【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第二話−Aパート−

作・三月さま


 ピチャン。

 洞窟内に、水の落ちる音が響く。慎ましやかな、水の性質を表わすような音。空気に、静かな波紋を投げかける、優しく、それでいて冷たい音だ。

 それに、七瀬(ナナセ)は閉じていた瞳を開く。ゆっくりと、まぶたを上げ、瞳を辺りの闇に彷徨わせる。だが、いくら視線を動かしてい=みても、そこには何も見えはしない。確かに闇は、包み込むように、彼女の周りにまとわり付いている。しかし、彼女は何も見ていないのだ。瞳が何を見たとしても、心がそれに反応しない。

「・・・朱峯(シュホウ)」

 七瀬は、そうつぶやいたかと思うと、また、目を閉じた。

 ここは、朱峯と二人きりになった、洞窟だ。濃い緑の森を抜け、山への道を見つけた途端に、ここに来ようと思った。森を走り抜けている間に決めた訳でもない。ただ、自然に足が山へ向き、道を見た途端に、発作的に来たくなっていたのだ。無償にそう思った。あの洞窟に行こう。そう心が訴えかけた。その思いを否定すると、心が千切れそうになるくらいに締め付けられた。

 家まで朱峯が来てくれないのならば、洞窟に行ってみよう。あそこならば、朱峯はいるかもしれない。そう思ったのだ。

 七瀬の心の内を占めていたのは、この思いだった。現実を否定すると同時に、在りえるはずもないことを、心の隅で想像していたのだ。

 朱峯はちゃんと無事でいる。これは、確信。

 でも、何か事情があって、村に帰られないのかもしれない。これは、想像。

 それでも、七瀬に会うために、どこかで待っているのかもしれない。これは、願い。

 もう、何が何だか、よく判らなかった。

 彼女の気は狂いかけているのだろうか。

 いや、そうではないだろう。ただ、現実が見えないだけ。心が認めようとしないだけだ。否定するあまりに、現実をネジ曲げ、在りえない妄想を真実だと思い込ませてしまう。気が狂うギリギリの境界線に彼女は立っている。

 だが、ありえない事でも信じていなければ、考えていなければ、この少女の心はとうに壊れて居ただろう。

 父も母もなく、代わりに祖母が彼女を育ててくれた。その祖母も亡くなってしまった今では、七瀬には、朱峯しかいなかったのだ。いくら、村の人々がいたとしても、老人のように気にかけてくれるような者がいるとしても、七瀬には朱峯しかいなかったのだ。彼しか、真に頼ることが出来、信頼出来る人物はいなかった。

「朱峯・・・どこ?」

 薄茶色の洞窟の壁によりかかり、目を閉じる。

 洞窟内は静かだった。気持ちの悪いくらいにだ。そこに漂う闇が、全ての音を吸い込んでいるような印象を受ける。黒い『無』とも言える闇は、洞窟の外から流れてくる音を飲み込み、浄化してしまう。例え、それが心地よい音であろうと、気違いじみた奇声であろうとだ。闇はただ、この場所に迫るような静寂を望んでいるのだ。

 目を開くと、暗い天井が見えた。よくは見えないが、天井のゴツゴツとした様子が、暗い中で不確かにだが伺える。赤茶けた、山の地面の色とは、だいぶ違った白っぽい灰色。それが、闇のせいで陰鬱とした色合いに見える。

 洞窟の入り口はやや狭いが、それでも、中に入ればほどほどの広さがある。うまく器材を運べれば、中で一つの小さな家くらいは、軽く建てられてしまいそうなくらいだ。もっとも、こんな気持ちさえまいるような、暗澹とした場所を好んで住む者も居ないだろうが。

 洞窟内は、ほぼ円形にえぐられたような形をしていた。自然に出来たものだろう。それは、壁や天井の様子を伺えばよく判る。それでも、自然のみの造形にしては、見事なものがある。七瀬でさえも、洞窟の整った形に、しばし感心もした。

 視線を、ふと誘われるように洞窟の奥へと向けた。そこには、吸い込まれそうな闇がある。天井を漂っている闇よりも、もっと色濃いもの。それは、月のない黒い空にも似ているように見えて、それ以上の悲しみを秘めているように伺えた。

