【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第三話

作・三月さま


 その見慣れた光景を目にした途端、朱峯(シュホウ)は自分が夢を見ていると、はっきり判た。理由は簡単だ。これが、何度も見たものだから。

 幾度も、自分を苛む悪夢。どんな惨状でも、見慣れてしまえば、段々と無感情になってこれる。それでも、朱峯はこれから見るであろう夢の内容を思い、眉を潜めた。この夢の中でだけは、彼は感情を殺すことが出来ない。

(俺は今、アーザンバーランドの城にいる。ここは、故郷の村じゃない。俺はベッドの上の半病人で、こんな子供じゃない)

 十年前じゃないんだ。これは、夢なんだ。

 そう判っているはずなのに、夢の中の自分は、露骨に怯えていた。頭の中で、いくら言い聞かせて見ても、心がそれを拒絶する。魂が、幾度も、あの光景を蘇らせ、そして、この光景が真実の物だと認めてしてしまうのだ。過去のことなのに。もう、忘れ去ってもいいことなのに。いや、忘れてしまいたいことなのに。

 朱峯は、あの日そのままに、赤く染まった空を見上げ、怯えていた。体が、馬鹿のように震えていた。抑えようとしても、余計に酷く、体は震えるだけ。

『あ・・・』

 彼は、呆然と、空を見て、そして、その下にあるであろう村のことを思う。空は、夕方のように、いや、それ以上に鮮やかに、朱色に染まっていた。気持ち悪いくらいの、赤。それが、見上げる天上を覆っていた。

 空を染め上げている紅の原因が何であるか、少年にはすぐに判った。この匂い、熱。そして、あの黒い煙い。全てが、彼に一つの事を語っている。

『・・・父さん・・・母さん・・・!!』

 しばらく呆然と、空を見上げるしかなかった朱峯だったが、不意に我に返り、父と母の名前を呼んだ。焦ったように首を振り、緊張の余り荒くなった息をなんとか整えようとする。

 彼が今いるのは、村外れの森の奥。そこにある、ちょっとした岩場が、朱峯の気に入りだった。毎日、親の手伝いが終わると、彼等の許しを得てから、すぐにそこへと急いだ。時々、七瀬(ナナセ)がちょこまかと、彼に付いてこようとする。そこに、七瀬の母親がいれば、連れていってもいいか聞き、いなければ、彼女が見つかるまで、七瀬と村をウロウロしたりもする。昨日などは、七瀬が母親が出かけている事を言い忘れていたので、無意味に、村で時間をすごすはめになり、結局ここにはこられなかった。今日は一日ぶりに、ここで惚けているわけだった。

 活発な年ごろの少年が好むには、少し静かすぎる平穏。七瀬は朱峯の横にチョコンと座り、寄りかかるようにしてウトウトとしていた。朱峯も、そんな彼女を横目で見ながら、ボンヤリと空を森や遠くに見える村に目を向けていたのだ。

 のんびりとした情景。それが、突然の爆音で乱された。

 岩場で惚けていた朱峯。そこに、七瀬の幼い悲鳴が響き、朱峯もそれに続いて、辺りの異変に気が付いた。

 そこに見えたのは、気味の悪いくらいに赤い空。七瀬はそれを見て、泣き声を張り上げていた。朱峯の腕を掴み、声にならない呻きを上げ、わんわんと泣いて居る。

 彼女の手を取り、朱峯は走り出した。一瞬、七瀬を残していった方が安全なのではないかとも思ったが、こんな小さな子を残していく訳にもいかなかったのだ。お互いの手をしっかりと掴み、二人は村へ続く道を急いだ。

 だが、六才の年齢差は、子供にとってはとても大きいものだ。あっと言うまに、朱峯が七瀬を引きずる形で走るはめになる。業を煮やした朱峯は、すばやくしゃがみ込むと、苛々とした様子で、七瀬に背におぶさるように促した。

