【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第八話

作・三月さま


 数頭の馬の駆ける音が大地に響き渡る。安珠は、今や誰にでもはっきりと聞き取れるようになった音に、ゆっくりと顔を上げた。そして、先頭を駆けてきた騎士の姿を認めて、ギリッと表情を険しくする。

「将軍!」

 馬を乱暴に引き留め、他ならぬ丁嘉が一番先に地面に降り立った。日頃の彼らしくなく、少し焦って見えるのは、天上に漂い続けるあの竜のせいなのだろうか。決して若いとは言えない騎士は、安珠の怒りを見て、わずかにひるむ。だが、すぐに我に返り地面に膝をついた。

「申し訳ありません、将軍!」

「馬鹿が。俺は引けと言っておいたはずだぞ!」

「は!」

 将軍の叱責に、丁嘉はただ低頭するのみ。黙って、安珠の厳しく、酷薄な声を受け止めている。ここで余計な言い訳などすれば、首が飛ぶことは、安珠の元にいた経験で判っている。

 安珠は、自分の命に反した丁嘉以下、騎士全員を激しく憎むように睨み付けていた。安珠の性格を考えれば、この場で全員を切り捨てることさえ、十分有り得る。事実、そんな光景を目のあたりにしたことある騎士もいる。

 そこに助け船を出したのは、誰でもない芥穂だった。

 彼の視線の先には、黙ったままうつむいている朱峯の姿がある。未だに聞き出したいことがあるのだろう、彼から注意を反らせぬまま、芥穂はそっと、安珠の肩を抑えた。

「いいじゃないか、安珠。彼等はお前のことを案じて来てくれたのだから」

「お前は黙っていてくれ、芥穂!」

「そうか?」

 芥穂はそう言って、肩をすくめる。勢いを削がれた安珠が、これ以上騎士達に激することが出来ないのを、長年の経験で知って居るのだ。もう何を言い加える訳でもなく、おとなしく引き下がる。

 一方、丁嘉は、突然聞こえてきた声に、低く垂れていた頭を慌てて上げた。そして、安珠の隣に立つ芥穂姿を認めるなり、パッと表情を明るくする。

「阿奏将軍!」

 丁嘉のその声を聞いて、他の騎士も慌てて顔を上げる。彼等は、自分達の将軍の横にゆったりと立っている芥穂の姿を認めるなり、今まで恐怖のために険しくしていた表情を和らげた。ともすれば、安心感から表情をほころばせもする。

 そんな騎士達の態度が、一番おもしろくないのは他ならぬ安珠であろう。少しばかり、芥穂に対する嫉妬も混じっているかもしれない。彼は先ほどよりきつい表情で、なおかつ、あからさまに不満そうな様子も見せている。彼は冷たい表情で、芥穂と騎士達を睨み付け、気に食わないと言うように、そっぽを向いた。

 だが、その安珠の態度も、芥穂の前では、騎士達にとってはいつもの何倍も可愛げのあるものだった。

 日頃ならば、将軍である安珠がそんな態度を取ろうものなら、彼等の進退に関わる大事態なのだが、それも、芥穂さえ居れば、ちょっとした仕草で済んでしまう。元々、安珠は将軍の中では、異例とも言える若さだ。この騎士の中でも、半数以上が彼より年長。芥穂がいるという安心からか、騎士達は、不貞腐れている安珠を、唯の年下の若者のように、見ている節もあった。

 その彼等、騎士達も天上を舞う紅天の獣の姿には、当然気が付いているだろう。だが、芥穂の『ドラゴン・スレイヤー』としての勇名のためなのか、または彼個人への信頼のためなのか、ここに駆け込んできた当初の不安と恐怖の入り交じった様子が消えている。芥穂と安珠さえ動揺しなければ、空を舞うのみのドラゴンなど、彼等にとっては脅威ではなくなるのだ。

「阿奏将軍、ご無事で・・・!」

 若い騎士の一人が、感極まった余りにそう口走る。同時に、年若い騎士は回りから静かな失笑を買った。

 『阿奏将軍』ならば、無事で当然と言った空気が、彼等の中にはある。

 芥穂は、彼等を見て、無意識のうちに、表情を和らげていた。そして、了解を取るために安珠に小声で、騎士達の指揮権について尋ねる。安珠は、芥穂の申出に勝手にしろとばかりに、ぞんざいな返事しか返さない。それに、困ったような表情になりつつ、芥穂はやって来てくれた騎士達に、残兵の処置と、村人達への対応を任せた。

