【昏き褥】

第一話

作・天巡暦さま


闇。

天空には、昏い輝きをたたえる真赤な満月が、その虚ろな輝きで、周囲に、狂気を振りまいている。

その狂気を一身に浴びるかの様に、小高い丘の上に古い大きな館が聳えたっていた。

枯れた森に、まるで抱かれる様に、周囲を囲まれ、崩れかけた石壁が、舘の内と外をかろうじて隔てている。

そして、正面の傾いた鉄門から始まる小さな小道が、その館と、外界をつないでいる。

細く、途切れがちな小道。

そう、たった一台の馬車がやっと通れるだけの細い小道が、まるで、母と子を結ぶ、臍の緒の様に、外界との交流を保証しているのだ。

だが、そんな外界との唯一の絆である、この小道も、かつては、太く、整備されていたのか、森の中に、古い道標が、ひっそりと建っている。

風化して、刻まれた文字も読めないほど古い、この石造りの道標が、まだ、真新しい頃には、この道も賑わいを見せていたのだろう。

だが、今となっては、この小道は、使われなくなって久しく、土埃が山積し、荒れ果てていた。

かつては刻み込まれていた轍の跡も、土埃に埋もれ、まるで、失われた道のように、徐々に、路面が周囲の地面と同化していく。

そんな中、古い館は、過ぎ去った、過去を懐かしむかのように、その姿を、蔦の中に埋め、錆びた鉄門に刻まれた乙女が、赤い錆びの涙を流しながら、時折吹く、突風を受けては、揺らぎ、哀しげに泣き叫ぶ。

そう、災いを告げる、嘆きの精霊の叫びの様に。高く、細く。そして、耳に残って、忘れ難い声で。

館の前庭の噴水に立つ、崩れかけた、ニンフ達の像が、かつては、この舘が、華やかであった往時の名残を止めている。

その噴水の周囲を取り巻き、正面の鉄門へと続く、石畳は、歳月のみが為しうる技で、朽ち果て、そのあさましいあばたの姿を、月光にさらしていた。

広い庭園に配置され、数多くの客の目を和ませたであろう薔薇の花壇は、荒れ放題となり、かつて、”それ”が、持っていた気品と、麗姿に代わり、寒々とした、気だるい妖艶さを得て、咲き誇り、その毒々しい生命を謳歌している。

そんな舘の荒れ様を、嘆くかの様に、花壇の脇にたつ、ブロンズの聖母像の眼が、雨で溶け出し、涙の様に、緑白色の筋が目尻から零れていた。

なんと、惨い事か・・・・・。

栄華を誇ったであろう、この舘を、何者をも、ねじ伏せる、『時』という魔物が、酷薄に、そして執拗に、食い荒らしていく。

荒れ果てた庭園内に、僅かに見える四阿は、天蓋が崩れ、それを支えていた柱も、大地に倒れ伏していた。

舘の四隅に立つ、塔は、かつては、この舘が、城塞としての機能を持っていた事を物語るも、その内3つまでが、無惨な屍をさらし、最後の一つも、歳月の重みに耐え兼ねるように、表面の漆喰等が剥がれ落ち、肋骨の様に石組みをさらしている。

良く見ると、舘のそこかしこに亀裂が入り、その亀裂を、隠すかの如く、蔦が舘を覆っていた。

 

 

突然、鉄門が、きしるような叫び声をあげながら、開閉し、一台の馬車が入ってくる。

燐の様に輝く眼を持つ、逞しげな体躯の黒毛の馬に牽かれた豪奢な馬車。

4頭だての立派な馬車であるが、不思議と、ひづめの音も聞こえず、石畳を駆ける、車輪の音も、馬のいななきも聞こえない。

御者席に座る、妙に虚ろな眼をした御者が、掛け声も掛けず、ただ、軽く手綱を引くだけで、馬達は、その馬頭を巡らしていく。

どこか、宙に浮くような印象を受ける、その馬車は、ゆっくりと噴水のまわりを周回しながら、舘の玄関口の大扉の前に止まる。

やがて、降りてきたのは、初老の”紳士”。

秀でた額に、鷲の様に鋭い面差し。

頑固そうな鼻に、良く手入れされた髭。

その、煙るような灰色の瞳が、見る者を不安に陥れるような、剣呑な雰囲気を漂わせる。

そう、伝説の邪視の様に。

やや白いものが、その、頭髪や、髭にも現われていたが、見かけ以上に年ふりた雰囲気を漂わせ、高いシルクハットと仕立てのよい外套が、如何にも、良く似合っている。

そして、王族にすら匹敵する程の気品が、醸し出され、命令する事になれた者特有の傲慢さが、全身から、滲み出ていた。

ふと、”紳士”は、心持ち、空を見上げ、にぃと笑う。

その笑みは、”妄執”と言う名の、何かにとりつかれた者のみが持つ、微笑みだった。

微笑む”紳士”の両目には、天空の紅い月が写っていた。

そう、まるで、瞳の様に。

やがて、彼は、扉のノッカーを鳴らす。二度、三度と。

大扉が、きしみながら、僅かに開かれ、”紳士”を飲み込んでしまう。

”紳士”が入った後、再び、大扉は、何事もなかった様に、きしむ音をたてながら、閉じられた。

 

