1
彼女こそが大地に愛された娘。
北の冷たさにさらされながらも、豊穰を約束された大陸シルバリア。
ゴールドバーンとも比較されるこの大陸には合計四国の有力国家が存在していた。大陸西部を支配するシルバリア皇国。北西部に位置するウルヴィス王国。南西部のパレット共和国、そして、その東に位置する星祥王国だ。この他にも、多数の小国や自治領が存在するが、この四ヵ国と比較すれば、それは、微々たる存在となる。それほどまでに、この四大国家と小国との国力の差は大きいのだ。
もし、この四つの大国の中で、最有力の国家を一つ上げるとすれば、十人中の十人が、シルバリア皇国の名を上げるだろう。
シルバリア皇国は、大陸の約二分の一を支配する大陸の最大国家だ。歴史の半ばで断絶の危機にさらされた事があるとは言え、国家として存在している年月はレイディア公国と並んで世界最年長であり、また、この世界でも稀に見る血筋正しい王族が支配する国としても知られている。
その大国と国境を接している国家であるウルヴィスは、ある意味不幸とも言えた。過去、この国は、何度も大国シルバリアの侵略と言う脅威にさらされ続けた。だが、シルバリアが『聖王』の唯一の血族であるため、ウルヴィスと同盟を結び、共に戦ってくれるような国家が皆無なのだ。星祥王国、パレットなどの有力国家も近隣に存在していたが、いずれも、シルバリアの影響を受けるか、または、『聖王』に国民が傾倒しているかの始末。決して、対シルバリアの同盟国家としては頼れず、また、考慮することもできぬ国家達だった。
ウルヴィスはまた、百年前より始まった、魔法を利用した『科学』を第一線で開発している国家の一つでもあった。ウルヴィスが、この一種珍妙とも言える技術に傾倒した最大の理由が、軍事的な目的だろう。シルバリアと対するためには、他国にない、ウルヴィス特有の軍事力が必要だと判断されたのだ。
だが、学者達や宮臣達の期待とは裏腹に、魔法の科学は発展らしい発展をまったく見せなかった。それよりはむしろ、従来から続く純粋な魔法の開発が、より多きな業績を上げた程だ。戦乱の中の狂気的な発展とは違う、安定した魔法の発展。それは、元々魔法国家としての特色が濃かったシルバリアとウルヴィスの国力をさらに開く。それはそのまま、宮廷の方針を変化させる要因となる。ウルヴィス以外の国にしても、遅々として結果を表わさない『科学』よりは、魔法へとその関心の方向を変えつつあった。
だが、『科学』が見放されつつある中、それでもウルヴィスを代表とした少数の国家は、以前その開発にしがみついていた。
ある国は、それこそが、自国に豊かさをもたらすものだと信じ、また、ある国は、王の気紛れによって科学者達を飼う形で研究を続けていた。中には、『科学』の開発の途中で、禁じられた魔導技術などを復活させてしまう国家もあったが、研究を続ける国々の大半が、魔力を基盤とした新たな技術の開発のみに固執していた。
ウルヴィスは、そんな中で前者。
この国には大国との確執と共に、もう一つ懸念すべき大きな問題があるのだ。唯でさえ、大陸は北緯に位置していると言うのに、ウルヴィスはその中でも最北を締めている。シルバリア皇国や他大陸のマーゼル公国も同じように、北の国として知られている。だが、この二つの国家は、大国として南部にまでその領地を締めているのだ。北の凍てついた国土しか持たぬウルヴィスとは事情が違ってくる。
北に位置する国家の常として、ウルヴィスには大地が恵みが薄い。春も半ばから秋の終わりまでの、他国に比べれば断然に短い農耕期間中に、ほぼ全ての食料を生産しなければならない。他国との豊穰には歴然とした差があれば、国の豊かさにも大きな違いが出てくる。ウルヴィスは、他国に対する嫉妬と言う、愚かな思いの他にも、自国の『飢え』を逃れると言う目的があった。その王国の豊かさに対する望みを、新たな『技』へとこの国は賭けていたのだ。