 朱峯とここに来たときは、雨が止むと同時に村に帰ったので、洞窟の奥までは行かなかった。理由は何でもない。七瀬が洞窟の奥へと関心を向けるのを、朱峯が嫌がったのだ。ただ彼は、手にしていた鮮やかな紫色花を一つ、洞窟の奥へと向けて置き、態度で七瀬に帰ろうと促した。

 はっきりと、彼に口で言われたわけではなかった。だが、朱峯の表情から、彼が洞窟の奥を七瀬に見せたがらないのは良く判った。七瀬も、朱峯にこれ以上、睨まれるのは嫌だったので、駄々をこねてまで、洞窟の奥を見ようとは思わなかったのだ。だから、彼の願い通り、なにも言わず、願わず、一緒に村に帰ることにしてた。

「朱峯・・・」

 そう、彼の名前をつぶやくと、無性に悲しくなった。七瀬は、無意識のうちに、手の甲で頬を拭う。その手に、冷たい涙が触れたのを感じ、また、感極まって小さな嗚咽を上げる。

「もう、やだぁ・・・!!」

 七瀬は、不意にそう叫んだかと思うと、その場にしゃがみこんでしまった。小さく肩を揺らし、子供じみた仕草で泣き続ける。長い黒髪が地面に落ち、湿気た土が付き汚れるのも、まったく構わなかった。ただ、現状に耐え切れなくなったかのように、涙を流し続けている。

 どれほど経っただろうか。

 七瀬は、泣き疲れるほどに喚き、朱峯の名前を何度も呼んだ。だがそれも、繰り返していくうちに、気力がなくなってきたのだろう。段々と声は小さくなっていき、やがて、か細い音となり止んでしまう。

「もうやだよ・・・朱峯・・・」

 地面に座り込んだまま、呆然と天井を見上げる。暗い、土壁の天井は、何も答えてくれない。ただ、圧迫するような感触だけを、七瀬に与える。

 辺りの静けさと孤独さに耐えられなくなったのだろう。七瀬は、ノロノロと起き上がった。泣き疲れてフラつくままに、洞窟の出口へと歩いていく。

 ふと彼女は首を回して、洞窟の奥へと視線を向けた。一瞬、奥に何かあるのではないか、もしかしたら、朱峯はあそこにいるのではないかと言う考えが、彼女の心によぎった。だが、七瀬はその考えを無理やり押し殺す。

 あの時、朱峯が見せた表情が思い出されたのだ。鮮やかに、まざまざしく。まるで彼自身が目の前に居るかのように。朱峯が、ここから帰ろうとしたとき、一瞬だけ、七瀬は彼に奥に行きたいような仕草を見せてしまった。だが、彼はその瞬間に、今まで七瀬が見たことのないような表情を見せた。悲しそうな、それでいて、怒りを含んだ表情。その表情ゆえに、七瀬は駄々をこねるのを止め、彼におとなしく従ったのだ。これ以上、彼に悲しんで欲しくなかったから。

 あの時の、朱峯の様子を思うと、どうしても、洞窟の奥には行けなかった。彼がこの場におらず、怒られる心配もないと言うのにだ。

 七瀬は、洞窟の奥から視線を反らすと、前方に見える、明りの方へと目をこらした。ずいぶんと長く、暗い洞窟の中に居続けたせいだろう、昼間の明りが、酷くまぶしく見える。痛いほどに白い光に、目を細めながら、七瀬はゆっくりと歩き出した。

 壁伝いに、出口へと向かう。手と指先で、側にある土壁の冷たさを感じながら。それほど、中には入り込まなかったためか、その壁はすぐに途切れてしまった。

「まぶし・・・」

 空から降り注いでくる光に、七瀬は目前に手を掲げた。掌で光を遮り、悲しそうに天を見上げる。あの時と違い、空はどこまでも奇麗に晴れている。夕刻になったせいか、青かった空は、今や美しい紅色に染まり始めていた。それを、七瀬はぼうっとした表情で見上げていた。

 その彼女の耳に、不意に聞き慣れぬ音が聞こえてくる。

「あれ?」

 七瀬は、その獣の声のような音に、小さく首を傾げる。

 彼女は、誘われるように、音が聞こえたと思われる方向へと歩いて行った。洞窟を出て、その向こうに見える崖の方へと、フラフラとした足取りで進んでいく。

 獣の声は、その崖の下から聞こえてきたようだった。その音源を確かめようと、七瀬は崖ぎりぎりの所まで歩み寄り、そこにしゃがみこんだ。そのまま、下を覗き込むように、崖縁に手をかけヒョッコリと眼下を見下ろす。

