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1
赦しがいるほどに、思い合えたのなら、それでいい。
聖王宮は、最初に作られた宮から二百年ほど前に移動し、現在の新しい宮となっている。古い方の宮は、重臣の反対で取り壊すことも出来ず、一種の祭儀の場のように扱われていた。それも、二百年も経ってしまえば、ただの儀式めいたモノと化してしまったが。
聖王宮は中心に正宮を起き、東西の分宮、そして、南に面する役割をまったく果たせずにいる後宮がある。正宮は重に政務に使用され、後宮は聖王とその左右の重臣、姫君達の私生活の場となっている。東西の分宮は西が一応、聖王の『後継』のために作られたが、その主たる『御子』が長らくいないため、聖都に訪れた各国の王を向かえるための宮となり、東が儀式などで使用されるだけになっている。
他には、離宮が幾つか、『献上』の形で建てられたが、ほとんど使用されることもなくある。
離宮は主を向かえることもなく、最低限の人間だけが仕え、維持されている。
聖王宮の主は、当然、聖王であるアルディス。
だが、その後宮の主となると、聖王宮内の人間は決まって、アルディスでない人物の名前を上げるだろう。
聖王姫アディアナ
彼女の名を上げる者の方が多い。
本来、後宮はアルディスの正妃や側妃がいるはずなのだが、アルディス自身がこれらの女性を向かえないために、妃は不在。当然、幼い間、後宮に居るはずの御子もいない。居るのは、聖王が『養女』として向かえた姫が二人だけ。
その内の、妹姫の方は、後宮にいるのは良くて月にごく数日。その短い期間でさえ、寝る間だけと言う、破天荒ぶり。時折、姉姫と談笑するために、後宮に居続けることもあるが、酷い時になると、フラリとどこかに居って、そのまま一月近くも帰らないことさえある。だが、もう少しで十四才と言う年齢の姫君なのだが、その姫君の行動を止めるような者もいない。十二の頃から始まっている『失踪』なので、既にとがめる者も居なくなってしまった状況なのだ。唯一人、小言を言う様な者が居るとすれば、姉姫であるアディアナくらいだろう。
そうやって、妹姫がほとんど後宮によりつかないと、自然、常に後宮に止まっているアディアナが、後宮を治めるようになる。
本来ならば、正妃の責である仕事だが、他に身分高い女性がいないため、自然アディアナにその鉢が回ってきたと言うところだろうか。
アルディスも、余り後宮を返り見ようとしないため、自然後宮の女官達は、アディアナを頼るようになる。
アディアナがそうやって、実質的に後宮の『主』となるようになって、既に三、四年も経つだろうか。
今だ十七才の若い少女だが、女官達の多くに敬愛され、敬われる彼女は、まさしく後宮の『主』にふさわしかった。
そんな状態も、クリスマ王国からの使者の訪れによって、纔に乱れることになる。
「婚姻?」
略式の正装に袖を通していたアルディスは、後ろで控えていたバルスが口にした言葉に、思い切り不快そうな表情になった。
「クリスマの使者は、確かにそう言ったのか?」
「そうです」
バルスは、相変わらずの、何を考えているのか判らない表情で頷く。
後宮の聖王自室。聖王も、エルフィナほどではないが、後宮にあまり寄り付かない。いや、エルフィナがよくアディアナと談話するために後宮に居続けることがある分、アルディスの方が、後宮にいる時間は少ないかもしれない。彼こそが本当に寝る間『だけ』後宮に立ち寄っている張本人だ。
手早くボタンを閉め、バルスが差し出した腰帯を閉める。
バルスを正面に見据えるアルディスは、実際年齢は四百を越しているはずだ。だが、聖王として戴冠した時から止まったままの年齢の二十前後の青年にしか見えない。
姿が老いなければ、心の時も余り進まないらしい。行動も、心も、アルディスは若いと言っていい。それは、回りが彼を、外見年齢のままに扱うせいなのかもしれないが。
