パパゲリオン

第五話Aパート

作・ヒロポンさま

 


 

パパゲリオン 第五話Aパート

 

 

 

ざっぱーーーーーーーーーーん

海。砂浜。すこーんと抜けた青い空。

「さあ行けよ、彼女が待ってる」

そのすかした言葉に黙って肯いてみせると、男はおもむろに砂浜の上を駆け出した。

グッグッと砂を踏みしめてかけて行くその先には、白い人影。

しばらくして、その人影も男に向かって走り出す。女性だ。白のワンピースが目に眩し

い。

なびく黒髪。ぐんぐんと狭まる二人の距離。

男との距離が縮まった所で、女性の爪先が、砂の上を離れた。

ものすごい勢いで男の胸に飛び込んでいく。

グワシッ

そのままの勢いで抱き合う二人。

そして、男の方が女性を胸に抱える形で、二人はクルクルと回り出した。

遠心力で宙に浮いた女性の爪先が、打ち寄せる波の上をかすめていく。

 

 

 

 

「くる、くる、くる、くる、くる」

ユイカは口をとんがらかせて、画面の中の恋人達が回る回数を正確になぞっていた。

そのあどけない行為に、シンジの口元に覚えず笑みが浮かぶ。

現在、時刻は五時四十八分。

二人は、居間のソファに並んで腰掛けて、仲良くドラマの再放送を見ていた。

「ねぇ、パパ」

画面の中の二人が回転を止めて、濃厚なキスシーンを繰り広げ始めた所で、ユイカがシ

ンジに声をかけた。その目線は、じっと画面に釘付けになっている。

「なにユイカ?」

なんだか落ち着かない気分になっていたシンジは、ユイカが言葉を発した事に心底ほっ

とした気分を味わいながら、返事を返す。その右手は、落ち着かない様子でみずからの

太股をポンポンと叩いている。ユイカが座る側にある左手は、不自然な直線を保って、

膝頭をぎゅっとつかんでいた。

「こういうシーンってよくあるけど、実際、ああいう風にくるくる回っちゃうものなの

かなぁ?」

「えっ、うーん。どうなんだろう」

ユイカのパパは、元来律義な性格なので、他愛のない質問にも真剣に考え込んでくれる。

「やっぱり、勢いがついてるから、その勢いをそらす為に回っちゃうんじゃないかなぁ

、クルクルって」

「そうなのかなぁ」

心持ち首をかしげるようにして、シンジの方に向き直るユイカ。

何事か思い付いたのか、その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「ねぇ、パパ」

シンジの左手に自分の手を重ねながら語り掛ける。

「なっ、なにかな?」

繊細な顔をぎこちなく軋ませながら、何気ないそぶりを気取るシンジ。

温泉旅行をきっかけにして、以前よりずっと近くなった二人の距離。その距離が、シン

ジの中に新たな問題を発生させていた。つまり、なんというか、父親である彼が、自分

の娘にしばしば女を感じてしまうのである。

なにしろ、ユイカは母親であるアスカに似すぎていた。シンジは、戸惑いながらもユイ

カの父親としての自分を認識していたが、父親としての役目を果たそうとか、父親らし

くあろうとかいう風に考える事はしなかった。あくまでシンジはシンジとして、ユイカ

に対していた。碇シンジはまだ十四歳。等身大の彼は、ユイカの父親としての役柄を、

自分に溶け込ませるすべをもっていなかったのである。

ユイカは、そんな父親の胸の内を知ってか知らずか、父親譲りの瞳に楽しげな色を浮か

べながら、その薄い唇を開いた。

「実験してみようよ!」

「実験?」

「うん」

勢いよく肯いてみせるユイカ。思い付きで行動する所は母親譲りだ。

シンジはその瞳を覗き込むようにして、じっと固まってしまった。

テレビの音だけが、やけに大きくリビングの中に響いている。

「バカ」

その声に思わずテレビを振り返るシンジとユイカ。ドラマの予告の中で、先ほどの女性

が、抱き合っていた男性をひっぱたいていた。どうやら、あの二人は、次回で別れるら

しい。

思わず会話を止めて見入ってしまった二人は、いかにも意外な展開だという風に互いの

顔を見合わせた。

 