「・・・森だけだよねぇ?」

 下を見てみても、広がるのは、鬱蒼とした緑の森だけ。見慣れた種類の木々が、繁っているだけの、何の変哲もない山裾の森林だ。その木々の合間には、聞いたことのない吠え声を上げるような獣の姿も見られなければ、森自体にも変わった様子は見られない。

 七瀬はその事に、しきりに首を傾げた。聞き間違いかとも思ったが、彼女は自分でもビックリするほどに、目も耳もいい。聞き間違いもなければ、何かを見逃すこともない。

 不思議に思いながら、七瀬は崖から離れようとした。以前、もっと低い崖縁に屈みこんでいて、朱峯に怒られたことがあるのだ。彼が見ているわけでもないのに、七瀬は罪悪感を感じ、早く洞窟の方に戻ろうとした。

 その時だった。

 足場が崩れていたのか、それとも、七瀬の起き上がった時の態勢が悪かったのか。崖縁で立ち上がろうとしたのがまずかったのだろう、彼女の足元の土がわずかに崩れた。

 元々、泣き付かれてフラフラとしてた七瀬だ、ちょっと足を取られただけだったのだが、見事に、倒れてはならない方へと、体を傾がせていた。つまりは、崖下へと。

「ふぁ・・・!」

 助けを求めるように、七瀬は手を空中に彷徨わせる。だが、いつもなら、力強い手が掴んでくれる細腕も、今は誰も掴み取ってくれない。

「朱峯・・・!」

 呼んでも無駄な名前。それが判っていながら、彼女は彼の名前を口にしていた。

 ガラッ。土と石が崩れていく音が、耳元で聞こえた。背中に大きな衝撃が走り、そのまま、急な岩壁を転がり落ちていく感触。痛みと恐怖に、七瀬は無意識的に、全ての感覚を閉じていた。



 途切れた感覚の中、何かの吠哮を聞いたような気がした。

「う・・・」

 獣の叫び声に気付かされた七瀬は、意識を戻すと共に、小さく呻いた。背中と右腕が酷く痛む。彼女は、涙目になりながら起き上がると、まず、自分の腕の様子を眺めた。

「切れてる・・・」

 岩にでも引っかけたのだろう、右腕が、ザックリと切れているのが見えた。それほど深くはないのか、すでに血は止まっている。だが、嫌なことに、痛みだけはハッキリと残っている。そのことに、七瀬はグスグスと泣き出した。

 背中もズキズキと痛んだが、立てないほどではない。涙を拭いながら、七瀬は何とか立ち上がる。

 見上げると、ずっと上の方に崖の縁が見えた。あそこから、転がり落ちてきてしまったらしい。

 普通ならば、あんな高さから落ちてきたのだ。無事なことに幸運を感じるだろう。だが、七瀬は助かって当然と言った様子で平然としている。ただ、傷が痛むことに、子供のように泣いているだけだ。

 これからどうやって村に帰ったものか。

 彼女は、不意にその考えに行き当たり、はたと泣き止んだ。

 上の洞窟からならば、朱峯と共に来た道だ。迷わずに帰ることができる。だが、その道から一歩はずれてしまったここからでは、どうだろうか。北の山は、安全と決まっっている道ならば、それほど険しくはない。だが、この山は、そんな道から一歩はずれてしまえば、途端に入り込んだ者を迷わす迷宮となってしまう。

「どうしよう・・・」

 七瀬は、急に慌てた様子で、辺りを見回し始めた。どこかに、見慣れた場所はないかと、必死に探す。だが、そこに広がるのは、黒い幹を持った木々ばかり。道もなければ、目印になりそうな場所すらない。

