧な世界よりも、アスカさん一人を選んだ。
それはとてつもない強さだと思う。
言い換えれば、世界の全てを敵にまわす行為だったのだから。
だから、完敗だ。
そして忘れよう、アスカさんへの想いを。
もともと叶う恋だとは思ってなかったけど、このまま未練がましく引きずっても決していいことはないだろう。
星空をにらみながら漠然と僕は思った。
世の中には絶対に叶わないことがあるってことが解る。これって大人になるってことかなあ?
「おかえり、ご苦労さま」
お使いから帰った僕らを、いつものようにシンジさんが迎えてくれた。
髪はぐしゃぐしゃで頬は紅潮している。
それでもこの人はいつもの笑みを絶やすことはないのだ。おそらく僕が産まれる前からずっと。
「口紅ついてますよ」
「え?」
僕が笑いながらいうと、シンジさんは慌てて唇を拭う。
アスカさんのキスの証。
でも、この人なら。
もう僕の心は痛まなかった。
〜了〜