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紅天の獣。
そは天を紅に染め上げる魔獣なり。
北の山を住処とし、村々を餌場とする。
天の星流れ落ちる日、一人の娘山にのぼらん。
紅天の獣と出会い、そを宥める。
娘、紅天の獣と子をなし、山を下りる。
人、赤子を崇め、紅天の獣を退けん。
紅天の獣。
そは天を紅に染め上げる神の獣なり。
北の山を住処とし、村々を守護せん。
子と契約をなし、血筋の守護とならん。
紅天の獣。
そは一筋の血筋なり。
暖炉の中の薪が、大きな音を立ててはぜた。
今まで祖母の話に聞き入っていた七瀬は、その音にビクリと体を震わせる。
「おばあちゃん・・・」
七瀬は、どこか、おどおどとした様子で、祖母にしがみついた。
新しく、祖母の語ってくれた話。それは、今までの昔語りとは違った、物悲しく、また、恐ろしくもあった話だった。
いつも聞いていた、紅天の獣の話から始まり、それは、今まで聞いたことのない後日談にまで続いていた。
その話を思いだし、七瀬は顔をクシャリと歪ませる。
昔々、北の山に、一頭の大きな獣がやって来ました。獣は、とてもお腹が空いていたのか、北の山にあるご飯を全て食べてしまいました。
山から食べ物がなくなってしまった村の人々は、とても困りました。このままでは、寒い冬が来る前に、残っているパンも麦もなくなってしまいます。
困り果てている村人達を見て、一人の女の子が、言いました。『私が、獣を説得してきてあげる』
勇気ある少女の言葉に、村人達は皆喜びました。村の人達は、女の子に持てるだけの荷物を持たせ、獣の住んでいる山へと向かわせました。
少女は、寒い秋の風が吹く中、一生懸命に山を上りました。
その途中、少女の上に大きな影がかかりました。何かと、少女が見上げてみると、そこに、一頭の大きな獣が飛んでいたのです。
女の子は、とてもビックリしました。ですが、村人達がこれ以上困ると悲しいので、勇気を持って、獣に話かけました。
『どうか、これ以上、私達からご飯をとらないで下さい』と。
それから、二年も経ちました。女の子が消えてから、獣がご飯をとってしまうこともなくなりました。それどころか、獣は、村を守ってさえくれています。
村人達は、最初の一年ほどは、何時か女の子が帰ってきてくれるのではないかと、待っていました。ですが、いくら待っても、待っても、女の子が帰ってくる気配はありません。
そうして、村の人達が諦め、悲しく思っていたころ、ヒョッコリと、少女が帰ってきました。
二年の間に、女の子は奇麗に成長していました。しかも、一人の男の赤ちゃんも連れています。
その子が誰の子供なのか、村の人達はさっぱりわかりませんでした。彼等が尋ねて見ても、奇麗に成長した女の子は、笑っているだけです。
赤ん坊は、奇麗な赤い目をした子供でした。そして、とても不思議な力を持っていました。
ある時、村の家が火事になってしまったのです。ですが、赤ん坊の子が泣くと、その火はあっと言う間に、静まってしまってしまいました。
村の人間達は、不思議な力を持った赤ん坊を大事にしました。この男の子がいれば、村は火事にあうことはありません。ですから、大切に、大切にしていました。
以前は森からご飯を全てとっていた獣も、ずっとおとなしいままです。ちゃんと、村を守っていてくれます。
奇麗な赤い獣と、男の子に守られた村は、それから、ずっと平和に暮らしていました。
それが、嘘に固められた伝承。
七瀬の祖母は、この物語を言葉巧みに語りながら、最後にこう言って締めくくったのだ。『これはね、本当は嘘なんだよ』と。どこか物悲しそうにつぶやき、小さく嗚咽を漏らした。
何が嘘なのか、七瀬には判らなかった。この話は、彼女がずっと聞いてきた話だからだ。疑いようがない。
