「悪夢」第2部

(1)

作者/すとらとさん

 




この街、第三新東京市には、幾つかの市営の図書館がある。

IT化が進んだために可能となった首都機能の分散と、増えすぎた人口の拡散を目的とした第二次遷都計画によって造成され、いまだに拡充し続けられているこの街。

そこには、最初から移転してきた市民たちが充実した生活をおくることが可能なようにと、この種の文化的施設が綿密な計画に基づいて各所に完備されていた。

話を図書館に戻そう。

情報化が進んだ今日においても、いまだに”本”という活字メディアの価値が完全に失われた訳ではない。確かに、過去の図書館に比べれば、S-DVD等によっての蔵書のデジタル化が着実に進みつつあった。しかし、それでもなお、『図書館』というと、その大部分のスペースを膨大な書籍によって占有されているのが普通であった。

それらこの街の図書館の中でも、町外れのその場所に有るにしては比較的設備が充実しているとされている図書館の自習室のコンピューターの前に、仲良く並んで座って勉強している二人の少年少女の姿があった。

少年の名は『碇シンジ』。そして少女の名は『惣流・アスカ・ラングレー』。

一見しただけでは、中学生のカップルが仲睦まじく勉強しているだけに過ぎない、微笑ましい光景だった。しかし、観察力の鋭い者、その中でも特に審美眼の優れた者の眼を一目で釘付けにさせる程の美しさを、その少女の方が醸し出していた。

腰まで伸びたストレートロングの栗色の髪は、普段から良く手入れされていることを物語るかのように、艶やかに光輝いている。モニターと参考書とを忙しなく行き来しているその大きな碧い瞳は、長い睫に縁取られていて、まるで澄んだ泉を連想させる。細くとおった上品な鼻筋。それが、形の良い鼻梁の印象を更に際立たせていた。そして、白磁を想わせる肌理(きめ)細やかな白い肌に映える、淡いピンクの唇。その口許は、彼女の意志の強さを感じさせるように、きりりと口角が引き締まっている。時折マウスを操作したり、キーボードをタイプしたりする手指は、まるで白魚のように繊細だった。

まさに、どこから見ても、非の打ち所のない端麗な美少女だった。

一方少年の方はと言うと、短めのさらさらの黒髪に中性的な面立ちが印象的な、まず美少年と言っても問題の無い秀麗な外見。

その組み合わせは、端から見ればあまりにも少女の方が輝くように美しすぎるために、少年の容姿が幾分不釣り合いのように感じられる。しかし、まずは美男美女のお似合いのカップルと言っても差し支えないだろう。


あの旅行の二日後、顔も合わせずにいたアスカの方から彼に電話が掛かってきて誘われて、それ以来この二人は毎日のように彼らの住まいの有るコンフォートマンションの近所のこの図書館へ一緒に通っていた。

その理由は、少女にとってもう自分の中では『ご主人様』という存在にまでなってしまっていたシンジとの関係を修復し、改めて以前の幼なじみの関係を取り戻そうと思い、彼女ならではの持ち前の勇気を振り絞って電話をかけたのだった。だが、それは同じく、また幼なじみ同士に戻りたいと願っていた少年にとっても、願ってもないきっかけであった。その為、彼はすぐにその誘いを受け入れたのだった。

夏期休暇ももう後十日程で終わろうとしているが、別にこの二人はずぼらな劣等生のように、夏休みの課題に追われて図書館に通っている訳ではなかった。

二人とも夏期休暇中のノルマは既にきちんと計画を立ててもうとっくに済ませてしまっており、別段急いで勉強せねばならない理由があった訳ではない。それでもなお、なぜ二人が図書館に通っていたかというと、ほんの少しの間でも二人きりで一緒に居る時間を持ちたかったからだった。

勉強をするだけなら、アスカの家でもシンジの家でも可能だっただろう。しかし、それではゆっくりと二人っきりの時間を持つことはできない。なぜなら、アスカの家には専業主婦の母親が居たし、シンジの家にも一般的な日本の企業に比べたら、遥かに長い夏期休暇中のマヤが居たからだ。

