シンジの引退表明は、報道されたとたんに再び大衆の注目を宇宙計画に集めたが、翌日に
は某人気俳優とアイドル歌手の密会の話題にかすんでしまった。
つまり、それほどたいした話題にはならなかった。
あいかわらず一般大衆の宇宙計画に対する関心は薄らぐ一方だったし、せいぜい国営放送
の誰も見ない時間帯にやっている科学番組か科学同人誌に取り上げられる程度だった。
もっともシンジ・トウジ・ケンスケの三人には、大衆の関心などたいして気にはならなか
った。
大衆の関心がどうであろうとも、三人の"エヴァ 13"に対する関心は非常に高かったし、
期待も非常に大きかった。
シンジが今回の飛行に求めているのは、自分が宇宙に行ったという確固たる証明である。
彼はこれまでに三度宇宙を飛んでいるが、それらの体験は、彼にとってどことなく実感の
伴わないものであり、そのときの戦利品と言えるものを彼はまったく持っていなかった。
"アダム 7"の飛行のとき彼は14日間も宇宙に滞在したのだが(これは宇宙滞在最長記
録である)ただ狭い宇宙船内部の座席で船を操縦していただけで、手に入れるべき戦利品
などなかったし、"アダム 12"のときも、頼りにならない無人のジオ=フロント宇宙ステ
ーションにドッキングしただけで、"アダム 7"と同様だった。このときに国王陛下から
賜った王室名誉勲章が戦利品と言えば戦利品と言えなくもないが、それは彼が地球に戻っ
てから手に入れたものである。
"エヴァ8"のときには月にまで行ったし、手を伸ばせば触れることができるくらいにま
で近づいたが(実際は60レーンも離れていたのだが、シンジにはそう思えた)結局は月
の周囲を飛んだだけで、指をくわえて月面を眺めるだけに終わった。
シンジはどうしても自分は宇宙に行ったのだという証拠が欲しかった。他人よりもむしろ
自分自身を納得させるためにそれが欲しかった。自分が地球の外に出たことを心の底から
実感したかった。
月の上に立つことはたぶんそれをかなえてくれるだろうとシンジは考えていた。できそこ
ないのロボットみたいな宇宙服に身を包んで、月面の砂に覆われた地面の感覚を足の裏で
感じたり、少々厚手の手袋をつけた手で砂をすくったり地面を引っかいたりすることは、
そういう欲求を十分に満たしてくれるだろう。
トウジの場合はシンジとはやや違ってくる。彼にとって空を飛ぶことは、いわば食べて覚
えた味である。もともと彼が求めているのは、冒険であり探求である。子供の頃から好奇
心旺盛で、嫌がるシンジたちを引っ張ってよく"探検"に出かけたものである。(ケンスケ
に言わせると「危険なことにわざわざ首を突っ込みに行ったものである」となる)
今回の任務で彼は地質調査に使う機材に異常な情熱を示していて、軍の技術者たちは彼を
"ジャージモグラ"とひそかに呼んでいた。なぜ"ジャージ"なのかというと、どういう
わけか彼は普段は黒いジャージしか着ないからである。いつだったか、レセプションにも
ジャージ姿で出席しようとして同僚たちに止められたことがあった。
ケンスケの場合はもう少し他のふたりとは違ってくる。
彼は宇宙飛行士たちの中では毛色の違った存在である。というのは、シンジやトウジをは
じめ、多くの宇宙飛行士が元水軍・空軍のパイロットたちであるのだが、ケンスケは宇宙
軍の前は重工業の大手企業ミグレン社の航空技術部に所属していた。つまり科学者あがり
なのである。
ミグレン社航空技術部は"アダム"と"エヴァ"司令船の開発を担当しており、ケンスケ
が宇宙軍に参加したときは、本来なら技術開発部か飛行管制部に技術者として配属される
はずだった。
だが、当時彼の旧友であるシンジがすでに宇宙飛行士に選ばれており、さらに後の候補と
