【紅天の獣〜赤い翼をもつ獣〜

第一話

作・三月さま


 言い伝えは語る。



 紅天の獣。

 そは天を紅に染め上げる魔獣なり。

 北の山を住処とし、村々を餌場とする。

 天の星流れ落ちる日、一人の娘山にのぼらん。

 紅天の獣と出会い、そを宥める。

 娘、紅天の獣と子をなし、山を下りる。

 人、赤子を崇め、紅天の獣を退けん。

 紅天の獣。

 そは天を紅に染め上げる神の獣なり。

 北の山を住処とし、村々を守護せん。

 子と契約をなし、血筋の守護とならん。

 紅天の獣。

 そは一筋の血筋なり。



 風がなっている。とても静かな音だ。その音源たる青い風は、少女の耳元をくすぐっては、彼女の後方にある森へと未練もなく駆け抜けていく。

 七瀬(ナナセ)は、その風の音に、うっとりと耳を澄ませていた。わずかに傾げた彼女の首は細く、頼りなく見える。どこか儚いその面は、少女ながらも美しく、数年後に見られるであろう、彼女の壮麗さを示唆しているように見えた。肌の色も真雪のように白く、その下に流れる血の色が、透けて見えてしまいそうなくらいだ。

 そして、その肌の上に、艶やかに降りかかっているように見える黒髪。十年も前に亡くなった母親譲りの髪だ。見事な紫がかったその髪は、何の束縛も受けないまま、少女の頼りない背に流してある。

 彼女の頬を撫でるように去っていく風は、時折、その黒髪も揺らしては消えていく。

 暖かい風の中、七瀬は、何をするでもなく、家の前に置かれた丸太に腰を下ろしていた。彼女は、無防備に瞳を閉じ、何かを待つかのように、身動き一つしようとしない。

 彼女の背後にある、こじんまりとした家。その家の後方には、鬱蒼とした森がある。緑の濃い、豊かなものだ。山の裾野の森だけあって、人の手が入るのもまばらなのだろう。この村の者でなければ、めったに入る者もない。その森を手繰って見上げれば、木々さえ生えていない、山の頂を見る事も出来る。

 ふと、何かが、風を遮った。

 七瀬がそれに気が付き、閉じていた瞳を開くと、目の前に長く伸びる影が見られた。それをたどって行くと、長身の青年が立っているのとぶつかる。七瀬は、彼の面を見上げると共に、クスリと笑って見せた。青年はそれには答えず、彼の持つ赤い瞳で、まっすぐに七瀬を見つめている。

「・・・なんだぁ、朱峯か」

 七瀬は、自分の目の前に立っている朱峯(シュホウ)を見上げ、からかうように笑いながら、わざとつまらなそうに言ってみせる。同時に、嬉しそうにほうっとため息をつきながら。

 朱峯は、そんな七瀬に眉をひそめた。

「なんだとは、なんだ」

「だってぇ」

 七瀬は、子供じみた仕草で、プゥッと頬を膨らませた。朱峯が思った反応を返してくれないのが、つまらないらしい。彼女は、朱峯が差し出してくれた手に掴まり、勢いを付けて立ち上がる。そうやって立たせてもらいながらも、まだふくれっ面だ。

 七瀬は、どこか頼りないが、とても可愛らしい少女だった。十四になったばかりだが、何時も、一つ、二つは年齢を下に見られている。それは、彼女の幼い顔立ちのせいだろうし、子供じみた行動のせいでもあるだろう。体つきは小柄で華奢だ。大柄な朱峯ならば、簡単にねじ伏せてしまえるくらいに。

 朱峯の横に立ち、七瀬は可愛らしい動作で彼を見上げた。彼と目が合うと、ニコリと微笑む。

 不意に風が吹き、彼女の紫がかった長い黒髪を乱した。それを、彼女は慌てて整える。その様がまた幼く見え、朱峯は薄く笑った。

 朱峯は、また七瀬とは対照的な存在だった。長身でしっかりとした体格。顔はそれほど悪くないのだが、表情を滅多に表わさないせいなのか、非常に無愛想に見える。事実、この村で朱峯が笑ったところを見たものなど、七瀬を除いては、一人もいないのではないかと言われるほどだ。そして、彼の持つ珍しい赤い瞳も、また、彼を普通と言う枠から遠ざけているものなのだろう。

