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風に吹かれた砂が、踊るように、戯れるように人の視界を覆っていく。きめの細かい砂
の霧は、折しも昇ったばかりの日の光に煌めき、この世ならぬ美しさを現出させた。
夜の闇が、昼の光に取って代わられる刹那の自然の芸術。
この美しさは、自然の厳しさの裏返しに過ぎない。これより先、日が高く昇るにつれ、
暖められた風は、より苛烈に吹き荒れる。砂ももはや、その凶暴性を隠そうとせず、石と
共に侵入者達を打ちすえる。
砂漠は苛烈な土地なのだ。なかんずく、人間にとって。風と、砂と、石が全てを飲み込
み削り取っていく。
玉華は、この風景を見る度に、朝を迎える度に何かに許しを請いたいような気分になる。
圧倒的な大地の力。それは、隊商の一行を率いるという重圧に、ともすれば押しつぶされ
てしまいそうにもなる彼女のまだ幼さの抜けきらない感性に、ある種の敬意と神性への憧
憬を抱かせていた。
彼女は思う、過去この地を旅した幾千幾万の人々も、このような想いと共に砂漠と相対
したのであろうか。そして、遙かな未来においても人は砂漠を畏れ敬うのであろうか。
彼女は知らない、知る由もない。後世、人はこの道をシルクロードと呼び、危険を冒し
ながらも、貴重な異国の品を文化を情報を流通させた彼女ら隊商を冒険商人と呼んだ。
砂が勢いを増す頃には、一行は眠りにつく準備をほぼ終えている。この地を住処にする
民族や他のキャラバンは知らず、玉華の一行はこの不毛な大地を渡る準備と経験に欠けて
いた。
総勢約450名の内、この地に足を踏み入れたことのある者は、わずか12名にすぎな
い。その数少ない一人であり、玉華の補佐役でもある宇文節が夜間に行動することを提案
したのだ。
理由はいくつかある。
一つには、砂漠は昼夜の温度差が激しく、昼間は灼熱の地であっても夜間は涼しく意外
と過ごし易くなる。さらに、暑熱の激しい昼間は大規模な上昇気流と共に激しい風が吹き
荒れるために、慣れない者が進むのは非常に困難となる。であれば、昼間は出来るだけ体
力の温存のために睡眠をとった方が良いという事になる。
そして、もう一つ。夜間に行動する理由として星を見る必要性があった。砂漠では風に
よって地形が刻々と変化していくため、目印となりうる地形がない。ただ漠然と東西方向
に進むだけならばそれでも良い。だが、元々彼らは進路をさらに南に取り、天竺で船を調
達して、海路南宋へと向かう予定であった。というのも、一行は当時中国の西方にあった
遊牧民族の国家である西夏を避けるつもりであった。そして、それには海路が都合が良か
ったのだ。
ところが途中の戦乱に巻き込まれ、戦場を避けていくうちに、いつの間にか一行は当初
の予定を外れ砂漠へと迷い込む羽目となったのである。元々、砂漠越え等を想定してなか
った一行は、立ち寄る村々で交易によって装備を集めた。
戦乱の地を戻るのは至難の業である。ならばいっそ、砂漠を西夏の勢力地を迂回しなが
ら進んでみようというのだ。それには緯度を正確に測る必要がある。そしてこの時代、夜
空の天測以外にその方法は無い。
こうして、一行の砂漠越えは始まった。
夜間に行動することのデメリットがないわけではない。その最たるものが、暗闇のなか、
はぐれてしまうことであった。そのため宇文節は夜間行動の提案者として、はぐれてしま
う者がないよう、常に気を配ることとなった。
さらにこの砂漠越えにはまだ問題がある。
食糧の補給だ。先に述べたように、一行は砂漠に半ば迷い込んだようなものであり、当
然食糧の補給に関して目処など立っていなかった。食料は何とか倹約するにせよ、水に関
してはそうもいかない。そう遠くないうちに水を補給する必要に迫られるのは明白であっ
た。
こうした困難を抱えた彼女たちがその城塞都市にたどり着いたのは、この砂漠に足を踏
み入れてほぼ1ヶ月。水も食料も窮乏の気配が見え始めてよりのことであった。
玉華は馬上で目を細めながら、昇りゆく朝日を背に輝く城壁を見つめていた。夜間の行
軍に慣れた目に、それはいささか眩しすぎる。
彼女は今、判断を下しかねていた。残りの生活物資の量を考えれば、都市で交易をして
