【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第二話−Bパート−

作・三月さま


 目を覚ました途端に襲ってきたのは、身を切るような激痛だった。そして、全身を覆うけだるさ。それは、夢から覚めたときに感じることの出来る、優しく包みこんでくれるような、甘いものではなく、全身を闇の底に沈めるような脱力感だった。それが、身を無理やり抑えつけるように、苦しめてくれる。

「・・・うぐっ!」

 その感覚にたまらず上げたうめき声に、気が付いてくれたのだろう、誰かが自分の上に屈みこむのが判った。薬湯の強い匂いが、鼻につく。

「大丈夫か?」

「あ・・・ここは?」

 うっすらとまぶたを開きながら、朱峯(シュホウ)は尋ねた。だが、その作業さえ億劫だ。彼は眉を思わず潜めた。それが、自分の弱った身体に呆れたからなのか、それとも、本当は痛みによるものなのかは、当人にさえも判らなかった。

 目の前に、壮年の男の顔が見えた。所々に、年齢を伺わせる皺と、そして、思慮深さが見受けられる。男の表情は、ずいぶんと穏やかで、それでいて、どこか疲れているようだった。

 男は、朱峯の上にかけられていた毛布をかけ直し、重々しく、もったいぶった様な態度で彼の表情を伺う。朱峯は、その仕草に好感は持てなかったが、彼が自分の事を気にかけてくれていることに気がつき、あえて文句を言おうとも、不快そうな表情を見せようともしなかった。

 朱峯の、表情を押し隠した面を見て、男は安心したような表情を見せた。疲れた面の合間に、わずかだが喜びが浮かび、すぐに消えた。

「うむ・・・この分なら、大丈夫なようじゃな」

「・・・ここは?」

 先ほどの質問を、朱峯は繰り返す。現在の彼にとって、重要なのは、その事だけだったからだ。見えるのは、上にある天井だけ。首を回すと、両隣に自分が寝ているものと同じベッドがあった。それも、延々と続くように、並べられているのだ。そこには、呻き痛みを訴える男達と、それらを伺い、手当してやる神官らしい男女の姿。それらの情景と、身にまとわり付いてくるような薬と血の匂いから、朱峯は今自分が居る場所の大体の検討を付けた。

 ここは、戦場とはまた異なる、生と死が隣り合せの場所だ。戦で傷ついた者や、死にかけた者が運びこまれてくる場所。

 朱峯の問いに、男は離れる素振りを見せながら、そっけなく、

「城じゃよ」

と言ってきた。それくらい、朱峯でなくとも、察しがつこうと言うもの。だが、男はわざと答えをはぐらかしているようでもなかった。ただ、答える気力がないのだ。恐らく、ここに運びこまれる者達全てが、彼に似た様な質問を浴びせかけてきたのだろう。尽きることのない、問いかけの繰り返し。そして、目を覆いたくなるような、怪我人達の状態。男が疲れるのも、無理はないと思う。

 それでも、欲しい答えを得られないことに、朱峯は苛立った。密かに寄せられた眉が、彼の心情を語っている。だが、そうやって見ても、男からちゃんとした答えが得られるわけでもない。ただ、彼の答えになっていない回答に、朱峯はため息をつくしかない。

 途端、また胸に痛みが走った。ため息をついた時に、わずかに身動きしただけだ。なのに、胸が激しく痛んだ。まるで、火箸を押し付けられたように。あるいは、ナイフで胸の肉をえぐられた様に。胸が、形容もし難い痛みを訴える。

 何かと思って、男がかけてくれたばかりの毛布を退かす。そこには、ま新しい包帯が、丁寧に巻きつけられており、その下がどうなっているかは、見られなかった。だが、それだけ見れば、痛み続ける胸の状態など、容易に予想がつく。

「俺は・・・」

 この場に篭る血の匂い。その呪われた液体と、まったくよく似た色合いの赤い瞳を閉じ、片手で顔を覆う。

 どうして、こんな所にいるのか。痛みで、朦朧となりがちな脳を無理に働かせ、記憶を手繰っていく。

 確か、将軍の命か何かで、城の外に打って出るように命令されたのだった。まったく馬鹿げた命令だと、朱峯は思っていた。城の雰囲気からして、戦況が切迫しているらしいことは、彼にも察せられた。その上で、外に撃って出ろなどと言うのは、死ねと言うのと同じだ。敵が、城を陥落させるために、間近まで迫っているのは、公然の秘密だったのだから。

