目の前に魚がぶら下がっている。 ちょっと飛びあがれば届きそうだな、彼は思った。いくら背伸びをしても5センチほどがどうしても届かず、その ジレンマに少々苦しんでいたのだが、なるほど飛びあがれば良いのだ。なぜこんな簡単なことに気づかなかっ たのだろう。 まあいい、とりあいず目の前の魚を手にしてからゆっくりと考えることにしよう。彼は決意し、一ニの三で目の 前の魚に飛びついた。 しかし、口の中に魚の味の広がることはなく、空気の無味無臭だけが残っている。おかしい。彼は思った。考 える。確かに自分は脚力には全く自信がない。しかし、5センチも飛びあがれないということはない筈だ。 視線を前方に向ける。 魚が目の前にぶら下がっていた。
修羅の道
午後6時半、夕食の仕度に思い思いの場所へでかける主婦の数もまばらになりだしたころ、買い物篭をぶら 下げて魚屋へ入っていく一人の女性の姿があった。 美人だ。空色の髪、赤い瞳、触れたら崩れてしまいそうな華奢な体つき。彼女は、明らかにその場の全ての 人間と異なる存在だった。 彼女が鮎を三匹買おうとすると、 「おっ、べっぴんさんだねぇ。よし、どうせ売れ残ってるし、一匹サービスしてあげるよ」店の主人に云われた。 彼女は、一応体裁だけの断りをし、4匹を買い物篭に入れてもらった。2匹分の代金で済ませてくれるという意 味ではなく、一匹付けてくれるということだったようだ。 まあ、そうだろうな。彼女は思った。自分がこの人でもそうする。わざわざ店の儲けを少なくする理由はないの だ。魚は生物なので長期保存は効かないし、多量の在庫を残したらどうしようもない。冷凍保存という手がある が、この店は新鮮さを売りにしているので、閉店間際になったら、売れ残りがなるべくでないように、しばしばお まけをしてくれるのだ。 「……ありがとうございます」代金を払う。おつりのないことを確認し、 「気にするねぇ、はい毎度」買い物篭を手渡してくれた。 彼女はそれを受け取ると、踵を返し、店から出ていった。
1匹はホイルで包んでワインで蒸し焼き。1匹は明日の朝食用に冷蔵庫に入れ、残り2匹。さてどうしようか。 キッチンで海老とアボガドをマッシュポテトと和えながら碇レイは考えた。彼女の同居人-人ではないが-に与え ることは判りきっているし、もちろんそのために買ってきたのだが、いざ与えるとなると、はいどうぞと食べさせる のは、なんとなく面白くない。 ちょっといじめてみるか。思いついた。 海老とアボガドのサラダの作成に一段落つくと、レイは、2匹の鮎と共にキッチンから出、リビングルームへ向 かった。食卓の椅子に浅く腰掛ける。テーブルの上には、ハードカバーの小説が、いかにも読みかけですといっ た具合にうつぶせて置かれていた。 「ペンペン」同居人の名を呼ぶ。すぐに隣の部屋からペンギンがでてきた。 「ギャア!」およそペンギンに似つかわしくない声で応えると、よちよちとレイの元へ歩いてきた。魚の臭いを嗅 ぎつけたのか、その長くしなやかな足に体を摺り寄せてくる。ねえ、はやく飯を食わせてくださいよ。 レイは袋から鮎を一匹取り出すと、ペンペンの頭上にぶら下げた。背伸びをしても、ギリギリ5センチ届かない 高さに。 ペンペンが全力をもって背伸びをする。くちばしの届くか届かないかという微妙な位置に魚をぶら下げる。時に は軽く触れさせた。これは立体映像か何かで、食べることはできないのだと無理矢理思いこんであきらめること のないように。 「ギャア!」彼が講義した。体をレイの足にぶつけてくる。相当フラストレーションが溜まっているようだ。 「ペンギンの言葉は解からないわ」しかし一顧だにしない。魚を右手で持っているのに疲れたので、左手に持ち 替え、テーブルの上に放置されている本に視線をやった。 こんな本、読んでいただろうか。彼女は思った。どう考えても買った記憶がない。本を読みながら空き巣に入っ た人間が忘れていったなんてことはないだろうに、どうしてこんなものが私の家にあるのだろう。 「あっ」不意に声が出た。左手にかかる負荷が突然増えたからだ。自分の左手に視線をやると、ペンペンがレイ の手首ごと鮎をくわえていた。 「この子は……」呆れた様子で呟く。 レイが左手を下げ、ペンペンを着地させると、彼は、すぐに口を離した。 「ギャア!」どこか誇らしげで、勝ち誇っているように見えた。 不愉快だ。無表情の水面下でそう思った。 無言のまま最後の1匹を取り出し、同様にペンペンの頭上にぶら下げた。 同じことの繰り返しだろうに。ペンペンは思った。ちょっと飛びあがれば届くのに。何故同じことを二度も三度も させようとするのだろうか。 小さな脳みそを総動員させ考えたが、答えは出なかった。あきらめ、目の前の食べ物に神経を集中させる。 一、二の三で飛びあがった。 ペンペンが飛びあがった瞬間、レイは腕を20センチほど上げた。ペンギンの脚力などたかが知れている。当 然、魚に達することはなく、彼のくちばしは空を切った。 そうした反復作業を、二回三回と繰り返した。 これは、レイが単純な反復作業に飽きるのが先か、ペンペンが諦めるなりキレるなりするのが先かの、我慢 比べだった。そして、こうした動物と人間との我慢比べの場合、総じて人間のほうが部が悪い。なまじ知能が高 く感情があるため、他のことを考えはじめたら、すぐにそっちに意識がいってしまうのだ。 多分に漏れず、レイが先に根を上げた。 ペンペンが何度目かも判らない試みを試し、その運動エネルギーが全て位置エネルギーに変換された瞬間、 つまり飛びあがったペンペンの体が最高地に達した一瞬後、魚を、スナップを効かせて初速度をつけて放した。 