【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第五話−Bパート−

作・三月さま


 馬の手綱を力強く引く。それに応じて、黒馬が一声、大きくいなないた。立派な体躯を持った馬は、前足をわずかに上げ、あらがって見せるが、すぐに力で持って抑え込まれた。馬は、自分に騎上している主に向かって、恨めしげに小さくいななき、やっと落ち着く。

 一級の黒馬に悠然とまたがった将軍。その年若い青年は、目の前の光景を見て、面に薄い笑みを浮かべた。青い瞳の宿った切れ長の目を細め、口元をわずかに歪ませる。その表情は、彼の容姿がなまじ端正なだけに、酷薄でゾッとするものになる。

 今、彼の目の前では、虐殺が行われている真っ最中だった。安寧な暮らしの元となっていたであろう家々は燃え上がり、何の罪もない人は悲鳴を上げて逃げ惑う。まるで力のない、抵抗できない村人を、大公の兵が容赦なく切り捨てていく。その様を見て、鎧姿の青年は笑っているのだった。まるで、楽しむかのように。

 馬の毛並みよりも、はるかに闇に近い漆黒の鎧。それに身を包んだ体は、長身で、それでいて、身は細く見える。だが、鎧に押し潰されそうな頼りなさがあるわけではない。彼の体は、二十に言っているか、言っていないかの、年齢相応の引き締まったものだ。

 酷薄な笑みを浮かべた顔は、あくまで冷淡で端麗な容姿だった。鎧姿でなく、普通の服装ならば、女の二人、三人と言わず、かなりの数をなびかせる事も出来そうな印象を与える。ただし、それも彼が浮かべる、その冷たい表情さえなければの話しだが。

 彼は、淡々と、馬上で汚れた喧騒を見続けていた。その青年の背後では、二十人ほどの騎士達が、同じく騎馬している。将軍は、当然の態度で彼等を背後に控えさせ、村の様相を探っている。

 彼等の目前にある小さな村。戦乱の中にあっては、十分過ぎるほどに平和と言う枠の中に、収まってしまう村だった。一つの町が、完全に壊滅させられたことを考えれば、数時間前の村は、最も恵まれた地域の一つに入っていただろう。だが、それも、大公の兵が来るまでだ。平安であり続けた村を、大公の支配から逃げ出したと思われる一党が襲っていた。格好こそは大公の兵だが、彼等が大公の本軍から外れた存在だと言うことは、明白だ。大公はすでに、北の山の城に入り、血縁のある隣国からの援軍を待っている身なのだから。今さら、こんな村の一つも、襲うわけもない。

 レークシャーの城が落ちてからこのかた、大公を見限って、改めて王子側に付く諸公や貴族が増えている。大公が、レークシャー間近の他の城に篭らず、ここまで引いた最大の理由が、味方勢力の逃亡、及び激減だ。王子方に寝返る貴族の数は連日増していき、いまや大公に付き従っているのは、王子側の弾劾を免れぬと諦めてしまっている、わずかな側近のみとなっている。

 その事は、王子や彼の軍士にとっては、吉報であった。だが、それに相反して、敵方勢力の弱小化は、直属の将軍の一人であるこの青年にとって、甚だ不都合な出来事だった。

 彼自身は、誰がどうなろうと、主である王子敗北し追い立てられようとも、別に良かったのだ。それどころか、さすがにはっきりとは口には堕さないものの、大公と王子の立場が違ってくれていればとさえ、思っている様な節もある。彼にとっては、ただ、戦いが出来ればいいのだ。それだけが、彼の価値。

 だから、ここ数日続く対抗勢力の激減と言う事実は、彼にとっては極めて不快な事だった。それは、そのまま戦闘の集結と、戦乱の終わりを意味していたから。

「安珠(アンジュ)将軍・・・?」

 将軍が、村を黙視し続けることをどう思ったのか、騎士の一人が、彼に言葉をかけてきた。将軍である青年の馬とは比べ物にもならないが、それなりに、質のいい馬に乗っている。年齢も三十代の半ばと言う、この騎士の中では最年長に見える年齢だ。それから察するに、この中では、青年将軍に次ぐ身分と言ったところだろうか。

