小山秀之進の業績と生涯−その光と影
【国宝大浦天主堂、グラバー邸、リンガー邸、
1) 伝説の人物小山秀之進の業績
・
・国宝大浦天主堂>文久3年(1863)12月請負、元治元年(
・国指定重要文化財グラバー住宅(邸)>文久3年(1863)完
・国指定重要文化財オルト住宅(邸)>文久3年(1863)>
>オルト邸には秀之進が毛筆で書いた建築設計図が展示>
・国指定重要文化財リンガー住宅(邸)>元治元年(1864)グ
>南山手2番地だったため「NIBAN」と>1874年フレデリ
・近年の研究で文久2年(1862)に英国国教会を東山手11番
2) 小山秀之進の長崎進出は兄・北野織部との協力が背景
・
・小山家は大島の有力者の家柄>国民屋(くにたみや)という屋号
・小山秀之進は第5代小山清四郎の8男>文政11年(1828)
・北野織部はこの兄弟の3男で9歳のとき養子で赤崎の北野家へ>
・小山家第5代の清四郎は息子8人いた>長男6代、2男7代、4
・長崎とのパイプは太く国民屋小山商会として拠点をおいていた>
・北野織部は大浦地区の居留地埋め立て大事業を請け負う>安政6
・
3) 大浦天主堂を請負った小山秀之進の取り組み
・安政の開国時に5カ国条約>フランスとの条約の4条に信仰の自
・1863年来日のパリ外国宣教会のフューレ神父は長崎にくると
・1864年1月小山秀之進は大浦天主堂の建築一切を総額112
・同年10月フューレは帰国、プチジャンが引き継ぐ>11月ロカ
・小山秀之進は、契約名義に国民屋当主小山良輔を立て、
>天草では兄芳三郎(7男)が国民屋の持船で釘だけでなく材木も
・小山秀之進は12月に工事中止を申し出る>神父の交代に立腹、
>プチジャンに奉行所役人フランス語教師を依頼>
>奉行所は完成までの職人集めに協力約束>3倍の職人が昼夜突貫
・献金にはナポレオン3世の皇后ウージェニー・
4)小山秀之進はグラバーと高島炭鉱開発>端島(軍艦島)へ
・トーマス・グラバーは1859年21歳で上海から長崎にきて貿
・大浦天主堂を建てる前年の1863年に秀之進はグラバー邸を完
・居留地の舗装道路、階段、側溝を天草石(砂岩)で工事する請負
・明治元年(1868)グラバーの信頼厚く高島炭鉱開発の共同出
・高島は深堀藩所有から佐賀藩へ移り、家臣松林源蔵(綽名・
>明治4年(1871)に政府に移管、
・グラバー破産でボードインに>
・小山秀之進は政府に投資弁済の訴訟を起こすが不調>明治8年(
・独力で天草財界から資金を集めたが失敗>翌年(1876)7月
・明治9年(1876)天草大島へ撤退>三角港、大浦第3小学校
・端島は深堀領としての経営は失敗>後藤、三菱へ>
<世界遺産『グランドスラム』も夢ではない>
@ 大浦天主堂 Aグラバー住宅 B高島炭鉱北渓井坑 C端島(軍艦島)に小山秀之進の業績跡