常夏の悪夢が去りし街に

 

 

 

 

 

             薄桃色の風が吹く

 

 

 

 

 

              柔らかい風

 

 

 

 

 

              始まりの季節

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エヴァ

■「希望(ノゾミ)」番外編■

-桜が舞う空に-

作・三只鷹久さま


 

 

 

 

晴れ渡った蒼穹を吹き抜ける風は薄桃色の花びらを運び、それに時折子供の嬌声が混じる。

 

 

 

 

 

 

「こっちだよお、はやくはやく!」

 

 

白いタイツに真新しい服を着込んだ女の子が、スキップと駆け足の中間の足取りで振り向いた。

 

 

艶やかな黒髪を持つ、愛らしい少女である。いや、四歳という年齢から鑑みて、女のコと形容するほうが

 

 

相応しいだろう。

 

 

 

碇ノゾミ

 

 

黒瑪瑙のような瞳は、年齢以上に利発的な光を湛えていた。その双眸は、彼女の愛する家族を映している。

 

 

 

 

 

「そんなに急ぐと、転んでしまうわ」

 

 

そう落ち着いた声を発した女性は、かつて綾波レイといった。現在は碇姓を名乗っている。

 

 

もはや妙齢の美女だが、肩で切りそろえられた青い髪と赤い瞳は、少女時代の面影を色濃く残したままだ。

 

 

戸籍上、ノゾミの叔母にあたる。

 

 

 

 

「そうよ、幼稚園は逃げやしないわよ。それにレイの言うとおり、転んじゃったらせっかくの服がおしゃか

 

 

よ?」

 

 

悪戯っぽくノゾミに語りかけたのは彼女の母親である。

 

 

碇アスカ。結婚直前に日本に帰化しており、ラングレー姓は捨てている。

 

 

抜群のプロポーションは、子供を産んだにも関わらずいささかの衰えもみせず、

 

 

端正な美貌にも益々磨きがかり、すれ違う男性の視線を引きつけてやまない。

 

 

たまに一人で買い物にでも出ようものなら、鬱陶しいくらいのナンパ責めにあう。

 

 

無論、生来の勝ち気な性格は健在で、非礼なアプローチに出た男どもは相応の報いを受ける羽目になるが。

 

 

それでも過去の彼女を知る者なら、その変貌ぶりに驚くことだろう。険がとれて、全体的に雰囲気が柔らかく

 

 

なったのは当然だが、なにより彼女にもっとも縁遠かった表情がその貌にある。

 

 

 

 

慈愛

 

 

 

彼女がそれを惜しみなく注ぐ対象は、目前ではしゃぐ娘と、彼女が今寄り添っている夫である。

 

 

 

 

「ぷう」            

 

 

ノゾミが拗ねたように頬を膨らませる。

 

 

 

「ほら、そんな顔したら、せっかくおめかししたのに、台無しだよ」

 

 

優しく諫める声。

 

 

アスカは腕を絡ませたまま視線を上げ、傍らの声の主を見やった。

 

 

優しい、娘と瓜二つの瞳がそれを受け止めた。

 

 

碇シンジである。

 

 

背も伸び、少年時代の華奢な線の細い印象はだいぶ改善されたが、中性的な雰囲気は変わらない。

 

 

父親に似ず髭もあまり濃くならない体質らしく、妻であるアスカに女装が似合うとからかわれ続けている。

 

 

大好きな父親にそう言われたノゾミはたちまち機嫌を直したらしく、レイに駆け寄ると彼女の白い手を

 

 

握り、ぶんぶんと振りながら、元気に歩き出した。

 

 

レイは幾分戸惑いながらも、ノゾミと歩調を合わせ歩き出す。

 

 

その光景を微笑ましく思いながらシンジは妻と娘を等分に見やる。

 

 

 

アスカ。

 

 

 

彼が得た最愛の人。

 

 

 

ノゾミ。

 

 

 

最愛の人との間に出来た、最高にして最愛の宝物。

 

 

しかもこの宝物は、失ったはずの幸せをも呼び込んでくれる。

 

 

 

 

いまノゾミと手を繋いでいるレイの貌に浮かぶ微笑み。

 

 

希望という名がもたらした奇跡の一つ。

 

 

 

更にとびっきりの奇跡が、今、彼の隣を歩いている。

 