『七瀬、早く!』

『ねぇ、朱峯・・・おじちゃんと、おばちゃんは・・・?』

『知るか!』

 苛立ち紛れに、七瀬に向かって怒鳴る。

 背中でメソメソと泣かれたが、あえて慰めはしなかった。そんな余裕もなかったのだ。ただ、苛立ちと焦りだけが、心の中を占めていた。

 ただ一心に、森の見知った道を走り抜ける。途中、転びそうにもなったが、なんとか体勢を立て直し、足に力を込めて、走るのに適しているとは言えない道を駆けていく。

 気のせいか、前方が熱い気がした。

 森の中の張り詰めた空気は、木々さえもが、怯えているのだと語っているようだった。まだ夕方になっていないと言うのに、見上げる空は暗かった。黒煙が、太陽を覆い隠してしまっている。それなのに、辺りは赤い。空も暗く、それでいて、紅に染まっている。

 大火だ。

 煙の具合から、朱峯はそう判断した。

 だが、どうしてこれほどまでの火が上がったのだろう。何が燃えれば、薄青色の空が赤くなってしまうのだろうか。

『空が真っ赤か・・・』

 朱峯の背におぶさっていた七瀬も、空を見たのだろう。ふと、泣き声を止め、そうつぶやいた。そこには、朱峯が感じているような恐怖など、かけらも見られない。子供らしく、ただ珍しい空の色に感心しているような口調だ。

『ねぇ、朱峯、大丈夫だよ!』

『・・・なんでだよ!』

 急に明るい声を出した七瀬に、朱峯は腹が立った。こっちは、必死に走っていると言うのに、七瀬はそれを邪魔するように、背中で暴れ始める。

『七瀬、おとなしくしてくれ!』

『朱峯、見て見て、紅天の獣!』

『・・・え?』

 楽しげな七瀬の言葉にギクリとなり、立ち止まった。酷くゆっくりと動作で空を見上げる。何か、見てはいけない物を見上げるように、のろのろとした動作で、視線を空へと向ける。

 そこにあるのは、赤い空。

 紅の天。

 紅天だ。

『あ・・・』

 朱峯は立ち止まり、目を見開いた。

 見上げる空の鮮やかな紅の色。それは、炎の生み出す朱の色よりも、何倍も鮮やかで、そして、奇麗だった。それが、空を覆っている。

 そう、朱玉が空いっぱいに敷き詰められたように、鮮明な紅が、辺りを覆いつくしていた。朱峯の視界、全てを覆うほどの巨躯。真紅の巨体が、そこにあった。

『ふ・・・あぁ・・・』

 かすれた声が、喉の奥からせり上がってくる。

 それは、次第に大きくなり、喉を震わせていく。

『あ・・・あぁ・・・あ・・・』

 天空を、朱峯は怯えつくした表情で見つめていた。

 そして、絶叫がこだまする。

『うわぁああああああああああああああああ!!!』

 自分でさえ、よくもここまで恐ろしげに叫べるものだと、心のどこかで思った。

 ただ恐怖ゆえに上げた叫び声。

 心を麻痺させる畏怖。それを、生まれて始めて味わった。



 自分の絶叫に叩き起こされ、目を見開くと暗い天井が見えた。

 ゼェゼェと、荒い吐息を繰り替えす彼を、誰かが覗き込んでいる。その姿を確かめようと、朱峯(シュホウ)は視線を彷徨わせ、相手の顔に目を止める。気づかうように、彼の横に立っているのは、芥穂(カイホ)だった。彼の存在を認め、朱峯は重いため息をつく。

 この暗さからすると、今だ夜中なのだろう。そんな時間に、また悪夢を見て起きてしまった訳だ。

「芥穂か・・・」

「どうした、すさまじい声だったな。だが、いい目覚ましだ」

 軽口なのか、それとも唯の嫌味なのか。それを判断するための芥穂の表情は、薄暗いため見えない。他の病人を気づかっているのか、声を潜めているために、言葉の調子から真意を探ることも不可能だった。

