【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第六話

作・三月さま


 森の木々がこんなに邪魔な物だと、今まで思ったことはなかった。

 少しでも早く七瀬の元へ。

 その願いの元、兵との争いを避けるために、わざわざ、森の中を選んで走っている。それでも、朱峯は自分の動きが酷く遅いように感じていた。それが、焦りからくる心理的な物だと言うことはよく判っていた。だが、早く、早くと、心ばかりが急いてならない。

 馬を乗り潰し、さらに、途中の町で買い換えさえもした。それでも、村にたどり着くまで三日もかかった。挙句に、やっとの思いでたどり着いた村は、十年前の惨劇もかくやと言う有様。

 遠目に見えた黒煙。それを見た途端、朱峯の脳裏に蘇って来たのは、あの十年前の村の様子だった。

 村は焼け、人々は黒い炭と化し、熱によって生身の肉が弾き飛ぶ。焼けた家の跡からは、蒸し焼になり、干からびてしまった、幼い子供が、よりにもよって、台所跡の釜から見つかったりもした。そして、その前には、子供を守るかのように存在する、母親のものらしい、焼けた人骨。

 あの子供の頃の心の傷が、一気に蘇ってきたような感覚だった。それどころか、自分は過って、十年前に舞い戻ってしまったのかと、一瞬勘違いしてしまったほどだ。あるいは、夢を見ているのではないかとも思った。

 それが現実だと教えてくれたのは、側にいる芥穂の存在だった。朱峯同様に、いや、彼以上に青ざめた表情で、今だ遠くにある村を見つめる芥穂。彼もまた、十年前の事を思い出しているであろう事は、明白だった。ともすれば、朱峯よりも辛そうな表情さえ見せる。

 十年前の悪夢の再来。そのショックから先に立ち直ったのは、より深く衝撃を受けていた、芥穂の方だった。彼は、既に疲れ切っている馬から飛び降りると、朱峯に森を抜けていけるのかと聞いてきた。村の中を行けば、余計な騒ぎに巻き込まれることを見越しての発言だ。

 朱峯はそれに答えるより先に、行動でもって、答えを示した。いや、考えるより先に、体の方が動いていた。彼は、馬から飛び降りるや否や、手近な森の中に飛び込んだのだ。そのまま、方向の検討を、長年の勘と森の様子から付け、背後にある芥穂の気配を感じながら、走って居た。

 森の切れ目ごとに、悲劇の騒音を聞きながら、二人は、それらを全て黙殺し走り続けている。人の悲鳴も、女性の助けを求める声も、何もかも、無視し続けた。助けることも、もちろん出来たのだ。だが、今の朱峯には、それだけの余裕がなかった。

 彼の心を占めているのは、唯一人の少女のみ。七瀬だけだ。彼女の安否だけが、彼の理性と感情の全てを支配していた。

 もし、誰かを助けている間に、七瀬に何かあったら?

 兵士と出会ってしまったために、彼女を助けることが間に合わなかったら?

 そう考えると、森の中から、悲劇の渦中である村の中へと飛び込んでいく事など、まったく出来なかった。ただ、焦りだけが、朱峯の足を早める。小枝が頬をかすめて、小さなすり傷を作ることにも構わず、また、下草が足を取ろうとするのをも強引に払う。

 そんな、朱峯の焦りを感じたのだろう。すぐ背後で、芥穂は、痛ましそうな表情を浮かべた。朱峯とまったく変りない速度で彼を追いながら、彼の背だけを眺めている。村人を助けることも、敢えて言い出さない。朱峯のそれによる苦しみは、既に判っているのだろう。それでいて、彼の無意味な焦りを、指摘してやるわけでもなかった。朱峯のなすがままに、放っておいてやる。

 また、小ぶりの木から張り出していた枝が朱峯の腕にかかった。今度は、他の枝より深く腕をえぐっていってくれた。裂くような痛みが走る。

 だが、その痛みも、朱峯の歩を緩めることは出来なかった。それどころか、それに勢いを得たかのように、朱峯はさらに強く地面を蹴る。

「・・・七瀬」

 絶望感が襲ってくる。心の下の方から、ジワジワと浸食してくるこの感情。それは、朱峯の心を萎えさせ、立ち止まらせようと迫ってくるかのようだ。それから逃れるように、朱峯は間近に迫っていた木々を腕で強引に払った。目の前にあった、薮のような木も、強引に飛び越す。

 いくら走っても、走っても、少しも身が前に進んでいないような焦り。そして、既に七瀬も兵士達の手にかかってしまったのではないかと言う絶望。その二つが、払っても、払っても、湧き上がってくる。

