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人の心の淀みのような焦れた思い。
カン・・・カン、カン、カン・・・。
紺碧の手のひらに乗る大きさの玉珠が、床に落ちた。それは、二、三回、小さく跳ね、軽い石と石がぶつかり合う音を立てる。コロコロと、方向性のないままに、転がっていくそれは、アルディスの足に当たり、ようやく止まった。
「やっぱり、上位の魔神が相手だと、ちょっとメンドイなぁ・・・」」
グッと、自分の頬に付いた血を拭いながら、アルディスは大きくため息をついた。浅く傷つけられた頬の傷は、流れ出ていた血を拭うと、それきり、出血を止めた。それを確かめた上で、アルディスは、背を折って屈みんだ。のんびりとした動作で、足元にとどまっている、鈍い輝きを持つ球体を拾い上げる。アルディスは、それをしみじみと眺め、困ったような笑みを浮かべた。どうしようもない、魔神の行動を憐れんでいるようにも見え、また、自分の内にある『魔王』と言う存在を皮肉に思っているような笑みにも見えた。
彼の視線の先には、無表情に槍を両手に持っているレイナードがいる。闇を色濃く抱えている魔神は、聖王の視線から逃れるように顔を背けると、槍を軽く振った。空を切る鋭い音を残し、槍は主の意思のままに、その姿を消す。何もなくなってしまった自分の手の内を見つめ、レイナードは小さく首を振った。
ゆっくりとした足取りで、アルディスが近づいてくるのは判って居た。だが、彼に視線を向けず、また、身動きをするわけでもなく、レイナードはその場にとどまり続けていた。
「ん、『封印』」
アルディスは小さくつぶやいて、手に持っていた、魔神の封じられた球体を差し出す。受け取ろうともしないレイナードに、それを無理やり握らせる。
レイナードは、掴まされた玉を、ノロノロと目の前まで持ち上げた。憂いを含んだ表情で、その封印を眺め、自嘲気味な笑みを浮かべる。
玉は、封じられた魔神の性質を表わして、濃い青い色に染まっていた。この内に封じられているのは、水の属性を持つ魔神。彼等は、平常は穏やかだと言うのに、激しやすく、感情の起伏が激しい。まるで、海の様に、穏やかな面と、激しい感情を併せ持っているのだ。そして、この球体に封じられた魔神は、その水の魔神の中でも高位に属していた。同じ属性を持つ、魔神の長カディスとも血縁である、尊ばれるべき魔神。
今回の強襲は、どうやら彼が企んだらしい。この水の魔神以外には、上位に位置する魔神はいなかった。長の血縁としての立場を利用して、中級にある魔神達を誑かしたと言うべきだろうか。もっとも、彼等にとっては、言いくるめた、誑かされたなどという関係ではなく、純粋に魔神の繁栄を求める上での、協力関係だったのだろうが。
「愚かな・・・」
「愚かだな。でも、彼等も彼等なりに必死だから、こっちも、後味が悪い」
そう言ったのはアルディス。レイナードの心内を見透かしたように、苦渋の影のある笑みを浮かべている。
「行こう」
アルディスは、それ以上は何も言わずに、先に立って歩き出した。
一族の者達と争わねばならない立場にあるレイナードに、アルディスは何の言葉もかけられなかったのだ。礼を言うことも、謝罪することもできない。その双方が、レイナードへの侮辱になると、判っている。
妬んではいても、傷つけるつもりはない。憎んでいる訳ではないのだ。むしろ、心の内に、似た淀みを持つものとして、アルディスはレイナードに好感さえ抱いていた。
レイナードにしてみても、同じだろう。さもなければ、どうして一族と対することが出来るだろう。レイナードには、アルディスに対する助力に対しては、選択権がある。助けるも、助けないも彼が選べることなのだ。長は、今回のことで、レイナードには強要はしなかった。ただ、どうするのかと聞いただけ。実際に、アルディスを助けると決めたのは、レイナードだ。
借りがあるからなどと言うのは、ただの言い訳だ。それ以上に、レイナードはアルディスを助けたかった。
リースの側に居たがゆえに、アルディスの側にも居ることになった。そのせいで、レイナードもまた知ってしまったのだ。聖王としての、アルディスの悲哀を。
「俺ばかりでもないんだな・・・」
「ん?」
「いや・・・何でもない」
アルディスの横を歩きながら、レイナードは首を振った。
「そっか・・・」