 芥穂は、手に持っていた布の塊を朱峯の頭の横に置いた。

 朱峯はそれを無言で手にする。横になったまま、持ち上げ、何だろうと言うように首を傾げる。

 芥穂は当たりを見回し、折りよく通りかかった、神官と二言、三言、言葉を交した。神官は、患者を見回る宿直なのだろう。朱峯の叫び声も聞こえたはずだ。気の毒そうに、朱峯に目を向け、彼のことを、芥穂に尋ねる。朱峯の叫び声を、戦の悪夢でも見たと思っている感じだ。

 まったく当ての外れた神官の気づかいに、朱峯はほんの一瞬だが、苦笑した。目敏くそれを見咎めた芥穂は、クスクスと小さく笑っている。

 目上の者への態度で、神官は、芥穂に手伝うことはないかと尋ねてきた。芥穂はやんわりとした態度で、その申出を断わる。

 渋々と、神官が去っていくのを見届け、芥穂は朱峯に小さく笑って見せた。

 荷物を手にしたまま、尋ねるような視線を芥穂に向ける朱峯。それに、彼は小声でつぶやく。

「お前の荷物だ」

「芥穂・・・」

「これから、回復魔法をかける。その程度の傷なら、すぐだろう」

「・・・流石だな」

「まぁな。だが、失った血までは取り戻せない。その分、逃げたりするのは辛いぞ?」

「だが、これ以上、待ってもいられない」

「だろうな」

 そう言って、芥穂はニヤリと笑った。どこか、悪だくみをしている子供のような笑みだ。

「だから、私も一緒に行ってやる」

「芥穂!?」

 思わず、朱峯が声を上げた。

 それを、聞きつけた神官が、何かと言った様子で、こちらを見た。芥穂は、彼に慣れた様子で『なんでもない』と言い、朱峯に向きなおる。

「何か、不満でも?」

「しかし・・・お前、神官長だろう、いいのか?」

「構わないさ。どうせ、『神官長』なんて、山ほどいるからな」

「・・・山ほど?」

「そう。こんなもの、能力のある神官を縛るための身分だ。俺の他にも10人もいる。神殿で拝命する『司祭』の位を与えるのは無理だからな。だから、王室で与えられる位として『神官長』を作ったそうだ」

「なるほどな・・・だが、捕虜と一緒に消えれば、スパイ扱いじゃないか?」

「捕虜。誰がだ?」

 芥穂はそう言って、おどけてみせる。

 思ったより、軽い性格のようだ。無愛想な朱峯とは、まるで対象的だ。

 朱峯は、ジッと、表情を浮かべないまま、芥穂を見上げた。

「俺は捕虜じゃないのか?」

「捕虜だよ」

「ふざけているのか?」

 無表情のまま、朱峯はきつい視線で、芥穂を見据える。

 それに、芥穂はただ、肩をすくめてみせるのみだ。

「神官長と言っても、私は幸いにして、将軍に目をかけられてるからな。コネだってある。これでも、小ずるいんだ」

「・・・で?」

「お前の出身の村が、大公が篭った城の近くだと知れてな。恩を売ってこいと言われた。お前に、あの辺りの案内をさせてもいいんだが、幸いと言うか、その役目を果たす者はいる。だから・・・」

「恩を売り、あの周辺の村を抱き込む・・・か」

「そう。あそこ周辺は、王子よりは、大公との方が縁が深い。それを、断ち切りたいそうだ」

「・・・お前の目的は?」

 ベラベラと、秘密にするべき事を喋りまくる芥穂に、朱峯は厳しい視線を向けた。

 芥穂は、何がおかしいのか、クスクスと笑っている。目を細め、好意的に朱峯を見つめている。

「大丈夫。私の目的は、『紅天の獣』を止めること。それ以外にはない」

 芥穂はそう言い切り、小さく首を傾げた。

 朱峯の答えを待っているのだ。それを、信じるのか、それとも、まだ何か疑うのかと。

 朱峯は、芥穂の無言の問を受け、小さく首を振った。この青年と接していると、朱峯はどうも、奇妙な気分にる。調子が狂わせられていると言ってもいい。これが、芥穂の特性なのかもしれない。彼は、面と向かった相手を、巧妙に絡め取る手段を心得ているかのように、うまく語りかけてくるのだ。その話し方と雰囲気は、相手に長年の友と接しているように錯覚させる。朱峯もまた、彼の雰囲気に、飲み込まれかけていた。