 そして、改めて朱峯に向き直る。

 朱峯も、芥穂の視線に気が付いたのだろう。今まで伏せて居た顔を上げた。彼は、回りの騎士を不思議そうに見つめ、そして、重いため息を付いた。

「・・・アイツの部下か?」

 そう言う朱峯の視線の先には、黙って騎士達を見守っている安珠の姿がある。何とか生き残れた数人の村人達を助けようとして、奔走し始めた騎士達。その部下を、安珠はこれ以上はないほどの嘲った表情で見ている。まるで、何をそんなに必死になっているのかと、馬鹿にしているようだ。

 芥穂は、朱峯の問いに静かに頷いた。今さら、何をどう言っても、真実しか朱峯には受け入れてもらえないであろうことは、彼も判って居る。

 そして、次ぎに、朱峯から発っせられた問いは、やはり芥穂の想像した通りだった。

「芥穂・・・『阿奏将軍』とはどういうことだ?」

「私の・・・もう一つの名前だな」

「もう一つ?」

「幼名として『芥穂』。王子殿下から頂いた名前が『阿奏』だ。殿下の宮廷内では、『阿奏』の名で、第一軍を預からせて頂いている」

「王子方の第一軍・・・」

 第一軍と言えば、確か先の首都攻防戦で、王子方の主力だった兵だ。だが、大公が首都に張って置いた火計から、他の軍が逃れるのを支援したせいで、第一軍は、再構成不可能なまでに瓦解したと聞いている。あの戦いで生き残ったのは、指揮者である将軍と、彼の回りにいたわずかな騎士のみ。彼等が、焼け残った王城を占拠し、王子の軍の旗を、そこに打ち立てたのだ。

 生憎、首都が火計の被害でその役割を果たせなくなってしまったため、首都を占拠した結果は、戦略の上では思ったほどの影響を与えられなかったらしい。だが、その将軍の手柄は手柄だ。他の軍団の兵達を救い、首都を占拠したと言うことで、その第一軍の将軍の名は、国内に響き渡った。

 その、首都攻防戦の立役者。王子方の、もっとも勇名を馳せている将軍。『阿奏』と言う名の武将は、『ドラゴン・スレイヤー』としての呼称を利用して、王子方の軍を、この戦乱の間、長く確固たるものとしてまとめていたと言う。竜を殺した者としての名を使い、兵の心を掴んでいたのだ。王子にとっては、この国を得るための、二つとない、至宝の将軍。王子に信頼された、この国の最高の将軍とも言える人物。

「ドラゴン・スレイヤー・・・阿奏・・・芥穂」

 それは、先ほども安珠から聞いた、芥穂の二つ名だった。その名が、彼の有名な将軍の呼称と同じだと気付かなかったわけではない。もしかしたらと、勘繰りもした。だが、思いたくなかった。それどころか、今でさえ信じられない。芥穂がドラゴン・スレイヤーだと言うことも、また、高名な将軍だと言うこともだ。

「どうして・・・第一軍の将軍がここにいる?」

 朱峯はそうつぶやきつつ、ふと、怯え切った表情をしている七瀬を横目で捉えた。彼は、彼女を芥穂からも庇いたいような仕草を見せたが、それを理性で無理矢理、抑えつけてしまった。触れたくても、触れられない。そんな、辛そうな表情を彼は見せる。

『俺は七瀬の側には、これ以上いられない』

 自分にとっての、全ての罪をぶちまけてしまった。なのに、これ以上七瀬に何をしてやれるだろうか。何をしてやる権利があると言うのだろうか。黙っていれば、まだ、自分が罪悪感を感じるだけでよかった。だが、今はもう、七瀬も真実のかけらとは言え、知ってしまっている。

 愛しいこの子のため、命を捨てろと言うのなら、いくらでも捨ててやる。だが、もう側に居ることは出来なかった。自分で、償い切れない罪を告白してしまったのだから。

 七瀬の父親である『人』を殺してしまったと言うことを。

「・・・芥穂」

 朱峯は、幾分自分自身の表情を取り戻しつつ、芥穂を見据えた。

 将軍とバレてしまったせいなのか、芥穂は、その身分らしい態度を、朱峯に見せ初めているような所があった。それに応えるように、朱峯も表情を険しくする。

 意図の知れない『将軍』に対して、今までの動揺を全て取り払って対峙する朱峯。芥穂は自分自身がその『将軍』とは言え、朱峯のそんな様子に苦笑した。目の前に立つ朱峯の、潔いと言えるほどの感情の切り替えに、感心したのだ。朱峯の態度に隠された気持ちを知りつつ、芥穂は表情を和らげる。

