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空が、茜色に染まり、ゆっくりと、太陽が降りてくる。
昼間の強い陽射しが嘘のような、柔らかな光。
そんな光を受けて、街も茜色に染まっている。
そう、どこか懐かしげで、暖かな色に。
行き交う人々の顔も、家路を辿っている為か、疲れた表情の中にも、安堵した雰囲気が漂っている。
美夏の顔も太陽の光を受けて、朱に染まっていた。
柔らかな残照の幽かな暖かみが、彼女の心を優しく包んでくれる。
そう、まるで羽毛のように。暖かに。
何時もは、気にならないそんな事も、今日の美夏には嬉しかった。
僅かな心の慰めだった。
健太郎と待ち合わせて、連れて行かれたのは、路地裏の寂れた小劇場。
そこで見た映画につい泣いてしまい、真赤に目を泣き腫らしてしまったのだ。
演目は、古い、ロシアの映画で、「雪割草」。
長い冬の吹雪の夜に、貴公子と娼婦の許されない恋人同士が、来世での幸せを求めて、死を選ぶお話。
正直な所、良くある悲恋物語ともいえる。
でも、何かが、美夏の心の琴線に響き、次から次へと、涙が込み上げてきた。
隣にいる彼に気付かれないように、そっと、ハンカチで拭うも、涙は止まらない。
周囲の客が、涙を拭う自分を見詰めているような気がする美夏。
泣き出した自分が、恥ずかしくて、どんどん顔を紅くして行く。
そんな時、そっと手を握ってくれた健太郎。
上目遣いに、彼の方を見ると、片手で白いハンカチを渡し、そっと耳元でささやいた。
「泣く事なんて、恥ずかしくないさ。俺は哀しい話で泣ける美夏さんが好きだから。」
耳元で言われた為に、こそばゆかったけれど、美夏自身は、さらに顔を真赤に染める。
そんな美夏を、片腕を伸ばして優しく抱き寄せ、その髪に口付けをする彼。
くすぐったいような感じが、彼が口付けた髪から伝わってくる。
同時に、暖かいような温もりも。
いつしか涙は止まり、暖かい雰囲気に包まれていくのを感じる。
幸せな気持ちになった時、不意に彼女は気付いた。
自分が、何故、泣いたかと言う事に。
みるみる顔色が幸せな朱色から、蒼白に変わる。
泣いた理由は、簡単だった。
作品に感情移入するあまり、貴公子を彼に、娼婦を自分に当てはめていたのだ。
愛し合い、求め合う、貴公子と娼婦。
けれども、二人の間には深い溝がうがたれ、その溝ゆえ、二人は引き離されていく。
その溝を掘ったのは少女。
家族を養う為に身を売った娼婦の少女。
年端も行かない弟や妹の為、身を粉にして働いても追いつかない重い借金を返す為、彼女は、夜毎、場末の娼館で行きずりの男に身を任す。
やせた男。
太った男。
実直そうな商人。
剣呑な面相をしたマフィア。
幾人もの男が彼女の身体を通り過ぎていくうち、少女は変化する。
何時の間にか、行きずりの男に抱かれる事を意識せず、金の為に何でもする女へと。
嘘、媚態、詐欺。
かつて彼女が嫌っていた事を、いつしか彼女は当然のものと思い込んでいく。
虚ろな毎日。
そんな折りに出会った貴公子。
お忍びで街をうろついていた彼と、カフェで知り合った彼女は、彼の誠実さ、優しさに触れ、昔の自分を取り戻していく。
そう、無垢だった頃の自分を。
だけど、彼は、町でも屈指の富裕な名家の総領息子。
自分は、場末の娼婦。
せめて、単なる農夫の娘であれば、家の者を説得できたかもしれないが、娼婦では、到底、無理。
本人同士には関係ない事も、周囲の者には疵になる。
嘘吐き。
売女。
詐欺師。
財産目当て。
次々に彼女に浴びせられる罵倒の言葉。
けれども、彼には彼女しかいなかったし、彼女にも彼しかいなかった。
そして、悩みに悩んだ挙げ句、選んだ結果は、二人で死んで来世で幸せになる事だった。
そう、神の御前でその愛を認めてもらう事。
そこまで、考えた時、美夏は、ゾッとした。
