鏡〜mirror〜

 

作・Keiさま

 


 

そこにあるのは、水。

 

 映る。

 

 そこにあるのは、鏡。

 

 映す。

 

 想いを映す。

 

 それは、鏡。

 

 

 

 『鏡 -mirror-』

 

 

 

 伝わるのは言葉。

 伝わるのは感情。

 伝えるのは想い。

 

 少女は静かに振り返る。

 そこには、一人の少年がいた。

「…どうしたの?」

「あ、いや…その…」

 うろたえ、言葉を失う少年。

 少女は立ち止まったまま、少年の言葉を待つ。

「僕はこれから帰るんだけど…綾波は?」

「私は…あと少し…ここにいるわ」

 囁くような小さな声。

 だが少年は、そんな少女の言葉を聞き逃さない。

「そっか。じゃ、また明日」

 優しく笑うと、少年は手を振って歩き出そうとする。

「さよなら…」

 少女も小さく別れの挨拶をする。だが。

「駄目だよ、綾波」

 不意に難しい表情を浮かべ、少年は少女に注意する。

「さよならじゃなくて、また明日、だよ」

 その口調は、咎めるよりも悲しそうだった。

「…また明日。碇君」

 そして俯いたまま、少女はそう言い直す。

「うん。また明日。綾波」

 少年は嬉しそうに笑うと、そのまま歩き出した。

 その後ろ姿をじっと見つめ、少女は悲しそうに呟く。

「…どうして…?」

 それは、自分をヒトとして扱う少年への問いかけ。

 だがその答えを少女は知りたくはなかった。

 知ってしまえば、少女は今までのように居られなくなる。それを知っている

から。

 

 

 

「鏡…」

 自分を映し出す姿見。

 映し出されたのは、銀色の髪と白すぎる肌。

 そして鮮紅色の瞳。

 そして思う。

 何故彼は、自分を人として扱うのか。

 ここにいる人間は、皆自分を道具として扱う。

 そしてそれが当たり前だった。

 だが、あの少年は自分を見てくれた。

 人として。

 一人の人間として。

 だから、知られたくない。

 自分が人と異なる事を。

「…どうして、言えないの?」

 鏡に映る自分がそう尋ねる。

「……碇君が恐がるわ」

「違うわね」

 自分の解答が即座に否定される。

「あなたが恐いのよ。彼が自分を、他の人のように道具を見るような目で見る

のが」

 辛辣に、そして直線的に鏡に映った自分は少女の内心を突く。

「あなたは所詮、道具でしか無いのよ。それが人になりたいだなんて、それが

間違いよ」

 冷たい言葉。

 そしてそれは、少女が生まれた時から思い続けていた事だった。

「でも…私は人になりたい」

 彼と共に生きたい。

 彼の傍に居たい。

「でも、あなたは化け物よ」

 冷たい言葉は、ナイフのように少女の心をえぐる。

「私は…化け物なんかじゃない…」

「いいえ。あなたは化け物よ。自らの意志で死ぬ事すら出来ない、無限連鎖す

る命の持ち主。これを化け物と言わずに、何と言うの?」

 鏡に映る少女の口元が、卑らしく歪む。

 三日月のように、弧を描く。

「彼も、あなたの正体を知れば逃げ出すに決まってるわ」

 断言される言葉。

「違う…。碇君はそんな人じゃない…」

「彼だって、所詮は人間よ」

 人間は、自分以外の存在を忌み嫌う。

「彼が違うと、何故言い切れるの?」

 ゆっくりと鏡の中の少女は笑う。

「あなたは、『彼』の何を知っているというの?」

 近付く事すら恐れ、触れ合う事すら出来ない。

 そんな少女に。

「何が分かるの?彼の事が」

「…碇君は…優しい人…」

「それは彼が、あなたを人だと思ってるからよ」

 冷たく突き放される言葉。

「真実を知れば、彼の視線もあなたの事を化け物を見る目つきに変わるわ」

「違う…違う…違う…」

「何が違うのかしら」

「私は……」

「心なんか、無いくせに」

 鏡の中の少女の笑顔は、より卑らしく変化していく。

 口の端はどんどん三日月型のように釣り上がり、その紅の瞳はどんどん、変

化の無い、ただの硝子玉になっていく。

 体もどんどん細り、不格好な、不自然な体つきになっていく。

「ほら、これがあなたの本当の姿よ」

「違う!!!」

 少女の絶叫と共に光の壁が現れ、鏡の中の自分が突如ひび割れた。

 そして砕ける。

「……違う…」

 床に散らばる鏡の破片。

 その場で、少女は自分の顔を覆った。

 

