【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第七話

作・三月さま


 芥穂は信じられない思いで、目の前の灰と化した兵士を見つめていた。

 黒く、ブスブスと音を立て、吐き気を催すような異臭を放っている人の焼けただれた死体。それは、さらに高熱によって燃やされ、あっと言う間に炭となってしまった。

 芥穂も、炎系の魔法を得意としているだけに、あれだけの熱量を兵士の回りだけの狭い範囲に収めることが、どれだけ難しいことかは、よく判っていた。それだけの高度な魔法が、たった今、目の前で展開されたのだ。しかも、魔法の詠唱もなしに。そう。魔法の詠唱はなかったのだ。ただ、魔力がわずかに感じられただけのこと。

 兵士を一瞬で火柱とし、灰と化した、あの『魔法』。あれは、芥穂が唱えたものではないし、もちろん、この状況でさえ、平然と立っている安珠が使ったものでもなかった。芥穂は紅天の獣に警戒し、なおかつ、次ぎの魔法を唱えるために意識を集中している最中だった。とてもではないが、他の魔法は使えない。逆に安珠は、炎とはまったく属性の違う氷系の魔法を使う質だ。低級の炎の魔法だとて操れはしない。

 あの魔法を使ったのは・・・。いや、魔法とも言えない、炎の力を繰ったのは・・・。

「くそ・・・」

 芥穂は苛立たしげに拳を握り締めると、その整った面を歪めた。それを見た安珠が、意地悪そうに笑って見せる。滅多に見られない芥穂のそんな表情がおかしいらしい。そんな彼も、芥穂と同じく、誰があの炎の魔法を使ったのか判って居るのだろう。心なしか、面が引きつって見える。

 他の者は、あの火柱が何による結果なのか、気が付かなかったのかもしれない。気の狂いかけた兵士達は、ただ天空を舞う紅天の獣に気を取られている。あの竜が、炎を引き起こしたとでも、思っているのだろう。

 朱峯は、この場にいる全ての人間に敵意を向けているかのように、酷く厳しい表情をしていた。そして、七瀬を、もう離さないとばかりに抱きしめている。その様子には、何が起ころうとも、構わないといった、やけっぱちな様子さえ伺えた。そんな彼の腕に篭る強さに、七瀬も応えて居る。

 ふと、七瀬の視線が動いた。こちらを見ている青年・芥穂に気が付き、彼を見返す。七瀬のその視線は、芥穂のものと真っ向からぶつかった。七瀬は、不思議そうに彼を見つめただけだったが、芥穂はあからさまに少女の視線から目を反らす。

 芥穂の隣に立つ安珠は、何気なく髪をかき上げながら、空を見上げた。天上にある真紅の竜は、一度降下したものの、後は何をするわけでもない。ただ、地上に気のあるフリをしながら、天空を飛び続けるだけだ。

 だが、その強大な体は、地上から簡単に見分けることができる。あれだけの巨体と形。竜以外では在りえない生き物だ。天を覆い尽くすばかりの巨躯と、そこからにじみ出る神々しいばかりの威圧感。それは、地上に這いつくばって生きることしかできない人間にとっては、畏怖しか生み出さない存在だった。恐怖そのものが、天空にあると言ってもいい。

 芥穂は、七瀬への注意を完全に断ち切ると、天を舞う真紅を睨み上げた。

「さすがは・・・古代竜だな。私が、この様だ」

 忌ま忌ましそうに、そうつぶやく。彼が両手で抱きしめる体は、幼い子供が恐怖に接した時のように、ガタガタと小刻みに振るえていた。今の言葉は、自分を叱咤するために発っせられたものなのだろう。彼は、何とか自分の中の恐怖を抑えこもうとしている。召喚した剣を握り締め、表情を引き締める。

 芥穂の隣に立つ安珠は、そんな芥穂の努力を、せせら笑っているだけだった。彼は、他の者達のように恐怖を見せることもなく、ただ星でも眺めるような仕草で、天に居続ける竜を見上げていた。そこには、気が狂っているのではないかと思うくらいの余裕がある。場馴れしたことからくる余裕ではない。心のどこかがマヒしているからこその無神経さだ。