 

一分後

玄関へと続く廊下に二人の姿はあった。

ユイカは、キッチンへと続くドアの前に、シンジは玄関を背にして向かい合うようにし

て立っている。

ユイカもシンジも裸足だ。

「じゃあ、いくね」

見るからにやる気まんまんのユイカが右手を上げて、そう宣言した。

「本当にやるの」

思わず娘の脇の下に目をやってしまったシンジは、誤魔化すように今更ながらの発言を

ゴニョゴニョと口にする。

あまりに小さい声だった為に、ユイカには良く聞こえなかったようだ。

ユイカは両手をシンジの方に差し出すようにすると、歓喜に満ちた表情を顔に貼り付け

て、おもむろに駆け出した。

「パパー」

「………ユ、ユイカー」

感情のこもらない平板な声音で答えながら、自らもユイカに向かって走り出すシンジ。

膝頭のカクカクとした気の抜けた動きが、気乗りのしない彼の心を如実に表していた。

−さっきのシーン、お互いに呼び合ってたっけ……

そういう疑問が彼の脳裏をかすめる。

タッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ

しかし、一歩一歩ユイカに近づく毎に、シンジの足取りはしっかりとしたものになっ

ていった。体を動かしている内に、その気になってきたのだ。

−なんでこんなことしてるんだろう。

そんな疑問が少しずつ剥がれ落ちるように消えていく。

狭い廊下での事、二人の距離はあっという間に縮まった。

嬉しそうにシンジに飛びつくユイカ。

ヒシッ

抱き合う二人。女の子らしい甘い香りと、あの頃のアスカよりちょっと小さ目の胸の感

触。シンジは自然にユイカを抱えるようにすると、その場で回転し始めた。

クルクルクルクルクルクルクルクルクルクル

もはや、『勢いがあったから』というような推論など、二人にはどうでも良い事になっ

ている。

「ユイカ」

「パパ」

改めて互いを呼び合って見詰め合う二人。回転を止めても、じっと抱き合ったままだ。

年齢が同じ。身長も同じ。傍から見ると、仲の良いカップルにしか見えない二人であっ

たが、自分達でも、時々無意識の内にそう言う錯覚をしている事に彼らは気づいていな

かった。

「やっぱり、クルクル回っちゃうものなんだね」

白い頬を真っ赤にさせて、初々しくそう口にするユイカ。その視線は、シンジの瞳から

やっと外されて、はずかしげに俯く形で、父親の胸元に注がれていた。

結果として、シンジは、ユイカの頭の天辺をじっと見詰める事となる。

「うん」

ユイカのつむじに目をやりながら、肯いて見せるシンジ。その頬にもユイカと同じで、

朱がさしている。

−良い匂いがする

シンジは、その香りに誘われるように、そっとユイカの頭を抱えるようにした。シンジ

の唇が、自然とユイカのつむじに押し当てられる形になる。

突然の行動にユイカの顔がビクッとあがった。しかし、彼女は、不意に湧きあがった自

分の感情に戸惑って、問い掛けるその視線を父親の顔まで上げる事が出来なかった。

ちょうどシンジの鎖骨の辺りに、戸惑うような目線を向ける。

………………………

気持ちよさと、漠然とした不安感とがない交ぜになった感情が二人の間を流れていっ

た。触れ合った肌と肌から、相手の感情が流れ込んできて、二人は、互いに同じ不安感

を抱いているという事に気がついた。

最初に、動いたのはシンジだった。そっと、ユイカの体から身を引くと、ばつが悪そう

に笑いかけてみせる。その笑顔に釣られるようにして、ユイカもこわばった頬をほぐす

ように柔らかい笑顔を浮かべた。

空気は変われども相変わらずの沈黙。

停滞した時間を動かしたのは、ユイカの母親兼シンジの奥さんである所の女性の声であ

った。

「なにやってるの、あんた達?」

ビクッと声の方を振り向く二人。

アスカが、玄関に立ちすくんで、二人の事を不審げに見詰めている。

「「おっおかえり」」

ぎこちない親娘のユニゾンが、やけに明るい玄関に響き渡った。

 

