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ゆっくりと、意識が暗い水の底から浮かび上がってくるような感覚。それと共に、自分の体の全神経が新しく行き渡って行くような感じがする。手が柔らかい、かけ布団の肌触りを感じ、頬がザラザラとした枕の感覚を伝える。
七瀬は心地よい感覚に、目覚める事を拒んだ。だが、何か気に触った事でもあったのか、突然パッチリと、目を見開く。まず寝ぼけた様子で視線のみで辺りを見回し、そうかと思うと、パチパチと目をしばたたかせる。
そうやって、一通り辺りを探った後、彼女は、再びぼうっと空中の一点を見つめた。別に何がそこにある訳でもなく、いつもの彼女らしく、惚けているだけだ。それから、ようやくベッドの中で、我に返ったかのように、キョトキョトと辺りを見回し、ゆっくりと起き上がった。
「・・・ここは?」
今だに夢の中にいるように、小さく小首を傾げる。
向こうに火の気のない暖炉が見える。その上には、飾りの古っぽい陶器の置物の数々。それらは、小さな人形の置物ばかりで、その中のギョロリとした目つきの女の子の人形が、七瀬は大の苦手だった。今も、その人形と目があってしまい、あからさまに目をしかめる。
七瀬は、慌てて人形から顔を背けると、助けを求めるように、辺りをまた見回した。その七瀬の表情には、戸惑った様子など少しも見られない。自分がどこにいるかは、すでに判って居たからだ。ここは、彼女が昔からしょっちゅう遊びに来ている、長老の家。
だが、いくら七瀬が部屋の中を見回しても、生憎と、誰の姿も見受けることが出来なかった。ならばと、七瀬はもう一つの部屋の在る方へと視線を向ける。その部屋に続くにある扉は、何か目的をもったように、大きく開け放してあった。おかげで、七瀬はベッドの上に座ったままで、向こうの部屋を伺うことが出来る。そこには、大きめのテーブルが一つあり、そこに屈み込むようにして、一人の女性が座っているのが、見えた。
七瀬の、期待に満ちた視線が、彼女に注がれる。その、無言の要求に、女性はピクリと顔を上げ、七瀬が座り込んでいるベッドへと視線を向けた。フワリと、女性の面に笑顔が浮かぶ。
「あぁ、起きたのね」
彼女はそう言うと、ゆっくりと、こちらの部屋へと歩いてきた。柔和な落ちついた態度だ。中年の、決して若いとは言えない年齢だったが、それでも、同年代の女性達に比べれば、ずいぶんと美しいと言えた。豊かな、緑がかった黒髪を結い上げ、うっすらとだが、化粧もしている。衣服も、村の女性に比べれば、幾分、上等な物を着ていた。村の他の女性達とは、雰囲気そのものが、違って見える女性だった。
七瀬は、彼女の姿を見てニッコリと微笑む。懐いた小犬が絡むように、女性が伸ばしてきた手を握った。
「起きたよ、おばちゃん」
七瀬が元気よく答えると、彼女は満足そうに笑った。
「その分なら、大丈夫そうね」
そう言って、彼女は七瀬の頭を撫でてくれた。七瀬は目を細め、女性の手を感じるように、おとなしくされるがままになっている。
女性は、長老である老人の一人娘だ。ずいぶん前に夫を向かえ、彼との間に子も成した。だが、夫は子供が生まれてすぐに、病気でなくなり、彼との間に出来た子供も、戦争の中で亡くなった。あの、捨て駒のように扱われた一軍に、彼女の子もやはり居たのだ。
彼女、蘭彰は、中年ながらも、おっとりとした美人で有名だった。年相応の容姿だが、美人であることには変りはない。しかも、人当たりが恐いくらいによいので、皆に好かれてもいる。七瀬も、まるで母親のように接してくれる彼女に、よく懐いていた。珍しい事に、あの無愛想で通っている朱峯でさえ、彼女には頭が上がらないくらいなのだ。