ノゾミとレイの後ろ姿を眺めるゲンドウ。

 

 

 

その口元は微笑んではいない。かわりにサングラスの横から覗く目尻の皺が、彼の心情を代弁している。

 

その雄弁な父の表情を眺めながら、シンジはノゾミが幼稚園に入るまでの経緯を思い出していた。

 

 

 

 

                        *

 

 

 

 

「ノゾミを幼稚園へ入れるですってぇ?」

 

 

夜の碇家にアスカの素っ頓狂な声が響いた。声を上げた本人は慌てて口を押さえる。

 

 

幸いノゾミが起きてくる気配はなかった。

 

 

 

 

午後十時の碇家のリビングには、大人全員が顔を揃えていた。ノゾミは寝室で熟睡中のはずである。

 

 

 

「ああ」

 

 

黙するシンジの前で、ゲンドウは淡々といった。伏せめがちの顔とサングラスのせいで表情は読めない。

 

 

「で、でも」

 

 

狼狽するアスカの前に紅茶が差し出される。レイである。彼女は全員の前にティーカップを置くと、

 

 

自分の位置に腰を降ろしていった。

 

 

「わたしも、それがいいと思うわ」

 

 

「・・・・・! だから、レイっ、あんたやお義父さんはっ!」

 

 

再び荒げられた声は急に静まる。

 

 

「ノゾミはいいけど、あなたたち二人はどうするのよ・・・」

 

 

 

アスカの弱々しい声が室内を回遊する。彼女は口には出さないが、畏れているのだ。

 

 

ノゾミによってもたらされた家族の絆。

 

 

ゲンドウもレイも一日の殆どをノゾミと過ごしている。彼らがいるからこそ、シンジと彼女の二人は

 

 

安心して仕事に出られるし、ノゾミがいるからこそ、ゲンドウとレイは家にいるのだ。

 

 

その鎹(かすがい)ともいうべきノゾミが日中いなくなるとどうなるのだろう?

 

 

家族というささやかな幸せが消えてしまうかもしれない。

 

 

むしろレイやゲンドウも今の生活に終止符を打ちたがっているのではないか。

 

 

そしてまた昔のような生活に戻りたがっているのではないか。

 

 

彼、彼女らが言い出したことによってアスカの不安は嫌が上にも増すのだ。

 

 

 

「シンジ・・・」

 

 

アスカは夫へと視線を送る。

 

 

シンジは頷くと改めてゲンドウと向かい合う。

 

 

 

「父さん、その・・・ノゾミには父さんたちが必要なんだよ?」

 

 

アスカが一瞬舌打ちしたそうな表情を見せる。シンジの口下手は今に始まったことではない。

 

 

 

「勉強のほうはレイやアスカが見てくれていて、普通の子供より色々なことを知っているし、

 

 

友達だって加持さんの子供たちもいてくれるし。そりゃ、小学校には行かせなきゃならないけど

 

 

別に幼稚園に行かなくても家で十分じゃないかな」

 

 

 

 

シンジの言葉にレイが口を開こうとした。

 

 

端麗な唇は言葉を紡ごうとして止まった。ゲンドウが制したのである。

 

 

シンジは我知らず右手を開いては握った。

 

 

不意に過去が思い出される。

 

 

今の雰囲気はその時の緊張感と酷似していた。

 

 

始めて父と対峙したとき。

 

 

エヴァに乗るよう告げられたとき。

 

 

ために久々に癖がでてしまった。

 

 

しかし、冷たい記憶を払拭するように、ゲンドウの口から出た言葉は柔らかだった。

 

 

もっとも他人が聞いたら、さぞぶっきらぼうな声に聞こえたことだろう。

 

 

「おまえたち夫婦がそう望むのなら、それもいいだろう。おまえたちならノゾミを間違った方向に

 

 

育てることない」

 

 

「そんな! 父さんもレイも、ノゾミを育ててくれているんだよ!」

 

 

息子の言葉にゲンドウは微笑したような気がした。だが改めて見やると、そこにあるのはいつもの無愛想

 

 

表情であった。

 

 

ゲンドウは続ける。

 

 

「確かにノゾミは幸せだろう。だが・・・私の贔屓目かもしれないが、あの子は

 

 

他人を幸せに出来る子だ。他人を幸せにしながら、自らも幸せになれる子だ。

 