落下をはじめ、半ば諦めかけていた時に、いきなり魚が訪問してきたのだ。最もデリケートな部分の一つであ る喉を直に刺激される。地獄の苦しみである。 苦しみにのたうちまわるペンペンをよそに、レイは、思い出していた。テーブルの上のハードカバー。確か、前 に碇シンジが惣流ユイカと共に訪れた時にもってきていたのではなかっただろうか。 「面白いよこれ、まだちょっとしか読んでないけどね。レイも読んでみたら」シンジにそう云われた記憶がある。 「そう。……読み終わったら貸してくれる?」自分はこう答えた。記憶は確かだ。 では、それが今ここにあるということは、どういうことだろうか。 答えは考えなくても判る。彼が忘れていったのだ。 明日、ケーキでも焼いて、本を届けにいってあげようか。レイは、ようやく苦しみから開放された同居人を足で あやしながら考えた。
「ああっ!」 夕食後の惣流家で、小さな叫び声があがった。 「どうしたの?」その時に使用した食器を洗いながら、ユイカが訊いた。彼女の隣では、彼女の父親が放心状態 で皿を両手で握ったまま固まっていた。家事はほとんどを彼ら二人でやっているのだ。 10秒ほど時が止まり、 「本忘れた」再び手を動かしはじめながらシンジが言った。 「本?」首を傾げ、「ああ、一昨日買ったやつ?」 「そう。今日中に読んで感想文書かないといけなかったのに」 「まだ書いてなかったの?」 感想文というのは先週現代文の時間に宿題となったもので、今週中に提出しなければならないものだった。 今日は金曜日。つまり、明日の土曜日に提出しなければならない。 もちろん提出しなくても命をとられたりはしないのだが、呼び出しで2時間ほど延々と説教をしてくれるらしく、 めったに提出物が全員分提出日に集まることのないシンジ達のクラスの中で、提出率100%を誇っている数少 ないものの中に、『現代文の宿題』があるのだった。 「宿題終わらなかったら学校休みなさい。みんなを巻き込まないようにね」 加持ミユキの知恵である。一人でも宿題を提出しないものが居ると、彼はいたく不機嫌になり、しばしば宿題 の追加をするのだ。 ちなみに、ユイカは、既に書き終わって、提出も済ませている。 「どこに忘れたの?」ユイカが訊いた。食器は、全てが洗われ、布巾で拭かれた後、食器棚の中に規則正しく並 べられていく。 「綾波の家だよ。……たぶん」 「そのへんの本で書けば?こんな時間に行っちゃだめでしょ」 壁にかかっている時計を見る。9時を少し廻ったところだった。 「そうするしかないけどさ。どんなの持ってたっけ?」 後片付けが終わり、キッチンから出る。手を拭いてエプロンを外しながら、 「『アリス』なら全部あるけど」ユイカが云った。 「不思議の国と、なんだっけ?」リビングルームにある本棚に向かい、物色していると、 「鏡の国でしょ」ソファーのほうからシンジのものでもユイカのものでもない声がした。惣流・アスカ・ラングレーの ものだ。二人の会話に聞き耳を立てていたらしい。 「そう、鏡の国。あと、ミステリーで『紫のアリス』ってのがあったから、買っちゃった」 「ふぅん。面白かった?」シンジが訊くと、 「いや全然。……っていうか、掴みの部分にしか使われてなかったから、途中で読むの止めちゃったんだよね。 買わなきゃ良かった」 「10ページくらいでやめてなかった?」アスカがにやにやしながら云う。「しおりが挟んであったわよ」 「そのへんで人が殺されたのよ。だから読むのやめちゃったの」 「嫌いなの?」シンジが訊く。 「うん。ミステリーって、いかにして人を殺すかの物語でしょ?」 「一概には言えないけどね。中には死なないのもあるだろうし」シンジが言った。「……読むだけで朝が来そうな 長い話ばっかりだね」 本棚には、文学書と呼ばれるような全5巻といったレベルの長編小説か、もしくは物理学や数学の専門書し か置かれていない。『アリス』三冊は、隅っこのほうで肩身の狭い思いをしている。 「本は、時間を潰すために読むんだから、長いほうが良いのよ」アスカがソファーから立ち上がり、「斜め読みし て、後にある解説だの感想だの丸写しすれば?」本棚のほうに、つまりシンジの元に寄ってきた。 「ミユキがやって呼び出しくらったよ。あいつ、不自然な文章書いてたら確認するんだ」ユイカが言った。あいつ、 とは現代文の教師のことである。 生徒指導部の部長もやっていて、彼に目をつけられたら色々な意味で無事では終われない、全生徒に最も恐 れられている教師である。下校時にゲームセンターで三時間見張り続け、12人をひっとらえたという伝説をもっ ている。 ミユキの丸写しがばれた時は、野球部のユニホームの洗濯を一週間させられていた。ユイカはそう記憶してい る。 その時自分が断固として手伝わなかったことは忘れていた。 「本屋行って、書きやすそうなの買ってきたら?」ユイカが提案した。 「そのくらいなら綾波の家に行くよ。本取ってくる」 「じゃ、そうすれば」 「だめだよ。もう寝てるかもしれないし……」 「まだ九時台だよ?」 「ああ。あんたは知らないのか」アスカが横から口を挟む。「レイ、すっごぃ寝るの早いのよ。テレビなんて見ない でしょ。やることないなら寝るしかない、って感じ」 「ふぅん」知らなかったなと頷き、「充分な睡眠時間があの美貌を守っている秘訣か……」呟くと、 「あら、どういう意味かしら?」口の端を引きつらせながらアスカが訊く。 「いえ、他意はありません」そう云うしかなかった。