蘭彰は、愛しそうに七瀬を抱擁し、ニッコリと笑った。
「七瀬ちゃん、お腹空いたでしょう?」
「うん・・・」
七瀬はそう言って、気が付いたように自分の腹を抑えた。
蘭彰の言う通り、妙にお腹が空いていた。まるで、一日も二日も、何も食べなかったようにだ。
「ぺっこぺこ・・・」
七瀬は、気力がないように、小さな声で、そうつぶやいた。それに、蘭彰はおかしそうに笑う。
「あら、おかしいわねぇ。昨日の夜に、お粥、三杯も食べたのにね」
「うそぉ・・・」
蘭彰の言葉に、七瀬はぷぅっと頬を膨らませた。
「七瀬、覚えてないよ!」
「あら・・・そうねぇ、半分眠ってたみたいだからね。よっぽど、疲れてたのかしら?」
七瀬の頭を、何度も撫でながら、蘭彰はそうつぶやいた。昨晩の様子でも思い出して居るのだろう。可笑しそうに、クスクスと笑っている。
まるで、最愛の娘に接しているように、蘭彰は柔らかい態度で、七瀬を愛しんでいる。そこには、過剰とも言える愛情が、見え隠れしていることもあった。だが、七瀬はそれを怪しむこともなく、満足そうに甘受している。
「・・・ねぇ、おばちゃん?」
「なぁに?」
「七瀬、どうしたの?」
ぼうっとした様子でそう尋ねる七瀬。彼女は、自分がどうしてここに居るのか、さっぱり判らなかったのだ。朱峯と遊んでいて、彼の後ろをついて回っている内に、村の外に出ていたり、彼の家の中に、気がついたら立っていたということは幾らでもあった。自分が、時々、朱峯でさえ、呆れ切ってしまうほどに、ぼうっとしている事も自覚している。
それでも、どう頭を捻ってみても、自分が蘭彰の家のベッドで寝ている理由が思いつかなかった。よもや、夜中に寝ぼけて、ここまでやってきてしまった訳でもあるまいし。
七瀬は、可愛らしい面をしかめ、蘭彰を見上げた。七瀬の、愚かな考えが判ったのだろう、蘭彰は苦笑しつつ、七瀬を優しく抱きしめた。暖かい腕が、七瀬を包み込んでくれる。その柔らかさに、七瀬は目を細めた。蘭彰もまた、七瀬の細く、頼りない、子供っぽい体を離すまいとするかのように抱き続けている。
「七瀬ちゃんはねぇ、山に行ったのよね?」
「うん」
「そこで倒れていたのよ。皆で心配して探してね、洞窟の所で、おばちゃんが見つけたの」
「・・・そうなんだぁ」
どこか不思議そうに、七瀬は頷いた。倒れていたと言う言葉に、実感が湧かないらしい。
「それでね、七瀬ちゃん、もう、三日も眠ってたのよ。あら、今日で四日目だったかしら?」
「そうなの・・・?」
蘭彰の言葉に、七瀬は首を傾げる。先ほどから、妙に気にかかっている事がある。何かと思い、心の中を色々と探ってみた。そして不意に、蘭彰がつぶやいた『洞窟』と言う言葉に行き当たる。
そう、その言葉が、ずっと心に引っかかっていた。
「あれ・・・でも、七瀬・・・」
ふと、何かを思い出したのか、七瀬はマジマジと蘭彰の顔を眺めた。
「ねぇ、おばちゃん?」
「なぁに?」
「七瀬ねぇ、『目』を見てたんだよ?」
「目?」
「うん。真っ赤な、大きい目」
その時の様子を思い出したのだろう、七瀬はうっとりとした表情で、つぶやいた。
だが、それに対する蘭彰の態度は、七瀬のものとはまるで対象的だった。
七瀬は、てっきり蘭彰がいつものように笑って頷いてくれると思っていたのだ。だが、彼女は七瀬の言葉を聞くと共に、サッと顔色を青くした。それも、真っ青に。
蘭彰は、今の今まで、子供を労るような仕草で、七瀬を抱きしめていてくれた。それが、、突然腫物にでも触れるような態度で七瀬を突き放した。呆然と、蘭彰を見つめる七瀬。彼女の目の前で、蘭彰は両手で顔を覆う。すぐに、彼女の肩が小さく震え出した。七瀬はただ、突然拒絶されたショックに、そんな蘭彰の様子を眺めているしか出来なかった。