 その絶望を退ける言い訳を、走りながら朱峯は探していた。

 そして、不意にハッとしたように、彼は表情を歪めた。何か重大な事にでも思い至ったのか、走りながら舌打ちする。芥穂も、それは聞こえただろう。だが、それについては、何も言ってはこなかった。ただ、朱峯が焦っているだけだと、思っているのかもしれない。

 芥穂は、あいも変らず、朱峯に遅れることなく、また、彼に先行する訳でもなかった。ただ、忠実に、朱峯の後を追って走り続けている。

「・・・しかし、酷いな」

 横合いに、時々見える村の光景を言っているのだろう。朱峯の背後から、芥穂は低い声でそう呻いた。

「ここまで徹底するとはな・・・軍としての規律が徹底し、抜けなくなっているのか?」

「・・・何か知ってそうな言葉だな」

 走りながら、朱峯はそう言う。相変わらず抑揚のない声だ。彼の背を追っている芥穂には、彼がどんな顔をしているのか見えない。いや、見えたとしても、芥穂が朱峯の感情を読み取れるわけでもない。朱峯は、焦りながらも、それを前面に押し出すわけではなかったのだから。表情には出さず、ただ、行動の端々に、それらしいものを見せるだけだ。

「芥穂?」

「・・・さてね」

 芥穂は、朱峯の質問には答えず、ただ走り続ける。

 朱峯も、これ以上は聞かなかった。全力で走っているので、あまり口が聞けない。喋れば、それだけ息が早く切れることは判っていたから、無意識的に、無駄愚痴は慎んでいた。その代わり、必要な言葉だけを、手身近に告げる。

「抜けるぞ」

「もうか?」

 お互い、短い言葉で伝えあう。

 ザァッと膝丈で繁っていた低木の間を割って、朱峯が森から飛び出た。それに、芥穂が続く。お互い、木々の間を抜けて来たせいか、所々がボロボロになっていた。だが、それに構わず、再び目的を持って走り出そうとした。

 その途端、一人で辺りを怯えながらその場をうろついていた、兵士の姿が目に入った。その存在を認めると共に、朱峯が反射的に腰の剣を抜き払う。

『ガァン!』

 金属と金属がぶつかりあう、高く耳触りな音。無防備な兵士の、とりあえず構えたような剣へと、朱峯はわざと刃をぶつけた。そのまま、持っていた力任せで、兵士の事を無理やりに押し倒す。

 不意を付かれた兵は、強引に押し付けられてくる剣の勢いに、簡単に負け、身をよろけさせた。そこに、鎧の合間を縫って、朱峯の膝が腹部に入る。

 兵士は、グッと呻いたかと思うと、ガシャンと剣を取り落とした。身を半分に折り、苦しそうに、胃液を吐き散らし、呻いている。

 その横を、朱峯は無表情に走り抜けた。再び後を追う形となった芥穂は、横目で兵士から殺意が完全に消えているのを見届けてから、走り出す。

「・・・殺さないのか?」

 兵士の気配から注意を反らし、芥穂は朱峯の背にそう尋ねる。

「別に、殺したいわけじゃない。それに構っている暇もないだろう」

「それもそうだな」

 何が可笑しいのか、芥穂はクスクスと笑った。余裕の足取りで自分を追い、なおかつ、意味あり気に笑って見せる芥穂。彼に対し、朱峯は何の反応も示さない。

 怒りもせず、そいれでいて、疑問を抱く訳でもない。朱峯のそんな態度をどう思ったのだろうか。芥穂は、それ以上は何も言わず、ただ、抜けていく村の合間などに、鋭い視線を向けるだけだった。そして、再び兵が現われてもいいようにか、朱峯にも聞こえる程度の小声で、呪文らしい言葉をつぶやいておく。

「芥穂?」

 何の真似なのか。暗に聞いたつもりなのだが、芥穂からは答えは返ってこなかった。ただ、沈黙が背後にある。それ以上聞いても、答えはないだろう。朱峯はそう思い、口をつぐんだ。

 朱峯と芥穂は、森に沿って、村の外れを走っていた。これ以上、森の中を走り続けていても、時間の無駄だと、朱峯は判断したのだろう。途中で兵士に会うようなことがあっても、無理矢理、村の外れを抜けて行ったほうが、森の中を遠回りするよりは早い。

 ただ、急いていた。そんな朱峯を阻むように、また兵士が怯えた様子で、建物の影からよろけて出て来た。この兵士をも含めて、今まで遭遇した兵士の二人ともが、何かを警戒しているらしい様子に、朱峯は疑問を抱く。だが、それを兵士に問い正すような暇もなかった。