テーブルの上に置かれた腕時計から、一時間ごとに発せられる電子音が鳴りはじめた。 午後10時ジャスト。ペンペンは、レイの足の下で腹部をなぞられていた。 レイがテーブルに付き、本を読んでいる間、ペンペンはその足の下に身を入れ、適当にあやしてもらう。これが 彼ら二人の日常だった。双方にとって暑苦しくなく、心地良い。ペンペンは、こうした時間の中で、しばしば自分 は猫に生まれれば良かったと思うことがあった。気持ち良い時の合図として喉をゴロゴロ鳴らすのが上手だか ら。 もちろん、本意ではない。 「生きるためには何でもやった」 彼女は本の中の一節を呟いた。2時間ほど一心不乱に読みふけっていたため、首が疲れている。上を向くと、 ボキリと快音が鳴った。ついでに上半身を左右に捻り、腰を鳴らす。背もたれに全体重を乗せて背伸びをする と、不意に欠伸がでた。 ミステリーを読むのは久しぶりだ。レイは思った。元来、人の死んでいく物語はあまり好きではなく、悲劇も好 きではない。人間、幸福な時ほど悲劇を望むものだ。 シンジがどのような本を読むのかに興味を持って読みはじめたのだが、なるほどなかなか面白い。夜更かしを するのも久しぶりだとレイは思った。睡眠不足をひどく嫌い、毎日8時間以上寝ることにしているのだ。 おかげさまで、睡眠時間が7時間を切った日には平衡感覚が危うくなるといった体質になってしまっている。 明日は溜まりきっている有給休暇をとるべきなのかもしれない。尿意を覚え、椅子から立ちあがってレイは考 えた。出勤したとたんに倒れられたのでは結構な迷惑だろう。おまけにその理由がただの睡眠不足だなんて、 陳腐な表現でいうところの末代までの恥である。 週休二日制になった今、明日の土曜日は休みであるという事実は、彼女の頭の中に存在しなかった。 立ちあがった拍子にペンペンの腹部に体重がかかり、 「グェッ」 やはりペンギンらしくない声をあげた。
さて、どうしようか。碇シンジは考えた。 彼は今、池の大きな公園のベンチに腰掛けている。隣の席にはアクエリアス-決心のつかない言い訳に買っ たものだ-。それを手にとって一口飲み、また元の位置に置く。そうした動作を繰り返しながら、考える。さて、ど うしようか。もちろん考えたところで選択肢が増えないということは彼も解かっている。ただ、決断が下せずにい た。 忘れた本を取りに来ただけだ、第一自分には奥さんが居る、やましい気持ちなどもってないぞ。シンジは自分 に言い聞かせ、なんとか意を決して席を立った。 レイの住むマンションのレイの住む部屋のドアの前で立ち止まる。そして再度自分の目的を確認する。ただ本 を返してもらいに来ただけで、もし彼女が寝ていたらすぐに帰る。余程浅い眠りでない限りベルを一回鳴らされ た程度では起きない筈だ。心臓が口から飛び出てきそうで、大きく深呼吸をした。 一、二の三でベルを押す。 押せなかった。 体が硬直して、動こうとしないのだ。苦笑いを浮かべながらため息を吐く。結局、根性無いままなのかよ。シン ジは思った。まあ、それが自分、碇シンジという人間なのかもしれない。そう思っても慰めにならないことは判っ ていたが、それでもそう思わざるを得なかった。 公園へ戻り、しばらく頭を冷やして、帰ろうと考えた。腕時計を見ると、午後10時5分と云っている。惣流家の 近くにある本屋は、午前零時までやっているのだ。どうせ今夜は徹夜のつもりだったし、1・2時間公園でたたず む時間があっても、なんら問題はない。 シンジは、ばつが悪そうに頭を掻きながら、レイの家の前から離れた。離れられなかった。名前を呼び止めら れたから。 ふりかえると、レイが、ドアから上半身を覗かせていた。
碇家の中は涼しかった。シンジの通されたリビングルームの中央では、ペンギンが大の字になって寝そべっ ている。 レイは、シンジをダイニングテーブルの一角に腰掛けさせ、自分はキッチンの方に引っ込んだ。再び姿を見せ た時には、両手で持つお盆の上にティーポットと二つのカップが置かれていた。 「どうしたの?」レイが、シンジに紅茶を差し出しながら訊いた。シンジはそれを受け取り、礼を云い、 「本忘れちゃったんだ」答えた。 紅茶を啜る。ハーブティーか何かだろうか、良い香りがした。湯気を見つめながら、ドアのところで用件だけ云 って本を持ってさっさと帰るつもりだったのに、と後悔した。 もっとも、深夜に美女の家で二人でお茶を飲むといったシチュエーションに、全く酔っていないといえば嘘に なる。 レイは、シンジと対面する位置に腰を下ろし、 「明日届けようと思ってたんだけど……ごめんなさい」云った。 彼女は、しばらく申し訳なさそうに俯いていたが、思いついたように寝室の方へ入っていった。右手にシンジの 忘れた本を持って、出てきた。 「これ?」シンジにそれを手渡す。シンジはそれを受け取り、 「ありがとう」云った。「読んだ?」 「ええ。……面白かった。ミステリーはあまり読まないけど」 「ふぅん」何気なくパラパラとページをめくる。背表紙までめくりきり、視線をレイに戻して、 「なんで?」唐突に訊いた。 レイは、質問の意味が解からないらしく、 「何が?」訊きかえしてきた。 「えっと……なんでミステリー読まないの?」 しばらく答えは返ってこなかった。 もしかしたら、答えなど無いのかもしれない。訊いた後でシンジは思った。例えば、自分が「何故哲学書を読 まないの?」と訊かれたら、答えられない。読みたいと思ったことがないし、機会がないから。強いて言うとして もその程度だろうか。