しかし、その『科学』は少しずつ、少しずつ正しき軌道から逸れていった。その道の外れを示すのは、ウルヴィス王国西の国境沿いに存在する町・ガンベル。
王都からも遠く離れた、辺鄙な土地とも言えるガンベルに、常ならぬ訪問者があった。
質素な馬車で乗り付けてきたものの、御者の衣服や態度、そして、馬の質などから、町の人々は、訪れて来た者が、身分を隠した、高位の貴族だと察した。
馬車は、町の中央にある市長舎近くにある、施設まで乗り付けた。この町が獄舎から生まれたと言う名残の建物と言うせいなのか、施設は町の中にあるものの、人々はめったに近づかないと言う、いわくあり気のものだった。
もしかすれば、人々が建物を忌む原因となっているのは、建物の雰囲気なのかもしれない。ェ・モは高い壁で囲まれ、なおかつ、唯一つの出入り口である門には、この小さな町には不釣り合いにも見える衛兵が立っていた。
ガンベルの人々は、この建物について、色々と憶測しあったものだ。怪しげな魔導士が王宮から買い取ったものだの、領主が扱いに困った庶子を押し込めてあるなど。無責任な、噂がいくつも飛び交っていた。
だが、今回の貴族のお忍びらしい訪れで、その噂も『貴族』絡みの勢いが強くなったようだった。中には、訳知り顔で『実はあそこには今も王になりそこねた庶兄がいらっしゃる』だの、『姦通の疑いがある側妃が押し込めてあるらしい』だの、さらにおひれがついた噂も、飛び交うようになる。
だが、そんな人々の噂も、施設の中にまでは聞こえてこない。
実際、ここの管理を任されている者も、無責任な噂を何回も耳にしたことだろう。そして、その度に愚かしい人々の考えに冷笑を浮かべたはずだ。
今も、自分より身分の高いはずの伯爵を向かえていると言うのに、少しもひるんだ様子がない。
(これだから、魔導に関わる者は好かんのだ)
中年に差し掛かった頃の伯爵は、心の中でそう吐き捨てた。青年とも中年とも言えぬ彼は、今回、重要な命を受け、ここまでやってきた。
だが、どうも、この相手は好きになれそうにない。
伯爵の横に立ち、彼を案内する『魔導の学者』。年の頃なら、伯爵よりも2つほど上と言ったところだろうか。堀の深い、奇妙な印象を与える顔立ちをしている。美男と言うわけでもなく、また醜男と言うわけでもない。だが、不思議と一度見ると忘れられないような気がする。
伯爵は、十人並よりは、よほど麗朗たる顔立ちをしている。だが、人がみれば、伯爵よりは、むしろ、彼より纔に背の低い、学者の方へと目を向けるはずだ。
「・・・陰鬱な場所なのだな」
伯爵がそう言うと、男はそれに苦笑する。
「仕方ありますまい。この西のはずれ自体が、『陰鬱』なのです」
男の声は、伯爵が思ったよりもずっと高い。
低めの響く声をもつ伯爵と、学者の声はいい対比だった。好意的に見れば、よく響く声とも言えるが、伯爵はただ、学者らしい嫌味のある声だと取ったらしい。学者の返事にあから様な不快そうな表情を見せる。
男は、そんな伯爵の表情などに目もむけず、独り言のようにつぶやく。
「ここからさらに西にいけば、腐った大地からなる沼もありますから」
そう言いながら、相手の表情を伺い見て、学者は密やかな笑みを浮かべる。それは、些細なことで表情を表わす伯爵を小馬鹿にしているようにも見え、また、他愛ないことに心を乱される貴族をあざ笑っているようにも見えた。どちらにしろ、伯爵の視界の外で浮かべた表情だ。相手には見えない。
それでも、伯爵には気配で何かしら感じられたらしい。彼は、さらに明らかな不快の表情を浮かべる。それでも、貴族としてのプライドがそうさせたのか、学者に対する稚拙な嫌味よりは、自分の責務に関する言葉が、口をついていた。
「・・・シルバリアにそれ以上、東進することを諦めさせたと言う、西の腐った大地か」
「そういう名があるのですか、王宮内では?」
学者はそう言って、クツクツと笑う。