「・・・信じよう」

 屈したように、朱峯はそうつぶやいた。

 それに、芥穂はニッコリと笑う。

「ありがとう」

 芥穂はそう言うと、手を朱峯の胸の上に置いた。朱峯に許可を得るまでもなく、勝手に治癒を始めてしまう。

 先に朱峯を癒してくれた神官より、よほど力強い声で、芥穂は呪文の詠唱を始める。ゆったりとした響きを持つ、神への祈り。他の病人を気づかってか、その声は低かった。だが、朗々と響き渡る呪文は、真実、神秘性に満ちている。

 朱峯は、長く、したたかにうずいていた胸の痛みが、不意に消えるのを感じていた。それと共に、わずかだが、疲労感も退いていく。その安寧とした感覚に、朱峯は身を委ね、赤い瞳も閉じてしまう。

 ただゆっくりとした、まどろむ感覚を朱峯は味わっていた。先に彼に回復呪文をかけてくれた女性の神官のものとは、芥穂の魔法はどこか違う感覚がする。彼の治癒魔法は、彼女のものよりもっと力強く、そして、強制的だった。

 芥穂の呪文が終わるころには、今だフラフラとするものの、朱峯は何とか自分で起き上がる事ができた。信じられないと言った表情で芥穂を見ると、彼はニヤリと笑う。

「言っただろう。私は『神官長』だって」

「そうだったな・・・」

「着替えろ。そうしたら、馬屋まで、連れていってやる」

「馬・・・?」

「だから、お前は王子への好感を上げるための『道具』なんだよ」

 芥穂は、普通に言えば不快感を与えるようなことを、いともあっさりと言ってのける。その、きっぱりとした態度が、言葉に秘められた負の響きを打ち消していた。

 普通の相手ならば即座に、芥穂に感謝の言葉を告げただろう。だが、生憎と朱峯はそんな言葉の響きには惑わされないようだった。ただ、真実だけを見抜き、小さく唸る。

「・・・そうだったな」

 朱峯は、芥穂に言われるまま、彼が持ってきてくれた服を着た。もともと、体力には自信があったから、ある程度問題があるとは言っても、着替えくらいなら、今の状態ならば一人で十分出来る。

 着替えながら、自分の体の具合を見た。わずらわしいと、包帯を解いてみると、そこに、赤い傷跡が見えた。癒されはしたものの、この傷は残りそうだ。朱峯にとっては、いい戒めになる。

 七瀬(ナナセ)はどう思うだろうか。

 無邪気な少女の姿を思い出し、朱峯はわずかに眉を潜めた。あの、十年前の悲劇さえも、忘れてしまった少女。あの汚れない子は、惨劇の後の村の状態に耐えられず、全てを忘れてしまったのだ。羨ましいと言えば、羨ましい。いや、それ以上に、その忘却を妬みたいほどだ。

 誰かを愛しそうに思いながら、同時に辛そうな表情をしている。

 そんな朱峯の表情を、芥穂は珍しそうに見ていた。彼の心の動きが面に現われたのが、珍しいと言うように、感心したような顔をしている。

「なるほど。無表情かと思ったら、そうでもないらしいな。叫んだりも、しているし・・・」

「何だ?」

「いや、別に。あんまりにも、感情を面に出さないからな」

「悪いな、そういう質だ」

「らしいな」

 芥穂は、そう言ってクスクスと笑った。

 そんな神官長を無視し、着替えを続ける。上着を着て、さらに、その上にもう一枚。それを、腰帯の布で縛って留め、余った布を横に垂らした。

 芥穂の用意してくれた服は上等で、朱峯には少し、わずらわしい気がした。それでも、文句を言って、駄々をこね、病人の格好のままでいる訳にもいかない。居心地悪そうにしながらも、芥穂に感謝するように、軽く頭を下げた。