一つ一つの行動にそれぞれ理由を求めていたら、きりがないのだ。 シンジは、ティーカップを口に運びながら、そのような愚問に対して真剣に答えを探している女性をじっくりと見 た。時間をかけてレイのことを見るのは、ひょっとしたらはじめてかもしれない。 問答無用の美人だ。シンジは思った。目が二重、唇が薄い、鼻が整っている。彼女はそのような美の基準な ど超越していた。 強いて言うとすれば、かもしだしているオーラが美人であることを物語っている。Tシャツにジーンズというシン プルな格好をしているが、着飾っていない分、彼女の素の状態の美しさを強調していた。 前と比べると、ちょっと髪が伸びたかな。そんなことを考えていると、 「……人が死ぬから」レイが答えを搾り出した。「ミステリーって、いかに人を殺すかの物語でしょ?」 ユイカと同じだ。それを思い出し、シンジは思わず吹き出した。 とっさに左手を口の前にあてたのでテーブルはさほど汚れなかったが、替わりに、シンジの手のひらが直にハ ーブティーを受けとめた。当然だが、火傷するほど熱くはなかった。 「どうしたの?」レイが怪訝そうな顔をして訊いた。もっともな質問だ。 「なんでもないよ」笑顔を顔に残したまままでシンジが答える。左手の汚れに目をやり、「タオルか何か持ってき てくれない?」 「……大丈夫?」 レイがバスルームに行き、タオルを二つ持ってきた。片方は水に濡らしていた。シンジに手を出させ、濡れて いる方のタオルで入念に汚れを拭い、乾いたタオルで水気を拭きとる。 「ありがとう」シンジが云った。 レイは、それには答えず、静かに、いくらかは汚れてしまったテーブルを拭いた。拭き終わると、タオルをたた み、テーブルの隅のほうに置く。シンジは笑うべきではなかったと後悔した。 しばらくの間気まずい静寂が二人を包み、 「……変?」レイが訊いた。 今度はシンジの方が質問の意味が解からず、 「何が?」訊きかえした。 「人が死ぬ物語が嫌いだからミステリーを読まないのは、変?」レイが再び訊いた。 彼女は心配そうな表情をしていて、男が百人居たら百人が抱きしめたくなるようなオーラを発していた。目を合 わせていると、飲みこまれそうな気がした。 冷たい汗がシンジの背中を伝い、ごくりと唾液を飲みこんだ。 シンジは視線をレイから外し、 「変じゃないよ」答えた。 「じゃあ、なんで笑ったの?」 「理由がユイカと一緒だったから。思いだし笑いだよ。……ごめん」 「そう」目を伏せ、安心した様に軽く頷く。その拍子に髪が顔にかかり、薬指でそれを元の位置に直す。その仕 草は、異常なほどに魅力的なものだった。 シンジはティーカップを手に取ると、既にぬるくなってしまっているハーブティーを一口飲んだ。今すぐに帰らな いといけない。シンジは思った。何かとりかえしのつかないことをやってしまいそうな気がする。 「本、明日までに読まないといけないんだ」意を決してシンジが云った。「……帰るよ」 レイはそれには答えず、静かに頷いた。 シンジが本を持って席を立つと、レイも立ち上がり、二人で玄関に向かった。シンジが靴に履き替え、ドアの鍵 を開け、ドアノブに手を伸ばす。 「碇君……」レイが呟くようにして言った。 彼女の二つの赤い眼は真っ直ぐにシンジを見つめている。シンジは目を逸らさずにドアノブを掴んでいる。しば らくの間、言葉を出すことをためらわされるような空気の中、二人は見つめあった。 「また来るよ」手首を捻って押し、ドアを開けながら云った。「ユイカと一緒に」 「そう。……わかった」レイが、頷きながら言った。「おやすみなさい」 「ありがとう。おやすみ」シンジが云った。「……ごめん」 なんで謝るのだろう。彼の居なくなった玄関で、レイはしばらく考えた。 答えは出なかった。
「修羅道って知ってる?」ベットの方から声が聞こえた。アスカのものだ。 「シュラドウ?……知らないな」シンジは机に向かったままで答えた。 机の上には、コーヒーカップとハードカバーの小説が置かれていて、それは、半分ほどが読み終わられてい る。コーヒーカップの中には黒い溶液が三分の一ほど入っている。カフェイン中毒気味の妻の煎れるコーヒーは いつもエスプレッソの濃さであるため、シンジは、飲みたくなったら極力自分で煎れるように心がけていた。 もっとも、彼女が勝手に持ってくる分はどうしようもないし、彼にはそれを断る根性など無いので、彼の舌は、 濃いコーヒーも普通のコーヒーも、それなりに味わえるように発達している。 シンジは、本から視線を外さず、 「拳法か何か?」訊いた。 「違うよぉ」ベットの方から笑い声がする。「死んだ後の世界のことよ、つまり地獄。朝目覚めたら自分の前に刀 が刺さっているの。それを取ったら戦闘開始。延々と敵が出てきて、それを斬って斬って斬りまくる。自分の右 手が落ちて左手が落ちて頭を割られても死なないの。不死身なのよ。で、そうした中で一日が終わって、眠り につくの。朝目覚めたら戦闘開始。それを永遠に繰り返す、っていう地獄の名前が修羅道っていうのよ」 一呼吸置き、声は続けた。 「あたしをこんなに待たせてたら、きっとあたしの修羅道に落ちるんだからね。延々とあたしの相手をして一日 が終わって、それをず〜っと繰り返すの」 シンジの表情が緩む。本にしおりを挟み、閉じて、椅子を反転させた。 ベットの方を向き、 「死ぬのが楽しみになってきたよ」笑顔で云った。「こんな美人を一人占めするのは罪だね。地獄に落ちてもしょ うがない」 シンジは、椅子から立ち、アスカの座っているベットの、彼女の隣に腰を下ろした。