蘭彰が泣いて居る。そのことに七瀬が気が付いたのは、二分も経った後だった。
小さく、蘭彰の肩が揺れていた。嗚咽が部屋に響く。悲しく、苦しげな声に、七瀬は目を丸くして、蘭彰に取りすがった。
「お・・・おばちゃん!?」
「ごめんなさい、何でもないのよ・・・」
七瀬を心配させないようにしようとしているのか、蘭彰はそう言う。だが、泣いている限り、七瀬を心配させないなど、無理な相談だった。彼女の震える声が七瀬を傷つけ、嗚咽が彼女を慌てさせる。
七瀬は、オロオロと何も出来ないまま、蘭彰を見守るしかなかった。七瀬は、助けを求めるように、辺りを見回したかと思うと、今度は困ったように顔をしかめる。終いには、彼女自身が、泣きそうになり、目を潤ませ始めた。
「おばちゃぁん・・・」
「あら、嫌だわ・・・七瀬ちゃん、泣かないでちょうだいな」
七瀬の声の調子から、彼女が泣き始めたのが判ったのだろう、蘭彰は慌てて伏せて居た顔を上げた。七瀬の、潤んだ瞳をぶつかると、慰めようとでも言うのか、涙を頬に張り付かせたまま、薄く笑ってみせた。それに、七瀬も泣くのを何とか堪えようとする。そこでふと、気が付いたように蘭彰の顔を見た。
お互いが、泣き顔なことに、二人はマジマジと相手の顔を見つめる。どちらも、思わず自分が泣いていたことさえ忘れたほどだ。それから、まず七瀬がクスクスと笑い出した。それに続いて、蘭彰も噴き出してしまう。
「ごめんなさいね、ちょっと、佳紗御(カサミ)の事を思い出してしまって・・・」
「佳紗御・・・七瀬のお母さんのこと?」
「そうよ」
蘭彰は頷き、懐かしそうに七瀬を見た。遠くを見るように微笑む蘭彰の面は、本当に幸せそうに見えた。蘭彰の思い出している昔が、酷く幸せなものだった証拠だ。
「七瀬ちゃんは、佳紗御にそっくりだわ。その七瀬ちゃんが、佳紗御と同じことを言うから・・・あの子のことを、思い出しちゃったの」
「そっかぁ・・・おばちゃん、七瀬のお母さんと、仲良しだったんだよね?」
「そう・・・大好きだったわ」
おそらく、蘭彰の七瀬に対する好意は、かつての親友への思いから来るのだろう。
蘭彰は、すでに亡くなってしまった佳紗御を、七瀬と重ねている。そして、佳紗御の残した子供だと思い、七瀬を労っている。
蘭彰の、過剰とも言える、七瀬への好意は、全て佳紗御への友人以上の思いから来ている。
むろん、七瀬がそんな蘭彰の心の機微まで判るはずがない。ただ、七瀬は彼女の向けてくれる愛情を甘受している。奇妙で、微妙な関係だと言えた。ちょっとのきっかけさえあれば、二人の間柄はすぐに壊れてしまうだろう。蘭彰も、それが判っているからこそ、『娘』に対するように、自分の態度と思いを律しているような所がある。時々、そこからはみ出すことがあってもだ。
蘭彰は、目を細めて、かつて愛した友人の忘れ形見を眺めていた。
そして、ふと気が付いたように、小首を傾げる。七瀬の様子が、いつもと、どこか違う気がしたのだ。
「七瀬ちゃん・・・?」
「ん?」
「今日は、ずいぶんと、機嫌が・・・」
ずいぶんと、機嫌がいいのね。
そう言いかけ、蘭彰は慌てて口をつぐんだ。
何が理由なのかは判らない。だが、今、七瀬は朱峯の『死』を気にかけていないような所があった。どうしてなのだろうか。それが、蘭彰には少しも判らなかった。だが、何かに気をとられて忘れているのなら、そのまま忘れさせた方がいいと思ったのだ。少しでも、悲しみが遠ざかるのなら、その方がいい。それは、彼女が自分の苦しみを和らげるために切望し、果たせなかった手段だからだ。
だが、七瀬の答えは蘭彰の予測していた物とは、大きく違っていた。遠回しとは言え、朱峯のことを示唆されたのだ、すぐに七瀬は顔をグシャグシャにして、泣き出すものだとばかり思っていた。そのために、蘭彰は、七瀬を宥める言葉まで用意したほどだ。