青年のような表情を見せ、アルディスは頷いた。
「ところで・・・他の魔神はどうなったかな?」
予想はついているであろうに、わざわざそんな事を聞いてくる。
レイナードは、その質問には答えず、手の内で、三つの封印の玉を持て遊ぶ。カチャカチャと、金属の擦れ合う音にもにた響きが、小さく聞こえてきた。
アルディスは、レイナードの無言などはまったく黙殺し、一人で会話を進めて言った。そこには、どこか、そう言った形の会話を楽しんでいるような振りもある。
「ま、ルーは問題ないだろうなぁ。前に素手で上位の魔神をのしちゃったしな」
そう言ってアルディスは、レイナードの表情を伺う。案の定、レイナードの表情が、ほんのわずかだが厳しくなったのを見届け、意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「バルスにしても、そんじょそこらの魔神じゃぁ、近寄ることもできないからな。何せ、光・風・水の三つの魔法が使える大神官だ。どの属性が来ても、気にしないからな」
「・・・何がいいたい?」
「いや、別に。ただ、他の二人の魔神も、ちゃんと抑えてあるだろうなぁと」
「魔神が腑甲斐ないと、暗に言いたいわけか?」
そう言って、レイナードが厳しい視線を向けると、アルディスも負けじとばかり冷たい表情を浮かべる。レイナードの凝視もまた、まっとうに受けられるものではないが、アルディスの今の表情も、ひごろが穏やかに見えるだけに、ゾッとするほどに凄味がある。
「そんな訳でもないさ。実際、魔神の内で最強であるお前は、ここにいるだろう?」
「・・・俺には、そんな実力はもうない」
「出さないだけだ」
「・・・あの時になくなった」
「そう思っているだけだろう?」
冷たい表情を、幾分和らげながら、アルディスはそう言った。だが、レイナードは表情をさらに厳しくさせ、相手を睨み付ける。
「お前に何がわかる!?」
「色々と」
「俺の力は、あの時、アレに奪われた。俺はもう、一介の魔神でしかないのだぞ!?」
「一介じゃないだろう。お前がそんなことを言ってたら、他の魔神はどうなる。能力の劣っている者達は?」
レイナードが必死になればなるほど、アルディスは表情を和らげていく。それどころか、今やからかうような笑みを彼に向けている。
だが、レイナードもルドラのような反応を示すわけではなかった。感情を抑え付けた表情で、上手を取ろうとするアルディスを睨み付ける。
「アルディス・・・お前は何が言いたい?」
「お前の、その悲観主義と被害妄想にはヘドが出そうだと言いたい」
「なんだと・・・?」
お互い、どちらともなく立ち止まっていた。
アルディスは、レイナードに挑むような視線を向けている。
「ずっと言ってやりたかったんだがな。お前の立場は俺の立場だ。それなのに、そこまで陰鬱とされると、俺はいったい何をやってるのかと、迷ってしまうんだよ」
「迷う・・・?」
「お前は確かに、『聖王』としての俺を理解してくれてるかもしれない。だけど、俺が封じてるものについては、目も耳も塞いでいる。見ようともしない。自分と同じ立場になったモノがいるのを、お前は認められない」
「貴様・・・!」
「言葉に詰まると言うことは、それなりに判っているってことかな?」
アルディスがそう言うと同時に、彼は状態を思い切り傾がせていた。封印の青よりも濃いアルディスの瞳には、拳を握り締めたレイナードの姿が映っている。レイナードは、端正な面を、怒りに歪ませている。
「お前に、何が判る!」
「じゃぁ、こっちも言わせてもらおうか。俺は、お前が抱えてたものを、自主的に引き受けてやってるんだよ!」
叫ぶと同時に、アルディスがレイナードに殴りかかった。避ける間もなく、レイナードもそれを奇麗に受けてしまっている。
レイナードが持っていた封印の玉が、三つ、床に転がった。だが、その音に気を取られることなく、アルディスはレイナードを見据えている。
「どうせお前のことだから、『あの事』については、リースにも言ってないんだろうが。何も伝えてもらえないことが、どんなものかも知らずに!」
「黙れ!」
最愛の者の名が出て、レイナードは一気に冷静さを欠いたようだった。再び殴りかかられたアルディスは、避けることも出来ず、そのまま壁に叩き付けられた。
「いってぇ・・・」
背中を打った時に、肺の中の空気を全て吐き出してしまったのだろう。アルディスは、激しく咳
