体中の細胞が反乱を起こした。

 喉が熱い。胃が痙攣を起こし、額には脂汗が光っていた。右手―そう、右手だ。右手に握っているビニール袋

を、決死の思いで顔の近くまで持ってこようとした。間に合わなかった。吐瀉物が僕のパジャマに撒き散らされ

た。

 四つん這いになって、首筋を掻き毟りながら口を大きく開き、舌を突き出した。第三者の目には、自分で自分

の首を締めて死のうとしているように写っているのかもしれない。

 胃の中のものが全て吐き出され、黄色い胃液を口から垂れ流している。嗚咽が止まらず、息をしようとしても、

鼻水があふれ出てくるだけだった。

 いつのまにか気を失っていたらしい。目を開けると、朝の日差しが窓から降り注いでいた。その窓辺に一人

の少女が立っていた。たたずんでいた、という表現の方が似つかわしいのかもしれない。彼女は美人だった。

 ―また来たか。

 そう思った。これだから、死ねなかった朝は嫌いなんだ。僕は、この少女が大嫌いだった。

 彼女は僕の横たわっているベットに向かって、歩み寄ってきた。

「また失敗したの? だらしない。どうせ死ぬ気なんてないくせに自殺なんかしようとするなって、何度も何度も

云ったでしょ?」

「死ぬ気なら、ある」

 強烈なむねやけの中で、それこそ死ぬ気で言葉を吐き出した。くぐもっていて、彼女でなかったら到底僕の言

葉を理解できないだろう。

 彼女は不機嫌そうに前髪をかきあげ、言った。

「わかってないわね、これも何回云わせる気? 死んでないってことは、死ぬ気がなかったとみなされるのよ。

手首の皮膚だけ切って大騒ぎしてる馬鹿となんら大差ないわけ。

 あ、そうそう、これもいつも云ってることだけど、自殺して死ななかったからって、自分が特別であるとか思うの

だけはやめなさいよ。ただ運が良かっただけで思いあがられるのが一番ムカツクのよね。ま、運が良かったの

かどうかは判らないけど」

「うるさい」

 少しは気分も優れてきたらしく、今度ははっきりと叫ぶことができた。ただ、頭痛がひどい。体にまとわりつい

ている吐瀉物もひどく不快だった。自分の声が頭に響き、くらりと眩暈がした。すっぽりと大きな鐘をかぶってい

るような気がする。

「思えば、薬物って不思議よね」

 そんな僕の状態を知ってか知らずか、彼女はベットに腰掛けると、台詞を続けた。軽やかな口調だった。

「鎮痛剤を飲みすぎると頭痛がするでしょ。吐き気止めを飲みすぎると吐いちゃう。試したことはないけど、下剤

を飲みすぎたら便秘になって、下痢止めを飲みすぎたらお腹がピーピーいうんでしょうね。青酸カリを飲みすぎる

と、すごく健康で長生きできるんじゃないのかな。やってみない? 青酸カリ健康法」

「黙れ」

「あと、風邪薬ってあるよね。風邪薬を飲んだら風邪が直るってことは、『薬』には『〜を治す』みたいな意味があ

るんでしょうね。頭痛薬とかで考えても矛盾は生じないし。じゃ、眠り薬はどうなるのかな? 『眠る』を治す? 