数多くの賓客を迎えたであろう、玄関ホールに釣り下げられた、大シャンデリアには、蜘蛛の巣が張り巡らされ、玄関ホールのそこかしこに、ケープの如き網の先が結び付けられている。

ただ、僅かに、いくらか、ともされた燭台の光が、玄関ホールを照らし出す。

仄かな光に、白絹の様に、美しく輝く、蜘蛛の網。

そんな中で、幽鬼の様に影の薄い男が、”紳士”に近づき、自己紹介した。”執事”であると。

”執事”は、”紳士”の来訪を歓迎する言葉を呟いた。陰陰と。

だが、”紳士”は、その言葉に感銘を受けた様子もなく、”例の場所”への案内を命じた。

逆らうでもなく、傍らの燭台をもつと、舘の奥へと、歩きはじめる”執事”。

彼の持つ、頼りなげな光を放つ燭台の後を、”紳士”はついていく。黙々と。

彼らは、長く真っ暗な廊下を延々と歩き、やがて、地下室への階段を、降りていく。

黙々と螺旋階段を、降り続ける、二人。

靴底が、階段を降りる度に、足音が反響し、耳朶に染み入るように、残っていく。

耳朶に音が染み付く度に、”紳士”の心を、ある考えが去来する。

この階段に、終わりは、あるのだろうかと。

やがて、最下層。

そこは、広々とした、空間。

”紳士”が乗ってきた馬車が、そのままで、数台も入れそうなほど、広い空間。

中央の道の両脇には、石造りの棺が並び、正面には巨大な十字架が壁に刻み込まれ、祭壇の様になっている。

部屋中にならべられた棺には、生前の棺の主の姿が、生き生きと彫られ、その足元に、主の名が記されたプレートが彫り込まれている。

その棺の表面に刻まれた文字を”紳士”は、次々に確認してゆく。

どのくらいの時間が、たったのだろうか。

不意に、一つの棺の前で、”紳士”は立ち止まった。

震える指で、棺に刻まれたプレートをなぜながら、スペルを確認していく。

棺の石蓋に刻み込まれた数字は、この棺の主が、100年以上も前に、納められた事を示していた。

興奮で、真赤に紅潮する顔に、笑みを浮かべる”紳士”。

力いっぱい、”紳士”は押す。棺を封じた重く、冷たい、石蓋を。

やがて、床に転げ落ちる石蓋。

床の上で、真っ二つに割れ、振動が、部屋中に響き渡る。

棺の中には、胸に十字架を押し当て、黄金の細い鎖で、身体を縛られた姿で眠る、一人の美しい”少女”。

時の顎門による破壊から、免れたかの如く、生前の姿をそのまま止めていた。

射干玉の如く、艶やかな長い黒髪と、白磁の様に透き通った白い肌。

優美な眉のライン、すっきりと、通った鼻筋、紅く艶めかしい唇。

夢見るような表情が、その顔に浮かんでいる。

その華奢な身体を、金属の王とも呼ばれる黄金の細い鎖によって、蛇が巻きつく様に縛られている。

僅かに、鎖が身体に食い込むさまが、見る者の心に、痛々しさを誘わずには、おかなかった。

それは、まるで、時が止まったかのような姿であった。

彼女を見つめ、滂沱する、”紳士”。

涙が、彼の頬を伝い、”少女”の服を濡らす。

その”紳士”の目の前に、”執事”が、古びた、鏨と金槌を差し出した。

涙を拭おうともせずに、受け取る、”紳士”。

やがて、”紳士”は、少女を縛る、黄金の鎖を鏨で断ち切ると、”少女”の、胸に押し当てられていた十字架を、まるで、汚物でも扱うか如く、放り出す。

”紳士”の靴底で踏みにじられ、砕かれる十字架。

そして、鎖と十字架から開放された”少女”を抱き上げ、再び、暗い階段を上がっていく。

”少女”は、生きている人間の様に、死体特有の突っ張りもせず、四肢をぶらつかせている。

けれども、”紳士”には、わかっていた。

彼女の胸の鼓動も、肺の拡縮も、全く見られない事が。

 

