静岡市清水区に所在する平戸藩(松浦家)の史跡

―江浄寺の「恋塚」―

 

はじめに

 寛永元年(1624)、東海道江尻宿(駿河国)で肥前平戸藩主・松浦隆信(宗陽)の弟、松浦源太郎信清が自害した。

その理由は、兄が平戸にいる自分の許嫁(大村喜前の娘)を側室にすると聞き、秘かに江戸を抜け出して兄の

行列に追い着いた。対面を願い出たが、側近の家臣に拒まれた。無断で江戸を離れたことは藩(家)取り潰しに

つながると言われ、江浄寺で切腹させられた。信清を弔うために墓が建立された。これが「恋塚」である。

 現在、江浄寺では松平信康の墓に次ぐ観光名所の扱いで、願い事は何でも叶うパワー・スポットとなりつつある。

ただ、言い伝え的な要素が強い状況なので、史実を各種の史資料、特に平戸藩(松浦史料博物館所蔵)から見て

行きたいと思う。

 なお、本史跡の存在を知ったのは本年8月である。あくまでも現時点での報告であり、将来的に解釈が変化する

可能性もある。

 

1、静岡市の動向

A 静岡市歴史文化課職員の話

嘉永7年(1854のいわゆる安政東海地震で松浦成清の墓が破損したため、江浄寺が松浦家に対して供養料の

寄附を求めるものが唯一残っている。

 ※未だ実見していない。松浦家側には対応する史料は存在はない。

B 『江尻町誌』巻二(1913年)

  江浄寺

 〜境内に肥前松浦侯第一代の祖か当町本陣に於て薨せしを葬りたる

  松浦源太郎の墓

 江浄寺に在り、駿河記に曰く

 法謚、松源院殿法岸宗鉄大信士

   寛永元年五月廿四日 於二当寺一生害時年廿五

C 『駿河記』(臨川書店、1974年復刻)

 松浦源太郎の墓 法謚、松源院殿法岸宗鉄大信士

         寛永元年五月廿四日 於二当寺一生害時年廿五

D 江浄寺のイベント(『浄土宗新聞』20019月:同HPより)

  *東海道400年祭参加創作劇「江尻本陣 江浄寺恋物語り」

  (静岡県清水市桜が丘7ー@・清水市民文化会館中ホール)

  日時=9月3日、午後2時と午後6時からの2回。

  江戸時代まで江浄寺境内にあった「恋塚」に伝わる悲恋の物語。鶴谷俊昭住職により   

  『哀しみの恋塚』松浦源太郎成清と春姫という冊子にまとめられた。「他者を思いや

  る美しい心(布施の精神)を一人でも多くの方に伝えたい」と住職。東海道400年

  祭を記念して「劇団・清見潟」により物語の演劇が。

 

∴静岡市(旧清水氏)には、自害した事実、墓の存在は知られている。ただし、なぜ自害に至った経緯を示す史料は 

 確認できなかった。口承としてきたのであろうか。

  江浄寺住職は「恋塚」を調査し、松浦史料博物館を訪れている。イベントを行い、10年程前に石碑の新築を実施した。

 

2、大村の動向

A 大村市立史料館 

 関連する史料はなしとの返答

B 勝田直子「大村家縁組今昔」『肥前大村』第二号(肥前を探る会、1992年)

  慶長十五年(1619)頃大村の喜前の二女松浦家に嫁す。

  大村側資料は「松浦壱岐守隆信室」としているが、隆信宗陽の正室は、上野大胡藩二

  万石譜代の牧野廉成女である。大村家との縁組は、喜前の女の年齢から推察して1610

  年頃と思われ、その後江戸屋敷の設置、参勤交代制の実施で江戸の正室を迎えたもの

  か。

∴大村では事件の存在が知られていないようである。勝田氏のまとめもあいまいな表現である。

 

3 平戸の動向  

A 松浦史料博物館編『史都平戸 ー年表と史談ー』(1962年初版)

 「松浦家本家系図」の「信清」に「松浦豊後守養子駿州江尻にて自害」とある。

B 西 福保「史跡探訪記(最教寺周辺)」『平戸史談』第十号(平戸史談会、1975年)

 単なる探訪記ではない。史料を引用しつつ経緯を紹介している。なお、「涼雲寺の縁起」について出典は明示されて

 いないが、『壷陽緑』であろう。

∴事件は事実として捉えられている。

 

