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神像はナシルと私から見て左斜め前方に位置していた。高さは十メートルはあるものと思われる。おだやかな表情をした女神で、手には穂を抱えていた。
しかし、炎に身を包んだその女神像は、動いたかと思うと、表情を変えぬまま穂を振り下ろしてきた。
「危ない」
いつになく体が動いてくれた。ナシルを抱えて倒れた頭上を炎がかすめる。床を殴る形になったが、そのまま床がめり込んでいた。
見ると、倒れてなおナシルはまだ何事か唱えていた。手の動きも相変わらずで、こうなるとすごいとしか言い様がない。いや、それ以前に逃げなければいけない。
とにかくナシルを引っ張ろうとしたとき、彼女の動きが止まった。
すると不思議なことに、神像の動きも止まった。続いて、スチームアイロンが出すような音とともに、蒸気が神像の足元から上っていく。
原因はすぐに分かった。床に水がたまったのだ。私は裸足だし立ち上がっていたけれど、倒れたままのナシルや神殿にいた人達は下手をしたら顔を水につけていることになる。実際、人々は次々と起きあがって像の様子に驚いていた。
「ラーシス」
手元の弱々しい声に目を向けると、ナシルは精根尽き果てており、もはや起き上がることもままならないようだった。
「わたくしの術は気休めに過ぎません。今の内に、早く彼らを」
「分かった」
顔を上げると、私は大声で彼らに避難を呼びかけた。なんとか指示通りに、動ける者は自力で、動けない者は動ける者の助けを借りて出口に向かう。
私はナシルを運ぶのを誰かに手伝ってもらおうと思ったが、さっき抱えたときの重みを考えつつ、持ち上げてみた。思ったより軽い。ひょっとしたら、着太りする方なのかもしれない(本人には聞けないことだが)。
ナシルが「気休めに過ぎない」と言っていた意味が分かった。足元の水、いやもうすでに湯になっていた。湯が、見る間になくなっていくのだ。まさに焼け石に水というわけだ。
「逃げるがいい」
広大な神殿の中程まで来たとき、頭上から声が聞こえた。声の主は言う間でもない。
「その代わり、ラーシス、お主もナシルも、フォルナーはもう会えまい」
フォルナー。
おそらく、ナシルの兄の名前だろう。そして、これだけブノン・ロアが名前をちらつかせることからして、ラーシスにはとても大切な人に違いない。そして今、ブノン・ロアがフォルナーに監禁か何かをして、その生死を握っている、らしい。
私はそこまで考えると、ナシルを抱えたまま立ち止まった。神像に向き直る。自暴自棄になったのではない。先程からナシルが、繰り返し繰り返し言うのだ。
「ラーシス、剣を抜きなさい」
と。
注意深く湯の上にナシルを下ろして、壁にもたれさせた。拾ったきりの剣はどうにか脇に抱えており、引けば鞘から抜けるだろう。
でも、私は剣道も習ったことがない。こんな人間に巨大な石像を倒せるかどうか。本当に困ったものである。
一気に剣を抜こうとした時。
「ラーシス!」
思わずつんのめった。後方、つまり出口の方から、神殿中に響きわたるかと思うぐらいの大声と共に、人が現れたのだ。
男の人だった。頭髪は整っていないし黒い髭は生やし放題。そのためか年はよく分からない。身長は私の肩ほどしかなく、しかし肩幅は私の倍はありそうだ。当然、体つきも同様の筈で、今は金属の鎧を着込んでいる。手には巨大な鎚。
入ってくるや否や、この人は私を見て、ものすごく嬉しそうに笑った。
「そうか、くたばっていなかったか。相変わらず悪運が強いな」
まさか、「あなたは誰ですか」などという質問をかける事などできるわけがなく、私はどうにか笑みを向けた。先程ブノン・ロアに向けたそれよりも遥かにぎこちなかったかもしれない。
「ラボエガ、それより早く、眼前の像の方を」
ナシルが声をかけると、男の人、つまりラボエガが鎚を持っていない方の手をふって、
「分かってるって。まったく、これだから嬢ちゃんはせっかちでいけない」
そう言うと、鎚を両手で握り、神像に向かって突進した。
「ラーシス、早く剣を抜け」
叫びながら鎚を振りかぶるのと、湯がなくなった像が再び燃え上がって動き始めるのはほぼ同時。・・・いや、像の動きの方が早い。
私は息を飲んだ。ラボエガは呆気なく壁に突き飛ばされた。そのまま床に落ちる。
ところが、次の瞬間にはラボエガはあっさり立ち上がった。像に向かって胸を張って笑う。
「このラボエガは石に殴られたぐらいでは死なん」
いや、普通は死んでいる。
と、ラボエガは私に向かって叫んだ。
「ラーシス、俺はこの通り、もうどこも悪くない。安心して時間稼ぎに使え」
どうもラボエガは以前、体を悪くしたことがあるらしい。それよりも、時間稼ぎとは何の事なのか、分からない。