彼の言葉に、王宮を軽視する響きがあるのを、伯爵は敏感に感じ取る。
「スタンホープ、不敬だぞ」
「そうですかな?」
学者はそう言い、立ち止まる。
伯爵も、ほぼ同時に歩を止める。
そこにあるのは、一つの小さな階段だった。壁をえぐって作り出したような、小さな、まるで地下倉庫へと続くような、暗く陰気なものだ。だが、これこそが、彼等の目的の場所なのだ。
「ここに、枯れた大地を癒し、腐った大地を蘇らせる『モノ』があります」
「・・・これで、ウルヴィスの国力は上がる。これ以上、シルバリアにのさばらせるわけには、いかんからな」
伯爵の表に、隠してはいるが、高らかな興奮が現われる。
そんな『貴族』を、学者は冷ややかな目で見つめていた。
一人でいると、時折考えないでいいことにまで思いを馳せてしまうことがある。
丁度、アルディスの今の状態がそれだった。
「・・・嫌になる」
アルディスはそうつぶやいたかと思うと、その考えを払うように頭を軽く振った。
聖王宮内の、西の宮から本宮へと続く二階の回廊。そこを、ゆっくりと歩いていく。
今年で、『聖王戴冠』から数えて四百と四年目。
世界は安定し、四百年前の状態を知るアルディスから見れば、信じられないような平安が続いていた。
そう、信じられない。
「・・・贅沢者だな、俺は」
自嘲気味につぶやき、回廊から見える庭へと、視線を向けた。
人の手の入った庭園。完全な自然と言う状態からは程遠い。人の思うままに作り変えられ、彼等の望むままに整えられた歪められた状態の緑。それでも、アルディスには、目前に見える緑の木々や草花は例えようもなく豊かに見えた。
四百年前とは比べ物にもならない。
あの貧困の時。大地は死にかけ、煩わしい雑草さえ生えない土地が多々あった。風は淀み、空さえも汚濁に満ちていたように見えた。そんな大地と空の狭間にあって、わずかな実りも期待するだけ無駄だったのだ。少しでも豊かな土地を『力』で奪い取らなければならないような時代。そんな時だった。
貧困が呼ぶもの。それは戦乱だ。
今では、人々にとっては唯の歴史となっている事がら。遠い時のかなたの出来事として片付けられてしまうことだ。
だが、アルディスにとって、それら『史実』は、この目で見、そして身近で感じてきた現実だった。
過去の幻影を見せつけられたように、アルディスは目をつむる。思い嘆息を付きながら立ち止まると、疲れたように近くの手すりによりかかった。
小さな鳥が、アルディスが身を預けている手すり近かくに止まる。必要以上の脅威に怯える事がないせいか、聖王宮内の鳥は嫌に人慣れしている。アルディスが手を伸ばして見ても逃げようともしない。むしろ、何事かと言うように、興味深げに差し出された手を観察している。
小鳥の仕草に薄い笑みを浮かべ、彼は空へと視線を向ける。
紺碧の穏やかな海が、空にある鏡に映し出されているようだ。いや、過去に見た海そのものが、水に映し出された空の幻だったのだろうか。どこまでも青く、清廉で、汚れのない空間。罪ある者が見れば、萎縮してしまうほどの輝きに満ちている。
穏やかな気候。『世界の安定の鍵』であるアルディスがいるせいなのか、ゴールドバーンは一際、気候が安定し豊かな土地を持っている。
安定の中心に俺はいる。
切望し、恋焦がれるように思ってきた『平和』をアルディスは今手にしていた。
だが、思い出す事は全て、聖王戴冠前後のこと。
あの頃の、騒乱ばかりだ。
「・・・何故だ?」
アルディスは不満そうに吐息すると、再び歩き出した。
人々に慕われると言う聖王の身でありながら、思い出すことが、考えたくもないことばかりなのが不満らしい。
気分が悪くなったせいなのか、自然と歩調が早まる。
だが、その歩みも、不意に聞こえてきた声に反射的にゆるむ。
「・・・リースか?」
聞き慣れた声に見当をつけ、アルディスはヒョイッと、回廊を囲うようにある手すりの下を覗き込んだ。