祖母は、戸惑っている可愛い孫の頭を、そっと撫でた。
そして、この話を『嘘』だと告げた後、彼女は伝承の続きを、彼女の家にだけ伝わっている後日談を、少女に伝えた。
老婆の命は、あと十年も保たないだろう。その自分の命が尽きる前に、孫たる少女に、真実を含んでいる話を、伝えたかったのだ。
老婆の家には、伝承の続きはこう伝わっていた。
ですが、その平和もある日壊れてしまいます。
ある時、村の人達が、男の子の父親が誰なのか、判ってしまったのです。
男の子は、大きく成長していました。その彼の赤い瞳を見ていて、いったい父親が誰なのか、村の人達は不意に思いついてしまったのです。その父親は、『獣』。そうです、ずっと昔に、村から沢山のご飯をとっていってしまった獣だったのです。
村の人達は、昔にあった事を思い出して、とても怒りました。あの時、とてもお腹が空いて辛かったことを、男の子の母親に言いました。
かつて少女だった女の人は、村人達の言葉に、とても困りました。どうして、今になって、そんなことを言うのかと、泣きます。
ですが、村人達も、とても怒っていました。そして、怒った村人の一人が、女の人を殴ってしまいました。
殴られてしまった女の人は、とても傷つきました。しかも、村人達は、女の人に出て行けと言います。悲しくて悲しくて、女の人はいっぱい泣きました。そして、大きくなった男の子に連れられ、女の人は山に帰りました。
昔、女の人は泣いてまで『獣』に頼んで、村に帰ってきたのです。その村で、酷い目にあってしまったので、女の人は、『獣』の元に帰ることにしたのでした。
男の子は、母親を山まで送った後、村に帰ってきました。ただし、これ以上、村にいようとは思わなかったようです。彼は、家に帰ると荷物をまとめ、村を出ていってしまいました。
それから後、村では沢山の火事が起りました。村人達はとても困りましたが、今まで火事を消してくれていた男の子がいないので、火は収まりません。
家が沢山焼け、後には何もなくなってしまいました。
村人達は、女の人や男の子に酷い事をしてしまったと、とても後悔しました。ですが、もう全ては後の祭です。彼等は仕方なく、村を作り直すことにしました。
村を出ていってしまった男の子は、近くの村に移り住みました。そこで、可愛らしいお嫁さんを貰い、二人で幸せに暮らしました。
獣も、自分の大切な子供のいる村を新しく守ります。女の人と、男の子に酷い事をした村は、沢山の火事に困り、男の子の新しいお家がある村は、そんな心配もなく、ずっと平和だったそうです。
老婆は、その話の中に含められている真実を、七瀬には敢えて事細かく説明しようとはしなかった。だが、彼女は知っている。
『獣』と呼ばれている紅天の獣が、実は人を食らっていたこと。『女の子』が、村から疎外されがちな、存在だったこと。彼女の母親は、村の外の人間だったらしい。そして、そんな少女が、紅天の獣の生贄に差し出されたこと。
彼女が赤ん坊を連れてきた時から、村人達は、その子供の父親が誰なのか、判っていたらしい。だが、彼女が村に戻った後も、村人達は紅天の獣を恐れ、彼女の子供に手出し出来なかった。だがそれも、子供が成長したときに、爆発してしまった。
そう、村人たちは、『殴った』のではなく、『殴り殺した』のだ。かつて、家族を奪われた怒りのままに、罪のない女性を撲殺した。
母親を目の前で殺された少年は、その体を抱えて山へ行ったそうだ。そこで、紅天の獣に母の死の罪は、獣にあるとなじり、近くの村に逃げたと言う。
この話は、しょせん『紅天の獣』の血を継いだ者など、北の村々にとっては脅威であり、気を許すなと言う訓戒なのだろうか。