自分は、彼を破滅させるんじゃないだろうか。
水商売をしていた女は、彼の横には、ふさわしくないのだろうか。
ピアノの学費を稼ぐ為、軽い気持ちで始めた夜の仕事。
男にちやほやされ、ちょっとデートしたり、つきあったりするだけで多額の金が入る仕事。
正直な話、好みの相手でないにしても、ちやほやされるのは気分良かったし、客とのデートを重ねてお金を稼ぐのは、他のホステスに水を開けたようで鼻も高かった。
でも、それで良かったのだろうか。
今は、愛する彼がいる。
他の男になんか、髪の毛一筋も触られるのは嫌だし、逆に彼にだったら、最後の一線を超えるのも嫌ではなく、ためらいもなかった。
だが、果して自分は彼に抱かれる価値があるんだろうか。
・・・私、ここにいて、良いのかな・・・。彼の横にいて・・・。・・・
知らず知らず、思い悩みながら、映画館の外にでる美夏。
暖かな落日の光が僅かに彼女の心を癒してくれ、少しは軽くしてくれたけれども、尚も、ボーっとしながら、駅前への道を歩き出す。
そんな彼女に寄り添うように歩く健太郎。
美夏の心、ここにあらずって風情に、心配になってきたのか、声をかける彼。
「美夏さん?」
「ん?、な、何?」
突然聞こえた健太郎の声に驚く美夏。
慌てて、健太郎の方を振り向くと、作り笑いを浮かべる。
そんな彼女を不思議そうに覗き込む彼。
「どうかしたの?」
「な、何でもないの。今の映画の事をちょっとね。」
「そう。」
彼女の返答に、やや、首を傾げながらも同意する。
そんな彼の様子に、なんとなく、罪悪感を感じる美夏。
・・・折角、誘ってくれたのに、わたしったら・・・。・・・
「ごめんね、面白い映画だったから。」
取り繕うように言う、美夏に、
「美夏さん、ロシア映画好きなんだろ。前に『アンナ・カレーニナ』を見た時も喜んでたし。」
「ええ、東欧やロシアの映画って、よくミラクル座でやってる様なハリウッド映画には、薄い詩情が、たくさんあるんだもの。ちょっと思想臭い所は嫌だけどね。」
「思想臭い。はははっ、確かにそれは言えてるね。」
「でしょ。」
やがて、二人は、駅前を過ぎ、彼女のマンションに近づく。
だが、さっきの事が頭に残っていた美夏は、もう少しだけ、彼といたかった。
そんな彼女の気持ちを見抜いたかのように、健太郎が誘った。
「ね、美夏さん。ちょっと、公園に行ってみない?」
「公園?、良いけど。」
「じゃっ、決定。」
再び、児童公園に向かって歩き出す二人。
道々、彼に尋ねる美夏。
「ね、どうして、今日は、待ち合わせ4時だったの?。私、もっとデートしたかったな〜。それとも、別の誰かとデートしてたの?」
やや、揶揄するように、後手に手を組んで、彼の顔を覗き込むように言う。
無論、他の女性がいるなんて、かけらも思ってはいない。
と、いうより、そんな可能性も考えるのが嫌だった。
ただ、からかうのが楽しいのだ。
からかって、否定される事で、自分が彼の横にいてもいいって、再確認する為の儀式。
ただ、それだけの・・・。
だから、その口元には、悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。
「あ、そ、それはバイトで、それで・・・・」
慌てて、答える彼の様子に、幽かな安堵を憶えつつ、笑いを漏らす美夏。
「別に、疑ったりしてないわよ。あははっ。」
慌てふためく彼の様子がおかしくて、なかなか笑いが止まらない。
「あはははははははははははははっ」
「美夏さん、それぐらいにしたら?」
やや、憮然となる健太郎。
「はははっ、ご、ごめんね。」
ようやく、笑いの衝動を押さえて、真面目な顔をすると、彼も機嫌を直した。
やがてついた児童公園で、ブランコに乗ってみる美夏。
最初は、なかなかゆれないが、段々とブランコが大きくゆれはじめる。
はしゃぎ出す美夏の様子に、苦笑しながらも背中を押してやる健太郎。