「少しはマシになったな」

 芥穂は、着替え終わった朱峯を見て、憎まれ口を叩く。そして、それまで隠すようにベッドの端に立て掛けておいた、一振りの長剣を放ってよこした。

「これは・・・?」

 見慣れない長剣に、朱峯は思わず首を傾げる。

「お前の剣だ」

「こんなもの、持った覚えはないが・・・?」

 そう言って、朱峯は剣を鞘から少しだけ抜いてみた。

 薄暗い部屋の中、姿を表わした刀身は、ゾッとするような輝きを持っていた。刀身に浮かぶ光、そして、研ぎ澄まされた刃。そして、何よりも、剣自体が持つ雰囲気。それらが、これが半端な剣でないことを物語っている。

 吸い込まれそうな光を放つ刀身を見つめ、朱峯は思わず息を飲む。これ程の剣を持てることに依存はない。だが、剣の余にも荘厳とした雰囲気に、怖くもなる。

「芥穂・・・」

「お前への、プレゼントだよ。せいぜい、王子のために、いい噂を流してくれと言うわけだ」

 軽く言ってのける芥穂。

 だが、それにしてもこの剣は上等すぎる。恐い位に値うちのある剣だ。

 その事に、疑問を抱かない訳ではなかったが、朱峯は芥穂の好意を受け取ることにした。この国も戦乱のまっただ中だ。そんな危険な状況下、朱峯も手ぶらで外をうろつく気はない。村に向かう間の自らの安全のためだけに、朱峯は剣を受け取る。

「・・・なるほどな。ありがたく、貰っておく」

「ふ・・・お前みたいな口ベタにやっても、あまり成果は上げないと思うがな。まぁ、お前の腕なら、ちょうどいい剣だろう」

「・・・そうかな」

 芥穂の軽口に乗らず、朱峯はただ受け流した。

 それに、芥穂はわずかに残念そうな表情をする。まだ若い神官の憮然とした様子は、どうやってみても、反応をあまり示さない朱峯に対して、つまらなそうにすねているようにも見える。

 それでも、朱峯が完璧に用意出来たらしいのを見ると、芥穂は、めげずに笑って頷いて見せた。彼を促し、先に立って歩き出す。朱峯もすぐに、それに続く。

 そうやって、芥穂について行きながら、朱峯は辺りの様子を伺わずにはいられなかった。

 神官長が、病人を連れていこうとするのを、当然、神官たちは見とがめると思ったのだ。だから、無意識のうちに警戒もしていた。だが、涼しい顔をして歩き去っていく芥穂を、宿直で居合わせた神官たちは、誰も呼び止めない。

「・・・誰も止めないんだな」

 すぐ横で、痛みのため眠れない病人を介護している神官がいる。彼女を横目で見ながら、朱峯は小声で聞いてみた。

 返ってきたのは、朱峯の戸惑いに対して、至極満足そうな、ささやき声。

「当り前だ。お前は、将軍に呼ばれていることになっている」

「・・・そうなのか?」

「まさか。表向きの口実だ。そう神官達には言ってあるだけだよ」

「・・・なるほどな。それにしても、お前も好き勝手やっているようだな」

 芥穂のあまりにも飄々とした態度が憎らしくなって、朱峯は嫌味を込めてそう言ってやった。

 それに、芥穂はクスクスと笑う。

「将軍は私を信頼しているらしいからな。全て、私に任せてくれるとおっしゃった。だから、好きにやらせてもらっている」

「小悪党め」

「ふ・・・」

 朱峯の抑揚のない声に、芥穂は小さく笑う。

 芥穂は、まるで、自分が将軍の命で動いているように朱峯に言っている。だが、おそらくは、違うだろう。朱峯を村に連れていき、大公の軍がやって来たときのための、下準備をすると言うのは、芥穂自身の進言だと朱峯は信じていた。