 村における疎外感のせいなのか、それとも、また別な理由によるものなのか、朱峯は一時期、村の外に出て腕だめしのような事をいしていた。ずいぶんと長い間、留守にしていることもあったが、気にかかることがあったのだろう、最低で半年に一度は、村に帰ってきていた。

 その放浪の間に鍛えられた体は、ずいぶんとたくましい。七瀬には、頼もしくも見えるらしかった。よく、おもしろがって、体当りをしてきたりもする。それでも、朱峯が動じないので、どちらかが根負けするまで、まとわりついたこともある。

 彼の年の頃は、七瀬より最低で五つほど上。同じように親のいない七瀬のことを、妹か何かの用に扱っているところがある。気づかうように様子を見てやったり、村で行き会えば=手にしていた荷物を持ってやったりと、彼女に対してだけは、本当の兄以上に甲斐甲斐しく振る舞っていた。

 七瀬は、トンと一歩彼の先に立って歩き出す。朱峯もそれに続く。

 背後にある七瀬の家には、去年までは祖母が共に住んでいた。だが、その祖母も今年の始めに、雪が解けると共に亡くなったのだ。結果、こんな村のはずれにポツンとある家に、現在住んでいるのは、七瀬だけ。そんな彼女を気にしてか、朱峯は以前より頻繁に、彼女を尋ねてくれるようになった。無愛想な彼にしては、非常に珍しいことと言えた。いや、七瀬を構っていること事態、彼らしくないと言えば、彼らしくないのだろう。

 だが、その訪問も今日で最後だ。

「ねぇ、朱峯?」

「なんだ?」

「本当にいっちゃうの?」

「あぁ・・・」

 頷く彼に、七瀬はシュンとなる。

 立ち止まり、自分の目の前で同じように歩を止めてくれた朱峯を、幼くも見える紫の瞳で見上げた。

「ねぇ、約束してくれる?」

「・・・なんだ?」

「絶対に、絶対に、七瀬のところに帰ってきてね?」

「何を馬鹿な・・・」

 七瀬の幼い声での頼みを、朱峯は下らないとやり過ごそうと思った。

 だが、彼の視線が七瀬の真摯な瞳に釘付けになる。

「七瀬・・・」

 子供だと思っていた。

 だが、今、朱峯を見上げてくる七瀬の瞳は、十四才の少女のもの。いや、『女』のものだった。真剣で、虚言を許さないと、男を見据える目。その目を、今の七瀬は持っていた。

 ふっと、七瀬の頬が赤くなった。そのまま、朱峯から視線をそらす。

「あのね、七瀬・・・」

「なんだ・・・?」

「七瀬・・・朱峯のこと、好きだから・・・だから・・・」

「・・・そうか」

 いつもと変らない、朱峯の声。

 その声の調子を聞き、七瀬は泣きたくなった。朱峯の返事は、いつもの『妹』に対するものと、変らなかったのだから。焦ることもなく、戸惑うこともなく。また、嬉しそうにしている様子もない。ただ、いつも通りの朱峯の声。

 もしかしたら、いつもと違う声の響きをもって、答えてくれるのではないかと思ったのだ。『妹』ではなく、別個の他人として、何か言ってくれるのではないかと。だが、その期待は見事に裏切られた。

 今すぐ、彼の前から消えてしまいたい気分だった。このまま、家にでも駆けこんで、ベッドの中にでも、隠れてしまいたいくらい。情けなくて、恥ずかしくて、七瀬は身をちぢこませる。

 もっとも、『妹』以上に扱ってもらえないだろうと言う、嫌な予感はあったのだ。朱峯の態度、そして、言動から、時々そんな気がしていた。だが、同時に正反対の期待もしていたのだ。だから、七瀬は『妹』としてはとってはならない態度に出て見た。だが、この結果だ。

 こんな事ならば、ずっと、友達以上だが、恋人にはなれない相手、『妹』と言う立場に甘んじていればよかった。そうすれば、もっと傍にいられたはずだった。後悔の念で、胸が切り裂かれそうになる。