してトウジの名前が挙がっているのを知り、家族の猛反対で空を飛ぶ道を断たれた過去を
持つ彼は、自身も宇宙飛行士として飛ぶことを決意したのである。
決意を固めてから彼はすぐに積極的に自分が宇宙飛行士になれるよう働きかけた。軍上層
部に自分の宇宙に対する憧れを熱烈にアピールし、自分の宇宙飛行士としての適性を確か
めてほしいと訴えた。見かけによらずアウトドア派でわりと鍛えられている身体をさらに
鍛えようと、仕事のかたわらトレーニングを繰り返した。つてのある貴族に推薦状を書い
てもらうまでした。
しかし、この前代未聞の要望を軍が簡単に認めるはずもなく、けっきょく2年間ねばった
あげく、シンジの口添えもあり、司令船に対する知識が認められて、ようやくケンスケは
晴れて宇宙飛行士となり、1968年に"エヴァ7"で"エヴァ"計画最初の有人飛行を果
たしたのである。
こうして初の技術者上がりの宇宙飛行士が誕生したわけだが、こういう特例には当然反発
もある。宇宙飛行士の中にも技術者の中にもケンスケを軽く見る人間が少数だがいた。こ
ういう連中は表立ってではないが、何かとケンスケを目の敵にしていた。
ケンスケの今回の任務に対する原動力は、こういう連中を見返してやりたいという気持ち
だった。彼は、今度の"エヴァ13"の飛行を成功に終わらせて、そういう連中を見返し
てやろうと考えていた。
"エヴァ 13"でケンスケが務めるのは司令船パイロットである。月軌道上で船長と月着
陸船(LEM)パイロットが搭乗するLEMを切り離した後、そのまま軌道上を周回しなが
らLEMの帰りを待ち、LEMが月から戻ってきたら、それを拾って地球へ戻る。こうし
て書くと簡単そうに見えるが、実際にはそう簡単にはいかないのである。特に切り離した
後の再ドッキングは、完璧なタイミングと正確な動作が要求される。もし失敗すれば、最
悪の場合LEMに乗っている連中の生命がない。
これを実践で成功させたのは、これまでに二人。
ケンスケはその三人目になって、自分を軽んじる連中に「どうだ!」と言ってやるつもり
だった。
………だが、そんな彼の思惑も、ダルク中尉の持ち込んだ風疹により、今、灰燼に帰しつ
つあった。
「打ち上げ6日前に搭乗員を交代させる!?」
会議室にシンジの声が響き渡る。
「ずっと一緒に訓練してきて、もう声の調子で相手の状態がわかるくらいになったっての
に!? 冗談じゃないよ!!」
普段の温厚な彼からは想像できないくらいの剣幕で、シンジは立ち上がってまくしたてた。
「しかし万一発病すれば、高熱が出るんですよ」
トキタ航空医官が反論する。
その部屋にはシンジを含めて10人の人間がいた。
部屋の中央に湾曲した形のテーブルが並べられて円を形作っており、それぞれが中央に向
き合う形で席が設けられている。
シンジの席は入り口をちょうど背にする位置にあった。
彼の左側三つ目の席には、ゲンドウ=イカリ宇宙軍総司令が座っていた。シンジの父であ
る。無造作になでつけられた短い漆黒の髪。たくわえられた顎鬚。ほとんどいつも着けて
いる白い手袋。茶色い色眼鏡と、両肘をテーブルに置いて顔の前で組んでいる手のせいで、
シンジからは父の表情は見えなかった。もともとゲンドウは口数が少なく、あまり表情を
面に出す男ではなかった。妻のユイを亡くしてから、さらにそれに拍車がかかった。シン
ジとゲンドウ、この二人はここ数年間一度も親子として会話をしたことがない。
彼は先ほどから同じ手を組んだ姿勢のまま、国旗と宇宙軍の軍旗を背に、じっと座ってい
た。
ゲンドウの左に座っているのは、コウゾウ=フユツキ宇宙計画運営本部長(副司令)。少々
細めで眦が下がっているが鋭い光を宿した眼。実際ゲンドウよりも年長で、後ろに撫で付
