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『幸福の姉神様の後ろには、不幸の妹神様がついて来る。』
かつて、祖母に教えられた話です。
すぎた幸福を求めれば、必ず、すぎた不幸も背負い込む事になる、と言う意味ですが、良く祖母は口癖のように言いました。
そして、決まって最後に、こう言うのです。
『今が一番幸せなんじゃよ、自分が不幸と思えば、幸せは消える。忘れない事じゃ。』と。
私、その教えを、この25年間、守ってまいりました。
見たことも無い、20歳も年かさの男性に嫁いだ時も、その言葉を繰り返して、初床へ、参ったものです。
たった一人で、家に取り残されていた時も、そうでした。
今は自分は幸せなんだ。旦那様や、お父様とお母様の言う通りにしてれば、それで、満足なんだ、と。
それが、私の生きるべき、人生なんだ、と。
ただ、そう、自分に言い聞かせて来たのかもしれません。
そう、今年の夏までは。
今年の夏は、記録的な暑さとなり、毎日、真夏日を更新していました。
そんな、うだるような暑さが続いていた時、私は、あの人と出会ったのです。
そう、あの人に。
私が本当に愛すべき人に。
それは、今から考えると、まるで運命のようでした。
あの人は、近所に住んでいた、学生さんでした。
最初は、毎日、顔を合わす程度の知り合いに過ぎませんでしたが、会うたびに、心引かれていきました。
あの人のまっすぐな気性に。
暖かな優しさに。
そして、その真摯な瞳に。
だから、結ばれたのです。身も。心も。魂さえも。
あの人の深い優しさに触れた時、私は、初めて、自分が、『不幸』であると、認識しました。
その不幸とは、
何時も、あの人といられない事。
あの人との、交際を隠さねばならない事。
あの人を独占できない事。
そして、最大の不幸は、私が、人妻ゆえ、あの人の子供を産めない事でした。
元来、愛し合う男女の愛の結晶として生まれるべき子供。
その子供には、私のわがままから、不倫の子という、烙印を押させるわけにはいけませんでした。
いくら、その母親が、人倫に外れているとは、いっても。
考えてみれば、私は主人ある身で、前途洋々たる若者と毎日のように逢い引きをしていましたから、世間様から、非難されるのは、当たり前です。
ですから、どんな非難も、甘んじて受けるつもりでした。
どんなに激しい糾弾だろうと。
そう、私に限っては。
でも、その非難が、あの人に及ぶとなれば、話は別です。
あの人は、私の心を知り、そして、本当の愛を教えてくれました。
愛される快楽と愛する悦楽を教えてくれました。
今となっては、私の命よりも大切な人。
あの人の人生を棒に振るような事は、避けねばなりません。
だから、人目を忍び、早朝や、暗くなってからしか、会えませんでした。
でも早朝の朝もやの中や、夜に、そっと忍んでくる、あの人を迎える嬉しさは格別でした。
本当の主人にするように、三つ指ついてお迎えし、技の限りを尽くした料理で、あの人をもてなすのです。
あの人が、むしゃぶりつくように膳に向かい、あっという間に平らげるのを見るのは、本当に見ものでした。
つくりがいがあるというものです。
本当に楽しいものでした。
そして、あの人は、私の料理を平らげた後、今度は、私を食べにかかるのです。
旺盛な食欲そのままに。
あの人の触れている指、話す言葉、心地よい重みが、快感でした。
貪る様に、私を求めるあの人。
あの人を受け入れ、締め上げ、応える私。
部屋の中に、みるみるうちに熱気が充満し、ただ、荒い呼吸音が、部屋を満たしていきます。
それらの果てに、
やがて、訪れる絶頂感。
果てしなく、のぼりつめるような、浮遊感の後、心地よい失速感とともに、全身が、溶けて行くような倦怠感に包まれるのです。
一つだった影が、二つに割れ、天井を仰ぐ二人。
静かな、ただ、静かな時間。
そんな時、あの人は私の乱れた髪を弄びながら、良く言うのです。
「麗子さん、愛してる。」って。
その一言を聞くたびに、心が、熱くなり、今度は、私から求めてしまうのです。
そんな自分を、はしたなく思いながらも、強く、恥じらいながらも、気がつけば、私は、あの人の腕の中。
それは、満ち足りた、幸せな時間でした。
たとえ、二人の関係が世間に背を向けるものであったとしても。
幸せな日々は、夏が過ぎても続きました。
木枯らしがふく季節になっても。雪がちらつく季節になっても。
このまま、永遠に、こんな日々が続く、そう錯覚し始めた頃の事でした。
ある日、めったに家に寄り付かない、主人が帰ってきたのです。
夜遅く、酒に酔っての帰宅でした。
主人は、あわてて冷たい水を持っていった私をやにわに押し倒すと、いきなり求めてきたのです。
思えば、主人は私の夫、求めてくるのは、当たり前なのですが、その時の私に、そんな考えはありませんでした。
犯されてしまう!、汚されてしまう!!
