一緒に帰ろうと云われたので、シオリさんと学校からの帰り道を共にした。

 僕は今まで知らなかったのだが、シオリさんが言うには、彼女の家は僕の家に相当近いらしい。ゆっくり歩い

ても三分もかからないところに位置しているとのことだ。ともすれば今まで朝に鉢合わせたことがないのは奇跡

的なことであるのだろうが、どうやら彼女は学校に行く時は僕と違う道を使うらしい。道程を訊いてみると、僕が

今使っている道順よりも五分程度は早く学校に着けるとのことだった。

 慌しい朝の五分間は、無気力な夜の一時間に相当するほど貴重なものである。僕も今度からそっちを使うこと

にしようかと考えていると、アスカがいつの間にか僕たちと平行して歩いていた。

「じゃ、アタシもそっちを使うことにしようかな」

 と、シオリさんに微笑んでいる。シオリさんは何やら嬉しそうに、

「えっと、じゃあ、朝一緒に行くことにしない?」

 と、僕に向かって言った。アスカと会話をしているのだから彼女の方を向いて話せば良さそうなものであるが、

もしかしたら僕とも一緒に通学したいのかもしれないと思い直し、

「いいよ」

 と、僕も彼女に微笑んだ。それが気に入らなかったのか、アスカが笑みを意地悪そうなものに替え、

「寝坊するかもしれないけど」

 と言った。余計なことを。と思っていると、シオリさんは笑ったままで言ってくれた。

「いいよ。起こしに行ってあげる」

 僕は寄るところがあったので、途中でシオリさんと別れる必要があった。その旨を彼女に伝えると、彼女は興

味をもったらしく、

「え。どこどこ?」

 と、しきりに訊いてきたので、僕は正直に答えた。

「ドラッグストアだよ」

 最近になって近所にできたアメリカ式のドラッグストアで、薬や医療品だけでなく、洗剤、台所用品、清涼飲料

とそろっている、早い話が薬も売っているスーパーマーケットである。もうちょっと小洒落た店だったらついて来る

つもりだったのかもしれないが、シオリさんはついて来ようとはせず、僕は交差点で彼女と別れた。

 今日は金曜日である。当然明日は土曜日なわけで、僕はそれに供えて買いものをしておかねばならなかっ

た。

 毎週通っている道筋をそのままなぞり、僕は意中の店に辿りついた。

 僕はしばらくの間殺虫剤のコーナーを眺めていたが、小さな虫を殺す程度のものでは人を死に至らしめること

はないのではないかと思い直した。そしてそのまま視線を移動させていくと、殺鼠剤のコーナーに突き当たっ

た。今時ネズミが出る家があるということにまず驚いたが、そのバリエーションの豊富さにも舌を巻いた。

 僕は、その内の一つ、『キルモア』という商品を手に取った。もっと殺せ。名前が気に入ったのだ。パッケージ

では、愛嬌のないネズミが頭の上に×印を置いて天に召されていっていた。キリスト教徒は死んだら天国へい

き、仏教徒は死んだら生まれ変わる。では、特に何の宗教も信じていない僕は、死んだらどうなるのだろうか。

 ―あるいは

 死なないのかもしれない、と思った。死ねないのかもしれない。そんなことを口に出したらアスカに一蹴される

だけであることは頭の悪い僕にも容易に想像がついたが、それでも僕は時々そう思ってしまう。もっとも、死んだ

後のことなんて死ぬまで判らないし死んだら判ることである。

 僕はレジで清算を済ませ、店を後にした。

  


心同体

三個目


  