 まったくの一人ぼっち。

 そのことに気が付き、七瀬はまた、メソメソと泣きだす。子供のように、誰かが宥めてくれるのを求めるように、自分では少しも泣きやもうとはしない。そんな泣き方だった。

 そのまま、七瀬は一刻でも二刻でも、宛もなく泣き続けているような気配だった。

 だが、不意に何かに気が付いたように、彼女は泣き声を止めた。

 彼女の右手、崖の縁からまっすぐに視線を降ろした場所に、ポッカリと開いた洞窟を見つけたのだ。

「洞窟だぁ・・・」

 こんな場所にも、洞窟があったのだ。彼女は、始めてみたその場所に、小首を傾げる。

 その洞窟は、朱峯と共に入り込んだ洞窟よりも、一回りか二回りほど、大きいようにみえた。

 だが、今さら興味などないのだろう。七瀬は、その洞窟から視線をそらせようとする。その刹那だった。

 再び、何かの声が聞こえた気がした。

「・・・あれ?」

 その音に、七瀬は小さく首を傾げる。その獣の叫び声に似た音こそ、彼女が先ほど聞きつけた吠哮だったのだ。

 七瀬が首を傾げた拍子に、後ろに流すように垂らしていた黒髪が、前にかかってくる。彼女は、それを無意識のうちに払ながら、ゆっくりとした動作で、洞窟の方へと歩いていった。

 洞窟は、上にあるものよりも、さらに陰気で暗いものだった。七瀬は、そこを伺うように覗き込み、何も危険がなさそうだと判断すると、恐る恐る、足を踏み入れた。

 暗い湿気た空気。七瀬は、どこか息づかいがあるような、大気の揺れにいぶかしげに顔をしかめる。そして、怯えがちな様子で、洞窟の中を見回した。

 この薄暗い洞窟の中で、七瀬の白い姿だけがボウッと浮かび上がった様に映えていた。本人は自覚していないだろうが、そんな暗い中で、鬱とした表情をしている彼女は、いつもの子供っぽさのかけらはまったくなく、一人の美しい女性のように見えた。それは、暗闇の中で怯えているせいもあるだろうし、ずっと心に抱えている悲しみのせいでもあるだろう。

「・・・何か・・・あれ?」

 七瀬は、キョロキョロと視線を彷徨わせ、耳を澄ませた。ただ、聴覚にだけ意識を集中させようと、目を閉じ、息をすることさえ止めた。そうすると、洞窟内の静かな空気と、自分の鼓動だけを感じることが出来た。

 風の音がする。水が落ちる音もした。全てが、静かで、自然なものだ。特別、七瀬の気を引くような物音はしない。

 それでも、七瀬は根気よく耳を澄ませ続けた。その様は、何かを祈っているようにも見える。

 どれだけ待っただろうか。もう、いい加減、七瀬が諦めようかと思った矢先、一つの異質な音が耳に届いた。

「・・・あ・・・」

 七瀬は、不意に体をビクリと震わせた。怯えた表情で、洞窟の奥へと視線を向ける。首をそちらへと振った拍子に、髪が小さく舞い、何もないまま、また背へと降りていく。

 今、この洞窟の奥から、何かが聞こえた。まさしく、先ほど聞きつけた音と同じ吠哮。低い、腹のそこに響くような音だった。それは、どこかで聞いたことのあるような音であり、また、荘厳とも言える吠哮だった。だが、これは決して、人に出せる音ではない。人とはまったく違ったものの叫び声だ。

 例えば、巨躯を持つ獣の声のような。

「・・・『紅天の獣』?」

 ふと、その名前が口をついて出てきた。今まで、一度たりとも思い出さなかった名前だ。これまでは、ただ『朱峯』の存在だけが、七瀬の心を占めていた。突然なんの前触れもなく、いなくなってしまったと言われたがゆえに、余計に心を苦しめた存在。彼のために、七瀬は他のことを考える余裕などなかった。彼以外のことなど気にかけ、思い出そうとする気力さえなかった。

 なのに、今になって、ごく自然に『紅天の獣』の名前が口をついた。

 それは昔、祖母に何度も聞いた昔話しの獣の名前。その名を口にすると共に、七瀬は『音』の主が、その獣である事を確信していた。

 何の根拠もない。だが、洞窟の奥から聞こえてくる『声』を聞いて、七瀬はそう信じたのだ。それは、一種の直感に似ていた。そして、七瀬はどちらかと言えば、自分の直感で動くタイプだった。理由も根拠もいらない。ただ、自分が感じ、そう信じれば、それを行動の元に出来る性格なのだ。

 ソロソロと、怯えがちな足取りで、奥へと歩き出した。始めは、足場を確かめようとするかのように、ゆっくりと、足をすり出すように。そして、次第に、それが大胆になっていく。以前、おぼつかない足取りである事は変らないが、足を踏み出す速度は早くなり、焦ったようなものになる。