「健太郎君は、乗らないの?」
「俺はいいよ。それより、美夏さんを見てる方が良い。」
「ふーん、あ、でも、前にはたたないでね。・・・見えたら嫌だから。」
「ちっ、仕方ない、横にいるよ。」
「あ〜、やっぱり覗く気でいたのね。もう。」
軽く、ふくれて見せる美夏。
「はははははっ」
勢いよくブランコを揺らすうち、美夏の心は童心に戻り、さっきの重い物思いも何処かへ吹っ飛んでいく。
そう、ブランコを漕ぐ度に、心が空に飛んで行きそうになる。
そんな美夏を見ながら、健太郎は何かを思い出したように、声をかけた。
「あ、そうだ、美夏さん、ちょっと。」
「何?」
「いいから、ちょっと来てよ。」
度重なる健太郎の頼みに、渋々ブランコを止める美夏。
「どうかしたの?」
ブランコから降りて、健太郎に近づくと、
「これ、美夏さんに。」
彼が懐から小さな箱を取り出した。
「なあに、これ?」
悪戯っ子の様な笑みを浮かべる健太郎。
そっと蓋を開けると、箱の中から出てきたのは、銀のイヤリングだった。
彼女の誕生花、ランタナをかたどった、小さなイヤリング。
「これって。」
一瞬、驚いた表情を浮かべる美夏に、してやったりと言う感じの笑顔を向けながら、健太郎は言う。
「この間の10月3日、誕生日だって言ってたよね。」
「え、ええ。」
「ちょっと遅いけど、誕生日おめでとう。」
・・・あ。そう言えば、言ったんだっけ。・・・
以前、何かの拍子に言った事を憶えてくれていた事が嬉しくて、心が弾み出す。
喜びながらも、健太郎の指に巻かれたバンドエイドを見て、ある事にも気付いた。
「ありがとう。あ、もしかして、これを買う為にバイトを?。・・・ごめんね。」
健太郎の気持ちが嬉しかったのと、昨日、一瞬でも彼の事を疑った自分に自己嫌悪を感じる。
そんな彼女の心の葛藤を知らぬように、健太郎は微笑んだ。
「気にしないで。好きでやってる事だから。ほら、つけてあげるよ。耳を出して。」
健太郎の言葉に従い、髪を手でかき上げて、耳を彼の方に向ける美夏。
冷たい銀のイヤリングが耳につけられる。
ひんやりした感触が、嬉しさで火照った肌に心地よかった。
やがて、日も暮れ、美夏のマンションに向かう二人。
「美夏さん、又、来週も誘っていいかな。」
何処か、自信なさげに言う健太郎に、とびっきりの笑顔を向ける美夏。
健太郎の不安を払拭するように元気良く答える。
「ええ、もちろんよ。貴方の電話を待ってるわ。」
そんな彼女の様子に、嬉しそうに微笑む彼。
やがて、マンション周辺への小道を曲がる。
突然、足元の影が消え、また現われた。
見ると、マンション周辺の街灯は、耐用年数が尽きたのか、パチパチと、ついたり消えたりを繰り返している。
どうもそのせいで、足元の影が、闇に紛れて消えたり、現われたりを繰り返してるらしい。
足元に気をつけながらマンションの前まで来ると、二人とも黙ってしまった。
内心では、自分の部屋に来て欲しいのだけど、どこか気恥ずかしくて言えない美夏。
健太郎も、何かを言おうと口を開いては、閉じるのを繰り返してる。
・・・早く、言わなきゃ、部屋に来ないって。・・・
・・・でも、はしたない女だって、思われないかな。・・・
・・・どうしようかしら。・・・
双方、なかなか言い出せないまま、時間が過ぎていく。
やがて口を開いたのは、健太郎。
「美夏さん、今日楽しかったよ。又誘うからね。じゃ。」
どこか残念そうな表情を浮かべながらも、そう言って歩き出す健太郎。
「あ、健太郎君。」
「何?」
「またね。」
・・・結局言い出せなかった。・・・
健太郎の後ろ姿を見送りながら、一人ごちる美夏。
・・・仕事でなら、どんなに歯が浮く事も言えるのに、なんで彼には言えないのかしら。・・・
マンションの方に向き直ると、ため息を一つ吐いて、ゆっくりと玄関の方へ歩き出す。
玄関ゲートの下を通り過ぎようとした時、まさにその時!