それよりも、よく考えてみれば剣を抜くのを忘れていたので、とりあえず抜く事にした。
一気に引き抜いて、両手で持つ。
皆が剣を抜け、と言うので、抜いた途端に何かが起こるのかと思ったら、何も起こらない。どこをどう見ても剣は普通の剣だ。突くにはいいだろうけれど、切る方は少々不安だ。
「そうか」
と、構えたまま何もしないでいる私に、ブノン・ロアが頭上から嘲笑う声を浴びせてきた。
「ラーシス、お主、剣の使い方を忘れたな」
「何の事」
憮然と言ったつもりだが、顔に動揺が現れたらしい。ブノン・ロアはより一層嘲笑ってくる。
「ラーシス、・・・そうだったのですか」
ようやく息ぐらいは整ってきたナシルが言う。
「それなら、早くそうと言ってくれればよいものを」
事態が、剣の使い方を忘れたどころでないと知ったら、この人、どういう顔をするだろうか。
今はそこまで告げて動揺させてはまずいだろうと判断して、
「どう使えばいいの」
と聞いた。ナシルは頷いた。
「簡単です。それで、像を突いて下さい。像のどの部分でも構いません」
「そうしたらどうなるの?」
「突けば分かります」
「ありがとう」
というわけで像に向かったのはいいが、・・・いったい、像のどこを突けばよいのだろう?下手に向かったら殴られそうだし、そうしたらラボエガではないこの体が壊れてしまうかもしれない。
その時、ようやく私は気がついていた。どうしていつもより背が高く感じられるのか。どうして肌が白くなったと感じているのか。どうしてナシルを抱えられるほど力が強くなっていたのか。
私は、外見だけとはいえ、ラーシスという人になっていたのである。
どうしてこうなっているのかはよく分からないが、ひょっとしたらこの体は借り物なのかもしれない。となると、下手に傷をつけると、返す時に申し訳ない。そう思って、なんとか良い方法はないか。
(ラーシス、俺はこの通り、どこも悪くない。安心して時間稼ぎに使え)
「お願い」
私は、ラボエガに向かって叫んだ。
「もう一度突入して」
「分かった」
うなずいたのを見て取ると、私は剣を握り、像に向かって走った。
ラボエガが右手から突入したのを見計らって(?)、像は右手の穂を振り下ろす。今度は像の動きを見切っていたらしく、体を横に向けるだけでかわすと、手の鎚を思いきり振り下ろす。
穂の辺りに大きくひびが入った程度で、ラボエガは引かざるを得なかった。像が熱いのだ。
私が突入したのはその時である。思い切って、まだ振り下ろしたままの右手に向かう。
と、像がまた動いた。一瞬で動かしたのである。・・・左手を。
しかし、左手は空を切った。そのまま床に拳をめり込ませる。
ラボエガのために振り下ろしたままの右手をもう一度上げて振り下ろすより、上がったままの左手を振り下ろしてくるだろう、と思っていた私は、左手が来る前に早く、後方に転んだのである。
後は、地面にめり込んだままの拳を剣で突くだけで、それは寝転がったままで十分できる。炎で熱いのは我慢して腕を伸ばした。
突いた途端、変化が劇的に起こった。突いたところから一気に、炎が吹き飛んだのだ。それだけではなく、像それ自体も動かなくなった。
と、バランスが悪かったのか、像が倒れた。私の方ではなく、ラボエガの側だ。もちろん、ラボエガはとっくの昔に像からはなれているので、被害を受けたのは神殿の床だけとなった。
「ラーシス、よい見物だったぞ」
頭上からの声に、私は怒鳴った。
「そうやって、人を頭上から見下ろすなんて、背が低い事に対する劣等感が見え見えなのよ、いい年してみっともない」
どうも私は心底から怒っていたらしい。よくもまあ、不用心にも寝転がったままでそんな口が叩けたものである。当然、ブノン・ロアの反応は冷たかった。
「昔ならともあれ、今の、ろくに剣も使えぬお主にそういうことを言われる筋合いなぞない。私は親切だからな、いつでもここで待っておる。・・・だが、フォルナーのいないお主らが、はたしてうまく来れるかな」
そして、ブノン・ロアが声をかけてくることは、もうなかった。
「・・・終わった・・・」
緊張が解けて、剣を転がしたまま、息を吐いた。ほぼ無傷でいることが信じ難い。そうして安堵している内に、意識が遠ざかっていき、とぎれた。
続く
第三章です。
「次は早くお届けします」と誓った通り、早めに書き上がりました。自分のページの連載はまだ書き上がっていないけれど(汗)。
もう一つ嘆いていた話の短さも前回よりは改善できました。・・・前回よりは(他の方のとくらべてみると・・・)。
さて、次回はどうなってしまうのでしょうか。私にも謎です。
http://www.geocities.co.jp/Playtown/3926