【日本で植物学者にもなったケンペル―それは偶然か】
エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer,1651−1716年)は
稀代の旅行家である。17世紀後半とは言え、ヨーロッパの版図を
超えて旅するのは容易なことではなかった。
【略歴】
 ハンザ都市レムゴーに生まれたケンペルは、1680年に故郷を去り
ケーニヒスベルグで学生生活の最後の1年を過ごす。後にダンツィヒ
を経由し、スウェーデンのウプサラに行き、リンネの師の一人でもある
オロフ・ルドベックの知遇を得、さらにストックホルムに行き、そこで
国王カール11世がペルシャ王に対して派遣した使節団の秘書官に
任じられた。使節団は1683年3月に出発し、途中モスクワの宮廷を
表敬訪問した。さらにアストラファン、バクーなどを経由し、84年3月に
イスファハンの王宮に到着した。
 到着後、インド(東インド)への旅行を渇望し、同年12月にオランダ
東インド会社に採用され、1685年11月にイスファハンを出発、12月に
ホルムズ海峡沿岸のバンダル・アッバースに到り、1688年6月に
そこを出航、インドのツチコリン、コーチン、セイロンを経て、1689年
10月にバタヴィアに到着した。
 1690年5月バタヴィアでワームストローム号に乗船し、シャムを
経由し、9月24日に長崎に到着した。
 上陸後は大半を出島で過ごした。1691年2月13日に最初の江戸
参府に出発する。3月13日に江戸に到着し、3月29日に将軍綱吉に
拝謁した。4月5日江戸を出発し、5月7日に長崎に帰着した。
 1692年3月2日、2度目の江戸参府に出発する。3月31日に江戸に
到着、4月21日および24日(別れの拝謁)に将軍に拝謁し、4月27日に
江戸を出発し、5月21日に長崎に帰着した。
 1692年10月29日にパンプス号に乗船した。同船は1693年10月に
バタヴィアを経由してオランダのアムステルダムに到着した。
 1694年にライデン大学から博士号(論文主査はCharles Drelincourt
1633−1697年)を授与され、のちに故国ドイツに戻り、リッペ伯領の
シュタインホーフに住み、1698年にリッペ伯の侍医に任じられる。
1700年11月18日に結婚。1716年11月2日に亡くなった。
【廻国奇観】
 ケンペルは、紀行記録や旅行で収集した資料・標本の分析成果を
1712年に纏めてレムゴーで出版した。その題名は、Amoenitatum
Exoticarum Politico- Physico-Medicarumで、Henrik Wilhem Meyer
出版した。Amoenitatum Exoticarumは“ 異国の魅力あるもの”あるいは
“異国の興味深いもの” の意味、Politico-Physico|-Meducarumは、
“国家上の、自然上の、医薬上”の意味である。日本では「廻国奇観」
と訳される。
【第5部  日本の植物】
「廻国奇観」中、一国産の植物を網羅したのはケンペルが踏査した
なかでは日本だけだった。なぜ日本では植物学者になったのだろう。
その理由を考えてみたい。