話にある、少年が消えた後の、火事の多発が、紅天の獣の手によるものなのかは、伝えられていない。ただ、老婆は思う。あれは、少年の手によるものだったのではないかと。それが母であろうと父であろうと、また、恋人であろうと、愛しい者を奪われた悲しみは計り知れない。最愛の者を失った人物が、何を起こしても、老婆には不思議には思えなかった。
七瀬に聞かせた昔話。この話が、事実を含んでいると言っても、それは不確かなこと。実際にこの事件があったとき、老婆はまだ生まれていない。しかも、この話は、彼女にとって、何代も前の祖先の話だ。彼女にとっても、事実は曖昧だ。どこまでが脚色された話なのか、区切るのはとても難しい。それでも、三年前にあった惨劇と照らし合わせて見ると、いくつかの真実が見えてくるような気がした。
だが、その曖昧な話を、老婆はさらにぼやかそうとしている。今もはっきりと思い出せる悲劇さえ伝えずに、老婆は昔にあった悲しい物語も、曖昧な物にしようとしていた。
ただ一つの真実を抜かしてだ。そう、この家が獣の血筋だと言うことを、老婆は七瀬に伝えた。それだけは、この家に生まれた者が、知っていなければならないことだったから。
知っているのと知らないのとでは、七瀬のこれからの人生が大きく変わってくるかもしれない。それでも、知らずに責めを負うよりは、真実を知って糾弾される方がいいだろう。そう判断した。どのみち、『紅天の獣』の子として生まれてきてしまったのだ。この北の村周辺に居続ける限り人々に、幾度となく奇異の目で見られることは避けられない。そして、その理由を、七瀬は知っておく権利がある。
それがどんなに苦い真実だとしても、知らせておいた方がいいと思った。代々伝えられてきた話を、自分の代で消滅させるのも忍びなかった。
愛しい孫に、悲しい悲劇を伝えることに、抵抗がなかったわけではない。だが、人外の血が混じっている限り、そういうこともあるのだと、言っておきたかったのだ。そう、『紅天の獣』に関わる者には、悲劇ばかりが付きまとう。老婆の娘や、その伴侶の青年のように。
七瀬の父親の正体を彼女は見てしまった。稿朱が『紅天の獣』となり、村々を襲うのを、彼女は目のあたりにした。あれは先に死んだ佳紗御にとっても、また、その死骸を見なければならなかった稿朱にとっても悲劇だった。そして、北の村々の人間にとっても。
あの時の事を思い出すと、今も胸が痛む。娘のことをそこまで思ってくれたのは嬉しい。だが、人々が『地獄』と呼ぶあの惨劇を、引き起こさないでくれればよかった。そうも思ってしまう。
あの惨劇さえなければ、老婆は孫を守るために、気違いじみた言葉を叫ばなくともよかった。自分も紅天の獣の血筋だと、バラさずにすんだ。七瀬が色濃い血筋だと言うこともだ。そして、村人達から、脅威の視線で見られることもなかっただろう。ただ、娘を殺されてしまった、可哀相な母親だと、老いた身を労られるだけで、済んだだろう。七瀬も、早くに母を亡くした幼子として、慈しまれていたはず。
だが、全ては既に過去のことだ。後悔しても、悔やんでみても、どうにもなるまい。
そして、敢えて思い出すことでもあるまい。ただ、心に留めておけばいい。
「おばあちゃん?」
ふと気がつくと、七瀬が老婆の服のすそを引っぱっていた。
どうしたのかと、首を小さく傾げて見ると、七瀬は戸惑った様子で、窓の外を示した。
「さっき、朱峯がいたの・・・」
そう言って、七瀬が見ている窓の向こうは真っ暗だ。部屋の中が割合、明るいせいだろう、外をここから見極めることなど、ほとんど不可能とも言える。
それでも、七瀬には朱峯の姿が見えたと言う。
祖母は、一瞬それに否定的な事を言おうとした。だが、すぐに思いとどまる。
この、『稿朱』の血を引く娘ならば、見極められるかもしれないと考えたのだ。この、紅天の獣の血を誰よりも濃く引く娘ならば、その『獣』の目を持ってして、闇をも見透かせるのだろう。