 

だから、私たちのために家に束縛するべきではない・・・・・・」

 

 

シンジとアスカは理解した。そこに込められたゲンドウの心を。

 

 

そして微少の間が、自らを祖父と呼称できない男の照れと不器用さの現れであることも。

 

 

 

 

一転して柔らかく優しい空気がリビングへと満ちた。

 

 

 

 

「分かったよ」

 

 

アスカが肯くのを確認し、シンジは潤む目を伏せながら問う。

 

 

「でも、ノゾミがいない間、父さんはどうするの?」

 

 

シンジの問いにゲンドウは、はにかむような声を出した。

 

 

「冬月の仕事を手伝おうと思っている。彼には迷惑をかけどおしだったからな。

 

 

私が力になれれば、少しはノゾミにあえる時間もつくり安くなるだろう」

 

 

 

 

「レイ、あんたはどうするのよ?」

 

 

シンジにかわりアスカがもう一人の家族に問う。

 

 

「これ・・・」

 

 

そう答えたレイの手には、どこから出したのか一通の封筒が握られていた。

 

 

中身は図書館司書の採用通知だった。

 

 

「いつの間に・・・」

 

 

シンジとアスカは、ただただ苦笑するしかない。

 

 

そして同時に感動していた。

 

 

ノゾミのことをこれほど愛し、深く考えていてくれている彼らに。

 

 

 

 

 

・・・・かくして碇ノゾミ嬢は四月から第三市立保育園への入園が決まったのである。

 

 

 

 

                        *

 

 

 

「どうした、シンジ?」

 

 

視線を感じたゲンドウが問うてくる。

 

 

 

「いや、父さん、なんでもないよ」

 

 

以前のゲンドウだったら他人の視線など歯牙にもかけなかっただろう。たとえ息子だとしても。

 

 

 

これがノゾミの力か・・・。

 

 

希望と名付けた娘。

 

 

彼女は父と子の暗く深い溝すら生まれて一年で修復してしまった。

 

 

それだけでなくゲンドウそのものすらを変えつつある。

 

 

 

 

 

だけど

 

 

 

 

 

僕は何か変われただろうか?

 

 

 

 

 

シンジは自問自答する。

 

 

 

だかその思考もにわかに中断された。

 

 

 

「こら、シンジっ、何ボケボケっとしてんのよ!」

 

 

アスカの声が耳朶を打つ。

 

 

 

「ご、ごめん。ちょっと考えごとをしてたからさ」

 

 

殆ど条件反射的に謝ってしまう。

 

 

 

「ふーん、で、何考えてたのよ?」

 

 

「いや、あの、その」

 

 

とっさに上手く説明できないシンジ。

 

 

アスカも別段問いつめる気はなかった。

 

 

ただ、シンジの狼狽ぶりを楽しむ。彼女に許された特権の一つである。

 

 

「まあ、いいでしょ。それより、ね」

 

 

シンジの腕にぶら下がるようにしてアスカは甘えた声を出した。そしてとびっきりの笑顔を浮かべる。

 

 

愛らしく、素晴らしく魅力的な笑顔である。

 

 

「えへへ、実はね・・・」

 

 

そこまで言いかけた時に、ノゾミが二人を呼ぶ声が響いた。

 

 

気がつくと一行は既に保育園前まで到着していた。

 

 

 

「実は、なに?」

 

 

シンジは促したが、アスカはひとしきり唸ると「後でね」といい、ノゾミに駆け寄って行ってしまった。

 

 

残されたのは男二人。

 

 

「と、父さん?」

 

 

赤面しながらうわずった声を出すシンジ。完全に傍らのゲンドウの存在を失念していたのである。

 

 

「なんだ、シンジ?」

 

 

ゲンドウはあくまで無表情。その鉄面皮には微塵の揺らぎもない。

 

 

だが、内心で苦笑していないわけでもなかった。

 

 

まさか、こう何度も私の目前でのろけられるとは、な

 

 

腐っても元ネルフ司令官である。表情にブラインドを落とすのは十八番であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第三新東京市が復興された直後、人口の流入はそれほど芳しくなかった。

 

 

いくら政府が箝口令を敷き隠蔽に励んでも、この都市に対する噂は人々の足を鈍らせた。

 

 

更に一度出ていった人々も、再び足を踏み込むのをためらう者が多かった。

 

