崎楽会 「消えたもう一つの『原爆ドーム』」

                             

<概要>

広島にある原爆ドームは、被爆の象徴的建造物として世界遺産にも指定されている。一方、

もう一つの被爆地、長崎には「原爆ドーム」に相当する象徴的なモニュメントがない。

だが、長崎にもかつて「原爆ドーム」と並ぶ、あるいはそれ以上の意味をもつ「建造物」が

残されていた。爆心地から北東500メートルにあった旧浦上天主堂」の遺壁だ。

戦後、長崎市長の諮問機関は、9回に渡って保存すべしと答申。市長も保存の方向で検討を

進めていた。しかし、ある時期を境に、市長は「保存」から「撤去」へと方針を転換。

1958年(昭和33年)に取り壊され、その後新しい天主堂が建てられた。それが現在の天主堂の

建物だ。

しかし、これによって、長崎は、広島のような、被爆を象徴する遺構、「歴史の証人」を永久に

失ってしまった。同じ被爆都市にもかかわらず、長崎の印象は、広島に比べて弱いと言われる。

二番目の被爆地ということが原因の一つであることは否定できないが、広島のような「アイコン」

とも言うべきモニュメントの不在も影響している可能性を否定できない。もし、長崎に浦上天主堂の

原爆遺構が残されていたらどうだったろうか。そこが宗教施設だっただけに、広島とはまた違う

メッセージを放つことができたのではないだろうか。

天主堂の遺構の撤去の裏に何があったのか。取材を通して浮かび上がったのは、戦後のアメリカ

の安全保障戦略の一端だった。

 

◆浦上天主堂

・現在の天主堂は、1959年の完成。それまでは、旧浦上天主堂

・高さ25メートルの双塔の鐘楼を持つ、東洋一の大きさの教会だった。

・着工は1895年(明治28年)→完成したのは1925年(大正14年)

・浦上天主堂は、江戸時代の庄屋高谷家の土地の上に建造 「絵踏み」の場所

・浦上は、250年近く、キリシタン弾圧に耐えた村

 

◆原爆投下 

194589112分  爆心地の500メートル上空 

  米軍のB29「ボックス・カー」が投下

・その年の12月までに約74000人が死亡

浦上の信徒15000人のうち8500人が死亡したとされる(正確には実数不明)

 

◆戦後

・浦上天主堂は瓦解したが、正面の壁と側壁が残された  

・その風景は、荒涼としたなかに、厳粛なものを感じさせるものだった。

・戦後信者たちは、仮聖堂でミサなどを行っていた。

・市長の諮問機関「原爆資料保存委員会」が昭和24年から毎年保存を求める答申

・長崎市長・田川務氏も同意 

遺構は、市と教会側の話し合いで保存する方向で進められていた。

・壁の補強を県の有名な技師に依頼  技師の証言がある

「田川市長は、ぜひあれを残さんばいかん。ところが原爆のあとの戦災復興では

 市はとても手が回らんから県の方で加勢してくれ、と」

・長崎県の著名な技師が実測図を作り、鉄筋コンクリートで補強する構造の設計図も市に提供  

市長は喜んでいた。ところが。。。。。

 

◆「保存」から「撤去」へ―――姉妹都市提携から始まった

・市長はあることを境に考えを変える

・きっかけはアメリカ・セントポール市との姉妹都市提携 1955

・姉妹都市提携の話は、セントポールから持ち込まれた

1024日の国連デーに姉妹都市提携を  その日に招待

・しかし市長はその年には行かず、翌年の夏に渡米する

19568月から9月にかけて全米視察

  セントポール、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、

  ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ    通訳を連れて2人で

・帰国後、田川市長 天主堂遺構の「保存」→「「撤去」

19582月長崎市臨時市議会で激しい議論

・岩口夏夫議員

「遺構がその時代を語り、歴史を教え、新しい時代へり警告を発するところに、

 私はすべての遺蹟の価値があると考える。この廃墟の瓦壁は、二十世紀の戦争の

 愚かさを表象する犠牲の瓦壁である。万金を惜しまずして保存すべきです」

・田川市長の答弁

この資料をもってしては原爆の悲惨を証明すべき資料には絶対にならない。

 のみならず平和を守るために必要不可欠の品物ではないという観点に立って

 将来といえども多額の市費を投じてこれを残すという考えは持っておりません。

 むしろああいったものは、取り払った方が永遠の平和を守るという考えを持って

 いる方も数多くいるのではないかと思うのであります」

・岩口議員は、「市長は中学生波の答弁しかできなかった。その豹変ぶりはアメリカで

  何かあったとしか思えない」と語った。

 