「ねぇ、行って来てもいい?」
朱峯が、家の裏、つまりは、森から出てきて間もないのだろう。七瀬は無邪気な様子でそう尋ねてくる。彼の姿を見て、老婆の返事を待つのも、もどかしいとばかりに、うずうずしている。
「そうだねぇ。行っておいで」
こんな暗い時刻に、森から出てくる不審さを思いながら、老婆は孫を促した。
許可を得た七瀬は、勢いよく外へと駆けていく。老婆は、その後にゆっくりとした足取りで続き、ふと、何かに思い当たったように立ち止まった。
二年前に、稿朱こそが『紅天の獣』だったと、村の中でバレた。そして、村人達は、その購いにと、老婆の可愛い孫を血祭りに上げようとしたのだ。ヒステリックに、狂気に陥りながら。
それを阻むために、老婆は狂言を吐いたのだ。もし、七瀬に何かすれば、この子も『紅天の獣』となるだろう。いや、それ以前に、山から『紅天の獣』がやってくると。
全てがはったりだった。ただ、孫を守りたいだけだった。
老婆が必死に叫んだ言葉。それは、確かな事実ではない。ただ、ありえるかもしれない虚言。
だが、老婆の言葉に、村人達は、彼女が考えた以上に、衝撃を受けたようだった。あれからは、紅天の獣の存在に怯えてか、七瀬に危害を加えようとはせず、それどころか、彼女に優しく接しようとしている。全ては、あの三年前の惨劇に恐怖しての行動だが。
あの、狂言を叫んだ時、確か朱峯も居合わせたはずだ。稿朱に可愛がられ、なおかつ、赤い瞳を持っていたあの少年も、七瀬同様に、村人達の狂気に飲み込まれそうになったのだ。
そして、彼が、山へと向かい出したのは、あの直後からだった気がする。
おそらくは、『稿朱』の姿を求めてのことだろう。稿朱こそが紅天の獣と、彼もあの場で知ったのだ。
彼が七瀬に冷たく当たり出したのも、あの時から。それを、七瀬は酷く気に病んでいた。
それでも、老婆の孫たる、あの無邪気な少女は、朱峯にいくら辛く当たられても、めげずに彼にまとわりついていた。それまで、彼に優しく構っていたことが、忘れられないのだろう。泣きべそをかきながらも、朱峯の姿を見ればさえ、彼に駆けよっていた。
そう、今のように。
老婆が外に出ると、七瀬が大声で泣いているところだった。彼女は、老婆が現われたのを見て、すぐに彼女に抱きついてくる。
「おばあちゃん、朱峯、怪我してるよ!!」
「おや、おや」
老婆は、やけにのんびりとした口調で、頷いて見せた。そして、家の前の闇の中で立ち尽くしている少年へと目を向ける。
十三になったばかりの少年は、いまだ幼さは残るものの、一端の青年なみに身長も伸び、体格もしっかりしていた。同年代の少女達の中でも、さらに小柄な七瀬と比べて見てみると、彼の恰幅の良さは、思わず目を見張るほどだ。彼の手足は長く、しっかりとしている。そんな、力任せに行動できるような体を親から貰っていながらも、朱峯は思慮深く、また、考えこむ質でもあった。穏やかで、静かな事を、小さいころから好んでいた少年だった。
その彼が、二年ほど前から、がむしゃらに剣を振り回し始めた。もともと、嫌々ながらも、稿朱に仕込まれていた剣技を、まるで狂ったかのように、修練し始めた。そして、山をうろつき、『紅天の獣』の姿を求める。
どうして、彼が『紅天の獣』を探し求めているのか、老婆は知っている。
復讐なのだろう。
もともと、紅天の獣のことは、両親を奪われたことで憎んでいたようだった。その正体が、尊敬もしていた稿朱だったと知り、全ての感情が爆発してしまったらしい。ただ、稿朱を憎み、彼の姿を追い求めた。実際に会って、どうするつもりなのかは、考えていなかっただろう。ただ、がむしゃらに、山の中を暇さえあれば、うろついていた。
その少年が、日頃の手負いの獣のような様子を潜ませ、闇の中にポツンと立っている。
老婆は、彼の姿を見て、思わず息を飲んだ。
