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深夜、普通の店なら、もう閉めている筈のこの時間に、キャバレー「スターシア」は、営業している。
煌びやかなネオンで、家路を急ぐ、サラリーマンや遊び人を夜毎吸い上げ、彼らの財布を軽くしてから、帰していくのだった。
店内には、ごてごてとした成金趣味な、内装が、たばこの紫煙で、けぶり、その悪趣味さを隠し、かえって、豪華な雰囲気を演出する。
いくつもの区画に区切られたテーブルには、酔漢がたむろし、その相手を、厚化粧の中年の婦人達が相手をしている。
その婦人の殆どは、昼間出会っても近づきたくないような、ご面相だったが、酒で麻痺した、酔漢の目には、なかなかの美人に見え、彼らの手が、ご婦人方の胸や、腰に伸びていく。
だが、彼女たちは、その酔漢達の手を要領よく逸らしながら、ビール一本5千円と言う、暴利な酒を飲ませていく。
まさに、人外魔境、とでも言うべき所だった。(注、これはこの店だけの話です。)
そんな中に、一人だけ、他のご婦人方の様な、紛い物でない、本当に美しい女性が一人いた。
彼女の名は美夏。
葉月音楽学院のピアノ科の女学生だった。
ご存知の通り、ピアノ科は、多額の金が必要となる、受講科目である。
美夏は、普通のサラリーマンである、両親に負担をかけまいと、こうして、香歩という源氏名でコンパニオンをしていた。
「ささ、香歩ちゃんのみな、おじさんが、ついであげるよ。でへへ。」
「何を言うとる、香歩ちゃんは、ワシの酒を飲むんじゃ、貴様はひっこんどれ。」
「なにを!」
「おお、おもしろい、やるというのか!」
今日も今日とて、香歩(美夏)を取り合って、二人の客が凄み合う。
「止めて下さい、お客様」
美夏は、うんざりしながら、慌てて、仲裁に入る。
彼女の決死の努力で、乱闘はせずに治まったものの、店の奥では、店長が、渋い顔をして、彼女を見詰めている。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
部屋に変えると、今日、何度目かのため息を彼女は吐いた。
いいかげん、彼女は嫌気が差していた。
今のバイトは給料は良いけれども、くたびれた中間管理職や、やくざ紛いの遊び人をおだてて、持ち上げるのにも疲れてきた。
お店が上がるのが、9時半、それから、お客と適当にデートして、媚びを売っておけば、いくらでも貢いでもらえた。
高い給料に、客からの貢ぎ物。
確かに物質的には、豊かになったのだけど、その分、心に穴があいたような気がしていく。
いつしか自分は、この仕事を止められないような気がして、憂うつになる、美夏。
本来の目的である学資の確保には、充分すぎるほどの金も貯まったものの、「楽して、ぼろ儲け」を、覚えた今では、大好きだったピアノに向かう気にもなれない。
だから、部屋にすえつけられたピアノには、うっすらと埃が積もってしまっている。
かつて、ピアノを弾く為に、短く切り揃えていた美しい爪は、長く伸ばされ、奇麗にマニキュアが塗られている。
・・・私、何してるのかな・・・。・・・
・・・1年前に、ピアニストを目指して、入学した時は、あんなに、やる気だったのに。今の私は・・・。・・・
つい刹那的に、学資を得る為、入った水商売の世界で、成功する自分を、曇り硝子の向こうから、糾弾する、もう一人の美夏。
その、もう一人の自分に対し、仕方ないと、開き直る自分。
そして、そんな自分を嫌悪して、また落ち込む。
まさに悪循環だった。
そんな自分に終止符を打とうと、日曜日には、普通のバイトも始めてみた。
場所は、「土下座」という、怪しげなマスターが経営する喫茶店。
それまでの接客業で鳴らした、話術と笑顔で、たちまち採用され、始めてみたものの、何か、もの足りないようだった。