補給する必要がある。だが、彼女たちは自分が今どこにいるかを正確には把握してはいな
かった。
緯度は天測によって判別できても、経度についてはこの時代正確な測定方法はまだ存在
していない。慣れぬ砂漠行で思うように南下できてない今、もし、彼女たちが予想以上に
東に来ていたのなら、目の前の都市が西夏のものである可能性は高い。そうであったらど
うするか。
それを少女は決めかねていた。
彼女一人のことではない、その決定は一行の命運に関わることである。
「宇老大、どうしたらよいでしょうか。」
老大というのは、年長の男性に呼びかけるときの敬称で日本語で言えばおじさんと言っ
たところか。宇文節は、玉華の今は亡い父親の親友であるため字よりもそういう呼びかけ
のほうがしっくりとくる。
だが問いかけられて彼も又、首をひねった。なんと言っても判断すべき材料が少なすぎ
る。正直なところを言えば、まず都市に入ってみて問題があれば切り抜ける。武進士たる
彼だけであるならばそれは可能と思えた。だが、それではいかにも粗雑すぎる。
「はて、如何いたそうか。」
さしあたっては首をひねるだけである。
その彼に呼びかける者があった。
「士豊殿。ここにおられたか。」
士豊とは、彼の字である。宇文節は、その癖のある発音にすぐに呼びかけた相手に気が
ついた。
「おお、ルカス殿か、いかがなされた。」
ルカスと呼ばれた男は、巨漢であった。宇文節も武進士として、数多くの武人達を知っ
ているが、彼はそのどれにもまして大きい。しかもただ大きいだけでなくバランスがとれ、
引き締まった体躯は、その身に想像を絶する瞬発力を秘めていることを物語っていた。
事実、幾度かの戦いにおいて彼の武芸が比類無いものであるところを目の当たりにして
いる。ただ、人間的な面白味にちと欠ける、というのが宇文節の評価であった。
「護衛隊の点呼、終了した。」
宇文節の評価を知らずにルカスは淡々と報告をした。冒険商人とはいえ、450名全員
が常時武装しているわけではない。これだけの規模のキャラバンともなると、村が一つ移
動するようなものだ。妻を娶り、子をなしている者も少なくない。450名のなかには、
そういった純粋な非戦闘員であったし、元々彼らは商人である。
それでも、護衛部隊の数は250名に達し、これはちょっとした軍隊であった。決して
練度は高くないものの、指揮者であるルカスはよく率いている。
「さすがルカス殿。よく兵を統率している。」
宇文節は、素直に感嘆の声を出した。10年前であれば、彼は武進士として或いはルカ
スに対抗心を抱いたかもしれない。だが、四十路を越した今、息子のような年齢のこの青
年に対して実の息子のように接していた。
「いや、それよりも都市に入らないのか?」
その質問は宇文節にではなく、玉華に向けられたものであった。
「それが・・・・」
玉華は手短に事情を説明した。
「なるほどな。」
「それで、ルカスはどうしたらいいと思う?」
問われて彼はしばし思案げに眉を寄せてみた。
「斥候を出してみたらどうだ。少人数でゆけばさほど問題もあるまい。」
言われてみればもっともな話であった。
「それに、斥候隊を出すのなら俺が適任だろう。紅小姐と士豊殿は何かあったときのため
に本隊で待機してもらわないとな。」
気負うでもなく、淡々と分析するルカス。対して玉華は、ためらいがちに聞き返した。
「じゃあ、行ってくれるか?」
「承知した。隊の人選は任せてくれ。」
夜通しの行軍の疲れも見せずに、ルカスは踵を返した。
その後ろ姿を見やって、宇文節は顎をなでた。そして、子をなさなかったことを少しだ
け後悔していた。だが、家族がいなかったからこそ、この無謀とも言える冒険に参加した
のだ。
世の中っていうのはわからねぇな。
感慨に耽る彼は、隣で玉華が切なげな寂しげな表情をしているのに気付いていなかった。
・・・・・続く
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どうも、前回の投稿からずいぶん間が空いてしまった(笑)GM−Xです。
遅くなりましたが、30万アクセス記念のオリジナルの第一幕です。
残りの部分も何とか今月中に仕上げられるよう鋭意執筆中です。