西の宮近くのテラス。庭園を見渡せるように、西の宮から延長させたような石床の広場がある程度のものだ。だがそこも、少しばかりのテーブルなどの調度を置けば、それなりの茶会の場になる。
そのテラスから、日頃聞き慣れない華やかな談笑の声が聞こえてきた。いったい誰が楽しそうに話しているのかと見れば、アルディスの予想通り、二人の女性が、談笑している姿が目に入った。黒髪の華のある女性と、金の髪の穏やかそうな少女。大地の魔神リースと、アルディスの養女であるアディアナだった。二人で何を話しているのか、密やかにクスクスと笑いあっている。
「リース、アディ!」
上から声をかけると、まず、アディアナがパッと顔を上げた。それから、リースがそれに続くように、ゆっくりと見上げる。
「主・・・」
「来ていたのか?」
「はい。お姉様も一緒に来ていますが?」
「ウェヴもか」
めったに聖王宮内にこないリースの姉ウェヴ。身なりこそ、まるで子供の容姿だが、実際には大地の魔神を束ねる役目を負っている。そんな、魔神の中で長を補佐するべき、長老と言う身分のせいなのだろう、聖王宮には頻繁に訪れたくても、そうできないと言うところか。
そのウェヴが来ていると言うリースの言葉に、アルディスは苦笑しながら肩をすくめる。魔神の長老の訪問を歓迎しているのか、それとも、わずらわしく思っているのか、どちらとも取れる微妙な態度だ。
もっとも、そんな態度を取りつつも、実際にはウェヴの存在をアルディスは気に入っている。その証拠に、今も何気なしに、彼女の姿を探し求めている。
「リース、ウェヴはいったい・・・」
そのウェヴはいったいどこにいるのかと、アルディスが聞こうとした矢先だった。
「わ!」
と言う声とともに、そのウェヴ本人が、アルディスの背中に突然おぶさってきたのだ。襲われたアルディスは、思わずよろけ手すりから乗り出しそうになる。それを見たアディアナが、酷く切羽詰まった悲鳴を上げる。アルディスは何とかとどまったものの、養女である姫は完全に涙目だ。
「お姉様!」
下から、リースの非難の声が上がる。
だが、アルディスの背中を占領した魔神は、それに盛大に笑って見せるだけだ。
「かまわんさ、どうせ、『この』アルディスは気にしたりはせん!」
「お姉様、主に不敬です!!」
下から抗議を続ける『妹』に、ウェヴはコロコロと笑って見せる。
この妹と姉なのだが、傍目にはどうしても、逆に写ってしまう。姉のウェヴよりも、リースの方が年長に見えてしまうのだ。
魔神としての『不老』の性なのか。少女の面影を強く残しているウェヴとリースでは、絶対にリースの方を年上だと感じてしまうだろう。
事実、アルディスの背中に取りついては、豪快に笑っているウェヴは、とてもではないが、彼女の言う実際の年齢とは思えない。
これが、千四百近い老獪な魔神とは、アルディスもアディアナも思えなかった。
そんな回りの困惑など、ウェヴは解す気もないらしい。慌てている妹を見ては笑い飛ばしている。
「・・・おう、アディアナもおったのか?」
アルディスの背中にひっつきながら、ウェヴが下に声をかける。
それに、何とか落ちつけたアディアナは、ペコリと頭を下げた。
「お久しぶりです、ウェヴ様」
「ふん、あいかわらず良い子じゃの」
ウェヴはアディアナを見て、思わず微笑んでしまう。そうかと思うと、すぐにアルディスの耳元に口を寄せ、
「お前の『養女』にしては、よくグレなかったもんじゃの」
と、囁いて見せたりする。しかも、耳の言いリースがしっかりそれを聞き取ってしまっている。
「お姉様、お止めになって!」
リースにとっても、ウェヴにとっても、アルディスは願いを叶え終わった『主』だ。だが、二人の対応はまるで違っている。ウェヴがアルディスの『願い』通りに友人として振る舞っているのとは対照的に、リースはあくまで『主』として礼を見せている。
