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暖炉の薪が、小さな、それでも勢いの良い音を立てながら燃えている。その音は小気味よく、耳に聞こえる響きも心地よい。昼間のざわめきも、この夕刻も過ぎたばかりの時間になると、ひっそりとなりをひそめてしまう。その静かな空気の中、パチパチと言う音だけが、部屋の中に響いている。暖炉の中では、薪から慎ましく燃え上がった、低い背丈のオレンジ色の炎が、ユラユラと揺れている。それは、ともすれ優しげな色合いを作り出し、見るものを、安心させるような暖かさを生み出していく。
この時間帯でなければ、古くも見えない暖炉の前には、一人の少女がチョコンと座り込んでいるはずだった。切ることを忘れたかのような、長い黒髪を持った少女は、その小さい炎の中に何の楽しみを見い出しているのか、夜になり、外に遊びにいけない時刻を過ぎると同時に、暖炉の前に居座り続ける。そして、オレンジや紅の色に見える炎を、ぼんやりと眺めているのだ。
その少女も、今の時間帯に限っては、暖炉の前にはいない。食事のために席をはずしているのでもなく、また、客が来ているために、そこから追い払われたわけでもなかった。この時間だけは、少女にとって、暖炉の火の揺らめきよりも、もっと面白いことがあるのだ。
今、彼女が座りこんでいるのは、暖炉から少し離れた場所。そこに、ゆり椅子に腰掛け、一人の老婆が座っていた。少女は、祖母にあたるその老婆のすぐ足元に座り込み、甘えるように彼女に軽く寄りかかっている。
夕食も終わった後、老婆は他にすることもなく、この愛娘の形見に、『昔話』と称して、様々な逸話を聞かせてきた。少女も、もう七才にもなろうかと言うのに、何時の間にか習慣となっていた、この祖母の昔語りを、楽しみにしている。その話を聞くために、少女は祖母の勘に触るようなことは極力避け、祖母の目に良く映るように、努力している節もあった。もっとも、少女はもともと、気質的に、祖母に好かれる質だったのだろう。多少、孫娘が羽目をはずして見ても、老婆が怒るようなことは、滅多になかった。
今日も、自分の基準では『いい子』にしていたと思っている少女は、無邪気な様子で、老婆を見上げている。期待に満ちた目で、祖母を見上げ、ニッコリと笑った。
祖母も、唯一人残された、この幼い血縁が愛しくてならないのだろう。少女の笑みに、条件反射的に、笑い返してしまう。今となっては、もう、彼女の生きがいなど、この孫娘しかいないのだ。少女のことが愛しくないはずなどなく、また、彼女の頼みを断われるわけもなかった。
そんな祖母の心内を判っているのか、いないのか。少女は、楽しそうに笑いながら、祖母に甘えている。
「ねぇ、おばあちゃん?」
「なんだい?」
「あの、お話して?」
そう言った少女が、何を聞きたがっているのか、祖母はすぐに判った。この幼い少女が、今まで自分からリクエストした話など、唯一つだけだからだ。
「・・・そうだねぇ」
どこか、遠くを見るように、老婆は視線を彷徨わせる。その面には、老いによる皺が、無数に刻まれている。だが、彼女の本来の年齢を考えると、老婆は老い過ぎているように見受けられる。彼女と接しているこの村の人間ならば、その過度の老いが、過去にあった苦々しい事件のせいだと、忌ま忌ましげにつぶやくのだろう。
「紅天の獣・・・」
老婆が、小さい声でつぶやく。それに、孫娘である少女は、パッと表情を明るくした。祖母が、自分の要求するものを、目敏く理解してくれたのが、嬉しいらしい。
「そう、赤い獣のお話し」
少女は、大きな瞳をくりくりさせて、可愛らしく笑った。興奮しているのか、それとも、暖炉の明りのせいなのか、彼女の色白の頬が赤くなっている。わくわくとした様子で、また、少女は祖母の膝に頭を傾げる。祖母の弱々しく感じる体を労りながら、幼い動作で甘えていた。
老婆は、自分にもたれかかってくる少女の仕草に、ただ苦笑するのみだ。少女の幼すぎる動作を注意するわけでもなく、それが彼女の質だと割り切っていた。
老婆は、愛しげに少女を見つめていた。少女のつややかな黒髪を優しく撫でながら、静かにつぶやき始めた。だが、そこには何故か、ためらいがある。
「あれは・・・そうだねぇ。『紅天の獣』のことは、あまり知らない方がいいんだろうねぇ」
「だって、おばあちゃん、前にお話ししてくれたじゃない」
少女は、突然の祖母の言葉に、ぷぅっと頬を膨らませる。せっかく話してもらえると思っていた矢先に、否定的な言葉が出てきたもので、むくれているのだろう。その、怒っている様子も、祖母にとっては可愛らしい。つい苦笑してしまう。
「そうだねぇ・・・そうだねぇ」
老婆は、年のせいなのか、何回も頷いてみせる。そうかと思うと、可愛い孫の顔を見ながら、面から笑みを消し、重いため息をついた。
「お前も、もう七つだからねぇ、いいのかもしれないねぇ」
「・・・なぁに?」
少女は、祖母の言葉に、幼い猫のような仕草で小首を傾げて見せる。
「どうしたの、おばあちゃん?」