 

 

 

キッチン

ユイカは、ぷぅと膨れた顔で、もくもくと夕食の支度をしていた。

今夜のメニューは、シーフードパエリアだ。シンジと二人で相談して、シンジと二人で

買い物をし、シンジと二人で作るはずの物だった。

フライパンの上にバターを放り込み。生の米をいためる。

食欲をそそる香りがキッチンの中に充満していった。

その芳香にあてられても、彼女の不機嫌そうな表情は少しも崩れなかった。

ふと手を止めて、玄関へと続くドアを睨み付けるユイカ。

彼女の不機嫌の原因は、そのドアの向こうからもれてくる物音にあった。

 

タッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ

ガタ、バキ、ドタッ

「いったーい、ちょっとシンジ、ちゃんと受け止めなさいよ!」

「無理だよ、アスカ!僕よりアスカの方が大きいんだから」

「なんですって!」

「アスカの方が受け止めれば良いじゃないか!」

「どこの世界に、自分の旦那を抱きしめてグルグル振り回す女房がいるって言うのよ!」

「にょ女房なんて、古臭い言葉良く知ってるねアスカ」

「話し逸らさないでよ!」

「ごっ、ごめん」

「もう、簡単にあやまんないの……はい、もう一度よ」

「まだやるのー」

「当然!」

 

ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ

ため息一つ。

あれから二人に事情を聞いたアスカは、当然のように自分も実験したいと言い出したの

だ。

実験結果は、あんまり芳しくないようだったが、二人の研究者は、それでも熱心にその

作業を続けている。かれこれ三十分も……………

タッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ

ガタ、バキ、ドタッ

ベチャ

「ア、アスカ重いよー」

「なんかいった?」

「なんでもないです」

また失敗したらしい。

−なにやってんだか、この夫婦は

ユイカは、あきれたように首を振ってみせると、止まっていた手を再び動かし始めた。

キッチンにテキパキとした作業の音が、心地よく響き渡る。

広めのキッチン周りを歩き回るたびに、少し大き目のスリッパがぱたぱたとした音を立

てた。

手際良い動きの中で、料理は順調に形になっていく。

一度止まったペースが戻ってきたその時に、電話の呼び出し音がなった。

ユイカは、軽く水で手を洗うと、エプロンの前でぬれた手を拭いて、受話器を手に取っ

た。

「はい、惣流ですが」

「ユイカ?赤木です」

「あっ、リツコおねーさん」

電話の相手を赤木リツコだった。近頃丸くなってきたとは言われているものの、リツコ

は基本的に、同僚とのプライベートでの付き合いをもたない、気難しい女性である。

ユイカもその事を知っているし、めったに電話など掛かってこないので、一寸怪訝な顔

をして応対する。リツコは、ユイカの硬い声音を気にした風もなく、簡潔にその用件だ

けを伝えた。

「アスカいる?」

「ママ?はい、少々お待ちください」

ほっとしたように保留ボタンを押すと、ぱたぱたと廊下の方に走り出す。

ユイカは、料理を再開しだした頃からやけに静かになってしまったその向こうを気にす

るも事なく、ドアを勢いよく開け放って、廊下に半身を覗かせた。

「ママ」

声をかけた口元が、カチッと固まる。

ユイカが覗き込んだ時、二人は蛍光燈の明かりの下で、重なり合うように倒れ込んでい

たのだ。なんというか………キスをしながら……………

突然掛かった娘の声に、慌ててはなれる二人。アスカは、ちょっとたくし上がっていた

スカートを慌てて直し、シンジは口元についたキスの痕跡を右腕で乱暴に拭い取った。

「……………なにしてるの?」

埴輪のような無表情で、わざわざ問いただしてみせるユイカ。分かっているくせに、

案外人が悪い。シンジがサルベージされてから今日までの内に、彼女はずいぶんと図太

くなっていた。理性で状況を認識しながら、直接的な想像を自分の意識からカットする

すべを彼女は学んでいた。良く出来た娘である。

「ははっ、転んじゃった」

母親としての立場上、一応の言い訳をしてみせる。ただ、その言葉は、どうしてこうい

う状況になったのかを説明したに過ぎなかった。

案の定ユイカは

−倒れ込んだ勢いで、あんなことしてたのね

などと言う感想を持つことになった。面目も何もあったものではない。

「電話」

先ほどのリツコよろしく、簡潔に用件だけを伝えるユイカ。手に持った受話器をアスカ

に差し出す。

「あっ、うん」

アスカは、言葉になってない言葉で気持ちを切り替えると、可愛い一人娘から目をそら

して、さっとかっぱらうように受話器を受け取った。

「もしもし、あっリツコ」

相手が分かった途端にその瞳が曇る。

「パパ!」

ユイカは、咎めだてするように父親を呼ぶと、シンジの右腕をさっと掴んで床からたち

上がるのを助けた。

「痛いよ、ユイカ」

