第一章「Walkin' On The Moon」

Written by テンプラ









神暦1969年7月20日、オネアミス王国のほぼ全国民がテレビにかじりついていた。
この日、王立宇宙軍がかねてから進めていた“エヴァ計画”の、第一目的にして最大目標である、人類による月への到達が達成されたのである。
予定通り王国東部標準時16日09時32分に打ち上げられた“エヴァ 11”は、地球の引力から脱出して月への軌道に乗り、4日後の20日16時18分、トール=オストゥビとハシム=ベイの両宇宙飛行士が搭乗した月着陸船は、無事に月面上“静かの海”に軟着陸した。
これは人類が初めて地球外天体への到達を果たすという快挙であり、また王国首脳や宇宙軍にとっては、有人宇宙計画において、1960年以来初めて共和国連邦宇宙局に対して決定的優位に立つことを意味していた。
翌21日未明に人類初の月面遊歩が予定されていたが、予想以上に順調に飛行・着陸が行われたため、王立宇宙軍司令本部管制局は予定よりも早く、搭乗員による船外での活動許可を出した。
これにより20日深夜には人類初の月面遊歩が試みられることとなり、その模様は船外カメラの映像を中継して国営放送で生放送されることになっていたので、国営放送局は急遽予定を繰り上げて特別番組を組んだ。
もちろんこの放送は全世界にも中継され、オネアミス王国をはじめ全世界の人々が、その記念すべき瞬間をいまかいまかと待ち構えていた。
















オネアミス王国東南部の都市ネルフ。もともと小さな町だったが、“ヤシマ計画”始動にともなって、宇宙軍本部がマガツミより1954年に移転して以来、王国宇宙計画の中心地であり、また宇宙軍の施設を目当てに多くの観光客が訪れる観光の街である。人口は約120万人、その大半は宇宙軍や技術提供を行っている企業と王立科学アカデミーの関係者、そしてその家族である。
















シンジ=イカリ王立宇宙軍少佐は、ネルフ郊外の住宅地にある自宅に向けて、車を走らせていた。この日は仲間の宇宙飛行士とその家族を家に招いて、オストゥビとベイの月面遊歩の中継を見ながら、一緒に“エヴァ 11”の快挙を祝うことになっていた。すでにみんなシンジの家に集まっているはずである。


「すっかり遅くなっちゃった。アスカ、怒ってるだろうなぁ……」


16日の“エヴァ 11”打ち上げ以来、街は報道陣によってすっかり占拠されていた。昼も夜も記者やカメラマンが往来をうろつき回り、宇宙軍関係者は、出勤の途中だろうが散歩の途中だろうが捕まったら最後、最低半マールはインタビューに答えなければならなかった。
シンジも祝杯用の白葡萄酒を買って店を出たところで報道陣に捕まり、口々に質問を浴びせかけられて、先程ようやく解放されたところだった。
時計はもうすぐ20時30分を回ろうとしている。今頃アスカは、大勢の客相手にてんてこまいになっていることだろう。
シンジは、以前アスカを怒らせたときのことを思い出して、これ以上命を危険にさらさないよう、車の速度を上げた。
















シンジの自宅は、すでに非番の宇宙飛行士とその家族の面々が集まっており、とてもにぎやかだった。みんなグラスを片手に思い思いの場所に陣取って、ある者はゆったりとくつろぎ、ある者は周囲の人間と談笑している。


「まったく、あいつらがうらやましいよな……」


その壁に飾られている数々の月面の写真を眺めながら、ケンスケ=アイダ大尉はそうつぶやいた。


「ああ、せやな……」


隣に立ったトウジ=スズハラ大尉が同意した。


「でもうらやましがることはあらへん、いずれ俺らの番や」


手に持ったグラスを軽くあおる。


「予算削減もまだ本決まりなわけやあらへん、軍も最悪“14”までは上げるやろ」
「そうだな……」


そして二人は壁の写真に眼を戻した。
その月面の写真は、シンジが“エヴァ 8”に搭乗して、人類初の月周回軌道を回ったときに撮影したものである。
そのほかに様々な写真が壁に飾られていた。シンジがゲルマニアに留学していたときの写真。水軍兵学校時代の写真。シンジとアスカの結婚式の写真。水軍航空隊時代の写真。“アダム計画”の宇宙飛行士に選抜されたときの写真。“アダム 7”での初飛行から帰還したときの写真。“アダム 12”での飛行の後、国王より勲章を賜ったときの写真。“エヴァ 8”搭乗のための訓練を受けているときの写真。写真と一緒に雑誌が一冊飾られている。シンジ・マトス=トェイン・コルテス=ラクアナの“エヴァ 8”の搭乗員たちがその表紙を飾っていた。帯に『今年話題を作った男たち』と書かれている。
しばらく写真を眺めていたケンスケは、ふと一枚の写真に目をとめた。少年時代のシンジの写真だった。ほかに少年が二人、シンジと一緒に写っている。ひとりは眼鏡をかけ、もうひとりは黒いジャージを着ている。