 だが、上からの命令など、朱峯には、どうにも出来ないことだった。さらに愚かだと感じたのは、同じ村の連中だった。彼らは、この状況をまったく理解していなかったのだから。若い青年などは、外で闘えるなどと言って、無節操にはしゃいでさえもいた。

(馬鹿だったな・・・)

 胸が酷く痛んだ。この分では、自然完治を待っていたら、一年でも二年でも、床に縛られていそうだ。もし、自分がいるこの場に余裕があるのならば、多少の治療魔法もかけて貰えるだろう。その幸運に恵まれたとしても、数ヵ月は、不自由なままであることを覚悟しなければならない。こんなことになるのならば、さっさと軍から逃げ出しておけばよかった。ふと、そう思う。結果の見えていた、あの行軍の最中に、どこかへ逃げれば良かった。

 だが逆に、こんなことを考えついてしまう、自分の理性にも腹が立ったものだ。他の若者同様に、無邪気とも言えるほどにはしゃいでいられれば、どれだけ気が楽だっただろうか。

 朱峯には、村から出ている時期がしばらくあった。その間に、それ以前から、未熟だが身につけていた剣技を、師について修練もした。あの時期は、まだ少年とも言える年齢で、それゆえに、好奇心も旺盛だったのだ。そして、幸運にも自分の無謀さも自覚出来ていた。その時に無茶ともなる行動を諌めるために、ある剣士に目をつけ、見知っていた少女を見真似て付きまとい、剣を習っていた。

 彼からは、剣術以外にも、沢山のことを学んだ。壮年に入りかけの剣士。彼に朱峯は目をつけた。そして、朱峯が師と呼んだ人物は、不意に現われた少年を煩わしく思いながらも、次第に、息子か何かのように扱い始めてくれたのだ。そんな剣士から学んだことは数えきれない。例えば、戦の体勢を第三者の目から見ることなどだ。

 朱峯は判っていたのだ。自分達が捨て駒にされるであろうことを。たかが、辺境の村から徴兵した、端にも棒にもかからない、素人兵だ。それを、高慢な貴族達がどう使うかなど、徴兵される前から知っていた。そして、行軍を知らせる隊長格の兵が、どこか自信あり気に言葉を語る根拠が、一般兵を犠牲にして得られるはずの勝利からくることも、容易に見抜けた。

 だが、朱峯には、行軍を止めることなど、できはしなかった。自分は軍の中では、唯の兵士。幾ら剣の腕が優れていようと、知識があろうと、それだけの存在なのだ。下手に動けば、裏切り者だの、スパイだのと言われ、忙殺されるのが関の山だ。

 長い戦で、戦を起こしている張本人である貴族や諸公達も疲れ切り、そして苛立っていた。軍の規律を乱すようなことを言い出す、唯の一兵卒のことなど、簡単に殺してしまうだろう。所詮、平民など、彼等にとっては、ただの働き蟻ほどの価値もない、別個の生き物なのだから。

 こんなことなら、村から徴兵される形でなく、いっそ傭兵として参戦すればよかった。それならば、金の問題だから、うまく立ち回れれば文句も言われずに抜け出せる。それどころか、傭兵ならば、貴族方も、ある程度の腕があると見てくれるはずだから、一般兵よりは、もっと有意義な戦いに投じられる可能性もある。また、諸公が後の傭兵の集まり具合を考えているとすれば、彼等も傭兵が生き残れるような戦に、出兵させてくれるだろう。さもなければ、命が資本の傭兵は集まらなくなるから。

 だが、村から徴兵されたのでは何も出来ない。彼等は、多くの者が気がついていないとはいえ、生まれ育った村を人質にされると言う形で、軍に縛りつけられているのだから。朱峯も同じだ。最愛の少女を村に残してきてしまった。