「あまり、睨まないでくれないか?」

「・・・睨まれる理由くらいは、あるだろう?」

「そうだな・・・私の本当の身分のことを黙っていたのは謝ろう。だが、『神官』でなく『将軍』がここに連れて行ってやると言ったところで、お前は安心できたのか?」

「・・・さぁ」

 うそぶきながらも、朱峯は心の中で舌を巻いていた。

 確かに、あの状況で、実は自分は『将軍』なのだと芥穂に告白されても、素直には頷けなかっただろう。一体何の目的で自分に近づくのだと、怪しんだだけに決まっている。むしろ、偽りの身分だとしても、『神官』と言う呼び名の方が、安心できた。神官と言う身分には、それほどの、無条件の信頼が付きまとうのだ。神に仕え、人々に御言葉を伝える身だからこそ、人々に信用される。それが『神官』と言うものだ。血の匂が付きまとう『将軍』と言う身分とは、どこまでも対象的な場所にある。

 芥穂は、そこまで計算して、神官の身分として、ここに至るまで朱峯の傍にいたのだろうか。

 それとも、ここまで旅をしてきたと言っても、所詮朱峯は芥穂にとっては他人。それ故に、芥穂にとっては将軍と言う身分を明かすだけの価値も、朱峯にはなかったとでも言うのか。

 だが、どちらでもいいと朱峯は思った。

 芥穂が何を思って身分を隠していたかは関係ない。あるのは、彼が何を企んで、ここまで来たかだ。そんな、第一軍を預かるような高位の将軍が、たかが朱峯に同調したくらいで、この北の辺境まで来るはずがない。必ず何か思惑があるはずだ。

 そんな朱峯の疑問が判ったのだろう、芥穂は身を静かに揺るがせた。おかしそうに肩を小さく揺らし、笑みを浮かべる。

「私がここにいるのが、そんなにおかしいか?」

「『阿奏将軍』とは、王子の一番の信頼を受けている将軍だと、噂高いだろう」

「あぁ・・・殿下は、『ドラゴン・スレイヤー』としての私が欲しいだけだ。『将軍』じゃぁない」

 芥穂はそう言って、天を見上げた。

 紅に染まっている、美しい空。竜の赤い鱗が、日の光を受けて、恐怖さえ越えた高尚な美を作り出している。見る者を引き付けるような、魅惑的な朱の色。それを芥穂は、紅の獣と同じような赤い瞳で、睨み上げていた。

「第一軍が瓦解してから、軍が再編成される気配もない。私はただの飾りになっている。実態のない軍の将軍だ。だから、他の将軍のもとに潜りこんでも、何も言われない」

「なに・・・?」

「アーザンバーランドの城にいた将軍さ。あれは、最近になって大公方から王子殿下の元へと寝返った将軍だ。信用できないから、私が密かに忍び込んで調べていた。王子が、私の目で見たものならば、信用するとおっしゃられたのでな」

 そう言って芥穂はおかしそうに笑う。

 朱峯は、その言葉にどう言い返していいものか、さっぱり判らなかった。

 まず、芥穂の答えが、自分の聞きたい答えからまるで遠いものだと言うことに気が付く。何故、芥穂がここにいるかと言う理由が、何時の間にか彼の将軍としての地位の話しになっている。

 しかも、芥穂は自分が必要とされていない将軍のようなフリをしながらも、自分が王子に重用されている事を告げている。遠回しに、己の価値を自慢されているようで、癪に触った。

 芥穂は、不満そうな朱峯の視線を受けて薄く笑う。

「どうした?」

「お前の言っていることは・・・判らない」

「そうかな?」

 飄々とした態度で、芥穂は微笑んでいる。朱峯が困惑しているのを、楽しんでいるようにも思えた。

 それでも、紅天の獣が天上にあるせいか、芥穂は意識をそこから反らせないでいるようだった。芥穂が、どんな場合も、紅天の獣から注意を反らさないことに、朱峯も気が付く。

 芥穂の心を占めている、不安。それは、どうして、あの赤い炎の竜、紅天の獣が、こうまで長く天に止まっているのだろうかと言うことだ。芥穂には、一体何を思ってあの竜が、この上空にあり続けるのかが判らない。この場に現われたこと自体もだ。芥穂はそれを、竜が現われてからずっと、疑問に思っている。そして、その疑問を解く鍵が、朱峯と七瀬にあると見抜いているようだった。

 朱峯はそのことに、ギクリとなる。芥穂の問いかけから、逃れられないような気がしていた。

(芥穂が何を思っていても、こっちにだってカードはある。焦るな・・・)

 ここまで旅をし、一時期とは言え気安くしていた相手を、朱峯は、正体不明の相手を見るように睨み付けていた。

 芥穂は、そんな朱峯を、彼よりはずっと穏やかな表情で見返している。

「どうした?」

「何故・・・いくら信頼されているとは言え、こんな辺境の地までこれるんだ。アーザンバーランドの将軍を調べるのに、ここに来る必要は、ないだろう?」

 朱峯の言葉に、芥穂は薄く笑った。

「理由は簡単だ。私は、王子から王都奪回からこのかた、自分の意思で自由に行動する権利を頂いている。あの方は、俺の最大の望みを理解してくださっている」

「望み・・・?」

 不意に、予期しなかった『望み』などと言う言葉が芥穂の口から出てきたことに、朱峯はひるむ。いったい、この青年に、どんな望みがあるのかと、ふと興味が湧いた。王子さえも認めるような芥穂の望み。それに、気が引かれた。

