【ケンペル談義】
◍日本植物の最初の紹介者は?
Andreas Cleyer アンドレアス・クライヤー
[1634(寛永11)年、ドイツ-1698(元禄11)年、バダビア]
・軍人だったが薬物に知識があり、後にオランダの東インド会社(VOC)任用され、
軍医病院薬剤師などを経て後重鎮になる)
・1682(天和2)年-1683(天和3)年、出島のOpperhoofd(商館長)に任命、このとき
自身の庭師George Meisterをともない、植物を調査する
・1685(貞享2)年-1686(貞享3)年、再度出島滞在 密輸対策で徳川幕府と対立
・この間の調査、経験による多数の著作がある
◍ケンペル(1651-1716)と日本
・1690(元禄3)年9月31日 来日
・1692(元禄5)年10月26日まで滞在
・2度江戸参府に加わる
・離日後、ジャワ、南アフリカ経由で、1年後ライデン(オランダ)に到着 医学の
学位論文を執筆
・ライデン大学滞在中にヨーロッパ植物の標本を作成(スローン標本HS213)
「日本植物」の記述完成
・ケンペルは日本の植物を研究したパイオニア
・ケンペルは大学で薬学を学んでいた
・広範囲の旅行中、薬用植物その他の有用植物の観察は行ったが、多様性は
日本でのみ研究の対象とした
・来日中幽閉された出島で、秣(まぐさ)を材料に植物を観察し、図化し、特徴を
学んだ
・江戸参府を通じ、日本の文化が植物の多様性と関連することを知った
◍ケンペルの「日本植物」の各項の組み立て
◍ケンペルの時代の植物研究
◍リンネの植物体系
◍「自然の体系」の特徴
◍「植仏種誌」の特徴
◍ケンペルの植物図譜
◍ケンペル標本の同定研究
◍ケンペル植物図研究