「・・・七瀬」

 何時でも思い浮かべるのは、あの少女のことだけだ。一番容易に、まぶたに姿を描くことの出来る姿も、七瀬の楽しそうに笑っている顔だった。

 彼は、村に戻らなくてはならない。そう、彼女と約束したのだ。必ず戻ると。

 あの戦いで、城を出た後に、王子方の軍にぶつかられた所までは、はっきりと覚えている。何人も切った。ためらい無く、また、容赦もなしに。剣の腕には覚えがあったから、簡単にやられる気はしなかったし、やられる訳にもいかなかった。

 何人も殺して、傷つけて。心が痛まなかったのかと問われれば、その問を口にした相手を笑ってやれるだろう。あの戦場で、何を気にしろというのだ。こちらにだとて、惜しい命がある。果たさねばならない約束がある。他人のことなど、あの場所では、構っていられないのだ。

 切り裂いて、殴りつけて、殺して。

 そうやって、他人を傷つけ続け、疲労して、気が緩んだところで、前からつっこんできた、必死な形相の少年にぶつかられた。

「あぁ、そうか・・・」

 鮮やかに蘇ってきた記憶に、朱峯は重い息を吐き出した。

 少年の剣は、必死な突っ込みのせいなのだろう、躱し切れなかったのだ。それでも、何とか身をずらして、急所は避けたと思った。たぶん、今生きているのは、そのおかげだろう。

 そうして、向こうの方から喧騒が聞こえた。朱峯はそれを耳にしたとき、すぐに、それが大公の援軍の起こすものだと理解した。いや、正確には伏兵の吠哮だったと言うべきだろうか。あの兵は、決して、朱峯達がいる一軍を助けるために現われたのではないのだから。

 大気を轟かす叫び声に、王子方に属する軍が浮き足立つのが判った。

 朱峯は、両軍の喧騒の中、血の流れ出る胸を抑えながら、なんとか、仲間の死体の下にもぐりこんだ。王子方の軍はそれでも、突破口を開こうと、こちら側に向かってきていたからだ。まともに戦えない身になった以上、生きるために、逃げるか、それとも、隠れるかしなければならなかった。そして、胸の傷の状態から、たった一つ行える行動が、後者だと判断した。

 死体を持ち上げるとき、ふと、その青年の顔を見てしまった。あれは、確かに見知った顔だった。何故ならば、それは、同じ村から徴兵された、同じ年頃の青年だったから。村で何度も喧嘩をした。遊びもした。一緒に酒も飲んだ。そんな青年が、今は目を見開き、口から舌を異様なほどに飛び出させ、事切れている。

 そんな死体の下に潜り込んで、どうしただろうか。何を考え、何をつぶやいていただろう。

 よく覚えていない。血が止まらないことに、焦っていたことだけは、覚えているのだが。それ以外には、何も覚えていなかった。まるで、記憶に黒い霧がかかったように、はっきりしなかった。

 だが、別段そのことには苛立ちは覚えなかった。理由は判っていたからだ。簡単なことだ。朱峯は、耐えられなかったのだから。友人の死体を持ち上げ、その下に隠れてみても、そこで待つ孤独に、我慢できなかった。だから、記憶がプッツリと切れている。それは、覚えている必要もない、暗い闇の記憶だからだ。ただ一つの思いだけを抜かし、全てがすっぽり抜け落ちている。

「・・・城、か」

 ふと横を見てみると、並べられたベッドの上に、何人もの男達が寝かせられていた。誰もが痛む傷にうめき、のたうちまわっている。彼らが泣き喚いている声さえも、耳に痛く響いてくる。神経を逆撫でするような声に、朱峯は顔をしかめた。

 白い祭服を着て、辺りを歩き回っている神官達。彼等の存在が、ここにあると言うのも、皮肉なものだ。本来なら、神の言葉を伝え、戦争など非道だと糾弾するような立場だと言うのに、こうやって怪我人を助ける形で、戦争に参与してしまっている。彼等も不本意だろう。だが、助けを求める怪我人達を見捨てる訳にもいかず、彼らは忙しそうに立ち回っていた。

