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長老に手を引かれ、急ぎ足で外に出る。長老宅の扉を蹴るようにして開け放ち、後を振り向かずにそのまま外に飛び出る。七瀬のすぐ後ろには蘭彰、そして、大公の兵の事を知らせにきてくれた少年が続いていた。
だが、四人の見たものは、何の変哲もない村の風景だった。先ほどの悲鳴はいったい何だったのかと、疑いたくなるほどだ。もしかすれば、村の誰かがふざけあい、笑いながら悲鳴を上げたのかもしれない。それを、たまたま、あんな話をしていた途中だったため、大公の兵が来たのかと、勘違いしたのかもしれない。
淡い祈るような思いと共に、長老は少年と顔を見合わせた。その二人を、七瀬が不思議そうに眺める。
「おじいちゃん・・・」
そう甘えるような声で、何かを言いかけた七瀬だったが、突然体を強ばらせた。彼女は、怯えた表情で、辺りを見回と、今にも泣きそうな顔になる。
風が、七瀬に向かって吹き付けていた。風の来る方向は、悲鳴が聞こえたと思われる方。そこから、今まで余りかいだことのない匂いがしていた。
甘い、しびれるような匂い。頭の芯をクラクラと惑わせるような匂いだと言うのに、どこか気味の悪い、まとわりつくような香りだ。
その匂いを嗅ぎとった途端、七瀬はせっぱつまった声で叫んでいた。
「おじいちゃん、血の匂いがする!」
七瀬は、自分の手を引いてくれていた老人にそう訴えかけた。彼の手をギュッと握り直し、自分の不安を体いっぱいで訴えようとする。
老人は、七瀬の言葉と態度に、不可解そうに眉を潜めた。
「血の・・・匂いじゃと?」
老人はやや上を向いて鼻をひくつかせた。七瀬の向いている方へ鼻を向け、それから他方にも顔を向けて見る。
だが、何も匂わない。匂ってくるのは、いつもの風の香りだけだ。老齢だから、多少、嗅覚は鈍っているかもしれない。だが、問題となるほどではないはずだ。七瀬のような少女が嗅ぎとれる匂いならば、自分もちゃんと判別できると言う自信はある。しかし、彼が嗅ぎとれたのは、水と森の柔らかい匂いだけ。いつもの、森に吹き付けてくる風の匂いだけだった。
老人は、奇妙な物でも見るかのように、七瀬を眺めていた。何かに思いを巡らせるように考えこみ、そして、長いため息をつく。
「そう・・・そうじゃったな」
「どうしたの、おじいちゃん?」
老人の言葉に不安そうにしなたらも、キョトンとなる七瀬。そんな、何処までも子供っぽい少女に、老人は弱々しく笑ってみせた。
「いや、確かに匂うのじゃろうと思ってな」
老人は、どこか遠回しにそう言う。
七瀬は老人の言葉に、ただ首を傾げているだけだった。彼が何を言いたいのか、彼女には、さっぱりわからない。
判っているのは、血の匂いが酷く不快だと言うことだけだった。七瀬は、彼女の言う『血の匂い』にでも当たったのか、顔をしかめ、辛そうな表情になる。顔色はわずかに青ざめ、ツッと、汗が一筋頬を流れた。
「おじいちゃん、気持ち悪いよ・・・」
七瀬はそう言うと、辛そうに胸を抑え、前屈みになった。
蘭彰が、心配そうに七瀬の肩を抱いてくれた。やんわりと、労るようにだ。蘭彰の瞳には今だに、はっきりと見てとれる狂気がある。だが、同時に、七瀬を見つめる視線と、労る態度には、いつもの優しさもあった。七瀬などは、優しさを覆いかくしがちな狂気になど気が付かず、ただ、その蘭彰の暖かさを感じて幾分、表情を楽にさせる。
「おばちゃん・・・」
「大丈夫よ、佳紗御・・・だって、貴方にはあの人がついているものね」
「あの人?」
老人の言葉に続いての、蘭彰の遠回しな言い方に、七瀬は眉を潜めた。子供扱いをされているとでも思ったのか、辛そうな表情をさらにしかめる。
「あの人って?」
「あら、忘れてしまったの?」
そう言う蘭彰の声はどこか楽しげだ。それどころか、コロコロと笑ってさえ見せる。恐怖を抱いているように見える老人や少年とは対照的に、蘭彰はまるで違う世界にでもいるように振る舞っていた。この彼女の壁を隔てたような振る舞いが、狂気の証なのだろう。
首を傾げて見せる七瀬に、蘭彰は得意そうに言った。何が嬉しいのか、彼女は微笑み続けている。
「貴方が大切だって・・・私より大切だって言っていた人よ」