 安珠と呼ばれた青年は、部下の呼びかけに、関心のなさそうに相手を見た。そして、ふっとほくそえんで見せる。

「丁嘉(テイカ)、見ろ・・・あれが、支配を離れた兵のなれ果てだ」

 そう言って、戒めとも、また皮肉とも取れる言葉を、部下の騎士達に向ける。

 将軍の言葉に対する、騎士達の反応はそれぞれだった。今にも、大公の残兵に向かいたがっているような血気さかんな若者、冷静に将軍の命を待っている規律ある者。そして、丁嘉と名を呼ばれた年長の騎士のように、将軍を促そうとする者。

 そんな騎士達のどの反応とも、まるで違った表情を安珠は浮かべていた。冷淡な、突き放したような作り物の笑み。丁嘉から視線を反らすと、彼は再び、酷薄な表情で村を見つめた。

 安珠の横顔に、恍惚とした表情を見つけてしまうのは、騎士達の罪ではあるまい。今、彼の面に浮かんでいる、狂喜にも似たものは、まったくの事実だからだ。安珠が意識して作り出したものではなく、また、騎士達の意識が歪めた物でもない。安珠は真実、突然の不幸に見回れた村を、悦に入った表情で眺めていたのだ。

 あそこで行われている惨劇そのものを想像すらせず、ただ、血の匂いに酔っている。そんな印象を受ける。

 これこそが、血に濡れた場所だ。

 血の匂いにはやる馬を、安珠は手綱一つで宥める。馬は、主人の心内を見透かすかのように、ともすれば、村の方へと走りたがっている愛馬。それを、安珠は乱暴に抑えていた。

「弱者・・・だな」

 ぽつりと漏れた、安珠の低い声。それに、年若い逸っていた騎士の一人が、ブルッと震えた。それくらい、声には冷たい響きしかなかったのだ。

 安珠は、そんな騎士の反応に気付くこともなく、また目を細める。今、彼の心の内にあったのは、冷酷とも言える考えだった。

(弱者のくせに・・・)

 ふっと、憤りが胸の中を走り、騎士達に気付かれないように苦笑する。

 戦場では、例え、相手が力ない村人だろうと、なんだろうと、そんなもの関係ない。弱ければ死ぬ。それだけの話だ。安珠にとって悪いのは、あの大公の兵よりも、むしろ村人だった。こんな戦乱の中にありながら、自警団の一つも作らない平和な『ふり』をした村。戦に破れた兵に蹂躙されても、当然だった。

 戦で男がいないならば、女が武器をとればいい。戦がいたる所で起こっている世の中なのだ、女としての常識など、かなぐり捨てて、自分達を守るべきだった。己を守られないくらいなら、積極的に庇護者を得ればいい。

「・・・庇護、か」

 ふと、何かを思い出したのか、安珠は山がある方向へと視線を動かした。思いを馳せたような、安珠にしては珍しい表情だ。それに釣られて、騎士の何人かも、そちらの方向を見る。だが、彼等の目に映るのは、何の変哲もない山並だけ。将軍の奇妙な仕草に、騎士達はいぶかしげに顔を見合わせる。

 愚かな、それでいて、愚直な程に忠義に厚い騎士達に、安珠は小馬鹿にしたような表情を向ける。そのまま、腹臣の一人とも言える騎士の名を呼んだ。

「丁嘉」

 不意に名前を呼ばれ、丁嘉は慌てて安珠の横へと馬を並べた。将軍の愛馬に、丁嘉の馬は抵抗を見せるが、何とか、その場に止まらせた。

「なんでしょうか?」

「半刻で村の中を探れ。もし、生存者がいれば・・・そうだな、各自で拾いたければ、勝手に拾っていくがいい」

 あえて、助けろなどとは言わず、勝手に『拾え』と突き放したような命令を下す。

 どうせ言うのならば、もっと当たり触りのない事を言えばよいのに。それが無理なのならば、命令そのものを変えてしまってもいい。

 丁嘉は、胸に浮かんだ年長者としての訓戒を、あえて口にはしなかった。言っても無駄だと判っている。

 ただ、困ったように、彼は年下の将軍を見た。年長の彼から見れば、どこかひねくれて見える将軍。冷淡で、酷薄で。まとわり安珠に付く噂は、つねに彼をおとしめ、同時に、目立たせてもいた。

 安珠は元から、あまり上の命令には服さない所があった。軍を牽制のために進めろと言われ、そのまま敵軍を手持ちの兵だけで崩壊させてきてみたりする。かと思うと、いくら命令されても、まったく軍を動かさない時もある。安珠と言う存在は、王子や軍士にとっては、はなはだ使いにくい将軍だったことだろう。

