ある秋の夜。
あれほど鳴いていた蝉に変わって、鈴虫達が涼やかなしらべを風に乗せている。
寄せては返す、波の音のように、心地良いしらべ。
鈴虫達の求愛の音が、初秋とは言え、蒸し暑さを残す夜にあえぐ、寮生達の心を癒して行く。
網戸を越えて耳朶の奥に響く、秋の音色。
その穏やかな響が、聞く者を眠りを誘い、涼を与えてやすらわせるのだ。
そんな寝静まった寮の一室。
ささやかな鈴虫達の歌をかき消すように、妙に時計の音が木霊していた。
正確に時を刻むその音は、実際の音以上に、耳に響いていく。
かちこちかちこち
内蔵されたクォーツの信号に従い、秒針が文字盤を駆ける。
その秒針を追う様に、ゆっくりと気付かぬほどのスピードで、着実に短針と長針が歩みを進めていく。
やがて、時計の長針がゆっくりと、文字盤の12を指した。
短針は、僅かに離れて2を指している。
現在は、午前2時。
草木も眠る、丑みつ時。
普通の人間ならば、深い眠りの世界で遊んでいる時刻だった。
突然、暗い夜の闇の中で、そっとハンモックがゆれる。
ゆれるハンモックから、小柄な影が浮かび上がり、月がその姿を露にした。
それは、少女。
体を申し訳程度の布で覆った、美しい少女。
強い陽射しの中なら映える小麦色の肌も、月の光の中では闇に沈み、黄金色に輝く髪も、月の光の中では、煙るような鈍い輝きを放つのみだった。
ただ、その緑玉色に輝く瞳だけが、恐ろしいほど澄み、月光を圧倒せんばかりの輝きで満たされていた。
少女は窓を開けると、重力など感じぬように、自然な感じで浮かび上がると、天空へとその身を投げ出す。
異星の生まれである彼女にとって、重力はさほど、身体を縛るものではない。
民族衣装との口実を楯に、学校側にも認めさせた、そのささやかな衣装が、月の光に照らされて、彼女の身体の線の陰に沈む。
そして空中で、まるで踏み切り板を踏んだかの様に、スーパーボールの如く、弾む少女。
たちまちのうちに上昇して屋上に到着すると、その手すりに腰を下ろし、そっと天空に輝く月を見詰める。
だが、いくら見つめても月は静かに光を投げかけるだけ。
月を見詰める、その顔にも、幽かな陰がさしていた。
彼女の名はティナ。
卯月学園に留学してきた某国の王女。
だが、その実体は・・・。
はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
哀しげなため息が、ティナの口から漏れる。
だが、その切ないため息も、屋上を吹き抜ける、初秋の冷たい風に運び去られて行く。
金色の長い髪を風になぶられながら、彼女は、そっと想い人の事を考えた。
そう、今、彼女の真下の部屋で休んでいる彼を。
足を体育座りの様に抱え込み、顔を膝の間に埋める。
「きっと、忘れない。」
かつて、彼が言ってくれた言葉を呟いた。
遥かな彼女の故郷で言ってくれた言葉を。
約束の言葉を。
身分違いと知りながら、恋した彼女を愛してくれた彼。
発覚すれば、死罪は免れないのに、彼は彼女の愛を受け入れてくれた。
父王や母妃に内緒で、そっと重ねた逢瀬。
夢の様な日々。
懐かしい記憶が、彼女の心を駆け抜けていく。
「私の身体で、貴方が触れなかった処なんて、無いのに・・・」
あの幸せな日々は、何時までも続くと信じていた。
そう、何者かの密告により、逢瀬の現場を押さえられるまでは。
総てを賭けて、愛し合った二人。
そんな二人を周囲は引き裂いた。
身分違いであると。
彼女の伴侶にふさわしくないと。
身分!?
地位!?
財産!?