 彼は、芥穂の必死な横顔を眺め、クスリと笑って見せた。

「どうした、ドラゴン・スレイヤーのくせに、竜をみて、ビビッてるじゃないか?」

「馬鹿を言うな。あんなモノ、ドラゴンじゃない。それ以上だ」

「なるほど・・・」

 安珠は頷き、また笑う。芥穂が彼の態度に苛立たしげな表情になるが、それに対してもまったく構った様子がない。

 その安珠が、ふと、気に入らない物でも見つけたように、朱峯へと目を止めた。安珠は、七瀬を守るように抱いている朱峯に視線を向けると、回りで訳の判らないことをつぶやいている兵士達に構わず、ずかずかと彼へと歩みよった。

 朱峯は、どこか回りの人間とは違って見える安珠を見て、不安を覚えたようだった。七瀬を抱いていた腕を解くと、彼女を自分の背に押し隠すように下がらせる。七瀬も、朱峯の厳しい表情を見て不安になったのだろう、迫ってくる安珠を見て、どうするのかと問いたげな表情だ。

 芥穂も、安珠の動きには気が付いているようだった。だが、止めようとはしない。いや、出来なかった。今、彼の全神経は、紅天の獣へと注がれている。あの獣が何か動きでも見せようものならば、すぐに対応できるようにと、身を引き締めていたのだ。あの竜に対して、人間が何か出来るとは、とうてい思えなかった。あれは、並みの竜以上の存在だ。だが、どうしても、体が構えてしまう。安珠が何をしようが、今の彼には止められないだろう。

 芥穂が、自分を制約する余裕がないのを見て、安珠は意地の悪い、酷薄な笑みを浮かべた。その笑みを見て、七瀬があからさまに怯えるが、彼はやはり気にしていない。ただ、自分の前に立ち塞がった朱峯へと、見下げたような視線を向ける。

「お前とその娘は何だ?」

「・・・アンタは?」

 朱峯は、始めて会う相手に対し、警戒心も露に睨み付けてきた。安珠の、あからさまな冷たさが、彼にそうさせるのだろう。

 だが、いくら睨まれても、安珠はただ、せせら笑っているだけだ。彼は、朱峯の背中にしがみついている七瀬を見て、クスリと笑う。

「いつまでも、その男に頼っているな。自分の身は自分で守れ。こんな場所で、そんな事をしていると、死ぬぞ」

 安珠は、自分よりずいぶんと年下の幼さの残る少女に向かって、冷たく言い放った。その言葉は、回りの狂った兵士達を指しているのではなく、今だ村の中にいるであろう兵士のことを示しているのだろう。あるいは、安珠の配下に追い散らされたであろう残兵よりは、村の人間そのものを意味しているのだろうか。

 七瀬は、安珠のその言葉に泣きそうな顔になる。だが、安珠は、そんな七瀬に反論は許さないとばかりに、厳しい視線を向けた。その上で、悠然とした動作で、向こうで怯えきっている兵達へと注意を反らす。

 七瀬は、ただ呆然とそんな安珠を見ていた。ここまで彼女に冷たい態度を取った人間は、始めてだったのだ。村の誰もが、七瀬を大事に可愛がってくれていた。それが、この青年だけは、限りなく冷たく、突き放すような所がある。七瀬は、そんな安珠に怯えきり、彼の態度に、どうしていいか判らない様だった。

 七瀬は、居心地の悪そうに視線を動かし、それを安珠の腰にある剣で止めた。それが、人を殺すことの出来る武器だと理解しているのだろう。すぐ側に見える剣に、彼女はビクリと震える。

 紅天の獣に恐怖している兵士以上ではないが、確かに怯えているらしい七瀬を、安珠はせせら笑った。紅の古代竜に恐怖するわけでもなく、また、死体の山の中で発狂するわけでもない。そのくせ、こんな剣一本に怯えて見せる。その、少女の無邪気な怯え様が可笑しかったらしい。安珠は、あきらかに、七瀬を見下している。

「これだから、女と言う生き物は嫌なんだ。まぁ、あいつらよりは、マシか?」

 安珠は、恐慌に陥り、気が狂いかけている兵士達を、侮蔑の表情も露に見据えていた。

 そして、今だ天を睨み付けている芥穂へと目を向ける。

 朱峯もまた、安珠の視線に釣られるよう、芥穂を見た。ここまで自分を連れてきてくれた、『神官』であり、また、何かを自分に隠し続けている青年。彼は、相変わらず端正な面を上に向け、赤い瞳で天を睨み付けていた。