もとは、大規模な宴に用いられたであろう、大広間。

この部屋にも、時は、その爪痕を残していた。

壁を飾るタペストリーは色褪せ、古い見事な意匠が施された、壁飾りには、幾つもの亀裂が生じていた。

本来なら、豊富な光を提供するであろう月光を、遮るかのごとく、年代物のカーテンによって、その窓やテラスへの大窓扉は、閉ざされ、採光の余地を無くしていた。

天井から吊られた、大シャンデリアにも、光はない。

ただ、部屋の四方に、立てられた多肢燭台の僅かな蝋燭が放つ、仄かな光が、大広間に光を与えている。

その仄かな光が照らし出したのは、広間の中央に描かれた奇怪な文様が施された、巨大な円陣と、その周囲に点在する、いくつかの小さな円陣。

部屋の四隅の香炉と、天井から吊られた香炉。

そして、大きな長櫃が、5つ。

その、円陣の周囲には、先ほどの”執事”が、”紳士”を待っていた。

”紳士”は、”執事”に尋ねる。準備の首尾を。

”執事”が、長櫃を指して、肯くと、”紳士”は、満面に笑みを浮かべ、円陣の一つに、抱きかかえていた”少女”を横たわらせた。

慈しむように彼女の頬をなで、その髪に、恭しげに口付けをする。

そして、”少女”の顔を見詰めながら、”紳士”は、優しげに微笑んだ。

その顔には、期待が満ち、どこか、透明な微笑みだった。

 