突然、物陰から男が出てきた。
いきなり、捻じりあげられる腕。
あまりにひどく捻じられた為、激痛が、脳髄を直撃する。
「いたたた・・・」
うめく美夏の目に、いかつい男の下卑た笑顔が映る。
「おう、香歩、ひさしぶりやな。こないだは、ようも、こけにしてくれたやないか。」
「あ、あなたは・・・」
腕を捻じりあげた男は、店、即ちキャバクラ「スターシア」の常連だった。
美夏を巡って、他の客と乱闘騒ぎも起こした事のある男で、ちんぴらのくせにやたら喧嘩っ早い事で知られていた。
店でも、何度かつまみ出されそうになったが、やくざのコネがあるのか、今日まで出入りしている。
当然のように、ひどいご面相で、美夏にも何度も付きまとい、無理やりデートをさせられた事もあった。
男は、手を放して、美夏を軽く突き飛ばすと、
「わしはな、こないだ言うたやろうが、お前は、わしのコレやてな。」
そう言いながら、太く、毛がもじゃもじゃの小指を突き出して見せる。
「嫌!、もう、貴方とは付き合いきれないの。店にも来ないで!」
「あほんだら!」
「あ!」
男の平手が美夏の頬を張り、彼女は転んでしまう。
痛む頬を押さえ、涙ぐむ美夏に、男は宣言する。
「お前はな、わしの言う事聞いて、素直に抱かれたら良いんじゃ。その為に金もぎょーさん、やったやろうが。」
涙ぐみながらも、キッと、睨み付ける美夏に、
「なんや、その目は!」
再び男が美夏を叩こうと、手を振り上げた時、
「やめろ、くそじじい!、美夏さんに手を出すな!」
「なんや?」
振り向いた男のみぞおちに、健太郎の蹴りがきまる。
「げふっ!」
腹を押さえ、蹲る男を尻目に、健太郎は美夏を抱き起こしながら尋ねた。
「大丈夫、美夏さん?」
心配そうな彼の表情に、痛む頬を敢えて歪め、こわばった微笑みをつくる美夏。
次の瞬間、健太郎の背後に、何時の間にか男が、起き上がったのが見える。
「う、後ろっ!」
振り返った健太郎めがけ、男の拳が彼の顔を狙う。
思わず、目を閉じる美夏。
だが、次に目を開けた時、そこには十字受けで男の拳を受けた健太郎がいた。
そして、目にも止まらぬ速さで、健太郎の右拳が男の顎を跳ね上げ、1テンポ遅れて左拳が男の胸板に叩き込まれる。
男が思わずふらつくところを、さらに地を這うようなローキックが、その足を払う。
見苦しく、無様に倒れる男。
あっという間に男を倒し、馬乗りになった健太郎は、男の腕を後手に捻じりあげ、荒い息の中から言った。
「くそじじい、二度と彼女に近寄るな!」
健太郎の言葉に呆れたように男は言い返す。
「けっ、あんた、学生みたいやな、この女がどんな女か知っとんのか。」
次に出てくる言葉を予想して、美夏は思わず叫んだ。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーー!!!!!」
「じゃかぁし!!」
美夏めがけて、恫喝するようにわめく男。
顎で美夏の方をしゃくると、勝ち誇るように、
「この女はな、金さえ払えば、誰にでもついてく女やど。」
「何が言いたい。」
言葉だけは冷静だが、怒りの為、健太郎の目が、やや釣り上がる。
だが、健太郎のそんな様子に気付かぬ様に男は続ける。
「そやさかい、そんな女の為に、身体はるんかって言うとるんやっ!」
「言いたい事は、それだけか。じゃあ、良く聞けよ!」
口調はさっきと同じ様に冷静だが、その瞳に激しい怒りが閃く。
健太郎に語気に気圧される男。
「な、なんや言うねん。ほんまの事やないか。」