なんでこんなにびくびくしてるんだろう、などと思いながらも、ぶすっと膨れっ面のユ

イカに引っ張られるようにして立ち上がったシンジは、まるっきり、話を逸らすだけの

為にユイカに電話の相手の事をたずねた。

「誰?」

「ああ、リツコおねーさん」

シンジを睨み付けていた目線を、ちらっとアスカの方に向けて、そう答えるユイカ。

その視線が再びシンジに戻った時には、目元にあった険はすでに消えていた。シンジの

質問を受けて、さっきママが「もしもし、あっリツコ」って言ってたじゃない、と思わ

ない所が彼女のいい所である。

二人はなんとなく電話を続けるアスカの様子をぼうっと眺めていた。

「……本気よ。……だって、もう、決まっちゃたもの。………レイに聞いてみなさいよ」

彼女らしくない歯切れの悪い受け答え。

「何かあったのかなぁ」

シンジは、アスカの事を心配げに見詰めながら、そうユイカに問い掛けた。

アスカを見詰めるシンジの様子に、さっきの光景を思い出してしまったユイカは、再び

不機嫌な気分をぶり返して、ぷいっとそっぽを向き、

「知らない」

とだけ答える。

勢いよく振った頭につれて、腰の辺りまである滑らかな髪が、軽くそのしっぽを振った。

可愛い……それだけに厄介な女の子である。

ふぅー

シンジは、心の中でそっとため息を吐いた。

そんな二人に目をむける事もなく、アスカは電話の向こうにいる相手との会話を続けて

いた。

「えっ?………大丈夫よ、一,二年で戻るから。……………そうよ、今回はわがままを

通させてもらうわよ。…………どういう意味よ。いつ私が!…………………そう、

……………………………………ごめんね、リツコ。……うん、ありがとう」

「アスカが謝ってる」

「ママがお礼を言ってる」

思わず、顔を見合わせる親娘。

アスカは、一言二言会話を続けた後で、ピッと通話をきった。

思い出したように二人の方に目をむける。そして、何事かとアスカの顔を見詰めている

ユイカに向かって、

「なんでもないわ。大丈夫よユイカ」と優しく笑いかけた。

アスカはそのまま視線を横にずらして、シンジを見詰めると、これまたにっこりと微笑

んで口を開いた。

「ふっふっふっふっふっふっ、シーンジ明日から学校ね」

美しい顔がほころぶと、意外なほどに可愛い素顔が現れる。あの頃のままの笑顔。

その

笑顔に強い既視感を呼び起こされていたシンジは、自分の想いを大切になぞるようにして彼女の顔を見詰めながら、おざなりに口を動かした。

「あっ、うん」

「あぁ、明日が楽しみだわ」

アスカは、シンジの答えをたいして聞きもせずに、体の正面でぎゅっと手を握りあわす

と、どこか明後日の方向を見詰めながら、そうのたまった。

彼女は、言うなりドアを開けると、おそらく着替えをする為に寝室の方に向かって行く。

「どうして、アスカが楽しみなんだろう?」

「さあ?」

不思議そうにアスカが入っていったドアを見詰めている二人。

やがてそのドアの向こうから、波乱の匂いと共に、料理のこげる匂いが、ゆっくりと漂

ってきた。

 

 

 

****************************************

 

 

 

翌朝。

「ユイカ、それとって」

「はい」

ユイカは、シンジの声にすぐに反応して、“それ”を渡した。“それ”というのは、

塩のこと。以心伝心、仲良し親子。……………普通であれば、そう見える所であるが、

この親子の場合はちょっとばかり違っていた。

学校の制服の上にお揃いのエプロンを着けて、仲良く朝食の支度にいそしむ二人。こっ

ぱずかしいその光景に、惣流アスカ・ラングレー嬢(28歳)は、軽く眉をひそめてみ

せた。

ウッウン!

