舞鶴座があった明治時代の長崎 「帯谷宗七」伝

2012.3.15
帯谷 芳樹 氏

1.帯谷宗七の生い立ち
  ・1847(弘化7)年  今の長崎市榎津町に生まれる。幼名は百松
               生家は醤油醸造業
               7歳より能楽のけいこを始め、諏訪神社の能舞台に出演
  ・1857(安政4)年  諏訪神社火災により能舞台全焼。その再建発起人に擬せられる。
  ・1864(元治1)年  18歳で万屋町の豪商の息女と結婚
               多趣多才の人で、能、漢学、算盤、義太夫、ハタ揚げなどを
               得意とした。
  ・1867(慶応3)年  長崎奉行所の役人となる。
  ・1868(明治1)年  振援隊の東北進攻に際し留守居役を務める。
  ・1872(明治5)年  現在の弁護士の前身の代言人となる。
               長崎の弁天(稲佐)でコークスの商いを始める。
  ・1874(明治7)年  深堀士族が佐賀の乱の江藤新平隠匿の嫌疑を
               かけられ、40余名が逮捕され裁判となったが、
               代言人として法廷に立ち弁護、深堀士族の無罪を
               勝ち取った。
  ・1877(明治10)年 名を宗七に改める。             
 2.帯谷海運の設立
  ・1883(明治16)年 本古川町を本拠に海運業を始める。
               そのころ金融業(質屋)も営む。
  ・1886(明治19)年 本店と支店(万屋町)の間に電話架設(グラバー商会
               に次ぎ日本で2番目)
               鳥海丸(鉄船)を建造、御用船となる。
  ・1893(明治26)年 不知火丸(100トンの快速船)を建造
  ・1897(明治30)年 海運業を廃業
3.舞鶴座の開業
  ・1890(明治23)年 新大工町に舞鶴座を開業。瓊浦劇場株式会社の社長となる。
               当時日本一の3500名収容の大劇場。
         宗七詠の祝歌 「常磐なる 松の梢の 巣を出でて 千代を寿ぐ 雛鶴の声」 
  ・1891(明治24)年 大阪の中村鴈二郎一座が来演。長崎には珍しい大歌舞伎で
               好評を博す。
  ・1910(明治43)年 長崎に新劇場や映画館が開場し翳りが出始める。
               宗七没後、売却され長崎劇場と改称。その後三菱のものとなり
               中島会館となった。後に五島町に移転。
4.帯谷宗七の死去
  ・1913(大正2)年  宗七死去。享年65歳  葬儀には2千名を超える会葬者
               死後家業は息子の松五郎が継承したが、当代で廃業
5.エピソード      
  ・三菱造船所に対して立神に取得した土地を売却し、莫大な利益を上げた。
  ・明治23年の明治天皇北九州行幸の際、天覧ハタ揚げを行なった。
   天皇のハタをビードロで切って不敬罪...にはならなかった。
  ・明治36年に西宮の香枦園で開かれたハタ揚げ大会で優勝した。
  ・明治41年、当時不毛の地と言われた田上に果樹園の松泉園を開設。成功させた。

6.終わりに
  宗七は長崎人男子には珍しい豪胆実行型の企業家であったと思う。
  不明の部分を今後も解き明かしたい。