家の戸口から差し込んでくる、弱々しい光。それに照らし出された朱峯の体が、赤っぽい色に汚れていたのだ。今朝見たときには、薄緑の軽装をしていた。それが、今や赤く染まっている。
どうして、七瀬が『怪我をしている』と泣き叫んだのか、ようやく判った。同時に、その『血』が朱峯の物でないこともだ。怪我をしている割には、朱峯はしっかりとした足取りで、微動だにせず立ち続けている。本当の怪我人ならば、こうはいくまい。
「七瀬、タンスの一番下にある、大きな服、出しておいてくれないかい?」
老婆は、朱峯がやたらと七瀬のことを気にしているのを見てとり、そう言った。
七瀬は、その言葉に、ためらいを見せる。朱峯のことが心配でならないのだろう。それでも、老婆があくまで穏やかな口調で促すのに、ようやく頷く。
「わかった・・・」
七瀬は、コクンと小さく頷いて、家の方へと駆け戻った。
その後ろ姿を見送りながら、老婆は小さくため息をついた。それに、朱峯がビクリと体を震わせる。
老婆は、ゆっくりとした足取りで、朱峯の目の前に立った。そして、上から下まで、彼の状態を観察する。
「その血・・・」
「あの・・・俺!」
「『稿朱』かい?」
老婆がおだやかに問いかける。
朱峯は、地面を睨みつけたまま、ブルブルと体を震わせた。見れば、目元から、いく筋も涙がこぼれている。朱峯は、拳をギュッと握り締め、言葉を吐き出した。
「稿朱さんを・・・殺した」
「そうかい」
「山に行って・・・洞窟が変だったんだ。だから、覗いてみたら、稿朱さんがいた。人だった・・・」
「三年も、何をやっていたんだろうねぇ・・・」
老婆は、まるで、村を出奔でもしていた稿朱が、他の場所で見つかったような、そんな呆れた口調でそう言う。
朱峯は、そんな老婆の言葉に、明らかに戸惑っているようだった。涙をこぼしたまま、困ったように彼女を見上げる。
「ばあさん・・・俺、稿朱さんを・・・」
「知ってるよ。で、何だい、稿朱はなんて言っていた?」
「稿朱さん・・・ごめんって・・・」
そう言って、朱峯は血で汚れた手で、顔を覆う。
「俺が行ったら、稿朱さん、笑ってた。殺してくれって。もう、いいからって。それで、俺・・・頭がカーッとなって、気がついたら・・・」
気がついたら、持っていた剣で彼を貫いていた。
稿朱は、抵抗もしなかったのだろう。少年の姿を見れば判る。あれでも、村の外を剣一本で荒稼ぎしたほどの腕だ。いくら必死でも、朱峯のような少年に、むざむざとやられる弱さではない。
朱峯の言葉どおり、彼は『殺してくれ』と言ったのだろう。愛する女性も亡く、また、村人達にも恨まれるようになった今、そんなふうに絶望していても無理はない。いまや娘の安全も、『紅天の獣』の脅威に確保されている。
何も期待できず、また、何も心配する必要もなかった。そこに、可愛がっていた朱峯が、血走った様子でやってきたのだ。
「そうか、そう言ったか・・・」
老婆は妙に納得した様子で頷く。
「で、七瀬については、何か言っておったかの?」
ふと、稿朱が七瀬を抱いて、笑っている光景が思い出された。不意に降った夕立ちのあと、七瀬が面白がって、水溜まりで遊んでいた。その彼女を抱き上げ、稿朱は娘をくすぐっては、おかしそうに笑った。そんな彼の脇には、困ったように笑う老婆の娘である佳紗御。
あの惨劇の数日前、佳紗御が殺される前のことでもある。
やんちゃな、母親似の娘を抱いて、稿朱がおかしそうに笑っていた。娘がませたことを言っては笑い、転んでは苦笑していたような父親だ。妻たる佳紗御を愛し、七瀬を溺愛していた。
もう帰ってはこない、幸せな過去の風景に、老婆は顔を覆った。朱峯の、押し殺した泣き声を聞きながら、小さく呻く。
「のう、朱峯、稿朱は何と言っておった?」