わざとらしい咳払い。

どんな時でもどんな場所でも、自分の感情を表に出してアピールする事やぶさかでない

彼女は、自分の娘に嫉妬しているという奇妙でこっけいな心の状態を、彼女らしくない

婉曲なやり方で表現してみせた。

しかし、反応なし…………

「パパこれ」

「あっありがとう」

わきあいあいのふたり。

そんなに二人が気になるのなら、自分もその中に加わって料理すればいいものなのだが

、いかんせんアスカは料理が苦手だった。

気を引くことをあきらめたアスカは、頬杖をして、面白くなさそうに二人のことを見る。

ふわぁ

不意におそってきた、大きなあくび。

大口を開けて両手を挙げるアスカ。ピンっと伸ばされた背筋と、じわっと湧きあがっ

てきた涙が、彼女の気分を変えさせた。

涙で滲んだ視界にはシンジの背中。十四年前の生活の中で何度も見たその風景を、アス

カは突然思い出した。ちらっと自分の着ているタンクトップをつまんで見る。その後、

アスカは改めてシンジとユイカの背中を交互に見比べた。あの頃自分が着ていた制服と

多少デザインは異なるもののユイカも同じような制服を着ている。

−あの頃…………私も手伝っとけば良かったなぁ……………

あくびとは違った涙が、目の中にじっくりと湧きあがってくる感覚を彼女は感じていた

。シンジがいなかった時間の流れを彼女は思い出していた。女として一番輝いていた時

期を一番大切な人に見せられなかった事が、どうしようもない焦燥感を伴って彼女の心

に悲しみの波紋を広げていく。

「シンジ」

耐え切れなくなって思わず声をかけた。

「なに?」

手元を動かしながら答えるシンジ。アスカの声に含まれる微妙な震えは、せわしない朝

の空気の中に溶け込んで彼の耳には届かなかった。

アスカは、逆にそのことに感謝した。今の自分の幸せに影を落とすよう考えを、じっ

くりと自分の中にあるシンジへの想いに溶け込ませていく。

「懐かしいわねぇ」

口に出したその言葉に、最前の発言に含まれていた震えはなかった。

「なにが?」

「その制服」

シンジが見ていない事を承知の上で、アスカはわざわざ指差してそう言ってみせる。

「そうだね」

シンジは、ちらっと自分の胸元に目をやって、エプロンからはみ出した制服を眺めた後

、やっとアスカの方を振り向いてそう答えた。はにかむような優しい視線がアスカの上

に注がれる。全てを知ってくれているように誤解させる、シンジのその視線を受けて、

アスカの頬が見る見る紅潮していく。馬鹿みたいな話だが、今二人は、改めて互いに相

手を恋していた。

「ほんと、懐かしいなぁー。私も着ちゃおうかな制服」

じっとシンジの事を見詰めながら、悪戯っぽくそう言ってみせるアスカ。

「ママ……」

さっきから二人のやり取りを黙って聞いていたユイカは、さすがに振り返って、呆れた

ような視線でアスカを見る。彼女は心の中で、ママならやりかねない、と思っていた。

ユイカは、そのまま視線をシンジに向けて、ちょっとの間硬直してしまう。

シンジは、陶然とした表情でアスカの事を見詰めていた。彼の頭の中では、ユイカと同

じ制服を着て自分の胸にすがりついてくるアスカのイメージが渦巻いていた。「いいか

もしれない」、まだあどけない顔をだらしなくゆるめながらシンジはそう思った。

そのシンジの妄想を蹴散らしたのは、横にたたずむ娘の一喝だった。

「パパ!」

ブンと音がしそうなくらいの速さで、ユイカの方を向くシンジ。あからさまな膨れ面と

睨み付ける視線の強さを受けて、シンジの頬にチーッと汗が流れる。ちらっとアスカの

方に視線を向けて救いを求めるが、アスカはアスカで娘が恐いのか、新聞を読むふりを

しながら事態を静観していた。

「そろそろ、た、食べようか」

シンジはユイカに引きつった笑いを返すと、視線をうろうろとさまよわせながら、やっ

とそれだけを口にした。

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、行ってくるね」

玄関先に、ユイカと並んで立つと、シンジはそう口にした。

「うん」

その言葉を受けて、アスカは、さりげなく手を伸ばすと制服の襟元を直してやる。別にずれてないのになんて思いながらも、ユイカは、なんだか初々しい両親のやり取り

をほほえましそうに見詰めていた。次に起こる光景を見るまでは…………

ユイカの見守る前で、アスカは、少しかがみ込むようにすると、襟を直していた手をシ

ンジの首筋に回した。シンジの方もそっと背中に手を回すとぐっとアスカの事を引き寄

せる。そして、ゆっくりと二人の唇が重なった。

さすがに子供の前であると言う事を考えているのだろう。唇を合わせるだけのキス。

前の晩にベットの中で、二人で打ち合わせをして決めた事だ。強硬に行って来ますのキ

スは深いキスにする事を主張したアスカをシンジがなだめる形で決着がついていた。

と言っても、アスカとて、ユイカの前で教育的によろしくない事はしないつもりでいた

ので、そう言うやり取りも結局の所、ベットの中で行う二人のリクリエーションであっ

たのだが…

−仲良きことは、っか…………………にしても……うちの両親は、ちょっとねぇ

二人から目をそらして、玄関マットの上にあるスリッパをボーッと眺めているユイカ。

そろそろかなっという頃合いで顔を上げると、

「じゃあ、行くねママ」

と言ってシンジの腕を掴み、そそくさと玄関の扉を開けた。

アスカは、戸惑っているのか照れているのか知らないが、焦ったようにちょろちょろと

動くユイカの仕種に微笑みながら、二人の背中に「いってらっしゃい」と言葉を返す。

開け放たれたドアが閉まるまでの間、わずかな隙間からかいま見えた空は、見事な青。

二人を見送ったアスカは、その空の青をうつし込んだような瞳に、喜色を浮かべると、

スキップをしながら奥の部屋に入って行った。

「さぁて、私も準備しなくっちゃ♪シンジィー、楽しみにしてなさい!」

動き出す日常。楽しげなアスカの声が部屋の中に響き渡った。

 

 

Bパートにつづく

 

パパゲリオン5A