「はぁ・・・」

 男達のうめき声を聞きながら、朱峯はため息をついた。痛みに慣れてきてしまったせいか、それとも、逆に痛みが彼を正気づかせたのだろうか、少しずつ、朦朧としていた意識がはっきりしてきた。手先が洗い晒しのシーツに触れ、頭が固い枕の感触を伝える。

 その全てが、朱峯の存在を肯定してくれていた。それらの感覚が、朱峯は確かに、ここに在るのだと訴えかけてくる。

 自分は、あの死線から抜け出す事が出来た。まったくもって、信じられないことだったが。

 この場に立ちこめる血の匂いとは違い、戦場の匂いはもっと新鮮で、残虐さを掻き立てる興奮剤のような物だった。

 あの時、死体の下に埋もれながら、朱峯は自分も死ぬと思っていた。急所は避けたが、何時まで経っても、血は止まらなかったから。そのうち、出血死することは、明らかに目に見えていたから。

 そう、死ぬと思った瞬間に、七瀬のことを思っていた。彼女が、情けなく泣きわめいている様を想像し、苦しいはずなのに苦笑していた。同時に、無償に七瀬に会いたかった。彼女のことが、どうしようもなく愛しかった。これが、朱峯がただ一つ、あの血溜まりの中で覚えていることだ。

 しかし、死にそうになる間際にまで、あの子の事を思い出したと言うことは、やはり、自分はあの子を愛していたのだろう。

 哀れだから傍にいたいと思ったわけじゃなかった。義務だと思っている訳でもなかった。

 あんな状況で、やっと証明された自分の気持ちに、朱峯は安堵したのを覚えている。

 妹のように扱ってきた七瀬の、判れる間際の必死な言葉に答えたとき、実はまだ迷いがあったのだ。彼女を愛しく思っていたのは、嘘じゃない。傍に居続けてやりたいと思った気持ちも本物だと信じている。それでも、ずっと、彼女の傍にいてやりたいと思ったのは、本当は哀れみからと『約束』から来るのではないかと、疑っていたのだ。長い間、彼女に気持ちを伝えられなかった原因に、この迷いがあった。

 だが、もう何も悩まなくてもいい。それが、気持ちを軽くさせた。こんな状況でしか証明されない自分の気持ちに呆れながらも、朱峯は疑う必要もなくなった思いに安堵する。

 長い間、苦慮していたことなのだろう。不意に晴れた心の疑惑に、胸が軽くなった。朱峯は、怪我人にしては、ずいぶんとすっきりした表情になる。むしろ、この答えを得るきっかけとなった胸の傷さえ、有難く思っているようだった。

 折りよく、神官らしい中年の女性が通りかかった。先ほどの男から得られなかった答えを、朱峯は彼女から得ようとする。

「・・・すまないが」

「何ですか?」

「ここは、どこの城だ?」

 まっすぐに、はぐらかしなど許さないと言う態度で質問してくる朱峯に、女性は苦笑した。彼女は、今だここに来て日がそれほど経ってはいないらしい。先ほどの男性よりは、活発で意欲に燃えた表情をしている。

「アーザンバーランドですよ?」

「・・・そうか」

 女性の答えに、朱峯は低く呻いた。

 嫌な予感が当たった。

 あの野戦の一番近くにあった城が、大公側の最後の防衛線であるレークシャーの城。

 アーザンバーランドは、そこから大分離れた場所にある敵方の城だ。朱峯が、レークシャーの名前を口にせず城の名前を尋ねたのは、もしかすれば、敵方に拾われたかもしれないと言う予感があったからだった。

 だが、どうして自分は王子方の城にいるのだろうか。

 あの戦いは、大公側の圧勝だと思っていた。大公側の思惑通りに朱峯達の一軍は囮にされ、彼等を蹂躙しようとしていた王子の軍は、大公の伏兵に不意を付かれたのだから。そこまで、朱峯は、はっきりと見届けたのだ。だから、死体の下に隠れながらも、大公側の勝利を疑わなかった。

 それとも、あの後、何かあったのだろうか。

「大丈夫ですよ」

 朱峯の怪訝そうな表情に気がついたのだろう、女性は、快活だが、それでも疲労を隠し切れない面を、無理に微笑ませた。その無理矢理に作り出された笑みは痛ましく、朱峯は目を閉じて、それをやり過ごそうとした。