そんなもの、彼女には全く関係無かった。
ただ、彼が、彼だけが愛しかった。
そう、己の命よりも。
短剣を自分の喉に突きつけながら、必死に彼の助命を嘆願する彼女に、父王は呟いた。
その愛が本物ならば、認めると・・・。
歓喜する彼女を諭すように父王は言う。
遥かに遠い土地で、彼から彼女や故郷の記憶を奪い、偽りの記憶を与えて放り出すと。
そして、そこで再び彼が彼女を選べば、二人の仲を認めると・・・。
彼女は苦悩しながらも、その条件を飲んだ。
彼に懸ける事にしたのだ。
そして、その事を彼に告げた時、彼は言った。
きっぱりと、その瞳に力をこめて。
「きっと、忘れない。」
そう言うと彼は誓ってくれた。かつて彼女が愛の印に贈ったペンダントに。
苦悩を吹き飛ばすように、笑いながら、記憶操作を受けた彼。
不安げに見詰める彼女を励ますかのように、記憶操作の為の部屋に入る時も、彼は微笑んでいた。
あの人懐っこくて、心が浮き立つような微笑みを。
扉が閉まる時、彼の放ったウインクが印象的だった。
秋風に乗って、冷気が彼女の肌を刺す。
だが、物思いにふける彼女の心を喚起する事はできなかった。
ただ、彼女の心を見透かす様に、月の光が辺りに降り注いでいた。
そう、星の瞬きと共に。
それからすぐにこの星に、そしてこの国に送られ、”けんたろう”という名を与えられた彼。
彼がこの国で適応したとみなされてから2年後、ついにティナは、この国の土を踏んだ。
彼の言葉を信じて。
大きな不安と僅かな希望に胸を躍らせながら。
この星の某国の王女という肩書きで、早速、彼の居る卯月学園に転入する。
久しぶりに会った彼の顔は、2年余りという歳月の為に、多少の面差しは変わっていたけれど、その懐かしい微笑みは不変だった。
・・・もしや、記憶が・・・。・・・
期待に胸膨らませ、話し掛けるティナ。
だが、再び出会った彼は、無残にも彼女の事を奇麗に忘れ去っていた。
気を取り直した彼女が、いくらモーションをかけても邪険にし、煩げにする彼。
もどかしさで、胸を痛める日々が続いた。
そんなある日、不意にクラスメイトに嫌な噂を聞かされた。
初めて聞いた時、驚愕し、聞き違いである事を祈りながら確認した内容。
それは、彼が、ある女の子とつきあっているって事。
彼女にとって、まさに青天の霹靂だった。
噂を否定する材料を見つけだそうと、彼の周囲をうろつきまわった。
どんなに邪険にされようとも、彼を愛していたから。
そして、ついに今日、彼女は見た。
自室のゲームモニターを装った、監視モニターで。
彼を監視する為に、双子の弟のティムが操作している監視衛星からの映像の中で、彼がキスしている姿を。
そう、彼女ではない、他の少女とキスをする姿を。
絶望のどん底に突き落とされた彼女にティムは言う。
「姉ちゃん、もうあきらめなよ。あいつがどんなやつか、わかっただろ。」
諦めきれず、帰ってきた彼を出迎えた彼女に、なおも煩げにする彼。
「ティナには、関係ないだろ。ほっておいてくれよ!」
・・・関係なくなんか無い!・・・
思わずそう、言い返そうとして、唇をかみ締める。
それは、禁忌の言葉。
俯く彼女の横を、首を傾げながら通り過ぎる彼の背中に、彼女は手を伸ばしかけ、そしてこらえた。
・・・お父様との約束さえ無かったら・・・。・・・
哀しみが、やるせなく心を打ち、苦しい想いが、彼に何度も真実をうちあけようとする。
「思い出して、私を! あの懐かしい幸せな日々を! そして、そして私を見て!!」
何度、彼にそう告げようと、思っただろうか。
でも、そう言ってしまえば、彼と永久に引き離される。
それが、父王との約束。
「奴が真実、お前を愛しているのなら、たとえ記憶を無くしても、久しく会わなくても、お前を選ぶ筈。無論、奴がお前を選ぶにあたっては、お前は、一切、過去の話をしてはならない。もしも話をした時には、奴は、そのまま、あの星に追放だ。」
それが、父王が彼女に告げた条件であった。
・・・でも、今のままじゃ・・・。・・・
やるせなさに震える彼女に、ティムは言う。
「さあ、国へ帰ろう。ここは俺や姉ちゃんのいる所じゃないんだ。」
その言葉を聞く度に否定し、彼やティムの前で、無理に明るく振る舞うティナ。
でも、彼女の想いを無視するかのような彼の態度に、段々と彼に対する恨みが、そして憎しみが込み上げる。
思えば、彼の心無い仕打ちを受ける度に、ティナは打ち消してきた。
彼との懐かしい記憶を思い浮かべて。