 時間を惜しむ朱峯の心を代弁するかのように、芥穂が不意に現われた兵を、用意しておいた魔法で一撃のうちに仕留める。殺した訳ではないらしい。その証拠に、朱峯が倒れた兵士の横を走り抜けた時、兵士は気を失いながらも、小さな呻き声を上げた。

 魔法の一撃をためらいもなく、飛び出てきた兵士へと放って見せる。その芥穂の仕草は、酷く慣れたもののように、朱峯の目には映った。

 目の前に迫ってきた、低い柵を速度を緩めることなく飛び越えながら、朱峯はその疑問を口にした。

「神官のくせに、人を傷つける事にためらいがないな」

「まぁな。本職じゃぁないから」

「本職じゃない・・・?」

「後で話してやるよ」

 芥穂はそう言うと、クスリと笑い声を立てた。道が広くなったせいだろう。芥穂は纔に速度を上げ、朱峯の横に並ぶ。横目に見た芥穂の表情は、こんな惨劇が起こっている場所にいると言うのに、ずいぶんと冷静で涼やかなものだった。まるで、人が傷つき倒れていくと言う状態に慣れてしまったかのような、見る者によっては、おぞけを呼ぶかもしれない表情。

 朱峯は、芥穂から視線を反らすと、まっすぐに、前を見据えた。このまま、この森に挟まれたような一本道を抜ければ、七瀬の家があるはずなのだ。

 そこに、七瀬はいる。絶対に。

 祈りと確信。その思いで、七瀬が家の近くにいると信じていた。山に逃れるとしても、村の状態に怯えているとしても、彼女は必ずあそこに居るはずなのだ。

 平安だった時に、朱峯を待っていたように、他にすることも見つけられずに、あそこにいるはずだ。家の前の少し開けた場所、七瀬はそこにいる。

 不意に視界の両脇に見えていた木々が切れた。目の前に、開けた地面が広がり、片隅に見慣れた家の姿を見つけることが出来た。それを見て、今まで唯全力で走って居た朱峯が、ようやく歩を緩めた。そのまま、一瞬だけだが立ちすくんでしまう。芥穂は間髪を入れずに、口早に呪文を唱えて始める。

 すぐに硬直から逃れた朱峯が、収めていた剣を引き抜いた。そのまま、注意を引くように大声を上げ、地を蹴った。

 目の前に、数人の兵士の姿が見られた。そして、その足元には、かつて傍にあり、見慣れた人々の姿。

「朱峯!?」

 突出した朱峯に、芥穂が声を上げる。だが、すぐに注意を促すだけ無駄だと判ったのだろう。中断していた詠唱を再開する。

 朱峯の叫び声と、芥穂の声に気が付いたのだろう。兵士達の何人かが、反射的に向かってくる朱峯と向き直った。今だ距離があったため、兵士達には余裕がある。一人で無謀に突っ込んできた朱峯を、新たな獲物と認めたかのように、侮るような態度で、三人の兵士が剣を構えた。残りは、相も変わらず、村人達の虐殺に酔っている。

「どけぇ!!」

 朱峯の必死の裂けび声にも、彼等は嘲りの表情を浮かべていた。それが、朱峯に常ならぬ怒りの表情を浮かべさせる。

 だが、兵士達との間は今だ詰まらない。それが、朱峯を焦らせる。

 あと少し。

 絶対に殺してやる。

 今まで、七瀬のためだと、何もかも抑えてきた積もりだった。だが、全ての抑えこんでいた感情が目のあたりにした村人達の力ない体を見て、爆発した。

 朱峯の剣が、兵士の一人の剣とぶつかった。

 勢いを得た長剣は、兵士の安物の剣を、安易に砕いてしまう。

「なに!?」

 今だ若い兵士が、自分の剣が砕けたことに声を上げた。他の兵士達も、そのことによろめき立つ。

 そのまま、朱峯は返す刀で兵士を肩口から剣を叩き付けた。

『ドッ!』

 戦場で何度も聞き鳴れた音が耳を付く。

 そこに、不協和音が響いた。か細い、少女の悲鳴。かつて聞き鳴れた声が、まったく聞いたことのない声音を上げていた。それに、朱峯は反射的に視線を、声のした方向へと向ける。同時に、彼の顔色が劇的に変わった。

「七瀬!」

 なんの皮肉なのだろうか。

 やっと来たのに。

 目の前に立つ、何人もの兵士の影に、求めていたはずの少女の姿が見えた。彼等が、無慈悲に剣を振るっているその渦中に。

 兵士達の合間に、蘭彰の背が見えた。その腕の中に、七瀬の怯え切った表情がある。顔をグシャグシャにして泣きながら、助けを求めているように、瞳を朱峯へと向けていた。彼女もまた、朱峯の姿を認めている。