 女性はその態度をどう取ったのだろうか。見知らぬ相手に話しかけるには優しすぎるほどの、穏和な響きで言葉を続ける。

「敵であろうと、何だろうと・・・我々は、傷ついた方を放り出したりはしませんから」

「・・・敵・・・あぁ、そうか」

 また、ため息が漏れた。

 すでに、自分が敵だという事は、ばれていた訳だ。自分が転がっていただろう位置や、配給で与えられた装備を考えれば、朱峯がどちらの軍に属していたのかがバレても不思議はない。むしろ困惑するのは、自分の今の状況の方だった。

 こんな長く続いた戦乱のせいなのか、レークシャーノ城では、王子側の兵は、おざなりな扱いを受けていた。軽い怪我をしている一般兵ならば、国民であると言う理由で、恩着せがましく、いい加減な治療を与える。また、重症ならば、そのまま放置だ。

 だが、今の朱峯の状態は、そんな大公側の現状から見れば、信じられないほど優遇されているように感じた。こんな使い捨ての一般兵の怪我人を助けられるほど、王子方には余力があるのだろう。いくばくか、こういう徴兵された一般兵を助け、国民の支持を得ようと言う思惑もあるだろう。だが、そういう事にまで気が回ると言うことは、それだけ余裕があると言うことだ。

(この戦・・・やはり王子側の勝利なのか・・・)

 女性に聞こえないように、心の中でそうつぶやく。口に出して聞かれてしまっては、唯の媚びだと思われるだろう。それは、プライドが許さない。

 レークシャーの城が最後の防衛線だと知ってから、王子方の間近な勝利を感じていた。だが、これだけの余裕を見れば、万が一と思われていた対抗の逆転勝利もないように思う。

 どちらが勝とうとも、朱峯には関係ないことだった。だが、村が大公の領地に属していた以上、わずかにだが、苦い気持ちがないわけでもない。

 そんなわずかな表情を見て取ったのだろうか、女性は、安心させるように朱峯に微笑む。そして、ソッと、彼の胸に左手を置いた。空いた右手で、胸の前で小さく十字を切り、祈りの言葉を紡ぎ出していく。それは、何よりも尊い響きを持つ、神の言葉だった。ここに来る前まで、血塗られた戦場にいた者には、叱責のようにも聞こえる言葉。だが、その思いとは反して、それは心に染み渡るように、響いていた。どうやら、朱峯に対して、回復魔法を唱えてくれているらしい。

 次第に、胸に疼いていた傷の痛みが引いていった。女性は服装からすると、身分の低い神官らしいが、回復魔法の腕前は一品だ。胸の下の傷が癒されていくのが、それとはっきりと判るほど。朱峯ほどの傷の深い者でなければ、すぐにでも動けるようになるだろう。思わず、感心するような視線を、彼女に向けてしまう。

 この女性も、戦争がなければ、どこかの町の神殿で、子供の怪我でも直しているような神官なのだろう。子供好きする、中年の女性らしい、母性的な優しい雰囲気を持っている。本当に、こんな場所ではなく、もっと平和な場所で、平穏に過ごしている方が似合うような女性だ。

「・・・戦争、か」

 だが、その戦も、もうすぐ終わる。最終的には、大公を反逆者と見なしている、王子の圧勝となるだろう。

 もっとも、この結果もここ一年ほどの間、一部の間でずっと密かにささやかれて来たことだった。何時と起こるとも判らない、それは聡い者の予感だった。

 軍事的には、ほぼ膠着状態が続いていた。だが、王子の側には、高名な将軍が何人もいた。朱峯が耳にしただけでも、ドラゴンスレイヤーの名誉を得た将軍や、町一つを壊滅させた将軍などの名がある。軍略に優れた軍士もいるらしい。その点、大公側に徴兵されてしまった、朱峯の村は不幸だと言えた。王子側なら、まだ、大勢の村人が生き残れたかもしれない。同じように捨て駒にされる可能性があったとしてもだ。