 その芥穂を見ていた朱峯の瞳が不意に見開かれる。

「赤・・・?」

 違和感が、心によぎった。芥穂の瞳が、何か別人の物のように感じた。そして、その理由を朱峯はすぐに理解した。

 確か、芥穂の瞳の色は闇のような黒色ではなかっただろうか。

 朱峯は、ふと不安を感じ、剣を握っていた手に力を篭めた。芥穂は、その朱峯の表情に気が付くこともなく、天空を紅に染め上げたような、『紅天の獣』の巨躯を睨み続けている。

 芥穂に対する違和感が、朱峯に不安を抱かせた。今になって、自分が頼った人物が、実は謎を秘めた相手だと言う事に気付かされた気分だった。そう、朱峯は彼について、何も知らないのだ。瞳の色の異変の理由も、また、神官だと言うのに人を平然と傷つけることも。しかも、天を見上げる芥穂の表情は、今まで見たどの表情とも違って見える。その表情のせいで、疑問を抱きながら、朱峯はそれを口に出来ないでいた。

「芥穂・・・」

 不安のせいだろうか、朱峯の声はどこか頼りない。そんな彼の心を見透かしたように、安珠が馬鹿にしたように口をきく。

「いい面だろう。あれが、芥穂の本当の顔さ。滅多に見せないがな」

「本当・・・?」

「ドラゴン・スレイヤーとしてのな」

「ドラゴン・・・まさか!」

 何かに思い当たったのだろう、朱峯は愕然とした表情になる。彼は、不安と混乱の入り乱れた表情で芥穂を見つめ、それから、判らないと言った表情で首を振った。

 その朱峯の背に、何時の間に忍びよったのだろうか、兵が一人、ヨロヨロと近寄ってきた。敵意はない。ドラゴンの出現と、仲間の変死に完全に気が狂っているのだ。すでに、正常な思考能力すらも持ち合わせていないだろう。その、呆然とした表情を見れば判る。

 兵士の存在に、まず最初に七瀬が気が付いた。彼女は小さく悲鳴を上げ、朱峯の腕を掴む。朱峯も、すぐにその気配に気が付き、反射的に七瀬を庇っていた。

「朱峯・・・!」

 七瀬はおとなしく、朱峯に従おうとする。その彼女の目の前で、安珠が剣を抜き払った。

 自分の身近で引き抜かれた刀身に、朱峯が体を緊張させる。彼は、七瀬を庇うように一歩下がりながら、どこか呆けた表情をしている兵士ではなく、安珠へと注意を向けていた。

 安珠は、兵士の反撃に警戒することもなく、彼の前に走りよると抜き去った剣を振り上げた。安珠の剣は、わずかなきらめきを残して、目の前の兵の体へと吸い込まれるように、落ちていく。一瞬で、肩口から、胸元まで、やすやすと切り裂き、安珠は剣を引いた。

 吹き出た血が、安珠と朱峯に振りかかる。その中で、彼は鮮やかに剣を振り払って見せた。わざとなのか、剣から飛び散った血が、朱峯の頬へと飛んでくる。いくつかの赤い点が、朱峯の頬に残った。

 朱峯は、安珠の挑戦的な態度に顔を強ばらせる。彼の目の前に立つ安珠は、兵士の血さえ楽しむようにニヤニヤと笑っている。目を細め、挑発するように朱峯へと視線を流す。

 瞬間、安珠は引いた剣を朱峯へと向けていた。反射的に、朱峯も剣を引き抜き、その斬撃を受け止める。

『ガァン!!』

 金属の打ち合う音が、当たりに響き渡る。七瀬が悲鳴を上げ、それに気が付いたように、芥穂がようやく、視線を朱峯達へと向けた。今になって、ようやく、安珠が何をしているか、気が付いたのだ。

「安珠!!」

 激怒した芥穂の叫び声が当たりに響く。だが、安珠はそれに構うことなく、剣を払い朱峯へと打ちかかっていた。

「おい、何でお前がその剣を持ってるんだ?」

「な・・・!?」

 楽しみながら、どこか苛立たしげな安珠の視線。それが、自分の使っている剣に向けられていることに、朱峯はあからさまに戸惑って居た。安珠の突然の攻撃理由は、どうやら、この剣にあるらしい。だが、それでいて、何かを含んでいるような安珠の表情が、妙に気になる。