アルディスよりは、四つ、五つは上に見えるバルスの方は、その分、聖王より落ち着いて見える。冷たい印象は拭えないものの、それなりの冷静さがあるからだ。
「で、どうした?」
「私ではどうしようもありませんよ」
バルスはそう言って、纔に表情を曇らせる。
「私がいくら大神官とは言え、決められることではありませんよ。事は貴方の『婚姻』ですからね」
「・・・俺のか!?」
突然、ビックリした声を上げるアルディス。まじまじとバルスの顔を眺めている。
「俺はてっきり、アディかエルフィナへの話だと思ってたぞ?」
「・・・何を聞いていらっしゃったんですか?」
バルスは、無下もなくそう言う。主が纔に身動きをすると、彼の意思を察して体をずらす。彼が一歩下がると、アルディスは先に立って、部屋を出た。バルスはその斜め後ろに付き従う。
「エルフィナも、もうすぐ十四だし、アディだって十七だ。そろそろ、婚姻の話でも上がるかなぁと思ってたころだからな」
他人事のように、おかしそうに笑うアルディス。
「そう思ってた矢先に、お前が『婚姻』だなんて言い出すから、二人のことだと思った」
「クリスマには、現在、二人と見合うような年齢の、未婚の王子はいませんよ」
「そうだなぁ。それに、俺の『娘』なんだから、王位につくような奴じゃないと、身分も合わんだろう」
「そうですね」
バルスが頷く。
そのまま、どこの王子が年ごろだのと言う話になり、何時の間にか、他国の王位継承問題にまで、話は発展していく。
その途中で、何を思ったのか、不意にアルディスが立ち止まった。
目を細めて、そこにあった窓から外を見ている。
何かと、バルスが視線をそちらに向けて見れば、そこに、話に上がったばかりのアディアナが居るのが見えた。
何時も通りの質素な白いドレス。伴もつけずに、一人庭先で立っている。何羽もの鳥が、彼女と戯れているようだった。
幸せそうに笑っている。
そんな『娘』に、アルディスは目を止めたようだった。
「・・・我が君?」
「ん?」
ハッと、アルディスが我に返る。
そんな王に、バルスは気付かれないように、好意からくるため息を付いた。
「我が君・・・もし、先程の婚姻の話、アディアナへのものだとしたら、どうしますか?」
「うーん、そうだなぁ。アディも『特別』だから・・・やっぱり、断わるだろ?」
「・・・本当にその理由ですか?」
「どういう意味だ?」
アルディスが、キョトンとなったのに、バルスは小さく首を振った。
「なんでもありませんよ。ただ、聞いてみただけです」
「そうか?」
まだ、何か腑に落ちないと言った表情のアルディス。
バルスは無表情に、そんな主を見つめていた。
聖王が婚姻するかもしれないと言う噂は、密やかに、だが、素早く聖王宮内に広まってしまった。
アルディスがそれに気が付いて、噂を留めようとした時には、すでに聖王宮内全てに広まってしまった後。どうやら、使者がそうすれば、聖王にいくらかの圧迫を与えられると、わざわざ広めてくれたらしい。
だが、生憎、そんなものを気にして自分の考えを曲げるほど、アルディスは人の目を気にする人間ではなかったのである。バルスにしてもしかり。ルドラも似た様なものだ。
だから、この噂を広める作業は、ただの骨折り損のくたびれ儲けと言ったところだろうか。少なくとも、退屈な聖王宮内に、格好の話しのネタを提供しただけ、無益ではなかったのかもしれないが。
「しっかし、お前が婚姻?」
そう言うために、わざわざ聖王の自室までやってきたのは大武聖。やたら嬉しそうである。どうやら、日頃の仕返しに、からかいに来たようだ。
「で、どうすんだ?」
「断わる」
「やっぱなぁ」
聖王妃を立てることに一時期躍起になり、ついには失敗してしまったルドラは、アルディスの返事に、一層嬉しそうな表情になる。自分がやって駄目だったものが、いきなりやってきた他国の使者に成功されてたまったものかと言った感じだ。
「でも、お前が婚姻するかもって、皆、噂してるぜ?」