そんな訳で、二人は『勉強をしに図書館へ行く』という名目の元に、こうした『逢い引き』を続けていたのだった。

勿論それだけではなく、常に学年トップの成績をおさめているアスカとの図書館通いは、シンジにとっては自分の学力を向上させる上で大いに役立っていたし、人に勉強を教えることがアスカにとっても更なる学求心を維持させていることも間違いなく、いわば一石二鳥であったとも言えるだろう。


「ふぅ。勉強の方も一段落ついたし、だいぶ日も傾いてきたから、そろそろ帰らない?アスカ」
本当に充実している時ほど、時間というものは早く過ぎ去るものだ。シンジは苦手にしている数学の問題に一区切りをつけたところで、伸びをしてからふと窓の外を見て、そう切りだした。

「そうね。遅くなるとママがうるさいし、そろそろ帰りましょうか」

アスカはそう答えると、データをディスクに保存した後、そのディスクと参考書をショルダーバッグに仕舞い込んだ。そして、それまで閲覧していたS-DVDを手に持って立ち上がると、シンジに向かって言った。

「ほらっ、早くしなさいよ、バカシンジ!本当に愚図なんだから!」

アスカの声が、本来静かにしていなければならない自習室の中に響きわたった。少女のその台詞を聞いて、それまで室内でその美貌に惹き付けられてちらちらと視線を送っていた老若男女は皆、がっくりと落胆した。それ以前も、小声ながら時折シンジに対して辛辣な『指導』をおこなっていたアスカだったが、幾分大きめの声で、それも腰に手をやって仁王立ちしてそう言った彼女の態度を見てとって、一部の男どもはそれまで羨望から殺意に近い感情さえ抱いていた少年に対して、今度は哀れみともとれる視線を送るのだった。

そう、この美少女はその性格さえ素直だったら、本当に完璧なのだが・・・。

「ゴ、ゴメン、アスカ。いますぐ終わるから・・・」

美少女に罵られた少年はどもりながらそう答えると、自分のディーバッグにあたふたと参考書とデータをセーブしたディスクを押し込んでから、閲覧していたS-DVDを手にして立ち上がった。

アスカはようやくシンジが帰る支度を終えたのを確認すると、ディスクを返却するために受付へと向かうのだった。

そして二人は、ともにディスクを返却し終えると図書館を後にした。


カナカナカナ・・・。

ヒグラシの鳴き声がした。もうすぐそこまで迫ってきた秋の気配を感じさせるように、あかね色に染まった空は何処までも高く、澄んだ色をしていた。

しかし、快適に室温が調整されていた屋内から出ると、いくら日がだいぶ傾いてきたとは言えまだ八月の下旬である。外気の感触は、残暑の蒸れた暑気がじっとりと肌にへばり付いてわるような、不快な感じだった。それは、この街が四周を山に囲まれた盆地に有るということも一因として挙げられるだろう。

図書館を後にすると、すぐにアスカはシンジの手を握ってきた。それは、あの旅行以前だったら、彼女の性格からして考えられない行為だった。その様子から推察するに、この美少女は素直でないところもあるが、どうやらこの少年を心から好いているということだけは、何の疑いの余地も無いようだった。

繋いだ掌から、お互いの温もりが伝わってくる。ともに手を繋いで家路をたどっていると、それだけで若い二人は想い人と一緒に居られる幸福感で満たされてゆくような気がするのだった。

手を繋いだまま、あれこれ今日の勉強の内容について二人で語り合いながらたどる家路は、とても楽しい一時(ひととき)だった。もっとも、会話といっても一方的にアスカが話し掛け、それに対してシンジが一言二言受け答えするだけのようなものではあったが・・・。