 七瀬が、泣きそうな顔で思い悩んでいる間中、朱峯も何も言おうとはしなかった。ただ黙って七瀬を見下ろしている。

「ごめんね・・・」

 長い沈黙のはてに、そうつぶやいたのは七瀬だった。

「ごめんね、朱峯。気にしないで・・・」

 そう言って、七瀬は涙目のまま、健気に笑って見せる。

 そんな彼女の態度に、朱峯は目を細めた。見慣れない七瀬の態度の数々に、戸惑っているようにも見える。

 その朱峯の表情が、ふと緩む。めったに見られない、はっきりとした表情の変化だった。

 同時に七瀬が、驚きに目を見開く。

 不意に何の前触れもなく、朱峯が七瀬を抱きしめてきたのだ。力強く、苦しいばかりに七瀬の細い体を抱きしめてくれる。

 七瀬は、朱峯の突然の行動に、面喰らっていた。ドキドキと、心臓が鳴る。怖いほどに胸が壊れそうだと思った。鼓動は早くなり、喉が内側から張れ上がったようになる。息詰まる感覚に、七瀬は苦しそうに目を閉じた。

「しゅ・・・ほう・・・」

「七瀬・・・帰ってくるから」

 感情の余り篭らない声。だが、七瀬には、その中に隠されている、朱峯の思いを感じ取ることが出来た。子供の頃からずっと傍にいた。だから、彼のわずかなな感情の機微も、何時の間にか読み取れるようになっていた。

 彼の目立たない優しさ。他の人には判らないだろう。七瀬だけが感じられる優しさだ。その優しさが、七瀬は大好きだったのだ。

「朱峯・・・」

 彼の胸に、オズオズと頬を押し当てる。そうしてもいいと思ったのだ。その七瀬の行動を、朱峯はとがめたりはしなかった。ただ、以前よりも力を込めて、それでも優しく、七瀬を抱きしめる。

 七瀬の耳元で、朱峯の心臓の鼓動が聞こえた。朱峯の存在そのものを表わすような、力強い鼓動。それを聞いていると、とても気持ちよかった。ただ、その鼓動だけを聞き取ろうと、七瀬は瞳を閉じた。

 彼がすぐ傍にいる。それを、感じられる。

「朱峯・・・絶対だよ。絶対に帰ってきてね・・・」

「あぁ。お前のところに、絶対に帰ってくる。そしたら・・・」

 そうしたら。

 朱峯は、七瀬が祖母を亡くした時から言おうとしていた言葉を口にした。あの時は、七瀬は悲しみ過ぎていたので言えなかった。今までは、機会を見つけられなくて告げられなかった。

 その言葉。

 七瀬は、それを耳にして、ビックリしたように朱峯を見上げた。顔を赤くし、信じられないと言った表情になる。

 そして、小さく頷いたのだ。コクンと、注意して見ていなければ、わからないほどの頷き。

「うん・・・うん」

「七瀬・・・」

 朱峯が耳もとでささやくと、七瀬は誘われるように顔を上げた。

 彼の赤い瞳を見上げ、それから、ゆっくりと瞳を閉じる。

 幸せだった。



 ディルニア王国の乱。先の王の乱行に国が乱れ、それを正すと言う大義を掲げ、王家筋の大公が乱を起こしたことを発端とする乱だ。

 長年、豪遊に戦にと、国を苦しめてきた王に、民の不満は極限にまで募っていた状態だった。それに対して、民の窮状を救う名目で、大公が王の退位を求めたのだ。王は当然それに激昂し、逆に大公に対し反逆者の汚名を着せた。当時、最大の勢力を誇っていた大公に対し倒伐の軍を向けたのだ。

 諸公が不安な空気に身を固くする中、大公はそれに対し抵抗を見せた。彼は、おとなしく王の軍に下ることもなく、逆に、自らの兵を王軍の迎撃に向けたのだ。王にとって誤算だったのは、多くの諸公が、すでに王に見切りをつけていたことだろう。諸公は、大公のさして優れているとも言えない人望、当時最高とも言われていた軍の力、そして王の狂気を秤にかけ、大公を選んだ。そして、人望でなく勢力によって集まった諸公の後ろ盾を得て、大公は難無く王城を落とすことができたのだ。