ふと、サイドテーブルの電話を見つめる。
その横の写真立てには、美夏と一人の男性が写っていた。
・・・どうしてるかなぁ、彼?・・・
写真立てを見つめながら、美夏は、そう、一人ごちる。
写真に写っているのは、ひとくせもありそうな、悪戯っ子のような表情を浮かべた、一人の青年だった。
いや、年の頃なら、高校生ぐらいだろうか。
全身に、はちきれそうな、若さのエネルギーを秘めた、そんな青年だった。
「健太郎君」
知らず知らず、彼の名が、美夏の形の良い唇から、零れる。
美夏が彼と出会ったのは、気分転換に始めた、喫茶店のバイトだった。
喫茶店、「土下座」のマスターが後見しているという、彼は、見た目そのままの、やんちゃな悪戯っ子だった。
ルックスに自信のあった、美夏にとって、最初は声をかけられても、そんなに気にならなかった。
夜の仕事を通じて、男というものに、徹底的に幻滅していたせいもあった。
だから、美夏にとって、彼は、こういう存在だった。
いわく、感じの良い、バイト先の同僚。
ただ、それだけだった。
男とか、女とか、関係なかった。
その関係が変わったのは、美夏が、香歩として、スターシアで働いていた頃、彼がやってきた事だった。
最近、良く来ている客だからって事で、顔を出したテーブルの客が、彼だったのだ。
その時の気まずさと、いったらなかった。
彼も、目を丸くしていた。
直後に、常連さんに呼ばれて、彼のテーブルから離れたけど、美夏にしてみれば、なんだか、裏切られたような気もしていた。
でも、彼は、「土下座」では、そんな事に、全く触れようとはせず、何時もと変わりなかった。
かえって、美夏の方から「何故、いわないの?」って、尋ねたぐらいだった。
すると、彼は言った、
「そんな話はどうでもいいんだ。俺の前では、楽しそうに美夏さんが笑ってくれてるなら、それで充分。」
美夏は、それまで、水商売をしていたというだけで、ふしだらのレッテルを貼りたがる世間にうんざりしていた。
店に来る客も、コンパニオンを卑賎な存在としか、認識しない客の多い事。
そんな中、そういうのを超越したような、彼のその一言が嬉しくて、美夏は、付き合いはじめた。
付き合いはじめてみれば、年下とは、思えない、しっかりした考え方を持つ彼の姿に、だんだんと、心引かれていく、美夏。
二人の付き合いは、見る見るうちに深くなっていき、毎週末には、デートを重ねる様になっていた。
そんな、ある日、彼が、美夏をマンションまで送った時、その事件は起こった。
マンションの前に、店の馴染み客が来ていたのだ。
彼の前では、できる限り、店の事を出したくなかった、美夏にとって、これは、痛恨だった。
美夏にしてみれば、本音を言えば、知らないふりしたいのだけれど、そんな事をすれば、店に迷惑がかかる。
店には、ややこしい関係の人、俗に言う、やくざもいるので、それは避けたかった。
だから、取り敢えず、客には、弟だといって、誤魔化したものの、彼自身は、かなり不服そうな感じで帰っていった。
それから、毎晩のように、彼に電話をするも、電話は空しくコールを続けるばかり。
嫌われたんじゃないかって、不安におびえながら、過ぎていく、毎日。
思いあまって、彼の学校を覗きに行くと、可愛い女の子と喋ってるのを見て、さらにショック。
彼に「さよなら」を言われる悪夢を見て、飛び起きた事もあった。
段々、やる気が薄れていき、昨日の夜の仕事は、無断欠勤までしてしまった。
それでも、彼が自分の事を見てないのだろうなって思って、自己嫌悪におちいるのは相変わらずだった。
・・・あ〜あ、もう、何もかも嫌になったわね。どうせ、わたしなんか・・・。・・・
生来の内気さを日頃、明るく振る舞う事によって、帳消しにしている反動か、こんな時の美夏は、とことん沈み込んで、際限ない被害妄想が、彼女をさいなんでゆく。