だが、度重なる彼の仕打ちに彼女の心の振り子が乱れはじめる。
・・・彼の責任じゃないって、打ち消してきた。でも、もうだめ。・・・
・・・彼が、他の女のものになるなんて、嫌!・・・
・・・それぐらいなら、彼を奪われるぐらいなら・・・。・・・
緑玉色に輝く、彼女の澄んだ瞳に怪しげな煌きが踊る。
そう、昏く歪んだ光が。
そして、その身体を屋上から投げ出すと、勝手しったる彼の部屋の窓の前で制止する。
・・・いくわよ!・・・
心を支配する得体の知れない衝動に身を任せるように、窓に手をかけるティナ。
連夜の暑さの為か、鍵のかけられていない窓を開け、魚が巣穴に潜り込むような俊敏さで入り込んだ。
月に照らされ、やや明るい部屋の中、正体なく眠る彼。
彼ににじり寄る彼女の姿を、背後から照らし出す月の光が黒く染め上げる。
そう、彼女の心を覆った闇の様に。
・・・この首を絞めれば、彼は、永遠に私だけのものになる・・・。・・・
・・・そうよ、永遠に私のもの・・・。・・・
狂気の想いが手を動かし、彼の首を締め上げようとする。
彼女のものよりは太く、でも余計な贅肉の無い、すっきりとした喉。
その彼の喉に手を伸ばした時、彼の首もとで、月の光を反射して、なにかが光った。
訝しげに覗き込んだ彼女の瞳に写ったのは、かつて彼女が彼に贈った、ペンダント。
月の光を受けて白く輝く光によって、いつしか彼女の心を覆い尽くしていた闇に亀裂が生じ、払拭されて行く。
半ば呆然とペンダントを見るうちに、あれほど激しかった怒りや憤りが消え、何処からか希望も湧いてくる。
そんな時、突然、彼が大きく寝返りをうった。
はっと息を飲み、後じさる彼女の目の前に、彼の右腕が投げ出される。
彼が起きる様子が無い事に安堵して、ベッドから零れ落ちた彼の右腕を戻そうとした時、その二の腕に刻まれた傷を見た。
白く、へこんだ痕を。
その瞬間、彼女の頭の中に、彼との記憶がフラッシュバックのように蘇る。
それは初めての逢瀬だった。
彼女付きの近衛の衛士であった彼が、彼女の愛を受け入れ、二人の間の距離が急速に縮んだあの日。
あの日も、今夜と同様、風の強い夜の事だった。
当時、深い心のつながりが二人を結んでいた。
そう、僅かな微笑みや、ちょっとした仕種で、二人は分かり合えていた。
お互いの心も。考えも。
彼の眼差しが、そして彼女の微笑みが、お互いの喜びだった。
だが、心のつながりが増すほど、お互いを、より深く欲して行く二人。
広い王宮の庭にある四阿。
そこが、始まりだった。
二人の愛の新しい段階の。
垂れ幕を降ろして人目を遮り、心ゆくまでキスを堪能する二人。
隙間風に揺れる蝋燭の仄かな光の中、恥じらいながら、衣装を脱がされる彼女。
そして、そんな彼女を暖かな眼差しで見つめ、優しく口付けをする彼。
彼女の全身に、薄紅色の花のようなキスマークが咲いて行く。
一つ。また、一つと。
数が増すごとに、キスの花は真紅に色づき、彼女に快楽の階段を登らせて行く。
そう、終わりの無い螺旋階段を。
熱く燃える彼女の身体を、さらに彼の指が駆け抜けて行く。
さながら、楽器を奏でるかの如くに。
際限無く高まって行く悦楽が、彼への想いが、初めての行為に脅えていた筈の彼女の瞳を潤ませ、身体をしなやかにする。
火照った彼女の耳たぶを、優しげに甘噛みしながら彼が囁いた。
「痛かったら、我慢せずに噛み締めてごらん。」
そういって出された右腕に、夢現ながらも肯き、唇を寄せる彼女。
愛らしい彼女の様子に、心を揺さ振られ、金色の髪を指で梳いてやる彼。
その優しい感触に、彼女は陶然とし、知らず知らず両の瞼が閉じられて行く。
やがて、しどけなく開かれた彼女の身体に、彼の影が落ち、
そして、そして!
!
!
!
総てが終わった時、彼の右肩から二の腕にかけて、真紅に鮮血が染めていた。
そう、彼女の唇と同じ色に。
優しげな彼のキスが彼女の唇を拭い、薄紅色に戻して行く。
そんな彼に、彼女は、ただ、しがみつくだけだった。
まるで幼子の様に、ひたむきに。
何時の間にか、彼女は彼の腕にすがり付いていた。
目元から流れ落ちる涙も構わぬ様子で、彼の右腕に、その白い痕に頬を擦り付けていた。
・・・彼は変わってない。私を愛してくれた彼は。・・・
・・・なのに、どうして。どうして、こんなに心が遠いの?・・・。・・・
声にならない慟哭が、彼女の喉から漏れて行く。
誰にも聞こえない、彼女だけしか聞こえぬ哀惜の音色が。
やがて涙を拭いて、彼の右腕をベッドに戻そうとした時、
!