アスカの促すままにキスを し、そのままベットに押し倒す。 「あんた、どうでもいいけど、本読んでると、性格変わるね」着ている寝間着の上着を脱がされながら、アスカが 云った。ブラジャーはしていなかった。 「そうかな?」 「うん」 「それは……本にのめりこんでるからじゃないかな。登場人物に成りきって読むからね」 シンジは、抱きあったまま、右手でアスカの寝間着のズボンを下着と一緒に掴み、太もものあたりまでずり下 げた。足を使って、一気に足首まで下げる。女を裸にした後で、慌しく自分も着ているものを脱いだ。 シンジは、アスカの中で二回目の射精を終えた後、そのまま寝入った。 机の上では、ハードカバーの小説に、まだ読み終えていないことを証明するしおりが挟まれていた。引き出し の中にはその本と一緒に買われた原稿用紙が入っていた。 未開封だった。
「それでは、ホームルームをはじめます」 二年A組の教室で、ホームルームがはじまった。起立、気をつけ、礼。クラスの中の全ての生徒が毎度お馴 染みの動作を繰り返す。その姿は、この風習を全く知らない人間が見たら、何かの宗教団体ではないかと思う のではないだろうか。 このお決まりの動作を創ったのは誰なのだろう。着席と云われ、自分の席に腰をおろしながら加持ミユキは考 えた。 もっとも、彼女は、答えを欲しがっているのではない。余計なことを考えていることで、明らかに不機嫌なオー ラを辺りに撒き散らしている担任教師のことを気に留めないように努めているのだ。 その理由は一つ。碇シンジの欠席である。 「ねえねえユイカぁ」頬杖をつきながら、正面に見られる背中を開いている方の手でつっつく。ユイカはすぐに振り 向いた。 「何?」 「シンジさん、なんで休んでんの?」 「ああ、『風邪』だよ。昨日寝ちゃったみたいで、作文終わってないんだってさ」 「ああ、なるほど」ミユキは納得した様子で頷いた。「まあ、クラスの皆様、っていうかあたしに被害が及ぼされる という最悪の事態だけは回避してくれたわけですか」 「まあね。……それにしても、多いね」 「何が」 「『風邪』で休んでる人」 「ああ」 クラス全体を見渡す。なるほどシンジを含めて総勢8名の机が空席となっていた。 「どうせなら学級閉鎖になるくらい休んでくれれば良いのに」欠伸をしながらミユキが言った。 窓からさしこむ暖かい日差しを受け、ユイカも一緒に欠伸をした。 今日一日、つまらない学校生活になりそうだ。机にうつぶせながらそう思った。
今日一日、つまらない学校生活になれば良い。ミユキは、連絡事項を淡々と告げるアスカの姿を眺めながら そう思った。なまじ面白い、というより厳しい学校生活になることなく、平和に一日が終わって欲しい。最近はそ ういった内容の願望をもつことが少なくない。家では夫婦喧嘩が日課となっているし、学校は学校で修羅場が 待ち構えていることが多い。 ミユキは2週間前から昨日にかけての出来事を思い出していた。
「出ていきなさいっ!」加持ミサトの声が加持家に轟いた。 「カンベンしてよ、奥さん」愛想笑いをしながら加持リョウジが平謝りする。玄関で繰り広げられる戦争を、ミユキ は、リビングルームのソファーに横たわって眺めていた。 今回の原因はなんだったかな。背中を蹴られて家から追い出される父親の姿を眺めながら彼女は考えた。そ うだ、パパがママのビールを勝手に飲んだんだ。 運悪く、それは、最後の一本だった。 風呂からあがった母親が、冷蔵庫を開けてビールの無いことを知り、リビングでそれを飲みながら野球観戦を している父親を発見した瞬間、彼女は、西洋の騎士よろしく皮手袋を投げつけた。決闘の合図だ。しかし、彼は その手袋を拾うと、彼女の手にはめ直した。そう怒るなよぉ、彼は云った。 いつものことだが、この態度が彼女の逆鱗に触れる。ミユキには彼が龍を怒らせるのを楽しんでいる様に見て とれたが、当事者はそれに気づいていないらしかった。 正拳突きを皮一枚で辛うじてかわした一瞬後、彼は、襟首を掴まれて玄関まで連れて行かれた。ドアを開き、 背中を蹴られ、外に出る。2秒ほど遅れて彼の靴が一対投げ出された。もう帰ってこなくて良いわよ。何度そう 云われたことか。 鍵を閉め、チェーンをはめ、母親は、娘の元へ踵を返した。 「食事当番決めようか」 「交代交代で良いよ。ジャンケン勝てないもん」 「わかった。じゃ、明日はあんたね」 「なんで。そっちがこの事態引き起こしたんじゃない」 「……ママには従っといた方が良いわよ」 「了解」 食事係を押しつけると、ミサトは、寝室に入っていった。そのドアが閉まった後で再び開いた。ミサトは半身を 見せ、 「あんたビール買ってきてくれない?」 「死ね」 ミユキはゲーム機の電源を点けた。夫婦喧嘩などどうでも良い。明日までに今やっているゲームのエンディン グを見ておきたかった。 野球観戦でテレビを占領する父親が居なくなって、かえって都合は良かった。
