◍はじめににはじめにはじめに

1855年(安政2年)長崎に海軍伝習所が開設され

オランダ海軍将校を教官として1859年まで3年半にわたり幕臣、諸藩士、長崎地役人など

数百人に、航海術、造船、砲術、天測、数学、蒸気機関、医学等教育が行われた。

伝習は、どのように行われその後の日本の科学技術・医学近代化にどのような役割を果たしたのだろうか。

◍設立まで設立まで

1852 嘉永5 オランダは、別段風説書で、ペリー来航予告情報を幕府に入れた

1853 嘉永6 長崎奉行 水野筑後守は、西洋軍艦について質問

1854 嘉永7 オランダ ファビウス中佐の意見書を、長崎奉行に提出

 ()洋式海軍を創設する好機

 ()帆船軍艦の時代は終わり、蒸気船の時代

 ()世界は鉄船の方向

 ()造船所と造機工場のことも知っておく必要

 ()養成には学校がよい

 ()オランダの援助を受けるには日蘭両国間条約が必要

これを受けた水野忠徳の基本構想

 ()軍艦と商船はスクリュー式コルベット艦

   スクリュー式蒸気船の注文に改める

 (2)長崎に海軍伝習所を開き、オランダ海軍

   教師団を招聘する

 (3)オランダ語学校設立案は採用せず、伝習所

 の授業は通訳を介して行う

 (4)留学案は採用しない

 幕閣の決裁

 水野の構想に全面的に賛成 

◍幕府を取り巻く環境

海外列強の東洋進出

 ・ロシア、イギリスの来航

 ・オランダ 開国を勧める国書

  1844年 オランダ使節コープス

 ・ペリー来航(1853年)

◍伝習所開所

 18551期伝習(安政210月~4年2月16か月)

 教師団  団長 ベルス・ライケン大尉 

 教師人数22名

 伝習所総督  永井玄蕃頭尚志 (目付)

 当面目的  スンビン号(観光丸 定員100名) 

  臨丸(定員85)、朝陽丸(定員85名)

  (オランダに建造を注文中

 3艦の定員は270名になるが、一時に養成は大変

 なの、基幹要員だけを教育する

伝習生

幕府

 艦長要員 3名 永持亨二郎 矢田堀景蔵 勝 麟太郎

 一等  1名 下曽根次郎助 

 士官要員 19 鉄砲方、浦賀奉行、天文方(小野友五郎)、長崎奉行

 下士官要員 11名 浦賀奉行、長崎奉行

 海兵隊要員 15名 鉄砲方、浦賀奉行、長崎奉行

 小計 49名

 兵要員   60名 

 員外聴講生  23名

各藩>   129名(佐賀藩が多い 中牟田倉之助 田中 久重) 

◍伝習の内容

①主な授業科目

  航海術、運用術、造船、砲術、船具運用・天測実技、数学、蒸気機関等

 ほかに、銃砲調練、鼓手の訓練も行われた

 ②授業の進め方

   伝習は、オランダ語で行われ、オランダ通詞が通訳した

  伝習掛通弁 15名(西吉十郎、本木昌造、楢林榮左衛門、志筑禎之助他)

任命された

 ③時間割

   日曜日を除いて毎日。午前・午後3科目ずつ。1科目1時間~1時間半

 ④場所

   座学 長崎奉行 西役所内 (別棟の大広間

   実技 大波止沖に停船する観光丸(伝習生は自作の短艇(スループ)

大波止船を往復

 修了時 観光丸で、日本人だけで23日間かけて品川まで航海(艦長 矢田部 景蔵

◍第2期伝習(安政4年1月~安政5年5月 約16か月)

 目的 第1期の補充、長崎地役人の本格的海事訓練

背景 蒸気機関方が人数、能力とも不足していると判断し

  日本側の一存で実施を決めた

 新たに開港する箱館奉行、新潟奉行、浦賀奉行

  海防・沿岸警備訓練が必要

伝習生の構成

  <幕府> 江戸より派遣 幕臣  4名 伊沢 金吾 榎本 釜次郎

     遠国奉行 4名(浦賀、新潟、箱館)