 

 

 冷たい雨。

 何も見えない銀線は、少年の視界を覆っていた。

「…まいったなぁ。これじゃ帰れないよ」

 鞄の中には傘は無い。

 ゲートから駅までは、多少距離があった。

 ため息をつくと、少年は踵を返した。

「仕様が無いか。もう少し本部にいよう」

 自分のIDカードを取り出し、先程出てきたゲートに戻る。

 だが、少年は少しだけ浮かれていた。

 これで、あの少女ともう少しだけ、一緒に居られる。

 そう考えていたから。

 

 

 

 少女は廊下を静かに歩いていた。

 いつものように無表情のままで。

 不意に、立ち止まった。

 そして視線を向けるその先には、一人の少年の姿があった。

 自動販売機コーナーに、一人で座っている少年。

「…あ、綾波」

 少女が声をかける前に、少年が気付いた。

 そして微笑みかける。

「…碇君…どうして?」

「雨が降っててさ。それもひどい降りなんだ。僕、今日は傘持ってきてなかっ

たから、それで雨宿り」

 優しく答えてくれる。

 そして少女は不意に思い出す。

 先程の鏡の言葉。

『あなたは化け物よ』

『何が分かるの?彼の事が』

『心なんか、無いくせに』

 繰り返される言葉。

 少女は自分の肩が震えるのを自覚した。

「綾波…?」

 少年が立ち上がり、自分に近付いてくる。

「どうしたの?綾波。…具合でも悪いの?」

「……なんでも…無い…」

 少女は必死にそれだけを答える。

 だが、心の中では先程の言葉が乱反射していた。

 自分の足場が突如硬度を失ったかのように、揺れるような錯覚。

 そのまま倒れる少女。

 少年が慌てたように少女の体を支える。

 意識を失った少女を、少年は困った顔で抱きかかえていた。

「えっと…綾波?綾波!」

 名前を呼んでも反応は返ってこない。

「…どうしたの?シンジ君」

 背後からかけられた声に一瞬驚くが、それが赤木リツコだと知って少年は胸

を撫で下ろした。

「リツコさん。綾波が!」

「レイが?どうかしたの?」

「なんだか急に倒れて…どうしたら良いのか…」

 心底狼狽した表情を浮かべる少年と、その腕に抱えられている少女を見た赤

木リツコはインターフォンを手に取った。

「医療室?今すぐ検査の準備をして。それと人を。ブロックD−02よ」

 テキパキと指示をし、リツコは少年の腕に抱えられた少女に近付いた。

「…ふむ…外傷は無いわね。シンジ君。レイが倒れた時の状況を教えて」

「綾波…大丈夫なんですか?」

「検査しないと分からないわ。それよりも、早く教えて」

「えっと…話してたんです。そしたら急に…」

「倒れた?」

「はい」

「そう……」

 ちょうどそこに到着する救護班。

 リツコはそれだけを呟くと、走ってきた救護班に指示を出した。

「すぐにレイを医務室に。シンジ君。いらっしゃい」

 リツコの言葉に従い、少年はおとなしく付いていく。

「綾波……」

 少年の心配そうな瞳は、担架に乗せられた少女に向けられていた。

 

 

 

 少年は心配そうな表情を浮かべ、落ち着かない様子で椅子に座っていた。

 何度も自分と部屋を区切るドアを見ては、ため息をつく。

 そんな時、ガチャ、とドアが開いた。

「あ、リツコさん」

 中から出てきた赤木リツコを見て、少年は立ち上がる。

「綾波…どうなんですか?」

「心配ないわ。異常は無し。多分、何かの精神的ストレスか何かよ」

「え?」

「張り詰めていた何かが途切れて、気を失ったのね。心配はないわ」

 それだけを言うと、リツコは歩き出そうとする。

「ああ、シンジ君。レイはもう大丈夫だから、帰っても良いわよ?雨も止んだ

ようだし」

 そんな言葉に、少年は首を横に振った。

「いいえ。綾波が起きるまでいます。…心配だし」

「……そう」

 一瞬形容し難い感情がリツコの瞳を彩る。

 だがそれも一瞬で消え、リツコはわざとおどけたような口調でこう言った。

「それにしても…さっきのシンジ君。まるで奥さんが出産するのを待ってる旦

那さんみたいだったわよ」

「な!?何言ってるんですか!?」

 真っ赤になる少年。

 リツコはそれを見てもう一度笑うと、歩き出した。

「それじゃ、レイをよろしくね。旦那様」

「リツコさん!」

 背後の少年の言葉を聞いてリツコは微笑む。

 そしてその後、その顔に暗い色が浮かぶのだった。

 