「武官もか?」
机の前に座っていたアルディスは、興味津々に聞いてくる。
「もち。俺が噂、聞いたのだって、部下からだぜ?」
「ふぅん。ま、バルスがそんなの言い捲るわけはないから、使者のほうだろうな、噂を広めたのは」
「ご苦労なこって」
そう言って、ルドラはケラケラと笑う。
それから、不意に真顔になる。
「でもさ、クリスマの王女さん・・・なんつったっけ?」
「カサンドラ姫」
「そ。それって、才媛で有名じゃなかったっけ。惜しくないか?」
「別に。美人なら見飽きてる」
「おい・・・」
アルディスが平然と言い切った言葉に、さすがに呆れるルドラ。
だが、確かにアルディスは『美人』を見慣れていると言ってもいい。血筋なのか、美麗な者が多い『魔神』とも親しければ、聖王宮内にも、未婚や婚姻済みを問わず、美しいと言える女性が多いのである。筆頭を上げれば、『娘』であるアディアナだろうか。
「ま、確かに、見慣れてるか?」
世の男性から見れば、羨みの声が上がるような事実に、ルドラも二、三秒考えた後、安易に同意してしまった。
「いいけどな、別に。クリスマと婚姻結んだって、政治的にいいことないし」
「それに、あの女は好みじゃない」
「・・・『好み』って、見たことあんのか?」
「去年、クリスマにお忍びで国王の生誕祭を見物に言ったとき、遠目に。それに、才媛って言ったって、姫付きの侍女の受けは悪い」
「お前なぁ、そんな話し集めてきて、なんの益があんだよ」
「ま、クリスマが現在キャル・オーラの圧迫受けてるとか、王位争いが苛烈だとかよりは、役に立たないだろうけどな」
「・・・聖王が間諜かよ」
「趣味だからな」
平然とそう言い切るアルディス。
そんな聖王に、大武聖はこめかみを抑え、難しそうな顔をするしかなかった。
2
何時かは別れて行くはずだから・・・
アディアナがアルディスの『婚姻』の話を耳にしたのは、クリスマからの使者がやってきた午後だった。
クリスマから使者が来ることは知っていたが、使者が泊まる宮は聖王宮に隣接している離宮の一つであったので、あまり彼女には関係がなかった。あるとすれば、離宮の人手不足を補うために、後宮からも女官や侍女をそちらに向けたと言うことくらいだろうか。
各国の使者と最も関係するのは、今回は正宮のはず。だが、それにしては、後宮も妙に騒がしい。
そのことに、疑問を感じないわけではなかったが、敢えて気にしないことにしていた。『姫』と言う立場にはいるが、政治的なことには関わらせて貰っていない。アルディスやバルスが意識的に、アディアナをそんな物から遠ざけていたからだ。もちろん、アディアナとてそれを甘受していた訳ではない。だが、侍女達の妙な浮かれ具合を見て、気に止める騒ぎではないと、判断したのだった。
そんなアディアナだったが、ふとしたきっかけで、後宮の妙な騒ぎの原因を知ることが出来た。
元はなんでもない、東宮の侍女達のうわさ話だ。
東宮は、庭園が広いため、アディアナもよく訪れる。
今日も、後宮から人手を離宮に出した後、やっとのことで、東宮の庭園に来ることが出来たのだった。
東宮の池近くの大木。
聖王宮が立つ以前からここにあったそうで、聖王が敢えて切らせなかったらしい。
その木の傍まで歩みより、そっと手で振れる。アディアナのお気に入りの場所は、東宮からは大木の幹が邪魔をして、彼女を隠してくれる。ここならば、通りかかった女官や文官達をわずらわせることがない。
「こんにちわ」
フワリと微笑み、そう挨拶した。
木漏れ日が、一筋、二筋、地面に降りてきている。真直ぐな、白い光の線。
それに手をかざし、クスクスと笑う。
木の根元に座り、大木の幹に身を預けた。
目を閉じると、酷く心が安らぐ。人が愛しくないわけではない。だが、こうやって光にふれ、木々の傍にいるほうが、何故かホッとする。
アディアナ自身は気が付かないだろうが、彼女が安らいだ瞬間から、回りの空気が柔らかくなっていた。
特に、光。