「何を言っている!!」

 剣と剣を力で押し合いながら、朱峯は判らないと言った表情で、安珠を睨み付けた。

 それを、安珠は今や、下げすさみの笑みさえ引っ込め、あからさまな憎悪さえ含み、受け止めていた。腹立たしくてならぬと言うかのように、激しく朱峯を睨み付ける。

「その剣は、俺と芥穂とで、殿下より頂いた剣ものだ。二振りで一つ。それを、どうしてお前が持っている!!」

 安珠が押しきろうとした剣を、朱峯はわざと引いて避けた。だが、下がったところに、再び安珠が切りかかってくる。その行動の早さに、朱峯は舌を巻いた。彼だとて、村を出て居る間に、無茶とも言える修練を重ねてきたのだ。生半可な腕ではないと、自負している。

 その朱峯が、押されるほどに、安珠の剣の腕は確かであり、勝っていた。彼は、余裕で攻勢に回りながら、再び疑問をぶつけてくる。

「答えろ、どうしてお前がその剣を?」

「やめないか、安珠、こんな時に!!」

 芥穂が、苛立ったように安珠に叫んだ。

 安珠は、それに一瞬戸惑ったように、剣を鈍らせた。だが、それも、朱峯に仕掛けさせるための、唯の『フリ』だったらしい。朱峯が安珠の隙を付いて踏み込もうとしたが、それさえも、彼は余裕で受け止めた。

「甘いんだよ、ばぁか!!」

 安珠は、芥穂が止めるのも聞かずに、剣を振り上げる。二人を止めるため、芥穂が剣を抜いた。そんな彼に向かって、一瞬だが、安珠は意味あり気に笑って見せた。

 安珠によって力任せに押し戻された朱峯は、今だ態勢が立て直せていない。

 芥穂は、目の前に浮かぶ含みある安珠の笑みに、一瞬動きを止められていた。

「安珠・・・まさか・・・?」

 誰の目から見ても、朱峯が安珠の次ぎの剣を受け止められないことは確かだった。

 七瀬にも、またそれは明らかだった。彼女は、顔を両手で覆うと、泣きそうな声で、高い悲鳴を上げる。さきほどまで繰り広げられていた惨劇と、朱峯に数瞬後に訪れるであろう光景が重なってしまう。

「やだぁ、朱峯!!」

 悲鳴は声にならない叫びになり、大気を揺るがした。

 ユラリと、空気が歪む。それに、安珠はニィッと満足そうな笑みを浮かべた。

「馬鹿・・・安珠!!」

 芥穂が、ハッと体を強ばらせる。彼は、一瞬の間に見届けた安珠の表情で、彼が何を企んでいたのか見抜いたのだ。同時に、最初の時点でそれを見抜けなかった自分に苛立ちを覚える。

 そして、炎が巻き起こった。

 それは、朱峯の目の前、安珠を中心に燃え上がった。安珠は、高熱だが紅の色を失わない炎に巻き込まれ、笑みを絶やす。真剣な表情で剣を地面に突き立てると、それに向かって、全力で呪文を付与していった。おそらくは、目の前で自分を食いつくそうとする炎への対抗魔法だろう。先ほどは、一瞬で兵士を炭へと変えた炎も、今は安珠を飲み込めずにいる。

 炎は焦れたように、その火力を増した。火柱の渦中にある安珠は、それに対して初めて、苦痛の表情を浮かべる。高熱が、彼の髪と肌を焦がした。安珠は何とか、自分の持つ魔力で、炎を退けようとしているようだった。だが、威力は五分と五分。いや、むしろ、炎の方が優勢にさえ見える。

「朱峯、その子を抑えろ!!」

 芥穂は、目の前の安珠と炎の魔力の争いを見て、そう叫んでいた。そうして、朱峯が七瀬へと視線を向けたのを見届けた上で、何のためらいもなく、安珠を巻き込んでいる炎へと突っ込んでいく。

 ボッと、嫌な音がした。だが、炎は新たに自分の懐に飛び込んできた芥穂さえも、取り込めずにいた。むしろ、芥穂は炎の中で、その瞳の色を濃くしたようにさえ見える。彼は、炎の中で先程安珠にされたように、彼を庇っていた。同時に、彼の炎への対抗魔法を助けている。

 朱峯は、横目で芥穂達の姿を止めながら、目の前で、泣きそうな顔で震えている七瀬の肩を掴んだ。七瀬は、呆然自失と言った様子で、火柱を眺めている。彼女の紫の瞳は、炎の照り返しによって、赤みを増している。火のきらめきが、瞳の中で妖艶と揺れているのが見えた。