 これだけならば、義をもって悪王を罰した大公の建国物語にでもなっただろう。歴史や一国の内乱の史実など、支配者にそれなりの力があれば、いくらでも改ざんできる。

 そうならなかったのは、王の庶子にして、地方に封じられていた王子があったため。また、その王子にも野望があったためだった。

 王が亡くなった同年に、大公は、王家の血筋を持って新王即位を宣言。それに対し、王子は大公の王位略奪を諸公に訴えかけた。諸公は、王子の台頭にかなり迷いを見せたようだった。彼は、妾腹ながらも優れており、それゆえに、地方に追いやられたのだ。現段階で、誰が一番王にふさわしいかと言えば、先の王を害した大公よりも、高名な王子のはずだった。失われつつある忠義、国を憂いる心、そして、野心に諸公は揺れた。

 一人、二人と諸公が大公から離れていく。それでも、野望高い貴族達は、多数大公側に残った。

 最終的に、王子方と大公方の軍事力はほぼ同等となる。それでも、当初は、王子自体の軍の力は大公の三分の二ほどだった。だが、そこに、すでに亡くなっていた王の一軍が加わったのだ。それに加えて、王軍とともに、何名かの諸公が、王子の元へと下ってきた。その結果、王子方につく諸公の数は、大公についた貴族の数よりも上回り、双方の軍事力は肉薄するものとなってしまった。

 ここに、ディルニアの大乱と呼ばれる戦争が起こったのである。この戦争には、当初の大公と王子の野望に加え、諸公の思惑もからみ始めた。それぞれ、この乱こそが、自らの地位を上げ、領地を広げるための絶好の機会と見てとったのだ。そして、大公と王子の軍の最初の衝突から、一年も経った後には、双方、引けぬ立場となっていた。野望が憎しみを呼び、憎しみが幾多の惨劇を生んだ。

 闘いは拮抗し、男と言う男が、兵として刈りたてられていった。

 村は焼け、町は瓦礫の山と化す。五年も続いた戦乱のため、王都サージェインでさえ、廃虚と変らぬ有様。昨年の首都攻防戦の後には、まったくの壊塵と化してしまう状態だった。今や、戦火は辺境の村々にまで及んでいた。



 ぼうっと、家の前の丸太の上に座りこみ、朱峯(シュホウ)を待つ。

 それが、ここ一ヵ月ほどの七瀬(ナナセ)の日課だった。

 そうして待っていれば、いつか必ず、彼女が気が付かない内に、朱峯がここに来てくれるはずなのだ。目の前に立ち、七瀬が気が付くまで待つ。そして、目が合うと怪訝そうに眉を潜める。

 彼は、一言、二言文句を言ったかと思うと、七瀬を彼の家まで連れて行ってくれる。

 そこで、七瀬がいつものように昼ご飯を作ってやると、それを黙々と彼は食べる。七瀬も食事を始めたかと思っているうちに、食べ終わってい、皿を片付けながら、

『うまかった』

と言ってくれるのだ。それに、七瀬は照れ臭そうに笑う。それが、七瀬にとっては、一番の褒め言葉だからだ。

 そのためにも、待っていなければならない。朱峯のために何かして、ちょっとした褒め言葉をかけてもらうためにも、ちゃんと彼を待っていてやらなければならない。

「朱峯・・・」

 待ちくたびれたのか、どこか疲れた声が口から漏れた。視線を空に向け、その下にある高い山々へと巡らせ、またうつむく。そのまま、また長い間、彼女は身動き一つしない。

 ふっと、影が七瀬の見つめる足元によぎった。だが、七瀬はそれに反応しない。それが誰だか判っているからだ。

「七瀬」

 しわがれた声が、七瀬の名前を呼ぶ。七瀬は、その呼び声に、ゆっくりと顔を上げた。そして、目の前に立った人物を見上げる。

 彼女の前に立っていたのは、この村の長老である老年の男だった。年齢ゆえに、徴兵を免れた老人。彼は、痛ましそうに、現実を認めようとしない七瀬を見つめる。

「七瀬、いつまでそこにおるつもりじゃ?」

「・・・朱峯が来るもん」

「無駄じゃと、何度言ったら判るんじゃ。朱峯は・・・」

「おじいちゃんの、嘘つき!」

 七瀬は、突然そう叫んだかと思うと、座っていた丸太から立ち上がった。

 こんな表情も出来たのかと老人が驚くほど、彼女はきつい視線で彼を睨み付ける。七瀬の色白だった頬は興奮で赤らみ、長い黒髪は怒りのあまりわずかに逆立ったようにも見えた。