     江川太郎左衛門組  4名 肥田 浜五郎 

   長崎地役人番方   67名

   長崎代官   13名 高木 作右衛門

   瀬崎米蔵組   8名

     100名

  <各藩>   数十名

第2期

長崎地役人について

現地採用の役人で、身分は町人。もともと商務的仕事が中心だったが、番方や代官の

ような、本来 武士の役割のことまで、代行していた。

 「白帆注進」(長崎新聞社刊)によれば、第1期伝習には、地役人が十数名参加し、海軍

伝習の手伝い(援助者)の役割ながら、伝習も行うことを期待され、実際同じカリキュラム

であった。

 勝麟太郎は地役人伝習生を町人として無視し、「海軍歴史」の中で伝習生名簿にも入

れていない。

佐賀藩ついて

 佐賀藩は、福岡藩と隔年で長崎の海防を担当。幕府と同時期に、コルベット艦一隻をオランダに

発注しており、乗組員を養成する必要があったので、積極的に伝習に参加。

 藩主鍋島直正が、鉄砲、造機、造船のための人材を日本全国から集め、伝習生として繰り返し

出席させた。このこともあって、伝習生の粒がそろい、層が厚かった。(伝習生100名超他に水夫40名)

各藩からの伝習生 3期合計人数(幕府に願い出て参加

 福岡藩 38名 鹿児島藩 25名 萩藩  15名 熊本藩 6名 

福山藩 4名 津藩  14名  掛川藩 1名 田原藩 1名
◍第3期伝習(安政4年9月~安政6年4月 約18か月)
 教師団 団長 カッテンディケ大尉 (教師団 37名) 

   な教師  軍医 ポンペ・ファン・メーデルフォールト

   機関士官 ハルデス

 伝習所総督 木村図書頭喜毅

 目的 年少者の士官入門教育 

 幕府伝習生 34名(赤松 大三郎 沢太郎左衛門 松本 良順)