誰よりも、妻と娘を思っていた稿朱。その彼が、残して逝かねばならない七瀬について、何も言わないはずがない。
朱峯は、老婆の言葉に、顔をクシャリと歪ませた。今まで、ついぞ見せなかった少年らしい表情で、泣いている。
「稿朱さん・・・よりにもよって、俺に、七瀬を守ってくれって」
「お前に?」
「俺しかいないって・・・俺に謝って、それで、頼むって。村の連中じゃ信用できないし・・・ばあさんだって・・・」
「ずっと、側にはおられんと言いおったか」
「うん・・・」
朱峯が頷いたのを見て、老婆は口元を歪めた。
昔から、あの稿朱は老婆にたいして口がさなかった。それに佳紗御が怒り出せば、おもしろがって彼女をからかう。そんな、どうしようもない青年だったのだ。
稿朱が、七瀬のことを朱峯に託した。そのことに、老婆は違和感は感じなかった。
他の村の連中も、朱峯と同じように、身内を『稿朱』によって殺されている。だが、朱峯には、赤い瞳がある。血族としての証だ。そして、何よりも、稿朱は朱峯のことを長年構ってきた。彼がどういう気質の者なのか、理解している。その上で、自分の娘を託せるのは、自分を殺しにきたこの少年だと思ったのだろう。
「ままならぬものよのぉ・・・」
あの佳紗御が殺される事件さえなかったのならば。
そうすれば、今も家の中には佳紗御と稿朱がいただろう。朱峯がこうやって、夜中にこの家にきても、何の違和感もない。ただ、小さいころから彼を構ってくれている、稿朱に会いにきただけなのだから。
老婆は、ずいぶんと暖かい視線で、朱峯を見つめた。
「で、どうするのかの、朱峯?」
「あ・・・俺」
「七瀬を、守ってくれるのかの?」
「・・・できないよ!!」
少年は、不意に感情を爆発させ、そう叫んだ。
「だって、俺が稿朱さんを殺しちゃったんだ。どうして、いまさら、七瀬の側に・・・!!」
「ぬしは、死者との最後の約束も守らぬのかの?」
「だって・・・!」
「だってもないじゃろう」
老婆はそう言って、朱峯の震えている肩へと、染みの浮いた、嗄れた手を置いた。
「おぬしが、七瀬のことをほんに嫌っていても、稿朱はお前しか、娘を守れないと頼んだのじゃろう?」
「・・・七瀬のことは、嫌いじゃないよ。嫌いじゃ・・・」
「なら、なぜいかん。稿朱のことが、許せんのか?」
「許せないのは、俺自身だよ」
「ほう?」
「だって・・・!」
朱峯は顔を上げ、老婆の両腕をつかんだ。
「だって、俺には、稿朱さんを殺す・・・裁く権利なんか、なかったんだ。稿朱さんだって、苦しんでた。なのに、俺は・・・!!」
「稿朱は死を望んでおったと思う。だから、お前が苦しむ結果となっても、あれは殺されたことで救われたのじゃろう」
「そんなの・・・!」
「そう思え」
少年の苦しみを見守りながら、老婆はそう言い切った。
彼女は、やんわりと、朱峯の腕を引き剥がし、彼を家の中へと誘う。
「朱峯。それを罪だと思うのなら、せめて、稿朱との誓いを守っておくれ」
「ばあさん・・・そうだね」
「そうじゃろう。他に、お前に出来ることは、あるまい」
「でも・・・きっと、七瀬は許さないだろう。俺のこと・・・」
「どうせ、父親のことなど、スッカリ忘れておる子じゃ。気にせんじゃろう」
「・・・忘れてるんだ」
「まるきりのう。母親のことも、曖昧じゃ。三年前のことは、ほとんど覚えておらんよ」
老婆はそう言って、おかしそうに笑う。
朱峯は、それにどう対応していいのか、判らない様子だった。ただ、辛そうに、戸口に立って彼等を待っているらしい七瀬に、目を向ける。
七瀬は、朱峯達がこちらにやって来るのをみて、ピョンと玄関から飛び出てきた。朱峯の元へと駆けよりながら、伺うように彼の表情を覗き込む。
「朱峯、怪我、大丈夫?」
「・・・ん?」
彼は、七瀬の言葉に、自分の体を見てみた。
そこには、一面に稿朱の返り血。その事に、苦しげに顔を歪め、彼は呻いた。