「くそぉ!!!」

 目の前に立つ兵士達が、急に大きな壁のように感じた。焦るままに、乱暴に剣を振るい、兵士達を退けようとする。だが、その気迫は、兵士達を怯ませるどころか、逆に彼等を構えさせることとなった。さらに数人の兵士が、朱峯と相対するために真向かう。

 朱峯は叫び声を上げるとともに、剣を振るっていた。芥穂も、詠唱の済んだ魔法を兵士達に打ち込む。だが、芥穂が打ち倒せたのは一人だけ。

 兵士の大半が、朱峯と芥穂を迎かえ撃つために、こちらに剣を向けてきた。それでもなお、残りはまだ、虐殺を続けようとしている。村人を片付けた上で、朱峯を囲もうと言うのか、あるいは、血に狂い、我を忘れているのか。

 向かってきた兵士も、村人の虐殺を続けようとする兵士も皆、血走った目をしていた。先に出会った二人の兵士達のように、怯えた様子はない。彼等がすでに、完全な狂気に囚われているのは明らかだった。今さら、慈悲を抱いて殺しかけた村人を救うような真似はしないだろう。

 彼等によって続けられるのは、血に染まった虐殺のみ。

 もうだめだ!

 兵士を強引に押し倒し、次ぎの兵士の腕を落とした。その視界の端にある兵士が、狂喜に顔を歪めたのを認めてしまった。兵士の視線の先にあるのは、すでに事切れた蘭彰に庇われ、まるで無事な少女の姿。新しい獲物の姿に、兵士の狂気が膨らんだことが、はっきりと判った。

 いくら自分が目の前の兵を殺しても、退けても、もう間に合わない。

 そう思った瞬間に、絶望が体を縛った。一瞬隙の出来た朱峯に、兵士が襲いかかろうとしたが、そこを、近距離まで走りよってきたらしい芥穂が、兵士の腕を取り、溜めていた呪文を鎧へ直接叩き込んだ。

「朱峯!」

 全てが、一瞬一瞬で動いていた。少なくとも、朱峯にはそう感じられていた。

 芥穂の叫び声に促されるように反射的に、向かってきた兵士の剣を受け止めた。それでも、視線をその影にある七瀬から動かせなかった。

 兵士の剣が、さらに蘭彰のズタズタになった背に叩き込まれていた。七瀬は、襲ってくる衝撃に声を詰まらせ、さらに大粒の涙をボロボロとこぼしている。それでも、七瀬もまた、朱峯から視線を反らそうとしなかった。まっすぐに彼を見つめ、そして、顔をクシャリと歪めた。

 その表情が、無理やり笑ったように見える。

「七瀬ぇ!!」

 どうして、目の前でこんなことが起きるのか。見えないところで起こった出来事のほうが、まだ慈悲がある。

 朱峯は生まれて始めて、神と言うものを呪った。こんな状況を用意してくれる神と言うものを。

 芥穂がまた魔法を唱えていた。『神官』と言う呼称からは遠くかけ離れた体術で兵士の剣を避け、呪文が完成すると同時に、兵士の急所にそれを叩き込む。

 朱峯が視界の端にその姿を止めていた七瀬が、何かをつぶやいた。小さく。聞き取れないような声で。段々と減っていく仲間達の姿に焦れたのだろう。蘭彰の死体に切りつけていた兵士が、ついに彼女の体を無理やり七瀬から引き離した。そして、喜々とした表情で、地面の上にペタリと座り込んでいる七瀬の頭上に剣を振り上げる。

 その時だった。

 その場に居合わせた全員に暗い影がかかったのは。

 同時に聞こえた獣の叫び声。低く、腹の底に響いてくる、荘厳とも言える声だった。

 まるで、原始の恐怖を呼び起こされたように、皆が動きを止めた。七瀬も、剣を振り上げていた兵士も、その仲間達も、そして、朱峯も。ただ一人、芥穂だけが意識をはっきりと持ちながら、顔を歪めて天を見上げていた。彼は、短く呪文を唱えると、何かを掴むように、手を虚空に出していた。芥穂の手が、そこに現われた一振りの剣を掴む。そして、再び張り詰めた表情で天を見上げた。

 だが、芥穂ですら、天を覆いつくつした存在に大して、他の者達同様に怯えているようだった。カタカタと、呼び出したばかりの剣を握る手が振るえている。

「出たな・・・『紅天の獣』」

 喉の奥からしぼり出すように、芥穂は天を覆う紅の獣の名を呼んだ。

 絶望に満ちた、怯えを持った言葉に、朱峯がようやく我に返る。

「紅天の獣・・・どうして・・・なんだ?」

 朱峯は、信じられないと言ったように、空の紅を見上げる。

 その時、その場にいた誰もが、天を紅に染め上げる獣の姿を認めた。



 呆然と、兵士達が空を見上げている。誰もが、その荘厳な姿に見惚れ、我を失っていた。何を考えることもなく、思うこともできず、唯打たれたように、真の紅に染まった空を見上げていた。