 うまく朱峯の興味を引けたらしいことに、芥穂は満足そうに笑った。そして、告げる。

「私の目的は、もう、お前には告げてあるはずだがな。紅天の獣を『止める』こと・・・つまり、紅天の獣の抹殺だ」

「な・・・!」

「それが、私の望みの全てだ・・・」

 芥穂はそう言って、両腕で自らの体を抱きしめた。怯えがちな子供のように、ゆっくりとした動作で目をつむる。

「あの十年前からの、私の悲願だった。あの時、私から父と母を奪ったあの化け物を・・・そのためだけに、神聖魔法も攻撃魔法も剣技も磨いたんだ・・・」

「芥穂・・・」

「朱峯・・・お前は?」

 ふと、芥穂が尋ねるように朱峯を見据えた。

 その真摯な視線に、朱峯は体を震わせる。

「・・・あ・・・俺は・・・」

「お前は何のために、剣を習った?」

「俺は・・・七瀬を守りたくって・・・」

「それだけか?」

 言い訳も嘘も許さないと、芥穂の態度は断固としている。

 決して言い逃れの出来ない相手に、朱峯は片手で頭を抑えた。

「俺は・・・もう復讐はしないんだ・・・だって・・・」

「なぜだか、私には理解できないな」

 十年間、『紅天の獣』に対する復讐心を抱いていた芥穂には、朱峯の言葉は理解し難いものだったらしい。彼は、今だ失わない黒い情熱を心の内に抱えたまま、彼の気持ちとは相反する答えを返した朱峯を見た。

「朱峯?」

「・・・俺はもう、そんなもの・・・済ませた・・・」

「済ませた!?」

 芥穂が、朱峯の言葉に愕然となる。

 安珠もまた、気のないそぶりを見せながらも、二人の会話を聞いていたのだろう。芥穂同様、ギクリとしたように朱峯を見た。

「お前・・・だって、そこにドラゴンはいるだろう!?」

 安珠はそう言って、天にある紅の獣を示す。安珠は、芥穂の悲願を理解している。その上での指摘だった。

 だが、朱峯の態度は落ち着いたものだった。彼は、片手で頭を抑えながら、呻くようにつぶやいた。

「あれは、十年前に村々を襲った『紅天の獣』じゃない。あるはずがない・・・」

「どうして、そう言い切れる!?」

 そう言ったのは芥穂。突然にして、同じような復讐心を持っているはずの相手が、『もう済ませてしまった』などと言う言葉を発したものだから、驚きも露にしている。穏やかさも失い、ただ、焦燥だけが前面に現われている。

 朱峯は二人を見ながら、ふっと皮肉そうな笑みを浮かべた。

「言ったじゃないか。俺が殺したって」

「・・・なに?」

「七瀬の父親を殺したって・・・」

 再び、身を切るような罪を告白する朱峯。

 七瀬は、その言葉に目を伏せた。彼女は、彼の言葉を心の中で何回か繰り返し、何かを思ったのだろう。絶望的な表情になった。



 シンと辺りが一気に静かになった。兵士達を拘束し終え、村人達の手当をしていた騎士達さえもが、動きを止め、朱峯に注目している。彼等もまた、こうやって安珠に軍律を破るような真似までして付いてくるほどの側近であり、彼に心酔している部下達だ。その安珠に近い芥穂の密かな悲願を察してはいたのだろう。加えて、先ほどの会話だ。大体のことは、理解しているのかもしれない。その上での、朱峯のあの発言。騎士達でさえも、その言葉には少なからない衝撃を受けていた。

 だが、最も深く衝撃を受けているのは当然、芥穂だろう。彼は訳が判らないと言った表情で額に右手をやり、首をゆっくりと振る。

「何を・・・言っているんだ?」

「そのままのこと。俺が、七瀬の父親である稿朱と言う人を殺した」

「『人』だろう!?」

「そう、人だったよ。稿朱さんは・・・」

 朱峯はそう言って、無表情のまま視線を彷徨わせた。

 その彼の紅の瞳が、ふと、七瀬に止まる。朱峯は、彼女が妙にきっぱりとした表情をしていることに、小さく目を見開いた。

 何故そんな顔をするのか。

 そう問いたかった。どうして、悲しみもせず怒りもしないのか。そう聞きたかった。

 だが、自分の罪ゆえに、それを問うことは許されない気がした。以前のように、いまだ七瀬が事実を知らないときならばいい。それならば、彼女に責められることはないだろうから。