それなのに、七瀬は泣き出すどころか、機嫌を悪くさせることもなく、上機嫌で蘭彰の腕を掴んでいた。
「あのね、おばちゃん!」
七瀬は、パッと顔を明るくさせたかと思うと、華がほころぶような笑みを見せた。
「朱峯、ちゃんと元気なんだよ」
「・・・え?」
七瀬の、子供っぽい物言いに、蘭彰はどう返答していいか、判らなかった。
そんな蘭彰の戸惑いにも気が付かず、七瀬はまくしたてるように言葉を続ける。
「教えて貰ったんだ。七瀬が泣いてたらね、大丈夫だよって、言ってくれたの」
「な・・・七瀬ちゃん?」
「どうしたの、おばちゃん?」
蘭彰が、どこか怯えたような表情になったのに、今度は七瀬が首を傾げた。
「おばちゃん?」
「いったい・・・誰に聞いたの?」
七瀬は気が狂ってしまったのだろうか。蘭彰の懸念はそれだった。
そう思わせるくらいに、山で見つける前の七瀬は、酷く落ち込んでいた。まるで、亡霊のようにも見えたくらいだ。
それくらい、七瀬は朱峯の近くにありすぎたのだ。それは、蘭彰にとっては微笑ましくもあり、また、同時に憎らしいことでもあった。だから、七瀬が落ち込んでいたときには、少なからず喜びもした。醜い思いだと恥じながら。
それでも、七瀬の絶望した様は、とても痛ましいものだった。見ている側が、苦しくなるほどに。村でも、同じように大切な者を失った女性が沢山いる。その中でも、七瀬が一番傷ついているように、蘭彰は感じていた。
その七瀬が、急に明るく『朱峯は生きている』などと言い出すのだ。不安にならない方がおかしい。
だが、七瀬はそんな蘭彰の気も知らずに、幸せそうに笑っているだけだ。
「だって、本当だよ。ちゃんと、言ったもん」
「七瀬ちゃん・・・」
「すっごく奇麗だったの。おっきくて、ちょっと恐かったけどね。これくらいかな?」
七瀬はそう言って、上に伸ばして見せた。七瀬が指差す先は、彼女の低い背丈のせいもあるだろう、精々が男性の身長くらいだ。だが、七瀬の持つ紫の瞳は、どこまでも遠くを見ている。
蘭彰には、七瀬が何を言っているのか、さっぱり判らなかった。それでいて、酷く嫌な予感も抱いていた。
「七瀬ちゃん、何を言ってるの?」
「うん?」
七瀬は可愛らしく笑う。
「『紅天の獣』のことだよ、おばちゃん」
何の恐れもなく、むしろ誇らしくそう言った七瀬。
その言葉に蘭彰は、カクリと身を崩した。そのまま、支えを得ることもなく、床の方へと倒れる。
「おばちゃん!?」
七瀬の悲鳴のような声に気が付いたのだろう。それとも、蘭彰が倒れた時の物音に慌てたのだろうか。家の主である、長老が部屋の方へと走って来る。
「七瀬、何があったんじゃ!?」
老人の怒鳴り声。だが、七瀬は、突然倒れた蘭彰と、老人の剣幕にオロオロするばかりで、的を得た答えを返せないでいる。
業を煮やした老人は、年齢にそぐわない素早さで部屋に駆け込んでくると、慌てて娘を抱き起こした。
「蘭彰、どうした!?」
「あぁ・・・お父様・・・佳紗御が・・・」
「蘭彰!」
「佳紗御と同じだわ・・・七瀬ちゃんが・・・。佳紗御・・・佳紗御・・・」
蘭彰もまた、七瀬以上に要領を得ない言葉を発し、後はただ『佳紗御』とつぶやき続けるだけだった。手を空中に彷徨わせ、急に顔をしかめたかと思うと、今度はクスクスと笑い出す。七瀬でさえも、蘭彰の精神が錯乱しているのがよく判った。
老人が蘭彰を抱き起こしたのを見て、七瀬は慌てて自分が横になっていたベッドから起き上がった。皺のよっていたシーツを慌てて伸ばし、床を蘭彰へと譲る。蘭彰が横になったのに、その上に布団をかぶせてやる。顔をグシャグシャにしながら、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
