長崎と野母崎
 
・長崎の人達も頑張ったのでしょうが、その裏方として、長崎港の前線基地として、
 難破、漂流、抜け荷などを監視して来た長崎半島の先端(野母崎=高浜、野母、
 脇岬、椛島)及びその周辺の人たちの力があったのかと思います。
・2005年1月に、長崎市に編入されましたが、過疎化も進み、必ずしも満足の行く
 状況にはない野母崎をご紹介します。


【野母崎の現状】
・長崎市旧市街に近い方から「高浜」「野母」「脇岬」「樺島」で構成。
・長崎半島(野母半島)の先端にあり、長崎市内より、1.5~2°C気温が高い地域。
・野母港は、深い入江にある天然の良港である。その他にも漁港がある。あじ、
 さば、クエ、鯛、はまち、伊勢海老等。
・亜熱帯植物園、脇岬(白い砂浜海岸)、高浜海水浴場(100選)、海の健康村(炭酸泉)、
 古くからの寺社(観音寺、熊野神社等)
・五島灘に面した外海には、端島(軍艦島)が眼前にあり、野母港からクルーズが楽しめる。
・たくさんの年間イベント(水仙祭り、ペーロン、日ノ山・熊野神社祭り、漁協主催の伊勢海老
 祭り等)
・隣接した町(旧三和町)には、蚊焼、川原、為石があり、それぞれの歴史・風土が異なる。
・蚊焼の刃物(長崎のゾリンゲン)、平家落人の川原、遠く男女群島までサンゴ漁に行っていた
 為石の町など
 
【野母崎の歴史】
・白鳳時代(658年、熊野神社創建 670年、烽火を置く⇒日野山、烽火山)  
・白鳳~奈良時代(709年円通寺、観音寺創建)  ・平安時代(871年、日の山神社創建) 
・鎌倉時代(この時期深堀氏の記録が多い)  ・南北朝から室町(この頃から深堀一族の高浜氏
 の記述が多い)  ・南蛮人の渡来(1567年、樺島にイエズス会布教に来島、仏僧3人他300人洗礼) 
・長崎開港と野母崎(1571年~1585年、椛島住民移動)  ・豊臣秀吉の処置(1588年、秀吉、
 深堀氏の領地没収)  ・関ヶ原後(高浜村、野母村は唐津藩主寺澤志摩守領地へ) 
・鎖国まで(1638年、野母村日野山に遠見番所 高浜村、野母村天領へ)
・鎖国以後17世紀  ・18世紀  ・19世紀  ・シーボルト事件  ・明治  ・大正、昭和戦前
・昭和戦後  ・昭和30年代後  ・昭和40年代  ・平成
 
【野母崎の活性化のために】
・温暖な気候と水産資源を使った六次産業化(特徴ある果樹、野菜類=緑竹等の加工商品化、
 水産資源を加工商品化する)
・海の健康村(炭酸泉)、亜熱帯植物園、脇岬・高浜海水浴場、ゴルフコース、沖釣りなど、
 健康観光・教育合宿観光の開発と実践
・長崎より古い歴史の寺社、史跡、眼前の軍艦島クルーズなどを組み合わせた観光開発
・施設、設備の充実(炭酸泉、飲食店の厨房等)