ふと、会話が途切れて、二人の間に沈黙が訪れたその後だった。

「・・・あれから、今日でもう二週間も経ったのね・・・」

いかにも感慨深げに、アスカはぽつりとそう呟いた。

彼女の言わんとしている『二週間』という期間は、あのマヤの親が所有する伊豆の別荘での狂った調教の日々が終わってから、今日までのことだった。

それを勿論のこと承知しているシンジは、自らもまたあの五日間の調教に荷担していたことを思い浮かべ、何とも苦々しい気持ちで頷いた後言った。

「・・・うん・・・」

彼がそう答えると、彼女はぎゅっとシンジの手を力強く握ってきた。そして言った。

「ねぇ、シンジ。今日もまたあの公園に寄ってから帰りましょう?」

「う、うん。そうだね・・・」

アスカの言った公園とは、二人が図書館から徒歩で帰る15分ほどの道のりのほぼ終着点、家の近所に有る公園のことだった。

二人で図書館に通うようになってから、彼らは帰る途中で必ずその公園に寄ってゆくのが毎日の習慣になっていた。なぜかというと、その公園に有る展望台から見渡せる第三新東京市の夕暮れ時の眺めが、とても美しいものだったからだ。勿論それだけではなく、ただこのまま家に帰ってしまうのは、ともに恋いこがれる二人にとっても名残惜し過ぎるというのも、とても大きな理由の一つだったが・・・。

公園に着くと、二人は手を繋いだまま、まずは市内全景を見渡せる展望台へと向かった。

公園自体は、その展望台が有ることを除けば、さして規模の大きなものではない。円形の広場を中心にして、一角に展望台へと続く道がある。園内には様々な木々が植えられていて、幾つかのベンチが広場の周囲を取り巻くように据えられているだけのものだった。

展望台に着くと、そこからの夕景や夜景が絶景であることを知っている幾人かの人々が、足を止めて夕焼けに染まる街並みを眺めていた。

「うわ〜あ!いつ見てもホント綺麗ね、シンジ!」

「うん・・・。この時間のここからの眺めは特別だからね・・・」

二人は手摺りにもたれ掛かると、暫しの間、その絶景に見とれていた。

立ち並ぶ高層ビル群は、夕焼けに照らされて、その窓ガラスがまるで宝石のようにきらきらとオレンジ色に輝いていた。街全体があかね色に染まっていて、街が本来内包している醜い部分、それらは今はすべて光の内に隠されている。沈みゆく太陽の逆光を受けて、黒く染まった山々と、街のオレンジが絶妙のコントラストを描いて見せていた。

昨日と変わらぬ、静かな夕暮れ・・・。幼なじみ同士で、その何ともロマンティックな雰囲気を十分堪能した後、二人はそこを後にした。そして、今度は公園内に設置されているベンチに仲良く並んで座ると、無言のまま見つめ合った。

「・・・ねぇ、シンジ・・・。また、キスして・・・」

はにかみながらそう言うと、アスカは愛くるしい唇をほんの少しだけ突き出して瞳を瞑った。彼女のその何とも愛おしくなる仕草を見て、シンジはすぐさまその要求に答えるのだった。

「・・・う、うん・・・。じゃあ、いくよ・・・」

少年は互いの鼻が当たらぬように小首を傾げると、目の前のいかにも美味しそうな薔薇色の唇に、そっと自らの唇を重ねた。

ちゅ、むっ・・・。

二人とも唇を閉じたままの、いわゆる『フレンチ・キス』を堪能していると・・・若い二人はそれだけで、ともに想い人とキスしているという実感で満たされてゆくような気がした。

口づけするために身体を寄せていると、アスカの躯からシャンプーかリンス、それともボディーソープ薫りだろうか?何とも素敵な芳香が漂ってきて、彼女の温めたミルクのような体臭と混じり合い、シンジの鼻孔を擽(くすぐ)るのだった。