「七瀬!!」

 朱峯が彼女の名を叫ぶと、紫の瞳が、ボンヤリと彼の姿を移した。七瀬は、ボウッとした表情で朱峯を見つめ、何度か瞬きする。

「朱峯・・・?」

「俺だ。判るな。もう、いいんだ。止めるんだ、七瀬!!」

「やめる・・・?」

 七瀬は、朱峯の言葉を口の中で繰り返した。ゆっくりと視線を芥穂達の方へと向け、彼等が抵抗している炎を視界の内に収めた。

「止める・・・」

 紫の瞳に、炎の赤い色を移しながら、七瀬はそうつぶやいた。途端、安珠を飲み込もうとしていた炎が、フッと嘘のように消えてしまう。

 芥穂は、突然にして消えた炎に、フッと肩の力を抜いた。疲れた様子で、朱峯へと視線を向け、感謝したように目を伏せる。朱峯はそれを見届け、うなずき返す。

「七瀬・・・」

 朱峯は、ホッとした表情で、七瀬を再び抱きしめた。その腕の中で、七瀬は目をパチパチと瞬き、小さく首を傾げた。彼は、そんな無邪気とも言える少女の仕草に、グッと表情を歪めた。彼女の髪に顔をうずめ、横目で芥穂達の様子を探る。

 二人は、どちらも地面に膝を付きながら、荒い吐息を繰り返していた。最初から炎に巻き込まれていた安珠よりは、芥穂の方がまだ余裕があるらしい。彼は足早に立ち上がると、ためらいもなく、安珠の顔を殴りつけていた。

 七瀬が、人を殴りつける音に驚いて、首をすくめる。

 朱峯さえも、突然の芥穂の行動には驚いているらしかった。唖然とした表情で、二人を見守っている。

 芥穂は、朱峯達の視線に気が付きつつも、安珠を叱責することを止めなかった。感情を抑えた声で、安珠に迫る。

「いったい、何のつもりだ。あの娘を挑発して。しかも紅天の獣がいる所で!!」

「いってぇ・・・」

 ノロノロと、安珠は打たれた右頬を抑えている。芥穂の力も馬鹿にならないらしい。安珠の頬は赤くなり、口端にはわずかだが、血がこぼれている。

「殴るかぁ、普通・・・」

「この馬鹿が・・・!」

 さらに、安珠に食ってかかろうとした芥穂。安珠の襟首を掴み、厳しい目で彼を見据えている。だが、結局、彼は拳を握りしめたまま、表情を歪めただけだった。

「・・・どうせ、私のためだと言うんだろうが」

 芥穂はそれだけ言うと、安珠を解放した。そして、そのまま、朱峯達へと向きなおる。

「朱峯・・・何か言ってもらおうか?」

「何を・・・?」

 朱峯は、七瀬を抱く腕に力を込めながら、芥穂を睨み付けた。

 芥穂は、その視線を平然と受け止めながら、ゆっくりと首を振った。

「私達は双方で、よく判らないことが多いらしいからな」

「・・・何が?」

「俺はまったく判らなくなってしまった。紅天の獣がどうしてこれ以上降下してこないのか・・・」

 ふと、安珠が地面に座りこんだまま、天上を見上げた。

 空に居続ける紅天の獣は、芥穂の言う通り、まったく攻撃の気配も見せなければ、何かをしようとする気配もない。ただ、天上を舞い、監視するように居続けるだけだ。不気味と言えば、不気味な行動だ。これだけの人間が騒ぎを起こしていても、攻撃しようとさえしない竜。芥穂の理解の範疇を超えている。

「なんか見張ってるみたいだな」

 殴りつけられたところで、めげるような神経は持ち合わせていないらしい。安珠は、平然とそう言ってのける。その言葉に、朱峯があからさまに動揺したことを、視界の隅に止めながら。