 自然と目が覚めた。

 目覚まし時計を仕掛けている筈だから、その時刻よりも早いということになる。布団に包まったままで首を捻っ

て時計を見ると、七時半だった。午後であるということはないだろう。

 僕は欠伸を一つすると、かけ布団をまくり、ベッドから降りた。背筋を伸ばして簡単な柔軟体操をすると、パキ

パキと心地良い音が鳴った。

 僕は朝食の仕度をすることにした。なにしろものを食べることが大好きである。今までやったことのない自殺方

法で、唯一絶対にやらないであろうと思われるのが餓死だ。僕は冷蔵庫から卵を二つ取り出すと、ボールに割

って菜箸を使ってかき混ぜた。プレーンオムレツを作るつもりだった。

 普通の人はプレーンオムレツを作るのに大した時間はかからないが、僕の作るプレーンオムレツは違う。かき

混ぜる回数の桁が違うのだ。

 僕は卵に塩を加え、泡立ってくるまでかき混ぜると、ようやく納得がいった。フライパンに油をひいて、それを流

しこんだ。巧みにフライパンを傾けながら焼いていくと、ふっくらとした、いかにも美味しそうなオムレツができあ

がった。

 僕は食器棚から大きめの皿とガラスコップを取ると、オムレツを盛りつけてダイニングテーブルに運び、再びキ

ッチンに戻ってケチャップとマーガリンとオレンジジュースのパックを取ってきた。トースターに食パンを入れ、コッ

プにオレンジジュースを注いでオムレツにケチャップをかけた。そして、オレンジジュースを一口飲み、パンが焼

けあがるのを待った。

 パンが焼きあがり、僕はトースターから取り出した。それにマーガリンを塗り、ティッシュを敷いてその上に置

いた。

 オムレツを一口食べたところで、ドアチャイムが鳴った。

 間が悪い、と思ったが、出ないわけにもいかない。僕はフォークを置くと、玄関へパジャマ姿のままで出ていっ

た。

 そこには一人の少女が立っていた。井中シオリである。僕は昨日彼女と一緒に登校をするという約束をしたこ

とを思い出した。

「おはよ」

 とシオリさんが言った。制服姿だ。僕は自分の格好を見ると、申し訳なくなった。しばらく沈黙が流れた後、僕

は、やっとのことで口を開いた。

「おはよう」

 僕はシオリさんを扉の中に入れ、苦笑を浮かべながら頭を掻いた。

「悪いけど、まだ仕度ができてないんだ。待っててくれないかな」

「いいよ。いつものことだけど、あたし、学校行くの早いんだよね。だから別にあんたのせいじゃないし、急がなく

ていいよ」

「悪いね。……ご飯は?」

「ご飯? 食べてないけど?」

「じゃ、トースト焼いてるから、それでも食べて待ってれば良い。食べかけで良いならオムレツもあるよ」

 僕はシオリさんをダイニングテーブルに座らせ、僕の使ったフォークを流しに持っていき、その替わりを持ってき

て彼女に渡した。彼女はオムレツを一口食べると、美味しいっ、と驚いた様子で言った。

 僕は隣の部屋に行き、急いで制服に着替えて再び出てきた。シオリさんは既に皿を空にしていた。

「美味しい?」

 と、僕はシオリさんに訊いた。彼女は力強く頷くと、笑いながら云った。

「すっごく美味しかった。あんた、良いお嫁さんになれるよ」

「そりゃどうも。……まだお腹空いてる?」

「なんで?」

「こっちが空いてるから。学校に間に合うギリギリまで、まだ余裕あるよね。シオリさんのお腹が空いてるんだっ

たら、何か食べていきたい」

 答えを待つまでもない様だった。僕はキッチンに行くと、ベーコンエッグを作り、ウィンナーソーセージをボイルし

てテーブルへ運んだ。シオリさんは、食パンを焼いて待っていた。

 二人して黙々とそれらをたいらげ、シオリさんの剥いてくれた林檎を食べて時計に目をやった。

 ―遅刻。

 僕たちは家を出ると、体力測定の時でもしないほどの全力疾走をした。教室に辿りつき、入ってドアを閉めた

瞬間にチャイムが鳴った。

 僕は肩で息をしながら自分の席に座ると、一時限目の授業の教科書を広げて眺めていた。一時限目がリツコ

さんの授業だからだ。その場合、余程のことがない限りホームルームは行われないのだ。

 リツコさんは授業中に全く余談をしない。

 リツコさんの授業では、開始から終了までの間、チョークが黒板にぶつかる音、もしくは彼女が問題を解説す

る声しか聞こえない。静かなものである。おかげで、彼女の受け持つ数学の、クラスの平均点は70点以上あ

る。

 もちろん、リツコさんの説明がいくら解かりやすかったとしても、こんな点数は生まれないだろう。それは、偏に

彼女の授業中の態度によるものだった。

 授業中、私語をしていると、リツコさんはその横に歩いてくる。そして云うのだ。

「帰る?」

 リツコさんの凄いところは、それを実行させるところである。大概の教師は怒りに任せて帰れと云っても実行に

は移させないものであるが、彼女は違う。本当に帰らせるのだ。バックボーンの強さがそうした行動を許すのだ

ろうが、もしネルフという組織が無い状態で彼女が教師に成っていたとしても、同じことを云うのだろうと思わさ

れる。

 僕は、リツコさんに指されたシオリさんが、教卓に立って質問の答えを筋道たてて答えていくのを眺めていた。

彼女の成績はクラスでは1・2を争うほどで、学年単位でも片手で数えられる位置に居る。当然、教師たちから

の信頼も厚く、また、そのことを鼻にかけたりしない性格をしている彼女は、人々に妬まれるよりも、尊敬された

り憧れられたりすることの方が多い様だ。

 今回も、シオリさんは満足のいく解答を導いた様で、「よろしい」と云われ、照れたような表情で僕の隣の席へ

戻ってきた。僕は視線をリツコさんに移し、頬杖をつきながら彼女の説明をぼうっと眺めていた。

  