「・・・ぷはっ・・・」

実際に口づけしていた時間は、ほんの十数秒ほどの間だったが、二人はそれで満足だった。

お互いに恋し、想われているという実感。それさえ確認できれば、もう二人には他に何もいらなかった。

キスを終えると、アスカはその美しい相貌を耳まで赤らめながら、シンジの眼を見つめて言った。

「・・・本当に不思議なものね・・・。あのバカシンジとアタシがこんな風になっちゃうなんて・・・」

「・・・うん・・・」

実際、この二人が毎日この公園に寄る理由は、勿論のこと第三新東京市の夕景を眺めるというのもあった。しかし、こうしてキスをしてお互いの愛情を確認することこそが、本当に主なものだと言えるかもしれなかった。

口づけを終え、一言二言言葉を交わして互いの相手を想う気持ちを確かめ合うと、アスカはそれまで繋ぎ続けていた手を指を絡めるように繋ぎ直した。その手の握り方は、俗に言う『エッチつなぎ』だった。

「ア、アスカ・・・。誰かに見られたら、は、恥ずかしいよ・・・」

シンジが顔を耳まで紅潮させながらそう言うのを聞いて、アスカは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「ふふ・・・。ダーメ!このまま王子様はお姫様を家までエスコートするの!」

少女はそう言った後で元気良くベンチから立ち上がると、繋いでいない方の手でスカートのお尻の辺りを払った。
アスカに手を引っ張られる恰好で仕方なしに立ち上がった少年も、頬を朱に染めながら微笑むと、幾分芝居がかった調子で言った。

「ふぅ。しょうがないな、アスカは。じゃあ、僕の『お姫様』を家までお送りするとしましょうか」

その台詞は、普段のシンジを知る者が聞いたら、間違いなく違和感を感じるか、あるいは耳を疑うだろう。

どちらかと言えば、恋愛に関しては奥手な少年なのに、そんな態度を異性に対して自然にとれるほど、彼女に対してだけは心を開いているという証でもあった。

そして二人は、ゆっくりとした足取りで公園を後にするのだった。



プッ!!プッー!!

公園を出て、幸せな気持ちのまま二人が家路をたどっている時だった。後もう少しで二人の住まいの有るコンフォートマンションが見えてくる筈の街角で、一台のツードアのスポーツタイプの車がクラクションを鳴らした後、二人の脇に停車した。

何事かと驚いた二人が立ち止まってその車を見守っていると、サイドウインドーが開き、中から肩までの長さの金髪が印象的な30歳ほどの眼鏡を掛けた美しい女性が顔を車窓から突き出して声を掛けてきた。