 

いくら暮らし馴れた場所でも、つらい思い出のほうが多すぎたのか知れない。

 

 

自然とこの街に居を定める人々は若者が多くなった。

 

 

若さゆえ、

 

 

噂などに興味を示さないもの。

 

 

若さゆえ

 

 

あらたな希望を求めてくるもの。

 

 

幸いなことに過去の悪夢が再現されることもなく、

 

 

彼らが恋をし結婚して子供を作るまでの時間に、第三新東京市も成熟の時間を得た。

 

 

目下の市長の懸念は、人口増加に対応するための各種学校の設立や医療機関の整備にある。

 

 

第三新保育園も、そのような事業計画の産物の一つだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

入園式は予想以上に広いホールで、予想以上の父兄の参加を得て行われた。

 

 

並べられた椅子に園児たちを着席させ、園長の挨拶で式は始まる。

 

 

もっとも相手は四歳児ばかりなので、小難しい話は抜きの自己紹介に近い。

 

 

一応園児たちも最初は神妙にしていたが、だんだんと退屈してきているのは手にとるように分かる。

 

 

足をぶら下げたり、落ち着きなくあたりを見回したり、にわかに騒然としてきた。泣き出すものが

 

 

いなかっただけましなのかもしれないが。それでも式は進行していく。

 

 

 

 

一方父兄席にいた(といっても壁際に並ばされているだけだが)碇シンジは、入場してきてから絶えず

 

 

視線に晒されていた。確かに彼ら一行が視線を集めるのは事実だし、いまに始まったことではないが、

 

 

本日の視線は一段と強烈である。

 

 

 

今日のアスカの格好は、控えめのベージュのスーツだが、彼女自慢の栗色の髪と非常に調和しているし、

 

 

元来の日本人離れしたプロポーションがこれを纏うと、嫌でも人目を引く。

 

 

レイは、飾り気のない淡い水色のツーピースといういでだちだか、彼女の雰囲気と絶妙にマッチしており。

 

 

清楚さ、素朴さでは、アスカと好対照である。

 

 

 

この二人に目を奪われた若夫婦の旦那のほうが、妻に尻を抓られる光景が群発していたのは、

 

 

シンジにとって苦笑の対象とできたが、問題は彼の父に注がれる視線であった。

 

 

静かに佇むゲンドウはその目立つ二人の間に立っていた。

 

 

アスカからレイ、レイからアスカと視線を移す時、必ずその視線の先に映るのである。

 

 

しかも彼の格好は、タートルネックのセーターに黒のブレザー。

 

 

知る人ぞ知る、ネルフ司令官のいでだちと寸分も変わらない代物である。

 

 

ぶっちゃけた話、彼にはこの格好以外似合わないのだが。

 

 

ついでに彼の醸し出す雰囲気も、往年の頃のそれである。

 

 

しかも、一見年齢をはかりかねる風貌に、お約束のサングラス。加えて両脇に付き従えた美女。

 

 

無論アスカとレイ。(シンジはアスカの隣り)

 

 

 

 

 

はっきりいって妖しい。

 

 

 

 

妖しさ大爆発である。

 

 

 

 

常人の発想なら、「新入園児のおじいちゃん」と結論づけるどころだが、

 

 

これらの視覚的イメージと雰囲気がそれを許さない。

 

 

ために、様々な憶測が、碇家一行に視線を注ぐものたちの脳裏を駆け巡った。

 

 

 

ヤクザ?

 

 

 

政治家?

 

 

 

愛人?

 

 

 

まあ、あくまで俗物的な憶測ばかりであったのは救いかもしれない。

 

 

 

 

一方、碇ゲンドウ氏にも言い分はある。

 

 

 

もともとこのような公式の場にでるのは好きではない。

 

 

ノゾミのたっての希望であり、更に泣き落としの追加攻撃をくらって渋々出席するに至ったわけで、

 

 

何も初対面の人間に愛想を振り撒く道理はないのである。

 

 

 

あくまで頑ななゲンドウであった。

 

 

 

 

 

園児たちにもひけをとらぬくらい、ざわついている父兄席。

 

 

その時、新入園児席にいたノゾミが、周囲の園児たちに戸惑いつつも、家族の方を振り向いた。

 

 

そして一言。

 

 