母と娘の冷戦は、昨日まで続いていた。 ミユキは、料理の一切ができないが、カレーだけは作ることができた。幼いころから父親が理由はどうあれ家 を長期間留守にすることが多かったので、一品でも良いから何か食べ物を作れるようになることが生きるため には必要だった。そんなわけで、父親が家に居る時に一番作るのが簡単な料理を訊いたら、カレーだと答えが 返ってきたのだ。 ミユキは、今や、目を瞑っていてもカレーを作ることができた。体が料理法を覚えている。他のことを考えなが ら料理をしていても、包丁で指を切るということはなかった。 そんなわけで、2週間前、彼女の父親が家を追い出された時、次の日の夕食はカレーだった。朝食は両者と も食べないし、昼食は各々で勝手に済ませるのだ。 「いっつも作るわりには腕はあがらないねぇ」 「作れるだけマシでしょ。ご飯のたきかた知ってる?」 「知らない」 「……文句言える立場じゃないでしょ」 「そっか」 二人して黙々とカレーを口に運んだものだった。 その次の日の夕食も、カレーだった。ミサトの作ったものではない。前日ミユキの作ったものの残りだった。 「卑怯者」 「『賢い』と云って欲しいわね。サッカーでも云ってるでしょ、日本人はずる賢さが足りないのよ。手を抜けるとこ ろは手を抜かないと生きていけないし、今日食べないとこのカレー腐っちゃうでしょ、もったいない」 「いっつも躊躇なく捨ててるくせに良く云うわ。もったいないとか云うんだったら、ちゃんと好き嫌いしないで全部 食べてよね。ジャガイモも、ほら」 「これは、嫌いなんじゃなくて、あんたの腕が悪いのよ。ちゃんと芯まで浸かってないから固くて食べられたもん じゃないし、食べてもジャガイモの味しかしないじゃない」 「いつからそんなにグルメになったのよ」 「そうねぇ、あんたが乳離れしてからかな。あんたに良いとか云われて変なものいっぱい食べさせられたんだか らね」 「誰に」 「通りすがりのダメ人間よ」 その次の日も、そのまた次の日もカレーだった。無くなっては作り、作っては食う。食ったら無くなり、十日が過 ぎるころには、作られることもなくなり、レトルトカレーのパックが、一日二個、規則正しくゴミ箱に入っていくよう になっていた。意地っ張り二人の持久戦は、永遠に続くかに思われた。 それを阻止したのは、2週間ぶりに加持家に足を踏み入れた通りすがりのダメ人間だった。
シンジは本を読むのが遅かった。 普通の人と比べると特別遅いとは感じないだろうが、レイやアスカといった周りの人間がそれと比べて速すぎ るので、シンジは『本を読むのが遅い』とされていた。彼は、全482ページの長編小説を読み終えるのに、約5 時間を費やした。 感想文は、わりと早く書けた。ただだらだらと規定字数にくるまで感想を書いていくだけなので、別に苦にはな らない。推敲する必要もなかった。どうせ誰が読むわけでもないのだ。そう開き直ると、30分ほどで原稿用紙四 枚半が文字で埋まった。 「今日は土曜日、午前授業か……そろそろ帰ってくるかな」作業を終えたシンジが呟いた。時計は12時半と云 っている。 ずる休みをした手前、多少の後ろめたさもあるのか、シンジは、昼食はユイカの手を煩わせずに作ろうと決心 した。寝間着から洋服に着替え、鞄から財布を取り出してポケットに入れ、 『昼食の材料を買ってきます シンジ』 と留守中に彼女らが帰ってきた時のための保険を書き置いて、惣流邸を後にした。
「やあ、シンジ君じゃないか」後から声をかけられた。 「あ。加地さん」振り向いた処に居た男の名前を言う。「どうしたんです?こんなところで」 「飯の材料をちょっとね。そっちは?」 「僕もですよ。でも珍しいですね。料理するんですか?」 「へへ。俺、料理の腕はちょっとしたもんなんだぜ。あいつら2週間ばかりカレーしか食ってなかったらしくって な。人間の食い物食わせてやろうと思ってんだが……あんまりこの商店街来たことなくってさ。もし良かったら、 良いもん売ってる店、教えてくれないかい」 「いいですよ。一緒に行きましょうか」 すまないね、とリョウジが礼を云い、二人は並んで商店街を歩きだした。昼時の太陽はほとんど真上に位置し ていて、シンジは、Tシャツの袖で顔の汗を拭った。ひどく暑かった。 「何作るつもりなんですか?」歩きながらシンジが訊いた。自分は彼に合わせ、彼の作ると云ったものの材料を 買う店で買えるもので何か作れば良いと思っている。極論を言えば、全く同じメニューで終わらせるつもりだっ た。 「うーん、実は具体的には何も考えてないんだよなぁ。とりあいず、この暑さの中じゃ熱いものは食えないよな。 そうめんじゃあまりにも色気ないし、冷やし中華でも作るか」 「何は買わなくて良いとかあります?」 「ああ、でかけに冷蔵庫見たよ。ビールしか入ってなかった。……つまり、全部買わないといけないってことだわ な」 「ビールだけですか。……変わってないんですね。」呆れ顔で苦笑を浮かべ、「あれ?でも、独身用のちっちゃ い冷蔵庫じゃありませんよね?」 「ああ。でかいよ。それでもびっちり入ってたね。百個くらい入ってんじゃないかな」 「飲みきれるんですか?」 「三日に一回は空になってるよ。ビール太りしなけりゃ良いけど」 「日本酒だったらノンカロリーですけどね、確か。……ここで野菜買いましょうか。無農薬が売りで、美味しいで すよ」 そういうと、シンジは、八百屋の中に入っていった。 リョウジは、ただ、手際良く必要なものを必要なだけ買っていく少年の姿を眺めていた。絶えず店の主人と値 切りをしたり世間話をしたりしていて、彼の入る余地が無いのだ。 暑いな。背伸びをしながら欠伸をし、彼は思った。こういう日はビールが美味い。