「おじいちゃんの嘘つき。朱峯は帰ってくるもん!」

「七瀬、朱峯はのぉ・・・」

「嘘だもん、嘘!」

 七瀬はそう言って、全身を固くする。

「嘘だもん・・・」

 おこりにでもかかったように体を小刻みに震わせ、狂ったように首を振る。

 老人は、感情も露に取り乱す少女を、労るように見守り続けた。

「七瀬・・・朱峯は帰ってこんよ。あれはな、皆と同じように、戦で死んでしもうたのじゃ」

「・・・帰ってくるもん」

「ワシの孫も死んだ。桂(ケイ)の子も死んだ。香守(カモリ)の夫もじゃ。そして、お前の朱峯も・・・」

「き・・・聞きたくない!」

 七瀬は、突然叫んだかと思うと、老人の言葉から逃げ出すように走り出した。

 老人は、痛ましそうに、走り去る娘の背を見る。だが、彼女の逃げていく方向を見てとり、サッと顔色を変えた。

「い、いかん、七瀬!」

 切羽詰まった老人の声が、後ろからかかってくる。

 だが、七瀬はそれに構わなかった。

 今はただ、老人から逃げ出したかったのだ。いや、老人が突きつけてくる事実から逃げたかった。

 老人に言われなくとも、その事は知っている。

 雨の日に、徴兵された若者の一人が、腕を失って帰ってきた。彼の他に、一緒に戻ってきた者もなく、村人達は彼の帰還をいぶかしんだものだ。村の若者達は、皆、大公に属する軍に徴兵された矢先だった。それだと言うのに、不意になんの前触れもなく、その青年だけが帰ってきたのだ。怪しまない方がおかしい。しかも、村に帰ってきたのはただ一人。何も語ろうとせず、怯えがちに辺りを見回してばかりの青年を見て、ある者など、大公の軍から逃げ出してきたのではないかと言い出す始末だった。

 その青年も、村人になだめすかされ、懇願されるのに折れたのだろう。ポツポツと、彼が村に帰された理由を話し始めた。

 彼と村の男達は、徴兵されてすぐに、前線の城の一つに派遣された。彼等は、他の村から同じように徴兵された兵と共に、城の一箇所ですごすように命じられた。しかし、そこで彼等はただ待たされるばかり。どこかの戦場に連れていかれる訳でもなく、また、城に敵が攻めて来るわけでもない。このまま、何もないままなのかと、若い連中が不満を言うほどに、放っておかれたままだった。だが、数日すると、『出兵する』と言う命令が下った。一部はそれに苦い顔をしたそうだ。だが、それでも始めての戦場に、興奮する若者が多かった。

 そして、渓谷と森に挟まれた場所での野戦に繰り出され、そこで、使い捨ての駒にされてしまったのだ。

 徴兵された村人達は、王子の軍を罠にかけるための囮とされた。彼等と向かいあった王子の軍は見事にそれにはまり、村の若者達がいた一軍に踊かかってきた。大公の将軍は、一軍をほとんど見捨てるようにして、王子の軍の虐待意識を満足させ、そして、慢心させた。その上で、横あいと背後から、森に隠していた伏兵をぶつけたそうだ。

 皮肉なのは、その戦いが王子方の勝利だと言うことだ。

 かなりの軍士が王子側にはいるのだろう。王子側は、伏兵に対する、さらなる伏兵を置いていた。勝利を確信した大公側の兵に、新たな軍がぶつかって来たのだ。はめられ、嘲笑われたのは、大公の方。

 渓谷からの落石。そして、森からの軍の出現。それらの攻撃に、大公の軍はあっと言う間に潰された。捨て駒に食らいついた王子方の軍もまた、同じ様な捨て駒だったのだ。その餌に食らいついたのが、大公の一軍。全ては、王子方の思惑通りだったと言うことか。

 どちらにしろ、犠牲にさせられた軍は壊滅した。王子方も、また、村のもの達がいた大公方もだ。この村出身の兵で、生き残り、なんとか逃げらたのは、腕を失った青年ただ一人。彼は、伏兵が現われた時点で、側にあった森に逃げ込み、満身創痍で城に逃げ戻った。

 この戦いで生き残り、城に帰ることが出来たのは、彼一人だったと言う。敗北の知らせは彼によって城にもたらされ、その功とも言えない働きに免じられ、彼は村に帰ることを許された。片腕を失った状態で。

 彼が、何も話したがらず、怯えるように村人、いや、村に残された女達を見ていた理由が明らかになった。

 彼の知らせは、女達にとっては衝撃的だった。男達を失った悲しみに、村は沈んだ。

 七瀬も、青年の話の場にはいられなかったものの、朱峯の伯母にあたる女性から、この話を聞いた。

 だが、信じられなかった。彼女の言葉を聞いて、理解し、記憶に止めても、心のどこかが、話の内容を受け入れることを拒否した。

(だって、朱峯は帰ってくるって言ったもん!)

