咸臨丸の絆  軍艦奉行木村摂津守喜毅と福沢諭吉の生涯の友情

① 恩人に對する情誼
   木村喜毅と福沢諭吉の関係については、木村の方は、咸臨丸での福沢随行の名目は従僕というもので
   あったが、それはあくまでも名義上のことであって、実際、公務の外では友人として福沢を遇し、寧ろ、
   「福沢先生から世話を蒙ったことが多かった」と感謝の気持ちを家族に語っている。
   他方の福沢諭吉は、咸臨丸に乗船、アメリカに渡れたこと、そして、木村から受けた感謝の気持ちを
   非常に徳として、その恩義に酬いることを一生涯心掛けた。
   木村は、常日頃、人に語って、「人生、真の友を得ることは甚だ難しいが、自分は幸にして二人の友人を
   得ることができた。その一人は岩瀬忠震であり、もう一人は福沢諭吉である」と。
   福沢は、木村に對し終生恰も旧主人に尽くすのと同様の礼を取った。このことは、木村芥舟(喜毅)が
   著わした「三十年史」に福沢が書いた次の「序文」がそのもっとも顕著な例である。
  
   三十年史序
   木村芥舟先生は舊幕府旗下の士にして、摂津守と稱し、時の軍艦奉行たり。即ち我開國の後、徳川
   政府にて新に編製したる海軍の長なり。日本海軍の起源は、安政初年の頃より長崎にて阿蘭人の
   傳ふる所にして、傳習凡そ六七年、學生の技倆も略熟したるに付き、幕議遠洋の渡航を試んとて、軍艦
   咸臨丸を艤装し、摂津守を総督に任じて随行には勝麟太郎(勝安房)以下長崎傳習生を以てし、太平洋
   を絶りて北米桑港に往くことを命じ、江戸湾を解䌫したるは実に安政六年十二月なり。首尾能く彼岸に
   達して滯在數月帰航の途に就き、翌年閏五月を以て日本に安着したり。是れぞ我大日本國の開闢以来、
   自國人の手を以て自國の軍艦を運轉し、遠く外國に渡りたる濫觴にして、此一擧以て我國の名聲を海外
   諸國に鳴らし、自ら九鼎大呂の重を成したるは事実に争ふ可らず。就中木村摂津守の名は、今尚ほ米國
   に於て記録に存し又古老の記憶する処にして、我海軍の歴史に堙没す可らざるものなり。當時諭吉は
   舊中津藩の士族にして、夙に洋學に志し、江戸に来て藩邸内に在りしが、軍艦の遠洋航海を聞き外行の
   念自ら禁ずる能はず、乃ち紹介を求めて軍艦奉行の邸に伺候し、従僕と為りて随行せんことを懇願せしに、
   奉行は唯一面識の下に容易く之を許して、航海の列に加はるを得たり。航海中より彼地に至りて滯在僅々
   數箇月なるも、所見所聞一として新ならざるはなし。多年來西洋の書を讀み理を講じて多少に得たる所の
   其知見も、今や始めて實物接して大に平生の思想に齟齬するものあり、又正しく符合するものありて、之を
   要するに、今度の航海は諭吉が机上の学問を實にしたるものにして、畢生の利益これより大なるはなし。
   而して其利益は即ち木村軍艦奉行知遇の賜にして、終に忘る可らざる所のものなり。芥舟先生は少小より
   文思に富み又経世の識あり、常に筆硯を友として老の到るを知らず。頃日脱稿の三十年史は、近時凡そ
   三十年間我外交の始末に付き、世間に傳ふる所往々誤謬多きを憂ひ、先生が舊幕府の時代より身躬から
   見聞目撃して筆記に存するものを、年月の前後に従ひ順次に編集せられたる實事談なり。近年著書の
   に坊間現はるるもの甚だ多し。其書の多き、隨て誤聞謬傳も亦少なからず。殊に舊政府時代の外交は
   内治に関係すること最も重大にして、我國人の記念に存すべきもの最も多きにも拘らず、今日既に其事実
   を失ふは識者の常に遺憾とする所なりしに、此書一度び世に出でてより、天下後生の史家をして其據る所
   を確實にし、自ら誤り又人を誤るの憂を免かれしむるに足るべし。先生諭吉に序文を命ず。諭吉は年来
   他人の書に序するを好まずして一切その需を謝絶するの例なれども、諭吉の先生に於る一身上の関係
   浅からずして舊恩の忘る可らざるものあり、依て其関係の大概を記して序文に代ふ。
   明治二十四年十月十六日、木村舊軍艦奉行の従僕福澤諭吉誌。
 
② 福澤先生を憶ふ
   福沢諭吉 明治34年(1901)2月3日午後10時15分逝去。享年満66歳。法名大観院独立自尊居士。
 
   福澤先生を憶ふ      木村芥舟
   明治三十四年一月二十五日、予先生を三田の邸に訪ひしは午後一時頃なり。例の通り奥の一間にて先生
   及び夫人と鼎座し、寒喧の挨拶了りて、先生先づ口を開き、此間十六歳の時咸臨丸にて御供したる人来りて
   夕方まで咄しましたと。夫人に向はれ、其名は何かと言ひしと。予、夫れは留蔵ならんといへば、先生、それ
   それ其森田留蔵...夫より談。
   (中略)
   刻を移して、予暇を告げて去らんとすれば、先生猶しばしと引留られしが、やがて玄関まで送り出られたるぞ
   豈知らんや是れ一生の永訣ならんとは。予が辞去の後先生例の散歩を試みられ、黄昏帰邸、初夜寝に
   就れんとする際、発病終に起たれず。哀哉。
   嗚呼先生は我國の聖人なり。其碩徳偉業宇宙に炳琅として、内外幾多の新聞皆口を極めて讃稱し、天下の
   人の熟知する所。予が喋々を要せず。予は唯一箇人として四十余年先生との交際及び先生より受けたる
   親愛思情の一斑を記し、聊か老後の思わ慰め又これを子孫に示さんとするのみ。
   (中略)
   以上記する所は皆予が一身一箇の事にして他人に之を示すべきものにあらず。又これを記すとも、予が
   禿筆、其山よりも高く海よりも深き萬分の一ツをも言ひ盡すこと能はず。又せめては先生の生前に於て予が
   如何に此感泣すべき此感謝すべき熱心と、如何に此欣戴し措かざる哀情とを、具さに言ひも出ずして今日に
   至りたるは、先生これを何かと思はれん抔と、一念ここに及ぶ毎に胸裂け腸砕けて眞に悔恨已む能はざる
   なり (明治三四年三月三日「時事新報」)
 
   木村芥舟
   明治34年12月5日以来風邪に罹り加療中のところ、終に肺炎に変じ危篤に陥った。同12月9日
   「帝国海軍の創設に功労あり」と特旨を以って正五位に叙せられたが、同日夜11時15分長逝。
   享年満71歳。法名芥舟院殿穆如清風大居士。
   菩提所千駄ヶ谷398瑞円寺に埋葬。後、昭和8年12月に赤坂青山墓地に遷墓。