ただ、その思いで、主人の身体を突き飛ばし、居間に逃げ込んだのです。
勢い良く、襖を閉め、主人に舐め回された肌が汚れているような気がして、タオルで拭っていると、主人がやってきました。
身体を求めたのを撥ね付けられ、突き飛ばされた為か、酔眼には、激しい怒りがありました。
当然の如く、激しい勢いで主人は詰問します。
何故、拒んだかを。
それは、烈火の如く、激しい勢いでした。
その時です。
前触れもなく、突然、激しい嘔吐感がこみ上げ、思わず、縁側に出て、吐いてしまいました。
何故?。
・・・・もしかして?!。
想像が、頭を駆け巡ります。してはいけない想像を。でも、心の中では、望んでいた想像を。
途端、
背後で聞こえた、かえるが潰れたような妙な音で、私は、我にかえりました。
そして、そっと、振り返った私は、世にも恐ろしいものを見たのです。
それは、顔色を変え、激しい怒りのオーラを纏った主人でした。
もはや、酔眼に浮かんだ怒りは、激しいとかいうレベルではありませんでした。
その全身は、おこりにかかったように震え、口は、金魚のようにぱくぱくしてるだけでした。最初のうちは。
やがて、近くにあった箒に飛びつく様にして、右手につかむと、
「この売女め!」と、叫ぶが早いか、私を打ち据えにかかったのです。
悲鳴を上げ、箒をかわす私の横で、花瓶が割れ、障子が粉砕されました。
激しい、怒号とものが砕ける破砕音が周囲に鳴り響きます。
追いすがる、主人を避け、庭に出た時、思わず、上を見上げました。あの人の部屋の窓を。
無意識のうちに、助けを求めたのでしょう、あの人に。
この時間、寝ている筈のあの人に。
でも窓に見つけたのです、あの人の顔を。
それまで、恐怖に打ちひしがれていた筈の私の心は、瞬時に落ち着きを取り戻しました。
そう、まるで奇跡の様に。
後から聞いたのですが、あの人は、私と主人の大騒ぎを聞きつけ、様子を見ようと窓から覗いた所だったのです。
そして、あの人は、私の背後に箒を振り上げて、迫ってくる主人を見ると、窓から、半ば身を乗り出しました。
次の瞬間、
窓縁を蹴って、跳躍したのです。
私に向かって。
正しくは、私の後ろに迫っていた、主人に向かって。
それは、私には、スローモーションの様に見えました。
奇麗な放物線を描いたあの人の体は、主人に狙い通り正確に、命中し、二人はもんどりうって倒れました。
駆け寄った私に、あの人は、痛みを我慢して笑って見せてくれました。
その痛々しいけど、優しい笑顔を見た時、泣きだしたんです、私。
とても大きな声で。
そんな、大きな声で泣いたのは生まれて始めてでした。
三日後、主人と私は、正式に離婚しました。
原因は、私の不倫だったのですけど、結婚以来ずっと、家庭内離婚同然だった事をマスコミに知られたくなかった主人は、自分の芸能人としての履歴に傷をつけない事を条件に、慰謝料に、この家と幾許かの預金と株券を譲渡する事で、話をまとめ、出て行きました。
いつもと、同じように。
二度と戻る事のない家を後にして。
当然、離婚については、両親からの強い反対がありましたが、私は頑として、応じませんでした。
だって、私、母親になったんですもの。
でも、今までの従順な私しか知らない両親は、私の変化に首を傾げ、激怒しました。
そして、私を勘当したのです。
親不孝者として。
不貞を働いた、愚かな娘として。