 それでも、安珠がこの若さで将軍位に居続けることが出来るのは、彼の実力ゆえだった。いくら、彼の出世をやっかんだ者が年齢や、命令違反を理由にしてみても、安珠の地位は不動だった。その彼の基盤とも言える理由は二つ。

 一つは、彼の統率能力だ。彼が正式な命令もなく動いても、律儀に付き従っている、二十人もの騎士が、いい例だ。彼等以外にも、酷薄でありながら、絶対的な力を持っているこの将軍を慕う者は多い。差別されがちな、一般兵の中でも、安珠に陶酔している者は多いと言う。

 二つ目の理由は、将軍としてではなく、彼個人としての能力だ。生憎、魔力では、彼と双璧をなしていると言われる、ドラゴン・スレイヤーの将軍に多少劣るものの、剣の腕ならば、他の追随をまったく許さない。彼の魔法力と剣の腕を総合させてしまえば、彼と並ぶことの出来る人物はただ一人しか居なくなる。双璧の将とされているある竜殺しの将軍だけだ。

 しかも、第二の理由は、そのまま、第一の理由の根源ともなっている。安珠の絶対的な力ゆえに、騎士や兵は彼に心酔し、そして、彼の命に従っている。信頼や心服と言うよりは、ただ、彼の力に酔っているとも言える。

 だが、部下の忠義や心酔の度合に反して、彼等を見る安珠の視線は常に冷たかった。

 おそらく、安珠にとっては、丁嘉が一番親しく、信頼出来る部下なのだろう。その丁嘉でさえ、どうでもいいように扱われているような所がある。その将軍の振るまいは、時に悲哀さえも感じさせる程だ。まるで、彼には誰一人として、信頼する者などいないと、行動で語っているようにさえ思える。

「・・・空が赤いな」

 安珠は悠然と、炎を受け赤く染まった空を見上げた。それ自体も燃え上がっているような空の様子を眺め、愛しげに目を細める。

「将軍・・・?」

「・・・あぁ、そうだ」

 丁嘉の呼びかけのせいなのか、それとも赤い空が何かを思い出させたのか、安珠は表情を消し去り、先ほどの命令に、不可解な命を付け加えた。

「きっかり半刻経ったら、全員村から引き上げろ。先に通った川の対岸まで馬で渡れ」

「それは・・・?」

 ふと、疑問を口にしかけて、丁嘉は首を振った。一度下された命令に、いくら疑問を投げかけようとも、安珠が答えてくれないことは、何年も彼に付き従ったせいで、十分心得ている。

「判りました」

 丁嘉は頷き、後は唯、安珠の号令を待とうとした。安珠がこれからの行動の指示を出した以上、部下にとって出来ることは、彼の声に従い村に向かうだけだ。

「まぁ、うまくいったとて、功に数えられる訳でもない。好きにやれ」

 今か、今かと逸っている、若い騎士の数人に、安珠は冷たくそう言った。但し小声で、しかも、独り言の様に。

 命令違反とも言える、自分の勝手な行動に付き合う騎士達を、皮肉っているのかもしれない。そこには、自分を慕ってくれる部下達に感謝したような意味合いは、どこにも含まれていなかった。それでも、言葉をかけられたと思った安珠よりも年下の若い騎士達は、喜色を浮かべる。憧れていた将軍に言葉を向けられ、彼等は興奮しきったようだ。目前の惨劇に対する緊張も、わずかに和らいだようだった。

 そんな年若い騎士達を冷たく見つめ、安珠は、横に馬を並べて居る丁嘉に視線を向けた。そして、小さくつぶやく。

「丁嘉、あいつらはお前がまとめておけ」

「かしこまりました・・・?」

 丁嘉は、ふと安珠の言葉の端に、気になる含み笑いを聞き取り、慌てて将軍の顔色を伺おとした。

 だが、それよりも早く、安珠が馬の腹を蹴る。

「将軍!?」

 丁嘉が、突然の安珠の行動に我を忘れている間に、安珠は一気に騎士達から距離を取った。彼等が慌てて、追いすがろうと馬を走り出させる頃には、とうに手の届かない距離まで、馬を進めてしまっている。

「まぁ・・・奴がいるかどうか、だな・・・」

 馬を走らせながら、安珠は一人ごちた。尚も何かをつぶやいたようだったが、その言葉は横を流れていく空気の音でかき消されてしまう。馬を駆る安珠の横顔は、どこか憂いているようにも見えた。後方はるかに引き離された部下達がその表情を見れば、大いに動揺したことだろう。