「見ろよ、トウジ」


ケンスケはトウジを呼ぶと、あごで写真のほうを示した。


「ベストクルーだぜ」


そう言ってニヤリと笑う。


「おお、えらい懐かしい写真やないけ」


写真を見てトウジはつぶやいた。
一緒に写っているのは、もちろん少年時代のトウジとケンスケである。
それは三人が初等学校の最高学年の頃、彼らが“三バカトリオ”という、一般的にはありがたくないが、彼らにとって名誉な呼称で呼ばれていた頃に撮られたものだった。写真の右上のほうに、現在はトウジの妻であるヒカリの顔が半分隠れて写っている。ほかに少女が2、3人写っていることから、ヒカリたちを被写体にシャッターが切られる瞬間に“三バカトリオ”が前に割り込んだもののようだ。三人とも「ニッ」という擬音がピッタリの笑顔を浮かべていた。


「遅い、バカシンジ! いったい何やってたのよ!!」


リビングのほうからアスカの怒声が聞こえてくた。ようやくシンジが帰ってきたらしい。
必死で弁解するシンジの声とアスカをなだめようとするヒカリの声がする。
トウジとケンスケはくすりと笑った。








「あ、ふたりともここにいたんだ」


アスカの怒声が一段落してからしばらくして、シンジはトウジたちのところにやってきた。


「よお、管制局の様子はどうやった?」
「みんな、もぉピリピリしてるよ。タバコぷかぷか吹かすもんだから、管制室の空気が濁っちゃって、もう息苦しいのなんのって、5分以上いてられないくらいでさぁ……」


しばらく管制局の阿鼻叫喚ぶりを話題に談笑していたが、やがて、


「ところでシンジ、この写真……」


と、ケンスケが例の写真を指し示した。


「ああ、それ……」


シンジは少し照れたような笑顔を浮かべて、写真の収まった額を壁から外して手に取った。


「この三人で班を組むことが決まったとき、家中をひっくり返してこの写真を探し出したんだ」


そう言ってシンジは写真を懐かしそうに眺めて目を細めた。


「やっぱりすごく嬉しくってさ、トウジとケンスケと組んで宇宙を飛べるなんて……」
「……せやな、俺にとっては、この三人で飛ぶのが初の宇宙飛行になるんやもんな、たしかにこたえられんわ」


シンジ・トウジ・ケンスケの班は、今回の“エヴァ 11”の予備搭乗員を務めていた。
また、彼らは“エヴァ 14”の正規搭乗員に指名されており、予定通りに計画が進めば、三人は来年10月に“エヴァ 14”で打ち上げられ、月面においてあらゆる観測を行うことになっている。
トウジにとっては初の宇宙飛行である。
ケンスケはすでに“エヴァ 7”で“エヴァ計画”初の有人飛行を果たし、次で2回目の飛行である。
シンジがふと背後の窓ガラスに眼をやると、三人が写真と同じ順番に並んで映っていることに気がついた。


「ふたりとも、ほら」


シンジが指差したほうと見ると、写真の三人がそのまま飛び出して窓ガラスに映っている……
一瞬そんな錯覚に陥りそうになる。
しばらく三人とも微笑をたたえながら無言でガラスに映った自分たちの姿を眺めていた。
やがてケンスケが満足げにこう言った。