 そう、朱峯は罪に怯えていたわけではないのだ。彼が恐怖していたのは、ただ、七瀬の責める言葉だけ。

「七瀬・・・」

 ふと彼女の名が口をついて出て来てしまった。

 それに、七瀬が何か、言葉を発せようとする。だが、それを芥穂の声が遮った。

「その人間が、いったい何だと言うんだ。『稿朱』と言う人物を殺して、何が復讐になる!?」

「芥穂・・・」

「なにか、この子の父親が、紅天の獣を操ったとでも言うつもりか!?」

「それはない」

 朱峯はそうキッパリと芥穂の言葉を否定する。

 その返事に、芥穂は目を細める。獲物を狙う、獣の様な目だと、朱峯はふと感じた。

 そんな激しい瞳に見据えられながらも、朱峯はずいぶんと落ち着いていた。自分でも、不思議なほどだ。いくつも重なる悲劇と悲哀に、心が麻痺し初めているのかもしれない。朱峯は、元来の無表情さも超える冷たい表情で、全ての感情を押し隠した。声さえ震わせない。

「十年前の・・・悲劇は稿朱さんが起こした。だから、俺は彼を殺した。それが復讐だ」

「だがあれは、紅天の獣の仕業だぞ?」

「そうだな」

「・・・たかが一介の人間に、あの竜がどうこう出来ると思っているのか?」

 芥穂の静かだが、切るような感情の篭った声には、悔しそうな響きが混じっていた。

 朱峯の発言のせいもあるだろう。だが、それよりも、今の芥穂の無念は、長年、仇と狙ってきた紅天の獣を目の当たりにし、その竜との本当の実力差を改めて見せつけられたゆえの感情だった。どれだけ、竜に対する復讐を狙っても、あの紅の獣は強大過ぎるのだ。芥穂は、人並みはずれた力があっただけに、その実力の差を見抜き、絶望しているように見えた。その上に、朱峯の発言だ。表面にこそ出さないが、芥穂の声の端々には、足掻く者の口調が見受けられる。

 朱峯は、芥穂の問いを受けた上で、七瀬を再び見た。

 彼女は、祈るように胸の前で手を組み、朱峯と目が会うと儚げに笑って見せた。

(子供だと思っていたのだけれど・・・)

 泣きそうな顔であるにもかかわらず、健気に笑ってみせる七瀬を見て、朱峯はそう感じた。

 彼は、皮肉そうに笑い、顔を伏せる。いまだなお、彼は何かに迷っているようにも見える。

「稿朱さんは、紅天の獣をどうこうしたわけじゃない。彼は、そんなことをする必要もなかった」

「・・・朱峯、謎かけはもういい」

「謎かけじゃない。言いにくいだけだ・・・」

 別に、お前のような趣味はないとばかりに、芥穂に向かって朱峯は口端を歪めた。

 芥穂は、その朱峯の皮肉に、一瞬、呆気に取られたような顔になった。こんな時だと言うのに、今までの悔しげな表情が嘘のように、ふと笑みを浮かべてしまう。

「そうだな。人間、何にしても言いにくいことはあるな。だが、言ってほしい。私には、聞く権利があると思う」

「何故?」

「あの事件の当時者として。また・・・」

 そう言って、芥穂は口をつぐんだ。彼は、ふと視線を反らすと、辛そうに眉を潜める。だが、すぐに穏やかな表情に戻り、首を振った。

「なんでもない」

「芥穂・・・」

「朱峯、私はただ知りたいんだ。何故お前の復讐が終わっているのか。もしそうならば、私の復讐すべき相手はいなくなってしまうから・・・」

「芥穂・・・そうだな・・・」

 朱峯は静かに頷く。その上で、彼は優しげな視線を七瀬へと向けた。彼がやっと見せてくれたその表情に、七瀬は安心するどころか、逆に怖いものでも見るかのように、ビクリと震えた。その怯えを見て、朱峯は嘲笑する。

「七瀬、例えお前が許してくれなくても、側に寄ることを嫌っても、俺はお前を守るから」

「朱峯・・・」

 やっと、自分に口を聞いてくれた朱峯に、七瀬は言葉を詰まらせる。何か言いたそうに、彼女は口を開いた。そして、小さく唇を動かす。だが、感情が昂って、声がうまく出せないのだろう。何も言えないまま、切なそうに朱峯を見つめるだけだ。