4 史料に見る事件…いずれも松浦史料博物館所蔵

A 『壷陽録』 

 平戸松浦家の旧記

 

  去程に隆信公は一年は武江に参勤遊し、一年は人質を江府に残し御在国也。御人質には松浦豊後守信実の御名跡 

 源太郎信清殿におはします。

 久信公の御台松東院殿の姪春姫と申を大村よりむかい、源太郎殿の御妻に松東院御取組いまた平戸におはしけり。

 此姫無双の美人にてわたらせた給ひしかは、太守召仕はれけるゆへ源太郎殿妻に成たまふ事は沙汰病みければ。

 或時又御参勤あり。東海道興津宿まて御旅行遊し御宿の夜、源太郎殿行年二十一、寛永元年甲子四月九日夜、太守に

 御対顔得らるへしと有りけれは、用人花房権右衛門進出て隆信公へ申し上けるは、人質の御身にて箱根の関を破りて

 寔まて夜中に来り給ふ事、是はひとへに妻敵に君を奉らむととの企と覚申候。御対面を延られ可然と諌奉れは尤とて

 御逢あらされは、頓て事顕れたりとや源太郎思ひたまひけん。三保の江浄寺に走り込たまひて自害なさりける。危かりし

 隆信公の御命花房諌めさりせは御難も有へし御供の人々申しけり。

  信清御法名涼雲道静と申しける。霊魂春姫に乗り移り、御女儀なから非道の御振廻多く男女御手討にしたまふ事度々也。

 是源太郎殿の仕業とて悪行のみにて御卒しとぞ。

 

∴物語的要素が強い。特に、下線部に留意する必要がある。

 

B 『御家世伝草稿』「宗陽公」二(自元和五年 至寛永五年)

  (寛永元年)五月二十日、松浦源太郎信清駿州江尻の駅にて自殺し、火葬して骨灰を納め塔を同邑江浄寺・平戸涼雲寺、

  並に紀の南山に起す。

   涼雲寺奉祀信清神主背面記○按に墓場録信清自殺の由来を記して、公参勤東海道興津の宿まて御旅行遊し御宿の夜、

  源太郎殿行年二十一歳寛永元年甲子五月九日夜、太守に御対顔得らるへしと有けれハ、用人の花房権右衛門進み出て

  隆信公へ申上けるハ、人質の御身にて箱根の関を破りて是迄夜中ニ来り給ふ事、是ハひとへに妻敵に君を打奉らむとの

  企と覚申候。御対面を延られ可然と諌し奉りハ、尤とて御逢あらされハ、頓て事顕れたりや源太郎思ひ給ひけん、三保の

  江浄寺に走り給ひて御自害なされけるとあり。

   壷陽録の記する所杜撰多く、其上神主背面記に依るに、信清君自殺せしハ五月廿四日とし而其忌日を五月九日に改め給へる

  ハ天祥公の御時の事也。又背面記於駿州江尻之邸自殺あるを壷陽録には江浄寺にて自殺と書す。然れハ其他記するにも何を

  信とし何を誤りとせん故ニ一切捨て取らす。又参勤し給へるハ、実にしからん。然共六月二十七日松浦内匠重忠に賜ふ書に

  髣髴を記して明細ニなす。且信清江尻ニ到る時公其駅に宿すとせは、五月二十四日の頃ニして壷陽録之いへる所の五月九日の

  事にはあらさるへし。今是を本文に書し難きを以ての故に註に付して後の考を待。

   信清神主背面記曰、道静居士俗名松浦源太郎信清、寛永元年甲子五月廿四日、於駿州江尻之邸自殺時年廿五、荼毘而収

  其骨灰立塔乎舎邑江浄禅寺及紀之南山当寺也。居士宗陽公之舎弟也。令以初九日為居士之忌晨、乃徳祐公之所命也。

  往年居士之近臣殉死者西口其一辻助右衛門法名玄忠其二歴数久而無知姓名等余馳書南山及江浄祠之亦無識者干時き享保

  壬寅初秋岸淵第三代当寺再興大琳日?識

 