こみ、顔をしかめた。息を整え、どこか見放したような表情になる。
「何か、今のお前を見てると、すごく腹が立つんだよな」
アルディスはそうつぶやき、壁から体を引き剥がした。床に転がっていた、魔神の封印を拾い上げ、それをレイナードに向かって突き出す。
無言で差し出された封印を、レイナードも無言で受け取った。アルディスの思いのままに、激高させられたことが気に入らないらしい。酷く機嫌の悪そうな表情だ。
「貸しだな」
アルディスはポンと、軽くレイナードの胸をこづいた。
「俺が悪いのか?」
「口論の時に先に手を出したほうは、悪者ということになっている」
アルディスも機嫌は悪いらしい。つっけんどんにそう言ってくる。
だが、彼の機嫌の悪さは、何もレイナードといさかいを起こしてしまったせいだけではないらしい。彼の視線は、今、この廊下の先へと向けられていた。
向こうから響いてくる、軽やかな足音。姿を見ずとも、遠くから感じられる気配で、走ってくるのが誰なのかは、判って居た。レイナードも、アルディスからそっぽを向いてしまう。
「レイ、主!」
二人の名を呼び、走ってくる女性。短く切った黒髪が、小さく揺れているのが見えた。魔神リースは、二人のすぐ目の前でピタリと立ち止まると、呆れた様子でアルディス達の顔を眺めた。まるで、予想通りだと言わんばかりだ。彼女の怒りを含んだ表情を見る限り、ウェヴに急かされて来たわけではないらしい。
「殴りあいをやったんですか!?」
「ちょっとだけ」
そう答えたのは、アルディス。なるべく、軽い調子で言ったつもりだったのだが、リースにはその言い方が気に入らなかったらしい。彼女は、不満を全面に押し出し、彼等を睨み付ける。
「あれほど、お控え下さいと言ったのに!」
リースは、アルディスにそう言ったかと思うと、今度は夫たる魔神を薮睨みに見据える。
「レイも。あれほど、主とのいさかいは控えてと、言っておいたのに!」
「リース・・・」
「もう・・・」
彼女は、大きなため息をついたかと思うと、片手で顔を抑えた。
レイナードは、そんな彼女に、労るような視線を向けた。だが、伸ばしかけた手が、彼女の手前で止まってしまう。
アルディスの表情が気になったのか、探るように彼に視線を向けた瞬間、レイナードは聖王の苦笑した表情にぶつかった。どこか、悲哀の篭った自嘲。冷たく、それでいて、皮肉った笑みだった。その笑みに挑発されるように、レイナードはいつもの様子で、リースに小さい声で謝罪ともつかない言葉をつぶやいて言った。
わざと、レイナードの言葉から注意を反らし、アルディスは目をつむった。彼の言葉など聞きたくないとばかりに、意識を聴覚から反らしてしまう。それでも、耳は言葉のいくつかを拾ってしまった。彼は、それから逃れる様に小さく首を振り、それから再び瞳を開く。
「・・・かつての四大陸の脅威か」
レイナードに、説教じみた非難をしているリースを横目で見ながら、アルディスは自虐的な笑みを浮かべた。もう一度頭を振る。
「ルーエル達の様子が気になるから、俺は行くから」
アルディスはそう言い捨てると、レイナード達の返事も待たずに歩き出していた。
始めはゆっくりと。それでも、廊下を折れた直後から、早足で彼等の側から逃げ出していた。
「あー、惨め」
クスクスと、暗い廊下にアルディスの笑い声が響く。
「もう、何百年経ってるんだったっけ?」
数えるのも億劫になるほどの、長い年月。
よくもこれだけの間、思ってもくれぬ女を愛せたものだ。我ながら褒めたくなってくる。
『つまらん感情に左右され、限界以上の力を引き出した』
これはレイナードの言葉。
「違うんだよ、レイナード・・・」
廊下を急ぎながら、アルディスは苦しげにつぶやく。人目がないだけに、今の彼は感情を露にしていた。大武聖でさえ、余り見ないアルディスの感情の発露。
急いでいたはずの歩調は段々とゆっくりになり、最後には、ピタリと止まってしまった。
アルディスは、両手で顔を覆い、それでもなお、笑い続けていた。
「つまらない感情に左右されたのは、俺のほうだ・・・」
笑い声は、高らかになり、やがて、闇に吸い込まれ消えて行った。
顔を覆い続けたまま、アルディスは思いため息をつく。勢いをつけ、手を降ろすと、何時も通りの感情を隠した表情に戻っていた。
「ルーにはバレるかな?」
誰に言うでもなくそうつぶやき、アルディスは大きく笑い声を上げた。