 その騎士達は、相変わらず安珠に追い付けないどころか、逆にさらに距離を離されていた。安珠の乗馬能力は、彼等よりかけ離れ、優れているらしい。あるいは、馬の質だろうか。騎士達がどれだけ懸命に馬を走らせようと、安珠に追い付くことが出来ない。距離を縮めることさえもだ。

「将軍は本来の目的を覚えておられるのか!?」

「覚えておらんに決まっているだろうが!」

 一人の悪態に、もう一人が怒鳴り返す。

 安珠の方は、そんな部下の絶叫など、まるで聞こえないようだった。涼しい顔で、馬を走らせていく。

 だが、村に入った途端、彼の目前を何かが、よぎろうとした。姿形で、若い女だと判る。行きあった村人を馬にひっかけそうになり、安珠は反射的に手綱を引く。

 馬に巻き込まれると思ったのか、村人は頭を抱え、そのまにうずくまった。その頭上の空気を、安珠の馬の前足が空しく蹴る。馬のいななきが響き、また、兵士達の喧騒だけが、辺りに戻った。

 村人らしい、妙齢の女は、ソロソロと顔を上げ、怯えた様子で安珠を見上げた。その腕の中には、生後一年も経っていないであろう、小さな赤子の姿がある。その泣き声が、この騒乱の中で、当然のように高く響いていた。

 相手が馬を止めてくれたことに、村人は、顔を綻ばせた。安珠のことを、やっと来てくれた助け手と思ったのだろう。それでいて、怯えているのは、今まで惨劇を見続けてきたせいなのか、それとも、安珠が高潔な鎧姿なためなのだろうか。

 安珠は、女とその赤ん坊に視線を向けた。冷たく、悲哀も何も感じられない視線を二人に向ける。

「邪魔だ・・・」

 彼がそう冷たくつぶやくと、女の顔が引きつった。明らかに高位の騎士姿の安珠を不快にさせたことに、怯えている。

 そんな女性の、態度に安珠は何の感慨もなかった。ただ、これ以上、彼女に煩わされるのも面倒だとばかりに、馬を回頭させる。

「俺が来た方向に走れ。死にたくないのならな」

 安珠は、そう言い捨て、再び馬を走らせた。

 気を付けろとまでは、言う気もなかった。どうせ、あの女性は、後から急ぐ騎士にうまく拾って貰えるだろう。

 安珠は、先ほどよりは、ゆっくりとした歩調で、馬で村の中を彷徨うようにして進む。速度を落としたのは、また人を馬に巻き込まないようにすると言うよりは、村の状態がそうさせたようだった。地面には人の死骸と彼等のわずかな荷物が転がり、足の踏み場を見つける事さえ難しい。そんな中で、安珠は面倒臭そうな顔をしながらも、死者を避けて進んで行った。

「ち・・・確かに奴がいないと言う保証があれば、まだ増しなものを・・・」

 死者を見下ろし、忌ま忌ましそうにそうつぶやく。何かの戒めがなければ、死者の死体さえ馬の足で踏みにじり、汚そうとしたがっているようにも聞こえる。だが、それがあくまで虚勢に聞こえてしまうのは、彼の若い声のせいだけでもないだろう。

 後方の騎士達も、安珠が速度を落としたことで、彼にようやく追い付けたようだった。丁嘉が各自に命を下しているのが聞こえる。敵兵がどこに潜んでいるかもしれないと言うのに、馬鹿に大きい声で怒鳴っていた。

 生存者の保護、および、村からの救出。丁嘉はてきぱきと、手慣れた様子で、安珠が与えなかった、細かい指示を騎士達に叫んでいく。

「いいか、これらの兵が大公のものであると伝えるのだぞ。助けたのが、王子殿下の騎士であると言うこともだ!」

 余計な命令だ。

 丁嘉の声を背後に聞きながら、安珠は鼻を鳴らした。皮肉そうに顔を歪ませる。もっとも、そんな丁嘉の『余計』な気配りがあればこそ、安珠も好き勝手をやり続けていられるのかもしれない。そんな部下を持ち得たのは、安珠にとって、まさしく幸運と言えた。

 馬を進めていく内に、大公の兵らしい武装した男を見つけた。向こうも、馬上の安珠に気が付いたようだ。ポカンとした顔で、突如現われた騎士姿の青年を見上げている。

 それでも、兵は、すぐに我に返ると、慌てて背をひる返した。安珠を、大公が仕向けた騎士と勘違いしたらしい。訳の判らない言葉を上げつつ、村の奥へと走っていこうとする。無様な逃げ方だ。はっきりとした侮蔑の表情が、安珠の面に浮かぶ。