「ただいまぁ」無人の惣流家で、寂しく声が響いた。 「パパ?誰も居ないの?」声は続けた。 そう、誰も居ないのだ。 彼女はテーブルの上に置かれている書置きに気づいた。 『昼食の材料を買ってきます シンジ』 そう書かれている。ユイカは納得し、自分の部屋に入っていった。制服から着替えて出てくる。まずキッチンへ 行き、乾いた喉を潤そうと考えた。 冷蔵庫を開けると、ビールが瓶で三本と、オレンジジュース。それと牛乳が二本置かれていた。飲み物が主 な内容で、食材と呼べるものはほとんど置かれていない。なるほど買い出しに行かなければ昼食も作られない 筈だ。ユイカはその中から牛乳を一本取りだし、食器棚からコップを取ってそこに牛乳を注いだ。ぐいと一杯目を 一気飲みし、二杯目を注ぎこんだ後、牛乳を冷蔵庫に直した。 ユイカは、二杯目の牛乳の入ったコップを持ったまま、リビングのソファーまで歩いた。 ソファーはL字型に並べられていて、どの席からも届くようにガラス製のテーブルが置かれている。その上に は、いくらするかは判らないが、明らかに高価なものであると見て取れる灰皿が置かれている。家族の中に煙 草を吸う人間は居ないので、おそらくインテリアの一つとして置かれているのだろう。およそ購入されてから灰を 落とされたことなどないだろうと予測できる。ユイカはテーブルの上にコップを置くと、ソファーの上に放置されて いるテレビのリモコンを手に取った。テレビもまた、どの席からでも見られるような位置に置かれているのだ。 テレビを点けると、ニュースをやっていた。 チャンネルを廻してみたが、全ての局がCMかニュースを流していた。時計を見ると、2時5分前と云っている。 番組と番組の繋ぎの時間帯で、面白い番組があっている筈がなかった。ユイカはコップを手に取り、牛乳を飲み 干した。 暇だ。そう思い、ソファーに寝転んだ。寝転んだ拍子に思いついた。 ユイカは一瞬で体を起こすと、立ち上がった。背伸びをしながら欠伸をすると、頭の中が冴えてくる気がする。 彼女は目を輝かせながら彼女の父親の部屋に入っていった。 目当てのものは机の上に放置されていた。三日前に一緒に本屋に行ったときに彼が買っていた小説である。 ハードカバーの新書で、特に有名というわけでも何かの賞をとっているというわけでもない作家の本だが、シン ジの読む本の八割はこの作家のものだった。理由を訊いたことはない。今度訊いておこうとユイカは決心し、そ の本をもって父親のベットにダイブした。 うつぶせになって、体を逸らしながら体重を両肘にかけて本を読む。その姿勢に疲れたら、顔を枕に押し付け た。彼の匂いがするのと同時に自分の髪の匂いがした。当然、彼女のものではない。アスカと同じシャンプーを 使っているため、同じような匂いをさせているのだった。枕元には、女物の寝間着がきちんとたたんで置かれて いる。洗濯にでもだしたのか、男物の寝間着は部屋の中にはなかった。 まさかこれを着てるわけじゃないよな。ユイカは自分の想像に吹き出した。 その拍子に本が閉じてしまい、また最初から読む羽目になった。本に集中していないので内容を把握してい ないため、どこまで呼んだかの大体の見当もつかないのだった。 しばらくの間一心不乱に本を読んでいると、期せずして、ベルの音が鳴った。客が来たようだ。 ちっ、と舌打ちしながらユイカはベットから立ちあがった。本を持って部屋を出ると、ソファーの上にそれを投げ 置いて、玄関の方に向かった。 「はいはい、そう何度も鳴らさなくても聞こえてますよ」呟きながらドアを開ける。 ミユキの姿がそこにあった。 「どうしたの?」ユイカが訊く。 「えっと、なんでか知らないけど、シンジさんが、今ウチでご飯作ってるのよね。で、ユイカ呼んできてって云われ たんだけど」 「ミユキの家で?」顔をしかめる。「なんでまた」 「だからあたしは知らないって。とにかく来なよ、来ないとご飯食べられないよ」 「わかった」頷き、靴を履きながら、「ママは?」 「もう来てる」 「は?」 「なんかレイさんも来てるよ。お食事会ってノリになってる」 「ふぅん」 家に鍵をかけ、納得できないまま二人で出ていった。 「うわ暑っ」 午後3時20分。気温が最高値に達し、まだ涼しくならない時間帯だった。
どこで間違ったのだろう。茹でたパスタをフライパンに移し替え、オリーブオイルと絡めて炒めながらシンジは 考えた。 おそらくは、商店街でたまたまレイと逢ってしまったのがいけなかったのだろう。これを期とばかりにリョウジが 話しかけ、三人で話し込んでいるうちに、いつのまにか加持家で食事会をやる方向へ話がいってしまった。ある いは、これはその男の計画なのかもしれなかった。そして、その疑惑が確信へと変わるのにそんなに時間はか からなかった。 まず最初にやったのは、家の中の掃除だった。 「男の独身寮よりひどいだろ」 彼は開口一番そう云った。確かに人間の、少なくとも女の住む家だとは到底思えなかった。 流しには2週間分の食器が汚れたまま重ねられていて、蝿とも蚊ともいえないおそらく図鑑にも載っていない であろう虫が飛び交っていた。リビングルームの床には一面ビールの空缶が散乱していて、その中に埋もれる 様にして一人の女性が寝転がっていた。 「ミサトさん……ですよね?」 「人間、限度ってものを知らないといけないよな。戦いが終わって週休二日制になってから、土日はいっつもあ んな調子だぜ。家を開けるんじゃなかったよ。……さて、とりあいず掃除からはじめようか。この中で飯は食えな いよな」 ああ、騙された。そう気づいた時には遅いものである。後で悔やむから後悔なのだ。ちらりと横を見ると、レイ が、信じられないものを見たかの様な顔をしていた。 掃除が終わると、いよいよ料理を作ることになった。その前に、シンジは、レイに頼んでアスカを携帯電話で呼 んでもらった。彼女が家に帰りつくまでに知らせておかなければきっと怒るに違いなかった。