儀式は、最終段階を迎えていた。
床に描かれた、円と、それに内接する星と、複雑な文字のようなもの。
それぞれは天上の芳香たるものだが、あまりに濃密に焚かれ、何種類も混ざっているために堪えがたいものになっている香。
一本づつ違う色の火を灯している蝋燭。
時に朗々と、時に静かに、続けられる呪文の詠唱。
どこか猥褻な身振り。
最後に、一人その儀式を執り行っていた、年齢のわかり難い外見をした男が大声で言う。
「ルふィすテュフゅリフぬ、我が召喚に応えよ!」
…何も起こらない? 失敗したか?
そうではなかった。
淡い光と煙の中から、気の付かないうちに人影が現れていたのだ。幾多の美術品を見てきたカーディムケガンの目にも、その姿は正体に恥じないものに思えた。
寝室に他の色を脱ぎ捨ててきたかのように白い肌。夜のように黒い髪と翼。紅の唇。髪に隠れるほどの長さの二本の円錐形の角。多少予想に外れたのは、全裸ではなく、胸と腰を覆った姿で現れたことだ。
尻を床につけて脚を伸ばして座り、カーディムケガンに向かって艶然と微笑んで見せる。
「私と契約を、ルふィすテュフゅリフぬ!」
女の顔をしたそいつに呼びかけるが、反応がない。
もう一度言おうとした時、そいつが口を開いた。
「駄目よぉ、悪魔の名前を呼び間違えたりしちゃ」
カーディムケガンは冷や汗をかく。怒った声ではなく甘えるような口調なのは、ほっとして良いのか、かえって警戒すべきなのか。
「ルふィすテュフゅリフぬ…」
「だーめ、もう一回。相手によってはこれだけで命取りよ。私はルふィすテュフゅリフぬ、ちゃんと呼んで頂戴」
「ルふィすテュフゅリフぬ、我と契約を」
「やっぱり駄目ね。いいわ、ルフィスとでも呼んで。それで、何の用? なにかして欲しいの?」
体を前に倒し、両腕でたわわな胸の果実を掬い上げるようにしながら言う。
「それとも、何かしたいの?」
やはり自分の選択は正しかったな、とカーディムケガンは思っていた。もっと強力な存在を呼び出す自信も、それに伴う能力もあるが、扱いきれなければ無意味だ。
魔道を極める過程で捨てたものは多くあった。今のカーディムケガンは性交の出来る体をしていない。もともと権力や金品への執着は強かったのに対して女には興味が薄かった。その上、何人もの競争相手を女がらみの罠にかけて蹴落としてきたために、過去に魔界の住人と契約するにあたって“男としての機能”を要求された時、迷うことなく差し出したのだ。
それゆえ、このような存在を呼び出した魔術師の多くが陥る結末に至る危険はないと考えていた。肉の快楽を感じることのない自分が、呼び出したサキュバスの体に溺れて破滅に至る心配はないと。
「ねえ、用がないなら帰っちゃうわよ?」
「待て。ある男の所に行って欲しいのだよ」
「行ってどうするの?」
「いつもしている様にしてくれればいいさ。わかるだろう?」
「はっきり言ってくれなきゃわかんな〜い…あん、おじさんこわ〜い、怒んないで。いつもの様にって言っても、どこまで? 死ぬほどか、死ぬまでか、愛してあげれば良いの?」
「死なせては困る。まずはお前の虜にしてやれ」
「は〜い。じゃあそれで契約しましょ。ま、私はそう言うの煩くないけど」
ルふィすテュフゅリフぬは立ち上がり、翼を隠すと、カーディムケガンのそばぎりぎりまで近寄る。魔法円から出ることは出来ないのである。
結界が解除された途端、その首に絡み付く。
「キスして」
「なんだ?」
サキュバスが比較的簡単に力を貸してくれる連中であることは、魔術師の中では知られていることだ。しかしそれは、始めからこんな風に誘惑してくると言うことではないのか?
「私みたいなのとの契約には必要なのよ」
耳元に囁く。脳天から腰に抜けるような甘い声だが、カーディムケガンには通じない。
しろと言うならすればいいさ…
僅かに重ねるだけですませようとすると、
「けち。もっと…」
と、離そうとしない。胸を擦り付けるようにしながら舌をカーディムケガンの口に入れ、内側中を舐めまわして行く。性交の出来ない体になって以来、こんなことをされても不快にしか思わない…
…はずではなかったか?
ルふィすテュフゅリフぬが離れた時、自分が今、柔らかい肌の感触や舌のぬめりや髪の匂いやを心地よく思っていたのに気づき、愕然とした。
「はい、これで契約成立ね。それで、誰の所にいけば良いの? ちなみに契約内容を変えたかったらいつでも相談に応じるわよ」
「イストン・ディーと言う男だ。ここに住んでいる。因素界から入るなら…」
地図と、複雑な模様の描かれた巻物を広げ、説明する。
非凡な外見をしてはいるが、翼と角を隠したルふィすテュフゅリフぬは、人間にしか見えない。さっきまでの軽薄な口調なども演技に過ぎないのだろうか、いまはずっと落ち着いた態度できちんと必要なことを聞いている。
やがて…
「じゃあ、行ってくるわ。寝台でも暖めて待ってて頂戴」
またカーディムケガンに口付けをし、今回はすぐに離れ、片目をつぶると不透明な液体に沈みこむように消えた。
カーディムケガンはこの時、もう少し唇を重ねていたかったと思ったのだが、今回は、それが自分にとっておかしいことだとは気づかなかった。