けられた髪もすっかり真っ白になっているが、キチンと軍服を着込んで席についているそ
のたたずまいには、年齢を感じさせないハリがあった。
コウゾウの左隣にトキタがおり、そしてトキタとシンジの間の席には4人の飛行実施責任
者がついている。
飛行実施責任者とはその名のとおり、飛行任務実施中のすべてのことに責任を持ち、管制
官の指揮を執る、管制室のトップである。任務の実行中は、その任務に関するすべての決
定権を持つ。ロケットが飛行中は、つまりロケットが管制室の管理下におかれているあい
だは、たとえ司令官のゲンドウといえども、彼らに提案はできても、彼らの決定したこと
に異を唱えることは許されない。
シンジとゲンドウの間には、シロツグ=ラーザット搭乗員業務部長と、議事録を作成する
女性書記官が座っていた。
「……で、もしアイダ大尉が感染していたとして、潜伏期間はどれくらいなのかしら、こ
の病気って?」
シンジの右隣に座っていた女性がトキタに尋ねる。
ミサト=カツラギ中佐。"エヴァ計画"において、主席飛行実施責任者を務める女性士官で
ある。
「だいたい10日から15日といったところです」
目の前のノートをコツコツとペンで叩きながら、トキタは答えた。
「……ちょっと待ってください」
ミサトが何か言おうとするのを遮って、シンジは口を挟んだ。
「……それじゃあ、打ち上げのときは元気なんですね?」
「そうです」
「月に着くときも?」
「ええ」
「だったら、何が問題なんですか!?」
これを聞いてトキタは困ったような顔を浮かべた。
「少佐………いま申し上げた10日から15日というのは、あくまで一般には、ということ
ですよ。個人差によってこれより早く発病することもあります。アイダ大尉が10日より
も前に発病する可能性は十分あるんですよ」
それでもシンジは引かない。
「それでも何の問題があるんです!? もし僕らが月に着いた頃にケンスケが発病したと
しますよね。そうなったら、僕とトウジが月面に降りている間かけて治せばいいじゃない
ですか!? それで治らなかったら、帰りの飛行中に汗かいて治せばいいんですよ。風疹に
かかるには最高の場所じゃないですか! 小ぢんまりして、気温も湿度も適度に保たれた
居心地のいい宇宙船の中なんだから!」
シンジのこのセリフにトキタは驚いて身を乗り出した。
「冗談は言わないでくださいよ、少佐! 高熱のせいで意識を失うなどして、ドッキング
の際に彼の手元が狂えば、あなたがたの生命が危険にさらされるんですよ!?」
そのトキタの言葉にシンジが何か言い返す前に、それまで黙っていたコウゾウが口を挟ん
だ。
「シンジ君、気持ちはわかるが、君の言うような危険な賭けを、我々は君たちにさせるわ
けにはいかんのだよ」
「………………………………」
「選択肢は2つだ……アイダをナギサと交代させるか、それとも君のチームを次回に送る
か?」
「……たしかにカヲル君は優秀な飛行士でしょう。でも、ほとんど一緒に訓練したことの
ない即席チームで、危険はまったくないと言えるんですか!?」
「ナギサなら資格の上でも問題はない。たしかに君の言うとおり、いくらかは危険ではあ
るが、病気の飛行士を打ち上げるよりはずっと安全には違いあるまい?」
そう言うと、コウゾウはじっとシンジを見据えて繰り返した。
「アイダをナギサと交代させるか、"13"をあきらめるか、だ」
シンジはコウゾウの言葉にうつむいて黙っていたが、やがて顔を上げると口を開いた。
その声は静かだが怒りでかすかに震えていた。
「"13"をあきらめろ………? フラ=マウロの訓練をすべてムダにしろとおっしゃるん
ですか、副司令………?」
コウゾウは黙ってシンジを見据えたままだ。
「……ケンスケが風疹? そんなことがあるはずない………そんなものは……」