蘭彰は、しばらく、ぼうっと視線を彷徨わせていた。その間も、笑ったり、泣きそうになったりと、表情はめまぐるしい変化を見せていた。そして、視線が、七瀬に止まると彼女は、ほうっと安心したようなため息を漏らした。
「あぁ、佳紗御・・・戻って来てくれたのね?」
「おばちゃん・・・?」
「ごめんなさい、許してね、佳紗御。ずっと、我慢してたのよ。でもね、貴方が二人目の子供を身ごもったって知って・・・」
「おばちゃん・・・。おじいちゃん、おばちゃん、変だよ」
七瀬は、しかめ面で老人を見る。自分が『佳紗御』と呼ばれてしまったのが、酷く不快らしい。蘭彰の事を心配しながらも、少し怒ったようにすねて見せる。
だが、老人の方もまた、いつもとは雰囲気が違っていた。恐ろしい形相で、娘を睨んでいる。それに、七瀬が怯えた様子を見せたが、まるでお構いなしだった。
「蘭彰・・・お前、まさか・・・」
「あぁ、お父様・・・」
蘭彰は、父の姿を見て、顔を覆った。
「ごめんなさい・・・私、佳紗御を取られるのが嫌だったのよ・・・」
「佳紗御・・・あれは、お主の仕業だったのか!?」
「そう・・・そうなのよ。佳紗御に思い知らせてやりたかったの・・・」
蘭彰はそこまで言ったかと思うと、不意にわっと泣き出した。
老人は、呆然と娘を見ている。
七瀬には、何が何だか、さっぱり判らなかった。ただ、蘭彰が酷く悲しみ、苦しんでいると言うことしか判らない。
「おばちゃん・・・大丈夫。泣かないで・・・?」
「あぁ、佳紗御・・・」
今や、蘭彰には七瀬が『佳紗御』としか見えないようだった。その名前でしか、七瀬を呼ばない。
蘭彰の手が、愛しそうに七瀬に伸びる。七瀬は、それを無防備に両手で包み込もうとした。しかし、老人のしわがれた手が、蘭彰の手を弾いてしまう。
「この、馬鹿者が!!」
老人は、忌ま忌ましそうにつぶやき、地団太を踏んだ。
「何と言うことじゃ・・・あれが、この馬鹿娘のせいじゃとは・・・」
「おじいちゃん・・・?」
七瀬が、どういう事なのかと、老人に聞こうとした時だった。
部屋の向こう、玄関がある辺りで、物音が起こった。それに、老人も七瀬も、反射的にそちらを見る。
七瀬達が驚く間もなく、テーブルの置いてある部屋を抜け、一人の少年が駆けこんできた。彼は顔を赤らね、肩で荒く息をしている。
「長老、大変だよ!」
「どうした!?」
それどころではないとばかりに、老人は無下に答える。
だが、少年にはそんな老人の態度など、構っている余裕はなかったらしかった。息を整えながらも、大きな声で怒鳴る。
「兵士が来るんだ!」
「兵士?」
「大公の兵だってば!!」
「大公の兵が何の用じゃ!」
「用もクソもないよ、早く逃げないと!!」
少年はそう言って、心配そうに背後を見る。まるで、今すぐにでも、玄関から何かが来ると怯えているようだ。
「殺されるよ!」
少年が必死に叫んだ言葉。
それに反応したのは、蘭彰だった。高い悲鳴を上げ、ベッドの上で暴れる。
「あぁ、まただわ。また、獣が来たのね。復讐をしに!!」
「おばちゃん!」
七瀬は、反射的に蘭彰に覆い被さり、彼女を抑えた。蘭彰は、七瀬に抑えられながらも、バタバタと暴れるのを止めない。それでも、必死に七瀬は蘭彰に食らいついた。そんな、彼女の必死な気持ちが伝わったのか、次第に蘭彰は暴れることを止めていく。
老人は、すでに娘より少年が伝えてきた自体の方が重要だと判断したらしい。彼の腕を掴み、何が起こっているのか、説明させる。
「いったい、何があったんじゃ。言うてみろ!」
「下の村から逃げてきた人がいたんだ」
「それで!?」
「そのおじさんの言うには、大公の軍がきて、食料とか出せって言われたんだって」
