要旨
幕末に長崎奉行所で与力・手附を勤めたわたしの曾祖父大井三郎助の話を紹介させて頂いたの
2006年7月の例会でした。2008年11月二は長崎文献社から『幕臣サブロスキー』を出版しました。
それから4年経ちましたが、色々と思いがけない新発見がありました。今日はその主なものを八つの
話題にまとめてご紹介します。
話題 @
『幕臣サブロスキー』を国立公文書館の氏家幹人さんに献呈。お返しに頂いたご著書によって
話は一挙にサブロスキーの曾祖父まで遡る。名著「小石川御家人物語」により吉宗隠退の延享2年
(1745)へ飛び29年間の御徒大井家の日常生活がよみがえった。
官府御沙汰記 (国立公文書館)
江戸中期の御家人クラスの下級幕臣であった小野直方の日記。延享2年(1745)から安永2年
(1774)に至る29年間に及ぶ詳細な日記。 影絵本 全14巻 (文献出版)
話題 A
昨年10月、新宿区歴史博物館での大田蜀山人の展示会をきっかけに新宿区在住の郷土史家
鈴木貞夫さんを知る。鈴木さんの長年の調査のおかげで牛込の御徒組屋敷に住んでいた御徒の
名前が判明。大井家は六代目門次郎から南御徒町に住んでいたこと、安政2年支配勘定になった
ことから上地として返却したことなどが判った。
鈴木貞夫 「牛込御徒町御徒組屋敷」 (1999)
屋敷渡預絵図証文 (旧幕府引継文書・国立国会図書館)
話題 B
同じく鈴木さんの調査で「官府御沙汰記 」に出てくる大井友右衛門・大井三十郎の本郷丸山の
住居を突き止めることができた。享保10年(1725)に牛込の火災の後、この場所は火除明地
となり、御徒11番組(西丸2番組)の30人の内6人が、この阿部伊勢守の上地(1200坪)
(現在の誠之小学校のがけ下)に引っ越したもの。
屋敷渡預絵図証文 (旧幕府引継文書・国立国会図書館)
話題 C
三郎助初めての長崎赴任の際、家族同伴であった理由が判った。
 老中水野忠邦は、天保の改革(天保12年・1841年)の一環として、とかく悪いうわさのあった
長崎の改革に取り組み、元凶とみられる長崎会所を粛清し、地役人の力を削ぎ江戸の支配を
確立するべく動いた。
一. 高島四郎太夫に係る大獄
一. 奉行所中枢を幕臣属吏で固め、地役人の権限を制限し、身分秩序を正そうとした。
   → 組与力・同心の家内引越切り
   → 奉行一人制だった長崎奉行伊澤政義の在勤の大荒れの三年半
     乙名出役差しとめ、加役金半減
   → 安藤小左衛門 : 長崎の落書
     「あんどんがくらくて長崎真の闇」
天保の改革の揺り返し
天保14年(1843) 閏9月13日 水野罷免される。
弘化2年(1845) 2月21日 水野辞任蟄居となる。
弘化2年(1845) 12月 伊澤政義奉行解任。
弘化2年(1845) 2月 鳥居耀蔵丸亀に流さる。
弘化3年(1846) 7月25日 高島四郎太夫中追放の処分を受ける。
改革が止み、すべてもと(寅年以前)に戻る。
与力・同心差し止め手附出役。
家族は江戸へ帰す。
乙名加役の復活
話題 D
片淵の組屋敷の変遷
本馬貞夫さんからこの絵図を教えて頂かなかったら、全く判らなかった話
出島と同じくらいの広さ(3865坪)の新大工町裏片淵の組屋敷、与力・同心
引越切りのため。しかし5年で取り壊し。
天保13年10月 『御用留』代官高木作右衛門の覚
「御組与力屋敷添地取調申上候書付」
異国船が渡来した非常時に、沢山の人数、御家中の乗馬、荷馬を差置くため、
長崎村片淵郷、馬場郷、中川郷の田畑を考え、村方も差構なしということで、
絵図面を以て、この場所を文化9年に達し置いた。しかる処、このたび長崎奉行所
組与力同心家内引越切を仰せ付けられたので、片淵郷のうち約3000坪を、
これに当てたいとの伊澤美作守の達があり、そのようにしたい。
天保14年閏9月 『御用留』の代官高木作右衛門の覚
「御組与力屋敷添地取調申上候書付」
御奉行所御組与力3人増人仰せ付けられ候に付、新大工町裏手御組屋敷へ
添地下される様仰せ上られ候に付、わたし支配所の片淵郷耕地のうち、およそ
620坪余をそれに当てたい。とあり。
田合高2石2斗5升
此反別1反5畝
長崎村片淵郷内および同村夫婦川郷内
その後の片淵組屋敷跡。乃武館、英語稽古所、維新後は長崎監獄・長崎監獄
片淵分監となった。戦後は原爆病院
話題 E
手附 (与力) とは??