 芥穂は、自分に向けられていた信頼を利用して、将軍にささやきかけたのだ。自分ならば、朱峯を利用して、村々を大公側になびかせることが出来ると。今まで、かなりの功をその知能で上げてきたのだろう。だからこそ、将軍も、そんな他愛ない申し入れを受けてしまった。

 神官長と言う身分、そして、それに伴う気品。それらが、芥穂を穏やかに、優しげに見せる。

 だが、その奥に、侮れない物がある。朱峯はそう感じていた。

 本当に、信用出来るのだろうか。

 ふと、そう思い、吐息した。

 もしかすれば、芥穂は、まったく信用出来ない相手かもしれない。それでも、唯一つの点においては、信頼できると思った。

 『紅天の獣』

 そう呼ばれる、十年前の災厄の引き金を止めること。そのためならば、芥穂も協力するだろう。いや、そのために、彼は将軍をも口先で誑かしてみせたのだ。

 あの恐ろしさを感じ、理解出来るのは、その場に居合わせた者だけなのだから。そして、芥穂は、朱峯と同じように、『紅天の獣』を目のあたりにした子供なのだ。だからこそ、手段を選ばない。朱峯に同調さえする。

「・・・なぁ、知っているか?」

 馬屋への廊下を。先に立って歩きながら、芥穂が思い出したようにつぶやいた。

「十年前、どうして『紅天の獣』が現われたか」

「・・・お前は?」

「噂なら聞いている。獣が飢えたからだの、馬鹿な剣士だの魔法使いだのの連中が襲ったからだとか・・・どれも、真実味に薄いがな」

「そうか・・・」

 朱峯は、芥穂の話しを聞きながらどこか落ち付かない様子だった。だが、持ち前の感情を抑える質が幸いしたのだろう。芥穂が気が付いた様子はない。彼は、淡々と話しを続けている。

「十年前、『紅天の獣』を始めて見たときには、心底怯えたものだよ。十二だったが、私より小さかった子供より、取り乱していた」

「・・・俺は丁度、十才だった」

「昔話でしかなかった『紅天の獣』が現われる。しかも、話の中じゃ悪い連中を罰してくれる獣が、現実じゃ・・・」

 不意に、芥穂の肩が揺れた。背後にいる朱峯からは見ることはできないが、その表情は苦しく歪められていることだろう。

「あの獣は・・・現実では、村を燃やしつくし、人を食った・・・」

「お前の村でもか・・・」

「調べてみれば判る。北の山周辺の村は、全て、似たような目にあったらしい・・・」

「・・・一つ、聞いてもいいか?」

 馬屋が目の前に見えた所で、朱峯は足を止めた。

「どうして、王子側にいる。北の山の周辺に住んで居たのなら、大公側につきそうな物だが?」

「・・・私の叔父が、王子の所領に住んでいたんだ。そこで、司祭長をやっていた」

「なるほど」

 それならば、芥穂が王子方にいる理由も、神官と言う彼の身分も説明できる。

 芥穂との間を詰めるように、朱峯は速度を上げ、再び歩き出した。

 馬屋の扉を、芥穂が開ける。肩越しに、朱峯に向かって振り返って見せた。そこには、先ほど一瞬浮かんだはずの、苦しげな表情など、どこにもない。

「門の方は、私が行けば開けて貰える手筈になっている」

「わかった」

「馬を乗り潰す気でいけば、北の山までは、四日の距離だな。途中で馬を変えれば、もうちょっと早いんだろうが・・・」

 芥穂はそう言って、朱峯を馬屋の中に誘った。

 四日。

 それで間に合うのだろうか。不安が心をよぎる。

「・・・七瀬・・・待っててくれ」

 朱峯は、ギュッと拳を握り締め、呻くようにつぶやいた。

 必ず戻る。戻って、あの子を守る。

 何者からも。

BACK←紅天の獣_3→GO