 それでも、恐くないわけではないらしい。その証拠に、七瀬の、ほっそりとした手が小さく震えていた。

 どうして、奥に行こうと思ったのか。それは、七瀬自身も判らなかった。

 ただ、呼ばれている気がしたのだ。心を引くかのように、何かが彼女の事を招き寄せている。あの奥から聞こえてくる音が、七瀬を呼んでいる気がしたのだ。

「・・・朱峯、恐いよ」

 洞窟の壁ぞいに、奥へと向かっていく。手はあくまで壁を伝い、紫の瞳は、闇を透かし見ようとするかのように、まっすぐに洞窟の最深部へと向けられている。

 七瀬の向かう先は、本当の意味での闇だった。段々と、目が慣れていっているはずなのに、それでも見通せないほど、奥は暗い。一切の光が、そこには届いていないようだ。

 やっぱりやめようか。

 酷く危険な気がして、ふと足を止めた。もじもじと、居心地が悪そうに辺りを見回し、自分の現状を思い知った。

 今や、背後にある、洞窟の出入り口を表わす光は、ずいぶんと小さく弱いものになっていた。自分では、ずいぶんとゆっくりと来たつもりだったが、気が付いてみれば、こんな奥まで踏み込んでしまっていた。

 その事に恐くなり、あわてて回れ右する。ここまで歩いて来たときより、よほど慌てた足取りで、光が射す方向へと、歩き出していた。

 そんな七瀬を止めようとするように、また音が聞こえた。しかも、今度ははっきりと。

 それは、獣の声。何か、巨大な生き物の、高い吠え声のような物だった。

 決して大きくない吠哮。それが、洞窟内に響き渡る。抑えているような音だったが、それでも洞窟内の全ての岩の面を打ちつけるような響きに、七瀬は思わず耳を抑えた。

「ん・・・!」

 突然、力が抜けたように、七瀬は、カクンと膝をつく。耳を抑えていたはずの手が、いつの間にか、頭を抑えている。

 頭がガンガンする。岩場を打っていた吠哮が、そのまま彼女の頭部を襲いかかったかのように、七瀬は獣の吠え声に対して、苦痛の表情を見せていた。

 いや、痛むのは頭だけではなかった。心臓もバクバク言っている。まるで、爆弾でも抱えてしまったように、心臓が暴れ狂い始める。

『キィ・・・ン』

 耳なりがした。

 頭がクラクラする。頭痛だけでなく、めまいさえも起こしたのか、グラグラと地面が揺れたような錯覚に襲われる。

 突然の体の変調に、七瀬は悲鳴を上げていた。そうでもなければ、耐えられないと言うように。

「いや・・・朱峯、助けて!!」

 七瀬の絶叫が、洞窟内に響き渡った。音は反響し、ある響きは外へと逃げ、ある響きは洞窟の内へと流れていった。

 その、内へと響いて言った叫び声に答えるように、一際大きく、『獣』の吠哮が聞こえた。

 七瀬はビクリと体を震わせる。突然襲ってきた恐怖に、カタカタと、体が細かく震えてくる。

 何か、とんでもないことをしてしまった。そんな気がする。

 体がガクガクと震えた。もう、小刻みなどという状態ではない。抑え切れないほどあからさまに、体は恐怖し続ける。

 恐かった。『獣』の声が、酷く恐かった。

「い・・・や・・・」

 吠え声が再び響いた。今度は、少しも抑えようとしない、絶叫のような叫び。低い、腹の底を揺さぶるような音。今や、その声は洞窟さえも揺らがせていた。

 それは、怒りに満ちた声だった。暗闇に怒り、悲しんでいるようにさえ聞こえる。

(・・・悲しい?)