両親にしてしまえば、当然かもしれません。親に逆らったのですから。
でも、私には、勘当がショックではなかったといえば、嘘になりますが、それでも、さほど強い衝撃ではありませんでした。
と、いうのも、もっと、衝撃的な事が、あったのです。
それは、私の妊娠を知った、あの人の言葉でした。
正直な話、私は、あの人との関係もこれまでだって思ってました。
さよならって、言われると思ってたんです。
また、私からも、そう、言おうって考えてました。
だって、あの人は、まだ学生で、前途ある若者なんですもの。
その、あの人の可能性をつぶすような事はしたくなかったんです。
たった一人で静かに生み、育てるつもりでした。
でも、あの人は、じっと私の目を見詰め、言ったんです。
「麗子さん、俺と結婚してくれませんか?」
すぐに返事はできませんでした。
だって、そうでしょう。
あの人との結婚、それは、私の見果てぬ夢だったのですもの。
でも、七つも年上の私と結婚したら、あの人の可能性は著しい制限を受けてしまう。
こんな女と結婚したら、あの人の評判を落としてしまう。
あの人の輝かしい羽を奪うような行為はしたくなかった。
それに、子供の為に、結婚するのも、なにか、変な気がして。
だって、そうじゃありません。
子供の為に、って言うのは、何か、投げやりな感じがするのですもの。
だから聞きましたの。
「何故?」って。
するとあの人は、はにかみながら、結婚を申し込んだのは、子供の為だけじゃないって、いうのです。
確かに自分は、片親で苦労したけど、それだけじゃない、って。
一番の理由は、私を愛してるからなんだって。
年なんて関係ないって。
何よりも大事なんだって。
その言葉を耳にした時、私は決めました。
この人と一緒に歩いて行こうって。一生、苦楽をともにしようって。
その後、彼の卒業を待って、あわただしく結婚した私たちは、今もこの家に住んでいます。
私たちが、初めて結ばれたこの家で。
そして、これから想い出を刻んで行く筈のこの家で。
今日も私たちは、せり出した、私のお腹をなでさすりながら、話し掛けます。
元気で生まれておいで、って。
私たちの赤ちゃん、って。
私たちが、お父さんとお母さんよ、って。
すると、お腹の赤ちゃんは、元気に私のお腹を蹴飛ばします。
かすかな痛み。
元気な痛み。
そして、幸せな痛み。
最近私は考えるんです。祖母の言葉を。
『幸福の姉神様の後ろには、不幸の妹神様がついて来る。』って言葉を。
私は不幸でした。愛を知らなかったから。
生きてなかったから。
でも、その不幸の果てに、今は幸福です。
愛する人の傍らで、もうすぐ生まれる我が子の誕生を待てるのですから。
今の私には、不幸の妹神様が去って、幸福の姉神様が来てるのでしょうか。
だとしたら、この幸福の姉神様が、私たちの所に長くいてくれる事を祈ってやみません。
ずっと、ずっと、長く。
そう、死が二人を別つまで。
二人の時が、果てるまで。
後書きめいたもの
読んでくださった方、並びに掲載してくださった、MIYA様に心から感謝を捧げます。
皆様のお口に合うとよろしいのですが・・・。
もし、設定的におかしい点がありましたら、どんどん指摘してやって下さい。
無論、造った部分もありますが、結構、勘違いしてるもので。(笑)
まだ、書き始めて日が浅いせいか、文章が安定しておりませんが、何卒、ご賞味ください。
それでは。