「朱峯・・・!」

「お前に触れられないままでも、遠くから見守ることになっても、お前だけは守るから」

 朱峯はそう言い、芥穂と安珠へと視線を向けた。何か言いたげに、言葉を詰まらせている七瀬から、わざと意識を反らして。

「俺も、ここまで来て、真実を閉ざす真似はしたくない・・・いや、ただ、七瀬だけにはいい加減、事実を知って貰いたいだけかもしれないがな」

 ふっと、辺りの空気が重くなった気がした。

 その場に居合わせた者達の緊張のせいなのだろう。息をするのも、苦しく感じる。

 安珠は、ふと気が付いたように、回りにいた騎士達に合図をした。体のいい人払いだ。将軍に対し忠実な騎士達は、彼の意を汲み取り、各自、命が助かった村人達を連れ、近くにあった七瀬の家へと運び込んでいった。七瀬の家は幸い、まったくの無事だ。彼女も、騎士達が村人達を運んで行くことに難癖はつけない。

 騎士達が遠くに離れていくのを、朱峯はやや感謝するような面持ちで見守っていた。そして、彼等が十分離れたと判断し、再び口を開いた。

「十年前の惨劇を起こしたのは『紅天の獣』であり、七瀬の父親である稿朱さんだ。あの人は、その身に流れる獣の血ゆえに、紅の獣となって村々を襲った。それが真実だ」



 さすがの芥穂も、また、安珠も、何の言葉も発っせられなかった。

 朱峯は、彼等の衝撃を思い、心の中で苦笑いした。七瀬の様子も、もちろん気になった。だが、彼女の顔を見る勇気が、今はなかった。無邪気な少女は、いったい、どんな顔をしているのか。ここまでくれば、いい加減、自分を憎む表情くらいは、浮かべているかもしれない。そう考えると、妙に胸がうずく。

「十年前に、佳紗御さん・・・七瀬の母親が・・・村の若い連中に輪姦されて殺された。それに、稿朱さんは耐えられなかったらしい・・・」

 朱峯はそう言い、表情を歪めた。

 まるで白昼夢のように、あの時の光景が脳裏に蘇ってくる。

 岩場でのんびりと平安に時間を潰していた。そして、村の異変に気が付いた。

 空は赤く燃え、村々は焼けただれていった。人々は業火に飲まれ、苦痛の絶叫を上げる。子供の目の前で、突然に母親が火柱に飲まれ、身を焦がし体の形を崩していく。似たようなことが、幾つも、何回も起こっていった、あの惨劇。ただ続く、炎が作り出す地獄。あれを、朱峯は目のあたりにしたのだ。

 だが、あの時、七瀬だけは、妙に落ち着いていたものだった。むしろ、あの恐怖の根源たる紅天の獣を見て、幼い少女は喜んでさえいた。

 朱峯は最初、七瀬がまったく恐怖を抱かなかったのは、七瀬の祖母たる女性が、繰り返し話してくれていた昔話しのせいだと思っていた。あの昔話ゆえに、七子供心に恐怖が抱けないだけなのだと考えたのだ。

 だが、事実は違ったのだ。

 彼女があの竜に親しみを覚えたのは、あれが自らの『父親』だったからだ。血の絆は、例え身を変じようと、断ち切れる事はなかった。七瀬は、『紅天の獣』の正体に気が付かなくとも、そのうちにある父性を感じ取ったのだろう。

「ちょっと・・・待ってくれ」

 衝撃から必死に立ち直ろうとしているのだろう。芥穂は何度か吐息を繰り返し、困惑仕切った表情で、言葉を続けようとする朱峯を押しとどめた。

「竜と・・・なっただと?」

「そう。稿朱さんは、理性のたがが外れて、竜になってしまった」

「そんなこと・・・あるのか?」

 芥穂は、信じられないと言った表情で、そうつぶやいた。

 いや、信じたくないのかもしれない。

 朱峯は、自分と同じ様な芥穂の赤い瞳を見つめ、表情を歪めた。彼が何を思い悩んでいるか、判ったからだ。

「芥穂・・・真実だよ。お前も、北の山周辺に伝わる話しくらい、知っているだろう?」

「あぁ・・・紅天の獣。天を紅に染め上げる獣なり・・・だろう?」

「その最後の下りは?」

「最後?」

 芥穂は、朱峯が何を言いたいのか判らないまま、覚えていた伝承を口の中でつぶやいて言った。一つ一つが、嫌な思い出を呼び起こすのだろう。段々と、表情を暗くしていっている。そして、その彼の表情は、伝承の最後までいったところで、大きく歪んだ。