「おじいちゃん(はーと)」

 

 

その声は決して大きなものでは無かったが、父兄席の隅々まで響き渡った。

 

 

ノゾミに手を上げて応じるゲンドウ。

 

 

ノゾミも控えめに手を振り返してくる。

 

 

静まりかえる父兄席。

 

 

ノゾミとゲンドウの間を幾つもの視線が行き交う。

 

 

溜め息。

 

 

疑問の氷解。

 

 

暖かい波紋が音も立てずに広がっていく。

 

 

ここでも、ノゾミの奇蹟は発揮された。

 

 

たった一言で、頑なな強面の男を、優しいおじいちゃんへ変貌させてしまったのである。

 

 

 

ゲンドウは我に返る。

 

 

幾度となくノゾミとの間に繰り返された動作は、公衆の面前でもいかんなく発揮されてしまった。

 

 

しかしゲンドウは、何事もなかったように上げた手をブレザーのポケットに突っ込むと、無愛想を決め込む。

 

 

その鉄面皮の両頬が、こころなしか紅潮して見えるのは気のせいだろうか?

 

 

そして

 

 

彼に注がれる視線は、もはや訝しいげなものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

入園式もつつがなく終了し、シンジは幼稚園の前にある公園にいた。

 

 

公園には植林された桜が咲き誇っていた。

 

 

柔らかな風が起きるたびに桜の花びらが舞いあがる。

 

 

その風を受け止めながら、シンジはこの世界に戻ってきた季節を全身に感じていた。

 

 

そんな彼の数メートル前には、レイとゲンドウの手を引っ張るノゾミの姿があった。

 

 

桜が舞い散る中、戯れる三人の姿。

 

 

その姿にシンジは既視感(デジャ・ヴュ)を受ける。

 

 

母、ユイ。

 

 

若かりし頃の父。

 

 

その間にいるのは・・・・・・

 

 

 

 

「ふう、やっと終わったわね」

 

 

その声にシンジは振り返る。

 

 

そこには幼稚園の年間予定表等の資料一式を抱えたアスカの姿。

 

 

「ご苦労さま」

 

 

「なに、また一人蚊帳の外?」

 

 

アスカもノゾミたちを眺めながらいう。

 

 

「いや、そんなわけじゃないよ」

 

 

「まったく、そんなことだと、お義父さんにノゾミとられちゃうわよ!

 

 

ファザコンならともかく、グランド・ファザコンなんて洒落にもなんないわ」

 

 

「どっちも問題だと思うけど・・・」

 

 

苦笑するシンジ。

 

 

「しっかし、さっきのは傑作だったわ」

 

 

アスカは緩む頬を抑える。

 

 

「ああ、あの父さんがね」

 

 

冷酷無比、権謀術数の鬼、鉄仮面などと称される彼が、孫娘のたった一言で

 

 

たちまちペルソナを剥がしてしまう。

 

 

ネルフ現役時代の彼を知るものが見たら、さぞかし眼を疑うことだろう。

 

 

事実、ゲンドウ、レイとの三世帯同居の始まった碇家は、手に土産の品を携えた、

 

 

ネルフスタッフの訪問を幾度となく受けている。

 

 

ゲンドウの孫煩悩振りをどこかで聞きつけては、それをじかに見たいという腹づもりのものばかり

 

 

であった。最もゲンドウも訪問を受けている間は滅多に隙をみせないのだが、

 

 

運良く(ゲンドウにとっては運悪く)ノゾミのおねだりがあると、ゲンドウは抗いきれず、

 

 

客人の前で絵本を朗読するはめになった。むろん、その幸運にあやかった客人は目を丸くしたのは

 

 

いうまでもない。さらに、その話を耳にして、自らもその幸運をあやかりたい者は、幾度となく

 

 

碇家の扉を叩くことになる。

 

 

 

 

 

余談になるが、その話を耳にした元ネルフ作戦本部長曰く、

 

 

「金がとれるわね」

 

 

 

 

 

 

 

 

「父さんも、レイも変わったね・・・」

 

 

シンジが呟く。

 

 

「そうね・・・」

 

 

アスカも同意を示す。

 

 

彼らの視線の先には、飽きもせず桜の下で戯れる三人。

 

 

以前のような違和感はない。

 

 

嫉妬も羨望もない。

 

 