対極にあるような二人の魔神に、アディアナは毎回のことながら、目を丸くしていた。
2
幸福の終焉。
リースとアディアナ。
この二人は対照的であり、またよく似てもいた。
華やかな印象をもつリースに対し、アディアナはあくまで穏やかで、一歩引いて見せるようなところがある。それでいて、人々に強い感銘を与えるのはアディアナであり、リースは相手の記憶に焼き付くような印象は決して与えない。
そんな対象的な二人。だが、二人とも、暖かな雰囲気を醸し出す点では共通していた。
リースにしても、アディアナにしても、人を包み込む優しさがある。
かと言って、二人揃っていれば、いつも以上にその印象が強くなる訳でもなかった。
リースの前では、アディアナの包容力はなりを潜め、少女らしい面が強くなるからだ。
今のように。
「リース様、どうかなさいまして?」
不意に視線を、遠くの方に向けたリースに、アディアナも彼女の見た方へと顔を向ける。
だが、その先にあるのは、正宮の庭だけ。特にリースの関心を引くようなものはない。
「リース様?」
「なんでもないわ」
リースはそう言うと、クスリと笑った。
正宮一階のテラス。そこで、エルフィナも加えた三人は、何をするでもなく、午後の時間をのんびりと過ごしていた。アディアナとリースは備え付けてある椅子にテーブルを挟むようにして、向かい合っている。エルフィナは、そこから少し離れた場所で、テラスの手すりに腰をかけていた。
普通ならば、アディアナが特別な好意を寄せる相手には、過剰とも言える敵対心を見せるエルフィナだったが、今は嘘のようにおとなしい。それどころか、借りてきた猫のようにおとなしくなり、姉と同じように、子供のような笑顔を見せている。
「姉上ったら、リース様が遠くを見ればさえ、どうしたのか聞いてるよ」
「あら、そうでしょうか?」
「そうだよ」
エルフィナは、小首を傾げる姉に頷いて見せる。
血の繋がっていない姉妹の会話に、リースは目を細めた。
「相変わらず、仲がいいのね」
「もっちろん!」
リースの言葉に答えたのはエルフィナ。
常に腰に帯びている長剣をカシャンと軽く鳴らし、リースに笑って見せる。
「だいたい、姉上がいなかったら、僕も聖王宮には残るつもりなかっただろうからな」
「まぁ」
アディアナが非難の声を上げるのに、リースはまた笑う。
この二人のことを、リースは彼女達が小さいころから知っている。アルディスが二人を、それぞれに拾ってきた直後から、ずっとだ。
二人が成長するのを、見守るかのように眺めてきた。
二人が拾われてきた頃は、当然、彼女達も幼い子供の容姿をもっていた。それが今では、アディアナをエルフィナも、十七才と十四才。外見年齢だけならば、もう、リースとそう変らなくなってきてしまっている。
そんな風に、リースの存在が『母』と言うよりは、『姉』と言う方が合うようになっても、アディアナが子供心にリースに懐いていた。エルフィナも、わずかながらに反抗しながらもリースに甘えている。
リースも、そんな二人の子供を可愛がっていた。今の、見ための年齢を考えると、酷く滑稽にも思える事なのだが、二人を自分の子供のように錯覚したこともあった。
二人が来てからは、リースが聖王宮に訪れる回数も、以前に増して増えてた。あるときは一人で、また、あるときは自分の子供達も連れて。そんな風にして、『母』と言う存在を持っていない彼女達の傍にいられるようにしてきた。
そうやって、二人を見てきた。
「ねぇ、リース母さん?」
エルフィナは、何か話たかった事でも思い出したのだろう、手すりから降りて、テーブルの方まで駆けよろうとした。
だが、その途中で、しまったと言う様子で口を抑える。
「ごめん、リース!」
「かまわないわ」
リースはそう言い、ニッコリと笑う。
「三人しかいないもの。いいわよ」
「本当に、いいの?」
エルフィナは、おずおずとリースの顔を覗き込む。