差し込んでくる光は、その強さに丸みを持ち、アディアナを労るように揺らいで見える。ユラユラと大気に満ち、当たりを一層柔らかく照らし出している。
その平穏な空気を乱したのは、侍女達の苛立った声だった。
アディアナは、その声が、驚くほどに尖っていたので、ビックリして閉じて居た瞳を開いた。
そぉっと、木の影から、東宮の方を覗き見て見る。
丁度、庭園に出る階段がある場所で、三人の侍女が立っているのが見えた。休み時間中なのだろうか、特に仕事をするためにそこにいると言う訳でもない。
「本当なのかしらね、正宮の女官が言ってたこと?」
「そうじゃないの。彼女、使者本人から、得意気に言われたって、ぼやいてたわよ」
「でもねぇ・・・聖王様に今さら、『妃』だなんて」
侍女三人とも、最後の言葉に一様にため息をつく。
「だって、聖王様、もう四百越してらっしゃるんでしょう。見えないけど」
「そうらしいわね。ま、なんと言っても、神に選ばれたとか、なんとか・・・でしょ。年齢なんて、別にいいんじゃないのかしら?」
「まぁね。いい王でらっしゃるし。私達にとっては、王が仕えやすいかどうか。それくらいかしらね、重要なのは」
侍女の一人が漏らした言葉に、三人とも笑いながら頷いていた。
だが、アルディナの方は、そんな言葉など聞いていなかった。
頭の中で、『妃』と言う言葉が繰り返し響いている。
「き・・・さ・・・き?」
じっと、侍女達の様子を伺っていると、彼女達の話は、また『妃』に戻る。やはり、何か彼女達も気に入らないものがあるらしい、文句ばかりが出て来る。
「クリスマの王女と言ったら、やっぱりカサンドラ王女でしょ、あの才媛で名高い?」
「だからじゃないですか、クリスマがこうも堂々と婚姻を申し出て来るなんて」
「でも、女の家の方から、申し込んで来るなんてねぇ。貰って下さいって所かしら?」
「しかも、クリスマ、小国のほうだし」
クスクスと、意地の悪い笑い声が響いた。彼女達も、聖王に仕えていると言うことで、妙な誇りを持っているのかもしれない。もっとも、王を誇って居るのは、彼女達だけではない。大なり小なり、良きにしろ悪しきにしろ、聖王宮に仕える者達は皆、王に誇りを持っている。
「でも、ま、姫君は確かに名高いわよね。他国からも、ひっきりなしに申し込みがあるとか」
「まぁ、噂に聞くだけなら、聖王妃にもなれるかもとか、思うけれどね」
その侍女の言葉がはずみなったように、アディアナはそこから駆け出していた。
侍女達から逃げるように、庭園の奥へ、奥へと走って行く。
バタバタバタと、元気の良い音が響いてくる。
その音を耳にしたアルディスは、何気なく、部屋の隅で本を呼んでいるルドラを見た。
「・・・ルドラじゃないとすると?」
いつもなら、こんな風に駆けてくるのはルドラなのだが、生憎、この大武聖は今、アルディスの自室に入り浸たり、聖王が『脱走』したときに仕入れてきた草子を熱心に読んでいる。
バルスかとも思ったが、バルスは使者に聖王の返事を伝えている所だ。第一、あの大神官がこうも大げさに走ってきたことなど、この四百年来、一度もない。
「おい、アルディス!」
乱暴に、断わりもなく部屋に乱入してきた人物。
エルフィナだった。相も変らず、男物の服を着て、パッと目には美麗な少年としか見られないような格好をしている。
彼女は、肩で息をしながら、これでもかと言うほどの形相で、真向かいの机の前に座っているアルディスを睨みつけた。
「姉上はいるか!?」
「アディなら、いないが?」
「畜生、ここにもいないのかよ!!」
エルフィナは、とてもではないが、『姫』が使うような口調とは遠く離れた言葉遣いで、苛立ちを露にする。
「どした?」
エルフィナの剣幕に、ルドラも読書を中断して顔を上げる。
「姉上がいないんだよ!!」
「アディがかぁ?」
「後宮はもちろん、正宮にも、東宮にも、西宮にもいないんだよ!」