 だが、村ぐるみで大公に反抗出来る訳がなかった。大公が有利だと判っていたのは、一部の者だけ。そんな連中でさえ、王子の勝利と言う結果は、あくまで予感でしかなかったのだ。そんな不確かな物に頼って、現在村の一帯を精力下に抑えている大公には反逆できなかった。そんな事をすれば、即刻村は滅ぼされるだろう。いくら、王子側が有利だと言っても、以前、大公は村の一つや二つ、簡単に潰せる力を有しているのだから。

「・・・せめて、もう少し王子が優勢だったらな」

 あからさまに無理な願いを口にし、自嘲する。いまさら悔いたところで、どうにもならない。全ては、既に時間の向こうだ。いくら後悔し、悩んだ所で、起こってしまったことが変るわけでもない。考えるだけ、無駄なことだ。どうせ考えるならば、未来に思いを馳せたほうがいいに決まっている。

 王子側は優勢。大公側は押されている。そして、そんな状況下で、朱峯の村は大公側の軍に利用され、使い捨てられた。

 大公は、これからどうするのだろうか。大公は、民を窮状から救うと蜂起したとは言え、王を弑逆してしまった。これは、大公にとっては、最大の汚点であり、また、弱みでもある。王子が優勢になれば、それだけ彼は軍事的にも、また、名目的にも不利になるからだ。大公が王の軍を破り、本来仕えるべきだった主を殺害したのは覆い隠すことも出来ない事実だ。子として、また、新たな王として立つために、王子は大公に対し、容赦はすまい。

 追い詰められた大公はどうするだろうか。きっと、死に物狂いの抵抗をするはず。大公についた諸公にしても、必死の抵抗をするだろう。王子は、自分についてくれた諸公のために、他の諸公の所領を奪わなければならない。それには、大公側についた諸公を罰し、その所領を奪うのが、一番簡単な手だ。それに抗うため、諸公も大公と共に、醜い抵抗を見せるはず。

 戦乱に一つの区切りがついても、終わりそうのない争いの気配に、朱峯は強い脱力感を感じた。いったい、どこまで争えば、貴族や諸公は気がすむのだろうか。

 彼自身が悩んだとて、仕方のないことを、朱峯がとりとめもなく思っている間に、女性神官の声が次第に小さくなった。静かな余韻を残し、呪文の詠唱が止む。

 女性は、ためらうように呪文を唱え終わり、再び胸の前で十字を切った。それから、彼の朱峯の顔色を伺い、彼の胸から手を除けた。彼女は、母親のような優しい笑みを浮かべると、他の病人を見るためだろう、傍を離れていこうとした。彼女の手を必要としている怪我人は、そこら中にあふれていたから。

 彼女を、わずらわせるつもりは全く無かった。だ、ふと気にり、朱峯は疑問を口にした。

「すまない、いま、戦いはどうなってる?」

 彼女が離れようとする直前に、朱峯はそう尋ねた。

 それに、嫌な顔一つせず、神官は答えてくれる。

「レークシャーが落ちて、大公様が落ちのびられたそうですが」

「レークシャーが・・・」

 朱峯が思わず言葉に詰まる。まさか、こんなに早く落ちるとは思わなかった。もう少しはもつと思っていたのだ。もしかすると、城が落ちるほどに長い間、自分は意識がなかったのかもしれない。それでも、レークシャー城の陥落は、朱峯にとっては、衝撃的な事実だった。

「・・・大公がどこに向かったか知っているか?」

 必死な朱峯の声。その言葉に、大公に対する儀礼が少しも含まれていないせいもあったのだろう、女性は声を潜めながら、この質問にも答えてくれた。

「大公様は、北の方に逃れられたとか。おそらく、北の山から、血縁があられるイルバースに逃れられるのではと、皆言っています。あるいは、北の山付近の城に新たに篭城なされるかもしれませんが・・・?」

「北の山・・・!」

「どうしたの?」

「・・・俺の・・・村がある」

 奥底から吐き出すような朱峯の言葉に、女性は痛ましそうな表情になった。彼女も、朱峯が何を懸念しているのか、判ったのだろう。それは、神官でさえ、容易に想像出来る事態なのだ。

