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呪われた血。
アディアナお気に入りの、東屋。そこに、エルフィナは、一人でポツンと座っていた。
時刻は、真夜中。聖王宮内で起きている者と言えば、見回りの衛兵くらいだろう。
そんな時間に、一人で闇に包まれる。
闇を恐い物と思ったことはないし、聖王宮内で警戒すべき事もなかったから、どこか惚けたように、東屋の屋根の端から見える空を眺めていた。
東屋の腰掛けに寄りかかり、背を反り返す。そうすると、視界の端に、空が見える。
これが昼ならば、横に姉がいて、ボウッとしている自分を見て笑ってくれただろう。
だが、アディアナも今の時間では、自室で眠っているに決まっている。
「・・・何やってるんだろ、僕」
こんな夜中に、忍び込むように聖王宮に戻り、自分の部屋に戻るのも嫌で、こんな所で時間を潰している。
目を閉じれば、容易に愛しい人の姿を思い浮かべることが出来た。
金のけぶるような、長く美しい髪。荒々しく抱けば折れてしまいそうな、細い肢体。ほっそりとした顔立ちに、優しい笑み。質素なドレスから纔に覗く肌は、ゾッとするほどに白く、その下に流れる血の流れまで、見えるのではないかと思うほどに、透き通っている。
「姉上・・・」
ただ一人敬愛する人の名を呼び、ため息をついた。
どれだけ求めても、あの人は手に入らない。
それは、よく身に染みて判っていた。
自分はアディアナにとっては、同性の『女』。ただ一つの繋がりは、アルディスを介しての、姉妹と言う関係だけ。
「はぁ・・・」
胸が震える。
酷く寂しかった。
手を伸ばし、何もない空を掴む。
どれだけ、無理やりにでも、この手の中に彼女を捕えたいと思っただろうか。
どんな手を使っても、手に入れたい。
だが、同時に、悲しませたくもなかった。いや、むしろ、この感情の方が強い。
たとえ、自分がどうなろうと、あの人だけは悲しませたくない。そのためならば、なんだってする。自分の心だとて、殺してみせる。
「・・・僕らしくもない」
背を起こし、立ち上がる。
パタパタと、思わず服をはたき、ふと、手を止めた。
思わず笑みがこぼれた。
どこか、野外で休むと、姉は立ち上がる度に、パタパタと埃をはたく。その癖が移ったらしい。
何か微笑ましい気持ちのまま、近くに立てかけてあった、愛剣を手に取る。アルディスから『拝領』した、気に食わないいわれの剣なのだが、使い易いせいもあり、何時の間にか、愛刀となっていた。
剣の鞘には、白く細い布が巻付けてある。剣を引き抜くときに邪魔にならない程度の、簡素な、飾りにもならない布。
昔、アディアナが髪を結った時に使った布だ。無理を言って、譲って貰った。
どんな魔力が篭った護りよりも、この布の方が価値がある。そう思い、血に濡れるかもしれないのを承知で、鞘の飾りにした。
点々と、布には赤黒い染みがついている。その殆どが、魔物の血だ。アディアナから譲り受けた布を、魔物の血で汚すことは気にいらなかったが、それでも、これが傍にあるだけで、気持ちが落ち着いた。その布の切れ端は、エルフィナにとっての、最後の歯止めのように剣に巻き付いている。
「さて・・・と、戻るか」
聖王宮の自室に戻るのか、それとも、また魔物の巣くう遺跡に戻るのか。エルフィナの口調からは、はっきりしない。
トンと、東屋の石床から、地面に下りる。
その途端、ゾクリと、寒気が足元から背筋を這い上がっていった。
「なに!?」
反射的に剣を引き抜き、天上を見上げた。
そこには、何もない。
ただ、月が煌々と輝いていただけ。
そう言えば、今日は満月だったっけ。
魔力の満ちる、月の宴の日。
夜中に目が覚めてしまった。
「・・・どうしたのかしら?」
けだるげに半身を起こし、アディアナはつぶやく。
闇の中。何も見えはしない。
そう思ったのだが、向こうのカーテンから差し込んでくる光に、部屋の中は思ったより明るく、照らしだされていた。調度の一つ一つも見分けられるほどだ。
「あぁ、満月なのね」
夜の闇でなく、月の光が勝っているように見えて、アディアナは微笑んだ。
闇は恐くない。だが、光の方が、彼女にとっては『近かった』。
日の光も、月の光も、彼女にとっては、愛しい光だ。
こんな夜に目が覚めたのも、月の光が騒がしいからかもしれない。光を司る精霊が、騒いでいるのだろう。
そう思い、ソッとベッドから抜け出した。手近にかけてあったガウンを取り、それを羽織る。裸足のまま、窓の近くまで歩み寄った。
カーテンをわずかに開くと、夜の闇にはまぶしいくらいの輝きを持つ月が見えた。