そんな、怯えた少年のような表情を見せる『姫』に、リースはまた微笑んで見せた。
その途端、パッと、エルフィナの表情が明るくなる。アディアナにしても同じだった。彼女にしては珍しいことに、テーブル越しに、身を乗り出すようにしてリースに迫っている。
「本当によろしいんですの、リース様?」
「いいよな、リース母さん?」
エルフィナはすっかりご機嫌になって、はしゃいでしまっている。こういうところは、今だ十四の少女と言ったところだろうか。
「いいわよ、アディ。レイナードも、もう諦めてるだろうし。まさか、『死んで』までは文句は言わないでしょう」
リースは、自分の夫である魔神の名を口にし、いたずらっぽく微笑んで見せる。だが、その笑みには暗さがある。その纔な闇に、アディアナだけが目敏く気がついていた。だが、あえて触れはしない。
実際、リースが暗い表情を見せたのは一瞬だけだった。彼女は申し訳なさそうに苦笑すると、すぐに明るい微笑みを見せる。
「レイのいたころは、エルフィナったら、彼がいればさえ、『母さん』って言っていたものね」
「まぁ、エルフィナ!」
注意するようにアディアナがわずかに声を荒げると、エルフィナはまるで怒鳴られたように首をすくめる。それでも、さすがは反抗心の塊と言ったところか。最愛の姉に怒られたと言うのに、うかがいながらも、反論していくる。
「だって、僕、あいつのこと嫌いだもん。母さんのこと一人締めしようとするしさ」
「エルフィナったら!」
「ふーんだ。でも、僕、知ってるんだからな」
何を思い出したのか、エルフィナは得意顔でえばって見せる。アディアナが潜めるが、エルフィナはそれを見落としている。
「レイが、母さんが『母さん』って呼ばれて嫌なわけって、僕達がアルディスの養女だからだよ」
「エルフィナ、おやめなさいな」
アディアナがたしなめるが、エルフィナは姉の声が聞こえなかったように、相変わらずの得意気な表情で言葉を続ける。
「あいつ、今だにアルディスにリース取られるんじゃないかって、心配してたんだよ。ばっかみたい」
はき捨てるように言うと、エルフィナは、『トンッ!』と、手すりの上に飛んで見せた。アディアナがエルフィナの言葉について文句を言おうとしたが、エルフィナはその姉から逃れるように手すりの上を器用に伝って、彼女から離れていってしまう。
バランスよく手すりの終り近くまで歩み、再びリースとアルディナの方を向く。
「で、どう、レイがいなくなって?」
「ほどほどに元気ね」
リースはそう言い、わずかに表情を曇らせた。
「まさか、魔王の事が今になって影響してくるなんて思わなかったけど」
「・・・お母様」
対して外見の年齢の変らないアディアナが、リースを『母』と呼ぶのは酷く奇妙なことに思える。だが、ここには、そんな違和感を無くしてしまう雰囲気がある。
長年傍にいて、『母親』のように慕い続けてきた相手への、親愛の篭った言葉。だからだろう、彼女の言葉には、なんの違和感もないのだ。
表情を暗くしたリースの手を、アディアナが握る。エルフィナも、バツが悪そうに、そっぽを向いてしまった。
「ねえ、お母様、大丈夫ですか?」
「平気よ。もう一年以上経つもの」
その言葉が嘘である証拠に、リースの表情はまた暗くなる。
「ごめん、調子に乗った」
手すりの上でしゃがみ込んだエルフィナが、小声でそう謝って来た。
風の音が、妙に寂しく聞こえた気がした。
聖王宮、正宮の北にある塔。そこに、アルディスとウェヴの二人は上っていた。
「高いのぉ、ここは!」
無理を言い、塔の屋上に出たウェヴは、二つ煮結い上げた長い髪を風に乱されながらも、嬉しそうに歓声を上げていた。塔の縁から身を乗り出すようにして、下を眺めたり、遠くを見やったりしている。
「で、なんの様だ?」
はしゃいで見せるウェヴを横目で見ながら、アルディスはずいぶんと冷淡とした声でそう言った。