 芥穂もまた、朱峯の動揺を目敏く見つけていた。それに、表情を厳しくする。

「そして、先程の炎だ。私には、あれが、お前を兵士から守るために発生したとしか、見えなかった」

「・・・俺は知らない」

 そう言って、朱峯は首を振る。

「本当に、知らないんだ・・・」

「だが、炎の原因が、『判らない』わけではないだろう。推測はついているはずだ。お前には」

 芥穂は、落ち着いた、それでいて鋭い口調で、朱峯に言葉を投げかけていく。

「炎が本当にお前を守るために起きたのか、それとも、ただの偶然だったのか・・・安珠は、それを確かめるために、お前に切りかかった。そして、やはり炎は起きた」

 この質問が、朱峯のもっとも避けたがっているものだろうことを理解しながら、芥穂は敢えてその言葉を口にしていた。

「朱峯、その子は何だ?」

 静かに、紡ぎ出された言葉。

 七瀬は、その言葉が自分を指していることに気が付き、キュッと朱峯にしがみついた。



 重苦しい沈黙が、辺りを支配していた。誰も喋ることなく、また、物音一つ立てようとしない。耐え難いほどの、息苦しい静けさだった。

 朱峯はただ、七瀬を守るように立ち尽くし、芥穂はそんな彼を静かに見据え続けている。

 芥穂は、朱峯に言い逃れもまた、沈黙も許さないという態度を示し続けていた。それが、周りの静けさを強調させる。

 辺りに響くのは、ただ、苦しげな呻き声だけ。

 その声を、朱峯はどこかぼんやりした気持ちで聞いていた。そして、その声がいったい、誰から発っせられる物なのかに気がつく。

「あ・・・!」

 幾つも聞こえてくる、苦しげな声が、数人の村人のものだと判り、朱峯は愕然となった。今の今まで、完全に彼等の存在を忘れさっていたのだ。ただ、彼の心を占めていたのは、七瀬だけだった。その事実に、彼の面が苦しげに歪んだ。

 そんな朱峯の思いに気が付いたのか、芥穂がふっと肩の力を抜いた。彼は、敵と対峙するかのように、緊張しきっている朱峯の横を通り抜けると、小さく身動きした村人の側に膝をついた。彼の態度にいぶかしげな朱峯を見て、苦笑して見せる。

「『仮』でも神官だからな。応急処置くらいは出来る」

 彼は、言い訳がましく、そうつぶやくと、呻いている中年の女性の傷の上に手をかざした。彼が小声で神聖なる言葉をつぶやき始めると、その手に淡い光がともり、それと共に、女性の傷がゆっくりとだが癒され始める。

「あのドラゴンが気になってならなくせに・・・馬鹿」

 不安を隠せずにいながらも、村人を癒している芥穂。彼を見て安珠は呆れたようにそうつぶやいた。だが、彼自身は村人を助けようと言うそぶりさえ見せない。その代わり、まるで芥穂を代行するように、つまらなそうに天を舞う紅天の獣を見上げる。

「朱峯・・・」

 ふと、朱峯の腕にしがみついていた七瀬が、問いたげに彼を見上げた。

 その瞳にある問いかけを見て、朱峯は小さく頷いた。そうせざるを得なかったのだ。

 朱峯の了承を得た七瀬は、パッと彼から離れ、声を上げ、助けを求めている村人のうちの一人へと駆けよった。途中、既に事切れている蘭彰の姿を目に止め、顔をクシャクシャと歪めた。そんな泣きそうな顔のまま、知り合いの女性に屈みこむ。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「七瀬・・・?」

 その若い女性は、七瀬の姿を見て、頼りない視線を投げかけてきた。血がずいぶんと流れてしまっているのかもしれない。青白な面で、年下の少女を見上げている。切り裂かれた傷に顔を歪めながら。

 七瀬は、女性の傷が腹部にあることを見て、一瞬、怯んだような表情になる。ドクドクと、弱々しく流れている血に、怯えたらしい。七瀬は、女性の肩に手を置くと、助けを求めるように、今だ癒しの呪文を詠唱し続けている芥穂に振り返った。

 芥穂も、七瀬の行動と視線には気が付いていたのだろう。もう少し待ってくれとばかりに、小さく首を振る。

「一人で、こんだけの人間、どうこう出来る訳ないのにな・・・」

 カシャンと音を立て、剣を鞘に収めながら、安珠がそう言い切る。それでも、安珠は呪文の詠唱をやめようとしない。朱峯は、彼の行動に、どこか救われた思いがした。

 人を傷つけることにためらいのない、非情な人物かと思っていた。だが、それも自分の思い込みだったらしい。芥穂は、ちゃんと助けを求めている者を気にかけ、手を差し伸べているではないか。