あわよくばその時 ユイカにも知らせておきたかったが、いかんせん学校を出た後だった。というのも、既に放課後で、アスカも帰り 仕度をしている時だったのだ。職員会議が終わってそれなのだから、家に帰るために学校に行っている彼女達 がまだ学校に居る筈がなかった。ユイカは、ミユキが帰ってから彼女に呼びに行ってもらおうということになっ た。 「いやぁ、何から何まですまないね」リョウジがキッチンに入ってきながら云った。右手には透明な液体の入った グラスが掲げられている。そこには、当然、水ではなく、日本酒が入っているのだった。 「別に良いですよ、材料費出してもらったんだし。それに、最初から手伝わせる気だったんでしょ」 「まぁね、君を見つけたのは偶然だったけど。……それ、何作ってるんだい」 「スパゲティですよ、冷やして食べやすくしてから持っていってあげます。冷やし中華より、こっちの方がお酒が 美味しいでしょう?」 「へへ、楽しみだな。こんな旦那を持つアスカは幸せだね。それに、前に比べて男前もあがった」 「そりゃどうも」 リョウジは冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出すと、キッチンから出ていった。パスタを炒め終わったので手を休 め、その動きを目で追っていくと、レイが女二人に囲まれて酒を勧められていた。アスカとミサトだ、助けられそう にない。シンジは苦笑を浮かべながら冷蔵庫を開けた。野菜でパスタにかけるソースを作るつもりだったのだ。 本当にビールしか入ってなかった。
「前言撤回」加持邸に着き、シンジの出迎えを受けた後に家の中に入った途端、ミユキが云った。「お食事会じ ゃないね、こりゃ。宴会?……っていうか、戦場だね、戦場。戦死者四名、さてどうしましょうか」 「うん……どうしたものかなぁ」シンジも苦笑を返すしかなかった。 まさに戦場。それとの相違点は、血の代わりに酒が流れているということだけだった。
幸か不幸か、加持邸の中に酒を止めようとする者は居なかった。たとえ居たとしても、おそらくは強引に酒を 飲まされてグロッキーになり、その行為を果たすことはないのだろう。 実際、レイがグロッキーにされていた。 シンジは、酒の肴になるように、濃い味付けを意図的に料理につけていた。当然食べれば喉が乾く。しかし、 この家の中に酒以外の飲み物など存在する筈がなかった。しかも、タチの悪いことに、その料理は美味しいと きている。止められる筈がなかった。 ほとんど酒に対する免疫のないレイは、ビールを1リットルほど流し込まれた時点で言葉を話せなくなった。 というより、平衡感覚がなくなった。そのままソファーに横たわると、死んだ様に寝入った。しかしアスカが彼女 の口の前に手のひらをあて、 「息してる。大丈夫」 そう云うと、誰も心配をすることはなくなり、再び酒宴が続いた。 次に酒に呑まれたのはリョウジだった。彼はビールではなく、専ら日本酒を専門としていて、それが仇になっ たのか、一人で一升瓶を二つ空にした挙句、フロアリングの床に倒れた。その瞬間、場の空気が凍りついた。 しかし、数秒後、ミサトがその胸に耳をあて、 「心臓動いてる。大丈夫」 そう云うと、誰も心配をすることはなくなり、再び酒宴が続いた。 シンジはめまぐるしく働いた。働くことを口実に、酒宴に参加することを拒否したのである。尽きることのない良 質の肴を手放す気はなく、アスカとミサトは、二人して延々と飲みつづけた。 死ぬのは二人同時だった。厳密にいうとアスカの方が先に倒れた。ミサトに寄りかかる様にしてギブアップし た彼女を抱いたまま、 「やっぱりアスカもまだまだねぇ」 そう云いながら、ミサトもアスカに寄りかかるようにして寝入った。ちょうど『人』の字を二人で作ったかたちにな っていた。 急性アルコール中毒にならなければ良いけど。そう思いながら、シンジは、二人の生存を確かめた。 鼾をかいて寝ている。少なくとも飲みすぎで死ぬということはなさそうで、シンジは安心して食器の後片付けに 殉じることにした。
「えっと、ご飯まだだよね」シンジは、呆れた表情で立ちすくんでいる二人の少女に訊いた。 ユイカとミユキが頷いた。 「じゃ、残り物で何か作るよ、リビングの方で待っててくれるかな。……っていうか、アスカ達の面倒見ててくれ ないかな?」 反論する理由はなかった。彼女らは「わかった」と云い、リビングの方に小走りに向かっていった。家の外から でも嗅ぎ取れる酒の匂いが、やはり家の中でも充満している。まずはこれをどうにかしないと、飯を食うどころで はなかった。 戦死者の遺体には触れないことにした。下手に起こして自分も殺されたのではたまったものではない。とりあ いずシンジの飯を食い、さっさとこの家から出ていって夜まで帰らないつもりだった。とりあいず、散乱している 食い散らかされた食器、及び酒の後片付けをすることにした。 なんとか人間の住む場所に見えてくるようになったころ、 「ご飯できたよ。持っていくから、テーブルについてて」キッチンからシンジの声が聞こえた。 シンジは盆に3皿の冷やし中華と三つのコップに水を入れて運んできた。 「落ちるとしたら酒の修羅道かな」 それぞれに食事を配りながら、シンジがそう呟いた。 「シュラドウ?何それ」ユイカが訊く。ミユキも知らない様だった。 水をがぶりと一飲みして喉を潤し、 「修羅道ってのはね」シンジの熱弁と共に、たった三人のお食事会がはじまった。
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