◆アメリカにあった謎を解くヒント

・国立公文書館へ  敷居が高くない  サービスもいい

・ワシントン国立公文書館、セントポール市図書館などで資料入手

1955年に、セントポールに行かなかったのは、

  渡航費用の問題が大きかったようだ  ドルの準備高が不足

  長崎市も財政難

・国務省から駐日米大使館宛てに出された通達電文

「田川市長が提携の式典に出られない。そのため、国務省から正式な招待状が送られれば政府が

許可を下すことができるのではないか。そういう提案がセントポール市長からUSIAに送られてきた」

・USIA=アメリカ広報・文化交流庁

・人的、文化的交流により親米派を増やすための外交戦略を担当する機関

ここが田川務市長渡米に介在している可能性があることがわかった

 

◆教会の動き

・戦後は仮聖堂でミサ  天主堂再建委員会ができた

・再建には6000万円かかる  信徒の寄付を集めても3000万円

・資金集めのために、山口愛次郎司教が渡米することに

 19555月から562月まで  10か月間  米国、カナダの教会回る

551211日付けの「セントポール・サンデー・エクスプレス」の記事

「長崎とセントポールが姉妹都市関係を結んだことにより、再建プロジェクトを進め、残りの爆破の

傷跡を消し去ることを望んでいる」とコメント

・この教会側の考えの枠内で、田川市長渡米も仕切り直しされた可能性もある

 

◆アメリカの影

・国務省関連の電などから垣間見えた

米国国務省関連機関USIA(米国広報・文化交流庁)の介在

・渡米した田川長崎市長、山口司教の米国での発言と動き  重なる渡米時期    

・田川市長渡米では、NYとワシントンで国務省関係者が出迎え

・しかし、どういう人と会い、どこに行ったかは、報告されていない

  他の都市では、それが報告されている

 

◆パブリック・ディプロマシー

・広島とフィラデルフィアの姉妹都市提携も長崎と同時期に進行

・都市間の交流促進は、戦後、アメリカの外交政策の一環として活発に展開

・人の交流を進め、生活や文化を知らしめて、アメリカの国益と安全保障を高める

 

◆アメリカの政策転換とビキニ事件(第五福竜丸事件)

・戦後のソ連との核開発競争が背景に  危機感と軍事的封じ込め政策に限界

53年核の平和利用政策「アトムズ・フォー・ピース」  国連総会で演説

  原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進める

・アイゼンハワーが同じ53年に作ったのが「USIA

・この時期、ビキニ核実験が5431日に起きる

・原水爆禁止運動が盛り上がる  それに対する「原子力平和利用」キャンペーン

 

◆目障りだった浦上天主堂

・米ソ冷戦下の米国核戦略にとって、被爆遺構は目障りなものとして映った可能性も

・キリスト教の国が、日本で最も敬虔な信者の住む町に投下したこと

・原爆投下は「神のご摂理」  永井隆・長崎大学医学部医師、原子野の聖者
・米国の“やましさ”を消し去る発言をした

  永井氏の著作は、米国が優先して出版を許可した

・田川市長は、教会の中島万利神父と、天主堂保存の方向でよく話をしていた

 「廃墟を残したかったのです。しかし最終的には山口大司教に決定権」とある神父

・再建のために廃墟の撤去が決まったあと、中島神父は

「こんなガラクタはいらない。そんなものにしがみついて。ほしければ市にやって

 しまえ」「こんな壊れたものは壊せ」と信者に向かって言った

・ある神父によれば、「それは、遺すべき、遺してもいいのではないかという

 信者からの批判に対して、山口大司教の責を負う形で言った可能性がある」

 

◆遺構保存の意味と遺構の役割

・原爆遺構は、時とともに大きな意味と価値を持つ

・被爆者の減少 直接体験を伝え、聞く機会の喪失

・視覚化された遺構が醸し出すイメージの重要性 想像の足がかり

・町が復興するとともに遺構は周囲とズレ ギャップが生みだす違和感

19625月のアメリカの雑誌「TIME」  広島と長崎の二つの都市を比較

 「広島は、世界で唯一、過去の不幸を宣伝している

長崎には89日の面影を感じさせるものはほとんどない。

原爆反対のデモ隊が訪れたこともない。長崎は日本でも有数の国際的な

都市としての地位を築いた。長崎は今を生きる強い決心がある」とまで書いた

  モニュメントを失った長崎は、米国から見れば御しやすい都市と映った