「・・・お姉ちゃん」

 七瀬は、女性の上に屈みこみながら、悔しそうに唇を噛んだ。

 この惨劇。

 村人の多数の死体が地面を覆い、ほんのわずかな呻き声が、彼等を覆う大気に満ちていた。村人達の横たわる体の合間から見える地面は、流れ出た血によって赤黒く汚れ、血の甘く、重い匂を発散させている。数えるほどもいない村人が、小さく呻き、助けを求めるように身動きする。だが、一緒にここまで逃げてきた村人の大多数が、兵士の無慈悲な剣の前に、命を断たれていた。

「うぅ・・・えっ・・・」

 小さな泣き声が、七瀬の口から発っせられた。

 さきほどまでは、何時も通りの日常だったはず。それが、こんな事になってしまった。

 血の匂いと動かなくなった人の体に吐き気を覚えながら、七瀬はこぼれてきた涙を、手の甲で拭った。励ますように、泣き声で女性に声を駆けながら、何回もしゃくりを上げている。

 その七瀬の細い腕を、女性が不意に掴んだ。

 何事かと言うように、七瀬は驚いた表情で女性の面を覗き込む。

「お姉ちゃん、どうした・・・の?」

 彼女の顔を見た途端、七瀬は言葉を詰まらせた。

 女性は目を見開き、憎しみの篭った表情で、七瀬を見上げていたのだ。傷による激痛に、面を醜く歪め、それでも、燃えるような瞳で、七瀬を睨みつけてくる。

「アンタでしょう・・・」

「え・・・?」

「村燃やしたの、アンタでしょう・・・」

「お姉ちゃん・・・?」

 思わず、七瀬が後ろに後ずさる。女性は、少女を逃がさないとばかりに、怪我人とは思えない力で、彼女を引き寄せた。七瀬は女性に引かれ、用意によろけてしまう。まるで女性に覆いかぶさるような体制になった七瀬の目の前に、彼女の面が見えた。その憎悪の篭った瞳が、すぐそこにある。

「そんなに、親を殺されたのが悔しかったの?」

「お姉ちゃん・・・何、言って・・・」

「だったら何んで、朱峯を・・・」

 ゴボリ。

 濁った音を立てて、女性が血の塊を吐き出す。女性は苦しげに身を丸め、口の中に溢れてきた血を、吐き出そうと咳こんだ。

 七瀬は、一瞬、この隙に、女性から逃げ出そうと言う素振りを見せた。だが、苦しげに呻いている女性を見ていると、恐怖を感じながらも、彼女から逃げ出すことが出来なかった。血を吐き出そうとしている女性を支え、その動作を助けてやろうとする。

 それでも、女性は怨み事を口にするのを止めなかった。彼女は、一通り血を吐き出し、また七瀬の腕を掴む。

「アンタのせいよ、全部・・・アンタが・・・」

「止めろ!!」

 さらに、何かを言い募ろうとする女性の声を、朱峯の叫び声が遮った。

 七瀬は、その声の強い調子に、弾かれたように彼を見た。芥穂も、一段落付いた女性を、楽な姿勢で地面に横たえながら、あからさまに怯えたような表情を見せる朱峯を見ていた。