七瀬は、朱峯の呻き声に、慌ててみせる。傷が痛むのかと聞き、泣きそうな顔を見せた。
そんな彼女を心配させまいと、朱峯はぎこちなく笑う。
「いや、怪我はしてない・・・」
「そう?」
笑いかけてくる朱峯に、七瀬は小首を傾げる。二年振りに、朱峯が笑ってくれたことに、嬉しそうにしながらだ。
「よかった」
ホッと、七瀬が胸を撫で降ろす。その無邪気で、何も知らない優しさに、朱峯は胸が詰まった。
「七瀬・・・」
「ん?」
声を駆けると、七瀬はピョコンと彼を見上げる。
「なに、朱峯?」
「俺が・・・守るからな」
「七瀬を?」
「そう。お前を。ずっと・・・」
朱峯がそう言った言葉に、七瀬はキョトンとなった。
彼が何を言ったのか、よく判っていないらしい。考えこんだような表情になる。
それから、しばらくして、七瀬はパッと顔を明るくした。可愛らしく笑い、朱峯に頷いてみせる。
「うん」
七瀬は幼い動作で、朱峯の手を取った。
その手を握り返しながら、朱峯は瞳を閉じた。
この手の暖かさだけは守ろう。何としても。
「ばあさん」
朱峯は、ふと何かを思い付いたように、背後にいる老婆を振り返った。
「俺、村を出るから」
「なんじゃと・・・?」
老婆は、少年の言葉に、顔をしかめた。つい今し方、この少年は七瀬を守ると明言したばかりなのだ。だと言うのに、彼は村を出ると言っている。その矛盾に、老婆は困惑した。
「どういうことじゃ、朱峯?」
「強くなりたいんだ」
七瀬の手を握りながら、朱峯は静かにそう言い返した。
「稿朱さんみたいに、村の外で強くなってくる。もちろん、村には帰ってくるよ。可能な限り、七瀬の様子を見に帰ってくるし・・・それに、山にもいく。稿朱さんに、七瀬のこと、伝えたいから」
「朱峯・・・ぬしは・・・」
「強くなりたいんだ。今のうちに。これから先、ずっと七瀬を守れるようにさ」
朱峯はそう言って、少年らしい笑みを浮かべた。
その横で、七瀬が不思議そうな顔で、朱峯を見上げている。彼女も、彼の言葉の意味は理解しているのだろう。不安そうに、拒絶の色を見せる。
そんな少女を安心させるように、朱峯は彼女に笑いかけてやった。二年あまりも、笑みを浮かべなかったせいだろう、彼の笑い顔は、どこかぎこちなく見える。
そんな笑みでも、笑いかけてもらえることに、七瀬は率直に悦んでいた。彼のこの笑みが、彼女は好きだったのだ。
ポンと、朱峯は七瀬の紫がかった黒髪の上に手を置いた。
「大丈夫だよ、七瀬。俺は、ちゃんと帰ってくるから」
「本当?」
「あぁ、そうだよ。帰られるかぎり、帰ってくる。それで、七瀬の顔、見に来るから」
「うん」
幼い仕草で、七瀬は頷く。
お互いに笑いあっている子供達を、老婆は胸の支えが取れたような表情で見守っていた。
これでもう、孫の行く末を心配する必要もないだろう。朱峯の心の傷も、新たなものを刻みながらも、癒され始めている。
時が流れ、それでも二人が一緒にいるようすが、一瞬、幻のように現われた気がした。それは一瞬で消えた、淡く悲しい夢だった。だが、老婆はその光景に満足する。それが、自分の心が生んだ幻だと言うことは、よく判っていた。だが、今見たものとよく似た光景が、いずれ現実になるであろうと言うことも、疑わなかった。
孫娘の笑顔を見守りながら、老婆は不意にハッとなる。
「佳紗御・・・」
七瀬の姿が、母親である佳紗御とよく似ていることに、老婆は気が付いた。娘に生き写しの姿。それに、涙がこぼれる。もう還ってはこない娘。母親である自分よりも先に逝ってしまった、親不幸な娘だ。
娘が死に、その伴侶もいなくなった。
それでも、七瀬がいる。きっと、この子は幸せになってくれるだろう。母親の分も父親の分もだ。それは、老婆の願いであり、また、死んだ二人の思いでもあるから。