 つまりは、北の山周辺が、最後の戦場になりうると言う事実。

 その事を、実際に心の中で言葉にした途端、朱峯の体は硬直した。もし、そんなことになれば、村はどうなるのか。いや、守る者もいない、七瀬はどうなる。

「くそ・・・」

 朱峯は、寝かされていたベッドから、何とか起き上がろうとした。それを見て、女性が慌てて止める。身を持ち上げた朱峯の肩を抑えつけ、他の神官達を大声で呼ぶ。朱峯にも、また、懇願するような口調で、思い止まるように訴えていた。

「何をするつもりなの!」

「行かなくちゃ・・・七瀬が・・・」

「駄目です。貴方の傷は、まだ塞がっていないのよ。それに、血も足りないのに・・・!」

 その女性の言葉が引き金になったように、朱峯の脳裏に一つの光景が浮かび上がった。自分の傷口から、止まることなく流れ出していた血の赤い色。それが、はっきりと思い出される。

 だが、その紅の色も、一人の少女の笑みの前に、あっさりとかき消されてしまう。

「離してくれ!」

 朱峯は、ほとんど力の入らない体で暴れ、なんとか、女性を引き離そうとした。自分でも、その行動が酷く子供っぽいものだと、判っていた。それでも、止められない。神官の腕を振りほどき、彼女を退けさせようと、腕を振り上げる。だが、その途端に、ふっと目の前が白くなった。体が横に揺らぎ、そのまま、床に倒れこむ。

 神官は、すぐに朱峯を抱き起こし、彼をその年齢らしい口調で叱責する。

「無茶をしてはいけません。貴方は、死んでいてもおかしくないくらいに、血が足りないのですよ!」

「・・・くそ!」

 ようやく騒ぎを聞きつけたのだろう、他の神官達もこの場に駆け寄ってきた。女性神官を助け、朱峯を抱き起こす。力なく彼等を見つめる朱峯を、あっさりと、ベッドの上へと戻してしまった。

 朱峯の息は酷く荒かった。胸も酷く痛む。暴れたせいだろう。もしかすれば、せっかく癒して貰った傷が、また開いてしまったかもしれない。

「どうして、そんなに・・・」

 母親ほどに年齢差のある神官は、そう言って言葉を詰まらせた。彼女も判ってくれてはいるのだろう、どうして、こんなにも朱峯が必死になるのかを。

 だが、彼女も完全には理解していないのだ。朱峯が本当に懸念していることを。朱峯も、誰に理解してもらおうとも思っていなかった。どうせ、話すだけ無駄なのだ。

 それでも、懸念は口をついて出て来てしまった。言葉にでもしなければ、やっていられない。

「・・・紅天の獣が出るかも、な」

 朱峯は、これほど無感情な声が人に出せるのかと思わせるほどの口調で、そうつぶやいた。

 それに、立ち去ろうとしていた神官の一人が反応する。彼は、まじまじと朱峯を見たかと思うと、不快そうに眉を潜めた。

「・・・今、なんて言った?」

「『紅天の獣』だ。知っているのか?」

「当たりまえだ。北の山周辺の出身なら、皆、知っている!」

 神官はそう言ったかと思うと、女性の神官に向かって、自分が朱峯を見ていると言った。流石に、これだけ暴れてくれる怪我人は、自分の手には追えないと思ったのか、女性は感謝を露にしてその場を彼に譲る。

 その場に残った神官は、線の細い男だった。若く、どことなく、気品もある。どこか嘘っぽい茶色の髪が印象的だ。その髪の色に対して、瞳の黒い色合いは、真剣でまっすぐな物だった。

「神官長を勤めている、芥穂(カイホ)と言う。話し次第では、手を貸すぞ?」

「・・・何故?」

「紅天の獣の恐ろしさを知っているからな」

「お前も、見たのか・・・?」

「十年前だ・・・だが、ハッキリと覚えている」

「そうか・・・」

「まぁ、あれが原因で、神官になったんだがな」

 自嘲気味にそうつぶやく芥穂に、朱峯は目を細めた。彼の、どこか遠くを見つめる、苦しそうな横顔に、自分の面を重ねる。

 同じだと思った。この青年も、自分と同じなのだと。

 同じ様な恐怖を見て、そして、似た様な惨状を見たのだ。

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