「止めてくれ・・・」

 朱峯は、彼等の視線に構う事なく、頭を抱えそう呻いた。

 それに女性は益々、憎しみの色を強めていく。彼の引きつった声を聞き、勢いを得たように、弱々しい声でまくしたてる。

「アンタが殺したのに、どうしてアタシ達がこんな目に合わなくちゃいけないのよ」

「止めてくれ・・・」

「稿朱さんのことは、アンタのせいじゃないの・・・!」

「止めてくれぇ!!」

 一際大きく、朱峯が叫び声を上げる。

 彼は、両手で耳元を覆いながら、もう聞きたくないとばかりに顔を振った。他人の前だと言うのに、感情も露にしてしまう。

「違う・・・俺が悪いんじゃない!!」

「朱峯・・・?」

 女性の側に居続けながらも、七瀬は心配しきった表情で、取り乱している朱峯を見つめていた。

 いつも無表情で、七瀬以外には、感情を読むことさえ難しかった朱峯。それが今や、誰にでもその焦りと恐怖が判ってしまうほどに、取り乱している。

「朱峯・・・朱峯!!」

 彼を正気づかせようとして、七瀬は大声で何度も彼の名前を読んだ。

 だが、その声も彼には届かないらしい。彼は取り乱し切ったまま、否定の言葉をつぶやき続けている。

「違うんだ、そんなつもりじゃなかった・・・ただ、紅天の獣が許せなくて・・・!!」

 朱峯は、自分の顔を覆っていた手を外すと、その掌へと視線を向けた。兵士の還り血で、赤黒く汚れている手を見て、ギュッと目をつむる。

 芥穂は、七瀬の横に膝を付き、若い女性の上に手を当てた。そうして、七瀬に意味あり気な視線を向ける。

 七瀬は、芥穂が何を言いたいのか判ったらしい。彼女は彼に向かって頷き返すと、向こうで言葉をつぶやき続けている朱峯へと、小走りに駆けよった。

「朱峯!」

 彼女なりの全力で走りより、彼の腕に取りすがろうとする。

 だが、それを朱峯が避けた。

 今までなかったことに、七瀬はビクリと体を振るわせた。唯でさえグシャグシャにしていた泣き顔を、一層歪める。

「朱峯・・・?」

「来ないでくれ・・・」

 朱峯は、それだけつぶやくと、苦しげに再び顔を覆う。七瀬を思わず拒絶してしまった自分を、責めているように、小さく呻く。

 だが、七瀬はその動作さえも、朱峯が自分が接するのを嫌がってのことと、思ったらしい。ボロボロと、大粒の涙をこぼし始める。彼女は、その涙も拭おうとせず、ただ、弱々しい表情で、朱峯を見上げた。

「ごめんな・・・さい。怒らないでぇ」

「七瀬・・・?」

 七瀬の声に、朱峯は、ハッとしたように顔を上げた。彼の目の前では、愛しい少女が、声を詰まらせ、泣きながら彼に向かって懇願していた。

「朱峯、嫌いにならないで・・・」

 朱峯に嫌われたと思いこんだらしい七瀬は、そう言って顔を覆った。

 頼りなげに震える少女の細い肩。それを見て、朱峯は彼女に手を伸ばしかけた。だが、それも止めてしまう。

「駄目なんだ・・・」

「何がだ?」

 そう問い返したのは、安珠。彼は、紅天の獣ではなく、村の方へと視線を向けながら、苛立たしげに舌打ちした。向こうから聞こえてくる、小さな馬の蹄の音を、戦場で鍛えた耳が聞き取ったらしい。部下である騎士達は、紅天の獣の出現を見て、川まで退きながらも、また村へと戻って来てしまったのだろう。愚かだと思った。命令を守らない騎士に腹立たしくもなる。

 そんな安珠の気持ちに気が付いたのか、芥穂は彼に苦笑してみせる。

「この状況ではありがたいだろう。怪我人を見殺しにしないですむ。そうなれば、寝覚めが悪くなるからな。責めるなよ」

「それは、お前だけだろう。俺はどっちにしろ、寝覚めは悪いんだ」

 安珠はそう言って、プンとそっぽを向いてしまう。

 芥穂は、どこまでも自己中心的な友人に、小さく肩をすくめただけだった。そして、これ以上の、村人への手当は、やって来るであろう安珠の部下に任せるつもりなのか、今癒していた女性を最後に、静かに立ち上がる。

 彼は、かぼそい泣き声を上げている七瀬の側まで歩み寄ると、痛ましげに少女を見つめた。

「『稿朱』とは・・・誰だ?」

「知らない・・・」

 泣き顔のまま、七瀬はフルフルと首を振る。『稿朱』と言う名前に、聞き覚えはあった。だが、朱峯の態度にショックを受けている七瀬には、それをどこで聞いたのか、誰がつぶやいた言葉なのかさえ、思い出せない。

 ただ泣くばかりで、要領を得ない七瀬から、芥穂は朱峯へと注意を移した。彼が視線を向けると、朱峯は射抜かれたようにビクリと体を硬直させる。あからさまに顔を背け、神官姿の青年の瞳を拒絶した。それでも、芥穂の視線から逃れられないのを知ると、観念したように、重い口を開く。

「稿朱さんは・・・七瀬の父親だ。そして・・・」

「そして?」

「俺が殺した人・・・」

 その発言に、芥穂でさえも驚いたように目を見開いた。七瀬は、訳が判らないのか、問いたげに朱峯を見つめている。

「朱峯・・・?」

「俺が・・・七瀬の父親を殺したんだ」

 朱峯は、そう言い、また顔を覆った。

 彼の重いため息が、七瀬の耳に響いた。

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