顔はコウゾウに向けたまま、トキタを指差してシンジは叫んだ。
「……そんなものは、航空医官の戯れ言だっ!!」
その瞬間、室内は硬化した沈黙が支配した。
誰も声を発することができなかった。
コウゾウは溜め息をつき、首を横にふった。ミサトは当惑と憐憫が入り混じった眼をシン
ジに向けていた。ほかの三人の飛行実施責任者は、困ったようにシンジとトキタの間に視
線を走らせていたし、シロツグはやれやれといったふうにポリポリと頭を掻いていた。
指を差されたトキタは、怒りに顔を真っ赤にしてむっつりと黙っていた。頬がヒクヒクと
痙攣している。今にも席を蹴って部屋から飛び出していきそうだった。
室内の誰もがまさにトキタがそれを実行すると思った瞬間、静かだが非常に明瞭な声が響
き渡った。
「……シンジ」
シンジが声のする方に目を向けると、そこには彼の父がさっきと同じ姿勢で座っていた。
姿勢を崩さぬまま、ゲンドウは続ける。
「アイダを降ろすか、"エヴァ13"をあきらめるかだ。お前にはそれ以外の選択肢は一切
ない……!」
静かだがその声には有無を言わせない迫力があった。
ギロッと色眼鏡越しにシンジを睨む。
「……お前が決めろ」
半マール後、シンジは憮然とした表情で会議室を後にした。
結局心情的には納得できないまま、決定を下さざるを得なかった。
胸の中には先ほどの怒りがまだくすぶっている。
頭の中にトキタ航空医官の顔が浮かび、次に父ゲンドウの顔が浮かんだ。
最初からわかりきっていたことだが、父は自分の味方にはなってくれなかった。そのこと
がシンジの胸中に重くのしかかっていた。まるで胃の中に鉛の塊でも詰め込まれたような
気持ちだった。
「…クン………シンジクン……シンジクンッタラ…」
ゲンドウらの顔を頭の中から振り払うが、次にトウジとケンスケの顔が浮かぶ。
これから自分の決定をチームの二人に伝えなければならないことを考えると、シンジは気
が重かった。
フッと溜め息を吐いたとき、
「……ンもう、シンちゃんっ!!」
あまりの大声にシンジはビクッとして立ち止まった。
振りかえるまえにシンジはもう声の主が誰なのかわかっていた。宇宙軍の中で自分を愛称
で呼ぶ人間はひとりしかいない。さっきとは別の意味で溜め息が漏れる。
「……ミサトさん」
シンジ振り返ると、ミサトは屈託のない笑顔で近づいてきた。
わずかにクセがあって先がカールしている、背中まで伸ばした豊かな黒髪。屈託のない笑
顔と表現したが、どちらかといえばイタズラっぽい、ニンマリという表現がピッタリの笑
顔だ。すましていればかなりの美人なのだが、どうもおしとやかな仕草というのが苦手な
ようである。
ミサト=カツラギ中佐。
宇宙軍士官学校出身の数少ない生っ粋の宇宙軍士官のひとりで、"ヤシマ計画"のから有人
宇宙計画に管制官として参加。以来、少しずつ頭角を現わして、現在では主席飛行実施責
任者を務めている。
「……『シンちゃん』はやめてくださいって何度も言ってるじゃないですか、それも大き
な声で呼んだりして………」
ジト眼でミサトを見ながらシンジは言った。
チラっと周囲に視線を走らせると、みんなそれぞれに歩きつつもこっちのほうを見ている。
笑うのをこらえて顔を痙攣させている者もいれば、あからさまにクスクスと笑う者もいた。
「だって、さっきから『シンジ君』って何回呼んでも、シンちゃん、気づかないんだもの」
「だからって、あんな大声で…………、せめて軍施設内では階級で呼んでくださいよ」
「あら、ずいぶんカタいこと言うのねぇ、気にしない気にしない、ここは軍隊であって軍
隊じゃないようなもんなんだからさ……だいたいシンジ君だってわたしのこと『ミサトさ
ん』って呼ぶでしょ?」