「なっ! やっぱり俺たちは王立宇宙軍のベストクルーだよ!」








テレビの電源が入れられ、チャンネルは国営放送に合わせられた。
みんな画面の前に集まってくる。
子供たちは、すでにテレビの一番前に陣取っている。誰かが子供たちを、そんなに近づいてテレビを見ると眼に悪いから、もう少し下がりなさい、とたしなめた。だが子供たちは、そんな言葉などどこ吹く風とばかりに、眼をキラキラさせて画面に見入っている。
子供たち以上に眼を輝かせているのが、宇宙飛行士たちだった。彼らはともすれば子供たちを押しのけて、自分たちが一番前に陣取りたさそうだが、一応理性ある大人なので行動には出さず、ちょっと下がったところで画面を見ていた。
番組は始まっていたが、中継はまだのようだった。画面では、“エヴァ計画”の軌跡つづったドキュメンタリーが流されているところだった。“エヴァ初号機”の打ち上げ演習中に、火災が発生して搭乗員たちが焼死したこと。以来“エヴァ弐号機”から“エヴァ 6”まで、無人によるテスト飛行を余儀なくされたこと。“エヴァ 7”で計画初の有人飛行を成功させた直後、“エヴァ 8”で史上初の月周回軌道の飛行に成功したこと。といった、この日“エヴァ 11”が人類史上初めて月面に到着するまでの軌跡が、やや大仰な演出で描かれていた。
やがて画面はネルフにある宇宙軍管制局からの中継に切り替わり、管制室の様子が映し出される。
そして王国東部標準時20時48分、月にいる“エヴァ 11”の月着陸船から、搭乗員の船外活動の準備が整ったという通信が入り、管制局は活動の許可を出した。
20時56分、ついに月着陸船のハッチが開いたという通信が入り、画面は月からの中継に切り変わる。
画面が天然色から白黒に切り替わり、月着陸船の脚と梯子らしきものを映し出した。その後ろには白い大地が見える。梯子の上のほうには、宇宙服を身につけた人物が動いているのが見える。オストゥビであろう。


『船外カメラはどうだ、ハシム?』
『いま調整する』


画面が少し下に動いて、梯子の下の地面が見えるようになった。


『よしバッチリだ、トール、降りていいぞ』
『OK、いまから梯子を降りる』


画面の上のほうからゆっくりとオストゥビが梯子を降りているのが見える。
やがて画面の中ほどまで来ると、彼はそこで止まった。
そして受信状態が少々悪いせいで、音がわれてやや不明瞭なオルトゥビの声が聞こえた。
















『いま梯子を降りきった』
















『地表は非常に細かな砂に覆われている……』
















『月着陸船の脚は……その細かな砂に2〜3ナンほど埋まっている』
















ナレーションが、38歳のオネアミス人が人類で初めて月の上に立ったことを告げる。








さらにオストゥビは続けた……
















『この私の一歩は非常に小さいものですが……』
















『……人類にとって非常に大きな飛躍の一歩です』
























シンジは庭に出て月を見上げていた。
すでに日付は7月21日に変わっていた。
月からの中継が終わった後、用意した白葡萄酒で祝杯をあげて、ひとしきり盛り上がった。それから真夜中を過ぎてようやく宴もひけ、みんなそれぞれに帰っていった。


「酔ったの、シンジ?」


シンジが振り返ると、そこにはアスカが立っていた。
この日の彼女は、ゆったりした淡い桃色のワンピースを着ていた。
自慢の赤みを帯びた黄金色の髪を後ろに下ろし、ワンピースと同じ色のカチューシャを付けている。
真夏の空を思わせる蒼い瞳。
アルコールが入っているせいか、頬がほんのりと赤い。
それが思わずドキリとしてしまうような美しさを醸し出していた。
シンジは一瞬そんな妻に見とれていたが、あわてて返事を返した。


「あ、ああ、どうも白葡萄酒は飲みなれなくって、はは・・・」
「あたしもよ。あれって口当たり良いからついつい飲み過ぎちゃうのよね……ふふ」


そう言ってアスカは、シンジにしか見せたことがない極上の笑みを浮かべる。
だがそれも周囲を見回した瞬間、めんどくさそうな顔に変わる。
花壇のブロックの上に飲みかけ、あるいは空のグラスが5つ6つ乗っかっているし、芝生の上には空瓶が数本転がっていた。家の中には、さらに多くのグラスや瓶や皿などが、そのまま放置されている。


「ハァ〜、片づけがめんどくさいわねぇ……ね、このまま家を売っ払っちゃおっか?」


アスカはちょっとのあいだため息をついていたが、次の瞬間には悪戯っぽい笑みを浮かべ、上目遣いにシンジを見る。それがことさら彼女を幼く見せた。
シンジはそんなアスカを愛しそうに眺めた。
怒ると生来の気の強さとプライドの高さから手がつけられなくなるが、こういう可愛らしい一面を持つアスカが愛しくてならない。