 に各藩、長崎地役人

 主な授業科目

  航海術、運用術、造船、砲術、船具運用・天測実技、数学、物理学

 蒸気機関、化学、解剖学と包帯術、海兵の訓練と座学、銃隊の訓練、

 このほかに、日本人が知りたがっている、乗馬、印刷技術等を科目に入れた

 伝習内容の特徴

 (1)近海巡航

  安政5年2月 咸臨丸で長崎湾の内外で乗艦実習 ・2月 五島経由対馬 

 ・3月 平戸下関鹿児島長崎 ・4月 天草 ・5月 鹿児島

 ・10月 エド号(朝陽丸)と咸臨丸で平戸・福岡

 ・11月 朝陽丸と電流丸で伊王島沖

 (2)機関士官ハルデスによる機関教育と工場建設

 (3)軍医ポンペによる医学教育と養生所の設立

 カッテンデイケの感想

  彼らは4年半の間に、外国人の助力を借りずともやっていけると思うまでに上達したの

驚嘆せずにいられない。

  安政6年 長崎海軍伝習所閉鎖予告

 師団帰国
◍海軍伝習が残したもの

 【海軍伝習が残したもの-海軍】

 (1)幕府海軍のその後

 永井玄蕃頭は、1期生と観光丸を率いて江戸に帰り、築地の講武所の中に軍艦

 教授所を開き、伝習所卒業の日本人を教師とする海軍教育を開始。

 幕府の考え方 長崎は江戸から離れすぎており、費用もかかりすぎる。

   軍事操練所→軍艦所→海軍所

 (2)内戦

 (3)明治海軍

明治海軍の操練所、兵学寮は、伝習所・操練所出身者を幹部として発足し、英国

 軍式教育が行われた

 明治20年海軍省は「士官学術検査」を行って旧式士官を「ふるい」にかけた。

   将官以上に進んだ人材 肥田浜五郎 榎本武揚 赤松大三郎 中牟田倉之助

まとめ

(1)19世紀半ば、世界各国の海軍技術革命から間がないこの時期に

  オランダから伝習を受けたことにより世界の動向、水準を理解しながら

  海軍の整備を進めることができた。

(2)日本人として、日本の国を守るという「ネイション」の意識が、伝習生

  その周辺に生まれた

 カッテンディケ「海軍伝習所の日々」日本人には、祖国防衛のために力

  合わせなければならないという、義務の観念が薄い

1860年安政7咸臨丸の遠洋航海

 日米通商条約批准のために外交使節が米国軍艦ボーハタン号に乗って米国に行くことになった。

 日本艦をこれに随伴させると国威発揚の好機会であり、乗組員にも自信を持たせることができると判 

 断し実行

 ジョン M ブルック等 米国海軍軍人11名が同乗この航海で、海軍伝習所修了生、中でも小野

 五郎、肥田浜五郎の活躍は目覚ましく、難所とされる冬の太平洋航海を無事乗り切った。

【海軍伝習が残したもの-造船・造機工業】

機関士官ハルデスによる機関教育と工場建設

 ハルデスは、飽の浦に修船のための工場(長崎鎔鉄所)を建設したが、建設に当たりながら、造機・運転の両方を、基礎ら教えた。1860年に完成し、長崎製鉄所と改称され

これが三菱造船所飽の浦工場の創始となった

長崎製鉄所の概要

  着工1857年

 完工1861年

 面積3840坪

 作業鍛冶場、工作場、溶鉄場

幕府は長崎製鉄所の他に、横須賀製鉄所、横浜製鉄所、石川島造船所を建設、これらの施設に長崎伝習所出身者が配置され、長崎は、技術、人材の面で日本の近代重工業の原点となった

明治になって、官営となったが、西南戦争後の財政再建のため、長崎、横浜、石川島を民間に払い下げ、横須賀は軍艦用の海軍工廠として、政府が保持した。(長崎の三菱社への払い下げは、明治20年)

<まとめ>とめ伝

三菱長崎造船所

三菱長崎造船所は、創業以来、三菱重工業の最重要事業所として、また、日本の造船・重機工業の中核として、

輝かしい実績をあげてきた。

1956(昭和31)年 単一造船所として、年間進水量世界第1

1972(昭和47)年 香焼工場100万重量トンドック完成 船舶建造

  能力世界一(年間240万総トン

その後、造船不況、円高、海外メーカーの追い上げ等経営環境が大きく変わる中、経営多角化、技術革新をはかり、

現在も、三菱重工の基幹事業所として、グローバルに事業を展開している。

三菱重工では、創業(1857年)から150年経った2007年に、盛大に記念行事が行われ、あわせて

長崎造船所 150年史」が刊行された。

【海軍伝習が残したもの-医学】

ポンペ

 1829年生まれ。1846年~1849年陸軍医学校

 1856年カッテンデイケに選ばれて、海軍伝習隊員の保健管理のための医員となる

 長崎オランダ商館医ブルックの後任として、商館医も兼ねる

 1857年 安政4年 医学伝習開始 幕府が派遣した松本良順に協力をしてもらう 

 伝習生 14名

 授業時間 午前 1時間半→2時間

 午後 1時間半→2時間

 科目  物理学、化学、包帯学、系統解剖学

  理学、病理学、病理治療学、調剤学、内科学

  科学、眼科学

 場所  西役所の一室を使用

 指導  西洋医学を、初めて系統的に教えた

 1858年 安政5 長崎でコレラ大流行→西洋式病院設立の必要性を提言

 1861年 文久元 小島養生所、医学所

まとめ>

ポンペの考え方

 医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ

  もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

ポンペの教え子たちの活躍

 松本 良順 医学所頭取

 佐藤 尚中 順天堂と大学東校(東大医学部の前身)を主宰

 岩佐 純 ドイツ医学を導入

 緒方 惟準  大坂医学校開設

 長与 専斎  衛生医療行政を創始

 教え子たちによって西洋医学が定着したので、西洋医学教育の父と称される。

海軍伝習が残したもの-鉄道

 明治政府が養成した鉄道技術者が育つまで、長崎海軍伝習所出身者が中心なって推進

■海軍伝習が残したもの-天文台・気象

  柳 楢悦 天文・気象の必要性を力説し、明治7年海軍観象所を完成させ

諸外国を参考に観象台の測天・測候の能力を高めた。

 塚本明毅 太陽暦への改暦推進。天文台の設置推進。 

■海軍伝習が残したもの-灯台

 佐野常民 明治政府工部省灯台頭となって、灯台建設を進めた。 

■海軍伝習が残したもの-数学教育

 、小野が明治初期の数学教育をリードした。 

◍全体のまとめ

長崎海軍伝習所は、オランダが江戸時代の日本に残した最大の文化的遺産であった。

 ■オランダ側教師と日本側伝習生の接触の多さと質の高さ

  教師団 60人超 (優秀で熱意・使命感を持つ)

   伝習生 数百人 (箱館から鹿児島・長崎まで全国から集まった幕府役人、藩士、

地役人等の優秀な人材が懸命に取り組んだ。)

 

 ■近代的科学技術・医学を先進国から大きく遅れないタイミングで、組織的、

 体系的に学ぶことができ、その後の発展の基礎知識となった。

  長崎は、近代日本における造船・重工業と西洋医学教育の発祥の地となった。