この二人の付き合いは、じつのところかなり長い。なにしろシンジが生まれた頃からの付
き合いなのである。
ミサトもまたシンジと同じアタゴオル出身で、彼女の実家はシンジの生家の近所なのだっ
た。カツラギ家とイカリ家は交流があったので、ミサトはよくシンジの家に来てはシンジ
のお守りをしたり、シンジと遊んでやったりしていた。シンジにとって彼女は『姉』のよ
うな存在なのである。もちろん、ミサトはトウジやケンスケのことも知っている。
ひとしきりのやりとりの後、やがて二人はどちらからともなく歩き始めた。
歩き出してからすぐにシンジの口から三度溜め息が漏れた。表情も先程の憮然としたもの
に戻っている。
ミサトはそんなシンジの表情をしばらく眺めてから、視線を前方に戻して口を開いた。
「……残念ね」
「…………ええ……」
「………わたしもあなたたち同郷のチームで打ち上げるのが、楽しみだったんだけどな」
「………………………………」
二人は階段に差し掛かっていた。
「……………………やっぱりお父さんが味方してくれなかったのはショックだった?」
ミサトは、一段先を降りていくシンジの横顔を後ろから見ながら訊ねた。
一瞬シンジがキュッと唇を噛んだのが見えたような気がした。
「…………父さんが公私混同するような人間じゃないことはわかってますから」
前を向いたままシンジは答えた。
「………ミサトさんだって、それは知ってるでしょう?」
「…………そうね」
「………………………」
それから数段降りるあいだ、しばしの沈黙。
「ホ〜ント、カタブツなのよねぇ、おじさまって!」
いきなりミサトは、シンジの放つ陰気な雰囲気を吹き飛ばそうとするかのように、ガラッ
と声の調子を切り替えた。
だが、その声にはどことなく無理をしているような、わざとらしい感じがあった。
「あたしが宇宙軍に入って久しぶりに会ったときだって、そうだったのよねぇ……あたし
が『おひさしぶりです、おじさま』って言ったら、ニコリともしないで『ここでは"司令"
と呼びたまえ、カツラギ大尉(注)』とか言ってさっさと行ってしまうんだもんねぇ〜」
ゲンドウの物真似もまじえながら、大げさな身振りとともにまくしたてたが、シンジがニ
コリともしないのを見ると、ミサトは溜め息をついて態度を収めた。
それから一階に降りるまで二人は無言だった。
「………ね、シンジ君」
建物の出口に近づいたとき、ミサトは口を開いた。
シンジが立ち止まって振り返る。
そのシンジをミサトは慈愛と憐憫が入り混じった眼で見つめた。
「気持ちはわかるけど……トキタさんの判断は正しいわ」
「…………………………」
「たとえ今は健康でも、宇宙で発病するかもしれない人を宇宙船に乗せるわけにはいかな
いのよ……」
「…………………………」
「それにわたしは……」
「いいんです、わかってますから………僕だって子供じゃありません」
シンジはそう言うと弱々しく微笑んだ。
「ミサトさんはいつも僕を子供扱いするんだから………」
シンジの言葉に思わずミサトは笑みを浮かべる。
「……ゴメンなさい。でも……………」
すぐに笑みを収めて、さっきの表情でシンジを見つめた。
「…………大丈夫?」
そのミサトの言葉は、今のシンジの気持ちを心配してなのか、それともこれからトウジと
ケンスケに彼の決定を伝えられるかどうかを心配してなのか、シンジにはそのどちらとも
とれた。
「………大丈夫です」
シンジは答えた。
「大丈夫です…………!」
ミサトの問いに答えたいうより、自分に言い聞かせているようだった。
「………………じゃ」
ミサトに会釈して踵を返すと、シンジは外に停めてある車へと向かった。
(……シンジ君……………)
ミサトはそんなシンジの後ろ姿を哀しそうに見送っていたが、やがてシンジの姿が通用口