 山裾の森の中を走りながら、七瀬は思わずこぼれ落ちた『水』を拭った。自分が泣いているとは思いたくなかった。それは、事実を肯定することになるからだ。だから、頬を流れるものが、涙とも思えない。いや、思いたくなかった。

 森の中を、七瀬は迷うことなく、ただ一点を目指すかのように走っていた。ここは、七瀬にとっては庭も同じ場所。小さい頃から、朱峯の後をチョコチョコついて回り、一緒に森を歩いたせいだ。

 朱峯は、七瀬にとっては、長い間『お兄ちゃん』だった。双方の親が亡くなる前から、暇があれば遊んでくれ、親が亡くなってからも、頻繁に構ってくれた。

 彼が村を出ていた時期でさえも、彼は七瀬に会うために、何回も戻ってきてくれたのだ。その度に持ってきてくれる、土産の類が酷く嬉しかったのを覚えている。『兄』がどこか遠くに行って帰ってくるのを待っている間、七瀬を慰めていてくれたのは、祖母と、そして、それらの置き土産。

 そんな彼のことを、『男』として意識したのはいつだったろうか。よく判らない。

 ただ、少しずつ、彼は自分とは少し違うことを理解していった。同時に、彼が『兄』でないことも。

 ジワジワと胸に広がってくる感情を、七瀬は長い間、持て余していた。その気持ちが何なのか、判らなかったのだ。

 理解することが出来たのは、たぶんあの日のせい。

 いつものように、朱峯が山に向かい、止められたにもかかわらず、七瀬がそれにコッソリと付いていってしまった日だろう。

 もうすぐ十四になろうかと言う、あの日。



 北の山の、人もめったに通らない山道。朱峯は、青年らしい力強さでその道を上り続けていた。その彼に見つからないように、一定の距離を保ちながら、チョコマカと七瀬が付いていく。彼女は、その細い体つきからは、信じられないような力を見せ、朱峯との間隔を崩すことなく、山道を進んでいた。朱峯と七瀬では、体格も大きく違い、また、性別と言う壁もある。普通ならば、七瀬など、あっと言う間に、朱峯に置いていかれるだろう。だが、七瀬は朱峯に寸分遅れる事なく、また、疲れを見せることもなく、彼について行っている。

「・・・朱峯、どこにいくんだろう?」

 昔から、森をよくうろついていた朱峯。そのうち、彼は何を思ったのか、フラリと森から姿を消し始めた。ほんの一刻前までは、村の中で姿を見かけていたのに、探して見ると、姿が見られないと言うことがちょくちょく起こった。それを、七瀬も含めた村人達が不思議がっているうちに、彼が山へと通い詰めているらしいと言う噂が、村の中に広がり始めた。朱峯の、定期的な山への散策。それが、彼が両親を失ってから、一年も経ってから始まった事を、七瀬は知らない。

 ただ、朱峯にチョロチョロとついて回るのが楽しかったことは、覚えている。彼が森の中でぼうっとしているときも、側にいたがった。そして、彼が山へと行くのにも、ついて行きたがった。

 だが、朱峯は決して、七瀬を山へは連れていこうとしなかった。いくら七瀬が懇願してみても、許そうとはしなかったのだ。小さいころは、七瀬の祖母に彼女を返してから山へ行き、彼女がついてくるのを防いだ。だが、それも祖母が亡くなってからは、困難になってしまったらしい。とうとう、今日と言う日になって、彼女が追跡する機会を与えてしまった。朱峯は、放浪に出ない村にいる間でも、一月に一回くらいしか、山に上らないので、これは絶好のチャンスであり、唯一の機会でもあった。