 獣の叫び声が響き、誰かが『紅天の獣』の名前をつぶやく。それと同時に、七瀬も釣られるように、天を見上げていた。だが、真上を覆う真紅を見る前から、いや、獣の吠哮が聞こえた時から、七瀬には何が来たのかは、判っていた。

「紅天の獣だ・・・」

 七瀬は、地面に座り込んだまま、空をうっとりと見上た。皆が恐れを持ってつぶやいた獣の名を、親しみさえ持っているかのように、愛しそうに口にする。

 空を覆う紅の色が、彼女の瞳に映る。紅天の獣の巨躯が、七瀬の深い紫の色の瞳を赤く染め上げ、そこに姿を映し出す。

 天を舞っている一頭の巨大な獣。空を覆い尽くすばかりと言う表現は、決して誇張ではない。七瀬達の見上げる天上の全てが、その獣の巨躯と翼によって、覆い隠されていたのだ。そこにある全てが、獣の色である紅によって染まっている。

 空を舞い、地上を伺っているかのように見える紅天の獣。大きさは、その大仰な皮膜の翼を畳んだとしても、七瀬の家並みにあるのではないだろうか。いや、あるいはそれ以上。固い紅の鱗に覆われたそれは、どんな刃も通さないような強靭さを示している。紅の体は太陽の光と炎を反射し、さらにその身を赤く染め上げていた。四肢は、空そのものを踏み占めているかのように、まっすぐに伸ばされ、その巨体に見合うだけの広い翼は風を起こし風を切り裂いている。空の青全てを覆う翼を使い、『紅天の獣』は力強くはばたいていた。長い首を回しては、地上に立っている人間達を見下ろし、赤い瞳が、兵士の一人、一人を硬直させていく。

 七瀬はひとしきり空を見上げた後、気が付いたように辺りをキョロキョロと見回した。その視界に、先ほどまで自分を庇ってくれていた蘭彰の横たわった体が見えた。七瀬は、地面を這いつくばるように彼女まで近づくと、ユサユサと、彼女の肩を揺すった。真正面に見える背中は、服が突き立てられた剣でボロボロになり、酷く痛ましい。七瀬は、それに顔をしかめながら、蘭彰に気が付いて貰おうと、弱々しく彼女を揺すり続けた。

「ねぇ、おばちゃん・・・おばちゃんってば」

 すぐ横で、抜き身の剣を力なくぶらさげている兵士に気付かれないように、七瀬は小声で蘭彰を呼んだ。それでも、彼女が何の反応も示してくれないので、甘えるような声で、彼女の耳元にささやく。

「おばちゃん、もう大丈夫だよ、『紅天の獣』が来たから・・・」

 七瀬は、心底そう思っているのだろう。安心しきった声で、蘭彰にそう告げる。その安心の影には、朱峯のこともあるのかもしれない。どこか、気持ちが高ぶっているように、七瀬の面は高揚している。これでもう、回りに倒れている村人全てが、助かると信じこんで居る表情だった。その証拠に、蘭彰を抱きしめる手にも力が篭っていく。早く、彼女に、この状態に気が付いて貰いたいと、やや乱暴に肩を揺すっていく。

「ねぇ、おばちゃんってば・・・」

 蘭彰も、気が付いた後、空に紅天の獣の姿があるのを見れば、安心するだろう。七瀬の言葉を聞き、それにホッとした表情で答えてくれるはずだ。そうやって、また、いつものように笑って、七瀬の泣き顔に苦笑する。

 だが、その期待する答えが返ってこない。いくら揺すってみても、ささやいてみても、蘭彰はうんともすんとも言わないのだ。それどころか、身動き一つしない。

「おばちゃん・・・?」

 七瀬は、不意にビクリと体を振るわせると、キョロキョロと辺りを見回した。何か、嫌なことにでも思い当たったように、不安そうな表情を見せる。

 赤い液体がこびりついた剣を下げている兵士達。地面にグッタリと倒れている村の知り合い達。

 七瀬が長い髪にまったく構わないのを見て、縛ってくれたことのある女性もいた。夏に暑さでバテていた時に、井戸から汲んできたばかりの水をくれた、今年結婚したばかりの人も。一緒に遊んだこともある少女や、お説教を頭ごなしにしてくれた老女もいた。