  上記史料の価値の高さは次記の通りである。

   第三代隆信(宗陽)より第十代煕に至る歴代平戸藩主の治績を、平戸藩が所有・収集

   した文書を摘記・引用しつつ編纂した書物であり、79冊からなる。〜この記録の有

   用性は引用・出典となってた記録が録記されている点に尽きる。現在では松浦史料博

   物館に伝来していない記録・文書が多数収録されている点は、同書の史料的価値を高

   めている。

   (岩崎義則「解題(藩政文書)」長崎県世界遺産登録推進室編『長崎県の多様な集落が形成する文化的景観保存調査報告書 

 【資料編3】藩政史料編』、2013年) 

  幕末、平戸藩が歴史を編纂する過程で、「壷陽録の記する所杜撰多く」という認識をしていたことは注目に値する。

 

 C 『春江院様御事蹟考』

  「壺陽録」や寺院関連文書を編纂したもので、「御家世伝草稿」のような考察はない。成立年代は不詳であるが幕末と考えられる。

 ○春江院には二男五女いた。二男一女は早世

 ○松浦隆信(宗要)死去後に尼になり、明暦四年(1658)、正宗寺境内に春江庵を建立して居住、寛文七年(1667)に死去した。

 ○春江庵は「実ニ美麗之御作事」であった。ここに木像が安置され、「至而御客色美麗実ニ絶世之御姿」であったという。

 ∴春姫=美人は「作事」と「木像」から歩き出したのではないか。

 ○春江院死去後、安永元年の火事で焼失した。春江院木像・位牌は再興されたものである。

 ○春江院在世中に仕えた家臣が6名姓名と石高の記載がある。→信清の霊魂が春江院に乗り移り手討ちにした、は誤りである。

 

 D 『御参勤御旅行中日記』

  江浄寺への参拝記録を摘出した。

 ○寛保2年(1742) 3月15日 下国  ○安永5年(1776)11月 7日 参勤

 ○安永7年(1778)11月 4日 参勤  ○安永9年(1780)11月 6日 参勤

 ○天明4年(1784) 3月18日 下国  ○天明7年(1787)10月26日 参勤

 ○寛政3年(1791)11月11日 参勤  ○寛政5年(1793) 3月24日 下国

 ○寛政10年(1798 )8月12日 下国  ○文化15年(1818 )5月9日 下国

 ○文政2年(1819 ) 4月22日 下国  ◎文政7年(18244月27日下国

 ○天保5年(1834) 5月 9日 下国    ○天保12年(1841 ) 5月 3日下国

 ○安政6年(1859) 3月 5日 下国    ○万延元年(1860)10月21日 参勤

 ※明治2年(1869) 7月23日 下国

 

 ◎:藩主自らが墓参、前年が200回忌のため

 ※:此節者御備無之

 

 ○安永5年(1776)の事例

    十一月七日

  一、暮五時前、江尻御着、御止宿

  一、ミかん一箱  江浄寺

    為伺御機嫌入来候、百疋被下之

  一、於同寺松源院墓前江御香典百疋

    右、例之通被相備、御代参三沢仁左衛門被相勤

 

  形態は、江尻を通ると、まず江浄寺の使者が献上物を持参して挨拶に来る。これに対して藩側は下賜金(100疋=金1分)を渡す。

  その後、藩主の代わりの者が江浄寺の松浦源太郎の墓を参拝する。その際、香典金(100疋)を渡す。文中に「例之通」とある

  ところから、定式化していた。

  以上の史料群は江戸時代後半期の一部しか残っていない。松浦源太郎信清死去後、幕末まで藩主の参勤・下国の際で東海道を

  通行する時は江浄寺に参拝していたと言える。

 

まとめ

 「恋塚」の名称は、近年からであろう。大正年間の地誌類に記載が見られない。由来が物語的要素が強い。寺や観光協会がPR

 している。観光資源の一つとして独り歩きをしている。

 平戸は、信清り自殺は事実として静観の構えである。

 「物語」と「史実」との隙間をどう埋めるかである。前者は面白さを追求して創作して行く。しかし、偽造につながる可能性がある。

 後者は実証性を追求する。行き過ぎると、無味乾燥になる。

 取扱いが「色恋沙汰で藩主を殺そうとした弟」に対して菩提を弔うのはなぜか。捉え直しが必要ではないかと感じる。

 今後は、静岡・大村・平戸など関係者への聞き取り、引用史料の原本の閲覧、新たな資史料及び文献の探索等を行いたい。 

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