 安珠は、兵の走り去る姿に、愛馬の腹を軽く蹴った。主の意を受け、馬はまっすぐに兵へと向かっていく。喜々とした様子で。

 薄い笑みを浮かべ、安珠は腰に帯びていた長剣を引き抜いた。そのまま、剣を背を見せ逃げていく兵へと、無造作に振り降ろす。

 唯一刀だった。それだけで、兵は倒れ伏す。卑怯だと言う以前に、後ろからとは言え一刀で、間違いなく人の命を断つことの出来る安珠の腕は脅威と言えた。

 兵士は、痛みのためか、わずかな間だけ、声にならない嗚咽を上げていた。彼の傷口から溢れ出す鮮血が、地面を濡らし、未練がましく体が大きく震える。次第に流れ出る血の勢いは弱まり、それと共に、兵の命も掠れていく。

 安珠は、無表情に、血の滴る剣を振った。風を切る剣に呼応するかのように血が飛び散り、血糊さえも払われた。さすがに将軍だけあって、かなりの名刀を手にしているらしい。剣の白銀の刃が、近くで燃え上がる火を受け、血とは違った高貴な紅に染められる。

 再び、馬を進行方向へと進めようとした安珠だった。だが、ふと左手の方向へと、視線を向けた。何かに気が付いたように。

 その先には、一人の兵士がうずくまっているが見えた。ヘマをして、怪我でもしたのかと思えば、そうでもないらしい。このどさくさに紛れて、役得とばかりに、女を犯しているのだ。その浅ましい動きに、安珠の表情が曇る。

 兵士の行動は、軍の常だとせせら笑う事も出来た。だが、安珠にはそう出来ない。女の悲痛な叫び声と、泣き声。兵の獣染みた行動。冷徹で血を好んでいながら、この手のことが安珠は苦手だった。戦闘の中に存在意義を見い出しているゆえに、戦場での戦い以外の行動を毛嫌っている。

 安珠はすぐに馬を進めると、小さい声で兵に呼びかけた。背後からの突然の呼びかけに、男はわずらわしそうに振り返る。味方の兵が、意地汚なく自分の行動の相伴にあずかろうとしていると思ったらしい。振り返り際に兵が浮かべた下卑た笑みに、安珠もその作りものの酷薄な笑みを浮かべてやった。そのまま、男の背に向かって剣を振り降ろした。またもや、無造作に。

「使い捨ての駒がさかるな・・・」

 吐き捨てるように冷たい口調でつぶやき、立ち尽くした兵へと、さらにもう一刀、浴びせかけた。

 そして、彼らしい酷薄な視線を、犯されていた若い女性へと向ける。ガタガタと震え、視線を宙に彷徨わせている女。服は乱れ、スラリとした足が、払われたスカートから露になっている。

 無残な姿の女に向けた安珠の表情には、労りなどと言うものはなかった。ただ、冷たく女を見下ろす。欲望も同情もない、淡々とした表情。

「行け。騎士を見つけたらすがるがいい。逃げ道くらいは、確保してくれるだろう」

 それでも、女の状態がそうさせたのか、一言だけ言葉を残す。

 そのまま、何かを求めるかのように、馬を回頭させた。その行動はまるで、何かを探し彷徨っているかのように見える。部下の騎士達とは違い、村人を助けることや、兵を殺すことよりも、何か一つのモノを求め、村に一人で走りこんだようだ。

 だが、その探しものも見つからないのだろうか。安珠の面には、すでに、諦めた色合いが濃く浮かんでいる。冷淡に見える彼だから、その表情もわずかな変化でしかない。だが、彼の酷薄な面を見慣れている者には、驚愕すべき表情の変化だろう。

「・・・無駄だったか」

 また、一人ごちる。

 その時だった。安珠が、何かが草を踏みわける音を聞き取ったのは。

 日頃の鍛練のせいだろう。彼は、その手の気配には機敏だった。今も、音のした方向へと、反射的に視線を向けていた。同時に、血糊を払ったばかりの剣を握る手にも緊張が篭る。