 少し離れて、朱峯や知らない青年も立っていた。七瀬は、朱峯に助けを求めるかのように、何かをつぶやこうとした。だが、彼女の声は掠れるばかりで、言葉にもならなければ、音にもならなかった。ただ、パクパクと、口を動かすだけだ。

「あ・・・あ・・・」

 七瀬は、もう一回、蘭彰に取りすがった。先ほどより、はるかに乱暴に、彼女の体を揺する。ガクガクと、手や首が揺れてしまうほどに。

「おばちゃん・・・おばちゃん!?」

 これだけ揺すって見ても、蘭彰は何も言ってくれない。そのことに、七瀬は恐くなりつつも、確かめるように、蘭彰の顔を覗き込む。

 上から屈みこんで見た蘭彰の面。彼女の口の端からは、ツッと血が一筋も二筋も流れていた。顔は負い続けた苦痛のためか、醜く歪んでいる。だが、それでも、どこか満足そうだった。目は見開かれ、気持ちの悪いほどに眼球が飛び出している。それでも、彼女の口端はどこか笑って見える。

「ひ・・・!」

 何の変化も見せない蘭彰の面を見て、七瀬は思わず蘭彰の体から離れた。尻餅をついたまま、ズルズルと下がり、涙をため込んだ目で、蘭彰の背中を見つめる。

 天上で、再び獣が吠哮を上げた。だが、それに七瀬は顔を上げられない。吸い込まれるように、彼女の瞳は蘭彰の背の傷を見つめ続けていた。

 頭が酷く混乱していた。蘭彰に何が起こったのか、よく判らない。ただ、頭と胸がグチャグチャにかき回されたような気分だった。それでいて、胸をせり上がってくるものがある。それが、呼吸を詰まらせる。

「あ・・・あぁ・・・」

 死んでる?

 ふっと、一年ほど前に見た、祖母の死に顔が思い出された。だが、七瀬の祖母も、ここまで無残な表情で、体を強ばらせてはいなかった。むしろ、蘭彰のこの死に様は、大人達に狩られた獣のそれに良く似ているような気がした。

 ずっと前に見た、狩られたばかりの鹿の恨みがましそうな瞳が脳裏に浮かんだ。ゾッとするほど、気味の悪い目だった。だが、蘭彰の瞳は、それ以上に恐い。

「おばちゃん!」

 七瀬は、大きな声を上げると、慌てて蘭彰に取りすがった。彼女を無理やり起こすと、彼女の体を力一杯に抱きしめた。

「はぁ・・・はぁ・・・」

 吐き出す息が細かく震えていた。体も、指先も、足も、全てがおこりにかかったようにガタガタと震え始めていた。

 もう、蘭彰のわずかに残った体の温もりだけが頼りだと言うように、七瀬は、彼女を力いっぱいに抱きしめた。助けを求めるように、辺りに視線を彷徨わせた。

 以前、空中を旋回している紅天の獣に目を向け、そして、それが天空から動かないのを見て、新たな助けを探そうとする。村人達の姿を見回し、その死に顔を目のあたりにして、慌てて顔を背ける。それでも、七瀬は助けを求め続けていた。

 その視線が、ある一点でピタリと止まった。

 呆然と天を見上げている兵士達の向こう。

 そこに、同じように天を向けている朱峯の姿があった。

 彼の存在を視線の先に止めると共に、七瀬は再び口を開いた。なんとか、彼を呼ぼうとする。だが、以前、声は掠れ、言葉とならない。息を飲み込み、唾を何度も飲み下した。蘭彰の体に顔を付せ、勢いよく、顔を上げる。

 目をつぶり、顔を涙で汚しながら、七瀬はどうすればそんなに大きな声が出せるのかと思うほどに、声を張り上げ絶叫していた。

「朱峯!!!」

 まさしく、全身全霊をかけた叫び声。

 それに、朱峯がビクリと体を振るわせる。紅天の獣の呪縛から解けたように、反射的に、少女へと視線を向ける。

「七瀬!」

 朱峯は、七瀬の叫びを聞くと同時に、芥穂の止める間もなく、走り出していた。今だ、正気に返られない兵士達の合間を縫い、七瀬へと向かって地を蹴る。その彼を、一人、二人の兵士が、呆然と見送った。もう、彼等も何が起こっているか、判らなくなっているらしい。朱峯を止めることさえ、しようとしない。

 だが、七瀬の叫び声は、朱峯だけでなく、すぐ傍にいた兵士をも正気づかせたらしい。先ほど、七瀬に剣を振り上げたままの状態で、固まっていた兵士は、そのまま、原始の恐怖から起こる、恐慌状態に陥っていた。その兵士の叫び声と悲鳴が、他の兵士達をも正気づかせる。いや、正気づかせると言うよりは、本当の狂気に陥れていた。

