絵図と史料による唐人屋敷
2015.4.16長崎楽会
大井昇
1.汪鵬『日本砕語』:明和元年(1764)に唐人屋鋪に滞在した浙江省人の記録の紹介
2.寛政12年(1800)の広川獺『長崎見聞録』から「唐人の風俗」と「紅毛人」
3.唐人屋敷の成立の背景
1644 明朝から清朝へ。
1661 清朝、遷界令の発令:沿岸部の無人化
1683 鄭氏政権の降伏により、遷界令の解除: 長崎へ来航する唐船が急増
1685 幕府は貞享令により金銀の流出を防ぐため定高(貿易量)を制限
密貿易の防止
銅の輸出のコントロール
切支丹の取締り。
『長崎諸役所留』 国立公文書館蔵
貞亨五年(1688)7月23日の御奉書
大久保加賀守(老中)から長崎奉行・川口源左衛門殿・山岡十兵衛 「唐人共儀、従来年阿蘭陀人被差置候出嶋のごとく、一囲にいたし差置き可然旨、被思召候。依之松平主殿頭(とのものかみ)松浦肥前守遂相談、存寄可申上由、被仰下候事」
4.数字で見る唐人屋鋪
326年前 開設(元禄2年 1689)
147年前 閉鎖
53年 開設は出島に遅れること
4888人 元禄2年の唐人入居数
5412艘 入港した唐船の数
50→13 本部屋数(慶応4年には3棟)
9374坪 惣坪数(東京ドームの66%)
6874坪 二の門の内部
730m 周囲の全長(竹垣)さらに堀と練塀で三重に囲う。
7尺5寸、厚さ 2尺7寸 練塀のサイズ
高低差 3.5m/33.6m
634貫443匁(銀) 1億570万円 総工費
4万人 毎年売れた遊女の数(元禄ー宝永期)
5.「唐人屋敷図」:現存すると考えられる最古の唐人屋鋪図(図1) 154x108 p
元禄5年―15年(1692−1702)ごろ。長崎歴史文化博物館蔵
特長:50の本部屋(番号なし)、裏門、水堀、伊万里蔵、風呂場など
6.東大史料編纂所蔵の『華人邸舎図』天明2年(1782)原図;類似の絵図あり。
7.「唐人屋鋪図」宝永4年―享保5年ごろ(1708−1720)神戸市立美術館蔵 池永孟コレクション
特長;本部屋は一から五十までの50、水道、天草代官屋敷、伊万里定店
8.「唐人屋鋪」
享保9−元文元年(1724−1736)ごろ 福田文庫、長崎歴史文化博物館蔵
特長;本部屋はイからテまでの35、番所は5カ所、二の門の外に牢屋、新裏門
9.享保21年(元文元年)(1736)の大工事
元文元年唐人屋敷南方裏手ノ畑地597坪余唐館構ノ内ニ加ヘ入、部屋数建添シム。
同上: 天后堂(南京人による)、観音堂(主として福建省人による)の出現
平成7−8年度(1995−6)の埋蔵文化財発掘調査での1号堀と2号堀の発見
10.田辺八右衛門茂啓『長崎実録大成』の「唐人屋鋪」スケッチ図(明和7年(1770)以前)本部屋は20、市店が出てくる。107
11.長崎勝山町冨嶋屋文治衛門板の木版画「唐人屋鋪景」安永9年(1780)
古河市歴史博物館、鷹見コレクション、長崎歴史博物館蔵、神戸市立博物館蔵の3種鷹見図には人は描かれていない。本部屋は13(1番―13番)
12.天明4年(1784)7月24日に大火災:唐人屋敷の歴史上もっとも大きな出来事で天后堂を除くすべてが灰燼となった。
13.『長崎役所図』「唐人屋鋪」西尾市岩瀬文庫蔵 天明5年(1785)ごろ。土神堂、観音堂は未だ修復されていない。
14.『長崎諸役所建物絵図』「唐人屋鋪」東京大学史料編纂所蔵(図2)
天明7−寛政3年(1785−1791)ごろ、13の本部屋、3つの祈堂、市店など建屋の構成は幕末までほとんど変わらない。
15.『長崎諸役所絵図』「唐人屋鋪」 長崎歴史文化博物館蔵 嘉永7−安政3年(1854−1856)ごろ 本部屋数は6に減る。大村勤番所と台場(文政3年(1820))
これ以後の絵図は見出されていない。
16. おわりに
1.市指定史跡である土神堂、天后堂、観音堂が往時の面影を伝えており、水堀(仁田川)、カラ堀と道路と石垣などの地形は、当時の景観をよくとどめており、素晴らしい歴史的遺物と思われる。
2.建設中の中央を貫く道路、新しくできた大門、広馬場はぶちこわし。
3.中国側からの史料の発掘が望まれる。汪鵬の『袖海編』が唯一?長崎を舞台としての日中交流としての中国側の関心の喚起 (国際シンポジューム?)。
4.もっともっといろいろな発見がある筈と思う。
5.唐人の日本に与えたインパクトを考えると出島と同等あるいはそれ以上の取扱を受ける価値は十分にある。国の特別史跡に指定されるべきと思う。
参考資料
関西大学東西学術研究所資料集『長崎唐館図集成』(2003)
『唐通事会所日録』1−7 大日本近世史料、東京大学史料編纂所(1960)
『唐人番日記』『海色』 国会図書館デジタルコレクション
田辺八右衛門茂啓『長崎実録大成』