今すぐにでも、怒り出しそうな、泣き出しそうな顔をしているエルフィナ。この分だと、すでに、聖王宮内を全て探し終わった後なのだろう。最終的に、嫌々ながらも望みを託し、聖王の自室に駆けこんで来たと言ったところだろうか。
カタンと、今まで座っていたアルディスが立ち上がった。ルドラも、やれやれと聖王に続く。
「で、エルフィナ、後宮の庭園や、東宮の庭園は探させたのか?」
アルディスの言葉に、エルフィナは嫌々ながらも頷く。
「あぁ、後宮の方はもう探させてる。でも、離宮に人手を裂いちゃった直後だから、東まで手が回らないんだ。それに・・・姉上がそんな、庭園の奥までいくだなんて思えないし・・・」
「例外と言うこともあるさ。日も暗くなってるから、東宮の方は、俺達の方で探そう。ルドラ」
「ん?」
急に名前を呼ばれて、キョトントなるルドラ。彼も、アルディス共々、東宮の庭園を探そうと思っていた矢先だから、やや不満顔だ。
「なんだよ、探すなとでも言うつもりかよ?」
「いいや。ただ、俺、先にいってるから、武官か文官の一人でもつかまえて、バルスにも後から来るように言ってくれ」
「あ、それなら、おっけぇ」
ルドラは気軽に頷くと、さっさと部屋を出て行こうとする。
だが、何か思うことがあったのだろう、出かかったところで、ヒョイッと、後ろを振り返った。
「おい、エルフィ」
「なんだよ!」
「アルと喧嘩すんなよ。喧嘩してたら、そんだけアディ見つけんの、遅くなるぞ?」
「わかったから、さっさと行けよ!」
必要以上に苛立っているエルフィナの怒鳴り声に、ルドラは無責任にゲラゲラと笑っている。
そんなルドラに、アルディスは苦笑するだけだった。だが、その表情はどこか曇っている。彼も、エルフィナと同じように、不意に姿を消してしまったアルディナを気にかけていたのだ。
こんな風に、人の心を乱すような事を好んでする子ではないのだ。それだけに、妙に不安になった。
3
小さく震える肩。
ホゥ・・・。
東宮を住処にしているらしい、ホクロウらしい鳥の声が聞こえる。
その鳴き声を、アディアナはボウッと聞いていた。
どこをどうやって走って来たのか。ここがどこなのか、さっぱり判らない。
東宮の庭園だと言うことは判る。だが、奥の深まった林のような場所に駆けこんでしまったらしい。まったく、今いる場所がどこだか判らない。
夕刻だったので、日の差してくる方向から、正宮の方の見当をつけて、そちらの方へと歩いて見たりもしたが、ただ、木々があるだけ。見慣れた建物や、風景などは見つからなかった。
「迷路みたい・・・」
林の大木の根元に座り込み、幹に身をグッタリと預ける。
ボウッとした視線で、遠くに見える月を見る。
本当なら、あの方向に正宮の建物の屋根か塔でも見えそうなものだ。それが、見えない。
まるで違う場所に飛ばされでもしたように、アディアナの回りには林、いや、森が続き、上を見上げれば星空しかない。
「寒いですわね・・・少し」
肩を抱き、小さく震えた。
ふと、妹のことが思われた。きっと、今ごろ心配して探してくれているだろう。いや、エルフィナだけではない、きっと『父』であるアルディスも、ルドラもバルスも、皆が探している。
迷惑をかけてしまった。
その事に、うなだれてしまう。
どうして、あそこから走り出してしまったのか、それが判らない。
ただ、嫌な気分だったことだけは覚えている。
酷く、胸が苦しかった。
「どうして・・・?」
暗い地面をジッと見つめる。
『妃』
『聖王妃』
『婚姻』
油断すると、その言葉が頭の中を占めてしまう。
それがまた、嫌な気分を呼び起こす。
そんな気分から逃れるようと、アディアナは他の事を考え続けていた。
心配しているであろう、妹のこと。
大神官と大武聖のこと。
後宮の女官達のこと。
そして、アルディスの事。
「・・・お父様」
パタッ。
こぼれるように、一つ涙が手の甲に落ちる。
それが誘いになったかのように、次々に滴が頬を流れては落ちて行った。
「お父様・・・お父様、お父様・・・」