それは満たされているから。

 

 

家族として。

 

 

揺るぎない絆をシンジもアスカも感じ取っている。

 

 

 

「だけど・・・・」

 

 

「?」

 

 

「僕は何か変わったのかな?」

 

 

シンジの疑問。

 

 

「そりゃ、確かに、君と結婚する前と比べたら、大分変わったろうけど。

 

 

でも、ノゾミが生まれてから、父さんとレイはどんどん変わっていくのに、

 

 

なんか、僕だけ何も変わっていないような気がするよ」

 

 

「あたしは、どうなのよ。何か変わった?」

 

 

「君はノゾミを産んで益々奇麗になった」

 

 

「・・・・・・」

 

 

さりげなくノロケてシンジは続ける。

 

 

「結局、僕は何も変わっていないのかも知れない。

 

 

ただ、ノゾミが運んできてくれた幸せを享受しているだけで・・・・・」

 

 

聞き終えたアスカは盛大な溜め息を漏らした。

 

 

そしてやおら繊手を持ち上げると、シンジの眉間を指先で弾く。

 

 

 

 

「あんたって、ほーーーーーんとぉに、バカね」

 

 

 

 

彼女が愛用していたフレーズが甦る。

 

 

ただ、昔のように嘲笑と侮蔑の響きがないことは、彼女の薔薇色の唇がほころんでいるので明らかだ。

 

 

「痛いなぁ、何だよ、いきなり」

 

 

「何だ、じゃないわよ。

 

 

あんたはね、ノゾミが生まれていの一番に変わったのよ?」

 

 

「それは・・・」

 

 

 

 

 

シンジの記憶の中で、カレンダーが逆にめくれていく。

 

 

それはノゾミが生まれた日。

 

 

ノゾミは逆子だった。

 

 

帝王切開のための手術。

 

 

赤い手術室のランプ。

 

 

それを見つめながら憔悴しきったシンジに、加持夫妻は休むよう勧めた。

 

 

説得を受け入れたシンジは、短い眠りにつく。

 

 

そして夢の中での、我が子の幻影との対面。

 

 

眠りから覚めると子供は生まれていた。

 

 

病室へと急ぐシンジ。

 

 

その顔を見た加持リョウジは、確かに「シンジくん、変わったな」と口にしていた・・・・。

 

 

 

 

 

・・・・アスカは夫の頬を撫で上げるように、やや長めの髪を梳いてやる。

 

 

「あの時ね、あんたは、バカシンジでも、スケベシンジでも、うじうじシンジでも、卑怯者シンジでも、

 

 

間抜けシンジでもなくて・・・・父親シンジになったんだよ?」

 

 

「そう・・・だったんだ」

 

 

妻の真っ直ぐで真剣な視線を受け止めるシンジ。

 

 

 

「そうだったって、あんたね」

 

 

アスカは苦笑する。

 

 

「あの時ばかりは、あんたに惚れ直したってーのに!」

 

 

アスカは髪を梳いていた手でシンジのほっぺたを引っ張る。

 

 

「いはいよ、あひゅか」

 

 

「まあ、忘れてたってんなら、あんたらしいつったら、あんたらしいわね」

 

 

そして自らの細いウエストに手を当てた。

 

 

「なんなら、もう一度、変わってみる?」

 

 

彼らの目前を滑空していった花びらが、たおやかに地面に横たわる。

 

 

「できたの!?」

 

 

シンジの予想以上に大きな声に、アスカは僅かに頬を赤らめ頷く。

 

 

「うん、昨日病院で。三ヶ月だって」

 

 

昨日黙っていたのは、今日、ノゾミの入園のプレゼントにしたかったからだという。

 

 

ノゾミが加持家の兄弟に羨望の眼差しを向けていたは、碇家の全員が知っていた。

 

 

「行こう、アスカ」

 

 

シンジは愛する妻の肩に腕をまわして促す。

 

 

アスカもごく自然に夫へと寄りかかる。

 

 

二人は歩み出した。

 

 

彼らの愛する「家族」の元に。

 

 

新しい「家族」が増えたことを告げるために。

 

 

 

 

 

 

晴れ渡った蒼穹には、桜の花が舞い、

 

 

彼らの未来には「希望」が満ち満ちていた。

 

 

 

 

                       FIN

 

 


(update 2000/02/13)