 

『人間じゃないくせに』

『化け物』

『心なんか無いくせに』

 乱反射する言葉。

 違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。

違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。

 私は……私は……。

 言い返したい。

 だが言い返せない。

 少女の言葉なのだ。

 少女が常に思っている事なのだ。

 言い返せる訳が無い。

 だが、少女は思い浮かべる。

 一人の少年の顔。

 彼は、彼だけは私を見てくれる。

 人間として、見てくれる。

 遠くから、自分を呼んでくれる。

「綾波」

 それだけが、私を救ってくれる。

「綾波」

 私を見て。

 私を認めて。

「綾波!」

 ………碇……君……。

「綾波!!」

 

 少女は目を覚ました。

 自分の耳元で、誰かが自分を呼んでくれた。

 そう思えたからだ。

 そして少女の視線は自分の横で、心配そうに自分を見つめる少年の顔を認め

た。

「碇…君?」

「……良かった。うなされてたから…」

 少年はそれだけ言うと微笑む。

「何処か具合悪いところ、無い?」

「…無いわ…」

 少女はそれだけを答える。

「…そっか…」

 少年は安心したように、そう呟いた。

「…どうして…?」

「え?」

「どうして…此処に居てくれたの?」

 少女はそう呟く。

 

 何故、化け物の私の傍に居てくれたの?

 

「…綾波が心配だったから」

 少年は優しくそう答える。

「……そう」

 呟くような言葉。

「もう少し眠ってなよ。僕が付いてるから」

 優しく、少女の手に触れる。

「……うん」

 少女はそれだけを言うと、また目を閉じた。

 そして、静かな寝息が漏れ始めた。

 少年は、そんな少女を優しく見つめ、そして小さく歌を歌い始める。

 それは子守り歌。

 少年が幼い頃に、母親が歌ってくれた歌。

 

 

 

「あなたは化け物よ」

「あなたの正体を知れば、彼だってあなたを優しく扱ったりしないわ」

「そうよ。あなたはニンゲンじゃ無いのだから」

 違う…違う…違う…違う…違う!

 私は人間よ。

 私は化け物なんかじゃない。

 私は……。

 

 不意に伝わる温もり。

 私の手に誰かの温もりが伝わる。

 

 ……暖かい。

 

 さっきまでの私の言葉は、今はもう聞こえない。

 ただ、この暖かさに包まれて、私は眠る。

 

 

 

 ひび割れた鏡に映った『私』が、最後に言ったあの言葉。

「あなたは、あの人が『好き』なのよ」

 あなたは私。

 私はあなた。

 鏡に映った私の言葉は、即ち私自身の言葉。

 

 

 

 すうっと、視界が明るくなる。

 目を開いた時、私の横には彼がいた。

 椅子に座ったまま、ウトウトしている彼を、私は見つめる。

「……碇…君…」

 私の呼び声に、彼は目を覚まし私を見た。

 そして笑ってくれる。

「綾波。具合はどう?」

 そして気遣ってくれる。

「…もう…大丈夫」

「そっか。じゃあ、帰ろうか?」

 私はうなずく。

 そして起き上がる。

「大丈夫?」

 手を差し伸べてくれる碇君。

 私はそっと彼の手に掴まる。

「さ、帰ろう」

 私たちは揃ってゲートから出る。

「晴れたみたいだね」

 碇君はそう言って笑う。

 彼がそうするように、私も空を見上げる。

 藍色の夜空と、それを彩るように星々が散らばる。

 そして私たちを優しく照らす『月』。

 私たちは並んで歩く。

 私たちの背後には、寄り添った私たちの影が伸びる。

 影の距離は、今の私たちよりも近付いていた。

 私の心の距離のように。

『あなたは彼が好きなのよ』

 もう一度思い出す。

 鏡に映った私の言葉。

「……私は……彼が…好き……」

 小さい呟き。

「え?」

 振り返る碇君。私は何も言わずに顔を振った。

「……何でもない」

 私たちはそのまま何も話さずに、駅までの道を歩いた。

 月に照らされながら。

 

 

 

 鏡-mirror- 了

 

 

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 ども、初めまして。Keiと申します。

 こちらには初投稿になります(と言うより、一つにしか投稿してないだけ)

 めぞんEVAの参号館A04号室に棲息しておりますので、もし、このお話

がお気に召しましたら、一度おいで下さいませ。

 それでは。

                        1997.11.9 Kei


 

みゃあレイちゃんの感想らしきもの。