「何かな、何かな?」

 七瀬は、朱峯に後で叱りつけられるのが判っていながらも、ワクワクとした様子で、彼を追っていく。朱峯は、七瀬に山に上る理由をちっとも教えてくれないのだ。だが、その理由を今日、発見できるかもしれない。彼に怒られるのが、泣くほど嫌だと言うのに、好奇心が抑え切れないのか、七瀬は妙に嬉しそうな様子だった。

 朱峯は山へ上るときは何時も、墓参りにでも行くかのように、決まって紫色の花を手にしていた。今のようにだ。そして、手ぶらで帰ってくる。

 そんなふうに、朱峯が山に上っていると知って、最初に激昂したのは村の大人達だった。誰に断わるでもなく、山へと通い続けている朱峯を、村人は憎しみとも思いを込めて睨んでいた。

 村の老人などは、訳のわからないことを喚き、朱峯を叱責した。村人達もだ。気違いざただと言い、朱峯を罵った。だが、朱峯の態度はいつもの平然とした、冷徹とも言えるものだった。彼は、時に神妙に彼等の言葉に耳を傾け、そして、逆に、彼等らに皮肉った言葉を投げつける。

 何を言ったのか、七瀬は知らない。彼女を心配させないように、朱峯はただ、『大丈夫だ』としか、言わなかったのだ。大人達も、日頃七瀬には優しくしてくれていたのだが、朱峯のこの行動に関してだけは、口裏を合わせたように黙していた。

 だからこそ、余計に不満も溜まるのだ。

 七瀬が朱峯に山に何をしに行くのかと聞けば、

『暇つぶし』

 どうして何回も行くのかと聞けば、

『暇だから』

 老人たちに何を言われたのかと聞けば、

『大丈夫だ』

 挙句に、老人たちをどうやって宥めたのかと聞いても、

『別に』

 朱峯が無表情な質だということは、ずっと前から知っていた。あまり喋りたがらないと言うこともだ。だが、いくらなんでも、無口にもほどがある。無愛想過ぎる。

 本当は、七瀬がこうやってついていくのは、こんな朱峯を困らせてやりたいという気持ちがあるからなのだろう。七瀬も、体力と運動能力には自身がある。それらがズバ抜けていることも、自覚していた。だから、朱峯の後にこっそりとついて行く事も、山に始めて踏み行ってみることも、少しも恐くなかった。頭上の天気が纔に崩れてきたようだったが、それにも気がつかない。

 トテトテと、相変わらず子供染みた仕草で、朱峯を追っていく。

 ふと、朱峯が立ち止まった。七瀬は、今までやってきたとおりに、物影に隠れた。

 ドキドキと、興奮で胸が踊った。何か、恐いくらいにワクワクしていた。

 朱峯が気がついてくれないかと、淡い期待を抱く。同時に、気がついてくれなければいいとも思った。そうすれば、それだけ楽しみが伸びる。

 七瀬は、岩の影に、小柄な体をギュウギュウに押し込めて隠れた。わくわくした様子で、岩陰から、朱峯の様子を覗いてみたい衝動を、必死に抑え込む。

 息も殺して待ち続ける。

 もうそろそろかな、まだかな?

 朱峯は、もう歩き出しただろうか。七瀬は、全身を耳にして聞き取ろうとする。向こうにいるはずの、彼の気配を感じ取ろうとした。小さな空気の流れの響や、遠くにある森のざわめき。それたの音の中から、ただ一つ、朱峯の息づかいを探し出そうとしていた。

『カラン・・・』

 不意に、石の転がるような音が聞こえた。それに、七瀬は目を丸くする。

 何かと見てみれば、足元にコロコロと小石が転がってきた。小さな、以下にも転がるのに適したような角のない丸い石。それが、七瀬のすぐ側まで転がり、足に当たって止まった。

 七瀬は、不思議そうに、首をかしげる。どうして、こんな石が転がってくるのだろうか。そう思い、その石の転がってきた先へと視線を向けた。

「あれ・・・」

 そこに、一つの影があるのを見て、途端に七瀬は、キョトンとなった。

 先程まで、向こうにいたはずの朱峯が、そこに立っていたのだ。しかも、やや怒った表情で。

「何をしている?」

 朱峯の声には、大して感情は篭っていない。だが、七瀬には、その奥にある怒りが感じられた。

 彼女は、予期できたはずの朱峯の声の調子に、ビクリと首をすくめる。

「朱峯・・・」

「何をしている、七瀬?」

 彼は、まっすぐに七瀬を見据え、重ねて尋ねてきた。言い逃れは許さないとばかりに、七瀬がそっぽを向いても、相変わらず睨んでくる。いつものように、諦めたり、ため息をついたりしてくれない。