 パニックを起こす兵士達。剣を振り上げたまま、訳の判らない言葉をつぶやく者もいれば、ヨロヨロとおぼつかない足取りで、この場から逃れるような仕草を見せる者もいる。絶叫し、狂乱する者もいた。

 だが、七瀬の叫び声と兵士の恐慌に、紅天の獣もまた、反応していた。獣は、一際大きく、翼をはためかせたかと思うと、勢いを付けて降下してきた。

「芥穂、伏せろ!!」

 『紅天の獣』の降下に身を固くし、ギリッと天を見据えていた芥穂。彼の背に、切羽詰まった叫び声が響いた。その声に彼が振り返るより先に、鎧姿の青年が、芥穂を押し倒す。

「安珠!?」

 驚いたような、芥穂の声。その声も、また、紅天の獣が起こす風の音にかき消された。ただ、獣の吠哮と、翼の音だけが、辺りの全ての音を覆いつくす。

 芥穂は、横目でなんとか、天を見上げ、状況を見据えようとした。邪魔な安珠の腕を払い、降下してくる『紅天の獣』の姿を求める。だが、上から襲ってきた風の圧力と、舞い上がった砂塵に、思わず目をつむってしまう。

 一際強く、突風がその場に居た者達へと、一様に襲いかかった。彼等のすぐ頭上で、降下していた紅天の獣が、ギリギリで舞い上がったのだ。

 芥穂は、地面ぎりぎりに伏せ、顔を腕で庇うようにしながら、地上の様子を伺った。その芥穂の目の前で、それでも少女に走り寄ろうとしていた朱峯が、獣の起こした風に倒されるのが見えた。

 だが、朱峯よりは、兵士達の方が酷い目にあっている。呆然と立ち尽くし、無闇に恐慌を起こしていたせいで、全員、無防備なまま、なぎ倒される羽目にあったのだ。

「・・・あれが、『紅天の獣』か?」

 覆いかぶさるように、芥穂を庇っている安珠が、喜々とした声で、そう聞いてきた。何が楽しいのか、芥穂にはまったく理解出来ない。

 芥穂は、紅天の獣が再び天に留まったのを見届けた上で、安珠を無理やりに押し退けた。それから、重々しく、鎧姿の安珠の言葉に頷いて見せる。

「ああ・・・あれが最後の、炎に属する古代竜・・・エンシェント・ドラゴンだ」

「あれがなぁ・・・」

「畜生・・・改めて見るが、あんなの、人間でどうこう出来るもんじゃないぞ」

 芥穂は天を見上げ、苦々しそうにつぶやいた。

 芥穂に続いて立ち上がりながら、安珠は可笑しそうに笑った。彼の視線はまっすぐに、天で再び旋回を始めた真紅のドラゴンに向けられている。恐慌に陥った挙句に、ドラゴンに軽く薙ぎ払われてしまった兵士達には、既に興味がないらしい。安珠は、彼等の存在さえ忘れてしまったかのように、注意さえ払わなかった。ただ、天を覆うばかりの巨大なドラゴンを、興奮さえ持った表情で見上げていた。

 ドラゴンの真紅の体。

 それが、あの古代の獣が『紅天の獣』と命名された由縁だった。

 こんな、辺境の土地だ。竜と言う種族の名前を聞いても、実物を見た者はあるまい。王都や都市ならば、実際に姿を見ることは出来なくとも、意欲に燃えた画家が描いた壁画や草子で、似た様な姿を見ることはできる。だが、この北の辺境ではそれも無理だったらしい。

 だが皮肉なことに、この辺境の地こそが、ドラゴンの住処に選ばれてしまった。そして、竜の実物を知らぬ村人達は、その『獣』に勝手な名前をつけたのだ。恐れと敬意を持って『紅天の獣』と言う名前を、あの神に近いと言われる古代竜に捧げた。

「ドラゴンの専門家として、どう見る?」

 知らず知らずのうちに、安珠は手を剣の柄に伸ばしていた。そのことに、彼は舌打ちする。あの巨大な天にある獣に、こんな物など通用しないはずなのに、無意識の内に剣に頼ってしまったことが、気にいらないらしい。

 芥穂は、そんな安珠の苛立ちに構っていないようだった。それよりも、既に立ち上がり、七瀬へと走りよろうとしている朱峯へと、注意を向けていり。

「朱峯、今のうちにあの子を・・・!」

 言いかけて、芥穂は言葉に詰まった。

 同じように起き上がった兵士が、恐慌のあまり、近くにいた七瀬に目を付けてしまったのだ。運悪く、兵士は先ほどの竜の降下で、七瀬のすぐ傍に飛ばされていた。兵士は起き上がると同時に、七瀬を見据え、狂った奇声を上げる。