「いいかい、紅天の獣は・・・」
そう言いかけ、老婆は言葉を詰まらせた。何かを言わなければならない。だが、この少女だけには伝えたくない。そんな苦悩が、彼女の年老いた面に現われている。
何かを、この老婆は思い悩んでいた。いや、長年の間、彼女はそのことについて苦しんでいたのだろう。その辛さが、今、露になっている。
少女は、祖母の表情に現われた変化に、明らかに戸惑っているようだった。おろおろと、心配そうに祖母の表情を窺い、ついには泣きそうな顔になる。
祖母たる老婆は、そんな少女を労るように、無理に笑ってみせた。
現金なもので、少女は祖母のそんな笑みで、すぐに涙を引っ込める。それどころか、泣き出してしまったことが恥ずかしいのか、照れたように笑った。
いくら甘い祖母としても、少女の現金さには、呆れてしまう。それでいて、微笑んでしまうのは、やはり、少女が愛しいからなのだろう。
「・・・そうだねぇ」
本当に、この愛しい孫娘だけには、聞かせたくはなかった。それでも、彼女の抱いている『罪悪』の念が、彼女の口から言葉を紡ぎ出させる。
「これは、絶対に秘密にしなくちゃいけないことだ。いいね?」
「うん・・・?」
「紅天の獣はね、本当にいるんだよ」
「・・・うん・・・おばあちゃん?」
今まで、優しげな表情を浮かべていた老婆が、厳しく自分を見つめている。
その事に、少女はブルッと体を振るわせた。彼女は、急にオドオドとした、おびえた様子になり、祖母を、まるで会ったこともない他人と接するかのように、見上げていた。
言葉自体は怖くはないというのに、何か、聞いてはいけないことを、祖母にせがんでしまった気がしてならなかった。祖母の、険しい表情が、何か怖くてならない。
「ね・・・おばあちゃん、やっぱりいいよ」
祖母の様子が、いつもとまるで違うことに戸惑いながら、少女はそう言った。
だが、祖母は首を振るだけだ。
「いいや。聞いておきなさい。知っているのと、知らないのとでは、この先の人生が、大きく違ってくるかもしれないから」
「おばあちゃん・・・?」
何か、恐い。
少女の怯えが判ったのだろう、老婆はまた、大切な孫の頭を優しくなでる。表情を和らげ、極力、孫をこれ以上怯えさせないようにと勤めた。
「大丈夫。紅天の獣は、お前を決して、傷つけやしないから」
「・・・紅天の獣は、悪い人をやっつけてくれるんだよね?」
「そうだね・・・『悪い人』をね」
祖母は、迷いもなく頷く。
ならば、なぜ、こんなに恐いんだろう。祖母の態度と、言葉は、村の少年達が面白がって聞かせてくれる、怪談の類よりも、恐ろしく聞こえる。
少女は、未だ自分のうちに残っている、子供としての直感に震えた。そう、これは直感だった。祖母の語ったことが、実は、とてつもなく恐ろしいものであると言う。
恐い。
紅天の獣と呼ばれる、昔話しの獣が恐い。
少女は、祖母にギュッとしがみつきながら、外の暗闇を映す窓の方へと視線を向けた。何故だろうか、今にも、そこの窓から赤い獣が飛び込んできそうな感じさえする。
すごく、恐い。
少女の体が、小さく震えた。それを抑えるように、祖母が彼女の体を優しく抱きしめてくれる。それでも、恐かった。恐怖は、理由も判らないまま、どんどん大きくなっていく。それに、少女は瞳を潤ませ始めた。
「おばあちゃん、獣があそこの窓からくるかも・・・」
「大丈夫だよ」
孫の言葉に、祖母は思わず苦笑した。
「紅天の獣はねぇ、あんな窓から来たりはしないさ」
「そうなの?」
「そうだとも・・・紅天の獣は、あんな窓からじゃ入られない。大きいからね」
「・・・そっか」
少女は、祖母の労るような口調の言葉に、安直に頷く。
ふと、不安が消えた気がした。少女は、今だ怯えた様子を残しながらも、安心した様子で、窓の外へと再び視線を投げかける。
あの窓から入り切らないような獣ならば、かなりの大型だろう。『大きい』と一言で言えるが、それも様々だ。せいぜいが窓から入り切れないほどなのか、それとも、窓など問題にならない程に大きいのか。老婆の言葉からは、察っせられない。
だが、少女のほうは、そんな言葉の機微までは考えないようだった。ただ、紅天の獣があの窓からは来られないと言う言葉だけで、幾許か安心している。
少女は、またも彼女特有の現金さを発揮する。先ほどまでの不安はどこに行ってしまったのか、少女はおかしそうに、クスクスと笑いだした。ゴロゴロと、小猫さながらに、甘えかかりながら、ジッと、祖母を見上げる。
「ねぇ、おばあちゃん、お話しして・・・やっぱり、聞きたい」
少女がそう、改めてせがむと、祖母は重々しく頷いた。
紅天の獣。
そは天を紅に染め上げる魔獣なり。
北の山を住処とし、村々を餌場とする。
天の星流れ落ちる日、一人の娘山にのぼらん。
紅天の獣と出会い、そを宥める。
娘、紅天の獣と子をなし、山を下りる。
人、赤子を崇め、紅天の獣を退けん。
紅天の獣。
そは天を紅に染め上げる神の獣なり。
北の山を住処とし、村々を守護せん。
子と契約をなし、血筋の守護とならん。
紅天の獣。
そは一筋の血筋なり。