①長崎氏以前
◍819年 嵯峨天皇は空海の申し出でにより、長崎の金比羅山東南麓から桜馬場一帯に
神宮寺を建てる
◍988年 一条天皇の勅諚により、長崎地方は肥前国の守護職になった大村氏の領地に属す
②長崎氏の時代(1200年頃~1605年の長崎村公領化までの約400年間)
長崎氏の始まりには諸説がある
◍1186年、平重盛の曾孫なる長崎小太郎重綱が源頼朝よりこの地を貰い”鶴城”を居城とした
◍1222年、長崎小太郎が伊豆の国長崎村から来て、城の古址(標高103m)に砦を構える
◍1333年、後醍醐天皇の時代に長崎勘解由左衛門為基が兵乱を避け、この地に来て領した
◍1400年頃、長崎小太郎が下総の佐倉より来て領す
◍この頃、この地方の地下人(丹治氏の一族)が勢いを得て永崎浦に住み、のちに長崎氏と称す
③長崎開港(1571年)前の長崎を取り巻く情勢
◍横瀬浦開港についての大村純忠とイエスズ会の取り決め
1.一定区域をイエスズ会が治め、その区域に異教徒の居住は原則禁止
2.輸入品の関税はなし
3.契約期限は10年間
◍長崎の地名の由来は当時、馬町から県庁へ岬が突き出て「長んか崎」と言われた【古賀十二郎】
森崎の鼻(現県庁)から左右は海水が深く入りこんで、鶴が双翼を広げているようで”鶴の港”と
言い伝えられる(浦上川がくちばし、中島川と大浦川は脚、神崎鼻と女神検疫所はしっぽ)
④キリシタン時代(1567年長崎布教開始~1580年寄進~1587年公領化~1614年禁教令の47年間)習
◍キリスト教の方針に基づき”領民は領主の信仰に従うべし” “神社仏閣の存在は一神教の教理に
反する”と司祭達が圧力をかけ、大村純忠は領民の改宗と神社仏閣の破壊を命じた
◍大村純忠の寄進状の内容
1.長崎村を除く6ヶ町とその周辺・茂木の地域を永久に無償
2.南蛮船の物品輸入税は大村氏が受取り、入港税・碇泊税はイエズス会が受取る
3.寄進地域では、司法権を含むすべての権利はイエズス会に属する
◍江戸時代の長崎行政
長崎奉行 【町】 町年寄(7~8名)――乙名頭取(4名)――乙名(各町1名)――組頭
日行使
【村】 代官――庄屋頭取――庄屋――散使――乙名 組頭
長崎村細使
筆者 山留
庄屋は 長崎、戸町、日見、古賀、茂木、川原、高浜、野母、樺島の各村に置かれた
⑤鎖国の時代(1639年南蛮船入港禁止~1859年長崎・横浜・函館開港までの約220年間)
◍長崎奉行 125代 276年間(1592年~1868年) 1~15年/回
◍出島商館長 159代 218年間(1640年から1858年) 1~14年/回 最大5回
⑥幕末(1853年ペリー来航~1868年明治維新までの15年間)
⑦明治維新~(1868年~)
⑧昭和~(1926年~)
◍桜馬場の我家周辺の歴史
長崎氏の時代 武家屋敷?
江戸時代始め 森田庄屋の農地?
1733年~ 崇福寺(黄檗宗) の分院の天寿庵(長崎街道側は民家)
1791年~明治維新 砲術稽古場(約80年間)
明治41年~昭和8年 長崎県立盲唖学校(25年間) (最近まで校門あり)
昭和8年~ 長崎県の官舎(長崎街道側は一般住宅)
昭和24年~ その一般住宅に佐賀県鳥栖市から吉本家移転
⑨長崎のいろいろ