「大切って
・・・朱峯?」
誰よりも大切に思っている青年の名前を、照れることもなく七瀬は口にしてみせる。
その答えに、蘭彰は、ただ、気の毒そうに首を振る。笑みを面に浮かべたままで。
「違うわ。貴方の大切な稿朱(コウシュ)よ」
「・・・稿朱?」
聞き覚えのある名前に、七瀬は顔をしかめた。
この名前。稿朱。どこかで、聞いた覚えがある。誰かが口にしたのを、聞いた覚えがあった。七瀬は、何とか、記憶をたぐって、その名前を思い出そうとする。
だが、その思考を邪魔するように、老人が乱暴に七瀬の手を引いた。何かを決断したのか、老人とは思えない力強さで、七瀬を山に面している村外れの方向へと引っぱっていく。
「もう、こうなっては仕方ない。いくぞ!」
「あ・・・」
老人の叫び声に従いながらも、七瀬はくやしそうに下唇を噛んだ。
今一瞬、何かに思い当たった気がしたのだ。『稿朱』と言う名前。それが、不意に光を得たように、何かの記憶と繋がった。それなのに、老人に怒鳴られてしまったせいで、その記憶の繋がりが断ち切られてしまったのだ。まるで、記憶の端にあった糸を手放してしまったような気分だ。頭に引っかかっていたものが、手を引っぱられた拍子に逃げてしまったように。
そのことに、七瀬は残念そうな顔をする。
老人は、そんな七瀬の不満顔には、まるで構っていなようだった。それよりは、家の外をうろついている村人達へと、しきりに声をかける。彼等も、老人達と同じように悲鳴を聞きつけ、家から飛び出してきたのだろう。オロオロと何をしていいのか判らないまま、皆、不安そうな面持ちになっている。老人は、行き会う村人達と怒鳴りあるように言葉を交し、彼等に北の山へ逃げるように言う。北の山は、あれで、他所者にとっては、なかなかに険しい場所だ。慣れていなければ、迷ってしまうことさえ、しばしばある。老人の判断は、悪くはない。
外に転がり出てきた者に逃げるように叫び、何か荷物を持っていこうと家に戻りかけるものを怒鳴り付ける。
そうやって、何人の村人と会っただろうか。数えることさえ億劫なほどに、七瀬は回りの喧騒に惑っていた。さっきまでの、蘭彰に宥められていた静かな雰囲気が、まるで嘘のように感じる。まるで、夢にさえも、思えてしまう。
七瀬達は、何とか、森の入り口付近にある、七瀬の家の付近まで走ってこられた。長老にすがるように、逃げる人達の数は、追従してきた村人のために、膨れ上っている。その数はすでに、二十人ほどだろうか。女ばかりの集団だ。この場に居合わせない、他の村人は、それぞれで逃げたか、または、背後で聞こえ始めた壮絶な悲鳴の元となったかのどちらかだろう。
荒い息が、密やかに響き渡る。全員が全員、全力で走ってきたせいだろう。誰も彼もが、息を切らしていた。それでいて、自分達が後にした村の方へと、走り続けながら不安そうな視線を向ける。聞こえてくる絶叫に耳を塞ごうとする者や、悔しそうに拳を握り締める者。共通しているのは、皆、突然に起こった不条理な事態に、不安と恐怖を抱いていると言うことだった。
この中で、一番落ち着いているの者と言えば、七瀬だろうか。気が違ったまま、密やかに微笑んでいる蘭彰を除けば、一番、恐怖を抱いていないように思える。むしろ今、彼女を煩わせているのは、正体のよく判らない者に対する不安ではなく、血の匂いの方だった。
ここまで来てもまとわり付いてくる血の匂いに、七瀬は胸を抑え続けていた。ともすれば、段々濃くなってくる匂いは、七瀬を責め立てるかのように、気分を悪くさせる。血の匂いではなく、赤い血の霧そのものが、手や足、胴に絡み付いているような気がしてならない。時折、七瀬がよろけるように見えるのは、目の錯覚などではなく、彼女の次第に悪くなっていく体調のせいなのだろう。
「おばちゃん、気持ち悪い」
横を急ぐ蘭彰に、七瀬は、そう訴えかける。口に出さなければ、もう、この甘く君の悪い匂いに耐えられない。
蘭彰は、痛ましそうに顔を歪ませると、今まで微笑んでいた表情を険しくし、父親から七瀬の手を奪った。老人は、娘の機敏な動きにギョッとする。
「蘭彰、何をする!」
「佳紗御は私が連れて行きます。お父様では駄目だわ!」
「こんな時に何を言って・・・」