もう、アルディスの事しか考えられなかった。
侍女達が話して居たことも、妹達のことも、全てが頭の中から消え去ってしまう。
思うのは、ただ、アルディスの事だけ。
ただ、彼に会いたかった。
東宮の庭園。
その奥にある林近くで、アルディスは軽く舌打ちした。
それを、エルフィナは耳聡く聞きつける。
「どうしたんだ、アルディス?」
アディアナが居ないので大分苛立っているのだろう、エルフィナの声には何時にも増して刺がある。挑むように、アルディスに食ってかかるのだ。
山猫のような『娘』にアルディスは苦笑してみせた。それがエルフィナをより苛立たせると判っていながらも、ついやってしまう。
「結界・・・と言ったところかな?」
「結界!?」
アルディスの言葉に、エルフィナは色めき立つ。
「魔族か!?」
「いいや・・・多分、アディアナだろう」
「姉上が・・・どうして?」
「さぁ・・・」
アルディスは、林の木々を見据えながら、そっけなく答える。
それに、カッとなったエルフィナは、思わずアルディスに掴みかかろうとした。だが、寸前で動きがピタリと止まってしまう。やや気圧されたようすで、エルフィナはアルディスの横顔を見た。
ジッと、林の中の闇を見据えるアルディス。
今まで見たこともないほど、冷たい思い詰めた表情をしていた。聖王たる彼がこんな表情をする所など、エルフィナは見たことがない。
「ア・・・アルディス?」
生まれて始めて、アルディスに対して恐怖を抱いた。無意識のうちに、エルフィナは、一歩、二歩と後ろに下がっていた。
だが、アディアナの事が関わっているからには、エルフィナも必死である。何とか踏み止まり、アルディスの言葉の意味を再度、問い正した。
「アルディス、どうして姉上が結界なんて張るんだ?」
「・・・拒絶してるんだろうな」
「拒絶!?」
姉の印象からは程遠い言葉に、エルフィナは困惑する。
「いったい、姉上が何を拒絶するって言うんだよ!?」
「全て。たぶん、彼女が望まないもの全て、彼女の傍には近寄れないだろう」
「何で!!」
「・・・さぁ」
また、会話が途切れてしまう。
エルフィナの表情が険しくなった。
「もういい!」
彼女は、そう言い捨てると、アルディスが止める間もなく、林の中に駆けこんだ。
「エルフィナ、無駄だ、やめておけ!」
「アンタの言葉なんか、知らない!」
エルフィナはそう言い、すぐに見えなくなってしまう。
そんな『娘』に、アルディスは重いため息をついた。
「ふぅ・・・所詮、『父親』なんて無理だったのかな?」
自嘲し、次ぎの瞬間には拳で近くの幹を打っていた。
「むずかしい物だ」
ザワッと、林がざわめく。
「しかし、よりにもよって『結界』か。気付かれなければいいが・・・どうする?」
自分に言い聞かせるような言葉。
アルディスは、そのまま、頭を垂れ、瞳を閉じて居た。
月の光が、銀の髪に反射する。
そのまま、静けさだけが、辺りに満ちていた。
どれくらい経った後だろうか。ようやくアルディスは頭を上げる。
今だ迷っているらしい、どこか頼りない表情。だが、そのまま林に足を踏み入れる。
「まぁ、とりあえずは見つけることか」
最後に、大きくため息をついた後、エルフィナがそうしたように、林の中に消えていった。
サワサワと、木々が揺れる。
風に揺らされ、音を鳴らす。まるで、アディアナを宥めるように。
彼女はそれを、ボウッとした表情で聞いていた。
「なんで、わたくし、ここにいるんだろう・・・」
それは、走って迷ったから。
どうして走ったのか。
苛立っていたから。
どうして苛立ったのか。
侍女達の話しを聞いてしまったから。
アルディスの婚姻の話しを聞いてしまったから。
それが、嫌だったから。
「・・・お父様」
どうして、それが嫌なのかが判らない。
見上げると、月が中天にまでかかっていた。丸い、黄金に輝く月。
明るいと思ったら、満月だったらしい。
月の光は日の光よりも弱い。だが、それでもアディアナには、その光が愛しかった。