「畜生・・・そんな・・・」

 芥穂は、両手で顔を覆うと、悲痛な呻き声を上げた。彼は、何度か頭を振り、その度に、天を呪うような言葉を発し続ける。

 その様を、朱峯は彼自身も辛そうにしながら、見守っていた。

「『紅天の獣。そは一筋の血筋なり』だ・・・」

「じゃぁ、何か・・・?」

「そう・・・伝承は、稿朱さんによって証明されてしまった。・・・紅天の獣の血を引く人間は、紅天の獣そのものになる可能性がある・・・」

「それが私・・・」

 顔を覆ったまま、芥穂が小さく呻いた。

 それに、安珠が目をしばたたく。

「お前が!?」

「そうだよ・・・それ意外にどうしたら、この赤い瞳と、火の属性と、異常とも言える炎の耐性を証明できる?」

「つまり・・・お前の炎の属性は・・・炎の魔力は・・・」

「遠い昔のご先祖様から来ているらしいな」

 芥穂は軽口のつもりなのか、そう言い、手の隙間から、安珠に向かって無理に笑ってみせた。彼はのろのろとした動作で、顔を覆っていた自らの手を引き離す。

「私が怖くないか、安珠?」

「・・・なんでだ?」

 芥穂の突然の言葉に、安珠はすぐにそう切り返してきた。そして、馬鹿にするなとばかりに、彼に食ってかかる。

「ふざけんなよ。俺が、あんな竜を怖がってると思ってるのか?」

「安珠・・・いや、そうじゃない。そうじゃないが・・・」

「お前が化け物だとしても、俺がビビるかよ。侮りやがって」

「そうか・・・」

 友人の言葉に、芥穂はフッとため息をつく。期待した通りの答えを、安珠が返してくれたことに、強い安堵を感じていた。

「自分の血筋が異常なことぐらい知っていた。紅天の獣の血筋の可能性があることも、判っていた・・・それが嫌だから、瞳の色も魔法で変えてた」

「それだから、黒から赤い色に・・・」

 朱峯が、ようやく合点のいった様子で、そうつぶやく。

 芥穂の瞳の色が変わったことは、酷く気になっていた。それも、芥穂が紅天の獣を忌むゆえに、色を変えていただけだと言うわけだ。

 瞳の色を変えるほどに、芥穂は紅天の獣を嫌っているのだろう。

 芥穂は、何がおかしいのか、クスクスと笑う。

「それも、ちょっとしたはずみで、元に戻ってしまうような、魔法だがな。・・・そうやって、私はいつも、自分が赤い瞳を持つ者だと、思い知る。だが・・・」

 そう言って、芥穂は目を伏せる。

「改めて突きつけられて見ると、かなりのショックだな、ハッキリ言って。私は・・・あの獣の血筋」

「俺もそうだ。北の山周辺に住む者で、赤い瞳を持った子供は、特に血が濃いらしい・・・」

「よく知っているな」

 自分さえも知りえなかった事実。それに、芥穂は純粋に感心しているようだった。

 だが、朱峯はそれを素直には喜べない。

「そうでもないさ。稿朱さんを殺した後に、長老連中に吹き込まれたんだからな。『いい気になるな。お前だとて稿朱と同じ、獣の子供なのだから』とな」

「獣の子か・・・」

 芥穂はそう言って薄く笑う。

「お前達の村でもあったかは知らないがな。紅天の獣の騒ぎが収まった後で、赤い瞳の子供を始末するのが流行ったらしい。・・・あれは、再び紅天の獣が現われるのを恐れるゆえだったからなのだな」

「赤い瞳・・・芥穂、お前・・・」

「私は殺されなかった。ただ、遠くに追いやられてしまったけれど・・・」

 何か言いにくそうに、芥穂はそうつぶやく。そこに、何かの事実が隠されているような気がしたが、朱峯はあえて問い正そうとは思わなかった。

 ここまで来て、これ以上の悲劇などいらない。

「お前は?」

 芥穂は、朱峯達はその騒ぎに巻き込まれなかったのかと、言葉少なに問うてきた。

 朱峯は、その質問に視線を反らす。

「俺は・・・」

「その前に、稿朱を殺したから免れたか」

 どこか皮肉った芥穂の言葉に、朱峯は首を振る。

「いや・・・俺が稿朱さんを殺したのは、あの騒ぎが起こって、二年も経った後だ・・・。あの時、七瀬の祖母にあたる祖母さんが、大騒ぎしたんだ・・・そのおまけで、俺も助かったようなものだな。あの人は、七瀬に手を出せば、この子も『紅天の獣』になると言って・・・」

「紅天の・・・まさか、お前が、アーザンバーランドで言っていた、紅天の獣と言うのは・・・」

「いや・・・七瀬じゃない。俺が危惧したのは自分の・・・」

 そこまで言って、朱峯は言葉に詰まった。

 横あいから聞こえてきた、七瀬の喘ぎ声に気が付いたのだ。

「七瀬!?」

 慌てて彼女に視線を向ける。そこには、泣きそうになりながらも涙を流せず、声を出そうとしても出せないでいる、少女の姿があった。

「あ・・・しゅ・・・ほ・・・」

「七瀬?」

 彼女の様子がおかしいことは、朱峯でなくてもすぐに判った。

「朱峯、何をやってる!?」

 芥穂は、少女の心が壊れかけているのに気がつき、朱峯をどなりつけた。たった今、この少女も『紅天の獣』になりうると聞いたばかり。そのことが、一瞬、心によぎったのかもしれない。