「無茶なことを・・・」
老人は、呻くようにつぶやいた。
長く続いた戦乱と、男達が兵として徴兵されていったせいで、村々の収穫は激減している。今さら、誰かにやる食料など、どこの村にもないはずだ。それを、よこせと言う。それから、何が起こったのかは、老人でも予想できた。
少年も、老人の表情を見て、勢いを得たのか、ますます興奮した様子でまくしたてる。
「ほら、下の村はまだ、男がいっぱい居ただろう?だから、嫌だって言ったんだって。兵は少しだったから、男達だけでも、追い払えると思って。いまさら、出せる食料なんて、なかったし」
この村でも、今年の収穫だけで、冬を過ごせるかどうかは、怪しい所だ。いくら男が何人も残っていたとはいえ、下の村でも、状況は同じことだろう。老人は、大公の兵が出したと言う無茶な注文に、顔をしかめた。
「それで、どうなった?」
「おかしいんだよ、大公の連中は!」
少年はそう言って、訴えるように腕を広げて見せた。
「それで、兵士が怒って、いさかいになってさ・・・後から来たって言う軍も加わって・・・皆殺しにされたって!!」
少年は、恐ろしげにブルッと震えて見せる。
老人はただ、静かな、それでも苛立ちを抑えた表情で少年の説明を聞いていた。頭の中では、村の長としての思考が、フル回転でめまぐるしく働いていた。そして、導き出せた答えは一つだけだった。
こうなってしまっては、村を捨てるしかない。
大公の軍が、村の一つといさかいを起こした。しかも、皆殺し。
これで、大公の軍がここ一体の村の協力を得ることはなくなったわけだ。十年前の事件から、このかた、北の山周辺の村々の結束は固い。それは、あの頃起こった『悲劇』から一致団結して立ち直った際に、固く結ばれた絆だ。
それを、大公も知らないはずがあるまい。彼は、こことは縁が深い人物だ。絶対に理解している。彼がしていなくとも、理解している側近が進言するに決まっている。
一つの村を襲えば、他の村が反抗する。それにより生ずる軍略的不利は計り知れない。
こうやって、北の国境近くまで大公がやってきたと言うことは、彼もずいぶんと王子方の軍に圧されているのだろう。もしかすれば、大公にとって、状況は切迫しているのかもしれない。
そんな、追い込まれた軍が、最後にやることなど、高が知れている。
大公も、機に乗じて王位を得ようとした人物だ。馬鹿ではあるまい。もし、結束した村々を放っておけば、自分にとっての足枷になることぐらい判るだろう。村々は、大公に復讐するために、絶対に王子方への協力を惜しまないだろうから。
それを防ぐためなら、大公は手段を選ばないはずだ。
そのように推量し、老人は決意を固めた。
「判った。皆をすぐに、北の山に散らせるんじゃ。それぞれ、持てるだけの食料を持って・・・」
老人は、最後まで言葉を言えなかった。
はるか向こうで、悲鳴が聞こえたからだ。小さく遠い声だったが、それでも突然にして耳を打った絶叫に、老人はギョッとなる。少年にしても同じだった、恐怖を面に張りつかせ、助けを求めるように、老人を見上げる。
「もう、きおったのか!?」
老人は慌てて窓辺に走り寄った。そこから、村が一様に見渡せるから。
少年は怯えきった表情で、老人と蘭彰を見比べている。
七瀬は、ただ、蘭彰にしがみついているだけだった。今や、蘭彰は静かに落ち着き、愛しそうに、七瀬の長い黒髪を撫で付けていた。その静かさは、この緊迫した状況では、気持ち悪いくらいだ。
「あぁ、佳紗御・・・ごめんなさいね、もう、しないから・・・」
「おばちゃん・・・」
「もう、絶対にしないわ。貴女を・・・傷つけようなんて」
切迫した雰囲気の部屋に響く蘭彰の言葉。
それは、酷くおだやかで、間が抜けて聞こえた。