光を抱くように、手を差し出す。
その瞬間だった。
突然、目の前の薮が割れ、誰かがゆっくりと出てきたのは。
「・・・誰?」
こんな夜に、こんな場所だ、悲鳴くらい上げても良かったはずなのだが、今のアディアナには、そんな気力はないようだった。ボウッと相手を見ている。
姿がよく見えない。今だ、木々の影にいて、姿が見分けられない。
相手は、アディアナを認めて、纔に笑った様だった。肩が纔に揺れている。
「アディ・・・良かった」
「お父様?」
聞きなれた声に、そう尋ねる。
それに答えるように、アルディスは一歩前に歩み出て居た。
月明りの下に露になる、アルディスの姿。
それに、アディアナは自然に涙をこぼしていた。
「お父様・・・ごめんなさい・・・わたくし・・・」
「帰るぞ」
「はい・・・」
アルディスが、手を差し出してくれる。
それに、すがるようにアディアナは立ち上がった。
「皆、心配している」
「はい・・・」
心なしか、アルディスの口調がきつく聞こえた。
たぶん、怒っている。
そう思うと、ひるんでしまう。
「どうしたんだ、いったい?」
アディアナが、纔に拒絶の色を見せたのに、アルディスが首を傾げる。
笑っていてくれるその表情は、いつもの聖王のものだった。
それに、アディアナはまた泣いて居た。
「アディ?」
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
小さな子供がそうするように、泣きながら謝り続けるアディアナに、聖王は明らかに困惑したようだった。ギョッとなっている。
「う〜ん、なんと言うべきか・・・」
「ごめんなさい・・・本当に、わたくし・・・」
「アディ、本当に・・・何かあったのか?」
真剣に自分のことを心配してくれる彼に、アディアナは余計に申し訳ない思いだった。
「わたくし・・・お父様がご結婚なさるって聞いて、それが嫌で・・・」
「ん、結婚?」
アディアナが泣きながら、何とか口にした言葉に、アルディスはキョトンとなる。
「その話なら、バルスを通して断わったが?」
「え・・・だって・・・本当ですか?」
「あぁ。しかし、アディはそれが嫌で、結界まで張ってこんなところにいたのか?」
「結界・・・あら、そんなもの、わたくし張っていませんわ」
「いや、張っていたよ・・・となると、無意識か。血筋は争えない、か」
そのアルディスの言葉の最後のほうは、ボソボソと自分に言い聞かせるような声だったので、アディアナには聞き取れなかった。
ただ、マジマジと父親を見上げる。
「・・・本当に、ご結婚なさらないのですか?」
「あぁ・・・しかし・・・ふむ、そうか・・・」
「なんですか?」
「いや、アディも、『養母』なんて嫌だったのかなぁと」
アルディスはそう言うと、思わせぶりに笑った。
「ほら、よく聞くだろう、父親が新しい後妻を貰うのが嫌で、反抗する娘の話」
「じゃぁ、わたくしも、そうだったのでしょうか?」
「かもしれんな」
そう言って、アルディスは堪えきれなくなったのか、大きく笑った。
それに誘われたように、アディアナもクスクスと笑う。
そんな風に、二人で笑っている中、アルディスの声だけが小さくなっていった。穏やかな表情で、笑っているアディアナを見ている。
アルディスの視線に気が付いたのだろう、アディアナもふと顔を上げる。
一瞬、時が止まったようになる。
だが、その静けさも、すぐに乱されることになる。
「姉上!!!」
アルディスと同じ場所から、エルフィナが飛び出てきたからだ。
彼女は、すばやくアルディスと姉の間に割って入ると、間髪を入れずに、姉に抱きついた。
「姉上、心配したんだぞ!!」
「まぁ、エルフィナ・・・」
「姉上!!」
「・・・・ごめんなさい、エルフィナ」
キュッと、わんわんと泣き出した妹を抱きしめてやる。
そして、アルディスはどうしたのかと、彼を再び見る。
アルディスは、ただ笑っているだけだった。
どこか、影のある笑みで。