「長崎『身投岬』−占勝閣とその周辺−」
鶴の港と呼ばれる長崎港の西側に位置する岩瀬道の三菱造船所社宅
住んでいました。占勝閣等いろいろな建造物がありますが、現在は関係者
以外立ち入ることができません。昔の写真や現在の写真で、その昔「身投岬」
と呼ばれた向島・岩瀬道を散歩してみましょう。途中で軍艦島の名前の由来と
なった「土佐」にも寄り道してみます。
 
1.場所
 長崎のグラバー園の対岸で、飽の浦と立神の間にあり、岩瀬道バス停の 
 海側にある岬。現在、三菱重工長崎造船所の白亜のビル(本館ビル)が建っている。
 
2.謂われ
 密貿易を行い飽の浦にあった黄金島で磔刑に処せられた伊藤小左衛門が
 寵愛した遊女が、刑場に近い石背洞の岬から身を投げた。里の人は、遊女
 “定家”を哀れみ、「身投岬」と呼ぶようになった。
 
3.建造物
 @ 占勝閣
  八幡神社の地に造船所長社宅として今の約7億円を投じ明治37年に完成した。
  東伏見宮親王が宿泊された際に「占勝閣」と名付けた。孫文が来所の時、
  額を書した。昭和天皇が造船所視察の後、宿泊された。
 A 招魂碑
  戦艦「土佐」の前檣(ほばしら)を譲り受け、殉職者招魂碑主柱とし大正14年に
  建立した。主柱の字は岩崎小彌太の書であった。昭和17年に主柱は石碑となった。
 B 土佐稲荷神社
  大阪土佐藩蔵屋敷とともに岩崎弥太郎に譲り渡され、三菱発祥の地となる。
  長崎造船所の守護神として昭和13年に分祀され、本館ビルの建設に伴い招魂碑の横へ移築された。
 C 泳気鐘
  上部に明り取りの丸窓を持つ水中工事用の鋳鉄製の函で、長崎製鉄所の石垣築造
  に使用された。昭和の初めより招魂碑の近くにあったが、その後異人館や出島に展示され、現在は史料館に展示されている。
 D 貯水池
  工場の飲料水を確保するため、明治後期に飽の浦と向島に6つ作られた。
  向島の貯水池は空襲により損壊したが、戦後復旧した。本館ビル建設に
  伴い取壊された。第二ドック跡と八軒家に受水槽を設置した。
 E 社宅
  明治後期より建設され、北側と南側に30数軒の社宅があった。空襲により
  損壊したため、戦後建て直した。北側向島社宅は武器艤装工場建設のため、
  南側岩瀬道社宅は本館ビル建設のため取り壊された。
 F 向島倶楽部ハウス
  向島・今町・中島・大浦・大草・清和の6地区にあった倶楽部の一つで、クラブ
  ハウスの他にテニスコート・バレーコート・ゴルフ練習場があった。本館ビル建設のために取り壊された。
 G ドック
  明治後期に船舶修理用に作られたドック。身投岬の南側に第三ドックがあり、
  北側に第二ドックがあった。第三ドックは昭和30年代に二度の拡張を行った。
  第二ドックは昭和47年に閉じ、その跡を受水槽とし、上部を資材ヤードとして
  使用している。第二ドックハウスはグラバー園に移築し一般公開している。
 H トンネル
  飽の浦と立神の間の連絡・輸送を容易にするため明治後期に掘削した。
  第一トンネルは拡張し汽車を通した。第二トンネルは昭和初期に実弾検査場と
  なった。昭和16年にできた第四トンネルは戦時中に発電設備などを疎開させたが
  戦後廃止され現在は本館ビルへの入り口の一つとなっている。
 I 構内汽車
  工場への資材運搬と従業員の輸送を行った。大正3年から昭和27年まで飽の浦・
  立神間に定期列車を運行したが、その後バス運行となった。資材運搬用汽車も
  廃止された。
 J 向島岸壁
  大正初期に身投岬先端部の海岸を埋め立て、岸壁築造を行った。飽の浦岸壁は
  ボイラーやエンジンを積載するための岸壁で、向島岸壁は艤装を行うための岸壁で
  ある。
 K 向島桟橋
  大波止からの従業員輸送にあたった通勤船や市営・電鉄交通船の桟橋。香焼工場
  に主要部分がシフトしたため通勤船は廃止された。
 L 岩瀬道窯
  長崎製鉄所で用いる建物用の赤煉瓦や製鉄用の耐火白煉瓦を焼いた窯が二つ、
  第二ドックハウスと隣接社宅付近にあった。占勝閣に残されている秋浦焼もこの窯で焼かれた。
 M 岩瀬道台場
  エトロフ事件が発生した後、長崎に7ヶ所の備場(そなえば)が作られた。フェートン号
  事件の際は古台場・新台場とも守備兵がいなかったが、備場はすぐに兵を配置できた。
  その後佐賀藩や福岡藩が守備をした。