それって、眠くて仕方がない人が飲む薬なのかな? 逆効果よね。あはは。アタシって理屈っぽい?」

 ベットに横たわる僕の足元で、彼女が腹をかかえて笑い出した。僕はふらつきながら立ちあがった。

「いい加減にしろ」

 僕はこぶしを握りしめると、彼女に向かって振り下ろした。

 しかし、彼女を殴りつけることはできなかった。避けられたのだ。僕はそのまま再びベットに頬擦りをすることと

なった。

 脳みそがシェイクされているらしい。世界がぐるぐると歪みながら回っている。その中心に彼女が居た。

「馬鹿だねぇ、アンタ。死にかけてるってこと覚えてないの? 自殺行為と同じだよ。あ、そうか。そういえば、死

のうとしてたんだったっけ?」

 彼女は再び笑いだした。狂ってる。薄れゆく意識の中で、僕はそう思った。僕が狂ってるのかもしれないし、僕

も彼女も狂ってるのかもしれなかった。ふと再び窓に視線をやると、カーテンが風で靡いて、窓際にある木製の

机の上に置かれている花瓶を押していた。

 ―危ないな。

 どけた方が良い。そう思った次の瞬間に、花瓶は机から落ちて、大きな音をたてて割れた。僕は、動けなかっ

たし動く気もなかったので、彼女が掃除をしてくれていることを期待することにした。

 再び気絶しようとしている瞬間に、彼女が気持ち良さそうにベットに丸まって眠っているのが目に入った。

「畜生」

 僕はそう呟きながら、最後の力をふりしぼって彼女を蹴ってやろうと試みた。

 僕の足は彼女ではなくベットに当たり、ぼんやりとした痛みが足の神経を伝わってやってきた。

 痛がるのも面倒臭く、僕は、そのまま気を失った。

 窓からは、朝の日差しが差し込んでいた。

  


心同体

一個目


  