 昼過ぎに家に帰りついた僕は、昨日薬局で買ったものをビニール袋から取り出した。

 『キルモア』は、小さなこんぺいとうのような形をしていた。大量のそれが瓶に入っており、一目見ただけでは

何個あるのかさえ判らない。毒々しい赤色をしているのが印象的だ。

 僕はそれを一粒取り出すと、口に運んでみた。

 味はしなかった。苦いのでは、と思っていたのはいらない心配だった様だが、何故ネズミはこんな何の味もし

ないものを好んで食べるのだろうか、と疑問に思った。あるいは、僕の舌が鈍感なだけで、ネズミにとっては至

上の珍味なのかもしれない。

 考えても答えはでてきそうになかったので、僕は諦め、一瓶の分を水道水で全て嚥下し、いつ吐きそうになっ

ても良いようにビニール袋を片手にベッドの上に横たわった。

 しばらく待っていたが、吐き気はやってこなかった。頭痛もしない。どころか、あらゆる面で飲む前と全く変わり

ないのだ。胸の上に何かを乗せられているような圧迫感があるが、これは殺鼠剤のせいではないだろう。

 上半身を起こすと、目の前にアスカが居るのに気がついた。

「アンタ、殺鼠剤なんかで死ねると思ってんの?」

 と、僕に向かって言った。いかにも人を馬鹿にしている口調だ。人に刺されるタイプなのだろう。僕は答えられ

ず、右手に掴んでいるビニール袋を床に捨てた。

 僕はアスカの目を見た。

「ネズミを殺すんだ。人体にも有毒だろ。一箱飲んだんだ」

「成分表示でも見れば? 砒素が入ってるわけじゃないし、そもそも一箱飲んだくらいで死ぬようなもの、近所

の店で売ってるわけないじゃない」

 アスカは髪を掻きあげた。下目遣いが挑発的だ。

「そりゃ、腐るほど飲めば死ぬでしょうね。ごく微量だけど、毒には変わりないわけだし、そもそもあらゆるものに

致死量ってのは存在するのよ。茶碗一杯分塩を食べれば死ぬし、水道水でも5リットル飲めば死ぬはずよ。ま

あ、水を5リットル飲むよりも、ポリバケツに水を張ってそこに頭をつっこんでた方がよっぽど楽に死ねるとは思う

けどね」

 僕は立ちあがると、ベットから降りた。身長がアスカとそう変わりないため彼女を見下ろすことはできないが、

これで彼女の下目遣いは回避することができる。

 言い返そうとして口を開いた瞬間、ドアチャイムが鳴った。僕もアスカもドアの方を向いた。そして再び顔を見

合わせ、どちらからともなく言った。

「誰だろう?」

 僕はドアに行くと、チェーンをかけているのを確認した後、ドアを開いた。

 そこには、井中シオリが立っていた。

「待って」

 と、僕は彼女に云い、一度ドアを閉めた。チェーンを外し、再びドアを開いた。シオリさんが、さっきと全く変わら

ない姿勢で立っていた。どうやら、夢でも幻でもないらしい。僕は強烈な毒が入っていない殺鼠剤しか売ってい

ないドラッグストアに感謝した。知り合いの家を訪ねたら死んでいたというのは、女子中学生には強烈過ぎる経

験だろう。

「どうしたの?」

 と、僕はシオリさんに訊いた。彼女が僕の家に訪ねてくる動機に全く心当たりがないからだった。彼女は制服

の内ポケットに手を入れ、ごそごそしながら言った。

「これ、借りたままだったから」

 僕はシオリさんからボールペンを手渡された。当然のように下校も一緒にすることになり、帰ろうとしていた時

に時間割変更の通知に気づき、メモする際に彼女に貸したものだった。僕は彼女に返されるまで貸したことを忘

れていた。

「ああ、わざわざありがとう。明日でも良かったのに」