黄金の宝玉。
いつもより一際大きく、また、荘厳に見える月は、得難い宝珠のように、夜の闇に浮かび上がって見える。
その月の光に、手を差し出す。
日の光りより、淡く妖しい光は、アディアナに応えるように、辺りの空気を和らげる。
アディアナは微笑み、カーテン全てを開け放った。窓も開き、身を乗り出すようにして、月を見つめる。
「奇麗・・・」
どこか懐かしむような表情で、月をうっとりと眺める。
月の光に照らし出された彼女の横顔は、幻想的なまでに美しかった。
日の光の下で微笑む彼女は、清廉で優しげだ。だが、月の光の下では、彼女の壮麗さは妖艶にさえ見える。
眩惑の光は、少女を女として、照らし出していた。
だが、アディアナの横顔が、ふと曇る。
「・・・何?」
遠くに、何かが見えたような気がした。
月の光の下、何か、鳥のようなものが。
「・・・鳥じゃないわ」
こんな夜中に鳥が飛ぶはずもない。こんな真夜中に見つけてしまった異変に、アディアナはその端正な眉を寄せた。
鳥でもなく、あんなふうにはばたくモノがあるとすれば、それはただ一つしかない。
魔族。
闇と破壊に属するモノ。人に似た容姿を持ち、一部の魔族は魔神にも匹敵する力を持つ者がいると言う。魔物と呼ばれる獣たちを従え、人と相対している。
「・・・どうしよう」
衛兵を呼ぶのは簡単だ。
だが、もし間違えだったならば、どうなるだろうか。
聖王宮内に魔族が入ったとなれば、大騒ぎになるだろう。何かを見たからと言って、起こしていいような騒ぎではない。
アディアナは、しばらく思案顔で、夜の闇を見つめていた。もう一度、先ほどの影が見えないかと思ったのだ。
だが、何も見えない。
ただの見間違いだったのだろうか。それとも、聖王宮内に下りたのだろうか。
もし前者ならば、なんの問題もない。
だが、後者だったら?
魔王の復活を望む、魔族の一派だったら?
「・・・それに」
ギュッと、胸を抑えた。
何か、それ以上の不安が胸によぎる。
よく判らない不安。だが、あの鳥のような影を思い出そうとするたびに、心の奥底から、恐怖にもにた黒い感情が、じわじわと這い上がってくる。
それが何なのかわからない。だが、一つの確信だけは持てた。
誰にも、あの影の事は言えない。
何故だかは判らない。強いて言えば、光のせいだろうか。
月の光が、そう教えてくれたような気がしたのだ。
「・・・どうしましょう」
どうすればいいのか、判らない。
だが、結論を出すよりも先に、アディアナは窓を閉めていた。そうして、部屋から、物音も立てずに走り出る。
何かが、警告をならす。
感じていた。アディアナが向かう方向に、何かがいる。
濃い闇がある。
楽しそうな笑い声が、聖堂内に響く。
聖王宮内で、もっとも神聖であるはずの場所。
そこは、今、闇に汚されていた。
いつもは、聖王に祝福された場所らしく、光に満ちていた聖堂。そこには、黒い闇が立ちこめ、空気を陰鬱とした物へと変えていた。
その聖堂の中央。どこまでも続く、広い石張りの床の上に、闇の中心たる人物は立っていた。
クスクスと笑いながら、手を中へと差し出す。
不意に、その手首が切れた。何もしていないのに、手首が傷つき、血が滴る。
パタパタと、紅の血が落ちていく。
それを、闇はじっと見つめていた。赤い血液に見入っているかのように、一心に朱色の液体が落ちていく先へと視線を向ける。
「・・・闇の獣たちよ」
静かな、冷たい声が聖堂内に響き渡る。
「我が声に従い、我が命に服せ・・・」
声は、露骨な波紋を、闇に侵された空気へと投げかけていた。
言葉は響きとなり、声は大気を震わせる。
それと共に、床に滴った血が、生き物のようにうごめいた。それ自体が意思を持ったように、細い線となり、床を這いずり回る。
「・・・ふ」
満足そうな笑みが、闇をまとった人物の面に浮かぶ。
血は線を描き、文字を書き出す。赤い液体が、一つの魔法陣を作り出していった。
「来い・・・我が下僕」
強い強制力を持った言葉。
それに答えるように、法陣が淡く光る。
赤い光が、聖堂内を照らし出した。
聖堂に描かれた清廉な画を血の色に染め、神の印をも汚していく。
「ふ・・・あははははははははは!」
こらえ切れなくなったように、闇が笑い出した。
狂喜からくる、高い歓喜の笑い声。
その闇の足元から、『道』を得た魔物が、ズルズルと這い出てくる。そのいずれもが、濃い闇の力ゆえに、一際強く、人間達から忌み嫌われている魔物ばかりだった。
「・・・さぁ、どうする、アルディス?」
闇はつぶやき、冷たい笑みを面に浮かべた。
満足げに、そして、残酷に。