のそばに停まっていた車の中に消えると、くるりと背を向けて管制室へと向かった。
(注)本部に配属された当時のミサトの階級は大尉でした。
カヲル=ナギサ中尉。
現役の宇宙飛行士の中で採用された、ただ一人の未婚者として知られている。
銀色の髪、真紅の瞳、ミルクのような白い肌。甘いマスクとモデルそこのけのスタイルを
持つカヲルの世間での評判は、女性関係がかなりハデである、というものである。彼は常
に『巷々に女あり』と噂されていた。
じつのところ、この評判はかなり当たっている。
だが、組織の改変・再構成にともない割と柔軟な姿勢をとるようになった宇宙軍は、その
ことに関してはとやかく言わなかったし、カヲル自身、そのイメージを保つよう努めてい
るふしもあった。
彼は"エヴァ13"の予備搭乗班で司令船パイロットを務めるはずだった。
はずだった、というのは、彼の同僚が風疹にかかったため、彼のチームが"13"の予備搭
乗班から外されてしまったからだ。
だがそのことはカヲルにはべつに気にならなかった。元来クールで、クヨクヨと思い悩む
性格ではなかったし、予備搭乗班というのは、よほどのことがないかぎり正規搭乗班と交
代することはないので、今回宇宙へ飛べないのはどのみち同じだったからである。
むしろ軟禁生活から解放されて、カヲルは喜んでいるようだった。
カヲルのもとに電話がかかってきたのは、さっそくどこぞで引っかけてきた女と浴室でよ
ろしくやっている最中だった。
けたたましいベルの音に軽く舌打ちすると、カヲルは女から離れた。カーテンを払ってバ
スタオルを手に取る。
「ねぇ〜、どうしたのよぉ……」
女がすねた甘い声をあげる。
「電話さ」
腰にタオルを巻きながらカヲルは答える。
「ほっとけばいいじゃなぁい…」
「そうはいかないよ」
「なんでよぉ〜」
電話に向かうカヲルを女の声が追う。
「何故なら僕は予備搭乗員…………」
女にやさしく答えてやりながらカヲルは受話器に手をかける。
「………あらゆる雑用をこなすのが僕の仕事なのさ………………………ナギサだ」
顔に笑みをはりつかせたまま応対を始めたカヲルだったが、徐々に真顔に変わっていき、
次に呆然とした表情になっていった。
「……………はい…………はい……わかりました……………ありがとうございます………
……………では」
カヲルはガチャンと受話器を置くと、しばし呆けたように天を仰いでいた。
やがてその肩が上下に揺れ始めた。
「フ、……フフ…………フフフフフフフ…………………」
カヲルはいまや満面の笑みを浮かべていた。
「フ………シンジ君、君は好意に値するよ……好きってことさ」
その部屋は重い沈黙が支配していた。
シンジとトウジとケンスケがそれぞれ向かい合って座っていた。
三人とも表情は暗かった。
やがてケンスケが沈黙を破った。
「…………残念だ……………………」
溜め息と共に言葉を吐き出す。
「……………クソッ…………………!」
また重い溜め息が漏れ、かすかに首を振る。
「………………医療班の連中……」
視線が宙を漂い、次に床の上をなぞる。
「……連中が『血液検査をする』と言い出したとき、イヤな予感はしてたんだ………」
つぶやくケンスケの表情には怒りとやるせなさが同居していた。
「…………………もし俺が船内で発病したら、あいつらの責任になるからな……!」
ケンスケは最後のほうは吐き捨てるようにつぶやき、膝を拳で叩いた。
シンジはじっと眼を伏せてケンスケの言葉を無言で聞いていた。
トウジは二人の間に視線を漂わせていた。
「………歴史に残る任務なるはずだったのに…………」
スッとケンスケの視線がシンジに向けられる。
シンジも伏せていた眼を上げて、ケンスケの視線を受けた。
「……俺がシロツグさんとトキタに掛け合うよ」