 七瀬を襲う頭痛は、いまだに続いていた。心臓も、大きな鼓動を続けている。どちらも、酷くなっていく一方だ。止めようがない。

 だが、嘘のように、不意に恐怖が消えた。強く息を吹きかけられた蝋燭の火がパタリと消えてしまうように、七瀬の恐怖心が、獣の叫びと共に消えたのだ。

 七瀬は、頭を抑えながら、小さく呻いた。もともと考える質ではない。だが、この頭痛は、その少しの考慮も許してくれなかった。本当に、こうなっては直感でしか判断できなかった。だが、逆に言えば、この痛みが、全ての余計な考えを消し去ってくれてもいた。

 ほうっと、ため息をつく。自分は、恐怖が消えた理由を知っていた。頭ではなく、心で。

 七瀬は、獣の声の端に、自分と同じ気持ちを見つけた気がしたのだ。それは、悲哀とも言うし、別恨とも呼べるもの。

 朱峯の押し隠された優しさを見つけたように、獣の『叫び』を聞き取ってしまった。

「・・・うえぇ」

 涙が目元に溢れた。突然、まぶたの下に盛り上がったそれは、バタバタと、何の遮りもないままに、頬を伝って流れ落ちていく。

 やっと、判った気がした。

 寂しい。

 それが、七瀬をずっと縛っていた感情だったのだ。

 もう、頭が痛くて泣いて居るのか、悲しくて泣いているのか、よく判らなかった。

 洞窟の壁によりかかるようにうずくまり、ボロボロと泣いた。岩壁のゴツゴツとした肌が、肩にあたって痛かった。だが、今だけは、その感覚も痛みとしては捉えられなかった。それよりは、心の方が、耳を背けたくなるような、軋み音を立てていたから。悲しみによって。

「朱峯、朱峯・・・やだよぉ・・・」

 七瀬の泣き声に呼応するように、獣が再び吠哮を上げる。高い七瀬の嗚咽に、低い獣の悲哀が響く。小さく、そして、大きく。聞く者の心を、切なくさせるような音は、洞窟内に静かに響きわたり、そして、空気を震わせ消えていく。

『大丈夫。紅天の獣は、お前を決して、傷つけないから』

 これは、昔祖母が言ってくれた言葉だ。

 思い出した言葉に勇気つけられるように、七瀬は泣きながらも立ち上がり、再び歩き出した。ゆっくりと、ゆっくりとだ。壁を伝い、足元を確かめながら、奥へと向かう。

 獣が七瀬を呼んでいる。

 そう思った。確かに、この奥にいる獣は、七瀬を呼んでいた。七瀬の泣き声に答えたのは、その証拠。まるで、共に悲しんでくれる者を求めるように、獣は七瀬を呼んだのだ。

「・・・朱峯、いいのかな?」

 まだ、心の底に残っていたためらいが、そこにいないはずの、大好きな青年へと尋ねさせた。

 目を閉じれば容易に、彼の無愛想だが、優しい表情を思い浮かべることが出来る。

 彼だったら、どうするだろう。

 いや、考えるまでもない。彼ならば、きっと、こんな風に洞窟の奥まで踏みこんでしまった七瀬に怒るだけだ。低く響く声で説教するだろう。優しいが、厳しい、あの赤い瞳で、七瀬が萎縮するまで睨み、無愛想に短い言葉で七瀬を叱責する。それが、彼流の怒り方だ。

 懐かしくも感じてしまう、彼の怒り顔に、七瀬はふと笑みを浮かべた。ただ、彼の仕草の一つを思い出しただけなのに、酷く幸せな気分になっていた。そのことに、少し切なくなる。

 七瀬はゆっくりとだが、着実に洞窟の奥へと歩いて行った。

 ただ、獣の『呼び声』に逆らえなかったのだ。

 自分と同じ様な悲哀。そんな音を秘めた獣の呼び声に、あがらうことは出来なかった。

 それどころか、切望さえしていた。『紅天の獣』が、自分の悲しみを分かち合ってくれないかと。恐れられもし、ただの昔話しとして片付けられてしまう獣に心を寄せる。考えてみれば、酷く酔狂な行動だ。

 だが、それくらい、寂しかったのだ。

 七瀬は、心の底で、信じていたのだ。祖母が言っていた『紅天の獣』ならば、きっと、寂しさを分かち合うことができると。

「だって、紅天の獣は・・・」

 自分に言い聞かせるように、七瀬は祖母に聞いた言葉を繰り返した。

「七瀬を傷つけない。だって、紅天の獣は・・・獣は・・・」

 そうつぶやいた瞬間、何かの気配を目前に感じた。息づくような存在が、そこにある。

 ドクン。

 急に、心臓が跳ね上がった。

 七瀬は、目を見開き、目の前に現われたそれを見つめた。

 闇の中に浮かび上がる、二つの赤い光。

 それが、七瀬を見つめていた。

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