それに、ウェヴのはしゃぐ声がやむ。
「嫌なやつじゃな。もうちょっと、楽しませんか」
「重要な用があるんだろう。はしゃいで見せても、焦っているのが、バレバレだ」
「あいかわらず聡いな」
ウェヴは、先程までの少女のようなはしゃぎ様はどこにいったのか、クツクツと低い笑い声を漏らした。
塔の縁から離れ、ゆっくりとアルディスに近づいていく。かと思うと、いきなり彼の胸ぐらを掴み、力いっぱいに引き寄せる。
不意のことに、アルディスの身が纔に傾ぐ。その彼を、ウェヴは魔神の長老らしい表情で睨みつけた。
「人間と言うのはどこまで愚かなんじゃ、答えろ!」
「どうした?」
「大地の魔神の一人が、開封されたはいいが、行方不明になりおった」
「行方不明?」
ウェヴの言葉を、アルディスは何回か口の中でつぶやいた。
自分の胸ぐらを今だ掴んでいるウェヴの手を無理やりはずし、少し彼女から距離を取る。
「どういうことだ?」
「魔神は、封印されれば一族が見守り、解放されれば誰かが気にかける。おぬしがリースを解放した後、レイナードがアレを追ったようにの」
「で?」
レイナードと言う名に、アルディスは何の反応も示さない。
その事に、ウェヴは小さく舌打ちした。以前ならば、押し隠した苛立ちを、アルディスに見ることが出来た。なのに、今となっては効果がなくなってしまったらしい。
いつものウェヴならば、冗談まじりでしか、『レイナード』の名をアルディスの前で口にしたりはしない。
それが、こうやって言ってのける所を見ると、よほど気にさわる事があるのだろう。もしくは、苛立っていると言うことなのか。
気持ちを落ち着かせようとでも言うのか、ウェヴは一つ、大きく息を吸い込んだ。自分の状態を冷静に見られるだけの理性はあったらしい。
大きく息をはきだし、ウェヴはアルディスを見る。
「・・・解放された大地の魔神も同じじゃ。わしの弟が追っておった」
「弟・・・相手の魔神は?」
「そっちは妹じゃ」
「・・・リースにこの事は?」
「知らせておらん。今のアレに余計な心配はかけとうない」
「・・・それで、無理にはしゃいでたか」
「悪いか?」
「いや。『姉』と言うのも、大変だと思ってな」
アルディスは、そう言って微笑んだ。ウェヴの苛立ち紛れの八つ当たりも、気にしていないと、態度で示している。
自分の半分も生きていないアルディスの態度に、ウェヴは表情を緩めた。
「すまんな」
「いいさ。で、その『妹』はどうなっている?」
「ウルヴィスにいるはずじゃ。そこの貴族に解放されたはずだからな。しかも、貴族が国外に出た形跡はない」
「願いは?」
「弟が確認しとる限りでは、一つも叶えておらんかったらしい」
「・・・ウルヴィスか。シルバリアが俺の血縁のせいか、ゴールドバーンも敵視している所があるからな。政治的にはどうこうできんぞ?」
「じゃが、『聖王』としてはどうにかせざるおえまい?」
「ウェヴ?」
「このままでは、シルバリアの大地は完全に死ぬぞ?」
「死ぬ?」
風が通りすぎていく。
そんな風のせいで、前にかかってきた髪を、ウェヴは乱暴に後ろへと払った。
「わしも大地の魔神じゃ。じゃから、感じるんじゃよ」
クルリと後ろを向き、ウェヴは塔の縁にもたれかかった。
「シルバリアの大地から、生気がなくなってきておる」
「・・・その行方不明の妹と関わってるってことか」
フゥッと、アルディスが重いため息をついた。
「知らせてくるからには、巻き込む気だな?」
「あたりじゃ。わし一人ではどうにもならんかもしれんからな。保険にお前を連れていく」
「それほどか?」
「それほど急激に、大地が滅んでおると言うことじゃ」
何がおかしいのか、ウェヴはクスクスと笑い出した。
それが、やけっぱちの笑みだと言うことを、アルディスは判っていた。
『大地の娘1』:5/10/98制作
『大地の娘2』:5/11/98制作
(98/10/8update)