 だが、その音の元を見分けると同時に、何処までも冷淡だった彼の面に、驚愕が浮かんだ。

 彼の視線の先に在るのは深い森。平和だった村そのものを象徴するような、穏やかで鬱蒼とした物だ。その奥手に、安珠は目的のモノを見つけた。一瞬だけ視界に現われ消えた姿。だが、それを見間違う安珠でもない。

「く・・・はは」

 滅多に見せない、本当の笑みを、安珠は浮かべていた。一瞬だけ現われた、二十の青年らしい笑み。

 本当は、この村へは、血の匂いに引かれて来たと言ってもいい。大公の兵が出没するかもしれないと、王子の側近連中が言い続けていた場所だ。ここにくれば、間違いなく、一戦、二戦はあるだろうと思われた。

 自分がここに来た本当の理由が、『探索』すると言うことよりも、言い訳程度にはなる理由を得ての人殺しだと、安珠は理解していた。大公の残兵とも言える連中との戦闘。それに、誰が文句を言うだろうか。

 それでも、神も悪魔も彼を罰しはしなかった。ちゃんと、彼は目当てのモノを見つけたのだ。

「あーははははははははは!!」

 彼は突然、身を折って笑い出した。

 折りよく馬を走らせてきた四人ほどの騎士達が、何事かと言うように、将軍を遠巻きに見ている。その中に丁嘉の姿がある所を見ると、彼が数人の騎士に追従を求め、安珠の後を追ってきたのだろう。やはり、安珠一人で村の中を彷徨わせるのには、気が引けたらしい。

 安珠は、笑いながら彼等に剣の先を向けた。狂気染みた笑みに、騎士は怯えた表情を見せる。だが、そんな物に構う安珠でもなかった。

「丁嘉、お前はすぐに騎士連中をまとめて、川に向かえ!」

「・・・将軍?」

 突然の、奇怪な命令。丁嘉は、承服しかねた表情で、眉を潜めた。安珠が最初の命令で指定した半刻までは、まだ大分、時間がある。そして、もう少し時間をかければ、それだけ生き残った村人を余計に助けられるはずだった。

 だが、安珠は予想通りに、丁嘉の疑問など、受け付けないと言った姿勢だった。彼はただ、いつもの通りに、馬鹿にしたような態度で、年上の部下を見据えるだけだ。

「大公の兵の始末ならば、すぐにつく。村の中で生き残れた奴がいても、川沿いに逃げるだろう。お前たちは、逃げてきたのが兵ならば始末し、村人ならば保護しろ」

「は・・・はい」

 将軍の命令は絶対だ。騎士である彼にはこれ以上反論することが出来ない。副将になりえない、自分の身分がわずかに悔しかった。

 そんな丁嘉を含む騎士達の、不満と混乱ははっきりと面に出てしまう。

 安珠は、騎士達の予想通りの表情を見て、ニヤリと笑った。

「阿奏(アソウ)がいた」

「阿奏様が!?」

 安珠のつぶやいた言葉に、その場に居合わせた騎士全員が騒然となった。

 予想通りの反応に、安珠は皮肉った笑みを浮かべている。

「奴が動いたと言うことは・・・判るな?」

「は・・・はい」

「死にたくなければ、すぐに俺の言う通りにしろ!」

 安珠はそう言って、やっと剣先を引いた。今一度、血糊を振り払い、手慣れた様子で、剣を鞘に収める。

 騎士達は、将軍の言うままに、馬を村の出口へと返す。唯一人、丁嘉だけが、行きにくそうに、馬を足踏みさせている。

「どうした、丁嘉?」

「将軍はどうなさるのですか?」

「俺はここに残る。当り前だろう」

「やはり・・・」

「奴がここに居る以上、俺も行く。奴の言う『紅天の獣』を見なければ気が済まん」

「止めても無駄なのでしょうね・・・」

 丁嘉は、重いため息とともに、そうつぶやいた。そこには、どうしようもない諦めがある。

 彼は、安珠の命を確実に実行するために、馬の腹を蹴った。今すぐにでも、騎士達を集め、命令通りに退去しなければならない。丁嘉の未練を知ってか、知らずか、主の命に馬はおとなしく従い走り出す。

「将軍、ご無事で!」

 言わなくともいいことを言い捨て、丁嘉は走り去っていく。

 安珠は、愚直な右腕の姿が遠のいて行くのを見送り、彼自身も馬の腹を蹴った。

 向かう場所は、丁嘉達が向かうのとは、はまるで正反対の方向。

 村の最奥であり、眼前に見える山々への入り口となる場所。そこへと馬を走らせた。

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