「うーん、むにゃむにゃ・・ティナ、お前はむにゃむにゃ・・・」
突然寝返りを打った彼に、驚いて飛びじさるティナ。
だが、彼女を驚かせたのは、それだけではなかった。
彼の寝言の中に自分の名前を聞いたのだ。
・・・私の名を呼んでくれた。少なくとも私の事を夢で見るぐらいには、近しく感じてくれてるのかも。・・・
そう思うと、俄かに心に活力が戻り始める彼女。
音を立てぬ様に、そっと立ち上がると、部屋を見回した。
壁にかかったカレンダーには、”10”の文字が大きく書かれている。
・・・後、半年。半年の間に、彼が私を好きになってくれれば。・・・
・・・まだ希望はある筈。・・・
彼女の心を、小さな希望が暖めて行く。
「もう少しだけ信じてみよう。」
そして、寝ている彼の頬に軽く口付けをすると、入った時と同様、するりと窓の外に飛び出した。
天空の月を目指し、足取りも軽やかに、弾むように。
あっと言う間に屋上に達した彼女は、先刻同様、手すりに腰掛けた。
足をぶらぶらと揺らしながら、彼の事を考える。
・・・私の名前を寝言で呼ぶって事は、少なくとも他の娘たちより、近しく想ってくれているって、考えてもいいんだよね。・・・
いつしか夜もふけ、月も西の空めがけて下降を始めた。
その月に引きずられるように、強い風が東から西へと吹き始めていく。
風が彼女の髪を巻きあげ、まるで海底の藻の様にたなびいていた。
たなびく髪を片手で押さえると、深呼吸するように風を味わうティナ。
はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、ぅふうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
先程とは比べ物にならない程、強く、でも甘い風が胸に満ちる。
風の甘さに浸るように、何度も深呼吸を繰り返すと、大きく伸びをしながら、彼女は呟いた。
「きっと、忘れない。か・・・」
その顔にもう迷いはなかった。
「私は、彼を信じる。彼の心を。」
声に出して自分に言い聞かせるように言うと、勢い良く、手すりから飛び降りた。
たちまち下降して行く身体を、水の中で泳ぐ魚の様に優美にくねらせると、姿勢を立て直し、部屋に戻って行く。
寝ているティムを起こさぬように部屋にはいると、そっと机の中の引き出しを開け、中に隠してあった彼の写真を見つめた。
映像は記憶操作をする前であり、2年以上前のものだが、その姿は今と殆ど変わらなかった。
そう、その暖かな微笑みも。
見ているうちに切なくなって、フィルムケースごと、ふくよかな胸に押し当ててしまう。
・・・必ず、取り戻して見せる。貴方を・・・。・・・
冷たい金属製のフィルムケースが彼女の体熱で、暖められていく。
そのフィルムケースの冷たさが、彼の記憶を封じ込めた檻のようなイメージが、心の何処かでよぎって行った。
・・・私ったら、なにをかんがえてるんだろ?・・・
・・・彼を信じるって決めたんだもの。彼の言葉を。・・・
「う、う、うーーーん、むにゃむにゃ」
突然、ティムが寝言と共に寝返りを打つ。
考え事に没頭していたティナは、その声に現実に引き戻された。
寝返りの拍子に、ティムの腹から滑り落ちた布団を拾い上げると、起こさぬように最新の注意を払って、着せ掛けてやる。
日頃、”けんたろう”に憎まれ口を叩いているティムも、寝顔は愛らしかった。
枕を抱きしめて、規則正しい寝息を立てている様子に、ふと、姉らしい思いに駆られて、頭をなでてしまう。
「おやすみ、ティム」
「・・・・・・」
彼女の言葉に、すぅすぅという寝息で応じるティム。
・・・あはは、かわいぃぃ・・・
思わず浮かぶ微笑み。
途端、
くしゅん
手で押さえる間もなく出た、可愛いくしゃみに、知らず知らず赤面してしまうティナ。
・・・やだ、風邪引いたのかな?早く寝ないとね。・・・
写真を元どおり、引き出しの中に仕舞うと、ハンモックに潜り込んだ。
そのまま布団を身体に巻き付けるようにして纏うと、ゆっくりと瞼を閉じる。
その顔には、屋上で月を見ていた時のような陰はない。
・・・彼の夢が見れます様に。・・・
何かに祈るように念じるティナ。
その祈りに答える様に、気まぐれな風が寮を吹き抜けた。
風は、虫達のささやかな恋歌を彼女の耳に運び、その心を落ち着かせて行く。
深く、静かに、穏やかに。
やがて、まどろみ始める彼女。
程なく、彼女のハンモックからも、ティム同様、すぅすぅという寝息が聞えてきた。
瞼を閉じたティナは、良い夢を見ているのか、にこやかに微笑んでいた。
そう、それはそれは、幸せそうな微笑みを。
まるで、夢をかなえた様な微笑みを。
(98/10/1update)