「明日は日曜日で休みでしょ。あんまり時間を開けると忘れちゃいそうだったから。……邪魔だった?」

 質問の意味が解からず、首を傾げていると、

「恋人でも居た?」

 と、追加して訊いてきた。

 僕は勃発的な笑いを抑えきれずに吹き出し、その後で慌てて否定した。

「違うよ。なんなら、お茶でも飲んでいく?」

「いいの?」

「いいよ、そのくらい」

 僕はシオリさんをリビングルームに通した。ソファーに座らせ、紅茶とコーヒーはどっちが良いかと訊いた。どう

やら彼女はコーヒー党らしい。僕は自分用にハーブティーを、彼女にコーヒーを煎れた。

 それらをリビングに運んで行くと、シオリさんがキョロキョロと辺りを見まわしているのが目についた。

「はい、コーヒー。美味しいかどうかは判らないけど」

 と、シオリさんにティーカップを差し出した。ソファーの前にはガラス製のテーブルが置かれている。彼女は口を

すぼませてコーヒーを一口飲むと、そこにティーカップを置いた。

「すごく綺麗にしてるんだね」

「そうかな。普通と思うけど」

「いや、普通はここまで綺麗にしてないでしょ。あたしの部屋なんて、えらいことになってるもん」

「自分が基準だからね。他人の普通と自分の普通は違うよ」

 僕はハーブティーを啜った。シオリさんは僕に訊きたいことがあるらしく、しきりに質問を口にしようとしている

が、その度に躊躇している。僕は少しもどかしくなり、こっちから声をかけようかと思って口を開こうとした瞬間、

彼女の方が先に口を開いた。

「ちょっと失礼なこと訊いて良い?」

「何?」

「親とは、一緒に住んでないの?」

「ああ。死んだんだよ」

 僕は軽い口調で言った。シオリさんの表情が一瞬で強張るのが、ひどく面白かった。僕は微笑ながら言った。

「冗談だよ。ちょっとワケありでね、別れて暮らしてる」

「じゃ、一人暮し?」

「まあね」

「すごいなぁ。憧れる」

「一人暮しに?」

「うん」

「そんなに良いものじゃないよ。たぶん、ある程度以上の期間を一人暮しした人に訊けば、同じことを言うだろう

ね」

「そうかな?」

「たぶんね。家事全部一人でやらないといけないし」

「でも、あんた家事得意そうじゃん。部屋こんなに綺麗だし」

「散らかさないから散らかってないだけで、別に毎日掃除してるってわけじゃないよ。料理は好きだけどね」

 僕は空になったティーカップをガラステーブルに置いた。その時に気づいたのだが、シオリさんのティーカップも

空になっていた。

「おかわりは?」

 と、僕は訊いた。シオリさんは首を振って、いらないと答えた。そして云った。

「そろそろ帰るね。お茶、美味しかったよ」

「結構な時間になったね。外は暗いし、送っていこうか?」

 シオリさんはそれも辞退し、一人で帰っていった。

 僕は自分と彼女の分のティーカップを流しに持っていき、ぼんやりと考えた。

 ―僕は彼女のことが好きなのだろうか。

 嫌いではない、というのが結論だった。しかし、どうせ来週の土曜日にはまた自殺をするのだろう。その時成

功すれば、彼女のことをどう思っていようが関係ないことだ。僕は尿意を覚え、トイレに向かった。

 そして、用をたした後、便器を見て絶叫した。

 血だ、というのが第一印象だった。それで気絶してしまいそうなほど驚いたのだ。しかし、数秒経つと、冷静に

なってきた。血とは微妙に色が違うことに気づいたのだ。どうやらそれは、例の殺鼠剤の色素が分解されて尿と

一緒に排泄された結果だったらしい。

 窓から空を眺めると、僕を嘲笑しているかのように月が静かに輝いていた。