 だが、その思いも七瀬の子供じみた泣き顔を見て吹き飛んでしまう。恐怖よりも、哀れみが先に立った。

「朱峯!」

 芥穂の叱咤に、朱峯はビクリと体を震わせた。

「だって俺は・・・七瀬の父親を殺した・・・から」

「判らないのか!?」

 芥穂は、思わず朱峯の襟首を掴むと、その面を無理やり七瀬へと向けさせた。

「お前が今告げたことは、それ以上なんだぞ。こんな子供に、何が受け止められる!?」

「芥穂・・・」

「自分の父親が、十年前の紅天の獣だと、この子は知ってしまったんだぞ。今さっき、守ってやると言わなったのか!?」

「言ったさ!」

「じゃぁ、受け止めてやれ。じゃないと・・・お前に喋らせてしまった私は・・・」

「芥穂・・・七瀬は・・・」

「そうだな。仇の娘か・・・」

 ズルリと、芥穂の手が下に降りる。

 芥穂は朱峯を無理やり七瀬の方へと押しだしながら、苦々しげな表情を見せた。

「あんな弱い娘が、竜の子だと言われても、実感が湧かない」

「芥穂・・・」

「私は・・・本当は、自分が憎かっただけなのかもしれない。だから・・・」

「それは・・・?」

 問いたげな朱峯に、芥穂は答えられないと態度で示した。

「すまない。私のミスだ。この子の前で喋らせるべきではなかった」

「いや・・・知っていて喋ったのは俺だから・・・俺が悪い」

 その朱峯の言葉の最後の部分は、七瀬に向けられていたのかもしれない。

 彼は、七瀬の前に立つと、苦しげに面を歪めた。これ以上はないほどの苦痛に見舞われたように、眉を潜め、少女を見つめる。

「七瀬・・・すまない・・・俺は・・・」

「・・・なんだよね?」

「七瀬・・・?」

「朱峯は、七瀬のお父さんが紅天の獣だから、七瀬のこと嫌いなんだよね?」

「な・・・何を・・・」

「七瀬のお父さんが、いっぱい、いっぱい殺しちゃったから、七瀬のことも嫌いになっちゃったんだよね。ずっと、七瀬のこと憎んでたんだよね?」

「違う、七瀬・・・俺は!」

「本当は七瀬も死んじゃえばいいと思ってるんだ・・・」

「思ってるわけ、ないだろう!?」

 思わず怒鳴りつける朱峯。

 七瀬はそれに、我慢していた涙を一気に溢れさせた。

「嘘!!」

「嘘じゃない!」

「じゃぁ、どうして、もう一緒にいてくれないっていうの?」

「それは・・・俺が・・・」

「ずっと一緒にいるって、言ってくれたのに!」

「言ったさ!」

 重ねて、朱峯が感情を露にする。

 その叫び声に、七瀬はビクリと体を震わせた。彼女は、怯え切った表情で、朱峯を見上げる。

「朱峯・・・七瀬のこと、嫌い?」

「嫌ってなんか、いない・・・」

「だって・・・」

 なおも、何かを言おうとする七瀬。

 その少女を、朱峯はたまらなくなって抱きしめていた。

 細い、どこまでも頼りない七瀬の体。嗚咽と共に身は震え、必死に自分にすがってくる。朱峯の腕を掴んでくる、指の強さが、そのまま、七瀬の心を表わしているようで辛かった。

「大丈夫だから・・・」

「朱峯・・・」

 やっと聞けた、朱峯の口癖。

 七瀬は、一気に顔をグシャグシャにさせると、彼の胸にすがった。

「朱峯、朱峯・・・お願いだから、七瀬のこと嫌いにならないで!」

「俺はむしろ・・・憎まれるほうだ」

「嫌いじゃないよ。だって、七瀬・・・お父さんのことなんか、知らない・・・」

 七瀬は、そのこと事態に罪悪感があるのか、小声でそうつぶやいた。

 朱峯の手がすでに血に汚れていることくらい知っていた。

 そこに加わっているであろう父親の血が気にならないわけではない。だが、実感がわかないのだ。十年以上前にいなくなってしまった父親よりも、ずっと側にいてくれた朱峯の方が、彼女にとっては価値がある。彼を憎む理由など、どこにもなかった。

 そう、どこにも。

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