「だって、こんなに苦しそうにしているのに、お父様、少しも気にかけて下さらないじゃない」
娘の言葉に、老人は改めて七瀬の表情を伺った。七瀬の青白い顔色を認め、慌てて視線を反らす。
そして、急ぎ足のまま、長いため息をついた。
「七瀬・・・気分が悪いのか?」
「うん・・・血の匂いが気持ち悪いの」
「・・・そうか、血の匂いか」
「うん・・・血が・・・」
そう言いかけ、七瀬はふと、背後に奇妙な気配を感じた。息づくような、自分に近い気配のような感じがする。七瀬は、その気配そのものに呼ばれたかのように足を止め、今まで走ってきた方向へと振り返る。
蘭彰も足を止め、七瀬の視線を手繰る。七瀬は、彼女の手を握ったまま、呆然とつぶやいた。
「おじいちゃん、火事・・・」
喧騒と悲鳴が上がる村の方向。彼等が見捨ててきた場所だった。すぐ傍に見える村から、煙が上がっていた。黒く、白く、そして、灰色の煙。火の粉も、無数に舞い上がり、下に広がっているであろう炎が、天井を赤く染め初めていた。
七瀬の言葉に釣られるように、その場に居合わせた村人全員が、そちらを見た。ほとんどが、信じられないと言った表情で。そして、わずかな者だけが、痛ましそうに顔を歪めながら。
村人達が振り向くと同時に、彼等の間から、悲鳴と嗚咽が上がった。あの燃え上がり始めた火の中に今だ取り残されたであろう隣人や親類達のことを思い、自分の家のことを思い、悲痛な声を上げる。その悲鳴は、心の奥底にまで響いてくるようなものだった。七瀬などは、まるで自分が責められているかのように、顔を伏せる。
蘭彰でさえも、燃え上がる村の光景を目のあたりにし、顔を覆って泣き出した。
皆、逃げることも忘れ、その場に立ち尽くす。彼等には、何も出来なかった。ただ、悲しむしかなかった。露になっていく炎を見つめ、悲痛に泣き続ける。
唯一人、七瀬を覗いて。
「・・・まっかだ」
七瀬は、顔を上げ、ぼうっとした様子で村から上がる黒煙を眺めていた。まるで、竃の火の様子でも眺めているようにも見える。だが、この七瀬のどこか現実離れした態度に、気が付ける者はいなかった。皆、自分の悲しみに縛られている。ただ、蘭彰のみが、七瀬を案ずるがゆえに、わずかに気をかけられる程度だ。
いまや、老人に代わって自分の手を握ってくれている蘭彰。七瀬は、そんな彼女の手を、慰めると言うわけではなく、感心を引こうとするようにギュッと握った。
「おばちゃん、見て・・・まっかだよ」
「あぁ・・・やっぱり、あの時のままだわ・・・やっぱり、『紅天の獣』が復讐をしに着たのよ・・・」
嗚咽を繰り返しながら、蘭彰はつぶやく。
今や、『紅天の獣』の名は、七瀬にとっては、何か特別な響きを持つものなのだろう。その名が、『復讐』などと言う言葉と共に現われたことに、七瀬は小首を傾げる。
「おばちゃん・・・?」
「佳紗御が死んでしまったから・・・佳紗御が殺されたから・・・だから・・・」
「・・・七瀬のお母さんって、殺されちゃったの?」
七瀬は、意味を正しく理解していないのかもしれない。彼女は、キョトンとなったまま、驚いた様子も悲しんだ様子もなく、いつもの表情で蘭彰を眺める。その仕草は、何時にも増して子供っぽく、それゆえに、七瀬の言葉を悲痛に響かせた。
「ねぇ、おばちゃん、そうなの?」
「ええ、そうなのよ・・・」
涙を顔に張りつかせ、蘭彰は頷く。その面は、一気に年をとってしまったかのように、醜く歪んでいた。まるで、彼女の内にある苦痛を表わすかのように。
「佳紗御はね・・・そう、私のせいで、死んでしまったのよ・・・」
「おばちゃんの?」
「そう・・・私が・・・!」
蘭彰が言いかけた言葉を、横に立っていた老人が慌てて遮った。老人は、娘の肩を乱暴に引き寄せ、口をしわがれた手で無理やりに塞ぐ。
気が付いてみると、村人全員の視線が蘭彰へと向けられていた。鋭く、突き刺すような人々の目線。その、視線の険しさに、七瀬がビクリと震える。
村人達を代表するかのように、中年の女の一人が、表情を険しくして、老人の前に立った。その間に、蘭彰は自分の口を塞いでいた父の手を、煩わしそうに取り払う。
女性は、狂った蘭彰に憎しみの篭った視線を向け、そのまま、長老である老人にもそのきつい表情を見せる。
「長老、今のはどういうことですか!?」