・・・私なんか、私なんか、私なんか・・・・・・・。・・・
繰り返し繰り返し、自分を傷つける事を楽しむかの様に、深く落ち込んでいく、美夏。
彼の事を想う度に、それは、自己嫌悪へと転化して行き、いつしか、表情に、苦悩の色が滲み始める。
気分転換にシャワーを浴びても、心に篭った憂さは流れ落ちるどころか、疲労を増しただけだった。
バスタオルをまいたままの姿で、ベッドに転がって、ぼんやりしてしまう。
身体中が、倦怠感に蝕まれ、うとうとと、し始める。
と、その時。
ジリリリリーン、ジリリリリーン
突然、電話が鳴り出した。
電話のベルに、ぼんやりした頭を覚醒させられながらも、うんざりした気分が、こみ上げてくる。
昨日までは、電話が、鳴る度、彼からかと期待しては、客からだったので、いいかげん、電話の音が嫌いになっていたのだ。。
今回も、客からの電話のような気がして、嫌々ながら、受話器を取る、美夏。
「はい、香歩ですが・・・」
さすがに、声だけは、にこやかだが、顔は笑ってない。
「もしもし、美夏さん、俺だよ、健太郎だよ。」
予想に反して、この数日間、待ち望んでた声が、受話器の向こうから聞こえてくる。
嬉しい誤算だった。
「健太郎君!?、良く、電話かけてくれたわね。」
返事にも、つい熱がこもってしまう。
そんな彼女を不審がるように、彼が美夏を窘める。
「何言ってるんだよ、俺が美夏さんにかけない週末があったかい?」
「ないわ・・・ね」
彼の言葉に、彼を信じきれなかった、自分を恥じながら、美夏は、そう答えた。
「だろ、そんな事より、明日、あいてる?」
「明日、明日は・・・・ええ、バイトは休ませてもらうわ。」
一瞬、マスターのいじけるか顔が浮かんだけれど、無論、無視して、そう返事する。
「じゃあさ、映画見に行こうよ。いま、良いのやってるんだ。」
「どんな作品?」
「それは、明日になってからのお楽しみ。美夏さんもきっと気に入る筈だよ。」
心なしか、彼の声に、悪戯っぽい響きが感じられる。
それが、何やら、嬉しくて、つい微笑んでしまう、美夏。
「わかったわ。待ち合わせの場所は?」
「何時もの通り、ミラクル座だよ。」
「ええ、ミラクル座で待ち合わせね、時間は?」
「じゃあ、夕刻4時に。」
「4時!?、妙な時間ね。まあ、良いわ、OKよ。」
「じゃあ、明日。」
「あれ、もう、切っちゃうの?」
声に、つい残念そうな響きが篭る。
彼も、それを察したようで、申し分けなさそうに詫びた。
「ごめん、これから、バイトなんだ。」
「そう、わかった。じゃあね。おやすみなさい。」
「おやすみ、美夏さん。」
チィン
受話器を下ろすと、軽く電話がなる.
気が付いたら、さっきまでの憂うつが嘘のように、晴れていた。
声の様子からは、彼は、気にしてなさそうだし、むしろ、気遣ってくれさえいた。
なんとなく、気分が、高揚してくる。
・・・明日はデート♪・・・
さっきまで、沈みまくっていたのに、今の美夏は、浮かれまくっていた。
・・・ふふっ、私って、現金ね。・・・
そんな自分にふと気づくと、彼の言葉に一喜一憂する自分に可笑しさを感じ、自嘲の笑いを浮かべながらも、美夏は考えた。
彼、という存在が自分にとって、以前よりも、遥かに大きな存在になっている事に。
そして、そんな彼に出会えた事に、幸せを感じながら、明日の為に、寝支度をする。
ベッドの中に潜り込みながら、美夏が最後に考えた事は、明日のデートに着ていく衣装の事だけだった。
ああでもない、こうでもない、と、色んな衣装の組み合わせを考えている内に、瞼がふさがり、いつしか眠りに落ちていった。
安らかな寝息が、規則正しく、唇から漏れ始める。
その寝顔は幸せそうな、笑みを浮かべていた。
そう、先程の悩みに満ちた顔が、嘘の様な、晴れ晴れとした笑みを。