 七瀬は、朱峯の容赦ない態度に、不意に目を潤ませた。あっと言うまに、ボロボロと泣きだす。

「だってぇ、朱峯がぁ・・・」

「来るなと言っただろうが」

「だって、だってぇ・・・」

 ゴシゴシと、乱暴に涙を拭う。七瀬は子供らしい外見から用意に察っせられるように、非常に泣き虫らしかった。ひっきりなしに嗚咽を上げて、少しも泣きやむ気配がない。それどころか、どんどん泣き声が大きくなるばかりだ。いまや、大きく泣き声を上げて、涙を拭う服の裾までグショグショにしてしまっている。

「ふぅ・・・」

 手のかかる子供だ。七瀬の泣き顔を見つめる朱峯のため息には、そんな色合いが濃い。

 彼は、七瀬の手を取ると、取り出していた布で顔を拭ってやる。七瀬はされるままに、おとなしくしていた。

「ん・・・ぷはぁ!」

 顔を拭われ、七瀬はニコリと笑う。現金な子だ。もう笑っている。それに、朱峯はいつもの事ながらも、また嘆息する。

 ふと、朱峯は眼下に見える森へと、視線を向けた。あの森に隠れた先に、彼等の村があるのだ。七瀬をこのまま、一人で村に帰すことも考えてみる。だが、気になって見上げた空の様子を見て、それを断念する。

「こい・・・」

 七瀬の手を取ったまま、朱峯は彼女を引っぱった。七瀬はテクテクと、おとなしくついていく。

「どこ行くの?」

「雨宿り」

「なんで?」

 そう聞いた七瀬の頬に、ポタンと、水滴が落ちてきた。

 驚いて見上げている間に、あちらこちらの地面に、水滴が染みを作っていく。最初は小さかった、水滴の染みも、だんだんと大きく、数を増やしていく。

「ほら、いくぞ!」

 力強い朱峯に引かれ、七瀬は慌てて走り出す。

 そうやって急いでいる間にも、雨脚はどんどん強くなっていく。

 大きい洞窟のような場所に駆けこんだ時には、朱峯も七瀬も、お互いぐっしょりと濡れてしまっていた。

「びしゃびしゃだね」

 どこか、嬉しそうな七瀬と違い、朱峯は至極、不機嫌そうだった。体中にまとわりつく湿気と水滴が、不快でならないらしい。彼は、着ていた上着をさっさと脱いだかと思うと、それを力強く、ギュッとしぼった。

 パタパタと、水滴が洞窟内の暗い地面に落ちていく。

 いつもなら、七瀬は興味津々に、地面へと落ちていく水滴の軌道を眺めていたことだろう。何にしても、興味が持てる子だ。だが、今、彼女が呆然と見ていたのは、剥き出しになった、朱峯の上半身だった。二十ごろの青年にふさわしい、若くたくましい体。それに、七瀬はビックリしたように、後ずさった。

 小さい頃から傍にいたのだ。見慣れていないわけではない。

 だが、近ごろは見ていなかったような気がする。

「あ・・・あれ?」

 心臓がおかしい。そう思い、七瀬は自分の胸を抑えた。

 七瀬の様子がおかしい事に、朱峯も気がついたのだろう、気づかうように声をかけてきてくれた。

「どうした?」

「なんでもないの・・・」

 何でもないなずはないのに、七瀬は慌ててそう答えていた。ブルブルと手を振り回しながら、首も横に振る。その姿が滑稽だったのだろう。朱峯が珍しく苦笑した。

「朱峯・・・」

 七瀬は、彼の笑みを見ながら、胸元を手で抑えた。

 胸が痛い。

 どうもおかしい自分の異変を、朱峯に察せられないようにと、七瀬はクルリと背を向けた。

 今は、彼の顔を見ていられなかった。いつもは、飽きるほど見ていても、なんともなかったと言うのに。いや、それどころか、飽きるまで見つめていたいほどだったと言うのに。

 胸が痛かった。朱峯のこと以外、考えられない。

 辛かった。だが、嫌なわけじゃない。

 それどころか、この二人きりの空間が、心地良かった。

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