長崎奉行所は2人・1年交代で「霧に包まれた奉行」
奉行の下に直属の部下 (家老、用人、級人など)と幕府差下しの手附(与力)
  ・スタッフの例 (プチャーチン来日の際、国書受領の時の席図)
  ・組織
手附(与力)は足かけ8年から10年、江戸と長崎を交代勤務し、行政の
主導権を継続して維持した。
人事権は長崎奉行にはなく、江戸から(不正を防ぐため)。老中支配。
5人の手附の下に数十人の御役所附、船番、町司という帯刀の地役人が
手足のように補佐。さらに2千人を超える地役人。
本当に小さい政府
 俸給
百俵(約35両に相当)に在勤手当金が70両、引越金50両
地役人と比べると桁違いの薄給。(町年寄680両、阿蘭陀大通詞380両)
 仕事の内容
5人のうち3人は目安方、あとは呈書方、勝手方など
 目安方の役割と仕事
『目安方取扱例書』、『諸事留』、『諸事留目録』、『唐阿蘭陀申渡』および
『犯科帳』などに記載されている。いずれも長崎奉行所文書 (国指定重要文化財)
目安方の仕事の例として』、『諸事留』嘉永2年酉2年7月29日
酉四番船工社2人不法事件 (唐通詞詰所で雪駄を投げつけ逃亡)のあらまし
一、唐通詞年番書付差出す
昨日四番船工社2人私ども詰所に来て修理場に行きたいと言った。今は人数が出切って
いるのでしばらく待つように申聞せたところ、当番のものへ雪駄を投げるなど不正に
及んだ。早速取押え、惣代を呼寄せているうち、逃げた。面体を見届けていたので船主へ
達し名前を取糺した。其の儘差置いては取締向きにも触れ御威光に拘るので至急ご沙汰
を仰付られるよう手続をお尋ねしたい。
一、右に付左の書付唐通詞年番へ大井三郎助相渡
            酉四番船工社
                 許紫刑 (キョシケイ)
                 伝敢使 (フトンサイ)
            同船  惣代一人
右のもの共御用の儀有り候条只今早々御役所へ差出すべく候
七月二十九日
一、右唐人の御役所へ召連れの御役所附早々に手当てするよう当番触頭へ申渡
一、右唐人召連れ来に付連れの御白州へ差出、左の通り御吟味の上入牢を仰付ける。
御白州へ大井三郎助、馬場五郎左衛門相詰。
白州の図面  唐人は筵の上、惣代は薄縁の上
            酉四番船工社
                 許紫刑
                 伝敢使
 其方共の儀昨二十八日通詞詰所へ罷越し、修理場へ参り度趣申出候につき、人数出切
居る間暫時扣居る様に申聞せ候処、場所をも憚らず当番のものへ雪駄投遂け不法に及び逃去よし、
右始末有体に申立てるべし。
吟味中両人とも入牢申付ける。
酉八月三日
一、右許紫刑他一人並び船主惣代共御白州へ召出させ左の通り仰渡
 其方共儀先月二十八日修理場へ罷出度通事詰所へ参り申聞ル処願いの人数出切居る間場所に
問合せ遣すに付、暫時扣居る様通事共申聞を取計方不行届の様に心得違いたし、場所をも憚らず
当番の通事へ雪駄投遂逃去る始末酔狂とも申乍右体不法及ぶ段不届に付国禁下げ札申付ける間
再渡いたし間敷
                                 回船船主   程子延
右の通
許紫刑 伝敢使へ申渡貴方へ預け置間二の門外へ堅く出す間敷
                                          許紫刑
                                          伝敢使
右の者国禁提札仰せ付られ私共へ御預けになられ畏れ奉る。然る上は二の門外に堅く差出し申さず
相慎み措くよう申候。この段御書付御請申候
 酉八月三日              酉四番船  船主   程子延
右御請書の通和解参上申候以上
                      頴川豊十郎
                      湯 雄吉
右酉八月七日宿次便差立候。
裁判権は日本にあるが、唐人への処罰は国禁(再入国禁止)、過料(減額を含む)にとどまる。
話題 F
津田家写真のご婦人
津田仙還暦記念(明治30年)の写真(津田塾大学蔵)に三郎助が写っているのを偶然見つけて
くれたのは高山慶子さんでしたが、最近津田仙の縁者津田道夫さんと知り合い情報が深まり
三郎助の隣に座っているご婦人は津田仙夫人の姉で徳川家達の生母「たけ子」と判りました。
また『御徒方万年記』(内閣文庫)によると津田家と大井家は吉宗の時代からの下級武士御徒
同志で、御徒八番組で牛込南町の組屋敷に住んでいたなど長い付き合いと判明しました。
話題 G
昨年の例会で、「唐蘭船により長崎へ渡来した奇鳥」と題したお話の続き。
三郎助が付添を命ぜられた「紅遁鳥」と磯野直秀先生 : 数々の偶然が繋がり「磯野先生が
亡くなられ、沢山の史料が声を出さずに泣いているかと思います」 (朝日新聞夕刊 2012.10.13)
長崎に渡来した鳥獣の絵図を発見され、長崎と江戸時代へのめりこみ「日本博物誌総合年表」
を完成した磯野線背に惜別。