「シンジ君?シンジ君じゃあないの?」

シンジは、すぐさまその女性が誰か記憶をたどった。そして、すぐにその女性がマヤの知り合いである、『赤木リツコ』であることに思い至った。

「あっ・・・。り、リツコさん・・・。こ、こんにちは」

少年がどもりながらそう答えると、リツコは掛けていた眼鏡を外してから言った。

「こんにちは。やっぱりシンジ君だったのね。後ろから見かけただけだったから、確信は無かったのだけれど・・・」

彼女は今度はシンジと手を繋いでいるアスカの方を見ながら言った。

「その子がマヤの言っていたアスカちゃんよね?」

リツコは意味ありげな笑みを浮かべると、まるでじっくりと品物を値踏みするかのように、アスカを見つめた。

「あ・・・は、はい。初めまして。惣流・アスカ・ラングレーです」

気丈ではあるが、この少女は戸惑いながらも、初対面の人に挨拶する程度の礼儀作法は身に付けていた。

「こちらこそ、初めまして。赤木リツコよ。以後、よろしくね」

彼女はそう言うと、またシンジの方を見ながら言った。

「実はね、今日これからシンジ君のお宅にうかがおうと思っていたのよ。でも、こんなところで会うなんて。ホント、偶然ね」

「は、はあ・・・。マヤさんなら、多分家に居ると思いますよ?」

彼がそう答えると、リツコはそれには取り合わずに言った。

「二人仲良く手をつないで歩いているなんて・・・。もしかして、二人は恋人同士なのかしら?」

彼女のその台詞を聞いて、二人はともに顔中を紅潮させると、慌てて繋いでいた手を離した。

「あら、どうやら良いところを邪魔しちゃったみたいね。どう?せっかくだから二人とも車で家まで送っていって上げましょうか?」

「い、いいえ、もうすぐそこだから、歩いて帰ります・・・」

シンジのその言葉を聞いて、リツコは言った。

「そう。じゃあ、邪魔者はとっとと退散した方が良いわね。シンジ君、わたしは先に行ってお邪魔しているから。いい?」

「は、はい・・・」

「じゃあね。また後でね。アスカちゃん、また近いうちに合いましょう」

「あっ、は、はい。さようなら・・・」

彼女は二人に向かって軽く手を振った後、車のウインドーを閉めてから、静かに走り去っていった。

一度離してしまった手を、今更繋ぐことなどできずに、気まずい雰囲気のまま二人はまた並んで歩き始めた。

リツコの登場によって、それまでの幸せな気分に、一気に冷水を浴びせかけられたような気がした。

「なんか、あの赤木リツコさんっていう人、厭な感じだったよね。ねぇ、シンジ」

「うん・・・」

アスカの台詞を聞いて、シンジはそう答えた。

「シンジも見てたでしょう?あの人のアタシを見る目・・・。思い出しただけで寒気がするわ」

彼女がそう言うのを聞いた後で、少年は言った。

「そう言えばさ、リツコさん初対面のはずなのに、アスカのこと知っていたよね?」

「うん。確かこう言っていたわ。『その子がマヤの言っていたアスカちゃんよね?』って・・・」

少女のその言葉を聞いて、彼は暫しの間思案した後、言い出したくはなかったが、確信を突く発言をした。

「・・・ってことはさ、もしかしてリツコさん、あの『旅行』のことも知っているのかな?」

シンジがそう言うと、アスカはびくんっ、と身体を震わせた。

「そんな・・・。嘘っ!あのことをマヤさんが他の人に話すなんて・・・」

「いや、でもそうじゃあなきゃあ、リツコさんがアスカのことを知っているはずなんか無いじゃあないか」

「・・・いやっ・・・!そんなのいやっ・・・!」

アスカは思い出したくない過去から逃れようとするかのように、立ち止まると両手で自らの両肩を抱いた。シンジも彼女と一緒に立ち止まる。アスカの顔は青ざめていて、その躯は小刻みに震えていた。

二人の間に、また暫しの間沈黙が訪れた。沈黙を先に破ったのは、少女の方だった。

「ねぇ、シンジ・・・あの赤木リツコっていう人、マヤさんとどんな関係なの?」

「うん・・・。僕もくわしいことはよく知らないんだけれど、マヤさんのバージンを奪ったのがリツコさんなんだって」

シンジのその答えを聞くと、アスカは言った。

「・・・シンジ・・・。アタシ、なんだかすごく厭な予感がするの・・・」

「僕も・・・。でも大丈夫。アスカには僕がついているじゃあないか」

「・・・うん・・・」

少年の言葉に勇気づけられたのか、少女はまた歩き始めた。その様子を見て、彼もまた歩調を合わせて歩きだす。

二人は共に無言のまま、ゆっくりとした足取りで歩き続けた。互いに心の内に湧き起こってくる、良からぬ想像から逃れようとするかのごとく――。


それからほんの数分で、二人は何時の間にかコンフォートマンションの前までたどり着いていた。

二人一緒にエレベーターに乗り込むと、自分たちの住居が有る階のボタンを押した後で、少年は言った。

「大丈夫だよ、アスカ。きっと何とかなるって」

「う、うん・・・。そうよね・・・」

チーン。

目的の階に到着したことを知らせる電子音が鳴った後、エレベーターのドアが開いた。そして、アスカの家の扉の前までゆくと、二人は立ち止まってから互いの瞳を見つめ合った。