 電子音で目が覚めた。

 覚まされた、という表現のほうが正しいだろう。全く予期せぬ出来事で、僕は、文字通り『跳ね起きた』。

 目覚まし時計だと思った。いつもベットの枕元にあるテーブルの上に置いているので、手探りで直方体の物体

を探しだし、アラームをオフにした。

 音は、鳴り止まなかった。僕は二度三度とアラームをオフにする作業を馬鹿みたいに繰り返し、やっとそれが

原因でないことに気がついた。ベットから這い出ると、少女がそこに立っていた。

 僕は彼女の名前を知っている。惣流アスカというのがそうだ。彼女は、生まれも育ちもドイツで、その他にラン

グレーというミドルネームをもっている。ちなみに、僕の名前は、碇シンジだ。れっきとした日本人で、もちろんミ

ドルネームはもっていない。

 彼女は、僕を見下ろしていた。

「電話よ。さっさと出なさいよ」

 アスカが言った。不機嫌を隠す気が全くないのか、眉間に皺を寄せながらぼりぼりと頭を掻いている。そんな

に音を止めたいのなら自分が出れば良さそうなものであるが、僕はそのことを口にするのはやめておいた。口

喧嘩で彼女に勝ったことが一度もないからだ。頭が良くて皮肉家で、プライドが高い。それが彼女の性格だっ

た。僕の一番嫌いなタイプである。

 立ち上がると、眩暈がした。まだ昨日飲んだ薬が体に残っているらしい。しかし歩けないほどではなかったの

で、僕は素直に電話まで歩いた。

「もしもし?」

 不機嫌そうな声だ、と自分でも思った。しかしそれもしかたない。第一、今日は日曜日なのだ。休みの日の朝

に電話をするなんて、何て非常識なのだろう。つまらない用件だったら受話器を叩きつけてやろうと思った。

「今起きたの?」

 と、電話の声が云った。声に聞き覚えがあった。誰だろう? 僕は考えながら、答えた。

「そうですけど。……どちら様ですか?」

「貴方、自分の学校の担任教師を忘れたの? だったら自己紹介をしましょうか。第三新東京中学校二年A組

の担任をやっております赤木リツコです」

「……何か用ですか?」

「休日でない昼間に学校に家で寝惚けて『何か用ですか』? 貴方、学校辞める気なの? もしそうなら、手続

きはしといてあげるけど」

「ちょっと待ってくださいよ。平日? 今日は日曜日でしょう?」

「本気で言ってるなら笑えないわね、月曜日よ。24時間寝てたって言うのなら笑ってあげるけど?」

 僕は絶句した。どうやら、笑ってもらえるらしい。僕はちっとも笑える気分ではなかった。

「……もしもし?」

「はい?」

「貴方が24時間睡眠をしていようがいまいが私はどっちでも良いの。とりあいずの問題は、今日が平日で貴方

が学校に来てないことと、それに対する正当な理由がないことよね。解かる?」

「解かります」

「来れるわね?」

「……行きます」

「よろしい。じゃ、待ってるわよ」

 電話が切れた。僕はゆっくりと受話器を置くと、それに反比例して素早い動作で後をふりかえった。アスカが

椅子に座って本を読んでいた。どうせ僕には題名も判らない小難しい本だろう。彼女は開いているページにしお

りを挟むと、本を閉じ、僕の方を真っ直ぐ見た。

「笑ってもらえるらしいわね。おめでと」

「24時間以上も放置することはなかっただろう? なんで起こさなかったんだ」

「アタシも寝てたのよ。てっきりと日曜日と思ってたんだから」

「……まあいいや。とにかく学校に行こう」

「優等生の発言ね。悪くはないと思うけど、それよりさっさとシャワー浴びてきたら? ゲロで汚くて臭くて誰も近

づいて来ないわよ。それに薬もまだ抜けてないみたいだし」

 彼女の言っていることはもっともなので、僕は素直にシャワーを浴びることにした。シャワールームに行く途中

で、二度ほどふらついて倒れそうになった。脳が命令をだしてから器官が反応するまでにタイムラグがあるよう

な気がする。自分の体が自由に動かないというのは、やはりひどく不快だった。

「アンタね、一つ言っとくけど、自殺する時は、これからは神経の働きを抑圧する薬はやめなさいよ。身長が10

フィートになって歩いてるような気がするわ。それに、お金もかかったんでしょ?」

 僕は彼女を無視することにして、無言のままパジャマと下着を脱ぎ捨てた。温度を調節して熱いシャワーと冷

たいシャワーを交互に浴びると、頭がいくらかすっきりとしてきた。そのすっきりとした頭で考えた。これからは

薬物自殺はやめておこう、と。なんせ、致死量の分の鎮痛剤を買うのに、二万円もかかったのだから。おかげで

貯金からおろさなければならなかった。

 僕は、僕たちの通っている学校の制服に身を包んだ。時計を見ると、12時をまわろうとしていた。昼食を用意

する必要はないらしい。僕は家から出て、外から鍵を閉めた。

 真昼の日差しを投げつけている太陽と視線を合わせていると、倒れそうになった。

  

 学校に着いた時には、5時限目の授業がはじまっていた。僕とアスカを除いた全員が席に座っている。

 僕は授業の担当の教師に呼ばれ、教卓に向かった。アスカは呼ばれず、悠々と席に座っている。僕はそれに

慣れっこだったので大して気にはしなかった。5時限目は現代文で、リツコさんの授業でないのは救いだった。

「どうしたんだ、こんなに遅れて」

 と、教師が訊いた。どんな答えを期待しているのだろう、と2秒ほど考えた末、何も思いつかなかったので、僕

は正直に答えることにした。

「寝坊しました」

 クラスの全員がどっと爆笑した。何が面白いのか解からず、僕は戸惑った。変なことを云ったつもりはないの

だが。

 教師は明らかに怒っていた。殴られるかな。半ば覚悟していたが、彼は僕の思っているよりも自制心が強いら

しく、手をあげられることはなかった。

「もういい。席に戻れ」

 僕がふらつきながら席につくと、隣の席の女子が話しかけてきた。

「見た? 河田のあの顔。すっごい怒ってたよ。度胸あるんだね、あんなこと云えるなんて」

「質問に正直に答えただけなんだけどね」

 と、僕は苦笑いを浮かべて見せた。

 アスカの方を見ると、今朝の本の続きを読んでいた。僕は授業の用意をしようと思い、鞄を開けて現代文の

教科書を取りだした。と同時に、強烈な吐き気が不意に襲ってきた。まだ薬は抜けきっていなかったのだ。

 僕が口に右手を当てて必死に吐き気と戦っていると、彼女が僕の顔を覗きこむようにして訊いた。

「どうしたの? 顔色悪いよ。……大丈夫?」

「だいじょうぶ。……ちょっと二日酔いでね。まだ抜けてないみたいなんだ、気にしないで」

「そっか。ほどほどにね」

「身に染みたよ」

 嘘は云っていない。ただ、僕の二日酔いは、鎮痛剤の二日酔いだった。僕はなんとか5時限目を吐き気に負

けずに耐えぬいた。

 6時限目は吐き気は襲ってこなかった。僕はただぼうっと授業を眺めていた。アスカは僕の見る限りでは、ず

っと本を読んでいる様だった。掃除の時間には僕が二日酔いであるという話が広まったらしく、皆が気を効かせ

てくれたおかげで僕は働かなくて良かった。

 下校時間になり、家に帰りつくと、僕はベットに横たわろうとした。そして、シーツが僕の吐瀉物で目もあてら

れないほどに汚れているのに気づいた。僕は同様に汚れている枕カバーとシーツを一つにまとめてポリバケツ

に捨てた。

 新しいシーツを敷くと、アスカがそこに横たわった。僕は現代文の河田ほどの自制心をもっていないらしく、我

慢ができなかった。彼女に向かって右手を振り下ろすと、ベットに直撃して、右腕に激痛が走った。

 結局、僕はリビングルームのソファーで眠ることになった。