決意を込めてケンスケは言った。
トウジもそれがいいといわんばかりに首を縦に振る。
「ただ免疫を持っていないというだけで、感染したかどうかもわからないのに降ろされる
なんてたまらないしな………連中だってこっちが強く言えばきっと……」
「ケンスケ……!」
シンジは憐憫と謝意を込めた眼でケンスケを見つめ、彼の言葉を遮った。
「……これは………僕の決定なんだ」
そのシンジの言葉に、部屋の空気は一気に硬化した。
ケンスケの眼は大きく見開かれ、呆然とした表情になる。乗り出していた身体は徐々に起
き上がり、後ろの背もたれに寄りかかっていった。
トウジもシンジのセリフに、首をうなだれた。
「……………シンジの…………決定なのか………?」
ケンスケは信じられないといった表情でシンジを見た。
シンジは無言のまま、うなずきもせずケンスケを見つめ返す。
しばし重い沈黙が三人にのしかかった。
まるでそこだけ時が止まったように、三人ともじっと動かなかった。
やがてケンスケは緩く首を振ると、おもむろに立ち上がり、そのままドアへと向かった。
が、2、3歩行ったところでくるりとシンジたちの方へ振り返った。
シンジとトウジ、それぞれに視線を走らせて、言った。
「………風疹なんて嘘だ……………俺は絶対にかからん……!」
言い終わるとまた踵を返し、足早にドアへと向かって行った。
ケンスケがドアに手をかけて開けた瞬間、ようやく呪縛が解けたかのようにトウジが立ち
上がって、ケンスケを追った。
「ケンスケ、待てや!」
ケンスケが出て行き、それを追ってトウジが去った後、残されたシンジは視線をケンスケ
が座っていた椅子に向けたままじっとしていた。
だが、その眼は椅子を見てはいなかった。
彼の眼は己の内側に向けられていた。
それからシンジは、長い間、ただじっと座っていた。
ひどく心が痛んだが、シンジはその痛みを無視していた。
そうしないと、心がバラバラになってしまいそうだったから。
EVA 13 第六章 「続・不協和音」 END
________________________________________
[あとがき]
どうも、最近すっかり遅筆の人と成り果てました、テンプラでございます。
ようやくEVA13 第六章をお届けします。
本当にこの作品を憶えていらっしゃる方はいるのだろうか?(^_^;)
なんだかすっかり忘れ去られているような気がします。
もっとも、今あなたがこれを読んでいるということは、
あなたはこの作品のことを憶えていてくださったということですね。
ありがたいことです(^_^)
さて、未だにこの作品、ロケット打ち上げの場面まで進んでいないのですが、
どうやら僕には“書き始めると、文章がどんどん長くなっていってしまう”
というクセがあるようなのです。
当初の予定では五章くらいで、シンジたちは月に向かって飛び立つはずだったのが、
六章まで書かれた現在でも、まだ“打ち上げまであと○日”という・・・・・・
この“書けば書くほど、どんどん文章が長くなっていく”という現象は、
もの書きとしては喜ぶべきことなのではないのでしょうか?
ただし、書き出す文章がすべて内容の濃いものであれば、の話ですが。
僕の場合、他人から見ると“ただダラダラと描写をしているだけ”というふうに、
映っているような気がして、ちょっと不安なのでありますが、どうなんでしょうか?
ま、何にせよ、一旦始めてしまった物語にはきちんと決着をつけねばなるまいよ、
とは思ってはおりますので、
たとえ誰も読んでくれなくなっても、しつこく続きを書いていくつもりです(笑)
最後までお付き合いいただければ幸いであります。
では、次は第七章でお会いいたしましょう(^o^)/
テンプラでした。
(98/9/30update)