「・・・まだ不安なの・・・。お願い、シンジ・・・。もう一度アタシを抱き締めて・・・」

そう請われて、少年は無言のままこくりと頷くと、少女のしなやかな肢体をそっと抱き締めた。そして、この日二度目のキスを交わすのだった。

ちゅっ・・・。

ほんの数秒の間口づけした後、シンジは名残惜しくアスカの躯を抱いていた手を退けると、念を押すように言った。

「心配しないで、アスカ。また明日も一緒に図書館に行こうね」

「・・・うん・・・。じゃあ、また後で電話するね・・・」

少女はそう言うと、カードキーで扉を開けた後、家の中へと消えていった。


カチャ、プシュー。

少年が家に入ると、玄関先には見慣れない女物のパンプスが、きちんと並べられて置いてあった。

やっぱり、もうリツコさんが来ているんだな・・・。

シンジはそれを確認すると、靴を脱いだ後で言った。

「た、ただいまー」

そして、家に上がり込んだ後、幾分緊張しながらリビングへと向かった。

「お帰りなさい」

「お帰りなさい、シンジ君。先にお邪魔しちゃっていて悪かったわね」

リビングに行くと、マヤとリツコが腰掛けたままそう言って出迎えてくれた。

「・・・い、いえ・・・。いらっしゃい、リツコさん」

彼がそう言うと、マヤはすぐに立ち上がって言った。

「外は暑かったでしょう、シンジ君。喉、渇いてない?」

「え、ええ・・・。少しだけ・・・」

「アイスティーで良い?わたしたちはもう先に頂いちゃっているけれど」

「は、はい・・・。じゃあ、お願いします」

シンジがそう答えると、マヤはキッチンへと歩み去っていった。

マヤが居なくなると、リツコが言った。

「そんなにかたくならなくても良いでしょう?ここはシンジ君の家なんだから。座ったら?」

「い、いえ、取り合えずこのバッグを部屋に置いてきます」

少年はそう答えると、すぐさま自室へ向かった。そして、肩に掛けていたディーバッグを机の上に置くと、思案しながらまたリビングへ向かうのだった。

いったい、何の用があって家にリツコさんが来たんだろう・・・。

リビングへ着くと、丁度マヤがトレイの上にアイスティーを乗せて、キッチンから戻ってくるところだった。

彼女は、テーブルの上にグラスを置くと、またリツコの隣に座った。

もともとここは、勝手知ったる我が家である。シンジは、飲み物の置かれたテーブルの前にかなり緊張しながらも、ゆっくりと腰掛けた。

彼が座ると、リツコは前髪を掻き上げる仕草をしながら話し掛けてきた。

「ふふ・・・。シンジ君から見れば、良い大人が二人もそろって今頃何をしているんだろう、ってところかしら?」

「は、はあ・・・」

シンジが気の抜けた返事を返すと、彼女は言った。

「国連の研究機関ってね、欧米の夏期休暇の基準を参考にして夏休みの期間を決めているの。だからね、一般の日本の企業に比べると、こんなにも長い夏休みがとれるのよ」

リツコがそう言うのを聞いて、彼は頷いた。思い出してみると、確かに幼い頃からシンジの両親は普通の家庭の親たちに比べたら、遥かに長い期間夏期休暇をとっていた。

「っと、話がそれたわね。シンジ君のご両親も、わたしたちと同じ職場に勤めているんですものね。それくらい知っているわね」

彼女はそう言うと、目の前のアイスティーに一口だけ口を付けた。

「じゃあ、回りくどいのは苦手だから、そろそろ本題にはいりましょうか。シンジ君は今、きっとこう思っているはずよね。いったい、何をしにわたしがこの家を訪ねてきたのか?って」

リツコにじっと眼を見据えられてそう問い掛けられて、シンジは頷いた後、答えた。

「は、はい・・・」

少年がそう答えたのを聞いて、彼女は言った。

「実はね、昨日マヤから電話があって相談されたの。とっても可愛い牝奴隷が手に入ったのに、ご主人様がその奴隷のことを恋人だと勘違いしているせいで、調教がなかなか上手くはかどらないって」

――そう、それが、悪夢の再来への序曲だった――


 


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(updete 2003/04/15)