健太郎は、口を男の耳近くに寄せると叫んだ。
「だまれ、このくそじじい!、それ以上、彼女を侮辱するな!!」
「ひぃぃぃ」
彼の大喝に思わず縮み上がる男。
そして、怒りに任せて健太郎の腕が、思いっきり男の腕を捻じりあげていく。
ギシギシと軋んでいく、男の身体。
激痛に顔を歪め、脂汗を流しながら、懇願する男。
「う、う〜〜〜、や、やめてくれ、う、腕が、腕が折れる。」
だが、容赦なく、健太郎はその腕に更に力をこめていく。
その双眸は、危険な光すら放っていた。
「彼女に二度と近寄らないと約束しろ!」
声にも何時もの健太郎からは信じられないほどの凄みが感じられる。
男は腕が折れるかもしれないという恐怖で、顔面が蒼白になっていた。
「わ、わかった、約束する。約束するから、だから、助けてくれぇ。」
「よし。」
健太郎が男を開放すると、男は、ほうほうの体で這いずるように逃げていった。
幽かに、一息つくと、ふと、振り返った、健太郎が見たもの。
それは・・・泣きじゃくる美夏。
美夏は、泣いていた。
そう、子供のように。
心が乱れ、自分が何処にいるのかも忘れて、泣きつづける。
・・・知られた。健太郎君に知られた。やっぱり、あの映画と同じ様に、私みたいなのは幸せになれないんだ・・・。・・・
さっきまで忘れていた映画の事を思い出し、さらに暗鬱な気分になる。
と、泣いてる彼女の身体の埃をはたく手に気づき、そっと顔を上げた。
涙で、歪む視界に飛び込んできたのは、優しげな健太郎の顔だった。
しゃっくりあげながら、上目遣いに彼の目を見る。
「け、健太郎君、私・・・」
健太郎は、美夏の言葉を最後まで聞かずに、美夏を抱きしめた。
そして、穏やかな声で、
「気にしてないよ、」
「え?」
「美夏さん、気にしてないって、言ったんだ。」
思わず、彼の胸から顔を上げ、その瞳を見詰める美夏。
美夏の視線を真っ向から見据えながら、健太郎は言う。
「前にも言っただろ、笑って俺の前にいてくれたら、それで良いって。他の男が知ってる美夏さんなんて、関係ないんだ。今、俺の腕の中にいる美夏さんが、俺にとっての真実なんだから。」
「健太郎君・・・」
美夏の心の中に、安堵が広がる。
深い安堵が。
・・・どこがで、私は、心配してた。真実を知れば、彼も逃げるんじゃないかって。・・・
・・・健太郎君は、真実を知った。なのに、彼は、彼は。・・・
そして、同時に彼女は決意した。
・・・やめよう、あの仕事。・・・
・・・ピアノができなくなってもいい。どんなに、ひどい目にあってもいい。でも、でも彼をこれ以上危険な目に合わせたくない。・・・
しっかりと美夏を抱きしめる健太郎の腕。
見かけよりも遥かに逞しく、そして細心の注意を払って、彼女を抱きしめる腕。
・・・この腕を失いたくない。この暖かな腕を。・・・
・・・私を包んでくれるこの人を。・・・
彼の腕から、何か、暖かいものが流れ込んでくるような感じがして、いっそう、身体を彼に押し付けてしまう美夏。
彼の身体に触れているだけで、何処か、生きる情熱が生まれてくるような感じがする。
いつしか彼の瞳の中に美夏自身が大きくなって、美夏の瞳に彼がどんどん大きくなって・・・。
そして、そして!
暗転。
突然、ふっと、街灯が消え、あたりは、闇に閉ざされた。
だが、愛し合う恋人には、闇は苦痛にならないようだった。
規則正しい鼓動の音が、二重奏のように密やかに周囲に響いていた。
そう、それは、それは密やかに。
まるで、二人の恋の様に。
ひっそりと、でも、はっきりと。