「平野富二と長崎の人たち」
1.出自
正徳3年<1713>から続く町司、矢次家の8代・豊三郎の次男。弘化3年<1846>8月14日、長崎・引地町で
出生。幼名は矢次富次郎。3歳のとき、父と死別。兄・和一郎(重之助、重平、温威)が12歳(実年齢6歳)で
家督相続、奉行所に町司見習として出仕。
2.長崎時代
安政4年<1857>10月、12歳で長崎奉行所隠密方御用書番として出仕。
文久元年<1861>3月、長崎製鉄所の第一期工事が落成し、機関方見習として伝習。
文久3年<1863>4月、機関方となり、製鉄所御用掛・本木昌造の配下となる。
この間、長州藩蔵屋敷居住の吉村庄之助の養子となり、吉村富次郎と改称。
慶応2年<1866>7月、一等機関手となり軍艦「回天」(排水量1678トン)に搭乗。
慶応2年<1866>8月頃、吉村家との養子縁組を解消し、平野富次郎と改称。
慶応3年<1867>3月、土佐藩機械方として25両7人扶持で招聘される。
明治元年<1868>12月、長崎製鉄所第一等機関方として経営陣に加わる。
小菅修船場の運営、立神ドックの開墾、長崎県権大属として長崎県営長崎製鉄所の
幕引きと工部省への引き渡し、このとき26歳。
明治4年<1871>7月、本木昌造の経営する新町活版所に入所。
活版製造を工業化。印刷事業から活版製造事業への転換(新町活字製造所)。東京出張
により、東京進出への足掛かり。
明治5年<1872>、壬申戸籍編成に際し、平野富二と改称。安田こまと結婚して長崎外浦町に別戸を構える。
3.東京時代
明治5年<1872>7月、新妻と長崎新塾活版所の社員8名を率いて東京に進出。長崎新塾出張 活版製造所
を神田和泉町に開設。
明治6年<1873>8月、築地2丁目に移転。活版・印刷機の製造を本格化。
明治9年<1876>、東京築地 活版製造所または平野活版製造所と改称。
明治11年<1878>9月、活版製造所の資産を本木家に返還し、所長を辞任。
明治18年<1885>6月、有限責任 東京築地活版製造所として改組。社長に選任。
明治22年<1889>6月、同社長を辞任して本木小太郎を後任とする。以後、長崎出身者が
社長を務め、昭和13年に経営不振により解散。
明治9年<1876>5月、横浜製鉄所の経営に参画。杉山徳三郎、大浦慶と共同。
明治9年<1876>10月、石川島修船所跡を借用し、石川島平野造船所を設立。設立に当り楠本正隆、松田
源五郎、岩瀬公圃が協力。福澤諭吉と接触。
明治22年<1889>1月、有限責任 東京石川島造船所として改組。常務委員(社長)に選任。
その間、わが国で初めての国産化製品として、民間建造砲艦「鳥海」、大型鉄製橋「吾妻橋」、
浅草凌雲閣の「電動式エレベーター」、京都蹴上水力発電所の「ぺルトン水車」、海軍兵学校
校舎の「蒸気暖房装置」、チャリネ天幕演技場の「大型石油ランプ」、「銀行用大型金庫」等を
納入。
明治26年<1876>10月、株式会社東京石川島造船所として改組、取締役会長として渋沢栄一
が就任。以降、石川島重工株式会社→石川島播磨重工株式会社→株式会社 I H I 。
明治11年<1878>、平野汽船組を設立。これは、東京湾内汽船安全社→東京湾汽船会社→東海汽船株式会社
へと続く。
明治13年<1880>8月、東京風帆船会社の創立発起人となる。
明治14年<1881>2月、函館器械製造所の設立に際し出資。→函館どっく会社。
明治14年<1881>6月、新潟の運輸会社を地元の有力者・荒川太二と共同で設立。
明治15年<1882>1月、ドコビール式鉄軌・運搬車の国内一手販売権を取得。
宮城県への納入、利根川・江戸川連絡私設軽便鉄道計画、品川線(山手線)の大崎・渋谷間
土木工事施工、足尾銅山の鉱石運搬用インクライン敷設、横浜水道鉄管陸揚・運搬、日本鉄道
の東北線各所の土木工事施工、横須賀海軍工廠関連土木工事実施、碓氷馬車鉄道機材納入、
両毛線土木工事。
明治17年<1884>5月、平野土木組を組織。→東京平野土木組→平野鉄軌方。
明治24年<1891>5月、『印刷雑誌』に「平野富二君ノ履歴」が連載。長崎時代の事蹟は西道仙が資料を提供、
福地源一郎が執筆。
明治25年<1892>12月、東京市水道鉄管国産化運動で演説中に脳溢血で倒れる。
葬儀では中村六三郎が親戚総代。谷中の墓石は吉田晩稼が揮毫。享年47歳。