【出島と新地、その変遷】
1634 寛永11 出島が築造される(〜36年完成)。眼鏡橋が架けられる。くんちが始まる。
1641 寛永18 オランダ商館が平戸から長崎の出島へ移される。福岡藩が長崎警備につく
(翌年は佐賀藩、以後、例となる)。
1647 正保4 ポルトガル船が来航。諸藩が長崎に蔵屋敷を置く。
1663 寛文3 寛文の大火(57町2900戸を焼失)。出島にイノ蔵(レリー)建設される。
1671 寛文11 長崎奉行所東役所が立山に移転、立山役所となる。
1673 寛文13 出島にロノ蔵(ドールン)建設される。出島に水樋が敷設される。
1678 延宝6 出島橋を板橋から石橋に替える。
1689 元禄2 唐人屋敷(6830坪程)が造成され、中国人を収容する。
1702 元禄15 新地蔵所が造成される。新地橋(木橋)、広場場橋(土橋)が架けられる。
1766 明和3 この頃、商館長カステンスが出島に日時計を設置する。
1785 天明5 俵物方役所を西浜町に置く(寛政12年東築町に移る)。
1786 天明6 出島の脇荷蔵2棟が撤去される。
1798 寛政10 縫物師紅毛人部屋から出火、カビタン部屋をはじめ乙名部屋、通詞部屋、
紅毛人部屋、土蔵などが焼失、遊女部屋やイノ蔵、ロノ蔵、牛小屋などは
焼失を免れる。その後、再建の工事が開始され、カビタン部屋を除いて完成。
出島の道幅が2間半から3間半に改められる。
1804 文化元 新地橋が石橋に改められる。
1808 文化5 出島の庭園の家が再建される。
1809 文化6 出島のカビタン部屋が再建される。
1851 嘉永4 5月、銅座橋を石橋に改める。
1852 嘉永5 浜崎橋を石橋に改める。
1854 安政元 商館医部屋が旧遊女部屋の地に移される。
1858 安政5 出島阿蘭商館廃止され、領事館となる。
1859 安政6 長崎、神奈川、函館が開港される(鎖国が廃止される)。居留地の造成始まる。
1860 万延元 出島の水門の左右が合計で225坪埋立てられ、荷揚場となる。
1861 文久元 出島の荷揚場が幅4間、長さ10間(86坪)延長される。さらに旧水門の南側が
荷改所を設置するため186坪が埋立てられる。
1865 慶応元 俵物役所を産物会所と改める。弁天橋が6月に架けられる。
1866 慶応2 出島、外国人居留地に編入される。
1867 慶応3 出島の南側が長さ129間、平均で幅4間(518坪)埋立てられ、遊歩場となる。
さらに荷改所の南東側が12間四方(144坪)埋立てられ、馬返しとされる。
5月の洪水で浜崎橋(石橋)崩落、その後に木橋で架けられる。
1868 明治元 長崎奉行所西役所に長崎会議所が置かれ、さらに長崎裁判所、長崎府となる。
(同2年、長崎県となる)。鉄橋が架けられる(工費1万6千両)。新地の頭人と蔵主等が
新地を献納する。
1869 明治2 梅香崎橋、出島新橋、新大橋が架けられる。
1870 明治3 新地町が埋立てられる(937坪余)。松枝橋が8月に架けられる。
1879 明治12 この頃、新教教会(出島11番地)が建設される。
1885 明治18 中島川の変流工事が開始される(〜89完成)。
1888 明治21 出島と築町の間約450坪が埋立てられる。
1899 明治32 外国人居留地制が廃止される。
1902 明治35 第2期長崎港湾改良工事が開始され、出島の南側が埋立てられる。
1922 大正11 出島阿蘭商館跡が国の史跡に指定される。
1923 大正12 日華連絡船就航。
1951 昭和26 出島復元事業が始まる。
1954 昭和29 再び出島と築町の間約450坪が開削される。
1996 平成8 史跡「出島阿蘭商館跡」復元計画が策定される。
2001 平成13 出島第T期復元事業が完成。
2006 平成18 出島第U期復元事業が完成。
2010 平成22 出島第V期復元事業が開始される(乙名詰所、表門橋他)