「・・・今は、この事について言っている時ではあるまい」
「確かにそうですが・・・でも、どういうことよ!?」
まるで、噛みつくように食って掛かる女性の姿に、七瀬は怯えたように後退った。彼女は、村人達の雰囲気が、不安から怒りに変った事を、敏感に感じ取ったのだ。七瀬は、グスグスと涙ぐむと、蘭彰に逃げ場を求めるように抱きついた。
その七瀬の耳元を、ヒュッと言う風を来る音が通りすぎた。何の音か判らず、七瀬は慌てて顔を上げる。
同時に、悲鳴が上がった。
蘭彰が、何かに怯えたように、きつく七瀬を抱きしめてきた。それに抗うようにしながら、七瀬は辺りを見回す。
悲痛な悲鳴を上げたのは、老人に詰めよっていた女性だった。彼女は、自分の胸元を見て、信じられないと言った表情をしている。顔は歪み、赤い鮮血があっと言う間に胸元を濡らしていく。
「あ・・・あ・・・」
彼女は、魚が空気を求めるかのようにパクパクと口を動かし、体を傾げた。
誰が抱き止める間もなく、女性の体が地面の上に倒れる。ドサリと、乾いた音がしたが、それさえも、嘘のような音だった。女性が倒れたのも、地面に体が打ちつけられた音も、全てが夢の中の出来事のようだった。少なくとも、七瀬にはそう感じられた。
女性の次ぎに悲鳴を上げたのは七瀬だった。現実味のない出来事に、頭の芯が麻痺したような気分を味わっていた。それでも、喉は自然に高くかすれた悲鳴を上げ、体は勝手に蘭彰の腕を振り解き、女性へと駆けよっていた。
「香守(カモリ)のおばちゃん!!」
口を開け、目を見開いたまま動かない女性。唇は断末間の悲鳴の形に歪み、端に血が流れている。胸元は鮮血で濡れ、女性の服を真っ赤に染め上げようとしていた。
女性のそんな死に様を見て、七瀬は、また悲鳴を上げる。村人達は皆、最初は硬直したように体を強ばらせ、そして、次ぎの瞬間には、弾かれたように走り出していた。皆、山を目指して逃げ出そうとしている。
その合間にも、幾つもの『矢』が、彼等を狙って飛来して来た。香守を貫いた物と同じ矢。それが、逃げようとする村人達の足を狙って、放たれていく。嘲笑うように、村人達を射貫き、足止めしようと。その光景を見つめる七瀬の体は硬直し、まったく動かなかった。思考も停止したかのように、村人達と共に、逃げようと言う考えさえ浮かばない。やがて矢が途切れ、何人もの剣を持った男達が向かってくるのにも、彼女は気がつかなかった。
「佳紗御!」
突然、七瀬の横合いから、蘭彰の声が響いた。
蘭彰は、ものすごい力で七瀬を地面に突き飛ばすと、そのまま彼女の上に覆い被さった。七瀬は、思いきり体を地面に打ちつけられ、苦しそうに顔を歪める。
「おばちゃん!?」
蘭彰の突然の行動に戸惑った七瀬は、なんとかして、身をよじって蘭彰の顔を見ようとした。だが、蘭彰はガッチリと七瀬を抱え込み、それを許さない。
「おばちゃん、おばちゃん!?」
何かおかしい。
そう思って上を見上げると、優しく微笑んでいる蘭彰の顔があった。まるで、安心させるかのように微笑んで見せる蘭彰。その表情の端に、焦りと恐怖があるのを、七瀬は見逃さなかった。いや、見逃せなかった。
「おばちゃん!!」
「ごめんなさいね、佳紗御・・・」
ツッと、蘭彰の口端に血が浮かぶ。その血を見て、七瀬はヒュッと、悲鳴を喉の奥で凍り付かせた。
「おばちゃ・・・」
「こんなことくらいしか、もう、してあげられない・・・」
ゴホッと、蘭彰が何かを吐き出した。それが、七瀬の顔にかかる。パタパタと、頬や額や、思わず閉じたまぶたに振りかかってくる赤い液体。それは、生暖かく、濃い気持ちの悪い匂いを漂わせていた。
ノロノロとした動作で、七瀬は手で自分の頬に振れて見た。指先が、ヌルッとしたものに触れる。その感覚に、七瀬は反射的に体を震わせた。そうやって、頬にかかった液体に触れ、指先を目の前に持ってくる。
どこか濁って見える、赤い色。
匂いで、それが血だとすぐに判った。いや、匂いだけではない、その感触、色、全てが七瀬を怯えさせる。
「あ・・・あ・・・」
体が小刻みに震えた。がたがたと、馬鹿のように歯止めなく、体が揺れる。始めは小さく、そして、次第に体の揺れを顕著にして。七瀬は小さな子供が怯えるように、半泣きの顔で震えた。
恐い。恐い、恐い!!