「はは、いいよ、片づけは明日僕がやるから……」


シンジは、いつもアスカが見惚れてしまう優しい笑顔を彼女に見せてそう言うと、再び月に目を向けた。
アスカは笑みを浮かべたまま、まるでステップを踏むような足取りでシンジのほうへ歩いてくる。


「今頃さ……」


月を見上げたまま、シンジはアスカに話し掛けた。


「……連中は、月からこっちを見てるんだぜ」
「オストゥビ夫人は今夜は眠れないわね……」


シンジのすぐ後ろに並べられた、2つの折畳み寝台の片方に身体を横たえながら、アスカは答えた。


「あたしもそうだったから……」


そのときのことを思い出したのか、アスカはちょっと不安そうな顔をする。
シンジは振り返るとアスカのそばまで行き、安心させるように彼女の頬に触れた。
頬をなでられてアスカが安心した顔をすると、シンジも彼女の隣の寝台に横たわった。
その眼はまっすぐに月を見据えている。
アスカはそんな夫の顔にうっとりと見とれていた。


「人類が月を歩いた……」


月からアスカに顔を向ける。


「なんか夢みたいな話だけど……実際、僕らが子供の頃は宇宙へ出ることすら本当に夢物語だったけど……事実、人が月を歩いたし、僕も宇宙飛行士としていずれ歩くんだもんな、なんか信じられないよ」


また顔をアスカから月へ戻し、しばし黙って月を見据えた。


「僕が乗った“エヴァ 8”は……月の上空60レーンまで近づいた」


やがて月を見据えたまま再びシンジは語りだした。
アスカは黙ってシンジの言葉に耳を傾けている。


「60レーンって、実際の距離にしてみればかなり遠いけど……そのときは、すぐ手が届く距離のような感じがしたな……」


シンジの眼はまるで子供の眼のように輝いていた。


「……このまま宇宙船から降りて、すぐにでも月の上を歩けるような気がしたよ」


またしばらく黙って月を見つめる。
やがてシンジは瞳に強い光をたたえて、ぽつりとつぶやいた。


「また行くぞ……絶対に……!」


ずっと月ばっかり見てかまってくれないのがちょっとくやくしなって、アスカは夫に声をかけた。


「ねぇ、あたしの山ってどこにあるの?」


彼女の言う“あたしの山”というのは、シンジが“エヴァ 8”で月周回軌道を飛行中に発見した、それまで未確認だった稜線の一角である。彼はこの発見を喜んで、最愛の妻の名のミドルネームをそのままその山に付けたのだった。


「ん? ああ、それは……」


夢から醒めたかのように、シンジはアスカに応えると、月を指差して説明を始めた。


「ほら、あそこの少し陰っているところがあるだろ? あの灰色の部分、わかる? あれが“静かの海”……で、その縁のところがギザギザの稜線になってて、それの一番端っこにあるのが“ラングレー山”、アスカの山だよ」
「……見えないわよ」


月の間近まで行って初めて発見されたような山だから、肉眼で見えなくて当然である。
もちろんシンジもアスカも、もちろんそれくらいのことはわかって言っている。
ただ単に言葉でじゃれあっているだけだ。


「見えない? もっとよく見なきゃ」


シンジはそう言って笑うと、自分の寝台から降りてアスカのほうへ寄っていく。
シンジが妻が空けた隙間に寄り添うようにして横たわると、アスカはうれしそうにシンジにしがみついて身体を預けた。
シンジはアスカの肩に腕をまわすと、もう一度月を指差して促した。


「アスカ、ほら、よく見て……」
「……ん〜ん」


もうアスカは月など見ていなかった。しっかりシンジの身体に腕を絡ませて、幸せこの上ないといった顔で頬擦りしている。


「ねぇ、アスカってばっ」
「んふふふ……」
「アスカ、ほら見てよ」
「やぁ〜よ、あたしはこうしていたいのっ」


シンジはちょっと苦笑すると、両腕でアスカをやさしく抱き寄せた。
アスカもシンジの身体にまわした腕にきゅっと力を込める。
そうしてその夜、満天の星空の下、二人はいつまでも抱き合っていた。
















そんな二人を見下ろすように、月は優しい光を投げかけていた……
















...To Be Continued.



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