”執事”が差し出した、異様な衣に”紳士”は着替えると、”執事”に命じ、天井から吊るされた香炉と、部屋の四方に配された香炉に火を付けさせる。

たちまち妖しげな香の匂いが部屋中に充満しはじめる。

”執事”が、逃げるように、大広間を出ると、後には、”紳士”と、死せる”少女”が残った。

”紳士”は、円陣の一つに入り、右手に吊り香炉をもち、左手で、紋様を空中に刻み、異様な響きの言葉を、高らかに紡ぎだした。

紡ぎだされる言葉は、ある時は低く、ある時は高く、独特の複雑な韻に満ちていた。

朗々と紡ぎだされる声が、大広間の総てのものに、あたかも、砂漠に吸い込まれる水の様に染み入り、独特の響きを奏でてゆく。

それは、どこか、大聖堂に響く讃美歌のようでもあった。

やがて、周囲に硫黄のような、鼻をつく異臭が匂いはじめる。

”紳士”の紡ぐ声が強く響き渡るにつれ、匂いは強くなっていく。

同時に、巨大な円陣の中央に陽炎が立ちはじめる。

その陽炎を認めた”紳士”は、より一層声を強くする。

異臭は、ますます激しくなり、不意に、ガラスを割るような硬質な、音が響いた。

その瞬間、円陣の陽炎は、消え、跡には、一人の人物が立っていた。

瀟洒で、古風な身形。

そして、闇の様に黒く長い髪と、暗く、熾火のように陰惨に光る瞳。そして、真紅の唇。

整った、美しい顔立ちには、凄絶なまでの妖艶さと、物憂げで、退廃的な雰囲気が同居している。

何よりも、”彼”には、絶対者のみが持つ、侵し難い威厳と、覇気が溢れていた。

”彼”は、”紳士”を見ると、その唇の端を僅かに歪め、微笑みの形を作る。

そう、その整った顔立ちからは想像もできない、酷薄な微笑み。

まるで、獲物を見つけた、大蛇の微笑み。

”紳士”の面にも、心なしか、汗が浮いている。

彼らは、お互いの久闊を叙すると、”紳士”は丁重に、”彼”に願いを伝えた。

”少女”の復活を。

”彼”は、問うた。その代償を。

”紳士”は、指先でもって、5つの長櫃を指す。

突然、何者も触らぬ内に、浮かび上がる、5つの長櫃の蓋。

中から現われたのは、年端も行かぬ、若い少女達。

身なりも、顔立ちも異なる、彼女たちに共通して言える事は、ただ一つ。

その肢体に溢れんばかりの生命の息吹を感じ取れる点だった。

満足気に、肯く”彼”。

その口元には、にぃと、笑みが浮かんでいる。

脅え、震える少女達は、周囲の異様な状況に、ある者は涙を流し、また、ある者は、呆然として、その虚ろな瞳を、”彼”や”紳士”に向ける。

”彼”が、指揮者が指揮棒を持つようにあげた右腕を、軽やかに振り下ろすと、たちまち、”少女”達の姿が、掻き消え、後に、仄かに輝く、5つの光があらわれた。

光に向かって、手招きをする”彼”。

何処から出したのか、右手には美しいカットを施された、優美なワイングラスを持ち、その左手は、光を手招きしている。

たちまち、5つの光は、次々に彼の持つ、ワイングラスに飛び込んでいく。

光がワインの様に、ワイングラスに満ちる。

幻想的な光景。

”彼”は、そのワイングラスの光を、蝋燭に透かすように見つめると、またもや、にぃと笑った。

そして、まるで、ワインの豊潤な香りを楽しむかの如く、ワイングラスを鼻先に寄せ、香りを嗅ぐ仕種をする。

嬉しそうに、目を細める”彼”。

やがて、ワイングラスに満たされた光を、味わいながら喉に流し込んでいく。

上下する、”彼”の喉。

”彼”の喉が上下する度に、幽かな悲鳴が何処からか聞こえてくる。

そう、陰鬱で沈痛な響きの叫びが・・・。

やがて、ワイングラスが空になった。

満足気に、ため息を吐く、”彼”。

飲み干した後、蛇のように長い舌が、”彼”の唇を舐める。

 

”彼”は、”紳士”を見据え、ついで、視線を”少女”に移す。

そして、左手首に鋭い爪をはしらせ、傷をつけた。

弾ける様に迸り、溢れ出す、真紅の血。

”彼”は、それを先ほどのグラスで受け止める。たちまち、満たされていく、ワイングラス。

やがて、彼が左手の傷口に接吻をすると、最初から無かったかのように、傷は消えていた。

ワイングラスは、彼の手を離れ、空中を滑るように滑空し、”紳士”の立つ、円陣の正面に着陸する。

真紅の紅玉のように、蝋燭の光を受けて、輝く、ワイングラス。

それをじっと見つめる”紳士”に、”彼”は、促すように、顎をしゃくる。

”紳士”は、それに肯きかえすと、懐から出した、香木を、左手の吊り香炉にくべ、またもや異様な言葉をその口より紡ぎ出す。

香炉から新たな香りが大広間中に充満する頃、”紳士”の声に、背中を押されるように、”彼”は、その姿を希薄にし、ついには消えてしまった。

 

”彼”が、消えた事を確認すると、転げ出すように、円陣の中から、飛び出す”紳士”。

”紳士”が、指を鳴らすと、誰もいないのに、重く締め切られていた、カーテンは開き、テラスへの大窓扉が開かれる。

たちまち、部屋中に差し込む月光。

テラスから吹き込む風が、部屋に篭った、香炉の香りを、吹き散らしていく。

その月光の下、”彼”の残したワイングラスを捧げ持ち、”少女”のたもとにつくと、その上半身を、抱き起こす。

そして、天空の月に向かって、ワイングラスを掲げると、僅かに開いたその唇に、ワイングラスの中身を注ぎ込む。

さらさらと、流し込まれていく液体。

ワイングラスの中身が注ぎ込まれるにつれ、”少女”の顔に赤みがさしていく。

やがて開く、その瞳。

漆黒の闇、そのもののように黒い瞳が”紳士”を見つめる。

ぼんやりと、焦点の合わない、まるで人形のような、虚ろな瞳。

だが、”少女”の目が開いたのを見て、歓喜で溢れる”紳士”。

”紳士”は、”少女”を抱きしめる。

その華奢で柔らかな肢体を。

涙が”紳士”の目から零れ、頬を伝って、流れ落ちていく。

一滴、また、一滴と。

滴る涙が、”少女”に落ちていく。

途端、

虚ろだった瞳に、生気が満ちはじめる。

”少女”の夢見るようであった表情が、段々と、艶やかな笑みに変わっていく。

まるで閉じていたつぼみが花開くような劇的な表情の変化。

それは、月光の下、一夜だけ咲くという、月下美人の様に儚げで、そして、艶やかだった。

神の造化物にあらざる、淫らな闇の美しさ。

だが、”紳士”は、熱に浮かされた様に、涙を流しながら、彼女に頬を擦り付ける。

熱い涙が、”少女”の肩に染み込んでいく。

その時、”紳士”の肩に頭を乗せていた”少女”が、大きく口を広げた。

その美しい歯並びにそぐわない、突き出た、乱杭歯。

目元が幽かに釣り上がり、狂気が、その瞳に閃く。

その醜い乱杭歯が、”紳士”の首筋に突き立てられた時、”紳士”は呟いた。

激しい快楽に、目を、一瞬見開いた後、味わうように細め、恍惚の表情を浮かべながら・・・。

「お帰りなさいませ、我主よ」と・・・・。

”紳士”の言葉に、”少女”は、応えるように、血を啜りながら、微笑んだ。

淫らに、艶然と。

そして、神々しく、清楚に。

矛盾する笑み。

だが、その矛盾が、”少女”の本質であった。

そんな主従を、月が見つめていた。

ルナティックの名にふさわしく、狂気を孕んだ光を放ちながら。

静かに。

ただ、静かに。

 

 

 

(つづく)