顔をぐしゃぐしゃにして、混乱している七瀬。そんな彼女を励ますかのように、少女を抱く蘭彰の腕に力が篭った。力強く、それで優しく、七瀬を包む込むように抱きしめてくれる。
蘭彰の腕の中は、とても暖かかった。いつもように、母親を彷彿とさせる優しさ。まるで、今目の前で起こっていることが嘘のように、彼女は七瀬を腕に包み込み、守ってくれている。
「おばちゃん・・・おばちゃん!!」
七瀬は泣きながら蘭彰の頬に指先を触れさせた。にっこりと、蘭彰が笑ってくれる。
七瀬もまた、蘭彰に何とか笑い返そうとした。だが、それが出来ない。頬は恐怖で強ばり、喉は震え、何の言葉を発してくれない。
いったい、何がどうして、こんなことになってしまったんだろう。
始めに、少年が来て、何かを怒鳴っていた。
それから、老人に手を引かれ、走った。
椎名が何かに怒り出滂し、老人が困っていた。
矢が飛んできて、香守を貫いた。
その後、村の方向から誰かが走ってくるのが見えたのだ。見慣れない格好をした男達だった。その様に、七瀬は何か不安を感じた。そして見えた刃物のきらめき。
怖い。
そう思った途端に、蘭彰が自分に覆いかぶさってきたのだ。
そして、血。
今まで見たどれよりも、奇麗な赤い血だった。
頭のどこか鈍った部分が、いつかみた紅の空より暗い色だと、けたたましく叫んでいた。狂気の笑い声を上げながら。その頭の中の笑い声が、七瀬を一層恐怖させる。
「ふ・・・あ・・・うぁ・・・」
ガチガチと、歯の根が合わないほどに体中が揺れていた。震えているなどと言う、生易しいものではない。もう、体が抑え付けられないほどに、大きく揺れていた。
段々と、蘭彰の力が抜けていくのが判った。強く抱きしめていてくれたのが、今や、触れるだけになっている。その代わりのように、七瀬が彼女を抱きしめた。全身全霊の力を込めて。蘭彰を離さないと決意したように。
「おばちゃん!!」
回り中で悲鳴が上がっていた。耳を覆いたくなるような絶叫の数々。だが、七瀬は蘭彰を抱きとめていたために、耳を塞ぐことは出来なかった。ただ、体を震わせ、その音を聞き続ける。
嫌な音がする。嫌な匂いがする。
嫌、嫌、嫌。
いくら心で叫んでも、悲鳴はやまなかった。嫌な血の匂いも消えてはくれない。
「やだぁ!!!!」
気が付くと、七瀬は声も限りに絶叫していた。それが発端になったかのように、彼女は大声で叫び続けた。滂沱の涙を流し続ける。
「朱峯・・・お母さん・・・お父さん!!」
長い髪を振り乱し、助けを呼ぶ。蘭彰を抱きしめながら、祈るような気持ちで、自分を守ってくれると言った朱峯を、昔に自分を優しく包み込んでくれていた母の名を呼んだ。そして、それだけでは我慢出来ず、父の名前さえも呼んでいた。
だが、いくら名前を絶叫してみても、それが、ありもしない助けだとは判って居た。
それでも、叫ばずにはいられなかったのだ。
恐怖に引きつった悲鳴を上げるしか、七瀬には出来なかった。
「朱峯・・・朱峯ぉ・・・」
悲痛な叫び声。それが、彼女の唯一出来る、現状へのあがらいだった。