 人間の『本能』だろうか。それとも、長らく戦場に居続けた者の勘だろうか。その兵士は判ってしまったのだ。いったい、誰があの巨大な炎のドラゴンを呼び寄せたのかを。誰の声が、あの紅天の獣を呼んだのかを。

 兵士は逆上し、剣を振り上げた。ただ恐怖と怯えにつき動かされるままに。

 朱峯が、兵士が剣を振り降ろすよりも先に、七瀬と彼の間に割って入った。だが、剣を払う暇も、七瀬を突き飛ばすことも出来なかった。

「七瀬!」

 祈るような気持ちで、朱峯は七瀬を自分の腕の中に抱えた。

「朱峯!」

 芥穂の絶叫が聞こえた。それに合わせたように、朱峯は七瀬の面を見て、表情を緩めた。そうして、かすかに笑ってみせる。

 そのまま、彼女を力いっぱいに抱きしめる。七瀬のために、剣撃を食らう覚悟は出来ていた。

 芥穂もまた、口早に呪文を詠唱していた。だが、それが間に合わないことは明白だった。芥穂の隣に立っていた安珠も、彼の動きから何かを感じたのだろう。素早く剣を引き抜き、地面を蹴っている。

 七瀬はただ、ボウッと兵士を見上げていた。朱峯の肩越しに、兵士の恐怖に引きつった面を見ることが出来た。先ほどの紅天の獣の降下の影響なのだろうか、兵士を見つめる七瀬の表情は、ひどく間の抜けたものになっている。

 兵士がもったいぶって振り上げた剣を勢いのまま降ろそうとする。それと同時に、芥穂が呪文を完成させ、間を置くことなく、打ち出そうとした。

 だが、完成から打ち出すまでの、一瞬の間に、兵士は剣を振り降ろしていた。安珠も、あと一歩、剣の間合いには遠い。

 襲ってくるであろう痛みに耐えるつもりなのか、それとも、ただ七瀬の怯えた表情に耐えられなかっただけなのか、朱峯が瞳を閉じる。ゆっくりと。

 同時に、絶叫が起こった。

 ただし、それは高い声ではない。低い、野太い絶叫だ。

 朱峯は、閉じていた瞳を慌てて開いた。振り返ると同時に、彼は目の前に信じられない光景を見る。

 自分と七瀬に向かって剣を振り上げていた兵が、一つの火柱となっていたのだ。青い、高度の灼熱を持った、火の柱。それに、兵士が剣を半ば振り降ろしたような格好で、飲み込まれていた。

 朱峯は慌てて、自分が走ってきた方へと振り返った。だが、そこには愕然となっている芥穂。手前にも、見慣れない青年の姿があったが、彼もまた、驚いたような表情で、剣を手に持ったまま、火柱を見据えていた。

 朱峯は、訳の判らないまま、七瀬を引きずる。背中が酷く熱い。火傷にまでは、ならなかったようだが、間近で起こった炎が、彼の身を熱していったらしい。

 火に包まれた兵士は、あっと言う間に炭となり、灰となった。その回りには、今だに恐慌に陥っている兵士が数人、転がっている。彼等から、七瀬を安全な場所、せめて芥穂たちがいる方に連れていこうと、朱峯は彼女を引っぱった。

 ズルリと、蘭彰の体が七瀬から離れた。その姿を見て、朱峯は顔を纔に歪める。七瀬は、蘭彰の地面に横たわる体を、ぼうっと見つめ、それから、ゆっくりとその視線を朱峯に向けた。

「しゅ・・・ほう?」

 朱峯に無理やり引きずられながら、七瀬はノロノロとした動作で、彼の頬に手を伸ばした。まるで、幻にでも振れようとするかのように、小さく震えた指先で、彼の頬をゆっくりとなぞっていった。

「しゅ・・・ほ・・・う・・・なの?」

「あぁ・・・」

「本当に・・・朱峯なんだね?」

「・・・帰ってきた。約束通りに」

「あぁ、朱峯・・・」

 溜めていた涙を溢れさせたように、七瀬は大粒の涙を浮かべた。一滴、涙が頬を流れたかと思うと、関を切ったように、後から後から、際限なく彼女は泣いていた。頬に残っていた泣き後も、新たな涙が消していく。七瀬は、顔をグシャグシャにして、朱峯にすがりついた。

 やっと、朱峯が戻ってきてくれた。

 こんな状況でも、来てくれた。約束どおりに、戻ってきてくれた。

 悲しみではなく、安堵から、彼女は泣いて居た。もう放さないと言うかのように、ギュッと彼にしがみつき、嗚咽を彼の腕の中で押し殺しながら。

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